ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P74, 創価学会組織の社会的性格(4), 自由,独自性,創造性,真の理想と犠牲,真の自我の確立(仏界)を目指す指針
■自由と自発性
「自由の成長する過程は悪循環とならないこと、人間は自由でありながら孤独ではなく、批判的でありながら懐疑にみたされず、独立していながら人類の全体を構成する部分として存在できることを信じている。このような自由は、自我を実現し、自分自身であることによって獲得できる。自我の実現とはなんであるか。」(同書P284)
こう問いかけるフロムにおける「自由と自発性」は、仏界の一要素である。
真の自我の実現は、仏性があればこそ、可能となり、まさしく仏性の湧現のことである。
創価学会の会員は、板マンダラへの盲信と曲解されて伝えられた「血脈」や、池田への絶対服従の論理「師弟不二」によって団結組織を拡大しながら、広宣流布が成し遂げられ、巨大な創価学会王国が世界に実現されると、真面目に信じていた。
しかし、現実には自由から逃走し自動人間となった会員とサド・マゾヒズム的共棲を続ける池田大作組織内では、自由な感情表現を含むパーソナリティが、曲解された「異体同心」の下で幅広く抑えられ、会員も幹部も、そして組織全体においても、自由な理性も幅広い感情もが組織のために広く抑制されて、ともに不全麻痺になった状態である。組織の都合の良い論理や感情のみが発達し、都合が悪くて反対意見を導くものは広く抑制されているのが、その証拠である。
これに関連してフロムは、人間のパーソナリティを理性と感情に分割し、理性により人間の本性を導こうとした結果、人間は理性の囚人となり理性と感情はともにかたわとなったとして、こういう。
「われわれは自我の実現はたんに思考の行為によってばかりでなく、人間のパースナリティ全体の実現、かれの感情的知的な諸能力の積極的な表現によってなしとげられると信ずる。これらの能力はだれにでもそなわっている。それらは表現されてはじめて現実となる。いいかえれば、[積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する]。」(コメント1)
「自発的な行為は、個人が孤独や無力により権威に逃走する強迫的なものではなく。外部の権威から提示される型を、無批判に受け入れる自動人形の行為でもない。自発的な活動は自我の自由な活動であり、自らの自由意思の行為である。」
自発性の前提は
「パースナリティ全体を受け入れ、『理性』と『自然』との分裂を取りのぞくことである。なぜならば、ひとが自我の本質的部分を抑圧しないときにのみ、自分が自分自身にとって明瞭となったときにのみ、また生活のさまざまな領域が根本的な統一に到達したときにのみ、自発的な活動は可能なのであるから」とフロムは指摘する。
先述したが、血脈の定義を述べた日蓮の遺文:生死一大事血脈抄にある「水魚の思い」「異体同心」という条件を組織内に限定することで、創価学会の会員は広く一般的に、理性的・感情的に組織批判の手足が縛られているため、パーソナリティ全体による自発的な行為は組織内では不可能である。
会員のなかでの自発性・創造性は、せいぜい他の、組織での困難の克服に際して発揮されるのみであって、これらは互助会的な活動、地域福祉に貢献する行為において発揮されるが、たいていの場合、機関誌のポイントや選挙における票取りとの取引が本来の目的となっていて、それらは個人の純粋な自発性・創造性の発現とは程遠いものである。
フロムは、自発性・創造性の例として芸術家、哲学者、科学者の他に、小さな子どもたちもあげている。(同書P286、コメント2)
残念ながら、創価学会の座談会では、親に連れられてきた小さな子供たちは、実際に組織の話に加わる事はなく、会場となっている部屋の片隅で、好きなことを自由にさせているのが現状である。
一般人の瞬間的な自発性を、純粋な幸福の瞬間の例として、
「一つの風景を、新鮮に自発的に知覚するとき、ものを考えているうちにある真理がひらめいてくるとき、型にはまらないある感覚的な快楽を感じるとき、また他人にたいして愛情が湧きでるとき…」(同著P286-287、コメント3)
そして、愛を挙げ、こう述べる。
「…自発的な活動は、人間が自我の統一を犠牲にすることなしに、孤独の恐怖を克服する一つの道である。というのは、ひとは自我の自発的な実現において、かれ自身を新しく外界に――人間、自然、自分自身に――結びつけるから。愛はこのような自発性を構成するもっとも大切なものである。しかしその愛とは、自我を相手のうちに解消するものでもなく、相手を所有してしまうことでもなく、相手を自発的に肯定し、個人的自我の確保のうえに立って、個人と他者を結びつけるような愛である。愛のダイナミックな性質はまさにこの両極性のうちにある。すなわち愛は分離を克服しようとする要求から生まれ、合一を導き――しかも個性は排除されないのである」(同書P287、コメント4)
そして、仕事もその一例として挙げ、こう述べる。
「…しかしその仕事とは、孤独を逃れるための強迫的な活動としての仕事ではなく、また自然との関係において、一方では自然の支配であり、一方では人間の手で作りだしたものにたいする崇拝や隷属であったりするような仕事でもなく、創造的行為において、人間が自然と一つとなるような、創造としての仕事である」
そして、
「…自我の個性を確保すると同時に、自我を人間や自然に結びつける。自由に内在する根本的な分裂――個性の誕生と孤独の苦しみ――は、人間の自発的行為によって、より高い次元で解決される。」(同書P287、コメント5)
そして、自我の統一性の基礎は所有ではなく自発的な活動から生まれるとし、自我と環境との関係をこう分析する。
「すべて自発的行為において個人は世界をつつみこむ。かれの個人的自我はそこなわれないばかりか、いっそう強固になる。[というのは、自我は活動的であるほど強いから]。物質的財産の所有であれ感情や思想のような精神的な能力の所有であれ、所有そのものにはなんら純粋な強さはない。また事物の使用や操作のうちにも強さはない。われわれの使うものは、われわれがそれを使うからと言って、われわれのものではない。われわれのものとは、ひとであれ無生物であれ、われわれが創造的な活動によって純粋な関係をもっているものだけである。われわれの自発的な活動から生まれるこれらの性質のみが、自我に強さをあたえ、ひいては自我の統一性の基礎となる。」
そしてこう結ぶ。
「自発的に行動できなかったり、本当に感じたり考えたりすることを表現出来なかったり、またその結果、他人や自分自身にたいしてにせの自我をあらわさなければならなかったりすることが、劣等感や弱小感の根源である。気がついていようといまいと、自分自身でないことほど恥ずべきことはなく、自分自身でものを考え感じ、話すことほど、誇りと幸福をあたえるものはない。」
■六道輪廻にとどまる現代文明
さらに現代文明について、新たな問題点をこう指摘する。
「このことはまた、活動そのもの、すなわち過程がたいせつで、結果がたいせつではないことを意味する。われわれの文化にあっては、まさにその逆が強調されている。」
そして、我々の生産はそれを売るためであり、物事は金で買うことで創造的な努力とは無関係に得られる。自分の人格も努力も一時的満足や金・特権・権力の獲得のための商品となっていて、
「重点は創造的行為の現在の満足でなく、完成された生産品の価値におかれる。そのため、ひとは自分に本当の幸福をあたえてくれるただ一つの満足感――現在の活動の経験――をみのがし、つかまえたと思った瞬間に失望させられる一つのまぼろし――成功という幸福のまぼろし――を追い求める。」(同書P288-289、コメント6)と、現代人の悲惨さを鋭く指摘している。
この姿は、仏法で説く十界論では、天界の喜びの儚い刹那と、それを追い求める地獄・餓鬼・畜生・修羅の生命境涯である。すなわち六道輪廻の姿なのである。
そして、個人が自発的活動によって自我を実現することこそ、ただ一つしかない人生の意味――それは生きる行為そのものであることを悟るのである。
「もし個人が自発的な活動によって自我を実現し、自分自身を外界に関係づけるならば、かれは孤立した原子ではなくなる。すなわち、かれと外界とは構成された一つの全体の部分となる。かれは正当な地位を獲得し、それによって自分自身や人生の意味についての疑いが消滅する。この疑いは分離と生の妨害から生まれたものであるが、強迫的にでも自動的にでもなく、自発的に生きることができるとき、この疑いは消失する。かれは自分自身を活動的創造的個人と感じ、[人生の意味がただ一つあること、それは生きる行為そのものであること]をみとめる。」(同書P289)
そしてその安定とは、自分自身や自分の位置についての根本的な懐疑の克服と、自発的な自然を包含する関係の維持である。これは、個人が外部のより高い力からあたえられる保護ではなく、生の悲劇的な性質が排除されるような安定でもなく、人間の自発的な活動によって瞬間ごとに獲得されるダイナミックな安定であり、なんら幻を必要としない。(同書P289、コメント7)
この「幻」とは、創価学会についてみれば、個人が外部のより高い力から与えられる保護ではなく、生の悲劇的な性質が排除されるような安定ではないことから、物体としては、破門前の板マンダラであり、現在はその認定するところの掛け軸マンダラであろうか。そして、教義・理論としては「師弟不二」や「血脈」及びそれらに付随する数々の指導などであろう。
この幻とは、法華経においては化城に相当する方便であり、方便は真実が明かされた時は捨てて、より高い完成を目指してアップデートすべきものである。
幻想にしがみついている限り、アップデートはない。むしろ幻が消えゆくと共に消滅しゆく。
したがって、真に成仏という完成を目指すならば、創価学会に限らず、あらゆる組織や、そこにおいての理論は、常に更新し続けなければならないのである。
そもそも自我の独自性は、生来の素質と育つ過程やその後の経験・成長によって決まる固有のものである。あらゆる他人とは一致せず、世界に一つしかないものである。
そしてその成長は、自分自身へと同等の、他人の自我の特殊性に対しても最高の尊厳をはらうことでのみ実現する。自他共にわたる独自性を認め、生命の尊厳への行動は、人類の文化の最も価値ある成果である。
しかし、個人がこの自由・独自性から逃走し、他者の権威による自動人間となるならば、自我の基盤の成長が妨げられ、ニセの自己――思考や感情の外部的な型を本質的に受容したものにすぎない自己――がそれに取って代わる。
これにより現在、まさに人類の最も価値ある成果が、危機にさらされている。(コメント8、同書P290)
独自性は平等の原理と矛盾しない。
平等という意味は、人間はすべてに同等に尊厳であり、自由と幸福を求める譲渡・取引すべきでない要求を認めることである。
さらに、真に完成を目指すという前提で言えば、人間の関係は互いに助け合うという連帯性の関係であって、支配―服従の関係ではない。
この平等の概念は全ての人間が類似している意味ではない。
また、この平等概念は現在経済的活動でおこなっている役割から由来する。例えば売買においては、前者が売るものをもち、後者が買う金をもっているという一点だけが重要であり、当事者の個性は排除されている。
そして、フロムは言う。
「経済生活においては、人間の差別はない。現実の人間としてあり、その独自性を培うことが個性の本質である。」(同著P290-291、コメント9)
そして、仏界の生命の言い替えともとれる以下の指摘は達観である。
「積極的な自由はまたつぎのような原理を含んでいる。すなわちこの独自な個人的自我に優越した力は存在せず、人間はその生活の中心であり目的であるということ、また人間の個性の成長と実現とは目的それ自体で、たとえより大きな尊厳をもつように思われる目標にも、けっして従属しないということである…中略…
人間は自分自身よりも高いいかなるものにも従属してはならないということは、理想の尊厳を否定しはしない。反対に、それは理想をもっとも強く肯定することである。」
つまり、極端な例を言えば、真に仏界の境涯が顕われた時は、創価学会に広宣流布(手前みその組織拡大)という理想があったとしても、会員はけっしてそれに従属しないことが、提示されているということである。
■真の理想(仏界)と偽りの理想(六道輪廻)
次に、理想にも真の理想と偽りの理想とがあり、犠牲にもそれらがある。自由の理想とファシズムにおける理想を対比しながら分析論が展開されている。
「真の理想は…個人の成長と幸福という目標にとってのぞましいものを求めようとする欲求を表現している…中略…われわれは貧困、脅迫、孤独が生命に[有害]であり、自由に役立ち、自分自身であることの勇気と強さを促進するすべてのことが、生命に[有益]であることを知っている。人間にとってなにが善で、なにが悪であるかは、形而上学の問題ではなく、人間性の分析と、ある条件がもたらす結果とにもとづいて答えうる経験的な問題である」(同書P292-293、コメント10)
そして、過去の歴史において、民衆に少なからず主観的・魅惑的な満足を与えて繁栄した偽りの魅惑的な理想の例としてファシズムをあげ、その快楽感は病理学的な歪みであるとして、こう述べる。
「マゾヒズムの現象をみると、人間が苦悩や従属の経験に引きこまれることのあることがわかる。苦悩や服従や自殺が、生の積極的な目標にたいするアンチテーゼであることは疑いない。しかもなおこれらの目標は、主観的には満足すべき魅惑的なものとして経験されることができるのである。生命に有害なものへのこの誘惑は、なににもまして病理学的な歪みという名前に価する。多くの心理学者は、快楽の経験と苦痛の回避が人間行為を導くただ一つの正当な原理であると主張した。しかしダイナミックな心理学によって、快楽の主観的経験は、人間の幸福という面からみれば、ある行為の価値を十分にあらわしていないことがわかる。マゾヒズム的な現象の分析がそのよい例である。…快楽感は病理学的な歪みの結果であることがあり、経験の客観的な意味をすこしも実証していないことがわかる。ちょうど毒の甘美な味が、その有機体に及ぼす作用をほとんど実証しないのと同じように。」((同書P293、コメント11)
つまり、快楽・満足は、幸福とは限らないということである。
創価学会に限らず、あらゆる宗教において信仰によって得られた快楽感、いわゆる信仰体験は、病理学的な歪みの結果であることがあり、経験や実証としての客観的な意味を必ずしも表してはいない。
真の日蓮仏法によれば、これらは現世利益を至上の目的としていること――まさにこの事実によって、仏界よりほど遠い六道輪廻(無明=迷い)の姿なのである。
そして真の理想を彼はこう定義する。
「真の理想とは、自我の成長、自由、幸福を促進するすべての目標であり、仮想の理想とは、主観的には魅惑的な経験(服従への衝動のように)でありながら、じっさいには生に有害であるような、強迫的な非合理的な目標と定義するにいたる。いったんこのような定義をみとめれば、本当の理想とは、個人に優越するある仮面をかぶった力ではなく、自我の徹底的な肯定の、明らかな表現であることになる。このような肯定と対立的な理想は、すべてまさにこの事実によって、理想ではなく、病的な目標であることは明瞭である」(同書P293-294)
まったくその通りである。
創価学会末端組織においては、個々人の自我の確立を目指す理想と組織の打ち出しが基づいている理想とが乖離している。
一方は個人の完成へ向かうものが含まれているが、組織の理想は、まさにフロムの言う仮想の理想であり病的な目標である。
組織活動では、この正反対の二つがまさに抱き合わせになっているのである。
このことが、おそらくは、学会員が組織活動から遠ざかっていく根源になっていることは想像に難くない。
■真の犠牲と偽りの犠牲、自己犠牲を伴う「師弟不二」
創価学会における「師弟不二」の実践には、しばしば自己犠牲を伴う。
「いざ鎌倉」と喧伝された精神、「池田先生の手駒となって・・・」というフレーズからも分かる。
この犠牲について、フロムは、
「自由とは[より高い]どのような力にも服従しないことであるが、これは生命の犠牲をもふくめて、犠牲というものを排除することになるであろうか」と問い、このことは、
「ファッシズムが自己犠牲をもっとも高い徳として要求し、多くのひとびとにその理想主義的な性格を印象づけているこんにち、とくに重要な問題である。」
と位置づける。
そして、その答として、犠牲には二つのタイプがあり、真の犠牲は個性の最高の肯定であり、またそのための「手段」でもあるが、ファシズムの犠牲は自我の滅却とより高い力への徹底的な服従であり、その犠牲自体が「目的」となっていると指摘して、こう述べている。
「…われわれは精神的自我の統一性を確保するために肉体的自我をときに犠牲にしなければならないことがあるのは、人生の悲しむべき事実の一つである。…たとえ最高の理想のためにたえしのぶばあいであっても、死は言語に絶してつらいものである。しかも死はわれわれの個性の最高の肯定であることがある。このような犠牲はファッシズムが教える『犠牲』とは根本的にことなっている。ファッシズムにあっては、犠牲は人間が自我を確保するためにはらわなければならない最高の値ではなく、それ自身一つの目的である。このマゾヒズム的な犠牲は生の達成をまさに生の否定、自我の滅却のうちにみている。それはファッシズムがそのあらゆる面にわたってめざすもの――個人的自我の滅却と、より高い力への徹底的な服従――の最高の表現にすぎない。
それは自殺が生の極端な歪みであるのと同じように、真の犠牲の歪みである。真の犠牲は精神的な統一性を求める非妥協的な願望を前提とする。それを失った人間の犠牲は、たんにその精神的な破綻をかくしているのにすぎない。」(同書P295、コメント12)
創価学会の会員は、信仰体験をより多く積み重ねた会員ほど、また、職業的にかかわりが深い会員ほど、いわゆる創価学会における師弟不二の精神で、組織と共棲関係にある。
創価学会の「師弟不二」の精神――師に全面的に仕えるという――は、成仏という完成を目指すものではなく、それ自体が一つの目的となっている。なぜなら、師に仕えることによってはじめて仏法を学べるとしているからである。
つまりは、師につかえる彼らはマゾヒズム的な犠牲、自我の滅却、そしてより高い師匠への徹底的な服従として捉えている。
組織での打ち出しと自己実現との乖離に悩む創価学会会員の、意識するしないに関わらず、険しい生命の葛藤が想像される。
先述した山崎正友や原島崇などの側近は、勇気をもってこのことを世に指摘したのであろう。
■アナーキーの可能性の解決
次にフロムは、個人が自由に行動して自身よりも高い権威は一切認めないならばアナーキーになるのではないかという問いに対し、人間が自我を妥協なしに十分に実現できるのであれば、病人と異常人を除いて、その人の社会的な衝動の危険性は消滅すると述べる。
そして人類の歴史は残虐と破壊性に満ちてはいるが、尊厳・勇気・品位・親切などの性質を保存し発展させてきたことをあげ、「その答は合理的権威と非合理的権威との差別について語ったことにみいだされる筈である。合理的権威は――真の理想のように――個人の成長と発展という目標をもっている。それゆえそれは、原則として個人やかれの現実の目標と対立することはなく、かれの病的な目標と衝突するのである。」
と答える。
自由は二重の意味をもっている。すなわちその一方とは、伝統的権威から解放されて『個人』となったが同時に孤独で無力なものになり、外的な目的の道具となって、新しい束縛へすすんで服従するようになること(つまり、真の自由からの逃走)である。
そしてもう一方の真の自由の勝利についてこう述べている。
「積極的な自由は、能動的自発的に生きる能力をふくめて、個人の諸能力の十分な実現と一致する。自由はそれ自身のダイナミックな運動法則にしたがい、自由の反対物に転換しようとする一つの危機に到達した。デモクラシーの未来は、ルネッサンスこのかた近代思想のイデオロギー的目標であった個人主義の実現にかかっている。今日の文化的政治的危機は個人主義が多すぎるということにではなく、個人主義が空虚な殻になってしまったということに原因がある。自由の勝利は、個人の成長と幸福が文化の目標であり目的であるような社会、また成功やその他どんなことにおいても、なにも弁解する必要のない生活がおこなわれるような社会、また個人が国家にしろ経済機構にしろ、自己の外部にあるどのような力にも従属せず、またそれらに操られないような社会、最後に個人の良心や理想が、外部的要求の内在化ではなく真に[かれのもの]であって、かれの自我の特殊性から生まれてくる目標を表現しているというような社会にまで、デモクラシーが発展するときにのみ可能である」
と述べる。(同書P296-297、コメント13)
そして先程のその合理的権威については、
「われわれが直面している問題は、人間――組織された社会の成員としての――が社会的経済的な力の主人となって、その奴隷であることをやめるように、それらの力を組織化することである」(同書P297)と述べたことを実現する権威のことであろう。
このフロムの理想像はいまだ実現していない。
彼のいう経済的貧困とは絶対的なものであったが、現在ではそれが「相対的貧困」として、なお人類に課題を投げ続けている。
創価学会の会員も、おおむねはかつての貧困から脱して歴史と共に豊かな社会に生きている。
創価学会の会員は、それなりに霊的な、もしくは現実的な信仰体験を持っている人も多いが、創価学会の会員に限ってそうでない人たちと比べて社会的に多くの成功を収めているとは決していえない。
であるならば、創価学会の信仰や組織活動は、創価学会が掲げてきた理論や教義の真実性・信憑性・客観性の一部を疑わざるをえないのではないだろうか。
「社会は社会問題を、自然を支配したと同じように合理的に支配しなければならない。これにたいする一つの条件は、少数ではあっても大きな経済力をふるい、その決定によって民衆の運命を左右し、しかもかれらにたいする責任はかえりみないようなひとびとの、かくれた支配力をとりのぞくことである。…中略…問題はひとびとの目的に奉仕する合理的経済組織を確立することにある。こんにち大部分のひとびとは、経済機構の全体を支配する力をもっていないだけでなく、かれらは自分のたずさわっている特殊な仕事においても、純粋な創意や自発性を発展させる機会をほとんどもっていない。かれらは『雇われて』いて、命令される通りに動くこと以外、かれらには期待できない。」(同書P299)
「問題は純粋な活動の機会が個人に回復されること、社会の目的とかれ自身の目的とが、観念的にではなく現実的に一致すること、またかれが、それが人間の理想からして意味と目的とをもっているからこそ、その仕事に責任を感じ、積極的に努力と理性とを注ぐことである。われわれは人間の駆使を能動的知的な共同によっておきかえ、形式的な政治的領域から経済的領域にいたるまで、人民の、人民による、人民のための政府という原理を発展させなければならない。」(同書P299)とフロムは言う。
創価学会の組織内においても、フロムの指摘があてはまることをこれまで述べてきた。すなわち、組織内において純真な会員は、主観的な信仰体験はあるものの、組織の権威に服従し組織維持のためのポイントや票取りなどのための自動人形となっている。
標榜する827万世帯と世論調査による現実の会員数とは大いなる乖離があることからも、これに疑問を感じながら組織活動から距離をおいている会員のほうが圧倒的に多いことは、私や親族や友人の所属する末端組織をみても明らかなことであり、組織全体も同様であることは想像に難くない。
今日の創価学会組織内において、個々の会員のこういった矛盾についての疑問に真摯に対応する機構があるだろうか。
末端組織内では互助会的な支え合いと抱き合わせ、矛盾を抱えながら、異体同心の美名のもとに、直面すべき問題をぼかし続けているのが実情ではないだろうか。
批判拒否の体質は、言論出版妨害事件の前後からあるもので、その改善の努力は多少はあっただろうけれども、査問・除名をされ、また組織を批判した会員がスラップ訴訟をされる現状を見ると、いまだにその体質が続いていると判断せざるを得ない。
この現象は、会員が信仰によって得られた功徳を(それが客観的に功徳と言えるかどうかはさておいて)組織の完成のために還元しているとはどうしても言い難いと思える。
『人間革命』の主題にある、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」という文は(この前後の内容は私も暗唱できるほど熱心であったが)、直近の創価学会組織――創価学会仏と神聖視されている――の「人間革命」すらおぼつかずに凋落傾向になっている歴史をもって、もはや空文化しているといえないか。
■自由から逃走せず、真の自我の確立(仏界)を目指す指針
「しかしファッシズムの脅威を国の内外を問わず真剣にとりあげても、もしわれわれが、われわれ自身の社会においても、個人の無意味と無力さという、どこででもファッシズム台頭の温床となるような現象に直面しているのをみのがすならば、これほど大きな誤謬、重大な危険はない。
このような考えは、あらゆる外的な束縛から個人を解放することによって、近代デモクラシーは真の個人主義を完成したという通念と対立するものである。われわれはどのような外的権威にも従属していないことや、われわれの思想や感情を自由に表現できることを誇りとしている。そしてわれわれはこの自由こそ、ほとんど自動的にわれわれの個性を保証するものであると考えている。[しかし思想を表現する権利は、われわれが自分の思想をもつことができるばあいにおいてだけ意味がある]。外的権威からの自由は、われわれが自分の個性を確立することができる内的な心理的条件があってはじめて、恒久的な成果となる。われわれはその目標を達成したであろうか。あるいは少くとも(ママ)それに近づきつつあるだろうか。」({自由からの逃走」P266-267)
学会組織という外的な束縛から完全に解放されている熱心な会員に、私は出会った事がない。
創価学会の組織内においても、このフロムの指摘通り、どこででもファッシズム台頭の温床となるような、個人の無意味と無力さという現象に直面しているのである。
これは、あらゆる外的な束縛から個人を解放することによって、近代民主主義が真の個人主義を完成したという通念を単なる建前上の幻想としているのである。
常識的には、我々はいかなる外的権威にも従属せず、自分の思想や感情を自由に表現できることを誇りとしている。そしてこの自由こそ、我々の個性を保証するものと考えている。
しかし思想を表現する権利は、自分の思想を持ちながら常に開拓を続けていく努力がなされる場合においてのみ意味がある。
そして、所属組織などの外的権威からの自由は、自分の個性を確立することができる内的な心理的条件があってはじめて、恒久的な成果となるのである。
万人を救済する目的を持ち広宣流布を掲げる創価学会員一人ひとりは、毎日の勤行・唱題や自行化他にわたる仏法の修行によって、こういった目的――成仏という完成――を、はたして達成していると評価できるのであろうか。
池田大作は人間主義と言っているが、熱心な活動家の実態は、無意識的に現代風の孤独と無力に陥りながら揺るぎない組織と共棲し、病的なマゾヒズム的快感を信仰の功徳と勘違いしながら、政治的意義も自ら独自に独創的に考えることもなく、自動人形として選挙のたびに組織の打ち出しの言うがまま、地域を超えて働く集票マシンとして尻を叩かれているのが実態ではないだろうか。
フロムの言葉を演繹していえば、現在の創価学会員一人ひとりが直面している課題は、創価学会の一人ひとりの成員として、「その奴隷であることをやめ」、各自が自分自身の思想を日蓮仏法の真の実践によって確立しながら、創価学会全体としての社会的経済的な力の真の主人となって、その力を組織化することである。
言いかえれば、現在のトップダウンの打ち出しに盲従するのとは真逆なこと、すなわち、一人ひとりのアップデートを成し遂げながら草の根運動を展開し、それを組織全体へ広げ、各人がアップデートしつつある教義も共に持ち合わせ、然るべき機会・場所を通じて集約していくことである。集約の場は、科学や医学の専門領域において定期的に行われる学術集会を手本としても良いだろう。これがまさに、「学会」という名にふさわしい姿であると考える。
いまでこそ遅くはない。これらの現実問題を直視し、先述したフロムの指摘の如く、組織の政治的エゴではなく純粋な活動の機会が個人に回復され(つまり支持政党の自由、選挙活動参加の自由等)、組織の目的と会員一人一人自身の目的とが、観念的にではなく現実的に一致するように、また会員らが、それが人間の理想からして意味と目的とをもてるように、その組織活動に責任を感じ、積極的に努力と理性とを注ぐことができるように、体質改善に取り組んでいくべきである。
そして形式的な政治的領域から財務等という経済的領域にいたるまで、会員の、会員による、会員のための組織という原理を発展させなければならない。
そのためには、固執してきた「師弟不二」や「血脈」などの教義、仏法は勝負などという日蓮仏法の誤った解釈を更新して、時代に合わせて書き直さなければならない。
池田大作が公から姿を消して、創価学会執行部が集団指導体制になっていることは、この意味では良い機会となりうる可能性を秘めている。
「こんにちほど、言葉が真理をかくすために悪用されることはかつてなかった」(同書P300 )とフロムは指摘している。
会員一人一人は、創価三代の永遠性――池田大作はその意味では現在の生き仏のような存在とされている――という幻想を捨て、隠蔽された都合の悪い過去の歴史を清算し、きちんと真実を書き直しながら、組織の一員として新たな一歩をふみだすべきであろう。
小説「人間革命」「新・人間革命」は、組織のエゴではなく、人類の歴史に真実を残すため、心ある会員――日蓮仏法の実践によって内的な心理的条件を確立し自分の個性を構築して恒久的な成果を常にアップデートし続ける、成仏と言う境涯を顕現し、つまり常に完成を目指して絶え間なく努力し続ける会員――によって書き直すべきなのだ。
この拙論文が、そのためのわずかながらでも貢献ができれば幸いである。
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「近代人にとって自由は二重の意味をもっている…すなわち、近代人は伝統的権威から解放されて『個人』となったが、しかし同時に、かれは孤独な無力なものになり、自分自身や他人から引きはなされた、外在的な目的の道具となったということ、さらにこの状態は、かれの自我を根底から危くし、かれを弱め、おびやかし、かれに新しい束縛へすすんで服従するようにするということである。それにたいし積極的な自由は、能動的自発的に生きる能力をふくめて、個人の諸能力の十分な実現と一致する。自由はそれ自身のダイナミックな運動法則にしたがい、自由の反対物に転換しようとする一つの危機に到達した。デモクラシーの未来は、ルネッサンスこのかた近代思想のイデオロギー的目標であった個人主義の実現にかかっている。今日の文化的政治的危機は個人主義が多すぎるということにではなく、個人主義が空虚な殻になってしまったということに原因がある。自由の勝利は、個人の成長と幸福が文化の目標であり目的であるような社会、また成功やその他どんなことにおいても、なにも弁解する必要のない生活がおこなわれるような社会、また個人が国家にしろ経済機構にしろ、自己の外部にあるどのような力にも従属せず、またそれらに操られないような社会、最後に個人の良心や理想が、外部的要求の内在化ではなく真に[かれのもの]であって、かれの自我の特殊性から生まれてくる目標を表現しているというような社会にまで、デモクラシーが発展するときにのみ可能である。これらの目標はこれまでの近代史のどのような時代にも、十分に実現されることができなかった。すなわち、それらは多くイデオロギー的な目標にとどまらなければならなかった。その理由は、純粋な個人主義の発展を約束する物質的基盤がかけていたからである。資本主義はこの前提を造りだした。生産の問題は――少くとも原則的には――解決された。そしてわれわれは、経済的な特権を求める争いが、もはや経済的貧困によってうながされることのない豊富な未来を思いうかべることができる。こんにちわれわれが直面している問題は、人間――組織された社会の成員としての――が社会的経済的な力の主人となって、その奴隷であることをやめるように、それらの力を組織化することである」(同書P296-297)
12.
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「われわれの肉体的な自我の要求と、われわれの精神的自我の目標とが対立抗争することがあること。すなわちじっさいに、われわれは精神的自我の統一性を確保するために肉体的自我をときに犠牲にしなければならないことがあるのは、人生の悲しむべき事実の一つである。この犠牲はけっしてその悲劇的な性質を失わないであろう。死はけっして甘美なものではない、たとえ最高の理想のためにたえしのぶばあいであっても、死は言語に絶してつらいものである。しかも死はわれわれの個性の最高の肯定であることがある。このような犠牲はファッシズムが教える『犠牲』とは根本的にことなっている。ファッシズムにあっては、犠牲は人間が自我を確保するためにはらわなければならない最高の値ではなく、それ自身一つの目的である。このマゾヒズム的な犠牲は生の達成をまさに生の否定、自我の滅却のうちにみている。それはファッシズムがそのあらゆる面にわたってめざすもの――個人的自我の滅却と、より高い力への徹底的な服従――の最高の表現にすぎない。
それは自殺が生の極端な歪みであるのと同じように、真の犠牲の歪みである。真の犠牲は精神的な統一性を求める非妥協的な願望を前提とする。それを失った人間の犠牲は、たんにその精神的な破綻をかくしているのにすぎない。」(同書P294-295)
11.
コメント11
「しかし生命にたいして決定的に対立するファッシストの『理想』のようなものについてはどうであろうか。あるひとびとが、他のひとびとが本当の理想にしたがっているのと同じような熱心さで、いつわりの理想にしたがっているという事実は、どのように理解できるのであろうか。この問題にたいする答えは、心理学的考察によってあたえられる。マゾヒズムの現象をみると、人間が苦悩や従属の経験に引きこまれることのあることがわかる。苦悩や服従や自殺が、生の積極的な目標にたいするアンチテーゼであることは疑いない。しかもなおこれらの目標は、主観的には満足すべき魅惑的なものとして経験されることができるのである。生命に有害なものへのこの誘惑は、なににもまして病理学的な歪みという名前に価する。多くの心理学者は、快楽の経験と苦痛の回避が人間行為を導くただ一つの正当な原理であると主張した。しかしダイナミックな心理学によって、快楽の主観的経験は、人間の幸福という面からみれば、ある行為の価値を十分にあらわしていないことがわかる。マゾヒズム的な現象の分析がそのよい例である。このような分析によって、快楽感は病理学的な歪みの結果であることがあり、経験の客観的な意味をすこしも実証していないことがわかる。ちょうど毒の甘美な味が、その有機体に及ぼす作用をほとんど実証しないのと同じように。」(同書P293)
10.
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「われわれは真の理想と仮想の理想とのちがいを認識しなければならない。それはちょうど真実と虚偽とのちがいと同じような根本的な差異である。真の理想はすべて一つの共通したものがある。すなわちそれらは、まだ実現されてはいないとしても、個人の成長と幸福という目標にとってのぞましいものを求めようとする欲求を表現している…中略…われわれは貧困、脅迫、孤独が生命に[有害]であり、自由に役立ち、自分自身であることの勇気と強さを促進するすべてのことが、生命に[有益]であることを知っている。人間にとってなにが善で、なにが悪であるかは、形而上学の問題ではなく、人間性の分析と、ある条件がもたらす結果とにもとづいて答えうる経験的な問題である」(同書P292-293)
9.
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「自我の独自性はけっして平等の原理と矛盾しない。人間は生まれつき平等であるという命題の意味は、人間はすべて同じ根本的な人間性をあたえられ、人間存在の根本的運命を分有し、すべて同じように、自由と幸福とを求める譲渡すべからざる要求をもっているということである。さらに、人間の関係は連帯性の関係であって、支配――服従の関係ではないことを意味する。平等の概念はすべての人間が類似しているということを意味していない。このような平等概念はこんにち個人がその経済的活動でおこなっている役割から由来する。売る人間と買う人間との関係においては、パースナリティの具体的な差異は排除される。この状況ではただ一つのことだけが重要である。すなわち、前者が売るものをもち、後者が買う金をもっているということである。経済生活においては、人間の差別はない。現実の人間としてあり、その独自性を培うことが個性の本質である。」(同著P290-291)
8.
コメント8
「自我の実現としての積極的な自由は、個人の独自性を十分に肯定する。人間は生まれるときは平等であるが、しかしまたことなってもいる。この差異の根拠は人生に出発するときにもっている生理的精神的な生まれつきの素質であり、さらにかれらが遭遇する特殊な環境や経験の状況がつけ加わる。
パースナリティのこの個人的基礎は、二つの有機体が肉体的にけっして同一でないのと同じく、他のどんなひとともほとんど一致しない。自我の純粋な成長は常にこの特殊な基盤のうえにたった成長である。それは一つの有機的な成長であり、この一人の人間に、そしてかれだけに固有の一つの中核の展開である。自動的な自我の展開は、これに反して、有機的な成長ではない。そこでは自我の基盤の成長が妨げられ、にせの自己がそのうえにおかれている。にせの自我とは――すでにみたように――本質的に思考や感情の外部的な型を受容したものにすぎない。有機的な成長は自分自身についてと同じく、他人の自我の特殊性にたいして、最高の尊敬をはらうばあいにおいてのみ可能である。自我の独自性にたいするこの尊敬とその育成は、人間文化のもっとも価値ある成果である。そして現在危機にさらされているのは、まさにこの成果なのである。」(同書P290)
7.
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「もし個人が自分自身について、および人生における自分の位置についての根本的な懐疑を克服するならば、もしかれが自発的な営みにおいて、自然にたいしてそれを包含するような関係をたもつならば、かれは個人として、強さを獲得し安定をうる。しかしこの安定は、外界にたいする新しい関係が第一次的絆とことなるように、前個人的段階に特徴的な安定とはことなっている。新しい安定は個人が外部のより高い力からあたえられるような保護にもとづいているのではない。またそれは生の悲劇的な性質が排除されるような安定ではない。新しい安定はダイナミックである。それは保護にではなく、人間の自発的な活動にもとづいている。それは人間の自発的な活動によって瞬間ごとに獲得される安定である。それは自由だけがあたえることができ、まぼろしを必要とする諸条件を排除しているが故に、なんらまぼろしを必要としない安定である」(同書P289)
6.
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「われわれはある具体的な満足をめざして生産するのではなく、われわれの商品を売るという抽象的な目的のために生産している。われわれは、物質的なものであれ非物質的なものであれ、事物はすべて買うことによって獲得できると考えている。こうして、事物はそれにたいするわれわれ自身の創造的な努力とは無関係に、われわれのものとなるのである。同じようにわれわれは、自分の人格的な性質や努力の結果を、金や特権や権力のために売ることのできる商品と考えている。こうして、重点は創造的行為の現在の満足でなく、完成された生産品の価値におかれる。そのため、ひとは自分に本当の幸福をあたえてくれるただ一つの満足感――現在の活動の経験――をみのがし、つかまえたと思った瞬間に失望させられる一つのまぼろし――成功という幸福のまぼろし――を追い求める。」(同書P288-289)
5.
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「仕事もいま一つの構成要素である。しかしその仕事とは、孤独を逃れるための強迫的な活動としての仕事ではなく、また自然との関係において、一方では自然の支配であり、一方では人間の手で作りだしたものにたいする崇拝や隷属であったりするような仕事でもなく、創造的行為において、人間が自然と一つとなるような、創造としての仕事である。愛や仕事についていえることは、官能的快楽の実現であれ、共同体の政治的生活への参加であれ、すべての自発的な行為についていえる。それは自我の個性を確保すると同時に、自我を人間や自然に結びつける。自由に内在する根本的な分裂――個性の誕生と孤独の苦しみ――は、人間の自発的行為によって、より高い次元で解決される。」(同書P287)
4.
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「自発的な活動がなぜ自由の問題にたいする答えとなるのだろうか。われわれは先に消極的な自由はそれだけでは個人を孤独にすること、個人と世界との関係は、疎遠な信頼できないものとなること、かれの自我は弱められ、断えずおびやかされることを述べた。自発的な活動は、人間が自我の統一を犠牲にすることなしに、孤独の恐怖を克服する一つの道である。というのは、ひとは自我の自発的な実現において、かれ自身を新しく外界に――人間、自然、自分自身に――結びつけるから。愛はこのような自発性を構成するもっとも大切なものである。しかしその愛とは、自我を相手のうちに解消するものでもなく、相手を所有してしまうことでもなく、相手を自発的に肯定し、個人的自我の確保のうえに立って、個人と他者を結びつけるような愛である。愛のダイナミックな性質はまさにこの両極性のうちにある。すなわち愛は分離を克服しようとする要求から生まれ、合一を導き――しかも個性は排除されないのである」(同書P287)
3.
コメント3
「われわれの大部分は、少くともある瞬間には、われわれ自身の自発性をみとめることができる。それは同時に純粋な幸福の瞬間である。一つの風景を、新鮮に自発的に知覚するとき、ものを考えているうちにある真理がひらめいてくるとき、型にはまらないある感覚的な快楽を感じるとき、また他人にたいして愛情が湧きでるとき、――このような瞬間に、われわれはみな、自発的な活動とはどのようなものであるかを知るであろう。そしてもしこれらの経験が、それほどまでも粗野でもなくおこるとすれば、人間の生活がどんなものになるか、想像してみることができるであろう」(同著P286-287)
2.
コメント2
「かれらは本当に[自分のもの]を感じ、考える能力をもっている。この自発性はかれらが話したり考えたりすることのうち、またかれらの顔に表現される感情のうちにみられる。もし大部分のひとを引きつける子どものの魅力がなんであるか問うならば、センチメンタルな月並みな理由は別として、私はまさにこの自発性にちがいないと思う。この自発性は、それを感知する力を失うほどには死んでいないひとびとに、深く訴えていく。じっさい、子どもにせよ芸術家にせよ、あるいはこのような年齢や職業で分類することのできないひとびとにせよ、かれらの自発性ほど、魅惑的説得的なものはない」(フロム「自由からの逃走」P286)
1.
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「観念的な哲学者は、自我の実現は知的洞察だけでなしとげられると信じていた。かれらは人間のパースナリティを分割することを主張し、人間の本性が、理性によって、抑えられ導かれるようにしようとした。しかしこの分割の結果、人間の感情生活ばかりでなく知的な能力もかたわになった。理性はその囚人である人間性を監視する看守となることによって、自分自身が囚人となった。そして人間のパースナリティの両面、すなわち理性と感情はともにかたわとなった。われわれは自我の実現はたんに思考の行為によってばかりでなく、人間のパースナリティ全体の実現、かれの感情的知的な諸能力の積極的な表現によってなしとげられると信ずる。これらの能力はだれにでもそなわっている。それらは表現されてはじめて現実となる。いいかえれば、[積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する]。」(フロム「自由からの逃走」)