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P75, 日蓮の成仏観と瞑想(1),血脈と師弟,アニミズムの凡夫本仏論

日蓮の成仏観は、拙論文P5~6でも検討したが、仮想した絶対的他者(仏法においては「本仏」)への救いや合一を目的としたものではなく、他者や自己に対する慈悲・智慧・勇気を発動して行動し、自他共に人間的な完成を目指す動的なものである。

端的にいえば「限りなく完成を目指す未完成な境涯」であり、その発動は十界論で言うところの他の九界としてなされる。
これを九界即仏界・仏界即九界と言っている。
 仏界自体が、方便としての仮想物(仮想者)であることは、以下の遺文で明らかである。
「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ…中略…凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(諸法実相抄、御書P1358)
《釈迦・多宝の二仏といっても、用(註:環境などへの作用として見えたもの、実体ではないもの、例えば湖面に映った月影のようなもの、月ではない)の仏であり、妙法蓮華経こそ本仏でである。…中略…凡夫は体の三身にして本仏である。仏は用の三身であって迹仏である。
 したがって、釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえていると思っていたであろうが、そうではなく、かえって仏に三徳をこうむらせているのは凡夫なのである。》

ここで、妙法蓮華経こそ本仏というのは、日蓮が信仰の対象(=本尊)としているのは妙法蓮華経という「法則」ということである。
 こうして日蓮は法=妙法蓮華経を本尊とし、これに南無(命を帰する)することで、凡夫が仏界(唱題するときは人界の仏界、人界即仏界)を湧現する方法を提案・誘導したのである。

 なのに、日蓮の後世は、これまで拙論文で指摘してきたとおり、日蓮が描いたマンダラという物体に南無(命を帰)し、原始的な、自然物体への合一=アニミズムにおちいり、結果として、自他共の完成を目指すには及ばず、現世利益に走りながら組織のエゴに振りまわされ、歴史に栄枯盛衰を晒してきたといえる。
 仮想の絶対者に自身を合一させ、一体化させ、救いや願いをかなえようと祈りをささげるのは、人類発生から今日にわたって続いている。キリスト教やイスラム教等の一神教をはじめ、多神教など、ほぼすべての宗教に見られる共通点である。仏法の中にも南無阿弥陀仏と唱えて阿弥陀仏へ帰命する念仏、釈迦仏だけでなく数々の仮想の仏に祈りをささげる宗派も存在する。
 日蓮仏法が、これらと一線を画する点は、南無妙法蓮華経という「法」(=法則)という実体に帰命するという点である。
その法則の中には利他の実践によって自己が完成へ向かうことが含まれており、その実現のための行動において慈悲・智慧・勇気などの涌き出ることも含まれている。
三世永遠にわたる生命法則・森羅万象の法則が一念三千として解き明かされている。
 法則は、人間の精神活動、絶えざる完成へと向かう究明活動によって更新・アップデートされていくもので、古代・中世から近代・現代にわたって進歩してきたし、今後も進歩していく。
仮想の絶対者への信仰は、時代の学問や科学の進歩によって矛盾が指摘され、結果としてそういった宗教は科学と袂を別つことでしか存続しえなかった。
 しかしながら、更新しゆく法則自体を南無妙法蓮華経と定義して帰命することは、論理的には永久に科学的法則も含めて信仰の合理的対象となっている。
 日蓮は、法を信仰の対象とすることによって、永久に続く血脈を設定したといえる。

 だから日蓮が、中世の鎌倉時代、当時読み書きも十分にできない庶民にも仏という完成の道(日蓮仏法)に導くために唱題行を設定し、当時の方式を採用してマンダラ(文字曼荼羅)を描いたのも、大いなる意味があったといえる。
なのに、その後世は、日蓮の意図を忘れ去り、どうしてマンダラを絶対視してしまったのか。

 そこには、この浮世を、様々な四苦八苦を生きなければならない弱い自分が、孤独と無力の中から逃走し、肉体的にも精神的にも揺るぎない絶対者によって救われて安穏を得たいという願望が常に存在していたからこそであろう。人類の発生以来、この心理が仮想の絶対者を常に生み、それにすがる呪術的な祈りを持つ宗教、および文化を形成してきたのである。

 ちなみにアニミズムであっても、唱題行が一定の精神安定効果があることは、脳波解析などで科学的に証明されたことが、松戸行雄・松戸スザンネの著書にて紹介されている。
 これらと同等の効果が、医療現場では、不安神経症患者に対してベンゾジアゼピン系などの向精神薬、うつ病患者に対してSSRI等が投与される場合などで、よくみられることである。
また、電気ショック療法なども行われている。

 宗教の役割の一つとして、個別の苦悩に対してコーチング、カウンセリングを行うキッカケや材料となり得ることは、評価に値する。
 しかし、それもあくまで科学的根拠に基づいて、論理的でなければならないだろう。論理的に矛盾を孕んでいれば、その信奉者が理性的になった時など、いつかは気づくことになるだろう。
 非論理的なものを信じているとやがて必ず行き詰まる。そして、別の材料やキッカケをさがす。
 患者にも同じことを繰り返す人がいる。日常的に、臨床現場ではしばしば遭遇するが、自分の信じられる又は自分の期待する答えを探し求めて、医療機関を転々とする。これがいわゆるドクターショッピングである。また、セカンドオピニオンを頻回に求める患者も、自身にとって科学的に最善の医療を探し求めるのではなく、実は自分の期待する答え又は受け入れられる答を探し求めている場合が少なからずある。

 この心理は、現在進歩しつつある生物学、とりわけ脳神経学的にみれば、ヒトが自然界や社会に適合し生き延びるために、ある一定の合理的なシステムが存在することを示唆している。
 日蓮が説いた唱題も、他の絶対者崇拝の宗教と同様に、まさにそのシステムを利用したものといえる。


■血脈と師弟

 仏法における「血脈」「師弟」について、日蓮は生死一大事血脈抄(御書P1336~1338)の冒頭で、「生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」、続いて「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、 此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」と、明確に述べている。
 この遺文とその考察は拙論文P71等で行なってきた。
 要するに一切の永遠にわたる生命法則を「妙法蓮華経」と定義して、これを「血脈」としたのであるから、仏界の象徴として説かれた久遠実成の釈尊の生命法則も、万人を成仏に導く妙法蓮華経という法則も、その法則にしたがって修行する我ら九界の衆生が織りなす姿の法則の三つは、まったく同じものである。このように悟って妙法蓮華経と唱えたてまつることを生死一大事の血脈というのである。
 そして、日蓮は、これこそが日蓮の弟子檀那などの肝要なのであり、結局のところ法華経を持つとは、これこそをいうのであるとする。こうして、これを正確に受け継いでいくのが「弟子」(弟子檀那)であるとしているから、この遺文をもってしても、師弟の「師」とは妙法、弟子とは妙法を唱え、九界即仏界の修行をしていく凡夫のことである。
 さらに、「水魚の思い」で利他行動を、「異体同心」で全人類への社会的貢献を説いているのは明白である。


 それでは、その肝要、すなわち南無妙法蓮華経と唱えること自体は、現代科学の観点から、どのような生物学的効果があるのだろうか。他のマントラ(例えば南無阿弥陀仏とか、種々の読経等)との明確な相違があるのだろうか。


■松戸行雄の凡夫即身成仏論

 その前に、創価学会がその所属していた日蓮正宗と対立し破門されるに至った過程において、その過程を支えていた論理が、凡夫本仏論である。
これは、日蓮の血脈に還ろうとした論理的支柱となったといえるが、これを脇から支えていたのが、松戸行雄の凡夫本仏論だったといえる。
 かつて、ドイツの哲学博士である松戸行雄は、日蓮が久遠元初の本仏であることを否定し、日蓮はあくまで末法における凡夫であり、妙法を説いたことで即本仏であると、自著「日蓮思想の革新」(1994/3/20、論創社)にて、こう述べた。
「この久遠本仏(註、久遠元初自受用報身如来=日蓮)は単なる想像の所産であり、『神学』の領域の理論であり、『仏教』を否定しているからである」(同書P127)
「私たちの理解したい仏教としての日蓮思想では、凡身に久遠元初の妙法を悟り、一切衆生に成仏の直道を開いたが故に、大聖人(註、日蓮のこと)は本人妙の教主なのであり、末法の凡夫即本仏なのである。南無妙法蓮華経を唱える私たち全員が自身の妙法を薫発するのであるから、大聖人と同じように法性の大地(果)より社会生活(因)に躍り出ることができる」

 そして、従来日蓮正宗が主張してきた久遠本仏論的救済観に対して「仏界即九界(因果倶時の妙法)は私たち皆に共通の存在構造である」(同書P128)と、凡夫本仏的成仏観を述べた。
また、
「現実の具体的な凡夫を根本にし、その凡夫の体を南無妙法蓮華経と開く。凡夫を超越してしまう仏は逆に虚構としての迹仏になる」
「したがって、一切衆生・皆成仏道の南無妙法蓮華経が久遠の本師であり、釈迦にしても大聖人にしても特定の人が衆生を救済するのではない。法が根本である」
「ただし、末法で南無妙法蓮華経を体現し、説いたのは大聖人であるから、大聖人は主師親の三徳具備の『末法の本仏』・『本人妙の教主』となる」(同書P203)
 と述べ、あくまで法が根本、そして法であるところの南無妙法蓮華経が本師すなわち「師」であると述べている。
 ここに、彼は、日蓮仏法における「師」の定義を明確に述べている。
 これは、日蓮の本仏の定義を正確に受け継いだものであることは明白である。日蓮の遺文の諸法実相抄には、釈迦仏は仮の仏であり、凡夫こそ本仏であると述べられているからである。
 そして、日蓮を、『末法の本仏』・『本人妙の教主』というのは、あくまで「人」としての「仏」・「経の主」と解説して、凡夫が法としての南無妙法蓮華経を体現することが成仏である旨を説いているのである。

 さて、松戸行雄のこの解釈は日蓮の遺文に照らして理に適っていると私は考えていたが、その後の後述する著作でみられる先述の「曼荼羅御本尊は…仏界を湧現するための明鏡」との表現を確認してみよう。
 後述するが、彼の著作の中には、仏界の境涯について、「御本尊と一体化する」という趣旨が何度も述べられているのである。
 確かに、日蓮も「明鏡」と述べた遺文がある。
 しかし、御本尊が「鏡」ならば、物体としての「鏡」と「一体化」する必要はなかろう。
鏡にうつる内容は自分自身の生命なのだから、元々一体である。
 鏡を見たら自分の姿が映るように、御本尊に唱題したら自分の仏界が映るように湧現するとの比喩であろうが、そこには自分の九界の生命状態がそのまま映るというのが正解である。つまりは、これをいう松戸をはじめとした識者のいうような仏界は、これだけでは湧現しないどころか、映ったそれ以外の境涯を仏界と勘違いもしくはマインドコントロールされることになろう。
 この御本尊という「鏡」に自身の仏界を映すには、題目を唱えている間に自らの仏界を自ら湧現させなければならないことになるのである。
 自ら仏界を湧現できるかどうかは、他の遺文で「ただしご信心によるべし」とある。

 他には御本尊と「境智冥合」という表現もされているが、それらはどのように表現されていようとも、唱題は、心理学的には、その対象との「一体化」そのものと言っているのと同じではないか。
「御本尊と一体になるとき、私たちは仏の境涯にいます」
「私たちが題目を唱え、この『帰命の対象』に絶対的な自己同一化をし、一体となる場合、メカニズムがアクティブになります」
というのは、アニミズムそのものの説明であり、法(法則)が根本ということとも矛盾するではないか。

 もっとも、松戸行雄のこの書の最後の部分で
「何のための御本尊か。何のための信仰実践か。妙法を持ち、自分と人の幸せを願い、黙々と活動する私たち普通の人間が、また共によりよい社会を建設して行こうと努力する私たち普通の市民が、尊極の仏の命の当体である地涌の菩薩なのだということを言いきって行こう」
 と、きちんとした日蓮仏法のあり方を述べているが、そもそもその趣旨が、当時の日蓮正宗の法主の血脈相承の欺瞞を指摘し、破門された創価学会の立場を正当化する目的をもって書かれていることは、この次に続く結びの文を見ても明らかである。
「それが創価学会の人間主義の立場であり、SGI池田会長の世界広布の足跡であることを確信している」(同書P231-232)
 また、
「創価学会は南無妙法蓮華経の修行を根本とし、庶民が信心即生活・仏法即社会と妙法を毎日の生活の中で実践する人間革命の団体であり、社会に、世界に平和・文化・教育の分野で妙法を開く運動である。自行化他の仏道修行の中に仏界は具体的な智慧として発動し、涌現するのであり、したがって、誰も理即の凡夫そのままの体で事実として仏であるとは思っていない。
 逆に、法主血脈絶対論に固執する宗門・法華講の信仰こそ、現状維持を目指し、修行ではなく、制度やモノを絶対視する修行無用論に陥っていると言わねばならない。自行化他の実践がないところ、社会や生活の中に妙法が活かされないところには大聖人の信心の血脈も流れないのである」(同書P65-66)
とも述べられている。
 が、創価学会についての「師弟」・「血脈」の概念、およびその歴史の中においての数々の欺瞞・捏造・隠蔽は、これまで拙論文でも指摘したし、また多くの識者の認識されていることでもある。
 これらの矛盾・論理破綻の根本原因は、表現上はともあれ、やはり根本的な修行の解釈、また成仏観が、完全な依法不依人ではなく、結局のところアニミズムから脱皮していないということである。
 鏡である御本尊に自身の仏界を映すには、自らがいわゆる仏界とされている境涯(後述するが、やはり人界、ただし人界に具足する仏界となる)を湧現させなければならない。唱題の間に現世利益や利己的な雑念が伴っていると、それぞれ地獄・餓鬼・畜生・修羅などであり、他人を救おう・社会に貢献しようという雑念ならば菩薩界である。総じて九界の雑念となる)
 ちなみに南無妙法蓮華経の唱題自体には意味づけが分かっていようといまいと、効果には関係ない。効果に関係あるのは、一心に行なうかということと、音程・規則的なリズムなどの物理化学生物学的要素であり、他宗教でのマントラでも同様の効果があるため、独自の教義やそれにつけた意味は、文化的には独自の意味や価値判断に影響するが、いわゆる仏界の湧現(他宗教では神などと称される仮想の絶対的他者との遭遇・融合や一体化)とは関係がないようだ。
 一点を見つめて行なう南無妙法蓮華経の唱題は反復かつリズミカルなので、瞑想を行なっているのと同じであり、やがて瞑想によるトランス状態(変性意識状態)に入ることができる人もいる。御本尊の有無は関係がない。御本尊がなくても、自身の雑念を徹底的に排除して行い続けると、同様の効果があり、この脳神経学的なシステムは後述するが、多くの宗教が取り入れている瞑想や宗教儀式なども、このシステムが存在する。

 ついでに加えておくが、松戸行雄は2017年に「凡夫即身成仏論―21世紀の日蓮仏法2.0」、2018年には「題目パワーでエネルギー変換――日蓮仏法3.0」、「脳波シフトで宿命転換――日蓮仏法3.1」を初版で著作し、それぞれ2019年に改訂版、さらに2020年には「願いを叶え 光り輝く人生を 日蓮仏法4.0」を次々と出版している。
 また、類似の著作としてはステファン丹沢著「最新科学で読み解いた南無妙法蓮華経」(2018/4/8、ビイング・ネット・プラス)が挙げられる。
 その内容は、今日の科学技術の進歩や最先端の科学的知見、およびニューサイエンスと称される所見を利用・借用しながら、一般の凡夫にも方便・メタファーを活用してわかりやすく日蓮仏法を解釈しアップデートしてきている。創価学会の教学部やドクター部などを名のる人たちの科学的な論拠に基づくアップデート論文が見られない中、宗派を問わない日蓮仏法の新たな解釈が展開されており、まことに興味深い。
 ただ、拙論文では一部を引用するにとどめて詳細は割愛するが全体としての印象は、これらの著作はたしかに日蓮仏法の教義・化儀・形式を材料として述べられていて、説得力のある内容であるが、御本尊を崇拝物、仏法を他の宗教に置きかえても、十分な他の宗教についての説明にもなり得るような内容であり、つまりは一般的な宗教についての神秘的体験などの究明・説明としては注目に値するものであるが、日蓮仏法だけにしかあてはまらない論理は一つもなかったのである。
日蓮は当時の仏法の正邪善悪・高低浅深を厳しく判別して最高の法華経への信こそが万民救済につながると主張したが、これらの著作にはこういった批判精神がほとんどといっていいほど見られない。さらには、最近流行しているスピリチュアリティの論理やドグマも取り入れられている内容が数多くある。ちなみに「宇宙意識」「潜在意識」「純粋意識」「ハイヤーセルフ」「無限の源泉」「エネルギー」「宇宙と一体」等々の、完全無欠や絶対者の言い換えに等しい用語や、絶対者と一体になるとか「融合」する等の説明(アニミズム的説明)がふんだんに使われている。
要するにそれらは最先端科学を論拠とはしているが、あくまでそれらの威を借用・利用しているだけであって、日蓮仏法や南無妙法蓮華経に特化した前向きのコホート研究などによるデータが挙げられてもいないからである。
もっとも、そのデータを得る手法は極めて困難であるから、やむを得ないところではあろう。
 むしろ、一般宗教の論拠となる最先端科学の内容こそ、興味深いところである。
 そういう意味では、最先端科学を用いて現在の宗教一般(ほとんどがアニミズムや一神教、偶像崇拝など)のさまざまなシステムや効果を説明している点で、有用と言えるだろう。



■日蓮仏法固有の「奇跡のメカニズム」?

 先述した松戸行雄は、ドイツの哲学博士であるが、自著、松戸行雄&スザンネ著「願いを叶え&光り輝く人生を 日蓮仏法 4.0」2020、P11-12には、先端物理学の一つである量子力学を材料として、
「量子力学の分野では、電子や光子のような量子のエネルギー的波動状態を『観測』しようとすると、局所的な物質である粒子の状態に変化してしまいます。この『観察者効果』を敷衍すると、可能性としてエネルギー状態にあるビジョンを現実化するプロセスは、意図的な精神的行為自体によって引き起こされることを示唆しているのです」等と語りながら、御本尊と一体になるための題目は仏性や純粋意識と光エネルギーを表し、生命と宇宙の根源的要素であり、題目を唱えると、光エネルギーと意識の観点から『奇跡のメカニズム』が作動し、ビジョンやインテンションが物質化される、この精神状態やインテンションは自分の運命や健康に影響を与える重要な要素であり、御本尊と一体になるためには、心を集中し、脳波の周波数を下げる形で唱題する必要がある、そして幸福境涯を達成するためには、明確なビジョンとインテンションが必要である、などと、以下の如く呪術的に日蓮仏法を語っている。

「題目は仏性をも意味し、それは現代的には純粋意識と光エネルギーにかわります。これは生命そのものと宇宙全体の根源的要素であるため、日蓮仏法に固有の『奇跡のメカニズム』は、光エネルギーと意識の観点から根本的に説明できます。
 この同じ光エネルギーが、あなたのビジョン(展望)とインテンション(意図)を明確にする過程で具体的に物質的な形に転換されるものなのです。つまり、最近の研究によれば、あなたの考えや意図は本質的にエネルギー的性質を持っており、バイオフォトンの流れで構成されていることが検証されています。したがって、特定の意図で題目を唱えると、この奇跡のメカニズムが作動し始め、私たちのビジョンが実現されるようになるのです。…中略…
…あなたの身体のエネルギー状態こそがあなたの健康状態について身体的状態よりもより多くのことを示唆していることが理解できます。その意味でも、あなたの身体に深い影響を与えているのはあなたの精神であり、心なのです。
 したがって、精神状態やインテンションが自分の運命を決定し、人生の状況を劇的に改善できる重要な要素であることも理解することができます。量子力学の分野では、電子や光子のような量子のエネルギー的波動状態を『観測』しようとすると、局所的な物質である粒子の状態に変化してしまいます。この『観察者効果』を敷衍すると、可能性としてエネルギー状態にあるビジョンを現実化するプロセスは、意図的な精神的行為自体によって引き起こされることを示唆しているのです。…
 多くの読者から『落ち着かない精神状態の中でどうやって御本尊と一体になることができるのでしょうか?』という質問を頂いています。御本尊と境智冥合できる状態に到達できるためには、心を集中し、脳波の周波数を下げる形で唱題する必要があります。
そのためには、通常では狭い焦点で神経が高ぶっているストレス状態を、集中かつリラックスしたオープン・フォーカスに切り替える方法を提案します。
 御本尊は『幸福製造機』とも呼ばれています。ただし、具体的な幸福境涯を達成するためには、その目指す目標について明確なビジョンとインテンションが必要です。そのために本書の最終章に向けて、あなたが人生で本当に望んでいるものを確かめられるように、幾つかの青写真を参考として提示いたします。」

 また、同書P74では、こう述べている。
「御本尊に描かれている釈迦・多宝の二仏は仏界の生命状態であるとともに、純粋で限りない宇宙意識との融合を表します。
この境涯では、智慧と幸福のあらゆる可能性が提供されています。」
「曼荼羅に組み込まれているこのメカニズムが、どのような条件でアクティブになるのかというと、私たちが題目を唱え、この『帰命の対象』に絶対的な自己同一化をし、一体となる場合、メカニズムがアクティブになります。言い換えれば、御本尊と一つになるという『一つの想い(一念)』で精神を集中させた状態で唱題することを意味します」(同書P74)
「題目を唱える行為に完全に没頭し、一体になると、私たちはフロー状態に入ります。その時、自分を忘れています。時間も気にせず、まわりの環境さえも意識しなくなります。というのは、唱題しているのは私たち自身のエゴではなく、もっと大きな何かがこのプロセス全体を通して活動しているからです。唱題中に感じるのは、自分の心臓の鼓動であり、喜びと思いやりの気持ちが心の奥深くから浮かび上がることに気づきます。私たちは今ここにいて、完全に現在の瞬間にだけに合わされているのです。」
「曼荼羅御本尊は、私たちが自分の心を観じるため、つまり仏界を湧現するための明鏡の役割を果します。」(同書P74)
「この不可思議な境地において、私たちは本質的に仏界を湧現する地涌の菩薩として顕現するのです。その時、日蓮が比喩的に表現しているように、私たちは御本尊の中に入っていると同時に、私たちの中に御本尊があるという境智冥合の世界を体験しています。言い換えれば、私たちは自分自身の中にも外にも生命力エネルギーの広大な海に埋め込まれているのです。その時、私たちの局所的で特殊な個別の意識が、非局所的で普遍的な宇宙意識と融合するのです。このとき私たちは身体の物理的エネルギーの増大を感じますし、全く静かで落ち着いた心の明快な明るさを体験するのです。
 御本尊と一体になるとき、私たちは仏の境涯にいます!」(同書P75)

 考察するに、これらは、アニミズムの瞑想メカニズムの一つである。使用されている言葉といい表現と言い、悩み・苦悩に喘ぐ弱い自己を、揺るぎない絶対者に融合・一体化させると、その絶対者の力によって願いがかなえられるという趣旨である。この場合は、仮想の絶対者とは御本尊であり「曼荼羅に組み込まれているこのメカニズム」である。御本尊と一体となる時に、祈りや誓いを行なうと、それらが叶う方向に現実が展開していくと期待されているが、これは日蓮の真意である成仏観ではない。
もちろん、この唱題を行なっただけで瞬時に祈りが叶うのではない。たとえば宝くじを当てようという祈りを叶えるには、具体的な行動として宝くじを買わなければならない。宝くじを当てるという、こうしたある確率で起こる事象に関して祈りや唱題の効果を立証するためには、宝くじを買う前に祈る群と祈らない群とに分けて大規模な立証試験を行う必要がある。また、ある特定の祈りや唱題が、他の方法より効果があることを立証するには、それぞれの方法を行なった群の間で比較検討しなければならない。

 ちなみに、科学的統計学的には、宝くじを当てるのに唱題による祈りの効果は立証されていない。宝くじだけでなく、病気の治癒や、運を高めるとか引き寄せの効果とか、その他の奇跡的な事象に関しても、現在の信用できる立証実験である厳密な2重盲検試験が行われ、そこにおいて統計学的に有為差があるという明確で大いなる効果があったという報告は見当たらない。
ただし後述するが、見ず知らずの他人に祈られた病人の群の臨床的効果が祈られていない群に比べてわずかに改善したという報告を除いて。
 これは、創価学会の祈りや唱題の効果に限らず、日蓮仏法の他宗だけでなく、一般的な宗教による特定の修行方法すべてについて、そういった厳密な臨床試験によって科学的にわずかでも現実変革に有効であるという前向きな研究によるデータは、私が検索した範囲ではいまのところ一切存在しない。なぜなら、プラセボ効果を排除し利益相反問題を解決しながらの無作為化二重盲検対照試験(コホート試験など)は、新薬の開発において主になされているが、被験者の募集や割当、データの収拾・評価が厳しく、多大な費用や期間を要する為である。


■唱題の功徳・効果についての思考実験

 さて、特定の祈りの効果についての科学的検証は、これまでも様々な研究者がその成果を発表している。残念ながら、これらはずべて他宗教のもので、一部的は効果があったとするものも見られるが、それらは信頼できる方法(十分な母集団を有する無作為二重盲検試験など)ではない。拙論文でもその一例を取り上げたが、そのほとんどは経験的なものを集めて信仰の有無などの共通点を明らかにしているもの、つまりは後ろ向きの研究ばかりである。キリスト教ですら、それに成功していないが、一例は拙論文にて先述した。その原因は先述の通りである。

 ならばここで、科学的な方法の一つであり、最先端物理学でよく使用される「思考実験」を試みてみよう。
 私のクローン人間を2000人作成したとする。
その2000人を1000人づつのA・B2群に分けよう。この際は、その名称、その倫理的善悪の判断は棚に上げておく。
 私のクローンといっても、人権はあるし、その後の生活や環境はそれぞれ異なるから、個別の人格を持っているものとする。
そして、それぞれが夢や生きがい、人生の目標などを持っているものとする。
 そこで、それぞれやりがいのある同程度の難易度のある目標を設定し、達成した場合には同じ程度のやりがいの見込める報酬を与えることとする。そしてA・B2群間で同時期一定期間においてその達成度を評価する。そしてそのときA群は効果を証明するためのある処置を行ってもらい、B群はその処置を行わない。この場合A群を処置群、B群を対照群という。その処置に科学的な効果があるならばA群が統計学的に有為な差をもってB群よりも達成率が高い結果が出る。
 私はかつて英検2級に合格しているので、私のクローンたちには努力して達成可能な目標として英検1級合格を設定することができる。
 この仮定をあえてしなくても、たとえば具体的に、日本の国民から無作為に年収1000万円未満の2000人を募集し、無作為に1000人ずつに分け、1年間かけて英会話スクール等に通って学習して貰い、英検1級試験に合格したら報酬として1000万円与えるという実験を想定することもできる。が、その際に年齢・性別・学歴・職歴・年収・趣味・体力・信念・思想などの諸条件に、両群の間で偏りがないようにしなければならない。また、目標の難易度も、実現可能でかつ相当な努力を要するものでなければならない。これはとても現実的には困難なことである。

 最初の実験1としては、A群には、処置として、目標達成に向けての特定の「祈りの行為」を毎日一定時間行ってもらう。B群にはA群の祈りの時間と同じ時間に、目標達成に向けての祈り以外の行為で目標達成の取り組みにはまったく関係のない行為(睡眠でも運動でも映画鑑賞でも何でもよい)を行なってもらう。
 一年後に、その目標の達成率を、集団として比べて評価する。
 この実験1では、明らかに、A郡のほうがB群に比べ、目標達成率が有為に高いであろう。先述の具体的実権ならば英検1級の合格率はA群のほうがB群に比べて統計学的に有為な差をもって、高く出るであろう。なぜなら、祈りという行為は、少なくともある程度のプラセボ効果をもたらすことが知られているからである。
 次の実験2として、祈りの種類に差があるかどうかの実験を想定する。
 A群には仏教式の祈り、B群には仏教以外の祈りを設定する。
 この実験2では、有為な差は出ないだろう。
 実験3として、祈りの内容を理解しているかどうかの差を検討する。
 A群・B群どちらも日蓮仏法の熱心な信者で同程度の教学を有する集団とし、どちらも南無妙法蓮華経と唱えてもらうが、A群は南無妙法蓮華経の意味を正確に理解している集団、B群は南無妙法蓮華経の意味を正確には理解していない集団とする。
 日蓮の遺文によると、理解があっても信心がなければ成仏できない、また、行学は信心によっておこるとされている。
 この実験では、南無妙法蓮華経の意味を理解しているA群が有為さをもってB群に勝るであろう。
 実験4として、南無妙法蓮華経の「蓮」を「連」と定義しなおし、同じ意味として南無妙法連華経をA群に唱えて貰う、B群には対照群として南無妙法蓮華経を唱えて貰う。
 この実験では、意味が同じ、発音も同じなので、おそらくA群とB群では有為差は出ない。
 実験5で、同様に南無妙法蓮華経の「華」を「花」として、発音もおなじ「げ」として、実験4と同様に行う。
 すると、同様にA群とB群では有為差は出ない。
 以後、実験6として、妙を冥、法を方、経を教に変えても、意味が同じ定義ならば、同様であることがわかる。
さらに、実験7として、妙法蓮華経を阿弥陀仏におきかえても、南無妙法蓮華経をサンスクリット語の音写「サダルマプンダリーカスートラ」におきかえても、定義を同じにすれば、同様であることが分かる。
 実験2の段階で、祈りの様式に差が出ないことが分かっていることを踏まえれば、これまでの実験7までが示唆することは、祈る行為自体は、その後の努力にプラスに影響していることのみであり、祈りの解釈や厳密な定義は、その後の努力には関係がないということである。
 このことは、重要なことである。

 アニミズムの祈りであっても、具体的な完成を目指して努力することが「成仏」に相当することを示唆している。
 であるならば、個人の幸福実現・救済としての観点からは、祈りそのものの内容や定義よりも、それによって動機づけられる具体的な行動が、因果となっていることである。
 これは、法則、あくまで法則である。
 様々な不幸・不都合な結果は、この仕組み・法則を、個人や組織のエゴのために利用された顛末なのであろう。



■日蓮の成仏観と血脈

 ここで、拙論文P5~6で述べた日蓮の成仏観を、再度おさらいしながら少しアップデートしておこう。
「寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり…中略…
一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり」
(義浄房御書(己心仏界抄) 御書P892)
《如来寿量品の自我偈「一心に仏を拝見しとうとして自ら身命を惜しまない」とある、日蓮の己心の仏の境界を、この文によって顕すのである。…中略…
一心に、仏を見ようとする。心を一つにして仏を見ようとする、そういう『一心』の状態が見られれば、それが『仏』である」ということである。》
つまり、九界の衆生である、未完成な状態の凡夫の、「心を一にして、ただひたむきに仏を見ようとする(=限りなく完成(完全無欠)へ向かって努力する)」一念、これを「仏界」としているのである。

 それは、一瞬一瞬の一念(肉体的・精神的そして社会的、すべてにわたる生命境涯)が、
凡夫のまま、どこまで修行し向上しても依然として未完成なままだが、限りなく「完全無欠の完成」へ向かうことそのものを、伝統的な仏法、とりわけ天台教学を借りて、成仏という最終目標として示している。

 もう一度繰り返そう。
 仏(完全無欠、無謬で荘厳され完成された人格)を、一心に自己の中外に見出そう、目指そう、仏という完成のゴールを開こう、こうしたただひたむきに追求する一念の姿、そしてそのためには命をも惜しまない、ましてカネや財産や名誉などはなおさら惜しまない、全てを捨てて命を懸けて、何としても見たい、少しでもそこへ限りなく近づいていこう…こういった姿である「一心欲見仏 不自惜身命」の一念が、すでに「仏界」つまり完成、現実においての「成仏」と表現した、まさに、この世に生まれてきた真の幸せというゴールというのだ。

 単純明快に言えば、現実に、全てを捨ててもかまわない覚悟で、法を信じて修行し続けている一念自体が、日蓮がたどり着いた「成仏」である。

 そして、これは、現実変革を伴わない単なる「主観的な満足(救済、功徳ともいう)」ではなく、大小の差はありながらも「客観的」な効果が確実に表れ続けるという、現実変革をもたらすのである。

 こうして日蓮は、末法以前の一念三千では、自ら「九識心王真如」とまで讃嘆した仮想の仏界の正体を、末法において始めて現実に即して、「仏界即九界」・「九界即仏界」としたのである。
 つまりは、九界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩という現実の姿・境涯)の中での修行そのものを「仏界」とした。
 そして修行そのものとして到達する「仏界」も、九界の姿となって現れるとしたのである。
 さらに掘り下げて、九界での様々な煩悩も仏界の現れ(煩悩即菩提)、生死の姿も仏界を知ること(生死即涅槃)としたのである。

 これが「観心とは我が己心を観じて十法界を見る」(観心本尊抄)であって、その方法が「受持即観心」となっているのである。


 日蓮は、1253年(建長5年)4月28日、法華宗の立宗宣言をした。
1222年2月12日に出生し幼少時から清澄寺に入り道善房を師匠として修行、その後も全国の寺を遊学しながら当時の最高の学問である仏教を修学する過程において、何度も何度も法華経の自我偈を読誦したに違いない。
仏とは、成仏するとは、いったい何なのか。
日蓮の究極の問い・究極の目的についての答が法華経、特に自我偈の中に、このように端的に顕されていた。

衆生既信伏:すでに、衆生が信じ伏し、
質直意柔軟:正直に素直に、ありのままの心で
一心欲見仏:一心に仏を仰ぎみようと、
不自惜身命:自らの命さえ惜しまないで懸命になっていること、

時我及衆僧:そのときこそ、私(註、仏)及び私の教団が、
倶出霊鷲山:そろって、今いるここ、霊鷲山に出現するのである。

我時語衆生:私は、その時に、衆生に語る。
常在此不滅:実は、常にここに存在していて、消滅することは無い。

以方便力故:私は私の方便の力を使って、あえて、
現有滅不滅:消滅と出現を繰り返す姿を演じているのである。

 つまり、「一心欲見仏・不自惜身命(一心に仏を仰ぎみようと、自らの命さえ惜しまないで懸命になっていること)」を、瞑想により詰めていくと、
「時我及衆僧・倶出霊鷲山」――そのときこそ、仏及び仏の集団が、その人の心及び環境に出現する――と悟ったのであろう。

 仏とは人間としての完成をも意味している。
命を捨ててまで、その仏の姿を目指している、その行動・一念こそが、仏なのである。成仏の実体である。

 不自惜身命の中には、当然ながら自己の現世利益は放棄され、自己と他人との境界が取り払われて、自他が同一となった感覚となる。自他が同一となった感覚は、自分と環境、目の前の他人から社会、ひいてはすべての宇宙空間との一体感を生み出す。さらに時間・空間の感覚がなくなった、すなわち時空を超越した感覚――永遠の時間・空間が全て見渡せる感覚――も伴うので、仏法で言うところの究極の慈悲・智慧が、環境世界・全宇宙に存在する情報の中から利用可能となるのであろう。そして自分のための行動は同時に他人のための行動となる。利他の行動・他人や環境への幸福を目指す志向が無限に生まれてくる。(この生物学的説明は後述していく。)

 その故は「私は私の方便の力を使って、あえて、消滅と出現を繰り返す姿を演じているのである」とあるのは、永遠の生命輪廻転生をくり返すことを方便に譬えているだけでなく、日常生活の境涯にも例えている。

 その一例でもあり総括でもあるが、仏の姿が自我偈の終了部分に、このように描かれている。

毎自作是念:常に自らこのように念じている。
以何令衆生:どのようにして衆生を、
得入無上道:無上道に入りさせ
速成就仏身:速やかに仏の悟りを成就させようかと。

 加えて言えば、この結論の前には、冒頭から仏の生命(結局は凡夫も含む)は永遠であること、仏といえども生死をくり返す永遠の生命であること、凡夫はこれを知らないで常に苦悩の深海で喘ぎ苦しんでいるが、これを知った仏の世界では無限の幸福境涯が続いていることが具体的に一例として示されていること、そしてその仏の境涯には遭遇し難いことなどが、美しい詩の形式でリズミカルに語られている。

 つまりは自我偈、および法華経は一念三千の法理の究極のメタファーとなっているのである。

 自我偈の含まれる法華経寿量品の解説は、ネット上でも多く見られるが、一例として拙記事にも挙げておいたので、ご参照願いたい。↓
妙法蓮華経如来寿量品第十六、ほー法華経ぅ~究極の生命尊厳の法と修行法(法華経 現代語訳)https://ameblo.jp/raketto-chan/entry-12239622295.html?frm=theme


 この瞑想時の日蓮の心は、どのようにして衆生を無上道に入りさせ速やかに仏の悟りを成就させようかとの、慈悲の思いが湧きたっている状態であり、日蓮の脳内を神経学的にみると、視床下部から幸せホルモンとか慈愛のホルモンとかいわれるオキシトシンが十分に分泌されている。同時に、瞑想の努力により、頭頂葉の後方に位置する方向定位連合野への完全な求心路遮断が成立し、自己と他人~全宇宙空間との境と時空の感覚が消滅して、前頭葉の注意連合野からの感覚も動員されて、永遠の生命・時空の超越・完全なる一元愛・無条件の愛などともいわれる永遠・無限なる時空の一体感覚の動画が再生されているのである。
 現代科学においての、これらの脳神経学的なシステムの詳細は後のページで改めて述べる予定であるが、立宗宣言前の日蓮は、そしてその後の日蓮も、法=法華経への信仰を、この自我偈を何度も何度も瞑想してこの生命状態に達し、自分自身を生涯にわたってアップデートしていたに違いない。
そして、先述した「以何令衆生・得入無上道・速成就仏身」の答えとして、法への合一、すなわち南無妙法蓮華経の唱題という方法で、衆生を自身の瞑想で到達した境涯へ導こうとしたのである。
 この場合、神経学的な詳細は後述するが、唱題という手法を用いているので、アンドリュー・ニューバーグが自著「「脳はいかにして〈神〉を見るか」が提唱しているところによると、この瞑想は「能動的瞑想」といわれ、唱題によって到達できる能動的瞑想のレベルは「神秘的合一」というレベルであり、すなわち日蓮の十界互具で言えば未完成な人界の仏界である。
当然に「信」を前提としたものであり、「以信代慧」であり、その「神秘的合一」のレベルはピンからキリまである。だから「ただしご信心によるべし」と、はっきり断じている。
これを仏界の境涯とし、救済とし、これを広宣流布すれば万民救済につながる。
 これに対して、日蓮が、また釈迦や天台が到達した瞑想は、アンドリューがいうところでは、唱題などの手法を使わない「受動的瞑想」にあたり、その到達点レベルは「神秘的合一」よりもさらに深い「絶対的一者」といわれるレベルであり、先述の時空・自他を超越したレベルなのである。

この境地を十界互具でいえば少なくとも縁覚界の仏界、そしてその時アズロが提唱するアカシック・フィールド(これをゼロポイント・フィールド等、ニューサイエンスにおいて様々な提唱および提唱者がいるが、仏法の九識論でいえば第八識の阿頼耶識に相当する)内の時空永遠無限にわたる全情報を参照して慈悲の念で満たされれば菩薩界の仏界である。
 もちろん、能動的瞑想の到達点「神秘的合一」から受動的瞑想へ入り、更に究極の「絶対的一者」の状態に達することも可能である。
 日蓮は「絶対的一者」に到達しながらも、万民救済の方途を「神秘的合一」を最終目的とした、南無妙法蓮華経というマントラを不惜身命で一心に唱える修行法を説いたのである。
 永遠の生命観から得た自身の上行菩薩の自覚も、その背景となった虚空会の儀式も、当時の伝来していた仏教、とりわけ法華経により自らの注意連合野が形成していたものであり、「神秘的合一」あるいは「絶対的一者」の状態で得た自覚を材料として形成されたものであったと推定できる。


 こうして、日蓮の信仰の究極的な内容、すなわち「血脈」と「師弟」は、現世利益をはじめとした利己的な自己を超越し、「完成へと限りなく接近を目指す」具体的な九界における境涯を「成仏」と定義しなおし、容易な唱題行や利他の菩薩道を以信代慧の方便をもって説き誘導した。それは自らが上行菩薩として自覚した「絶対的一者」「神秘的合一」から得られた一念三千の法=南無妙法蓮華経への帰命という結論であったし、それらは「絶対的一者」は叶わないにしても、信心に応じての様々なレベルでの「神秘的合一」を信者に対しても経験させながら九界の生命境涯で実践させようとしたものである。
 日蓮は立宗宣言以降、一貫して、法への帰命を説いたのであり、その重要な一つが生死一大事血脈抄である。
 残念ながら、後世は、時代の変化とともにこの意図に背き、法への帰命を実質的に物体(文字曼荼羅)への帰命(アニミズム)に置きかえてしまったが、発達した現代科学やニューサイエンスの知見を利用してまでも、そのアニミズム的説明をする識者が見られるのは、正直言って残念に感じる。

「日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり」(四条金吾殿御返事(世雄御書)、御書P1169)
 《日蓮は幼い頃より(現世利益などの)今生の祈りはない。ただ一心に仏に成ろうとしているのである》

 ただ、この文が含まれている日蓮の遺文は、創価学会がひたすら現世利益獲得の一つである選挙(組織内での政策検討論争に乏しく、支持候補の当選だけのための票集め)のために、会員の動機を煽る切り文フレーズである「仏法は勝負」(「仏法と申すは勝負をさきとし…」)の拠り所である。
 これが、先述したような、現世利益を求める個人を組織のエゴに駆り立てて利用し、歴史に栄枯盛衰を晒している一つの要因であり、なんともいえないアイロニーに見えるのは、私だけではないだろう。

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