ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
01:日蓮仏法のマンダラ、御本尊の科学的再現性 IT時代の広宣流布へむけて
第一章
なんのために生まれてきたのだろう。
幸福になるために生まれてきた。
では、どうすれば幸福になれるだろう。
悔いのない人生、充実した人生をおくるにはどうすればいいのだろう。
生きていても仕方がない。
人生に充実感がない。
自分の居場所がない。社会や身内から求められていない。
自身の存在感、存在意義が感じられない。
世界的には物質的に豊かになって、現代科学技術の恩恵にどっぷりとつかっている我が国にも、こういった病脳が氾濫し、様々な病気を引き起こし、なかには行き詰まって自殺する人もいる。
幸福とはなにか。
いろんな答えがあるが、科学的分析では、今のところ、それは脳で感じることとなっている。
脳に、幸せホルモンといわれる脳内ホルモン(脳内麻薬、べータエンドルフィンなど)が、ある行動などによって分泌されたとき、始めて脳が幸せを感じることが、脳科学や神経生理学・内分泌生理学等による検討で明らかにされている。
(仏法では、脳が幸せを感じる部分は脳に限らないし、生物から素粒子まですべて(一切衆生)となっている)
愛情ホルモンといわれるオキシトシンも、同様に、母親が子供に愛情を注ぐ行為に伴って分泌され、愛情行動に伴う満足感が得られるが、これは母親だけでなく父親の脳内にも同様、さらには後輩の育成、社会の貢献につながる行動により、男女を問わず分泌され、その行動に幸福感をもたらす。
欧米では、この満足感を得る目的で、オキシトシンの点鼻薬が販売されているが、効果は人により様々である。
また麻薬は治療薬として使用され、アングラ社会でも流通して社会問題となっているが、一般に体の外部から侵入した人工麻薬や人工オキシトシンによって得られる快感・恍惚感・多幸感などの効果は、天然の脳内麻薬による幸福感とはほど遠い、まったく違ったもので、充実感や達成感ではなく、刹那的な快楽に過ぎないのであり、その後に引きおこる薬の代謝による効果の消失と不快感及び薬物障害は、更なる高濃度の薬を求めるという、依存症に陥ってしまう。
幸福感をもたらす天然の脳内麻薬は、利他の行動や生存にかかわる極限状態にも分泌されるものであるが、極微量であり、人によっても効果の差がある。また、心のバランスに関するドパミン・セロトニン・ノルアドレナリンなどの脳内ホルモンは、場合によっては他の疾患(うつ病、認知症、パーキンソン病など)の関連も指摘されている。
あくまで、脳内麻薬による満足感や幸福感は、あくまで、心の働きが「行動」に移された時もたらされるのであり、行動や思考を欠くときはない。
そして、脳内ホルモンは、私利私欲の達成時よりも利他行動の時によく出るというのである。
更には、利他の行動が他者に認められ感謝されるかどうかは関係がなく、脳が利他行動そのものをきちんと評価したときに出るのである。
つまりは、他者の承認を必要としない、純粋に自身の良心による評価があってこそ、脳内麻薬が出るのである。
(最近は他人や社会から認めてもらいたいという承認欲求が云々されているが、それはあくまで利己的欲求の一つであり、これとは別物である。)
さすれば、幸福を感じるという点では、利己的欲求の実現のみならず利他行動によって自身の心の成長を図る、すなわち境涯を上げるという点が重要となる。
小欲知足、報恩感謝、ボランティア精神ってところか。
そして、このことが、物理的現実(周りの自然環境や社会環境)をも変えていくことが、科学的に明らかにされ始めている。
脳内ホルモンの幸福感が更なる利他行動を促し、その満足感が依存症を引き起こすのも、仏法でいえば因果俱時(原因と結果が同時であること)の関係で、南無妙法蓮華経のなかの「蓮華」に込められている。
ところで、多くの宗教は、その教義の中で、自身の幸福のために利他行動を修行として説いている。(その利他行動が組織の利益・組織維持や発展に巧みに利用される一面を伴う)
教義の正邪善悪・高低浅深はともかくとして、利他行動の心の満足については前述で、科学的に説明され始めている。
しかしながら、人類史上、邪悪な多くの宗教によって、様々な紛争、殺戮、戦争、自然破壊等等が繰り返され、現在も続いていることを考えると、信教の自由を保障されているとはいえ、それに無頓着であっては、自身の人生のみならず、人類の幸福にも影響を及ぼすことは自明であろう。
助け合い、利他行動、社会貢献の行動が、その行動主に幸福感をもたらすことが、人類が生き延びることを可能にした、いわば遺伝子レベルでの自然淘汰の果実と言えることが、専門家の間でも論じられている。
反対に、他を省みず自分だけの欲望達成の時に感じる結果は、仏法によれば天界の満足とされ、一時的で儚く消えるもので、再びそれを超える欲望が生じ、際限のない欲望の奴隷となる。
これを仏法では餓鬼界の苦しみという。
薬物依存症を例とした、依存症一般にみられる生命状態でもある。
この状態では、刹那的な満足や快感(恍惚感)はあるが、充実感・幸福感とは程遠い。
また、他人や社会を卑下したり誹謗中傷することで勝他の思いを満たす満足感にも、脳内麻薬の分泌は乏しく、むしろ、様々なストレス状態でも分泌されて生活習慣病を引き起こすアドレナリンの分泌が、優位である。(これらは日蓮仏法では、修羅の生命境涯であり、幸福な境涯からは遠い)
ところで医療においては、実体のない非物質的な治療が、実際に物質的な効果を出している。
メスメリズム、ホメオパシー、レイキや代替医療などで、心や思考、期待が重要な因子となっている。
宗教においても、非物質的な信仰が、実際に物質的な効果を出している。
イワシの頭も信心からといわれるように、思考や信仰には人を癒し満足感を与える効果がある点は、日常的に経験することであるが、科学は、その発祥の時代(西洋ルネサンス)から、これをエセ治療とか偽治療とかプラセボ効果とかとして、研究の対象から忌避、否定、排除してきた。
そのため、不合理な新興宗教をはじめ、スピリチュアルな夢想家、これらを利用した金儲けや産業等に科学的なメスが入ることが乏しく、玉石混交の相を成している。
人として、この世に出現した生き物として、最高の幸福とは、他人や社会、地球全体に対して慈しみ愛しみ、それらのためにする行動そのものにあることを、真の仏法である日蓮仏法では克明に展開されている。
そして科学は、その三千年遅れで、ようやくそのことの証明を始めたところなのである。
私は科学者の端くれなので、科学的論理に反するものは基本的に信用しない。
日常の仕事も、科学的根拠に基づいた治療、EBM(Evidence-Based Medicine,根拠に基づいた治療)が基本的に最優先で要請されている。
治療法がない場合や効果が乏しい場合はNBM(Narrative-Based Medicine,物語(経験)に基づいた治療)も奨励される。
だから、日常的に因果関係、証拠を検討することには慣れているが、人間の生命は、そういった理屈では救われない場合も多い。
臨床現場では信仰の持つ意味は絶大で、残念な結果に終わっても、その流れや生き方に意味を持って精いっぱい生き抜く人は充実した時を過ごしていく。
奇跡が起こったとか、不可能か可能になったというしか考えられない現象もよく遭遇する。
いかに科学が進歩しても解明不可能な現象は莫大にあるが、物理化学的現象、生物学的現象もすべて、一つ一つは因果法則に基づいているはずだから、これらも所詮は偶然でも奇跡でも不可能でもなく、当然であり必然であり実現可能なことだったはずである。
医療の世界では、プラセボ効果(効果を期待する度合いが強いほど効果が出る)、ノセボ効果(副作用を知ったり恐れるほど副作用が強く出る)があり、これによって病気の経過が変わることも多々ある。
しかし、医学的根拠をここに置くことは忌避されている。
なぜなら、原因であるところの個人の思い込み(期待や恐れなど)は、ばらつきが大きいため、科学的再現性がないからである。
さて、日蓮仏法による慈悲の行動が、自身の幸福を感じるのみならず、肉体的状況や周りの自然環境や社会環境という物理的現実をも変えていく現象において、最も重要な要素が、信仰の対象となるご本尊と、その信心の在り方である。
日蓮仏法において、御書直結の曼荼羅御本尊を信じて唱題をすることの功徳が、はたして科学的に立証できるだろうか。
科学的再現性があるだろうか。
日蓮大聖人は、その御書において、
叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず. (日厳尼御前御返事、P1262)
祈りが叶うか叶わないかはあなたの信心によるのです。日蓮のとがではありません。
と、断られている。
つまりは、この真実の仏法は、いわゆる神秘的な第三者に恵みを与えてもらう(これを他力本願という)のではない。
自分の信心(信力)と行力(信仰を伴った具体的な行動)によって、自分で願いを実現させるのである。(これを自力本願という)
科学的に実現不可能な願いは絶対に叶わない。
まして、ありえない「棚ぼた」や「恵み」を期待するのではない。
願いが叶う前は、それが奇跡や不可能なことにしか思えなかったとしても、
願いが叶ったとしたら、そもそも実現可能であったことを自身の努力で実現できたことであり、科学的にあり得ないこと(奇跡や、不可能なこと)が実現したのではない。
こう断じてしまえば元も子もないようだが、
この原理は、実は多くの仏法の信仰者や指導者が、そもそも分かってない。
日蓮仏法を正しく実践すると実証が出るのは、その信仰の対象である御本尊が正しいことと、信じる力と具体的行動が原因となっている。
御本尊の仏力・法力と、信仰者の信力・行力によって、生命の真相(深層)次元での物理化学的結果が引き起こされ、それが生物学的・社会学的効果へつながっていく。
御本尊の仏力・法力といっても、御本尊が神秘的な作用を発生するのではない。
御書全編を読んでみれば明確に分かるだろうが、
御本尊の仏力・法力の、現実世界における大きさは、信仰者の信力・行力そのものなのである。
つまりは古典物理学、運動の第3法則「作用反作用の法則」でいうところの、作用と反作用の関係なのである。
信力・行力については池田先生も以下に述べられている。
「その力は「御本尊が与える」のではなくて、もともと自分の中にあった無限の生命力を「引き出す」のです。そこが大事なのです。」(希望対話―21世紀を生きる君たちへ、池田大作著 P277)
草木成仏口決によれば、御本尊自体も、信仰者の信力・行力によって初めて即身成仏することになる。
この原理も、実は多くの仏法の信仰者や指導者が、そもそも分かってない。
この御本尊と信心の在り方を、きちんと科学できたら、どんなにかすっきりすることだろう。
しかし、信仰者の信力・行力のばらつきが大きいため、その再現性を実証することは、簡単にはできそうにない。
このことをいかにして証明するか、あれこれと文献を検討している。
まずは第二章で、自身の経験をふりかえりながら記事にまとめたい。
第二章
私の父母は日蓮正宗創価学会で、私は学会二世である。
父はタクシー会社勤務、母は内職とアルバイト。
大阪での暮らしは三畳一間のアパート→文化住宅→市営住宅。
父はアル中で会社を休みがち、10円のお金が無くて、母がパンの耳をもらって料理してお菓子にしてくれていた。
私は毎日母の勤行の声で目覚め、夜は母が学会活動に専念し、酒を飲んだ父を壮年部のB長が指導に来てくれていた。
創価学会は貧乏人と病人の集まりであると揶揄されてきたが、私たち一家も正真正銘・貧乏人の創価学会員であった。
私は幼い頃から中学卒業まで、病弱で、よくイジメにあったが、このときも男子部員の先輩が親身になって相談してくれた。
組織で指導激励された内容は、
この御本尊は絶対である。
どんな願いも必ずかなう。
不可能を可能にするのがこの信心である。
必ず仏法により宿命転換できる。
創価学会は世間からのバッシングが酷かった。
少年部の時に、初めて池田先生にお目にかかった。
「私も世間から虐められている。君たち、どうか仇をうってください。・・・」
その後、夏期講習会で、
この信心から絶対に退転しないぞって、妙蓮寺(日蓮正宗)でみんなで勇ましく「勝どき」をしたのも胸に焼き付いている。
今、公の場にはお目にかかれなくなった池田先生は、本当に根っこになられたのか、そうなりつつあるのか、私の池田先生!!!。
イジメられ凹んでいるとき、お金が無くてひもじい時、試験の時とか、
私がよく歌って自身を鼓舞したのは、「威風堂々の歌」。
創価学会は激動の歴史だけど、池田先生は、私にとって永遠の師匠だ。
一年浪人後医学部へ、親の反対押し切り結婚、医師免許、学位、外科学会専門医等取得、子育てを終え、うつ病の克服、転職等を通じて、私が今、思うことは、
多くの社会の人たち、正宗寺院や創価の人たちに励まされ、宿命転換と社会的実証ができたことに感謝の念でいっぱい。
私は自身の体験から確信している
日蓮仏法は絶対にすばらしい。
だから、社会へ恩返しとともに、仏法の正義、広宣流布を精いっぱいしていきたい。
そして、これは単なる偶然でもなく、棚から牡丹餅でもなく、奇跡でもなく、神に救済されたのでもなく、不可能が可能になったのでもない。
すべてが個人の正しい仏法実践と努力による、必然の科学的実証であることも分かった。
創価学会については、汚点も含めてウィキペディアに詳しい。(コメント4)
その中で、幸福、不幸を決定づける御本尊に注目して、日蓮正宗、創価学会の流れを振り返ってみる。
創価学会は、日蓮正宗の一信徒団体であった。
根本は、大石寺にある本門戒壇の大御本尊であった。
本門戒壇の御本尊について、折伏経典(P319-323)では、
「諸仏坊の・・・出世の本懐を遂げ給う、・・・余は二十七年なり」・・・日蓮大聖人の御本懐とは弘安二年なりとは、これ一閻浮提総与の大御本尊の建立である。この御本尊に対し奉りて唱える御題目以外の題目はすべて、仏説に反すること明かなる御文書である」・・・三大秘法のの戒壇の建立も、血脈つづく日蓮正宗の他に、なにものをもなしえないことは、御書に照らして明かである。」
「富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である。」
「又信仰の対象として一切をささげて南無し奉る御本尊であるから、御山においては御相伝により、代々の御法主上人様お一人が、したため遊ばされるものであり、我ら信者が云々すべきも恐れあることである」
そして、この大御本尊に直結する御本尊が印刷されて、大石寺から各家庭に授与され、私たちはそれに向かって毎日朝晩勤行唱題に励んでいた。
大石寺にある本門戒壇の大御本尊の写真がこれ。↓
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/b/be/Daigohonzon.jpg
「戒壇の大御本尊の写真は、熊田宗次郎『日蓮上人』大正2年8版、報知社、375頁。 明治44年の初版のものとは違う写真である。 日本の法律により画像の著作権が消滅している。」
Daigohonzon
この指導内容が受け継がれ、多くの学会員が本門戒壇の大御本尊を拝するため、創価学会は大規模な登山会が計画、実行された。
大阪に住んでいた私も、少年部・中等部・大学時代に大石寺に登山し、本門戒壇の大御本尊に勤行・唱題した。
私は桜ノ宮駅近くの浄妙寺、羽曳野市の普妙寺に、よく参拝した。
悩みがあったらいつの日でもお寺のご本尊に勤行、唱題できたし、朝6時からの早朝勤行に参加して活動した良き思い出がある。
創価学会の発展とともに、全国に二百の寺院、正本堂が創価学会によって寄進された。
しかし、僧侶と学会員の間で様々な軋轢が蓄積、中枢部への争いに発展し、ついに創価学会は日蓮正宗に破門され、学会員は登山禁止、寺院参詣禁止となった。
これは前代未聞の大変なことになった。
純真な信心を貫き、自身の生命を日蓮正宗に(大御本尊に)委ね、ひたすら信仰活動してきた700万世帯に及ぶ末端の学会員一人ひとりの精神的ダメージは計り知れず、とても言葉に言い尽くせない。
個人の全人格を否定、精神的基盤を破壊された思いであった。
その後脱講・脱会活動なども絡んで家庭は分裂崩壊、組織離脱、退転、仏法そのものを捨てていった者・・・等々の話が各所で聞かれるようになった。
この流れの渦中にいた日蓮正宗のちに正信会の僧侶浜中和道氏の、出版されなかった「浜中和道回想録」をあげておく。
ここには、実際には不明であった阿部日顕上人の血脈相承前後の動き、故・山崎正友(元創価学会顧問弁護士)の暗躍ぶりと日蓮正宗大石寺・創価学会の流れが書かれている。
「願わくば、私のこの回想録が、同じ富士門流に身を置きながら、今、立場を異にしている人々の将来における和合の鍵となればと念ずる次第である。」
そして、その後戒壇の大御本尊を拝めなくなった創価学会は、1993年10月、栃木県小山市・淨圓寺所蔵の享保5年(1720年)日寛書写の曼荼羅御本尊を御形木御本尊として、全国および世界の会員に授与することとなった。
ちなみに私は、学生時代に分家して、日顕上人の御本尊を拝んでいた。
家内と結婚した機会にその御本尊を返納し、創価学会の御本尊をいただいて現在も拝んでいるが、この画像よりは大きく、背景の掛け軸も黄金模様である。
母の仏壇には、日達上人のお形木御本尊で、より大きい。
息子は、画像と同じ御本尊を拝んでいる。
御本尊の現物が違っても、ちゃんと功徳がある。
その後、多くの創価学会員は、組織と共に困難を乗り越え創価ルネサンスをはたした。
全国に多くの会館や個人会館もでき、海外組織SGIは192か国に及ぶ、今や世界の創価学会である。
私は科学的根拠をもってメスを握る仕事である以上、
思考停止のマインドコントロール下にあった御本尊の実体についての科学的根拠を、大聖人の御書、とりわけ御本尊について書かれている観心本尊抄、開目抄、草木成仏口決、御義口伝、御本尊相貌抄等々の中に求めた。
日蓮正宗の僧侶 河辺慈篤氏の「河辺メモ」
によれば、創価学会を破門した日顕上人は、戒壇の大御本尊が大聖人ご自身の作成でないことを元々把握されていた旨である。
「日蓮と本尊伝承 大石寺戒壇板本尊の真実」(金原明彦著、水声社、2007年8月)では、(コメント4)
著者は、この大御本尊が、後世が日禅授与の御本尊を模写したもので、日蓮大聖人製造でないことを、科学的手段を駆使した鑑定や文献学的検討によって明らかにされている。以下引用する。
「大石寺所蔵の戒壇板御本尊は、弘安二年に造立されたものではなく、弘安三年五月九日に顕された日禅授与の御本尊を模して造立されたのであり、従って、日蓮の造立ではあり得ないと判断されるのである。(同,P71)
「「河辺メモ」によれば、阿部日顕は大石寺六世日時か九世日有の頃を想定しているが、」(同,P175)
「その見事な薬研彫刻は寺僧の手習いで為し得るものではなく、明らかに熟練した技術者の手に成るもので、仏師に依頼して制作建立されたのであり、」(同,P199)
「本書の冒頭にも記したように、私はこの板本尊を本尊として認めないのではない。正しき弘安式の相貌を持った特殊な模写彫刻本尊であり、その点、他の模刻本尊や、書写本尊、形木本尊と変わるものではないだろう。ただし、造立主による下段の腰書きを依拠として主張される宗祖直造説や、唯一絶対の根本本尊説・出世本懐説は誤りであり、今後、これを是正して、伴う教学上の問題を解決することが最も重要であろうと考える。」(同,P213)
「ただし、こうして近年の研究の結果、動かしがたい「事実」が明らかになってきたのであるから、これから後に「事実」を無視することは、信徒に対して不誠実であり、何より、日蓮大聖人に対して余りにも不遜ではあるまいか。
『後世の造立であるが、宗祖の直筆をもとにしており、これまでどおり、この御本尊を本宗の根本としてゆく』と宣言することも可能であろう。一宗の面子も大切ではあろうが、一切衆生の成仏という大事からみれば、より小事である。一時的な混乱はあるだろうが、永い眼でみれば、その信頼は増すに違いないと確信する。
その反対に、事実を隠蔽せんとして「虚構」を構えたり、非理性的な「強弁」「詭弁」を重ねたり、感情的な個人攻撃などをしたならば、その途端に、「本宗には宗祖大聖人への誠実な信仰は存在しない」と内外に宣伝することになるだろう。
ともあれ、もはや、本書に記した多くの事実や疑問点を解きほぐさずに、これまでどおり「宗祖直造説」を主張することは無理である。それは一片の理性がある人であればわかることである。」(同,P214)
(拙記事:御本尊一般化論 IT・AI時代の広宣流布)
また、同様の事実が,犀角独歩氏の
大石寺「本門戒壇の大御本尊」を検証する①にも、みられる。
大聖人ご自身の作成でない場合であっても、大聖人の御書の通りに作成されていて、決して「偽本尊」ではなく、誹謗中傷は、御書に照らせば堕地獄に値する。
まあ、日蓮正宗の教義というローカルルールに照らせばニセモノとなるのであろうし、ローカルルールも観心本尊抄では流通分として捉えることができるから、それもアリと思う。
正本堂についての寄付金返還訴訟「板マンダラ事件」は、戒壇の大御本尊の真偽の解明を伴う訴訟であったが、裁判所は政教分離に則り、宗教上の教義や科学的鑑定を前提とした真偽の判断を避けた。(コメント6)
科学的鑑定に矛盾する教義であっても、宗教上はゆるされてきた。
科学と宗教は本来、幸福と平和のためにあるのだが、この二者は袂を分かち、科学は(野放図に)発展してきたし、宗教では理不尽な教義や儀式などが野放しにされ、紛争や殺戮や報復の連鎖などが繰り返されてきた。
そもそも、超自然的な第三者の存在を前提とした宗教では、その前提が科学的に矛盾である。
科学的矛盾のない宗教は、窮めて稀なのではないか。
しかし、信教の自由の下、科学的鑑定に矛盾する教義であっても社会的秩序を乱さない限り、考えが一致する人たちだけで集まって宗教(例えば日蓮仏法)を実践することは是である。
そういう集団の中のみでのローカルルール(例えば、オカルト、特定の御本尊に神秘的功徳を設定するとか、法主が上で信徒は下など)も、社会的秩序を乱さない限り、是である。
その矛盾で、誹謗中傷するのはいかがなものか。
「四条金吾殿御返事(御書1169ページ)に「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」とある。
いかなる権力をもって道理を圧迫しても「地球が動く」という事実をくつがえすことはできなかった。」(折伏経典、改訂33版,昭和43年9月,P92 コメント5)
道理に反することは、限られた集団のローカルルールで許容されても、科学的に納得は得られない。
「御本尊様は日蓮大聖人の生身と拝することです。その信心でなければなりません・・・御本尊を"物"と扱うようになった場合は罰を受けます。学会精神に反します。信心ではありません」 (池田会長発言、大白蓮華1964年8月号)
戸田先生はご本尊のことを比喩として「幸福製造機」 と仰ったこともある。
「宗祖大聖人が、この御本尊も『ただ信心の二字におさまれり』と言われたのである。信心の二字の中でしか、本尊はないんです。本門戒壇、板御本尊が何だ!寛尊は『信心の中にしか本尊はない』と。ただのモノです。一応の機械です。幸福製造機だもの。大聖人の御書だ。」(平成5年9月7日・本部幹部会での池田 会長発言)
「法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり」(日女御前御返事 御書P1243 コメント7)
はたじるし(旗印)というのは、確かに「モノ」である。
大聖人も、モノに譬えられていた。
「信心の二字」「法華弘通のはたじるし」「その信心」という言葉に表されているように、あくまで「信心」が大切であり、その宗教的な「信心の在り方」を指導されていることであり、なんら矛盾はないと思われる。
しかし、上げ足を取ってこれらを非難する人もいる。
科学の世界でも、例えば量子力学が発展しても、それで否定された古典物理学は身近な現実をきちんと説明できる。
医学では、過去の最善の治療法が間違いだったことは多々あるが、それらの行為を咎めることも間違いである。
日蓮仏法は、御書に照らせば、本来、法=南無妙法蓮華経に対する信仰であり、それが書かれている「モノ」自体に対する信仰ではない。
ちなみに、御真筆の御本尊は複数ある。
つまりは、法=南無妙法蓮華経が相貌通り正しく書かれていること自体が根本だったのであり、破門後の創価学会の歴史が、くしくもそのことを文証・理証・現証ともに証明したことになる。
創価学会歴代会長の指導内容の変遷も、この時代の流れに沿ったものであった。
時代の背景に合わせた仏の智慧による随時適時、時にかなった内容であったのであり、それはあたかも釈尊が一切衆生を法華経へ導く方便のようなものだった。
ちなみに、御書には、日蓮大聖人も、譬喩を用いて巧みに指導されているが、言葉だけを切り刻んで引用すると矛盾するところも多い。
そうして御書の文脈に沿わない内容へ曲解させ、様々な目的や陰謀のために用いられることも少なからずあり、結果として謗法、破和合僧などの混乱をもたらしていることも多いことを指摘しておく。
さて、時代は進んでIT時代となり、前述した情報などが、全世界で即時に検索できるようになって、信仰のスタイルも新たになりつつある。
Googleで、こんなアプリがあった。
本尊 (日蓮正宗)
https://play.google.com/store/apps/details?id=com.bigkidsapps.egohonzon&hl=ja
タブレットにインストールすると、アプリの内容説明には日蓮正宗や本門戒壇之大御本尊があるが、創価に関する説明は一切ない。
▷でご本尊が表示され、南無妙法蓮華経の唱題が流れ、これに合わせて唱題できる。
ブックマークに触れると、日蓮正宗大石寺の五重塔を背景に、勤行の音声と字幕が流れ、一緒に合わせて勤行ができる。
方便品と自我偈の読経のあと、御観念文が英文でスクロール表示される。
さてさて、コメントに、「アメリカ人の日蓮正宗の信徒が使うには100点満点だと思います。」とあるアプリがユニークなのは、ご観念文がなんと、SGI創価学会インターナショナルのご祈念文となっている点である。
”Appreciation for the Three Founding Presidents
I offer my profound gratitude and appreciation
for the three founding presidents of the Soka Gakkai-
Tsunesaburo Makiguchi, Josei Toda and Daisaku Ikeda
-for their noble example of selfness dedication to
propagation the Law, honouring them as the eternal
mentors of kosen-rufu.”
創価学会三代会長、牧口常三郎、戸田城聖、池田大作、広宣流布の永遠の師匠・・・
解りやすい英文である。
ここのご本尊は、ウィキメディア・コモンズにあるRinmetsudojihonzon.jpgに、そっくりである。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rinmetsudojihonzon.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/70/Rinmetsudojihonzon.jpg Rinmetsudojihonzon
アプリのアイコンも鶴丸ではなく、八葉蓮華に南無妙法蓮華経である。
日蓮大聖人の仏法を、御書に照らして正しく広宣流布するという観点からは、正解の選択枝の中にあると私は考える。
しかし、IT時代の流れについていけない人たちや、現在、互いに破折し合っている法華講員や創価学会員にとっては、賛否両論・感情論などあるだろう。
ちなみに、Rinmetsudojihonzon、臨滅度時御本尊については、日蓮大聖人真蹟集成第十巻本尊集(法蔵館)、および本尊集解説 山中喜八によると、弘安3年3月御顕示で、丈五尺三寸三分(161.5cm)幅三尺三寸九分(102.7cm)(十枚綴)、通稱:臨滅度時御本尊・蛇形御本尊、妙本寺蔵、
「聖祖御入滅の時に鑑み、御床頭に聖筆大曼荼羅を奉懸したことは西山日代師「宰相阿闍梨御返事」・・・以下の諸書に概ね之を載せ、其の臨滅度時の大曼荼羅が即ち當御本尊であることは、「本化別頭佛祖統紀」・・・の傳えるところである・・・」とある。以下、そこから引用する。
そもそも戒壇の大御本尊にしか拝んだ功徳や信心の血脈が流れない(結果が出ない)とするならば、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(日女御前御返事(本尊相貌抄))と書かれるはずはない。
ちなみに地涌の菩薩の中には、夥しい眷属を従えていた菩薩から、単独で仏となって集まってきていた菩薩もいた。(法華経涌出品第十五 コメント8)
これらの菩薩が仏勅によって今IT時代に引きこもりとなって単独に出現したならば、次のことをすぐに思い出すであろう。
つまりは御真蹟をお手本にして、御書の通りに自ら書写したご本尊も、日蓮大聖人の御意向と同等、すなわち大聖人直結の御本尊であり、これを信じて御書根本に、勤行・唱題をすれば、自らの胸中に仏界のご本尊が顕れ、信心の血脈が自身の胸中に流れることになる。
そして、ネット空間が主な住処(国土世間)である衆生への広宣流布に邁進する。
IT時代の世界広宣流布とは、まさにこのことであり、創価学会仏や、いろんな地涌の菩薩が仏となって出現していくのが、これからの時代なのである。
創価学会の破門・創価ルネサンスも、ネットのご本尊アプリも、世界公布の姿「未来もまたしかるべし」の姿なのである。
そして、これを誹謗中傷する輩が出てくることも、立正安国論で言及されている、衆生は自分勝手な主張を展開し罪のないものに濡れ衣を着せるという、末法の様相なのである。
そうなると、いわゆる創価学会Xデーも、恐れることはない。
世界広宣流布は、着々と進んでいる。
そのなかで、自らの使命の道は、自ら切り開いていけばいいのである。
日蓮大聖人も、ちゃんと御書(生死一大事血脈抄など)で説かれている。
そして、ついに、自分で、御書に照らして、日蓮大聖人直結の曼荼羅本尊を描いてみた。
じゃ~~ん
達筆ではないが、私にはこの文字が分かりやすい。
フォントを使って、御本尊の十界・一念三千がすべてわかるように描いた。
ちなみに、日寛上人書写の、SGI御本尊は、八界本尊である。
声門界(舎利弗)と縁覚界(迦葉)がいない。
御真筆の御本尊にも、そろっていないのがあるから、いいのである。
三千年前に釈尊により始められた仏法が、その予言により二千年後の末法に出現した日蓮大聖人によって、南無妙法蓮華経の唱題として確立された成仏の方法、一切衆生の幸福と世界平和への方法。
曼荼羅本尊、南無妙法蓮華経への信仰において、その法力が、果報となって現実世界に及ぼす現象は、最低でも物理化学の法則にしたがっている。
現実が信仰によって劇的に変わるのだから、この段階において、そのメカニズムの解明が可能なはずである。
一念が現実化する瞬間、心の在り方が現実に及び、願いや祈りが実現しゆくメカニズムは、古くは仏法の中で、悟りという形で明らかにされている。
それより遅れること三千年、量子力学、分子生物学、脳科学等、様々な最先端で、少しずつ科学的な解明が進んでいる。
幸福を神秘的・超自然的権威に求めることしか方法がなかった時代はともかく、今のIT時代では、この解明なしには、世界の人々は納得しないだろう。
御本尊は「法」である。
他教と違って、「物体」ではない。
「日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(御書P1124)と仰せのように(コメント10,11)
あくまで、南無妙法蓮華経という「法則」であり、それが書かれた「物体」ではない。
この「法」である「南無妙法蓮華経」から、仏、諸仏、人、あらゆる物、一切衆生が発生している。
文字マンダラの世界ー日蓮の宗教ー、渡辺喜勝著、岩田書院、1999年、P56には(コメント9)
「まず経があって、そこから諸仏が創出される」と、このことをきちんと解説している。
この一念三千の法理は、ミクロの世界(量子力学)から、マクロの世界(心理学・医学・社会学など)をも完全に網羅・包含している。
科学は三千年遅れで、素粒子のひとつ、電子ひとつにも意思がある現象を観察した。
それら素粒子が集まって、私たちの体や環境が構成されていることから、一念三千の法理は自明となる。
南無妙法蓮華経は、この宇宙一切根源の法を凝縮して表現したもので、これが文字マンダラ、本門の本尊なのである。
同じく、P58には、
「仏師・絵仏師等専門技術者の手を介することなく、それは一管の筆、一枚の紙により図顕が可能な本尊であり、仏像製作者や経済的負担を顧慮する必要のないものであって、日蓮の仏教の庶民的性格を明示している」とある。
これこそ、観心本尊抄で示されたご本仏の真の心なのである。
それが、継承される過程において様々に変えられ、いつのまにか、自宗の物でないニセ本尊などと云々され、様々な利権や利益のためにも利用されているようである。
根本とすべきなのは、図顕された「法」の意味するところ=内容であって、それが描かれている物体や材料や、それを写し書いた作者などではなく、ましてや安置されている場所や認定している人や団体等では断じてない。
近年、宗教学的にも、科学的思考においても、法華経の教学を云々するまでもなく、その形態については既に自明であった。
なのに、私は、長い間の思考停止・マインドコントロールの下、このことを言い出せなかったし、多くの会員や関係者も同様なのだろう。
相貌が同じであり、それから逸脱しなければ、大御本尊=大曼陀羅=文字マンダラは、いつでも誰でもどんなものにでもどんな方法にでも書写し描いてもいい。事実、日蓮大聖人は、ご自身が描いた御本尊でなければダメだなんて仰ってないし、仰られるはずもない。
そして、そこに自分自身で信心の血脈を流せば、それこそ、大聖人が仰る三大秘宝:本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇であり、皆がこれをやれば広宣流布の達成なのである。(生死一大事血脈抄の趣意)
だから、真贋論争や、破門・除名などで誹謗中傷合戦の数々
「大御本尊に直結していないから功徳は無く罰が当たる」とか、
「特定の団体の認定した御本尊でなければ功徳はない」とか、
「特定の団体の他には広宣流布はない」とか、
これに類する主張は、いくら言い張っても、日蓮大聖人の御書に照らせばすべてデタラメの邪義である。
これらの邪義をつかって日蓮の弟子檀那=法華経の行者を誹謗中傷することは、堕地獄の因である。
創価ルネサンスが、このことを確信させてくれた。
私も含めて世界中の人が、複数の御本尊(大聖人直結の御本尊)で、功徳を実証している。
文証・理証・現証がそろっているのである。
今後将来、創価や正宗の分離・和合、様々な組織上の再編などがおきても、根本に忠実であれば、選択を誤ることはないのである。
以下に文証をあげておく。
其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し 塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・ 釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して 雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う 迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し 八年の間にも但八品に限る、 正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す 此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか(観心本尊抄P247)
その文底下種の大御本尊のお姿(相貌)は以下に記す。
「南無妙法蓮華経という現実世界で、大空に宝塔が占拠している。
その宝塔の中、真の法である南無妙法蓮華経、その左右に釈迦牟尼仏と多宝如来がならび、
釈尊の付き人として、上行等の地涌の四菩薩がならび、
文殊や弥勒等の迹化の菩薩が地涌の四菩薩の眷属として末座にいる。
その他、迹化の菩薩や他の世界から来た大小諸々の菩薩たちが、
大地の万民が雲閣や月卿を仰ぎ見るように、ひれふして仰ぎ見ている。
(釈迦牟尼仏と多宝如来、地涌の四菩薩を仰ぎ見て並んでいる)
全宇宙から集まってきた諸々の仏たちも大地に座っているが、これはうつろいゆく仮の世界を演じる仏とその舞台を表わしている。」(私訳)
此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依って曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり(日女御前御返事(御本尊相貌抄)P1244)
この御本尊は、絶対に、よそに求めてはならない。ただ、我ら衆生が、法華経を受持し、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉体にいらっしゃるのである。これを「九識心王真如の都」という。十界具足とは、十界の各界が一界も欠けず、そのまま一界の全体に存在していることである。これによって、御本尊を曼陀羅というのである。曼陀羅というのはインドの言葉であり、輪円具足とも、功徳聚とも訳すのである。(私訳)
これらの曼荼羅本尊をはじめ、日蓮仏法の曼荼羅本尊の科学的効力について、私は長い時間をかけて、調べていこう。
しかし、この決意だけで終わってしまうかもしれない。
投稿原文:日蓮仏法のマンダラ、御本尊の科学的再現性 IT時代の広宣流布へむけて、
2019-07-31 13:35:39
テーマ:日蓮大聖人御書
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