ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P78, 日蓮の成仏観と瞑想(2),アニミズムとの違いは「法」への帰命
■瞑想前後での脳のSPECT画像の変化
神経学者アンドリュー・ニューバーグは、自著「脳はいかにして〈神〉を見るか――宗教体験のブレイン・サイエンス」2003/3/28、PHP研究所、P12~において、神が客観的に存在するかどうかはさておき、仏教徒逹の協力をえて、彼らの瞑想時のピークにおいて、特徴的な脳のSPECT(単一光子放射断層撮影)画像の変化を捉え、この結果などを根拠として、瞑想時の悟り・神秘体験一般について考察し、それら(神秘体験における神との合一など)が我々の普段日常のリアリティーと同じものであることを述べている。
すなわち、被験者となった仏教徒のロバートは、大学病院の実験室で瞑想を行い、自己を探る旅に出る。彼の目的は、意識を静め、内なるリアリティーに自己を溶け込ませることだ。一方、研究者たちは、彼が瞑想のピークに達した瞬間の脳の活動を測定し、宗教的な神秘体験と脳機能との関係を探る。ロバートは、深い意識が万物と結びついていると直感し、その瞬間を糸を引くことで合図する。
ロバートが瞑想のピークに達したとき、その合図により彼には放射性造影剤が注入され、別室のSPECT装置で脳の活動を測定された。結果、脳の方向定位連合野(脳の上部後方領域)で異常な活動があることを示した。
ロバートは実験前に、瞑想によって深い宗教的境地に達する時の感覚を述べていた。すなわち意識が静まってきて、不安、恐怖、欲望など、日常的な心を占めているすべての雑念を捨て去った後に、彼自身の、より深く、より単純な内なる自己が残る。これこそが、確固たるリアルな自分という存在の本質であり、個別的存在ではなく、万物と分かちがたく結ばれているという直観である。この直観はきわめて鮮烈で、素晴らしいものなのに、言葉で言おうとすると、『時間を超越し、無限がひらけてくるような感じ』だの、『自分が、存在するすべての人、すべてのものの一部になったような感じ』だのという常套句になってしまうという。
方向定位連合野は、頭蓋骨の外である世界の中での自己の位置を判断し、自己と他者を区別する役割を果たす。これは脳全体からの感覚入力や身体の感覚器官からの神経インパルスによって支えられている。この領域が損傷すると、その人の頭蓋骨の外の環境の物理的~社会的空間の把握が困難になる。しかし、正常に機能していれば、私たちは自己・自我を外界に対して明確に位置づけることができる。
簡単に詳しく説明すると、自分がどこにいるかを判断するのは、方向定位連合野という脳の部分である。ここでは、上下や角度、距離などを正しく認識して、自分を危険から守ってくれる。そのためには、自分と他のものとの境界をはっきりさせないといけない。普段我々は自分と他のものの区別は当たり前のようにできるが、それは方向定位連合野がうまく動いているからである。方向定位連合野は、身体の動きに合わせて座標を変えて、自分の位置を決める基盤を作る。この部分が傷つくと、脳は角度や奥行き、距離などを計算できなくなる。こうして物理的空間がわからなくなった人は、ベッドに寝ようとして床に落ちたり、壁にぶつかったりする。方向定位連合野が正常に動いている限り、我々は世界の中で自分の位置を自動的にはっきりと知るので、こんな失敗はない。方向定位連合野がやっていることは、刻一刻・瞬間瞬間に変化する身体の感覚からくる莫大な神経の信号を受け取って、瞬時に処理していることで、その計算は莫大であり、スーパー・コンピューターでも追いつかないほどである。
瞑想前後でロバートの脳のSPECT画像は明確に変化し、瞑想がピークに達した時には方向定位連合野の活動レベルが低下していた。すなわち、瞑想前の普通の精神状態での画像では、方向定位連合野をはじめとする脳の多くの領域がさかんに活動していたが、瞑想がピークに達した時の画像では、方向定位連合野は活動レベルが極端に低下していた。
方向定位連合野は、いかなる時も決して休息しない。瞑想のピークにあっても方向定位連合野は同様に働くが、感覚器官からの情報を遮断されて、一時的に視力を奪われるようになり、『自己と外界との境界線を見いだせない』という状態を、『自己と外界との区別は存在しない』と解釈する。その場合、脳は、自己は無限であり、すべての人、すべてのものと密接に絡み合っていると理解し、この直観は、疑問の余地のないリアルに感じる。
他の被験者についても同様な結果を得ている。
これらはまさに、ロバートが報告し、彼以前の幾世代にもわたる東洋の神秘主義者たちが語り継いできた、瞑想のピーク、スピリチュアルな高み、神秘体験と同じである。
アンドリュー・ニューバーグは、その例として、ヒンドゥー教のウパニシャッドの瞬間を
「東西に流れる川も、
海に流れ込み、それと一体になるときには、
自分たちがかつては別々の川であったことを忘れてしまう。
同様に、すべての生き物は、自分たちが別々の存在であったことを忘れるのだ。
ついに一つに溶け合うときに。」
を例に挙げたほか、さらに、フランシスコ修道会の修道女が祈り時の脳の状態を調べた結果、深い宗教的境地に達した彼女たちの脳には、前述と同じ変化が起きていたことを挙げている。
仏教徒との違いは、この瞬間を、「『触れられるほど近いところに神がおられることを感じる』、『神との合一』などと表現する。同様にこの表現は、十三世紀のフランシスコ修道会の修道女フォリーニョのアンジェラの『こんな一体感を得られるとは、なんと偉大な恩恵を授かったのでしょう』、『神はわたくしの中におられ、わたくしはいつもの自分とは違ったものになり、神と結ばれたことに平安を見出し、すべてに満足していました』という言葉などがある」(同書P19-20)ことなどを述べている。
この結果から、ニューバーグたちの研究者は、ヒトの脳には単なる病的な幻覚などではなく、リアルなスピリチュアル体験をする能力があり、物質的な自己を超越する能力があると確信した。SPECT画像は、この能力の基礎になる神経学的過程の証拠となった。
神秘体験の基礎には、このような我々の心を作る事実があって、あらゆる宗教(もちろん日蓮仏法も含む)と生物学と宗教とをつなぐ深い絆になっている。その本質に迫るには、心の土台となる情動や神経学的要素を脳が作る仕組みについて知らなければならない。
拙論文では、その大まかな説明を、前ページで行なったので、これをふまえながら論を進めたい。
人類の先祖であるネアンデルタール人あたりから、進化の過程で、この能力によって、数々の神話が生まれ、現在のヒト(ホモサピエンス)にかけて、神話を根拠とした数々の宗教、そして宗教的儀式が生まれた。厳しい状況の中で生き延びるため、それらは宗教的な儀式に限らず、現在でも行われている多くの儀式に共通して受け継がれている重要で共通の要素があることが分かった。
この神秘体験や儀式によって得られる体験の深さは、低いものから究極の高さまで、さまざまなレベルがあり、我々の社会的・文化的営みの中で浸透している。
ちなみに我々が日常生活や職場で行なわれる様々な会合や集会などで、集団である一定の同一行動をする場合、たとえば我が国では入学式で「君が代」を斉唱したり、卒業式などで「ホタルの光」の斉唱、仕事始めの朝礼、はたまた、早朝のラジオ体操、野球やサッカーの試合、ミュージシャンのコンサートなどに至るまで、すべてこの儀式に相当すると考えられ、宗教の教祖が得るような神秘体験ほどではないにせよ、様々なレベルの一体感・合一体験・帰属体験が営まれているのである。
これらの儀式には元々文化的な意味や目的が明確であり、その意義づけによる効果もあるが、それだけでは説明が不十分である。やはり、その根底には、神経学的な共鳴などがあって、限界のある自己を乗り越え、成長するのに役立っているのである。
その神経生物学的な特徴として、ニューバーグの述べるように、一つは自分より大きなリアリティと一体となること(すなわちこれは、アニミズム)であり、もう一つは各種の快い感情を、さまざまな強度で得ることである。
■ 求心路遮断の効果
我々は、聖人や賢者が言う神秘的な超越体験は分かりにくい。それは、不思議で、ありえないようで、我々の現実と違っているからだ。しかし神秘体験の本質は、そんなに我々の生活と離れてはいない。むしろ、神秘体験を理解するには、それが、誰でも、いつでも起こせることだと知ることが大事である。
我々ヒトは、自分を超えることができる、生まれつきの神秘家ともいえる。美しい音楽に夢中になったり、愛国的な演説に感動することは、それなりのレベルの「神秘的合一」(ニューバーグが定義した)を味わうことである。これらはレベルは低いがとても意味のある経験である。恋をしたり、自然の美しさに感動することによっても、自分が消えて、もっと大きな存在の一部になったと感じるような、すごい瞬間を経験することもある。
我々の感じたり、経験したりすることは、全部、脳の仕組みによる。もちろん、神秘的合一体験もそうだ。
神秘的合一体験を作る脳の仕組みとして、脳の方向定位連合野が受ける求心路遮断がある。自分の感覚を作って、空間に置く方向定位連合野に情報が入らなくなると、自分と他のものの区別がぼやける。神秘的合一のときに、自分よりも大きな現実にのまれたように感じるのは、そのせいである。
■神秘的合一体験のメリット
神秘的合一体験は、どのようなメリットがあるのか? それは、人間の心や精神にとって、非常に価値のあることだ。 神秘的合一体験のメリットとして、以下のようなことが挙げられる。
神秘的合一体験は、自分の本質や存在の意味を知ることができる。 神秘的合一体験では、自己と絶対者との境界が消えて、自分がより大きな存在の一部であることを感じる。
これは、自分のアイデンティティや価値観を見直す機会になる。
そして、自分の感情や思考をコントロールする力を高めることができる。自分の心が静かになり、普段の悩みや苦しみから解放される。つまり自分の内面に平和や喜びをもたらし、ストレスや不安を減らす効果がある。
また、自分の創造性や想像力を刺激することができる。自分の感覚や知覚が拡大され、新しい視点やインスピレーションを得ることができる。 これは、自分の表現力や芸術性を向上させる助けになる。
その結果として、自分の人間関係や社会性を改善する。 自分と他者とのつながりや共感を深めることができる。 自分の寛容さや優しさを増やし、対人関係やコミュニケーションのスキルを高める効果があるのだ。
以上のように、神秘的合一体験は、人間の心や精神にとって、非常に価値のあることである。
神秘的合一体験をするためには、瞑想や祈りなどの宗教的な方法だけでなく、音楽や芸術などの創造的な方法がある。
その方法として、以下のようなものがある。
①瞑想や祈り:これらは、自分の心を静めて、絶対者に集中することで、神秘的合一体験を誘発することができる。 瞑想や祈りには、さまざまな種類や方法があるが、共通するのは、自分の呼吸や感覚に注意を向けて、自己の意識を高めることだ。 瞑想や祈りによって、自分の感覚や知覚が拡大され、絶対者とのつながりや共感を深めることができる。
宗教的な修行法では、スーフィズムの修行法がある。これは、イスラム教の神秘主義の一派であるスーフィズムが行う、神秘的合一体験を目指す修行法である。 スーフィズムの修行法には、懺悔、律法遵守、隠遁、清貧、心との戦い、神への絶対的信頼などの六つの階梯がある。 これらの階梯を昇り終えると、神との合一を体験することができる。 スーフィズムの修行法は、自分の欲望や自我を捨て去り、神の意志に従うことで、神秘的合一体験を可能にする。
②音楽や芸術:これらは、自分の感情や想像力を刺激することで、神秘的合一体験をもたらすことができる。 音楽や芸術には、絶対者の美しさや創造力が表現されており、それに触れることで、自分も絶対者の一部であることを感じることができる。 音楽や芸術に夢中になると、自分の心が静かになり、普段の悩みや苦しみから解放されるものである。
日常、普通のことでも、以下のような創造的なものもある。
例えば、あなたは今、仕事から帰ってきて、疲れている。さあ、お風呂に入いろう。あなたはキャンドルを灯して、ラジオをつけて、ワインを飲んで、バスタブに入る。
あなたはこのとき、知らないうちに、儀式のような雰囲気を作っている。寺院や教会のように、キャンドルやワインやお風呂が、特別な感じを出している。すると脳は何かすごいことが起こると期待する。
ラジオからの、ゆっくりしたリズムややさしいメロディは、脳を落ち着かせ、脳の情報が減る。方向定位連合野は情報が少なくなると、自分と他のものの区別がぼやける。あなたは少しの一体感を感じて、心が静かになる。あなたがもっとリラックスすると、脳の情報がもっと減り、方向定位連合野ではもっと情報が少なくなって、自分と他のものの区別がなくなる。つまりあなたは強い一体感を感じて、音楽にのまれこまれる。
このように、条件さえあえば、音楽を聴くという普通のことでも、人は意識が変わって、自分を超えることができる。
儀式で感じる神秘的合一と似たこの効果は、音楽のほかにも、普通にやるリズムのあることで起こる。詩を読んだり、赤ん坊を寝かせたりするようなやさしいこと、長距離走やサッカー観戦などの激しいことなどが当てはまる。また、愛し合う二人が手をつなぎ、抱き合い、キスからセックスに至るまで、多大に感じる一体感のレベルが上がってくる。これらは、違いはあるが、基本的には同じような脳の仕組みによるものである。
自分と神との一体感を感じるとき、脳の方向定位連合野に入る情報が少なくなる。情報が少なくなるほど、一体感が強くなる。情報が全く入らないと、一体感は最高になる。これを『合一体験のスペクトル』と呼ぶ。このスペクトルは、神秘家の深い神秘体験から、普通の人の小さな意識の変化まで、連続して繋がっている。神経学的には、両者の違いは、情報の量の違いだけだ。
スペクトルの中でよくあるのは、普段の生活のときの心の状態である。我々は、普段、食事や仕事や人付き合いをするが、自分と周りの世界は別のものとして感じるが、合一体験のレベルが上がると、自分と周りの世界の区別がぼやける。我々が絵画や音楽や散歩に夢中になる時や、集中したり、恋したりするときには、少しの一体感を感じる。
宗教儀式で感じる神秘的な一体感も、普通の一体感と同じスペクトルにある。そのレベルは、方向定位連合野に入る情報の少なさによって決まる。礼拝で感じる霊感や一体感は、低いレベルの一体感で、畏怖や恍惚を感じると、レベルが高くなる。長くて激しい儀式で感じるトランス状態やエクスタシーは、もっと高いレベルの一体感である。スペクトルの一番端にあるのは、神秘家が感じる、長い神秘的合一である。
身体運動を使った宗教儀式では、このレベルの合一状態にはなかなかなれない。長くて激しい儀式を続けると、体力がもたないから。神秘家は昔から、このことを知り、疲れにくい『心』を使って、神との深い合一をする方法を取得した。それが、様々な瞑想法である。
その方法は、様々な種類や機能があり、心に集中する方法もあれば、心を空にする方法もある。それらが混じった方法もある。どんな瞑想でも目的はほぼ同じで、心を静かにして、自分の限界をなくすことである。
日蓮仏法においてもこの生物学的システムが、日蓮でも言うところの「観心とは我が己心を観じて十法界を見る」(観心本尊抄)であって、それが困難な末法の万人に対して日蓮が進めた方法が「受持即観心」となっているのである。
■日蓮の「受動的瞑想」
日蓮は、1222年2月12日に出生し幼少時から清澄寺に入り、日本第一の智者になるべく虚空蔵菩薩に請願をたて、道善房を師匠として修行、その後も全国の寺を遊学しながら当時の最高の学問である仏教を修学する過程において、何度も何度も法華経の自我偈を読誦したに違いない。日本で一番頭の良い人を目指した日蓮は、学問の最高峰と言われていた比叡山延暦寺でも学んでおり、当時日本に伝来していた一切経の仏典のほか、ほとんどの歴史書・文学書に触れていたに違いない。日蓮の遺文(御書)には、それらがふんだんに使われ、様々な仏法の教えの中に組み込まれているのが見えるからである。
当時は天変地変・飢饉疫癘・武士の台頭などがあって世の中が騒然としていて末法思想がはびこっていた。民衆の苦悩は筆舌に尽くし難いものであった。諸行無常のなげきは平家物語など、当時の文学でも明らかで、法然の念仏や、真言宗などが民衆の間に闇雲に広まっていた。(当時の世情は「立正安国論の冒頭に、如実に述べられている。コメント1)
なので、人生の幸福・究極の目的は成仏の境涯に達することであった。仏とは、成仏するとは、いったい何なのか。
日蓮の究極の問い・究極の目的についての答が法華経、特に自我偈の中に、このように端的に顕されていた。
「衆生既信伏:すでに、衆生が信じ伏し、
質直意柔軟:正直に素直に、ありのままの心で
一心欲見仏:一心に仏を仰ぎみようと、
不自惜身命:自らの命さえ惜しまないで懸命になっていること、
時我及衆僧:そのときこそ、私(註、仏)及び私の教団が、
倶出霊鷲山:そろって、今いるここ、霊鷲山に出現するのである。
我時語衆生:私は、その時に、衆生に語る。
常在此不滅:実は、常にここに存在していて、消滅することは無い。
以方便力故:私は私の方便の力を使って、あえて、
現有滅不滅:消滅と出現を繰り返す姿を演じているのである。
つまり、「一心欲見仏・不自惜身命(一心に仏を仰ぎみようと、自らの命さえ惜しまないで懸命になっていること)」を、瞑想により詰めていくと、
「時我及衆僧・倶出霊鷲山」――そのときこそ、仏及び仏の集団が、その人の心及び環境に出現する――と悟ったのであろう。
仏とは人間としての完成(慈悲・智慧や勇気などを駆使して布施行、自分を制御して利他の実践を行なう)をも意味している。
命を捨ててまで、その仏(完成)の姿を目指している、まさにその行動・一念こそが、仏(完成)なのである。すなわち成仏の姿・実体である。
不自惜身命の中には、当然ながら自己の現世利益は放棄され、自己と他人との境界が取り払われて、自他が同一となった感覚となる。自他が同一となった感覚は、自分と環境、目の前の他人から社会、ひいてはすべての宇宙空間との一体感を生み出す。さらに時間・空間の感覚がなくなった、すなわち時空を超越した感覚――永遠の時間・空間が全て見渡せる感覚――も伴うので、仏法で言うところの自他共に完成を目指す究極の慈悲・智慧が、環境世界・全宇宙に存在する情報の中から利用可能となるのであろう。そして他人のための行動は同時に自分のための行動、自分のための行動は同時に他人のための行動となる。すなわち利他の行動・他人や環境への幸福を目指す志向が無限に生まれてくる。
この瞑想を、アンドリュー・ニューバーグの理論に基づいて脳神経学的に分析すると、こうなる。
日蓮も同様、仏教徒の瞑想は、すべての知覚・思考・感情を心から消滅させるものが多く、ニューバーグは『受動的瞑想』と定義する。感覚・認知に関わる情報を瞑想者が自ら防ぐとき、まず右脳の意志・感情を担当する注意連合野が命令の神経インパルスを出す。それは視床を経由して海馬に届き、情報の流れを抑制させる。海馬は大脳辺縁系にある脳の情報交換センターであり、ここが情報の流れを抑制すると、方向定位連合野にも情報が遮断され、求心路遮断状態となる。
日蓮の瞑想が続くと、方向定位連合野へ情報が遮断され続るので、そこへ行くべき神経インパルスがあふれて、大脳辺縁系の視床下部に流れ込む。視床下部は、脳の高次の活動や自律神経の抑制系と興奮系の両方を支配・調節している領域である。さらにここは慈愛ホルモンといわれるオキシトシンや、エンドルフィンなどの脳内麻薬の分泌にも関与している。ここに流れ込んだ神経インパルスが抑制系を支配する部位を刺激すると、強引に心を静める感覚を作り出す。この新作成の強い抑制系インパルスが、大脳辺縁系経由で注意連合野に伝わり、注意連合野は再び海馬に命令して、情報の流れを抑制させる。
こうして、日蓮の脳内では抑制ループが成立する。神経インパルスがこのループをくり返すことで抑制が強まり、瞑想が深くなる。他方で、雑念を払おうとする日蓮の努力は続き、新皮質を中心とした脳全体の認知・思考・記憶等を進める神経インパルスが全体的に抑制され、方向定位連合野への情報を更に止めにかかる。結果として、方向定位連合野の求心路遮断は強まり、大脳辺縁系から視床下部に至る神経インパルスが更に増え、ついに視床下部の抑制機能が限界に達する。
通常なら、抑制系が異常に高まると、神経学的な『決壊』が起きて、興奮系まで一緒に活性化してしまう。このとき、瞑想者の心は、同時に押し寄せる抑制反応と興奮反応に圧倒され、視床下部で激しい神経活動が生じる。まさに視床下部からは幸せホルモン・慈愛のホルモンのオキシトシンが、またドパミンやエンドルフィンといった脳内麻薬が十分に分泌され、他への慈愛や多幸感を無限に感じさせながら、そのインパルスが大脳辺縁系を貫いて注意連合野に達した途端、注意連合野の活動は最高レベルに引き上げられ、わずか数ミリ秒のうちに、方向定位連合野の求心路遮断は完全になる。
右半球の方向定位連合野は、人間が物理的空間として経験する神経学的な基礎を構築し、自己を位置づけるための空間的背景を瞬間瞬間における感覚入力に頼って創造しているので、感覚入力を完全に奪われた状態で機能することを強いられると、「絶対的な無限という感覚」を生成し、心はこれを、「無限に広がる空間と永遠に続く時間、あるいは、時間も空間もない空虚」として解釈する。他方、左脳の方向定位連合野は、五感による自己の身体の境界を見つけられなくなって、心が知覚する自己は際限がなくなり無限の自己となる。それどころか、自己の感覚というもの自体がなくなってしまうのだ。
ニューバーグはいう。
「方向定位連合野の求心路遮断が完全になった状態で脳が知覚する神経学的なリアリティーは、神秘家たちが究極の合一について語っている内容と整合性がある。すなわち、万物は隔てなく一つであり、空間の感覚も、時間の感覚もない。自己とそれ以外の世界に境界はない。そもそも、主観的な自己というものがなく、絶対的な合一の感覚だけがある。思想もなく、言葉もなく、感覚もない。心に自我はなく、純粋な、未分化の気づきとして存在している。」
「東洋の伝統的な神秘主義では、この合一体験は、『虚心』『涅槃』『梵我一如』『道』などの名前で呼ばれていて、いずれも名づけ得ぬリアルなものの本質であるとされている。ジーンとわたしは、この純粋な心の状態、主観と客観を超越した気づきの状態のことを、『絶対的一者』と名づけた。神経学の観点からこの言葉を定義するなら、『伝統的な受動的瞑想法にしたがって意識を静めるときに見られる一連の神経学的過程の結果』である。」
日本一の智者を目指し、真理を求め万民救済を目的に生涯を捧げてきた日蓮は、この『絶対的一者』という気づきに達し、究極の法悦を得ながら、縁覚界を行き来し、第八識(阿頼耶識、ニューサイエンスでいえば、アカシック・フィールド、ゼロ・ポイント・フィールドなど)に存在する自己や他者・宇宙に関する無限・永遠の情報を参照し、無限・永遠に貫く生命法則を覚知したに違いない。 日蓮はこの瞑想を何度も繰り返しながら、その覚知した法則に、自らの注意連合野に記憶されている、自らの研究成果である、当時の学問・一切経の最高峰と考えていた妙法蓮華経の名前を冠した。
釈迦が悟った真実――最初は諸行無常・諸法無我、また生滅滅已・寂滅為楽と説いた真実、そして天台が観念観法によって到達した真実の法、ようやく自らも法華経の予言通り到達したのだ。それも、末法において新たな万人救済を説く仏法の出現という法華経の予言通り、しかも今は末法なのだ!
日蓮は、このように神経学的に説明できる瞑想によって得られる、当時の誰よりもはるかに超える慈悲・歓喜・達成感を得ていたに違いない。
日蓮はこのように、「一心欲見仏・不自惜身命」を自らの成仏観としたが、それだけでなく、自我偈における仏(完成)の姿として、「私は私の方便の力を使って、あえて、消滅と出現を繰り返す姿を演じているのである」とあるのが、永遠の生命輪廻転生をくり返すことを方便に譬えているだけでなく、日常生活の境涯にも例えている。
その一例でもあり総括でもあるが、仏の姿が自我偈の終了部分に、このように描かれている。
毎自作是念:常に自らこのように念じている。
以何令衆生:どのようにして衆生を、
得入無上道:無上道に入りさせ
速成就仏身:速やかに仏の悟りを成就させようかと。
加えて言えば、この結論の前には、冒頭から仏の生命(結局は凡夫も含む)は永遠であること、仏といえども生死をくり返す永遠の生命であること、凡夫はこれを知らないで常に苦悩の深海で喘ぎ苦しんでいるが、これを知った仏の世界では無限の幸福境涯が続いていることが具体的に一例として示されていること、そしてその仏の境涯には遭遇し難いことなどが、美しい詩の形式でリズミカルに語られている。
つまりは自我偈、および法華経は一念三千の法理の究極のメタファーとなっているのである。
自我偈の含まれる法華経寿量品の解説は、ネット上でも多く見られるが、一例として拙記事にも挙げておいたので、ご参照願いたい。↓
妙法蓮華経如来寿量品第十六、ほー法華経ぅ~究極の生命尊厳の法と修行法(法華経 現代語訳)https://ameblo.jp/raketto-chan/entry-12239622295.html?frm=theme
この瞑想時の日蓮の心は、どのようにして衆生を無上道に入りさせ速やかに仏の悟りを成就させようかとの、慈悲の思いが湧きたっている状態であり、日蓮の脳内を神経学的にみると、先述した通り、視床下部から幸せホルモンとか慈愛のホルモンとかいわれるオキシトシンが十分に分泌されている。同時に、瞑想の努力により、頭頂葉の後方に位置する方向定位連合野への完全な求心路遮断が成立し、自己と他人~全宇宙空間との境と時空の感覚が消滅して、前頭葉の注意連合野からの感覚も動員されて、永遠の生命・時空の超越・完全なる一元愛・無条件の愛などともいわれる永遠・無限なる時空の一体感覚の動画が再生されているのである。
これを現代科学においての脳神経学的なシステムに基づいて述べたが、立宗宣言前の日蓮は、そしてその後の日蓮も、法=法華経への信仰を、この自我偈を何度も何度も瞑想してこの生命状態に達し、自分自身を生涯にわたってアップデートしていたことが、日蓮の遺文からもうかがわれるのである。
そして、先述した「以何令衆生・得入無上道・速成就仏身」の答えとして、法への合一、すなわち南無妙法蓮華経の唱題という方法で、衆生を自身の瞑想で到達した境涯へ導こうとしたのである。
■受動的瞑想から生まれた教祖たちやアニミズム
瞑想にも様々な雑念が混じった六道の状態から究極の『絶対的一者』の状態にわたるまで様々なレベルが存在する。
『絶対的一者』から縁覚界に戻る、すなわち方向定位連合野の活動レベルがわずかに立ち上がった瞬間に、注意連合野からの最も関心のある情報が入って来る。例えばイエス・キリストやムハンマド・アラーは神・創造主を、また釈迦は涅槃から「諸法無我」等の「法」を見たのだろう。
日蓮が覚知したのは、釈迦と同じく「法」、すなわち、自己の心(己心)を通じて環境・大自然や宇宙(十法界)を観た「法即」である(観心本尊抄に詳しい)。
これに対して他の神秘家や開祖の覚知した絶対者――すなわち、魂、凡、またニューサイエンスでいえば宇宙意識、潜在意識、真我などと称されるもの――とは根本的に異なっていることに注意する必要がある。
ちなみに今、例をあげた絶対者および絶対者的なものはすべて原始から存在する魂「アニマ」に相当する。それを崇拝するのがアニミズムである。
C.G.ユングの自著「自我と無意識」によると、アニマ(ラテン語)は女性名詞であり、万物を包み込む・生み出すという意味合いが含まれていて、人間の表在意識としても語源的にも女性的な意味をもつ。
ここではユングは魂・アニマを不死性と関連づけて述べているが、私もそう考える。
すなわち、魂(アニマ)が不死なのは、宗教的には、魂が人格を持ち、死後も存在し続けるという信仰でしかない。科学的には、魂が自分の意志や感情を持ち、自分の行動や選択に責任を持つという概念を心理的に表現するものでしかない。
つまるところ、死者は死について語ることは不可能で、当然に死について語れるものは常に生者であり、
「魂コンプレックスの自律性は当然ながら、われわれとはちがった世界に生きている眼に見えない人格的存在者という表象につながってくる。そこで魂の活動が、一見、われわれの死すべき身体性とは無縁の自立的存在者の活動として感じられる以上、この存在者はさしずめ眼にみえぬものの世界に、それ自体として存在しているのだろうという考えが、生じやすい。」
だから、こうしてアニミズムが発生するのだろう。
それは、魂が過去の生の記憶や経験を持ち、未来の生の可能性や予感を持つという歴史的性格に由来するかもしれない。
また、魂は、死後においても過去と未来の生の連続性を内的感情に与えることで、自分の存在意義や目的を探求する。
ちなみに西洋人は「不死性を、感情に(また伝統に)従って、魂という、程度の差はあれ普通おのれの自我とは区別され、その女性的性質によって自我一般とも異なるものに帰する」が、「そもそも外的で物質的なものを平生過大評価しているためであり、その目的は、当然補償と自己調節にある」。
東洋的精神では「不死性は魂(アニマ)というあいまいなものにではなく、自己に帰せられることになる」。これは仏教での「無我」などの悟りにあたる。
そして、
「根本的には単に、女性的なものの元型にまつわるばかりでなく、およそすべての元型に、つまり、精神的なものであれ身体的なものであれすべての遺伝素子に、付着している…中略…数十万年来というもの、人間に固有な生理的・心理的過程は、少しも変わらずに今も持続していて、生あるものの『永遠の』連続性に対する、深い予感を、内的感情に与えるからである…自己は、すべての生きられた生の沈殿や総和であるばかりでなく、出発点でもあり、すべての未来の生をはらんだ母胎でもあって、未来の予感は、過去の様相とまったく同じように、内的感情に、はっきりと与えられている。こうした心理的基盤から、不死という観念は正当にも現われたのである。」(C.G.ユング著「自我と無意識」1995/2/24、第三文明社レグルス文庫、P122-124)
と述べている。
つまりは、アニミズムは、人類発生以来から存在する「女性的」な遺伝素子であり、すなわち胎児にとっての母胎のように、揺るぎない絶対者に抱き込まれたいという願望から出た内的感情の現れなのである。(コメント2)
そして、受動的瞑想によって得られた人格神や創造主、宇宙意識などは、すべてアニミズムの範疇になる。
しかしながら、それがアニミズムであれ、無我であれ、法則であっても、人間の脳内で発生している神経学的な事象は同じであるから、無限の慈悲や智慧、恍惚感・多幸感などは同様なのである。
ちなみに多幸感を生み出す脳内伝達物質や慈愛のホルモンであるオキシトシンについては、多くの研究者によってすでに報告されている。例えば、
ウィスコンシン医科大学教授の高橋徳は自著「人のために祈ると超健康になる」(2018/2/20、マキノ出版、P97-98)で、この研究を取りあげ、こうも述べている。
すなわち瞑想によって、視床下部で分泌されたオキシトシンが方向定位連合野の活動レベルを低下させ、自己と他者の境界が不分明になると同時に、脳の『中脳水道周囲灰白質』という部分にも作用して、脳内麻薬といわれるオピオイドを分泌させ、ドーパミンの遊離を促進して、疼痛の現象や多幸感をもたらすのである。
似た例ではマラソン選手の「ランナーズハイ」、岩登りのときの「クライマーズハイ」、看護師の「ナーシングハイ」などがあり、その究極的な多幸感・達成感も、極限状況において分泌される脳内麻薬やオキシトシンによるものとされている。(コメント3)
■日蓮の「能動的瞑想」
日蓮の瞑想は、これだけに留まらない。
この『絶対的一者』に到達するには雑念を排除する困難な修行が必要で、万人には実践困難である。これでは万人救済はおぼつかない。それではどう導くか。
そこで、ニューバーグが定義する一段落低い次元の「能動的瞑想」によって、先述した「神秘的合一」へ衆生を導く方法を、日蓮は立宗宣言前に定義した。
それは以前から大乗仏教で受け継がれてきた方法であったが、特定の思想や対象に心を集中させることで始める瞑想である。
つまり日蓮は、時代のアニミズムを上手に利用したのである。
日蓮の場合、妙法蓮華経という法に帰命するという意味の「南無妙法蓮華経」を唱えながら心を集中する方法――つまり唱題である。心を集中させ帰命するには信心が絶対に必要である。これには法の実体を知る知らないは瞑想自体には基本的に関係がない。だから以信代慧となるのもうなずける。日蓮信者が普段行っている唱題行には、何よりも「信」が強調されるのはこのことである。
この能動的瞑想は、脳神経学的に考察するとこうなる。
日蓮は当然であるが、日蓮信者の幾分かは現世利益は心中になく、日蓮の成仏観に沿って一心に仏を見ようと欲して自ら身命を惜しまない一念で唱題している。
その「南無妙法蓮華経」を唱えながら心を集中していくと、注意連合野が祈りの意図を神経学的な活動に翻訳し促進する。 この大量になった情報が、視覚連合野と結ばれた右脳の方向定位連合野に作用して、「南無妙法蓮華経」のイメージ(曼荼羅があればその曼荼羅)を心に固定させる。続いて雑念のない唱題が繰り返されイメージの固定が続くと、右脳の注意連合野から神経インパルスが発生し、大脳辺縁系を経由して視床下部の興奮系を支配する部位を刺激して、穏やかで心地のよい興奮状態になる。
次第に一心の唱題が深まるにつれ、視床下部に流入する神経インパルスは強さを増し、やがて、視床下部の興奮機能が限界に達する。ここで神経学的な『決壊』が起きて、抑制系まで最高レベルで活動しはじめる。興奮と抑制の両方の機能が同時に活性化した視床下部では、激しい神経活動が生じ、幸せホルモンのオキシトシンやその他の脳内麻薬が十分に分泌されている。その刺激は、大脳辺縁系を経由して両半球の注意連合野に到達する。その結果、注意連合野の活動は最大レベルに引き上げられ、雑念が排除された南無妙法蓮華経のイメージへの集中が強まり、両半球の方向定位連合野に重大な影響を及ぼす。
まず、左脳の方向定位連合野では、受動的瞑想と同じ過程、すなわち、海馬が情報の流れを制限する結果、方向定位連合野は求心路遮断を受けて、自己の感覚があいまい・無限になる。
他方、右脳の方向定位連合野は、今や最大レベルに達している注意連合野の活動によって、いっそう強く南無妙法蓮華経のイメージに集中させられる。注意連合野は、唱題に由来しないすべての情報を、右脳の方向定位連合野から奪ってしまう。これには現世利益などの雑念も当然ながら取払われてしまう。
方向定位連合野は、それでもなお、自己を位置づけるための空間的な基礎を構築しようと働くが、利用できる情報は注意連合野から流れ込んでくる南無妙法蓮華経のイメージしかないので、そこから空間のリアリティーを作り出す以外に選択肢はない。このプロセスが進み、南無妙法蓮華経に無関係なすべての情報が失われ、心が集中を増すにつれ、このループをくり返す中で南無妙法蓮華経のイメージのみが更に『拡大』し、心はついに、南無妙法蓮華経がリアリティーのすべてであると感じるようになる。
こうした変化が右脳の方向定位連合野で起きている間、左脳の方向定位連合野の求心路遮断もまた進んでいて、自己の境界の認識をますますあいまい・無限にする。そしてついに完全な求心路遮断によって自己の感覚がなくなった時、心は、自己が南無妙法蓮華経という法則の永遠・無限のリアリティーに吸収されてしまい、その法則が織りなす客観的環境・宇宙、すなわち九識心王真如の都と称する「仏界」に自己が溶け込んでいくという驚くべき神秘体験をすることになる。これがアニミズムではない「境智冥合」の感覚、いわゆる信仰の醍醐味なのだろう。
こうして、一心に仏を見ようと欲して自ら身命を惜しまない一念で唱題した者も、真理を求め万民救済を目的に生涯を捧げてきた日蓮と同じく、この境涯で第八識(阿頼耶識、ニューサイエンスでいえば、アカシック・フィールドなど)に存在する自己や他者・宇宙に関する無限・永遠の情報を参照し、無限・永遠に貫く生命法則を覚知できることになるのであろう。十界論で言えばいずれも人界から移行した縁覚界・菩薩界の仏界である。
日蓮は、万人救済のための方法として、現世利益や様々な終着などが原因となって起こる雑念を排除し、心を法に集中させると、当時の学問のない民衆、すなわち読み書きができないどんな人でもやがてこの境地に達することができると、第八識の情報から覚知したに違いない。
当時、日蓮の定義した法は南無妙法蓮華経であったが、この場合、脳神経学的には、法の定義の如何や内容は一切関係がない。ただ決定的に必要なのは、容易な方法であっても瞑想の完結をめざす一念の集中であろう。その上、絶対者の設定と違って法則なら永久にアップデートする余地がある。その意味では、どのような境涯であろうとも一心欲見仏・不自惜身命の一念による行動そのものを仏界としたのも含めて、他の宗教とは一線を画する画期的な教理といえる。
ニューバーグはこの一連の神秘体験を『神秘的合一』と名付け、人格神を知覚する神秘体験はすべて、同様に説明できるとしたが、これは一神教・多神教・仏教における阿弥陀如来などの様々な迹仏についても、同様にその脳内発生のシステムとして成り立っている。
脳科学者である中野信子は自著「脳科学からみた祈り」(2011/12/20、潮出版、P75)において、この研究成果を取りあげ、「この直観は極めて鮮烈で、たとえようもなくすばらしいものだ、という感想も。このような感覚に比べれば、恋愛の幸福感や、美味しいものによる幸福感も、きっと色あせて見えてしまう…信仰が深く生活に根ざし、祈りが日々の暮らしに息づいている人にとっては、これは深い実感をともなったリアルな『幸福』の感覚です。そして、この感覚は、明日への無限の希望をもたらす、新たな幸福の源泉であるともいえる…」
と述べている。
読経・勤行においてのオキシトシンの効果については、高橋徳が自著「永遠の命を手に入れる方法」で、このように述べている。すなわち、経典は、その意義を理解・実践・記憶・流布する目的だったが、大乗仏教では読むこと自体が善業を積む実践となり、寺院や自宅の仏壇の前で行う読誦・礼拝の儀式となった。多くの僧侶が線香をたき、鐘や太鼓等を使い、声をそろえて読経する。この心地のよい音楽や祈祷の声を聞くと、オキシトシン分泌を促し、祈りによる心理的なオキシトシン刺激効果(トップダウン効果)に聴覚刺激によるオキシトシン刺激効果(ボトムアップ効果)が加わり、相乘効果がもたらされるという。(コメント4)
ここでの注意点は、『神秘的合一』は深遠な境地であるが、さらに究極の超越状態である『絶対的一者』とは異なる。絶対的一者の境地においては、自己の感覚や、神などの固有のイメージ、そのリアリティーもない状態、いわば完全な無我・心における化身滅已・寂滅なのだ。たとえば釈迦が悟ったところの「諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽」という法則と目標なのだ。
もっとも、能動的瞑想によって神秘的合一の状態まで到達できた唱題者なら、さらに先の、絶対的一者にも到達できることがある。疲労や低酸素血症、突然の迷走神経反射など何らかの原因で、注意連合野の意志の入力がとれたら到達できる。(だから臨死体験として報告されている内容も類似・共通部分も少なからずあるようだ。)この時は既に、左脳の方向定位連合野を完全な求心路遮断状態にし、右脳の方向定位連合野へも、南無妙法蓮華経以外の入力はすべて遮断状態にした注意連合野だが、この唯一の入力まで無くなってしまうのだ。こうして、両半球の方向定位連合野が完全な求心路遮断状態になった時、唱題者の心は、受動的瞑想によって到達するのと同様の、自己の感覚なき無限のリアリティー、すなわち、絶対的一者、無我・南無妙法蓮華経法則自体のリアリティー(すなわち成仏)に入ることになる。
ニューバーグはこう述べる。
「たしかに、カトリックの尼僧が『イエスとの交わり』と呼ぶものと、仏教徒が『空』と呼ぶものとが同一の体験であるとは考えにくいが、それでもこれらは同じものだ。なぜなら、神経学的にも哲学的にも、絶対的な合一の状態に一つ以上の種類があるはずがないからだ。ただ、神秘体験の瞬間を後になって思い返すとき、イエスこそは絶対的なリアリティーであると信じるカトリックの尼僧と、人格神を奉じていない仏教徒とでは、おのずと解釈が違ってしまうのだ。絶対的一者についての報告が事後的な解釈の影響を受けてしまうのは仕方がない。絶対的一者の状態では観察の主体も客体もないため、その場で観察することは不可能であるからだ。」(同書P183)
日蓮の南無妙法蓮華経も同様である。
ただ、科学者として注意すべき点は、瞑想者や唱題者が到達して得たこれらの素晴らしい歓喜に満ちたリアリティーが、客観的に存在するかどうか、つまりはこれらの体験による「悟り」や「法則」が、客観的に真実であるかどうかの評価は、こういった脳神経学的なシステムによる説明だけでは不可能である。
ここで紹介した脳神経学的システムが提供する真実は、あくまで我々人類は誰でも万人が、これらの素晴らしき『絶対的一者』『神秘的合一』に到達できる生物学的システムを、人類発生以来から持ち受け継いできているという客観的事実なのである。
ここで、普段、日蓮信者(創価学会員も含む)の唱題の中身を自省してみよう。現世利益の雑念がないか、化他の実践を祈っているか、自分たちの周りだけでなく、毎日ニュースで報じられている様々な残虐・無惨・理不尽で不幸な問題に対しての解決、世界中の幸福(戦争地域の終結と平和、紛争地域の解決と人道支援、災害地域への回復祈願など)や、地球温暖化問題の解決・地球環境自体の成仏を祈っているかどうか…
そうであれはすばらしいことであるが、逆に「仏法は勝負」とのフレーズで、生活全般や組織活動などの狭い範囲に限定されたすべてのことに「勝つ」ことのみを祈り、敗者の幸福も含めた他者の幸福実現が念頭にない祈りや、組織利益・自分勝手な利益や権益・現世利益に包まれ、その実現・成就のみの祈りにとらわれた唱題は、上述の成仏の境涯すなわち神秘的合一には程遠い状態であろう。
すなわちこの場合に生物学的には、視床下部からは慈愛のオキシトシンではなく、直接に交感神経と副腎髄質を刺激して脳内や血中に闘争ホルモンであるアドレナリン・ノルアドレナリンがふんだんに分泌され、他方ではCRF(副腎皮質刺激ホルモン放出因子)が放出され、これは脳下垂体からACTH(副腎皮質刺激ホルモン)を分泌させて、これが副腎皮質に働いてストレスホルモンとも言われるコルチゾール(副腎皮質ステロイド、)を放出させ、体中の血糖値をあげて免疫力を抑制し、外的と戦う体制をととのえる。つまり他者に対しての闘争か逃走かという二者選択の呪いの唱題行となっていることは想像に難くない。これらは唱題という行いであっても、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣の境涯が織りなす呪い行である。なぜなら、だれかの勝利を念ずることは対する敗者の不幸を念ずることであり、誰かの利益を祈ることは相対的にそれによるだれかの損失を祈ること(つまり「呪い」)になる。アドレナリン・ノルアドレナリン・コルチゾールは、ストレスホルモンと呼ばれ、一時的な競争に勝ち残るためのものであり、長期間暴露され続けると体の防御システム・免疫システムに狂いや害を及ぼし、様々な生活習慣病や癌・うつ病等の様々な精神疾患の発生と、それらの継続や進展へと向かう可能性が指摘されている。社会的な観点からは資本主義のシステムの欠陥のひとつである。世の中は複雑なシステムではあるが、すべては相対的であるため、それにこだわった社会である限り、このような単純な因子として考えることができるからである。
この呪いの脳神経学的システムも説明可能ではあるが、拙論文の趣旨ではないので割愛する。
日蓮は、法華経の行者の祈りは叶わないことはないと豪語しているが、そもそも法華経の行者の祈りとは、他者の幸福を祈ること、万民を成仏へ導く祈りである。けっして自分勝手な現世利益の成就についてまで叶うと言っているのではないことには注意が必要であろう。「人を呪えば穴二つ」となるような祈りにまで叶えてもらえると思いこむのは虫が良すぎるというべきである。
再度述べるが、日蓮の提唱した南無妙法蓮華経の唱題による祈りは、唱題という手法を用いているので、ニューバーグによると、「能動的瞑想」であり、唱題によって到達できるレベルは「神秘的合一」というレベルで、すなわち日蓮の十界互具で言えば未完成な人界の仏界である。
当然に「信」を前提としたものであり、「以信代慧」であり、その「神秘的合一」のレベルはピンからキリまである。だから日蓮自身も「ただしご信心によるべし」と、はっきり断じている。
これを仏界の境涯として救済とし、これを広宣流布すれば万民救済につながるとのメタファーを、弟子檀那に指導していた。
これに対して、日蓮が、また釈迦や天台が到達した瞑想は唱題などの手法を使わない「受動的瞑想」といわれ、その到達点レベルは「絶対的一者」といわれる、時空・自他を超越した、先述のレベルなのである。
もちろん、能動的瞑想の到達点「神秘的合一」から受動的瞑想へ入り、「絶対的一者」の状態に達することも、先述した通り可能である。
日蓮は自らは「絶対的一者」に到達しながらも、万民救済の方途を「神秘的合一」を最終目的とした、南無妙法蓮華経というマントラを不惜身命で一心に唱える修行法を説いたのである。
永遠の生命観から得た自身の上行菩薩の自覚も、その背景となった虚空会の儀式も、当時の伝来していた最高峰の学問としての仏教、とりわけ法華経により自らの注意連合野が形成していたものであり、「絶対的一者」あるいは「神秘的合一」の状態で得た自覚を材料として形成されたものであったと推定できる。
こうして、日蓮の信仰の究極的な内容、すなわち「血脈」と「師弟」は、現世利益をはじめとした利己的な自己を超越し、「完成へと限りなく接近を目指す」具体的な九界における境涯を「成仏」と定義しなおし、容易な唱題行や利他の菩薩道を以信代慧の方便をもって説き誘導した。
それは自らが常行菩薩として自覚した「絶対的一者」「神秘的合一」から得られた一念三千の法=南無妙法蓮華経への帰命という結論であったし、それらは万人に対して「絶対的一者」は叶わないにしても、信心に応じての様々なレベルでの「神秘的合一」を信者に対しても経験させながら九界の生命境涯で実践させようとしたものである。
1253年(建長5年)4月28日、日蓮は法華宗の立宗宣言をした。以降、一貫して、法への帰命を説いたのであり、その重要な一つが、先に何度も引用した生死一大事血脈抄である。
残念ながら、日蓮の後世は、時代の変化とともにこの意図に背き、法への帰命を実質的に物体(文字曼荼羅)への帰命(アニミズム)に置きかえてしまったが、発達した現代科学やニューサイエンスの知見を利用してまでも、先述したような日蓮仏法にアニミズム的説明をする識者が見られるのは、正直言って残念に感じる。
「日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり」(四条金吾殿御返事(世雄御書)、御書P1169)
《日蓮は幼い頃より(現世利益などの)今生の祈りはない。ただ一心に仏に成ろうとしているのである》
--------------------------------
4.
コメント4
高橋徳著「永遠の命を手に入れる方法~医療と祈りをつなぐもの~」2028/9/8、夢叶舎、P53
「経典の読誦は、本来、経典の意義を理解し実践するため、また経典を記憶し流布するためのものであったようですが、大乗仏教になると、しばしば「読誦」そのものに宗教的意義を認めるようになったようです。
勤行(ごんぎょう)とは勤め励むことで、仏道修行に勤め励むことと同一視され、寺院や自宅の仏壇の前で時を定めて行う読誦・礼拝などの儀式をいいます。勤行には、平時の日課として行われる日常勤行のほか、彼岸会、盂蘭盆会などの年中行事に行われるもの、故人の追善の法要として行われるものがあります。
その意義については、仏教徒である事を自ら証するため、経典に説かれる善業(ぜんごう)のひとつとしての実践などと説かれています。多くの僧侶が声をそろえて読経する場合もあります。仏教では、鐘や太鼓が僧侶の読経に加わることもあります。
心地のよい音楽や祈祷の声を聞く事はそれ自体で、オキシトシン分泌を促します。祈りによる心理的なオキシトシン刺激効果(トップダウン効果)に聴覚刺激によるオキシトシン刺激効果(ボトムアップ効果)が加わり、相乘効果がもたらされることとなります」
以上、コメント1~4は、それぞれの引用です。
3.
コメント3
ウィスコンシン医科大学教授の高橋徳は自著「人のために祈ると超健康になる」(2018/2/20、マキノ出版、P97-98)で、この研究を取りあげ、こう述べている。
「瞑想によって、視床下部でオキシトシンが分泌されると、それが頭頂葉の方向定位連合野へ働きかけ、その活動レベルを低下させます。これによって、自己と他者の境界が不分明になるのです。
このとき同時に、オキシトシンは、脳の『中脳水道周囲灰白質』という部分にも作用して、オピオイドを分泌させているはずです。
オピオイドは神経伝達物質の1つです。モルヒネと同様の鎮痛作用や鎮静作用を示すので、脳内麻薬と呼ばれることもあります。つまり、瞑想中、痛みなどを感じにくくします。
さらにドーパミンの遊離を促進させ、多幸感をもたらします。マラソンなどで長時間走り続けると気分が高揚してくる現象を、『ランナーズハイ』といいますが、これもオピオイドの作用によるものと考えられています。
深い瞑想や座禅がもたらす、無我の境地が…中略…自己と他の区別がなくなるからこそ、自分は、区別のなくなった全体へ溶け込み、『我』が消えることになります。それとともに、オピオイドとドーパミンの作用で、強い多幸感を感じることになります。
『心頭滅却すれば火もまた涼し』という言葉があります。あらゆる雑念がなくなって、心が澄み切った無念無想の境地になれば、どんな苦痛も苦痛と感じない。それは、オキシトシンがもたらす効能から考えるなら、じゅうぶんありうる話だといってよいのです。」
2.
コメント2
「宗教的な見地が魂に好んで与える人格の不死という性質は、科学にとっては、自律性という概念に含まれているものを心理の次元で表現したものでしかない。人格の不死という性質は、原始的なものの見方さえ、必ずしも魂の属性ではないし、不死そのものからしてそうではない。しかし科学には近づきがたいこうした見方をまったく度外視するとしても、『不死』とは、さしあたり、意識の限界を超えた心的活動ということしか意味しない。『墓や死のかなた』とは、心理学的には『意識のかなた』というほかならず、それ以上を意味しえない。不死について語るのは常に生者だけであり、正者は生者であってどのみち『墓のかなた』の状態から語ることはできないのだから。
魂コンプレックスの自律性は当然ながら、われわれとはちがった世界に生きている眼に見えない人格的存在者という表象につながってくる。そこで魂の活動が、一見、われわれの死すべき身体性とは無縁の自立的存在者の活動として感じられる以上、この存在者はさしずめ眼にみえぬものの世界に、それ自体として存在しているのだろうという考えが、生じやすい。もちろん、このような自立的な存在者の眼にみえぬということが、なぜ同時に不死であるということになるのかは、即座には分からない。不死という性質は、すでに述べた魂の起源にかかわるもうひとつの事実、つまり、魂のもっている歴史的性格に由来するのかもしれない。…中略…
仏教徒は、内面化による完成を目指しているうちに、前世の記憶がよみがえるというが、これも同じ心理的事態を指している。ただ彼らは、その歴史的性格を、魂にではなく、自己に帰している点がちがっているにすぎない。
不死性を、感情に(また伝統に)従って、魂という、程度の差はあれ普通おのれの自我とは区別され、その女性的性質によって自我一般とも異なるものに帰するというのは、もっぱら外向的に偏ってきたこれまでの西洋人の精神のあり方にまことによく見合っている。われわれにあっては、今までゆるがせにされてきた、内向的な精神文化を深化することによって、東洋的精神のあり方に近づくような変容をとげることは、きわめて理にかなったことだろう。そこでは不死性は魂(アニマ)というあいまいなものにではなく、自己に帰せられることになる。精神的な不死なるものを内面に求めるようになるのは、そもそも外的で物質的なものを平生過大評価しているためであり、その目的は、当然補償と自己調節にある。歴史的要因というものは、根本的には単に、女性的なものの元型にまつわるばかりでなく、およそすべての元型に、つまり、精神的なものであれ身体的なものであれすべての遺伝素子に、付着している。われわれの生は、はるか太古の時代から少しも変わってはいない。…中略…数十万年来というもの、人間に固有な生理的・心理的過程は、少しも変わらずに今も持続していて、生あるものの『永遠の』連続性に対する、深い予感を、内的感情に与えるからである。しかし、われわれの生命組織の総体である自己は、すべての生きられた生の沈殿や総和であるばかりでなく、出発点でもあり、すべての未来の生をはらんだ母胎でもあって、未来の予感は、過去の様相とまったく同じように、内的感情に、はっきりと与えられている。こうした心理的基盤から、不死という観念は正当にも現われたのである。
東洋的観点では、上にあげたようなアニマの概念が欠けており…」(C.G.ユング著「自我と無意識」1995/2/24、第三文明社レグルス文庫、P122-124)
1.
コメント1
立正安国論、文応元年七月、三十九歳御作、与北条時頼書、於鎌倉
「旅客来りて嘆いて曰く 近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し、然る間或は利剣即是の文を専にして西土教主の名を唱え或は衆病悉除の願を持ちて東方如来の経を誦し或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え有るは秘密真言の教に因て五瓶の水を灑ぎ有るは坐禅入定の儀を全して空観の月を澄し若くは七鬼神の号を書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸に懸け若くは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て若くは万民百姓を哀んで国主・国宰の徳政を行う、然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼られ 乞客目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍を観と為し並べる尸を橋と作す、観れば夫れ二離璧を合せ五緯珠を連ぬ 三宝も世に在し百王未だ窮まらざるに此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是れ何なる禍に依り是れ何なる誤に由るや」(原文は漢文で、その書き下し文)
《旅人がやって来て嘆いていう。
この数年から今日まで、転変地変があらゆるところで起こり、飢饉や疫病が地上に蔓延している。行き倒れた牛や馬がちまたにあふれ、骸骨が大きな道路に満ちている。死んだ犠牲者はは人口の半分を超える状態で、悲嘆にくれない者は実に誰一人としていない。
こんな中、「利剣即是」との文をひたすら繰り返して西方の極楽浄土の阿弥陀仏の名を唱えたり、「衆病悉除」の誓願を信じて東方のの薬師如来の経を唱えたり、「病即消滅・不老不死との文を信じて真実の経である法華経の妙文を尊崇したり、「七難即滅・七福即生」との一句を信じて百人の講師による百回にわたる仁王経の講義をしたり、秘密教の真言の教えによって五色の瓶の水を頭に注ぐ儀式をしたり、座禅を完璧に行い空観を修めて心を澄みきった満月のように清らかにしたり、また七鬼神の名を書いて建物の門にはったり、五大力の姿を描いて家々の戸に懸けたり、天地の神々を拝して四角祭や四境祭を催したり、国民・民衆に慈悲の心を懸けて幕府・朝廷や地方官が徳政を行ったりしている。
しかし、一向に憂慮が深まるだけであって、ますます飢饉・疫病に苦しめられ、周囲は物乞い人や死人であふれている。堆積した遺体は物見台になり、遺骸が並んで橋になるくらいである。しかし、よく見れば、太陽も月も壁のように欠けることなく照り輝き、五つの惑星も宝石を連ねたように輝いている。また仏法僧の三宝もこの世に厳然とあり、八万大菩薩の守護が終わる百代目の天皇にまで至っていないのに、今の世の中は早々と衰えてしまい、仏の教えはどうして廃れたのか。これはどのような咎により、これはどのような過誤に由来するのか》