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P03, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の在世の師

  • rakettochansm
  • 2024年2月27日
  • 読了時間: 31分



このページは

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、

P03, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の在世の師

です。



■日蓮の生涯と、その教え

 人間・日蓮の生誕は1222年2月16日、父親は房総半島南端の小湊に住む漁夫であった。

 この年は、鎌倉幕府ができて30年後のことで、承久の乱(日本史上初の武家対朝廷の戦い)が起こった翌年であり、世の中が一層騒然としていた。

 鎌倉幕府とは、新興の武士階級が古代の貴族階級から政権を奪って立てた最高権力機関であり、永く安定していた平安時代から封建時代へ移った初めの激動期である。

 様々な権力闘争が渦巻き、また、末法思想が蔓延するほどの天変地異や飢饉・疫病などによって世の中が騒然としていた。

 小湊の近くには、清澄寺という天台宗の寺が、永く地域一帯を支配していたが、新たな地頭の東条景信が勢力を伸ばし、しきりに寺の権益を脅かしていた。

 こうした背景の中、日蓮は12歳の時、この清澄寺に小僧として入った。

 師匠となったのは道善房で、先輩の浄顕房・義浄房から学問を教わった。

 貧賤の小僧としての生活は厳しいものであったが、努力が認められて、20歳から31歳にかけ、学問の最高とされていた比叡山延暦寺などに遊学し、天台本覚思想などを学び、天台僧の資格を得た。

 当時、正規の僧は武士に類する身分で、とくに天台僧は重く用いられていた。

 同時に、比叡山の僧侶が僧兵などの実力を背景に、専修念仏を旗印に持つ武士に対抗して、朝廷に圧力をかけているのも見ていた。

 こうして、日蓮は、一切経の中で妙法蓮華経(法華経)が最勝の経典であり、諸宗がこれを否定する謗法を犯している、そして時代が既に末法に入っていることを確信したという。


 ちなみに近年の研究をみると、日蓮自らは、周書異記によって、仏滅はBC949年という、当時の日本の仏教界での定説をそのまま信じ、自身が仏滅後2171年の末法に生まれたと確信していた。

 東大法華経研究会編「日蓮正宗創価学会」には、「周書異記には周の昭王二十四年四月八日生誕、同じく穆王五十二年二月十五日入滅とある。これが西紀前九四九年に当たる」とある。

 しかし、この説は、広く世界的な資料が出そろい進歩した近代仏典研究や、宗教的見地からも「根拠がない」と断定されている。

 つまり、現在の科学による見解では、日蓮の生誕は仏滅後約1900年にも経過しておらず、未だ末法ではないことになる。

 したがって残念ながら仏滅後2000年以後の末法においての、上行菩薩再誕としての確信には誤りがあったことになり、日蓮や日蓮門下一同の主張はすべて、根底から崩壊することになる。

 創価学会もこの教説を信じて、布教に猛進してきたが、これらの説が訂正され、新たに立て直さなければならないことは、遅くとも昭和の終わりごろには分かっていたはずだろう。

 ただ、原始仏教から法華経の成立時期の時代背景が、きわめて曖昧で、たとえば現在の6カ月を一年と計算していた時期や地域もあったという説も残存するため、厳密な数字にこだわるのはあまり意味がない。


 また、日蓮の時代の背景をみれば、現実に、仏法が日本国に伝来して数世紀の間、国家に保護され、それなりに平安な時代を経た後、次第に武力支配が沸き起こり、武士階級が台頭して貴族階級と対立して行く中で、世の中が乱れ、末法思想が広まり、源平の合戦を経て、鎌倉幕府の時代となっていたのは明らかである。

これらも考慮すれば、少なくとも現実に日本においては、日蓮自身の時代分析の通り、法華経の中で予言された、争いごとが絶えず起こり、従来の釈迦仏法の効力がなくなるという、いわゆる末法の時代に入っていたとみなすことができるだろう。

 なお、日蓮の伝記は約200年後の室町時代になってできたものらしく、生誕日については日蓮の遺文にも記載がない。

そこで、周書異記に釈迦が2月15日入滅とあるから、御本仏日蓮の生誕は2月16日でなければならないと、後世の弟子たちが勝手に決めたという説もある。


 話を戻す。

 1252年秋、遊学から清澄寺に帰った日蓮が見たのは、念仏者である東条景信による、寺への威圧や権益阻害であった。

 1252年(建長5年)4月28日、師匠・道善房の持仏堂で、日蓮は、多くの僧たちへ、念仏と禅宗が法華経を誹謗する謗法を犯していると主張し、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題行を説いた。

 当時、天台宗の修行として南無阿弥陀仏の称名念仏などと並行して南無妙法蓮華経と唱えることは行われていたが、日蓮はこれを否定し、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張し、そして、念仏は無間地獄におちると説いたのである。

 立宗宣言の時であった。

 これは、念仏者である東条の眼前で題目のみを唱えるものであったから、明らかに彼への挑戦でもあった。


 その後まもなく、清澄寺を追われた日蓮は、鎌倉に草庵をかまえ、南無妙法蓮華経を弘めるとともに、鎌倉の人びとと共に過ごすことになる。

 日蓮のこの布教期間は、凡夫として大衆の中でその苦悩を共にし、同時にその責任を幕府に問うことにもなっていた。

 比叡山が朝廷に対して行ったように、幕府に対しても念仏禁止を呼び掛けた。

 同時に清澄寺と連絡を取って東条との紛争にも力を入れていた。


 国が正しい宗教を用いることによってのみ、平安が得られる…

 この考えは、従来の仏教に共通であるが、日蓮の姿は、新たに折伏という手段で、民衆の救済と共に国を変革するという、権力への抵抗であった。

 大地震などの天変地異や飢饉・疫病に加え、幕府と朝廷との争い、モンゴルの侵略の危険が、「国難」意識を激しいものにした。


 1258年(正嘉2年)、現状分析のため、日蓮は岩本にある天台宗寺院・実相寺に登り、所蔵されていた一切経を閲覧した。このときに出会った日興は、後の重要な弟子となった。


 1260年(文応元年)7月16日、日蓮は、「立正安国論」を時の執権:北条時頼に提出して国主諫暁を行った。

 この要旨は、時代は末法であり、天変地変・飢饉疫癘・国の乱れは法華経の予言が的中していることに基づき、国が念仏を廃止し南無妙法蓮華経を用いることによってのみ、安泰が得られる。そうでなければ、いまだ起こっていない法華経の予言であるところの、国内の同士討ちと他国による侵略が必ず起こるという予言と諫暁であった。

「汝早く信仰の寸心を改めて 速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり 仏国其れ衰んや」(立正安国論、御書P32)


 これは当局に完全に無視されたが、呼応したかのように、翌8月27日の夜には、松葉ヶ谷の草庵が多数の念仏者によって襲撃された(松葉ヶ谷の法難)。

 この襲撃を危うく免れ、下総国若宮(千葉県市川市)の富木常忍の館に移り、弘教活動を展開した。

 二年後の1261年(弘長元年)鎌倉に戻っていた日蓮は、5月12日、大乱の流言が飛び交う中で幕府の一斉取り締まりによって拘束され、伊豆の伊東に流罪となった。


 その二年後赦されて鎌倉に戻っていた日蓮は、文永元年(1264年)の秋、母親の病気を見舞うために安房小湊へ帰っていく。

 11月11日、天津へ移動中に、かねてから紛争中であった東条景信の軍勢に襲われ、頭部切創・右手骨折の重傷を被った(小松原の法難,鏡忍房や工藤吉隆が殉死)。

 その3日後、師匠の道善房が見舞いに来た時、念仏は無間地獄の因である旨、きっぱりと諫言したという。

 1268年(文永5年)1月16日、モンゴルの国書が太宰府に到着した。

 日蓮は、侵略を予言した「立正安国論」の正しさが証明されたと述べた。当時の幕府は、執権が北条時宗であり、警察権力は侍所の長・平頼綱がにぎっていた。日蓮は彼ら幕府要人の前で、極楽寺良観や建長寺道隆ら主要な僧侶と公場での対決を要求した。だがこれも全く無視された(十一通御書、念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊という「四箇の格言」)。

 1271年(文永8年)6月18日より日蓮との雨乞いの勝負に惨敗した良観が、日蓮を亡き者にしようと幕府に告発したが日蓮に反撃されて失敗した。さらに日蓮教団の壊滅を図ろうと、北条時頼・重時の未亡人らに讒言し、陰謀工作したのである。


 同年9月10日、日蓮は幕府の尋問を受け、正法を用いないならば内乱と外国侵略は不可避であると、平頼綱に対して諫暁した。

 9月12日夕、平頼綱は数百人の兵士を率いて草庵を襲い、日蓮を逮捕した。

 平頼綱は日蓮を罪人として鎌倉中引き回し、佐渡国の守護・北条宣時の、依知にある館に「預かり」としたが、その夜半、そこへ向かう途中でひそかに斬首を計画し、龍の口の刑場へと連行した。


「今夜頚切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり、

此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみとなりし時は・ねこにくらわれき、或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し、

法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず 国の恩を報ずべき力なし、

今度 頚を法華経に奉りて 其の功徳を父母に回向せん 其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事 これなりと申せし」(種種御振舞御書 御書P913)

以下はこの現代語訳である。

《今夜、首を切られに行くのである。これは私がこの数年の間願ってきたことなのである。この娑婆世界に、数えきれないほど生まれてきた。私がキジとして生まれてきたときは鷹に食われた。私がネズミに生まれた時には猫に食べられた。あるいは私が妻子の敵に殺されたことなど、これらは数えきれないほど多かった。しかし、私は法華経のために一度も命をささげたことはなかった。

私は貧乏の家に生まれたので父母の孝行もできないし、国への恩返しもできない。だから、この機会に、自分の首を法華経に捧げて、その功徳を父母に回向し、残った分を弟子や旦那に配分しようと言っていた》(現代語訳)


 だが、まさに刑の執行時、江の島の方角から強烈な光り物が現れ、執行人の目がくらみ、恐怖で周囲が退散する事態になって、日蓮は斬首を免れた(龍ノ口の法難)。

「左衛門尉申すやう只今なりとなく、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、 十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが 物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり 或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ 近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし。」(種種御振舞御書 御書P913-914)

以下はこの現代語訳である。

《左衛門尉(弟子の四条金吾)は、「今が最期でございますと」言って泣いた。私は、「あなたは不覚者である。これほどの喜びは他にはない。喜びなさい。どうして、あなたは結んでいた約束を破られるのですか」と言った。その瞬間、江の島の方角より、東南から西北へ、ボールのような光が走った。9月12日の夜明け前の暗がりの中で、周りの人の顔すら見えなかったが、これが光って月夜のようになったので、人の顔もみんな見えた。太刀取りは目がくらんで倒れ臥してしまった。兵士たちの中には、ひるんで怖れ、私の首を斬る気を失って、約109mぐらい走り逃げる者もいた。ある者は馬から下りて頭を地面につけ、またある者は馬の上でうずくまっていた。日蓮が「どうしてあなたがたは、これほど大罪のある囚人から遠のくのか、近くへ寄って来い。寄って来い」と、大声で呼びかけたが、誰一人として近くに寄ってこなかった。「こうして夜が明けてしまったならばどうするのか、私の首を斬るなら早く斬れ。夜が明けてしまえば見苦しいだろう。」とすすめたけれども、彼らはなんの返事もしなかった。》


 日蓮はその後、依知に1か月滞在中、佐渡流罪と決定され、11月1日、厳冬の中、塚原の三昧堂に配された。当時、佐渡へ流された罪人は誰一人として無事に本土へ帰った者はいなかった。

 一方、鎌倉の門下たちは、念仏者たちの讒言などにより約260人が逮捕・監禁、追放、所領没収などの迫害を受けた。日蓮の信者集団は、ほぼ壊滅状態となった。


 佐渡での罪人としての扱われ状況は、日蓮がこのように述べている。

「佐渡の国にありし時は里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり、彼処に一間四面の堂あり、そらはいたまあわず四壁はやぶれたり・雨はそとの如し雪は内に積もる、仏はおはせず筵畳は一枚もなし、

然れども我が根本より持ちまいらせて候・教主釈尊を立てまいらせ法華経を手ににぎり 蓑をき笠をさして居たりしかども、人もみへず食もあたへずして四箇年なり」(妙法比丘尼御返事 御書P1413)

《私が佐渡の国で以下はこの現代語訳である。いた時は、人里から遥かに隔たっている野と山との中間に塚原という三昧所があり、そこに一辺の幅が、わずか約1.8mしかない堂がありました。その屋根の板は隙間が多く、四方の壁は破れていたので、雨が降れば外にいるようであり雪は内に積もりました。そこには仏も祀っていず、筵畳は一枚もありませんでした。しかし、以前から持っていた教主釈尊の像を立てまいらせ、法華経を手に握り、蓑を着、笠をさしてしのいでいました。人もこず、食も与えられずして四年の間、そこで過ごしました。》

 と、日蓮は述べている。


 年が明けてから、諸宗や念仏者たちは日蓮暗殺の絶好の機会と鼻息を荒立てたが、守護代・本間重連は、これに反対し、彼らを日蓮と法論対決させた。

 この塚原での問答は日蓮一人の圧倒的勝利に終わった(塚原問答)。

 この時に日蓮は本間重連に対し、翌月の鎌倉と京都で北条氏同士の謀反(北条時輔の乱、二月騒動)を予言した。その一か月後、それが見事に的中したため、日蓮は彼の信頼を得た。

 この時のことを、日蓮はこう述べている。

「又佐渡の国にて・(頚)きらんとせし程に 日蓮が申せしが如く鎌倉にどしうち始まりぬ、使はしり下りて頚をきらず・結句はゆるされぬ」(前掲書P1412)

以下はこの現代語訳である。

《彼らはまた佐渡の国で、私の首を切ろうとしましたが、私が予言したように鎌倉で同士打ちが始まったので、役人が急いで佐渡にきて、頸を切らず、結局は赦された》


 この間に2月に「開目抄」、3月に「佐渡御書」、その秋には一の沢に移った後、翌年10月「観心本尊抄」など、教義の根幹となった重要書を次々と著し、主たる門下へ与えた。

「当世日本国に富める者は日蓮なるべし」(開目抄)

《今の日本で一番富んでいるのは日蓮である》


 佐渡での厳苦の中、日蓮は、これらの著の中で、自身の師は教主釈尊であり、自分こそ法華経に予言されている地涌の菩薩、末法の法華経の行者のさきがけ、上行菩薩の再誕であるという自覚に至ったこと、日本の人びとにとって自身は主師親であること、そして種々の受難は、法華経の予言の証明となるだけでなく、自身の前世・今世の法華経誹謗の悪業でもあり、成仏を遂げるため、一気に謗法を責めて今世ですべて罪障消滅するためであると、分析し、懺悔もしている。

 そして南無妙法蓮華経という最も重要な本尊の意義・教学を確立したのである。


 もとより罪人で、面会も容易でなかった日蓮に、弟子の日興が最蓮房という名で日蓮と接触し、鎌倉と佐渡を往復しながら、紙・筆の調達や情報伝達、教団の存続維持などに尽力したという指摘もある。

 最蓮房に対し日蓮は、塚原で2月11日「生死一大事血脈抄」、2月20日「草木成仏口決」(いずれも根本教義の重要書)を与えている。


 1274年(文永11年)2月、モンゴル襲来が切迫する中、執権・北条時宗は日蓮の赦免を決定。

 4月8日、鎌倉に帰った日蓮は要請を受けて平頼綱に会った。

 平頼綱は、丁重に襲来時期を尋ね、鎌倉の一等地に寺院を寄進することを条件に、他宗や幕府と協調して調伏の祈禱を以下のように依頼した。

「今後折伏を歇め(註:止めて)天下泰平を祈らば城西に愛染堂を建て地領千町を寄付して、衣鉢の資に供せん」(富士宗学要集9、P445)


 しかし、日蓮は、断固として拒絶し、襲来は必ず年内であること、以前と同様の諫暁を行った。(3度目の国家諫暁)

「日蓮答えて云く今年は一定なり それにとつては日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし」(種種御振舞御書、御書P921)

《日蓮は、こう答えた。それは今年中だと定まっている。これについては、以前から貴方達を諫めていたのに、採用されなかった。これは譬えて言うと、病気の原因を知らない人が、病気の治療をすれば、その病気は倍増するようなものだ》


 これも受け入れられなかった日蓮は、ついに幕府に見切りをつけた。

「日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわるべきよし存ぜしゆへ」(御書P927)

《日本の国が滅亡しようとしているのを救おうとして、三回も諫めたが採用されなかったので、山林に交わるべきと分かっていたため》

「命を期として申したりとも国主用いずば国やぶれん事疑なし、つみしらせて後用いずば我が失にはあらずと思いて」(御書P1412)

《私が命を捨ててまで申し上げても、国主が採用しないから、国が敗れることは疑いない。何回も知らせたのに、結局、採用しなかったのは、私の咎ではない》


 そして、日興の折伏で門下になっていた地頭・波木井実長の要請もあって、甲斐国身延(現在の山梨県身延町)に入った。


 そこは厳しい僻地であった。

「其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候 昼は日をみず夜は月を拝せず 冬は雪深く夏は草茂り問う人希なれば道をふみわくることかたし、殊に今年は雪深くして人問うことなし命を期として法華経計りをたのみ奉り候」

(御書 P925)

《私はそのなかに100mほどの空地(谷間)があるところに庵室を構えた。(谷間であるため)昼は日を見ず夜は月を拝せず、冬は雪深く夏は雑草が茂り、訪ねてくる人もまれなので道を踏み分けることも難しい。殊に今年は雪が深くて人が訪ね来ることがない。そのため死を当然と心得て法華経だけを頼み奉って暮らしていた》


「爰に庵室を結んで天雨を脱れ・木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折りて身を養ひ秋は果を拾いて命を支へ候つる」(御書P1078)

《ここに庵室を造って雨を避け、木の皮をはいで四方の壁とし、自然に死んだ鹿の皮を衣とし、春は蕨を折って身を養い、秋は果実を拾って命を支えてきた》

このように清貧を貫きながら、日蓮は後世の育成とともに、法門確立のための著作活動を持続した。


 日蓮がこうして「山林に交わる」のを選択した背景として、モンゴル襲来に備えたとの見方もある。


 モンゴルは日蓮の予言通り、半年後、冬入りの10月、3万人を超える船団で襲来し、壱岐・対馬は壊滅、大宰府も深刻な被害を受けた。

 日蓮は壱岐・対馬の惨状を「男はみな殺されあるいは生け捕りにされ、女は手の平に穴をあけてそこへ綱を通され、船に結いつけられた。一人も助かるものはなし」と記している。

 しかし、たまたま海上に集合していたモンゴル船団は、偶然にも季節外れの台風に襲われ、ほとんど全滅した。(文永の役)


 一方、日蓮は身延において国の安泰を祈願する中、法華取要抄、撰時抄、報恩抄などの他、多くの書簡や法門書を執筆し、文字曼荼羅本尊を図顕して門下を教導した。

 こうした中、弟子の日興を中心に富士方面で活発な日蓮仏法の弘教が展開され、日興が供僧をしていた四十九院や岩本実相寺、龍泉寺等の天台宗寺院で下級の僧侶や近隣の農民らが次々と日蓮門下となる。

 これに対し、北条得宗家と結びついた各天台宗寺院の住職らは、その住僧らを追放するなど、次第に日蓮門下と寺院との階級闘争が激化していった。

 1279年(弘安2年)9月21日、抗争が頂点に達し、稲の収穫をめぐって20人の農民信徒が捕えられて鎌倉に連行され、平頼綱の取り調べとなった。

 これまでの日蓮教団の構成は、主に自身と面識のあった下級僧と武士階級であったが、この事件は、自身とは何の面識もない一般農民階級へも浸透したという、大きな質的変革の現れであった。

 日蓮はこの事実を知り、10月1日の書簡(聖人御難事)で自身の生涯の目的(出世の本懐)を遂げたと述べ、現地の日興、四条金吾らに、迫害に対する覚悟、農民信徒の励ましなど、一切の指揮を指示した。


「各各師子王(註:ライオンの王様)の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ…中略…彼のあつわらの愚癡の者ども・いゐはげまして・をどす事なかれ、彼等にはただ一えんにおもい切れ・よからん(註:良い結果)は不思議、わるからん(註:悪い結果)は一定とをもへ、ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ」(聖人御難事、御書P1190)

《各各はライオンの王の心をふり出して、どのような人が威嚇しても、決して恐れることがあってはならない。……かの熱原の信心微弱な者たちには、強く激励して、おどろかしてはならない。彼らには、ただ一途に決心させなさい。善い結果になるのが不思議であり、悪い結果になるのが当然と考えさせなさい。そして空腹にたえられないようだったら餓鬼の道の苦しみを教えなさい。》


 平頼綱は、農民たちに南無妙法蓮華経の題目を捨てよと迫り、厳しい拷問を行ったが、彼らはこれに屈せず題目を唱え続けたため、ついに10月15日、3人を斬首し、残り17人を追放処分とした。(日蓮正宗要義P202)(熱原の法難)


 一方、1281年(弘安4)年5月~7月、モンゴルは二軍に分かれて再び来襲、うち、東路軍が対馬・壱岐に上陸し住民を殺害した後、北九州に上陸、一方、江南軍はのちに東路軍と、7月初旬に平戸島付近で合流した。

 大宰府はほぼ陥落状態だったが、閏7月1日、モンゴル軍は、海上に集合していたところをまたもや台風に襲われ、壊滅状態となって撤退した。(弘安の役)


 身延において日本の安泰を祈り続けていた日蓮は、門下に対しては、自らの予言が的中したこれらの襲来については、語るべきではないと戒めている。

 なお、鎌倉幕府の体制は、この二度の襲来によって大きく揺らぎ、その後の滅亡の根本原因となった。


 また、日蓮やその教団を直接迫害した張本人・平頼綱は、その後謀反の疑いによって一族ごと滅ぼされたとも伝えられている。


 幕府に見切りをつけていた日蓮は、この年、「園城寺申状」を作成し、日興を代理として朝廷への諫暁を行った。

 後宇多天皇は「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」との下し文を日興に与えたという。


 こんな中、日蓮は、身延に入って3年後あたりから、時に下痢症で四条金吾の治療を受けていたが、その胃腸病が散発・段階的に進み、次第に痩せが進行する。

 この時、日蓮の草庵は、林の木を切って立てた柱が倒れかかり、壁が一部崩れても修復されないままであったが、ついに門下の助けを受けて1281年(弘安4年)に改修され、10間四方(註:約18m四方)の坊となったばかりであった。


 1282年(弘安5年)の秋には、厳冬の身延では年越しが困難と思われるくらいに衰弱していた。

 そこで、門下の勧めもあり、温泉治療を行う闘病のため、9月8日、常陸国(茨城県)へ向け、重い体で旅立ったのである。


 馬上の日蓮の一行は、信仰が篤くて法難のあった駿河・富士方面を避け、あえて難路である、当時の富士川の急流を北上、鰍沢付近から御岳山系の北麓を東へ進み、御坂峠、河口湖・山中湖畔から三国峠、更に足柄峠を越え、箱根を経由して、18日に武蔵国荏原郡(東京都大田区)にある池上邸に到着したが、ついに衰弱のため、移動不可能となった。


 9月25日、四条金吾、大学三郎、南条時光、富木常忍、大田乗明など、集ってきた門下を前に、柱に身を支えて「立正安国論」の講義を行った。

 10月8日には重体ながら、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6人を本弟子(六老僧、順不同)と定めた。

 10月13日、多くの門下に見守られながら、最後の最期まで戦いの連続であった、自身の60年にわたる生涯を終えたのである。



■日蓮は、あくまで正しい南無妙法蓮華経という「法」に「身命」を捧げた


 ここで最も重要なことを確認しておきたい。

 日蓮は、あくまで正しい法華経、南無妙法蓮華経という「法」(の流布)に「身命」を捧げたのである。

 それは決して、特定の仏(釈尊や阿弥陀仏等)や人(権力者や先師)ではない。

 まして、権力や富や名声などではない。

 そして、これらに臆したり屈することなく、悠然と法難を耐え忍んだのである。

 あくまで正しいと確信する「法則」に頚を捧げたことにある。

 そしてなお加えれば、その法則に反する「謗法」の者や権力から、一切の布施を拒絶し、生涯にわたり清貧を貫いていることである。

 清貧の中、雨風突抜の草庵でしたためた曼荼羅はすべて手書きであり、門下から供養された一体の小さな釈迦像を大切に携帯していたとはいえ、仏師を必要とするような大きな板マンダラ等、大がかりなものは一切所持していなかったのである。

 これらの事実は残された正しい文献等の研究によって明白なのである。


 日蓮が示したこの前提、仏法者の模範としての姿は、800年近くたった現在においても厳然と光り輝き、語り継がれているのである。


 そして、その後の歴史や、様々な偽書や伝説を捏造しながら我こそは正統であると主張する後世の態度を比較検討するため、本稿にて、以上のことを何度も何度も繰り返し確認・後述することになることを、ご了承願いたい。


 そして、当然の如く、師弟不二(師弟一体)、血脈を検討するには、その内容である法、師弟観、本尊観、成仏観などをきちんと把握しておく必要がある。



■日蓮の、在世の師


 俗世においては、日蓮の師は道善房である。

 義浄房・浄顕房にあてた善無畏三蔵抄で、日蓮は1270年までの半生を簡潔に回顧し、そのすべては、虚空蔵菩薩の利生と師・道善房の賜物であると述べ最終章で、師の報恩を語っている。

「亀魚すら恩を報ずる事あり何に況や人倫をや、

此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す」(御書P888)

《亀ですら恩を報ずることがある。ましてや人間においてはなおさらである。

この師恩に報いるために清澄山において仏法を弘め、道善御房を導こうとしたのである。》

 以下、通解する。

《しかし、この人は愚癡な上、念仏者である。とても三悪道は免れない。さらに教訓を受け入れてくれる人でもない。

文永元年11月14日(小松原で受傷3日後)西条華房の僧坊にてお会いした時、「私は智慧がなく、年老いて、地位を望んだり名聞を求めず、念仏の名僧をも師匠に立てない。単に世間に弘まっているだけで、南無阿弥陀仏と申しているだけなのである。また、本心ではなく、何かの縁で、阿弥陀仏を五体までもお作りした。これも、過去の宿習だろう。その罪によって地獄に堕ちるであろうか」という。

 師とあえて仲違いするつもりはないが、東条左衛門入道蓮智の事件によって、この十余年の間は、結局対立しているようなものだから、穏便の義をもって申し上げることこそ礼儀であるとは思ったけれども、生死の世界の習いは老少不定である。また二度とお会いすることも難しい。私は、この人の兄の道義房義尚に向かっても無間地獄に堕ちるべき人と言ったが、臨終はやはり思うようでなかったらしい。この人もまたそうなるだろうと哀れに思ったから、思い切って強く、このように申し上げた。》

「阿弥陀仏を五体作り給へるは 五度 無間地獄に堕ち給ふべし」

《あなたは阿弥陀仏を五体も作られたので 五度 無間地獄に堕ちることになる》

《その理由は、正直捨方便と言われて説いた法華経には、釈迦如来は我らの親父、阿弥陀仏は伯父であると説かれている。我が伯父を五体までも作り供養しながら、親父を一体も造らないのは、まことに不孝の人としかいいようがない。

山人や海人などのように、東西を知らず、一善をも修しない者の方がかえって罪が浅い者なのである。

今の世の道心ある者が後世を願いながら、法華経・釈迦仏を打ち捨てて、阿弥陀仏・念仏などは一瞬も捨てずに念じているのは、どうしたことだろうか。

一見、善人に見えるけれども、親を捨てて、阿弥陀仏・念仏などは一瞬も捨てずに念じているのは、どういうものであろうか。善人に見えるが、親を捨てて他人につく過ちは免れるとは思えない。

全くの悪人は、いまだ仏法に帰依していない一方で、釈迦仏を捨てる過ちはない。縁があれば信ずることもあるだろう。

善導・法然、ならびに今の世の学者等の邪義について、阿弥陀仏を本尊としてひたすら念仏を唱える人々は、多生多くの劫を経たとしても、この邪見をひるがえして釈迦仏・法華経に帰依するとは思えない。

 だから、釈尊が沙羅双樹の下で最後に説かれた涅槃経には、十悪・五逆よりもはるかに恐ろしい罪の者を述べている。その人たちは、謗法闡提といって、二百五十戒を持ち三衣一鉢を身に纒っている智者達の中にこそいると説かれております。

 このように詳細に申し上げても、この人も傍にいた人々も、よく理解できない様子であったけれども、その後承ったところでは法華経を持ったようになった旨聞いたので、邪見を翻されたのであろうか、善人になられた、と悦んでいた上、この釈迦仏を造られた事は、言葉でいえない喜びである。

その場は厳しいようだったが、法華経の文の通りに説いたので、このように心を従われた。

忠言耳に逆らい良薬口に苦しという事のはこれである。

 今やすでに日蓮は師の恩を報じた。

きっと仏神もこれを受けてくださるだろう。このことを道善房に申し聞かせてください。

たとえ強言であっても、人を助ければ実語・軟語である。

たとえ軟語であっても、人を誤らせたら妄語・強言である。

今の世の学者等の法門は軟語・実語と人々は思っているが、すべて強言・妄語である。

仏の本意である法華経に背くからである。

 日蓮が「念仏を申す者は無間地獄に堕ちる。禅宗・真言宗もまた邪な宗である」などというのは強言のように思えるが、実語・軟語なのである。

例えばこの道善御房が法華経を信受して釈迦仏を造られた事は、日蓮の強言から起こったのである。

日本国の一切衆生もまた同様である。

今の世でこの十余年以前までは、もっぱら念仏者であったが、今では十人のうち一・二人は一向に南無妙法蓮華経と唱え、二、三人は両方唱えるようになり、また一向に念仏を申す人も疑いを抱いて、心の中では法華経を信じ、また釈迦仏を書いたり、造ったりした。

これもまた日蓮の強言から起こったのである。

たとえば栴檀は伊蘭より生じ、蓮華は泥より生え出てくるようなものである。

 しかるに「念仏は無間地獄に堕ちる」と言ったことに対して、今の世の牛馬のような智者達が日蓮が法門をかりそめにも毀る姿は、糞犬がライオンの王を吠え、癡かな猿が帝釈と呼ばれる天の神を笑うのに似ている。》


 日蓮が、同じく義浄房・浄顕房へあてた、安房の清澄寺における故道善房追善のため、身延で著した報恩抄(御書P323)には、

「故道善房はいたう弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども」《故道善房にとっては、日蓮はかわいい弟子であるから、憎いとは思わなかったであろうけれども》とある。

 続いて、彼のことを、詳しく述べている。

 以下、要約をすれば、

《きわめて臆病で、地頭の東条景信や謗法の円智・実成の脅しを恐れ、清澄山の住職に執着し、最愛の弟子たちまでも捨てた人であるから、後生はどうなるのか、

 一つの幸いは、彼ら3人が先に死去したため、少しは法華経を信じた、が、これは喧嘩後のちぎれ棒、真昼の灯火のように、何の役にも立たない。

 普通では、どんなことがあっても自分の子や弟子は、不便と思うが、その弟子の日蓮が佐渡の国まで流罪されたというのに、故道善房は、一度も来てくれなかった。これでは法華経を信じたということにはならない。

 それにつけても、自分は道善房を心から師匠と思っていたので、亡くなったと聞いたときには、火のなかをくぐり、水の中にも沈んで走っていき、お墓をたたいて、法華経一巻を読誦してあげたいと思ったが、(今、自分が身延にいるのは)賢人のならいとして、遁世とは思わないが、世の人々はみな遁世と思っているだろうから、ここでわけもなく身延を出て墓へ行ったら、結局、自らの志をまっとうできなかったと、人々は日蓮を非難するだろう。

 ゆえに、どんなにお墓に参上したいと思っても、ここでは行くべきではない。》

 また、引き続いて、

《あなた方、浄顕房・義浄房のお二人は、日蓮の幼少の時の師匠であった。

日蓮が東条景信に狙われて、清澄山を出るとき、あなた方二人がかくまってくれ、ひそかに道案内して無事に逃がしてくださったのは、まことに天下第一の法華経のご奉公である。それによって、あなた方二人の後生の成仏は疑いないことである》

 と、述べている。


 報恩抄には、真の報恩について述べられている。以下のように、依法不依人も言及されている。

《凡夫は、いずれの師であっても、信ずるには不足がない。人々はただ、それぞれ最初に信じた教えを仰いで、当然と思っている。

 けれども、それでは日蓮自身の疑いは晴れない。…中略…

 涅槃経に「法に依つて人に依らざれ」とある。「依法」の法とは一切経のことであり「不依人」の人とは、仏以外の普賢菩薩・文殊師利菩薩とか、その他、諸宗の人師たちのことである。

 この涅槃経は仏の最後の説法であり、仏の遺言の教えである。

 この仏の遺言を信ずるなら、ただ法華経を鏡として、一切経の真髄を知る以外にない。

 法華経の最勝は明々の理であるのに、諸宗は法華経に勝れたりと立てている。仏法は道理である。大道理から見るならば、みな諸仏の大怨敵であり。それは、釈尊を殺そうとした提婆達多や瞿伽梨尊者等も問題ではなく、大天・大慢バラモン以上の大悪逆である。このような誑惑の師を信ずる人々もまた、恐ろしいことである

…中略…

 そうして、文永十一年五月の十二日に鎌倉を出て、この身延の山にはいった。

 私は、ただひとすじに、父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国の恩を報ぜんがために、命もなげうったのである。

 私はなお殺されることもなく、今日にいたる。

 また、賢人の習いとして、三回国をいさめて用いられなかったならば山林にまじわれと、これは昔からの定例である。》


 報恩抄は、前述の如く釈尊から当時の日本への仏教史(小乗対大乗、権経対実経の争いなどにも言及)から、、法華弘通による自身への迫害等もあげ、真実の教えと師弟の伝搬、諸経の勝劣を明らかにし、真の報恩とは、真実の教えを広めることであると、理路整然と述べている。


 その内容については、他の著書にゆずるが、結びの言葉が、とくに感慨無量である。

「されば花は根にかへり真味は土にとどまる、此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。」


《されば花は根に返り、菓は土に留まる、この功徳は、道善房の聖霊の御身にあつまるであろう。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。》


 これらは、日蓮の信念、俗世の師弟観、仏教観を知る上で、重要な文献である。


 以上のように、日蓮が認めた俗世における師匠は道善房であった。

 だから、師への報恩として、師の誤りを糺したのである。

 日蓮の教えに忠実に従うならば、たとえ師匠であっても、法に背けば、これを糺すことが求められている。



 さて、名文をさらにあげよう

 華果成就御書である。短いので、全文を引用してみる。

「其の後なに事もうちたへ申し承わらず候、

さては建治の比・故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を嵩が森にて よませ給いて候よし悦び入つて候、

たとへば根ふかきときんば枝葉かれず、源に水あれば流かはかず、火はたきぎ・かくればたへぬ、草木は大地なくして生長する事あるべからず、

日蓮・法華経の行者となつて善悪につけて日蓮房・日蓮房とうたはるる

此の御恩さながら故師匠道善房の故にあらずや(註:道善房の故である)、

日蓮は草木の如く師匠は大地の如し、

彼の地涌の菩薩の上首四人にてまします、

一名上行乃至四名安立行菩薩云云、

末法には上行・出世し給はば安立行菩薩も出現せさせ給うべきか、

さればいねは華果成就すれども必ず米の精・大地にをさまる、故にひつぢおひいでて二度華果成就するなり、

日蓮が法華経を弘むる功徳は 必ず道善房の身に帰すべし

あらたうとたうと、(註:とても尊い・尊い)

よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・

あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、

師弟相違せばなに事も成べからず

委くは又又申すべく候、

常にかたりあわせて出離生死して 同心に霊山浄土にてうなづきかたり給へ、

経に云く「衆に三毒有ることを示し 又邪見の相を現ず我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」云云、

前前申す如く御心得あるべく候、穴賢穴賢。

       弘安元年戊寅卯月 日                

日蓮花押

    浄顕房

    義浄房」

この現代語訳は以下である。

《その後は何事もうかがわないが、お変わりないですか。

 去る建治のころ、故道善房聖人のために報恩抄二巻、書き送り差し上げたのを、嵩が森というところで読まれたことを、大いに悦んでいる。

 たとえば根が深ければ枝葉は枯れず、源に水があれば流れが涸れることがない。 火は薪がなくなれば消える。草木は大地がなければ生長することができない。

 日蓮が法華経の行者となって、善悪につけて日蓮房・日蓮房とうたわれること、この御恩はさながら故師匠道善房のおかげではないか。

 たとえば日蓮は草木のようであり、師匠の道善房は大地のようなものである。

 法華経従地涌出品で出現された『地涌の菩薩』に四人の上首がいる。

 経には「第一を『上行菩薩』と名づけ、乃至、第四を『安立行菩薩』と名づく」と説かれている。

 末法の世に上行菩薩が出られるならば安立行菩薩も出現されるはずであろう。

 稲は花を咲かせて果を実らせても、米の精は必ず大地に還る。故に一度刈り取った後に芽が出てふたたび花や果を結ぶのである。

 日蓮が法華経を弘める功徳は必ず道善房の身に帰るであろう。

 本当に貴い貴い。

 よい弟子をもてば師弟はともに成仏し、悪い弟子を養えば師弟ともに地獄に堕ちるといわれている。

 師匠と弟子の心が違えば何事も成就することはできない。

 委しくはそのうちに申し上げる。

 つねに語り合って生死を離れ、同心に霊山浄土に行ってうなずき合ってください。

 法華経の五百弟子受記品第八に「衆生に貧・瞋・癡の三毒があることを見せ、また邪見の相を現ずる。我が弟子はこのように方便をもって衆生を救済する」と説かれている。

 前々に申し上げたとおり、よく心得ていきなさい。穴賢穴賢。

       弘安元年戊寅卯月 日              日蓮花押

     浄顕房

     義浄房》



 ここでは、前述の報恩抄と同様、師匠の道善房への恩が述べられている。

さらに、三世永遠の生命観にたった、上行菩薩としての自覚、その上で、師匠の道善房を、安立行菩薩へたとへ、大自然の摂理にたとえて、

「日蓮が法華経を弘める功徳は必ず道善房の身に帰るであろう。

 本当に貴い貴い」

と、讃嘆されている。

そして、「衆生に貧・瞋・癡の三毒があることを見せ、また邪見の相を現ずる。我が弟子はこのように方便をもって衆生を救済する」姿が、まさに師の道善房であった。

さらに、

「よい弟子をもてば師弟はともに成仏し、悪い弟子を養えば師弟ともに地獄に堕ちる。師匠と弟子の心が違えば何事も成就することはできない。」

 この師弟観は、創価学会や日蓮正宗に捉われるのではなく、教団の縛りを超えて団結せよという、各々の日蓮信者に共通した、肝に銘ずべき内容である。


 このことは本稿の重要な趣旨であるので、以後のページでも、何回となく確認しながら、筆を進めていく。


なお、このページは、2021/04/29のアメブロへの投稿を、2024/02/27に改訂・更新したものです。原文のリンクは以下にあります。

 
 
 

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