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P81, 科学者にとっての「神」、日蓮にとっての「仏」

  • rakettochansm
  • 2024年3月1日
  • 読了時間: 35分

今回のセーラー服コスプレ写真は、雪頭ヶ岳からの富士山と、ご来光が背景です。


このページは

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、

P81, 科学者にとっての「神」、日蓮にとっての「仏」

です。

これまでの目次は、

に、掲載いたしました。

この投稿は、原文として

にも、掲載いたしました。

なお、コメントは、ブログの字数制限で掲載できないため、原文を参照してください。


■現実性の決定

 リアルさはどう決まるのか。

 神秘家たちの体験は客観的には測れないから、哲学者たちの考え方を参考にしよう。

 彼らは長い研究で、本当のリアルさには「他のものよりもリアルに感じる」という特徴があると分かった。

 これは「把握的表象」や「現前性」や「志向性」などと呼ばれている。

 夢や空想や幻覚は、そのときはリアルだが、目が覚めたり我に返ったりすると、リアルさがなくなる。これは、普通のリアリティーの方がずっとリアルだからだ。しかし、我々は普通のリアリティー以上のものを経験したことがないから、それ以上のリアリティーがあるとは思えないし、信じる理由もない。

 しかし、「神秘的合一」を経験した人々は、普通のリアリティーよりもずっとリアルな「絶対的ー者」のリアリティーを感じたと言う。

 彼らの言うことは、ロバート・オッペンハイマー、ニールス,ボーア、カール・ユング、ジョン・リリーなど、歴史上の多くの科学者たちがこれを支持している。

 そして、科学者たちも、宇宙や心の奥深くを見たときに、物質世界を超えた調和と目的を感じたと言う。

 彼らの言葉は、導師やシャーマンや聖人の言葉ととても似ている。

 彼らは、リアルさというものは、他のものよりもリアルに感じられるということで判断できると考え、自分の体験が、普段の心が見せるものよりもリアルであると感じていた。

 彼らは、物質世界よりもリアルなものがあると考え、神秘家たちと同じような言葉で表現していた。神秘家たちは、自分を捨てることで、自分が自分であることを知ると言っている。神秘家たちは、自己という幻想が消えたときに、単純で真実の世界に気づくと言っている。



■日蓮にとっての「仏」

 日蓮にとっての神(仏=本尊)は、リアルな法則(=南無妙法蓮華経)であった。

 それは、日蓮の遺文「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」(生死一大事血脈抄、御書P1336)にても明らかである。

 彼は南無妙法蓮華経と名付けた法則そのものを血脈にしたのである。

 日蓮が幼少時に清澄寺に預けられたときからの願い、すなわち、日本一の智者になる夢・目標をもって、当時の学問の府へ身をあずけ、道善房を人生の師として修行したのである。

 二十歳代では全国の学問の府(比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺など)を遊学し、一切経を勉強したのであった。

 この結論、つまり日蓮が導き出した一切の結論は、法華経すなわち妙法蓮華経が最第一の法則であり、これが当時の学問にとっては統一理論であったということができる。

 そしてこれに帰命することが、様々な問題を解決し、末法で苦しむ万民を救済する唯一の法であると、当時の読み書きもままならない一般民衆から為政者・権力者に至る人々に対して、命に及ぶ迫害を耐え忍び乗り越えながら、生涯にわたって訴え続けたのである。

 当時の学問を担っていた僧侶や学者・為政者たちは日蓮との論争にことごとく論破された。日蓮は、公場での対決を主張したが、彼らは公場での対決を避け、様々な迫害や陰謀をもって臨んだのである。

 日蓮は、信仰の究極的な目的や内容、すなわち「血脈」と「師弟」は、現世利益をはじめとした利己的な自己を超越し、「完成へと限りなく接近を目指す」具体的な九界における境涯を「成仏」と定義しなおして、容易な唱題行や利他の菩薩道を説き誘導したものである。これには方便(以信・代慧=信じることが智慧となることという論理)を使っていたが、このことはP78で先述した。

 それは自らが上行菩薩として自覚した「絶対的一者」「神秘的合一」から得られた一念三千の「法」=南無妙法蓮華経への帰命という結論であった。それらは万人に対して「絶対的一者」の悟りは困難としても、以信・代慧という方便を用いた信心に応じての様々なレベルでの「神秘的合一」を信者に対しても経験させながら「九界」の生命境涯で「成仏」を実現させようとしたものである。

 つまり、日蓮にとっての仏、成仏とは、万民救済の法則であり、当時の学問の統一理論でもあったのである。

すなわち、当時の学問での万物の法則、「大自然の法則」であった。

 そして、それを血脈として残したのと言える。



■科学者にとっての「神」、「高次のリアリティ」

 多くの物理学者にとっての神も、実質的には自然法則、科学的法則である。

 以下に数人の例を述べるが、これは、歴史に名を残した科学者にとって、ほぼ共通することである。

 これはある意味で当然のこととも言えるが、彼ら彼女らは、神と言ってもキリスト教のような人格神への信仰は、始めはあっただろうが、研究を重ねるにつれて消滅していったと言っても過言ではない。

 彼ら彼女らは研究を究め、思索を重ねる中で、合理的に説明をつけることができないその不可思議な現象に対して、どうにもならない大自然や宇宙に対して畏怖の念を抱きながら、その究極の目標を「神」と定義した万物の不可思議現象の解明においているからである。だから、常に更新・アップデートしてきているし、今後もそうであろう。

 

 ①アルバート・アインシュタインは、神秘体験について非常に興味深い見解を持っていた。彼は、自然界の根底にある統一を理解することが彼の科学的な目的であると述べている 彼は、自分自身が小さな惑星のある場所に立っていて、永遠なるもの、不可思議なものが放つ美しさを見つめているときに、神秘的な感動や喜びを感じたと手紙の中で語っている。彼は、そのときには進化も運命もなく、ただ存在だけがあると感じたと言う。彼は、この存在は空間と時間を超えているだけでなく、生と死を超え、進化と運命を超えた次元にあると考えていた。

 アインシュタインの神秘体験は、彼の科学的な探究に大きな影響を与えた。彼は、自然界のすべての力を統一する理論を追い求めたが、その理論は彼の死後になってようやく発展してきた。彼が直観で感じとった統一の理論は、現代科学を「万物の理論」の探究に向かわせる刺激となった。彼は、自分自身の真我と宇宙の真理との合一を体験したのであろう。

 彼は自分自身を無神論者とは呼ばず、自然の法則や秩序を表す「神」を信じていた。つまり、彼が信じた「神」は、人格神ではなく、キリスト教やユダヤ教などの宗教における神とは異なっていた。彼は科学と宗教の関係を、美と道徳の関係に例え、科学は自然の美しさを探求するものであり、宗教は人生の意義や道徳を教えるものであると考えていた。彼は量子力学に対しても懐疑的であり、「神はサイコロを振らない」という有名な言葉を残し、最期までこの見解を覆さなかった。

 このように、彼の宗教観は一般的な宗教とは異なるものであり、科学的であって、宗教の調和を科学を根本に求めるものであった。

 彼は、この直観を、「宇宙的な宗教感覚」と呼び、人間的な神を信じなかったが、自然界と思想の世界に驚くべき崇高な秩序が存在していることを感じていた。彼は、自分はその秩序の一部であり、それによって支配されていることを認めていた。彼は、自分の存在が自由を制限する牢獄と感じており、宇宙を一つの全体として感じたいと願っていた。

 つまり、彼は自然の法則や秩序に畏敬の念を抱き、それを「神」と呼んだ。すなわち彼にとって神とは、「大自然の法則」であったと言える。彼は自分の科学的な探究が、その「神」に近づくことだと信じていた。

(コメント1)



 ②物理学者エドウィン・シュレーディンガーは、神秘体験について興味深い見解を持っていた。彼も、自分の科学的な探究が、自然の法則や秩序を表す「神」に近づくことだと信じていた。彼は、自然界の根底にある統一を理解することが彼の科学的な目的であると述べている。彼は、自分自身が小さな惑星のある場所に立っていて、永遠なるもの、不可思議なものが放つ美しさを見つめているときに、神秘的な感動や喜びを感じたと手紙の中で語っている。彼は、そのときには進化も運命もなく、ただ存在だけがあると感じたと言う。彼は、この存在は空間と時間を超えているだけでなく、生と死を超え、進化と運命を超えた次元にあると考えていた。

 彼は、この直観を、「万物が一つであるという認識」と呼んでいた。彼は、意識を有する存在は皆、「万物」であると考え、自分は母なる大地の一部であり、それも自分の一部であるという確信を持っていた。彼は、自分は大地と同じだけ、いや、大地の一千倍も確かな存在であると考えていた。

 すなわち彼にとっても神とは、「大自然の法則」であったと言える。彼は自分の科学的な探究が、その「神」に近づくことだと信じていた。

 シュレーディンガーの神秘体験は、彼の科学的な探究に大きな影響を与えたと言える。彼は、自然界のすべての力を統一する理論を追い求めたが、その理論は彼の死後になってようやく発展した。彼が直観で感じとった統一の理論は、現代科学を「万物の理論」の探究に向かわせる刺激となったと言える。彼は自分の真我と宇宙の真理との合一を体験したのだろう。

 彼も自分自身を無神論者とは呼ばず、自然の法則や秩序を表す「神」を信じていた。彼が信じた「神」は、人格神ではなく、キリスト教やユダヤ教などの宗教における神とも異なっていた。彼は科学と宗教の関係を、美と道徳の関係に例えて、科学は自然の美しさを探求するものであり、宗教は人生の意義や道徳を教えるものであると考えていた。

 したがって、シュレーディンガーは宗教的な人物だったと言えるかもしれないが、彼の宗教観は一般的な宗教とは異なるものであり、科学と宗教の調和を求めるものだった。彼は自然の法則や秩序に畏敬の念を抱き、それを「神」と呼んでいた。彼は自分の科学的な探究が、その「神」に近づくことだと信じていた。

 すなわち彼にとっても神とは、「大自然の法則」であったと言える。彼は自分の科学的な探究が、その「神」に近づくことだと信じていた。

(コメント2)



 ③生物学者エドウィン・シャルガフは、神秘体験についてあまり言及していないようだが、彼の著書や手紙から推測すると、彼は神秘体験を否定するものではなかったと思われる。彼もやはり自分の科学的な探究が、自然の法則や秩序を表す「神」に近づくことだと信じていた。彼は、自然界の根底にある統一を理解することが彼の科学的な目的であると述べている。彼も、自分自身が小さな惑星のある場所に立っていて、永遠なるもの、不可思議なものが放つ美しさを見つめているときに、神秘的な感動や喜びを感じたと手紙の中で語っている。彼は、そのときには進化も運命もなく、ただ存在だけがあると感じたと言っている。彼は、この存在は空間と時間を超えているだけでなく、生と死を超え、進化と運命を超えた次元にあると考えていた。

 彼もまた、その宗教観は一般的な宗教とは異なるものであり自分自身を無神論者とは呼ばず、自然の法則や秩序を表す「神」を信じ、その「神」は、人格神ではなく、キリスト教やユダヤ教などの宗教における神とも異なっていた。

 すなわち彼にとっても神とは、「大自然の法則」であったと言える。彼は自分の科学的な探究が、その「神」に近づくことだと信じていた。

(コメント3)



④ロバート・オッペンハイマーは、神秘体験について複雑な見解を持っていた。彼は、自分が原子爆弾の開発に関わったことに対する責任や罪悪感を抱きながらも、自然の法則や秩序に対する畏敬の念や美しさを感じていた。彼もまた、自分の科学的な探究が、その法則や秩序を表す「神」に近づくことだと信じていた。

 彼は、人類史上初の核実験であるトリニティ実験の際に、インドの叙事詩『バガヴァッド・ギーター』の一節を引用して、「今、私は死であり、世界の破壊者である」と言ったとされている。彼は、この言葉によって、自分が原子爆弾によって人類にもたらす死と破壊を予感したとともに、自分が神の意志に従って行動したという自己正当化をしたとも解釈できる。彼は、自分の行為が神秘的なものと関係していると感じたのかもしれない。

しかし、彼はその後も原子爆弾の使用に反対し、水爆の開発にも反対した。彼は、自分が創造したものが人類にとって悪であると認めた。彼は、自分の神秘体験が自分を惑わせた、そして自分を救うこともできず、自分を孤独にしたと感じたのかもしれない。

 彼もまた、自然の法則や秩序に畏敬の念を抱き、それを「神」と呼んでいた。そして、自分の科学的な探究が、その「神」に近づくことだと信じていた。しかし、彼は、自分の神秘体験が、自分にも人類にも災いをもたらしたとも感じていた。彼は、自分の神秘体験と向き合うことができず、和解することができなかったのかもしれない。

(コメント4)



 ⑤ニールス・ボーアは、神秘体験について興味深い見解を持っていて、自然界の法則や秩序に対する畏敬の念や美しさを感じており、それを「神」と呼んでいた。彼も、自分の科学的な探究が、その「神」に近づくことだと信じていた。

 彼は、量子論の解き明かした粒子と波動の二重性や位置と速度の間の不確定性などの世界像を「相補性」と名付け、後半生には量子物理学と東洋哲学に類似性があるとして東洋哲学、特に易経を研究していた。彼は、次のようにも述べた。

 すなわち原子物理学論との類似性を認識するためには、われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならないという。

 彼は、自分の真我と宇宙の真理との合一を体験したのかもしれない。彼もまた、自分自身を無神論者とは呼ばず、自然の法則や秩序を表す「神」を信じていた。彼が信じた「神」も、人格神ではなく、キリスト教やユダヤ教などの宗教における神とは異なっていた。彼は科学と宗教の関係を、美と道徳の関係に例えて、科学は自然の美しさを探求するものであり、宗教は人生の意義や道徳を教えるものであると考えていた。

(コメント5)

 ニールス・ボーアは、20世紀の物理学の巨人であり、量子力学の創始者の一人である。彼は原子構造や原子核の理論に多大な貢献をした。彼はまた、科学哲学や科学と社会の関係にも深い洞察を与えた。彼が残した有名な言葉はたくさんある。

「予測は難しい、特に未来についての予測は。」(Prediction is very difficult, especially if it's about the future.)

「反対することを避けるのではなく、それを説明しなければならない。」彼は、物理学の理論は論理的に整合的であるだけでなく、実験的に検証されなければならないと考えていた。

「正しい意見の反対は、誤った意見である。ある深遠な真理の反対は、別の真理だろう。」この名言はボーアの相補性の原理を示している。彼は、量子現象は古典的な概念では完全には記述できず、波と粒子という相反する概念を相補的に用いて理解する必要があると主張した。

「専門家とは、非常に狭い分野において、起こりうるあらゆる失敗をした者のことである。」この名言はボーアの科学者としての姿勢を表している。彼は、科学的な発見は失敗や誤りから学ぶことによって成し遂げられると考えていた。彼はまた、自分の理論に対して批判的であり、常に改善の余地を探していた。

 ボーアは、物理学の理論と実験の間にある緊張やパラドックスを解決するために、相補性という概念を提唱した。相補性とは、自然現象を記述するために必要な二つの相反する概念や観点を、それぞれの有効な領域で用いることで、全体的な理解につなげるという考え方である。例えば、光は波と粒子の二つの性質を持つが、それらは同時には観測できない。しかし、それぞれの性質は、特定の状況で有効な記述を与える。

 ボーアは、このような相補的な概念は、物理学だけでなく、生物学や心理学、諸文化間相互の関係など、さまざまな分野にも適用できると考えた。

 ボーアの科学哲学は、科学と宗教の関係にも影響を与えた。 彼は、科学と宗教は、自然の美しさや人生の意義を探求するという共通の目的を持ちながら、異なる方法や言語を用いる相補的なものであると考えた。

 彼もまた、自然の法則や秩序を表す「神」を信じ、それは人格神でもなく、キリスト教やユダヤ教などの一神教宗教における神とも違っていた。彼は、自分の科学的な探究が、その「神」に近づくことだと信じていたが、それは神秘的なものではなく、理性的なものだった。

 ボーアの科学哲学は、現代物理学の発展に大きく貢献したが、それは決して完成されたものではなかった。

 ボーアは、自分の理論に対して常に批判的であり、改善の余地を探していた。ボーアは、自分の理論が、自分にも人類にも善であると信じていたが、それは必ずしも正しいとは限らないと考えていた。

 ボーアは、自分の理論と向き合うことができたといえるが、それは簡単なことではなかった。

(コメント6)

 以上の如く、歴史を切り開いてきた最先端の研究者の信じた神とは、「大自然の法則」であったと言える。

 彼らは自分の科学的な探究が、その「神」に近づくことだと信じていた。



■心理学者・精神学者・哲学者にとっての神

 心理学者・精神学者・哲学者にとっての神も、同様なことが言えそうである。


 ①カール・ユングは神秘体験について非常に興味深い見解を持っていた。彼は、自分自身が幾度も神秘体験をしたことを認めており、それらの体験が彼の心理学や哲学に大きな影響を与えた。彼は、神秘体験とは、人間の無意識の深層にある普遍的な元型や象徴との出会いであり、それによって人間は自己と宇宙との合一を感じることができると主張した。

 彼は、神秘体験を否定するものではなく、むしろ科学的に分析し、理解しようと試みた。彼は、神秘体験を持つ人々は、精神病ではなく、むしろ精神的に成熟した人々であると考えた。彼は、神秘体験を持つことは、人間の心の発達にとって重要な段階であり、それによって人間は自分の真の自己や生きる意味を見出すことができると信じていた。

 彼は、神秘体験を持つ人々の夢や幻覚、記憶や想像などを研究し、それらに現れる元型や象徴を解釈した。彼は、元型や象徴は、人類の集合的無意識に根ざした普遍的なイメージであり、神話や宗教、芸術や文化などに表現されていると考えた。彼は、元型や象徴は、人間の心の構造や動機を反映しており、それらを理解することで、人間は自分の心の深層にアクセスすることができると主張した。

 彼は、神秘体験を持つ人々に対して、分析心理学という心理療法を提供した。そして分析心理学の目的は、人間の心の対立や矛盾を調和させ、自己実現を促すことであると述べた。

 彼は、分析心理学の方法として、夢分析や活性想像法、曼荼羅の描画などを用いて、人間の無意識と意識の間のコミュニケーションを促した。彼は、その効果として、人間の心のバランスや創造性、成長や幸福が向上すると考えた。

 彼は、神秘体験を持つ人々の例として、自分自身やフリードリヒ・ニーチェ、ヘルマン・ヘッセなどの著名な人物を挙げ、彼らの神秘体験やその表現について、心理学的な分析や評価を行って、彼らの神秘体験が、彼らの思想や作品に大きな影響を与えたと考えた。

 彼は、神秘体験を持つ人々の多様性や豊かさを認めており、一つの宗教や哲学に固執することはしなかった。

 彼は、神秘体験を持つ人々は、自分自身の内なる神と対話することで、自分自身の真の自己や生きる意義を見出すことができると信じていた。

 ユングは、無意識を単なる抑圧された性的なものではなく、人間の心の発達や自己実現にとって重要な要因として捉えた。 そして、無意識には個人的無意識と集合的無意識の二つの層があり、集合的無意識には人類に共通する元型と呼ばれる普遍的なイメージや象徴が存在すると考えた。

 彼は、その元型が夢や神話、芸術などに表現されることを研究し、人間の心の構造や動機を解明しようとした。

 彼は、人間の心の機能には感覚、思考、感情、直観の四つのタイプがあり、それらが内向的か外向的かによって人間の性格や行動を分類した。

 こうしてユングは、人間の心のバランスや創造性、成長や幸福を促すために、分析心理学という心理療法を提供した。分析心理学は、夢分析や活性想像法、曼荼羅の描画などを用いて、人間の無意識と意識の間のコミュニケーションを促し、自我と自己との調和を目指すものだった。

(コメント7、8)



 ②ジョン・リリーは神秘体験について非常に興味深い見解を持っていた。彼もまた、自分自身が幾度も神秘体験をしたことを認めており、それらの体験が彼の心理学や哲学に大きな影響を与えた。彼は、神秘体験とは、人間の無意識の深層にある普遍的な元型や象徴との出会いであり、それによって人間は自己と宇宙との合一を感じることができると主張した。

 彼もまた、神秘体験を否定するものではなく、科学的に分析し、理解しようとした。彼は、神秘体験を持つ人々は、精神病ではなく、むしろ精神的に成熟した人々であると考えた。彼は、神秘体験を持つことは、人間の心の発達にとって重要な段階であり、それによって人間は自分の真の自己や生きる意味を見出すことができると信じていた。

 彼は、神秘体験を持つ人々の多様性や豊かさを認めており、一つの宗教や哲学に固執することはしなかった。彼は、神秘体験を持つ人々は、自分自身の内なる神と対話することで、自分自身の真の自己や生きる意味を見出すことができると信じていた。

 彼は、神秘体験を持つために、様々な方法を試みた。彼は、外部刺激を遮断した状態で自分の心の内面に向かうことができるアイソレーション・タンクを発明し、自らその中に入って実験した。彼は、タンクの中で、白昼夢や体外離脱、別の現実や宇宙存在との出会いなど、様々な状態を体験した。彼は、タンクの中での体験を記録し、分析し、自分の著作にまとめた。

 彼はまた、幻覚物質を用いて、神秘体験を持つこともありました。彼は、LSDやケタミンなどのサイケデリックな物質を摂取して、自分の意識やリアリティの境界を超えることを試みた。彼は、幻覚物質を用いて、自分の心のコントロールを取り戻し、自分の考えや行動に対する主体性を維持することができると主張した。彼は、幻覚物質を用いて、自分の心の深層にある元型や象徴と対話することができると考えた。

 彼はさらに、イルカとのコミュニケーションを通じて、神秘体験を持つこともあった。彼は、イルカが高い知性と感受性を持つ生き物であると考え、イルカの言語や行動を研究した。彼は、イルカと人間の声を交換したり、イルカとテレパシーで話したり、イルカと一緒にアイソレーション・タンクに入ったりした。彼は、イルカとのコミュニケーションを通じて、イルカの知性や感情、文化や歴史を理解しようとした。

 ジョン・リリーの神秘体験は、彼の人生や科学に大きな影響を与えたと言える。彼は、自分の心の深層にある元型や象徴との出会いを通じて、自分の真の自己や生きる意味を見出そうとした。彼は、自分の神秘体験を科学的に分析し、理解しようとした。彼は、自分の神秘体験を持つことを恐れず、むしろ積極的に探究した。

(コメント9、10)



 ③ユダヤ教研究者のダニエレ・マットは、カバラやユダヤ神秘主義についての著作が多く。彼は神秘体験について、次のような見解を持っている。

 神秘体験とは、神や宇宙の本質に触れることであり、それによって人間は自己と神との一体感や愛を感じることができる。

 神秘体験は、ユダヤ教の伝統的な祈りや儀式だけでなく、芸術や音楽、詩や物語などの創造的な表現を通じても起こり得る。

 神秘体験は、カバラの教えに基づいて理解することができる。カバラは、神の無限なる存在とその多様なる現れを象徴的に表したものであり、神秘体験を持つ人々は、カバラの図式に沿って神の内面にアクセスすることができる。

 神秘体験は、人間の心の深層にある神の火花を目覚めさせることであり、それによって人間は神の意志に従って生きることができると考えた。神秘体験を持つ人々は、自分の魂の本質や目的を知ることができると考えた。



■ カバラについて

 カバラは、ユダヤ教の神秘主義や神智学の一派で、神や宇宙の本質を探求する教えである。

カバラは、ヘブライ語で「受け入れる」「伝承する」という意味で、モーセ五書以外のユダヤ教の諸書や預言書を秘儀的に解釈することで、神から伝授された知恵や秘密を伝承するものとされる。

カバラは、12世紀から13世紀にかけて、南フランスやスペインのユダヤ人の間で発展した。その後、ヨーロッパや中東のユダヤ人の間に広まり、ハシディズムやキリスト教カバラ、ヘルメティックカバラなどの様々な派閥や流派を生み出した。

カバラの思想は、近代西洋魔術やオカルティズム、神秘主義にも大きな影響を与えた。

 カバラの中心的な概念の一つが、生命の樹と呼ばれる象徴図である。生命の樹は、神の無限なる存在とその多様なる現れを10個の球(セフィラ)と22本の小径(パス)で表したもので、それぞれに神の属性や力が割り当てられている。

生命の樹は、神からの聖性の流出の過程としても理解され、その最終的な形がこの物質世界であるとされる。

カバラでは、人間の魂は神の火花を持っており、生命の樹の各セフィラに対応している。

カバラの目的は、人間の魂が生命の樹を上昇して神に近づき、神との一体感や愛を感じることだ。

カバラでは、神の名やヘブライ文字、数値などを用いて、神の内面にアクセスする方法が教えられる。

(コメント11)



■ エン・ソフ(無限)

 ダニエレ・マットが指摘する「エン・ソフ(無限)」と呼ばれているこの神の概念とは何か。

 エン・ソフとは、ユダヤ教の神秘主義カバラにおいて、現実世界の全てを生み出した「隠れたる神」の別名で、「無限なるもの」という意味で使われる言葉である。

 エン・ソフは、人間には感知や理解できない、神の本質や存在の場であり、神の思惟の内、我々が知り得る限りのものである。エン・ソフからは、神の無限なる光が流出し、それが10個のセフィラと呼ばれる神の属性や力を表す球と、それらを結ぶ22本のパスと呼ばれる小径によって構成される生命の樹という図式になる。生命の樹は、神からの聖性の流出の過程としても理解され、その最終的な形がこの物質世界であるとされる。カバラでは、人間の魂は神の火花を持っており、生命の樹の各セフィラに対応している。カバラの目的は、人間の魂が生命の樹を上昇して神に近づき、神との一体感や愛を感じることだ。

(コメント12)



■エリザベス・キュブラー・ロスの研究


 ④エリザベス・キュブラー・ロスは、死と死ぬことについての著名な精神科医で、死に直面する人々の心理的なプロセスを「キューブラー・ロスモデル」として提唱した。彼女は、自分自身も幾度も神秘体験をしたことを認めており、それらの体験が彼女の心理学や哲学に大きな影響を与えた。

 彼女の神秘体験の一つは、幽体離脱の体験である。彼女は、自分の担当していた患者が死に直面する時に、幽体離脱を経験しており、離脱中の描写があまりに正確だったことから、魂の存在を認めるに至った。彼女は、自分も幽体離脱を経験したことがあり、自分の肉体から離れて、天井から自分の姿を見たり、別の場所に移動したりしたことがあると述べた。彼女は、幽体離脱を通じて、自分の魂が肉体に縛られないことを実感した。

 彼女の神秘体験のもう一つは、霊的存在との交流をしたことである。彼女は、死後の世界に関心を持ち、霊媒師や超能力者と接触した。彼女は、自分の守護霊や先祖の霊、死んだ友人や患者の霊などとコミュニケーションを取ったと主張した。彼女は、霊的存在との交流を通じて、死後の世界の様子や神の愛や計画を知ることができたと考えた。

 彼女の神秘体験は、彼女の人生や科学に大きな影響を与えたと言える。彼女は、自分の神秘体験を科学的に分析し、理解しようとした。彼女は、自分の神秘体験を持つことを恐れず、むしろ積極的に探究しました。彼女は、自分の神秘体験を通じて、自分の真の自己や生きる意味を見出そうとした。

  幽体離脱については、『死ぬ瞬間 死とその過程について』²や『死後の真実』³などで触れている。彼女は、自分も幽体離脱を経験したことがあり、自分の肉体から離れて、天井から自分の姿を見たり、別の場所に移動したりしたことがあると述べている。彼女は、幽体離脱を通じて、自分の魂が肉体に縛られないことを実感した。

 臨死体験については、『死ぬ瞬間 死とその過程について』や『死後の真実』などで詳しく説明している。彼女は、自分の担当していた患者が死に直面する時に、臨死体験を経験しており、その中で見た光や音、感情などを正確に描写していたことから、魂の存在を認めるに至った。彼女は、臨死体験を持つ人々は、死後の世界の様子や神の愛や計画を知ることができると考えた。

 死後の霊とのコミュニケーションについては、『死後の真実』や『永遠の別れ』などで紹介している。彼女は、死後の世界に関心を持ち、霊媒師や超能力者と接触した。彼女は、自分の守護霊や先祖の霊、死んだ友人や患者の霊などとコミュニケーションを取ったと主張した。彼女は、霊的存在との交流を通じて、死後の世界の様子や神の愛や計画を知ることができたと考えた。

 これらの著作は、すべて日本語に翻訳されている。

 『死ぬ瞬間 死とその過程について』:彼女の代表作であり、死に直面する人々がたどる心理的なプロセスを「否認・隔離」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」という5つの段階に分けて説明している。彼女は、自分の担当していた患者との対話や観察をもとに、このモデルを提唱した。このモデルは、死の受容のプロセスとして広く知られており、死だけでなく、様々な喪失や変化に対する人間の反応を理解するのに役立っている。

 『死後の真実』:彼女の晩年の作品であり、死後の世界に関する彼女の見解や体験を述べている。彼女は、幽体離脱や臨死体験、死後の霊とのコミュニケーションなどを著書や講演で語った。彼女は、死後の世界の様子や神の愛や計画を知ることができると考えた。彼女は、死後の世界に関心を持つ人々に対して、自分の体験や研究をもとに、希望や慰めを与えようとした。

 『子どもと死について』:彼女の中期の作品であり、子どもが死に直面する時にどのように感じているか、どのように対応すべきかについて述べている。彼女は、子どもの死や子どもの親の死など、様々なケースを取り上げて、子どもの心理やニーズを分析している。彼女は、子どもに対して、死を隠したり嘘をついたりするのではなく、正直に話したり聞いたりすることが大切だと主張している。彼女は、子どもに対して、死を受け入れることや死を超えることを教えようとした。

(コメント13、14、15)



 ⑤神秘家マイスタ・エックハルトは、中世ドイツのキリスト教神学者である。彼は、以下のようなことを述べている。

 神はその源初において無というほかはない。神は自ら人間や動植物などを創造することで世界に現れたと主張した。それ以前には「無」でしかなかった人間は神によって存在を与えられたが、神もまた、人間に認識されることで初めて存在することが可能になったと考えた。

 神との合一を求める人間は、自分の意志や認識を捨てて無になることが必要だと考えた。無になれば神と一体化すると考えた。無のうちには最大の受容性があり、純粋な存在たる神が受容されると考えた。

 彼は神と神の本質である「神性」の概念を峻別した。「神性」を「無」と表現した。神との合一のためには、形ある神は突破されなくてはならないと考えました。神の内面にアクセスするためには、神の名やヘブライ文字、数値などを用いる方法を教えた。

 神の意志は「あれ」とか「これ」とかいう風に指し示せる特定の事柄として現われるのではないと考えた。神の意志は神の無限なる光として流出し、それが生命の樹という図式になる。生命の樹は、神の属性や力を表す10個の球と、それらを結ぶ22本の小径で構成される。人間の魂は神の火花を持っており、生命の樹の各球に対応している。

 彼の思想は、教会の権威や教義を否定するものとみなされ、異端宣告を受けた。しかし、彼の思想は、後世の哲学や神秘主義に大きな影響を与えた。彼の思想は、大乗仏教の禅の思想とも共通点が多い。

(コメント16、17)



 ⑥イーヴリン・アンダーヒルは、1875年にイギリスで生まれたキリスト教神秘主義の研究者であり、作家である。彼女は、神秘主義を歴史的、心理的、実践的に分析し、その本質や段階を明らかにしようとした。彼女は、神秘主義を「人間の霊性の最高の表現」と考え、神秘家は「絶対者」との直接的な関係を求める人々だと定義した。

 神は、人間の知性や感覚を超えた「超越的な現実」であり、神秘家は、神の本質や意志を直接知ることができると考えた。神秘家は、神の愛や美や善に惹かれ、神の内なる光に導かれて、神の存在に近づくと考えた。

 神秘体験は、神との合一の瞬間であり、神秘家は、自己の限界を超えて、神の無限なる生命に参与することができる。神秘体験は、神秘家にとって、最高の喜びや平安や自由をもたらし、神の愛や知恵や力を感じることができると考えた。

 神秘体験に至るまでには、神秘家は、自己の浄化や照明や脱我という段階を経なければならない。浄化とは、自己の欲望や執着や罪を捨てることであり、照明とは、神の真理や美や善に目覚めることであり、脱我とは、自己の意志や認識を神に委ねることである。

 彼女は、彼女は、神秘主義は特別な人々だけのものではなく、すべての人々が神との関係を深めることができると考えた。

そして神秘主義を一般の人々にも分かりやすく伝えようとし、神秘主義の実践方法や心構えを指南する著作も多く書いた。

 特に有名なものは、以下のようなものである。

『神秘主義―超越的世界へ到る途』:彼女の代表作であり、キリスト教神秘主義を中心に、歴史的、総合的に神秘主義を解説しています。神秘家の心理や経験、神との合一のプロセスや方法、神秘主義の歴史や文化的背景などを詳細に分析している。神秘主義の入門書としても優れている。

『実践する神秘主義―普通の人たちに贈る小さな本』:彼女の晩年の作品であり、神秘主義の実践方法や心構えを指南する本である。神秘主義は特別な人々だけのものではなく、すべての人々が神との関係を深めることができると考えている。神秘主義の本質や目的、祈りや黙想の方法、神秘体験の意味や影響などをわかりやすく説明している。

『内なる生』:彼女の中期の作品であり、キリスト教の霊性に関する本である。彼女は、キリスト教の霊性は、神との愛の関係を育むことであり、そのためには、自己の浄化や照明、神の意志への従順などが必要だと考えている。彼女は、キリスト教の霊性の歴史や伝統、神秘家や聖人の教えや例、霊的な成長の段階や方法などを紹介している。

これらの著作は、すべて日本語に翻訳されている。

(コメント18、19)



 ⑦ウェイン・ティーズデールは、1945年にアメリカで生まれたカトリック教の神秘家であり、宗教間対話の推進者である。彼は、神秘主義を「究極の現実との直接的な関係」と定義し、神秘体験を「究極の現実との一体化の瞬間」と説明した。

 すなわち、神は「絶対的ー者」と呼ばれるべき存在であり、すべてのものの根源であり、すべてのものに内在する。

 彼は、神は「無限の愛と知恵と創造性と自由と喜びと平和と美と正義と真実と慈悲と優しさと寛容と忍耐と信頼と友情と忠誠と尊敬と感謝と奉仕と献身と犠牲と赦しと救いと救済と救いと祝福と神聖なもの」のすべての資質を持っていると信じる。

 神は人間の理性や言語や概念にはとらわれない超越的な存在であるとともに、人間の心や魂や意識には近い内在的な存在でもある。神は人間の最高の友であり、最高の師であり、最高の父であり、最高の母であり、最高の兄弟であり、最高の姉妹であり、最高の恋人であり、最高の配偶者であり、最高の子であり、最高の自己であると彼は述べる。

 彼は、神は人間に自分の姿を映し出す鏡であり、人間は神に自分の姿を映し出す鏡である。神と人間は互いに愛し合い、互いに助け合い、互いに学び合い、互いに成長し合う関係にある。神と人間は一つの家族であり、一つの共同体であり、一つの体であり、一つの心であり、一つの魂であり、一つの存在であるとも述べている。

(コメント20)

 彼は、『神秘家の心』という本で、神秘主義の本質や目的、歴史や伝統、実践や方法、成果や影響などを詳しく紹介した。彼は、神秘主義は、すべての宗教や文化に共通する人間の霊性の最高の表現であり、神秘家は、自分の信仰や伝統にとらわれずに、究極の現実との関係を求める人々だと考えている。彼は、神秘主義の実践とは、自分の意識を普通のレベルから高次のレベルに変えることを目指すことである。彼らは、自分の心や感覚や思考を超えて、究極の現実に直接触れることを望む。彼らは、自分の意識を神の意識と一致させることで、神の存在と愛や美、善、真理、自由、平和と喜び、創造、無限、永遠や不変などを感じることができるという。

(コメント21)



 ⑧カレン・アームストロングは、自著『神の歴史』において、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という同根の一神教の歴史を斬新な切り口で辿った英国の宗教学者である。

 彼女については前ページで述べたので参照願いたい。

(コメント22)



■意識と神経過程の関係

 さて、意識と神経過程の関係については、さまざまな研究や理論があるが、一般的には、先述してきた神経学のとおり、意識は脳の特定の部位や細胞の活動によって生じると考えられている。 意識に相関した脳活動とは、ある意識的な知覚や記憶を引き起こすのに必要な最小の神経活動と神経構造のことである。意識に相関した脳活動を発見し、特徴づけることは、意識のメカニズムや原因を理解するための重要なステップである。

 意識に相関した脳活動は、覚醒レベルや意識の内容と密接に関係している。覚醒レベルとは、脳の活動の強度や規則性を示す指標で、睡眠や昏睡などの意識の状態を表す。意識の内容とは、我々が感じたり思ったりすることで、視覚や聴覚などの感覚経験や、思考や感情などの精神経験を含む。覚醒レベルが高いと、意識の内容も豊かになるが、それだけでは意識の内容を決めることはできない。例えば、夢を見るときは、覚醒レベルは低いのに、意識の内容は鮮明だ。

 意識に相関した脳活動を探るために、脳科学者たちは、さまざまな方法を用いている。例えば、脳イメージング技術を使って、脳の活動を測定したり、脳の特定の部位を刺激したり、不活化したりして、意識にどのような影響があるかを調べる。また、意識の有無や強さを評価するために、被験者にさまざまな課題を行わせたり、自己報告を求めたりする。さらに、意識に関連する認知機能や神経機構を理論的にモデル化したり、シミュレーションする。

 意識と神経過程の関係については、まだ多くの謎が残っている。例えば、意識に相関した脳活動は、どのようにして意識を生み出すのか、意識はどのようにして自分自身や他者と区別するのか、意識はどのようにして自由意志や自己意識を持つのか、意識はどのようにして時間や空間を認識するのか、意識はどのようにして言語や記号を理解するのか、などの問題は、未解決だ。また、意識は人間だけに特有なものなのか、動物や植物、人工知能にも存在するのか、なども、興味深いテーマである。意識と神経過程の関係については、今後もさまざまな研究や理論が展開されるだろう。(コメント23)

 先述した通り、物理学者にとっての神は、自然法則、科学的法則である。

スピノーザは、すべての個物は無限の実体、すなわち神の様態的変状であると述べている。神はすべてのものを、その思惟と延長という属性によって表現しているという。その延長とは神の時空的な広がりであり、思惟とは人間や動物の場合その精神性である。彼はすべての無生物も「神の思惟」として、すなわち思惟という属性として存在すると言う。これは宇宙生命ということだ。このような思想は彼が最初ではなく、すでに二千年前にイオニアの哲学者たちもそうだった。

(コメント24)


 シュレディンガーは、自著「精神と物質」にて、脳と脳の描きだす世界について、以下のような示唆に富む指摘をしている。



■ 脳と脳の描きだす世界についての問題

 脳が作り出す世界は不思議である。

 我々は、感じたり思い出したりすることで、世界を知っている。世界はそのまま存在していると思いがちだが、それは我々の脳が作り出したものなのだ。脳はどうやって世界を作るのか。脳のどこが世界とつながっているのか。どんな物質が意識を生み出すのか。これらはとても難しい問題だ。

「意誰の領域を拡大しようとしたり、ある種の意識は神経過程とは異なった何かに結びついているのではないかと考えたりする、そのような試みや要請はどのようなものであれ、必ずや不確かな、また証明不可能な空論になってしまう」とシュレディンガーは述べている。

 合理主義者は、意識は神経細胞の活動によって生まれると考える。動物にも意識があるだろう、植物や他の有機体にも意識があるという考えは、夢物語だと笑うだろう。なぜならそれは証明も反論もできないからである。

 しかし、この考え方には大きな問題がある。神経細胞や脳は、有機体の進化の中で特別な役割を果たしている。それは、環境に合わせて行動を変えることができる能力である。脳はその能力の最高峰だ。脳が発達すると、体のすべてを支配できるようになる。しかし、脳は唯一無二のものではない。植物などは、別の方法で脳に似た能力を持っている。

 もし、脳が発達しなかったらどうなっていたか。脳がなければ、世界を意識できなかったか。それとも、世界は存在しなかったということか。それらは、世界の見方が矛盾していることとなる。この矛盾を解決する方法を探そうとするのを、合理主義者は正直言って馬鹿にしている。

 例えばスピノーザは、すべてのものは神の一部で、神は思考と空間という二つの性質で表されると主張した。思考は人間や動物の精神で、空間は神の広がりという。彼は、無生物にも神の思考があると述べた。これらは、宇宙も生命であるという考えで、神を自然法則とみなしている。

(コメント23、24、25)



 スピノーザは、17世紀オランダ出身の哲学者・思想家である。デカルトやライプニッツらと並ぶ近世の合理主義哲学者である。スピノーザの思想は、神と自然とを同一視する汎神論や、心と身体とを同一視する中立一元論など、当時のユダヤ教やキリスト教の教義に反するものだったが、後世の哲学者や科学者に大きな影響を与えた。例えば、カントやヘーゲルはスピノーザの一元論を発展させた。アインシュタインはスピノーザの神観を尊敬していた。ドゥルーズはスピノーザの倫理学を現代に再解釈しました。

 彼の自著『エチカ』では、神と自然との同一性を前提として、心と身体との同一性や情動と知性との関係などを論じ、自由と幸福とは神との一体化にあると結論づけた。

 スピノーザが無生物にも神の思考があると言ったのは、『エチカ』の第二部である。スピノーザは、神は無限の属性を持ち、そのうち二つは思考と拡張であるとした。そして、神の属性は互いに平行であり、神の思考は神の拡張に対応し、神の拡張は神の思考に対応するとした。これを心身並行説と呼ぶ。この並行説によれば、神の拡張の一部である無生物にも、神の思考の一部である思考が必ず伴うことになる。つまり、無生物にも神の思考があるということだ。しかし、彼は、無生物の思考は人間の思考とは異なり、自覚や意識や理性を持たないともしました。無生物の思考は、神の思考の無限のモードのうちの一つに過ぎないとした。

 ちなみにこうした考えは、古代ギリシャの哲学者や物理学者フェヒナーも持っていた。



 フェヒナーは、植物や地球や星にも魂があると言った。

 フェヒナーは、ドイツの物理学者、哲学者、心理学者で、物質と精神の関係を科学的に研究し、精神物理学という学問を創始した。彼は、感覚と刺激の強度との間に非線形の関係があることを発見し、フェヒナーの法則を提唱した。

(コメント26)

 フェヒナーの法則とは、感覚の大きさが刺激の強さの対数に比例するという法則である。つまり、弱い刺激には敏感で、強い刺激には鈍感になるということだ。

 また、美を心理的な経験から理解しようとして、実験美学という分野を開拓した。彼の哲学は、汎神論や汎心論という立場で、宇宙には普遍的な精神的実体があると考えた。

 この考えも、神の実体は法則であるということへ迫っている。

 こうして、古今東西、多くの先哲から神秘主義者に至るまで、宇宙や大自然、および生命の不可思議に対する探索、統一理論を追究し、叡智を重ね、アップデートしてきているのである。



■日蓮仏法を受け継ぐ者のやるべきこと。

 日蓮が「血脈」として残した万物一切根源法すなわち南無妙法蓮華経も、それに基づく生命学的解釈や修行法についても、無批判・独善的に漫然と受け継ぐのではなく、時代の進歩に合わせて更新していくことが、日蓮仏法を受け継ぐ後生として必要なことなのである。そして、そうした姿勢こそが、日蓮が残した血脈――すなわち限りなく完成へと向かう即身成仏の姿のひとつなのであり、信者としてふさわしい姿なのである。




 
 
 

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