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P71, 血脈アップデートの試み、創価学会組織の社会的性格(1)

■日蓮仏法の血脈と、そのアップデートの試み

 仏法における「血脈」については、日蓮の遺文に明確に述べられた部分がある。すなわち日蓮は生死一大事血脈抄(御書P1336~1338)の冒頭から、こう述べている。

「生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて 此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり」
《生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経のことである。その故は、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で上行菩薩に譲りになったこの妙法蓮華経の五字こそが、過去遠々劫以来、寸時も離れることのなかった血脈の法なのであるからである》

 これに続いた定義として、
「釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、 此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」
《(法華経の虚空会の儀式において、宝塔の中で並坐する)釈迦・多宝の二仏も、生死の二法をあらわしているのである。(つまり十界の当体が妙法蓮華経であるから、そのなかの仏界の象徴である)久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経(妙法蓮華経)と我ら九界の衆生の三つは全く差別がないと悟って、妙法蓮華経と唱えたてまつることを生死一大事の血脈というのである。これこそが日蓮が弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとは、これこそをいうのである》

 平たくいえば、永遠の生命に関する一大事である「血脈」とは、「妙法蓮華経」と定義する。なぜなら法華経において、この血脈=妙法蓮華経が、永遠に貫かれている法則であり、宝塔の中で釈迦・多宝の二仏から上行菩薩をはじめ無数の地涌の菩薩が受け継いだのがこの法則である。
 釈迦・多宝の二仏も「妙法蓮華経」と定義する生死の二法則を意味している。であるから、一切の永遠にわたる生命法則を「妙法蓮華経」と定義して、これを「血脈」としたのであるから、仏界の象徴として説かれた久遠実成の釈尊も、万人を成仏に導く妙法蓮華経という法則も、その法則にしたがって修行する我ら九界の衆生が法則によって織りなす姿の三つは、まったく同じものである。このように悟って妙法蓮華経と唱えたてまつることを生死一大事の血脈というのである。
 そして、日蓮は、これこそが日蓮の弟子檀那などの肝要なのであり、結局のところ法華経を持つとは、これこそをいうのであると喝破する。
 その詳細な説明がなされながら、
「過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり、謗法不信の者は「即断一切世間仏種」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり」
 とくぎを打っている。と
 だから、次なる後世における指導も客観的でもっともなことになる。すなわち、
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、 然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり」
《一般的にいえば、日蓮が弟子檀那等が、自分とか他人とか、彼がどうのこれがどうの等との分け隔てをしないで、(互いに必須であるという)水魚の思いをなして、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えたてまつるのを生死一大事の血脈というのである。しかも今、日蓮が弘通する法則の肝要はこれなのである》
 ここに、日蓮の客観的な分析と説明があらわれている。
 万人を成仏に導く法則に、その万人を個別に区別・差別するのは禁忌である。もしそれを許してしまったら、客観性が担保できなくなり、真理・法則ではなくなり、手前勝手でよこしまな主張になり下がってしまう。
 水魚の思いとは、魚の生存にとって水は必須であり、水は魚の肉体の中にも入り込んでいるから水にとっても魚はその栖となっているという自然法則の譬えである。
 異体同心とは、体(肉体や精神や、国や組織や所属団体や家族などの社会的条件)は個別に異なっていても、万人を救済し広宣流布を目指す心は同じであるということである。
 すなわち、法則を弘める血脈とは、一念三千の法則の中にある三世間(五蘊世間・衆生世間・国土世間)を個別には一切差別してはいけないことが含まれているのである。
 所属団体や国が違っても、老若男女、心を同じくして繋がり合いながら、南無妙法蓮華経と唱え広めていってくださいとのことなのである。

 創価学会が、この部分を切り文にして機関誌に載せることもしばしばあるが、残念ながら水魚の思い・異体同心などは、組織内の会員の間でのみの意味に限定している。決して、南無妙法蓮華経と唱える他宗(とくに破門された日蓮正宗)を含んでいない。そして、あろうことか、日蓮のこの意図に背き、日蓮仏法を御書の通り広宣流布している団体は「創価学会しか無い」と言い張っているのである。これひとえに御書の組織利用である。何度も繰り返すが、そのような態度は、この御書のなかで言及されている「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして」に違背しているのは明らかである。それだから、同じ遺文の中で「法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば・定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん」と説かれているところの「法華不信の者」に該当することになるのではないだろうか。
 したがって、創価学会は教義として、この部分は変更・更新すべきである。
 他に、日蓮の遺文にも「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなりしかるを・ひりに主をうらみなんどし候へば・いかに申せども天まほり給う事なし」(四条金吾殿御返事(八風抄)、御書P1151、コメント1)とあるとおり、日蓮が指摘している八風のなかの利(うるおい)・誉れ・称えに犯されることなく、つまりは、けっして、自己の組織の利害得失に捉われず、御書根本と謳っているのならなおさら御書にあるとおり、血脈に関しても日蓮の真意を正直に受け入れ、真摯にそれを実践していくべきである。広宣流布を目指す人や諸団体ともともに「自他彼此の区別なく」「水魚の思い・異体同心」にして、血脈を受け継いでいくべきであろう。それなのに、道理に反して南無妙法蓮華経と唱える会員(造反者も含む)や他の団体の人(民主主義時代では有権者)を恨んだりしては、組織としての諸天の加護もないことが遺文にも述べられているとおりである。


 話を戻して、さらに結びの前の部分では、当時の学問レベルで大自然の法則の一部(地水火風空)に言及し、それと同様に血脈の受け継がれていく姿が、こう述べられている。
「此の文に委悉なり能く能く心得させ給へ、 只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ、火は焼照を以て行と為し・水は垢穢を浄るを以て行と為し・風は塵埃を払ふを以て行と為し・又人畜草木の為に魂となるを以て行と為し・大地は草木を生ずるを以て行と為し・天は潤すを以て行と為す・妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり、上行菩薩・末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由・ 経文には見え候へども如何が候やらん、上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり」
《この文に詳細したようによく心得てください。南無妙法蓮華経、釈迦多宝上行菩薩血脈相承と唱え、修行してください。
 火は物を焼き、明るく照らす働き、水は垢や穢を清める働き、風は塵や埃を払う働きや、また人畜・草木に魂を吹き込んでいるのであり、大地は草木の生きる礎であり、天は万物を潤している。妙法蓮華経の五字もまた、この地、水、火、風、空の働きをすべて具えているのである。本化地涌の利益がこれである。
 さて、上行菩薩が末法である今時、この妙法を弘めるため御出現される旨が経文に見えているが、いかがであろうか。
 上行菩薩が出現するにせよ、しないにせよ、日蓮がまずそれをあらかた弘めているのである》

 さらに結びでは、こう述べている。
「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。
文永九年壬申二月十一日               桑門 日蓮花押
最蓮房上人御返事」
《心して心して強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念してください。生死一大事の血脈をこのほかにけっして求めてはならない。煩悩即菩提、生死即涅槃とはこのことです。信心の血脈がなければ法華経を持っても無益です。詳しくはまたまた申し上げよう。恐恐謹言》


 信心の血脈がなければ法華経を持っても無益である旨、仏法者としては、よくよく肝に銘じなければならないであろう。


 以上は、この日蓮の遺文を用いて、その見地から宇宙一切根源法の血脈について述べた。 ここで用いられている比喩の解釈は、現代の科学の発展状況に合わせて更新していくべきであろう。
 そして、その血脈=宇宙一切根源法の定義――南無妙法蓮華経――についても、必ずしも日蓮の遺文に従わなくてもいいのではないだろうか。たとえばサンスクリット語の音訳であるサ・ダルマ・プンダリーカ・スーツラを略して「サダプンスーツラ」と定義してもかまわないのではないか。そして、論理的にはそう定義した別の組織が出現して、仏法や日蓮の遺文を参考にして更新しながら広宣流布しても、一向にさしつかえないのではないだろか。



■創価学会組織の社会的性格(1)

 フロムの「自由からの逃走」には、現代デモクラシーがもたらす個々人の自由からの逃走についての解決法の試みが述べられている。
 そこでは、その基礎分析として「社会的性格」なる概念を定義し使用されている。

「われわれが興味をもつのは、これらの人間がたがいにことなっているその特殊性ではなく、その集団の大部分の性格構造に共通する面である。このような性格は[社会的性格]と呼ぶことができよう。……
……社会的性格は個人のもっている特性のうちから、あるものをぬきだしたもので、[一つの集団の大部分の成員がもっている性格構造の本質的な中核であり、その集団に共同の基本的経験と生活様式の結果発達したものである]。…
このような思想は、思考作用のうちに含まれている純粋に論理的な要素のほかに、思考する人間のパースナリティの構造によって、大きく決定されてくる。このことは、愛、正義、平等、犠牲、というような単一の概念ばかりでなく、一つの教義や論理的体系全体についてもいうことができる。このような概念や教義はそれぞれ一つの感情的な中核をもっており、その感情的な中核は個人の性格構造のうちに根をおろしている」(同書P307)

 「どのばあいにも、ある社会階級が新しい経済的傾向によって脅威をうけると、その階級はこの脅威にたいして、心理的に、またイデオロギー的に反応していく。そしてこのような反応によってもたらされた心理的変化が、経済力の発達を促進する。たとえそれらの力が、その階級の経済的利益と矛盾するものであったも。経済的、心理的、イデオロギー的な諸力は、社会過程においてつぎのような方法で作用する。すなわち、人間は外界の変化にたいして自分自身を変化させることによって対処し、そしてこれらの心理的要因が、こんどは逆に、経済的社会的な過程の形成を助長する。経済的な力は有力なものであるが、心理的動機としてではなく、客観的な条件として理解されなければならない。心理的な力も有力なものであるが、心理的動機としてではなく、客観的な条件としてりかいされなければならない。さらに思想も有力なものではあるが、社会集団の成員の性格構造全体に根ざしたものとして理解されなければならない。しかし経済的、心理的、イデオロギー的な諸力は、相互に依存しあっているにもかかわらず、それぞれある独立性をもっている。このことは経済的な発展に関してとくに真実である。それは、自然の生産力とか技術とか地理的要素とかいう客観的な要素に依存し、それ自身の法則にしたがって生起していく。心理的な力についても、同じことがいえることをわれわれは指摘した。すなわち、心理的な力は生活の外的条件によって形成されるのであるが、それはまたそれ自身の力学をもっている。すなわちそれは、形はかえられるが、けっして根絶することはできない、人間的欲求の表現である。イデオロギーの分野でも、論理的法則や歴史の経過のうちに獲得された、伝統的な知識の有機体に根をおろした、それ自体の運動法則がみられる。
 われわれは、この原理を、社会的性格という言葉でもう一度述べることができる。社会的性格は、社会構造にたいして人間性がダイナミックに適応していく結果生まれる。社会的条件が変化すると社会的性格が変化し、新しい欲求と願望が生まれる。これらの新しい欲求が新しい思想を生み、ひとびとにそれらの思想をうけいれやすいようにする。これらの新しい思想が、こんどは新しい社会的性格を固定化し強化し、人間の行動を決定する。いいかえれば、社会的条件は性格という媒体を通して、イデオロギー的現象に影響をあたえる。他方、性格とは社会的条件にたいする消極的な適応の結果ではなく、人間性に生得的な生物学的要素にもとづく、あるいは歴史的進化の結果内在的となった要素にもとづくダイナミックな適応の結果なのである。」(「自由からの逃走」P325—P327)


 これは仏法における一念三千、依正不二の原理の、ひとつの分析である。
この原理は当然乍ら創価の発展過程にも当てはまる。
つまりは、創価学会の師弟不二の組織と会員心理の相互発展過程を、これで説明することができる。
 釈迦から日蓮、日興への血脈も、現代から見れば非科学的・直観的なものである。ここで日蓮も釈迦も修行の妨げとなる現世利益については否定的であったことは先述した。

 ちなみにフロムはその後の著「希望の革命」において、こうも述べている。
「価値――公認の価値にせよ、事実上の価値にせよ――は構造化されない個々の項目ではなく、ヒエラルキーを構成するものであって、その中ではある最高の価値が、それを実現するために必要な相関物として、他の価値を決定するのだ。今論じたばかりのあの人間独特の諸体験が発展して、過去四千年の西洋、インド、中国の心理・精神的伝統の価値体系を作り上げているのである。これらの価値体系が啓示に基づいている限り、啓示の源――はそれは西洋に関する限りは神を意味する――を信じている人びとを拘束していた(仏教と道教の価値は、超越者の啓示に基づくものではなかった。特に仏教では、価値の妥当性は根源的な人間の状態――苦しみ、その根源すなわち貪欲の認識、そして貪欲を克服する方法すなわち〈八正道〉の認識――を検討することによって得られる。このため、仏教的な価値のヒエラルキーは、合理的な思考とほんとうの人間としての体験以外に何の前提も持たない人にも、近づきやすいものである)。」(「希望の革命――改訂版」2010/5/27、紀伊国屋書店、P139)
(続いても価値についてフロムは述べているが、ここでは割愛する)

 貪欲が現世利益を求めるものであることは明白であるが、本来発生以来から仏教では、貪欲の克服を説いているのである。

 話は戻るが、その後の後世における様々な分裂・抗争、日寛アニミズム、牧口の価値論から始まった創価教育学会から、現在の創価学会に至るまで、その主たる教義の目指すところは現世利益や処施術になり下がってしまっている。

 会員や教育者から一般民衆へ、その支持を集めた創価学会は、折伏と定義されていた本来の意味から逸脱しながら、幻想である功徳の導きと罰論での脅し、現世利益に群がる民衆を抱え込み、利己的利益の追求を、折伏と称して行い、「貧・病・争」の人たちを取り込んで組織的に大発展した。
 新規入会会員は組織の打ち出しによって性格変化をし、それが創価学会組織の社会的性格の変化をもたらしながら相互に作用しながら組織拡大していく。
 やがて日本に国立戒壇を建立する(先述したが名目は広宣流布、言論出版妨害事件の謝罪後からはこれを取り下げ、民衆立の正本堂建立とした)ために公明党での政界へ進出し、言論出版妨害事件や新宿選挙違反事件など、様々な反社会的問題を引き起こす。
 その名目的な謝罪後は反戦平和路線へ変更した。欺瞞満載(世帯数など)の組織的発展にもかかわらずその体質や社会的性格は実質的には変わらず、熱心な会員の性格構造も時代に乗り遅れてあまり変化しなかった。
 こういった性格構造のもたらす組織内外への軋轢は正本堂建立後あたりから表面化し続け、やがてその所属本山である日蓮正宗と対立し破門されて、独自路線(創価ルネサンスと称する)を進めることになる。
 その後は一定の組織維持や、公明党の政権参加を実現し、現在は自公連立政権で権力側に位置しているが、カリスマ的存在であった池田大作が公から失踪し、後継者を育てていなかったためか、執行部は迷走しながら会則修正、執行部集団指導体制、脱池田化と池田の永遠化をひたすらアピールして組織維持に尽力している。しかし、様々な識者やジャーナリストの指摘通り、組織全体の凋落傾向は否めない。

 この歴史的流れは、フロムの指摘する社会的性格による因果応報である。
 創価学会の社会的性格は、社会環境や社会構造に対して学会員個人個人がダイナミックに適応しながら変化し、新しい欲求・願望(現世利益)を生みだし、これらが思想・教義を解釈変遷させ、会員に組織の打ち出しを受け入れやすくする。これらの新しい思想が更に新しい社会的性格を固定化し強化し、会員の行動を制御する。言い換えれば社会的条件は性格という媒体を通して、イデオロギー的現象に影響をあたえる。他方、性格とは人間性に生得的な生物学的要素や歴史的進化の結果内在的となった要素にもとづくダイナミックな適応の結果である。

 ITをはじめとする様々な科学技術の発達、社会環境・インフラや制度の向上のため、絶対的貧困が激減し、ほんの一部ニュースになるほどの人を除いてほとんどすべての各個人は一人になっても、かつての戦後の社会に比べたらそんなに痛みを感じることもなく、あまり著しい苦労をすることもなく食っていけるようになった。
 精神的貧困や相対的貧困が、かつての問題に取って代わり、経済は国を超えてグローバル化した。各個人は主体的なアクセスを前提に、少子高齢化や環境問題・地球温暖化問題・国家間や地域紛争等の世界的課題に直面していると言える。



■罰論・抱き合わせ功徳論

 かつて牧口・戸田時代の創価学会は、先述したが、折伏のときに罰論を展開した。
 私の経験したところ、折伏では、邪宗教では罰があたる、日蓮正宗でなければ功徳は一切でない、いまの悪い境遇はすべて邪宗を信じているからだと言い放ってオルグしていた。
 入信するときには、それまでの他宗に関する一切のものを処分させた。とくに、御本尊(掛け軸マンダラ)に対しては、自分の命よりも大切に扱わなければならない、不敬をすると罰があたるとされていた。
 たとえば、仏壇に安置するときなどに、御本尊に息がかかっても不敬にあたるとされ、樒(しきみ)の葉一枚をくちびるではさみながら息をこらえてご安置していた。不敬をするとどんな罰が当たるのかは、例えば火で燃やしてしまった人は、自宅が火事になって一家もろともバーベキューになったとか、ゴミ袋に生ものといっしょに捨てた人は、その後風呂場で溺れているところを発見されたとか、粉々に破いて捨てた人は、バラバラ死体で発見されたとか、こういった呪いや脅しともとれる様々な呪術的言い伝えが組織内でひそやかに流されていたのを、私は両親や組織の人から日常的によく聞いて育った。だから、成人してからも長期間、数年前まではその洗脳を完全には払拭できずにいた。

 その、罰については、一般家庭に配布された御本尊に明確に書かれている。すなわち、
「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」(もし悩乱する者は頭が七分に破れる、供養することが有る者は福は十号を過ぎる)と記載されている。御本尊を誹謗する罰として頭が七つに割れる、その功徳は莫大であるとの意味である。
 つまり、呪い・脅しが功徳と抱き合わせになっている。
 そもそも「若悩乱者頭破七分」の由来は仏教ではなく、古代インドのバラモン教などである。
 法華経陀羅尼品第26には、「若不順我呪 悩乱説法者 頭破作七分 如阿梨樹枝」とある。この中に「呪」とあるが、仏法本来の教えの中には、呪いはありえない。
 中村元によれば、ここは教えを乞うた修行者の言ったバラモン教の呪いのような部分であり、これに対する釈尊の答えは「『無明が頭であることを知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落させるものである。』」(『ブッダのことば ー スッタニパータ』中村元訳、岩波文庫版、P216)
 ということである。すなわち、釈尊が言った「頭破」とは、元々の「無明に染まった頭」がわれて、精神統一と意欲と努力とに結びついていくことなのであり、本来の意味としては信仰の善い効果・結果なのである。
 また、訳注として「悪いことをすると、その報いとして、頭が砕けてしまうという教えが古ウパニシャッドのうちにしばしば述べられていて、それを受けている」(同書P415)とある。
 つまりは、この頭破作七分という言葉は釈尊自身の教えではなく、教えを乞うた修行者の言ったバラモン教の呪いのような部分を引用しただけのものであって、釈迦はこれを先述のように昇華させたのである。
 残念ながらその後世では、妙楽が『法華文句記』において「若悩乱者頭破七分」と取り入れ、日蓮も種種御振舞御書(御書P924)で法華経の行者を謗る罰の姿として取り入れた(コメント2)が、その後は日蓮系の本尊の多くに、誤って罰論として受け継がれている。
 本来、釈迦や日蓮の真の教えでもない呪いのような言葉が本尊に書かれているのは、抹消・更新しなければならないのは勿論であるが、この言葉を切り文にしてか、罰論として用いたのが、かつての牧口・戸田時代の創価学会であった。
 話は戻るが、第二代会長戸田城聖中心、先述の阿梨樹の枝の如き軍隊のような組織を拡大させ、戸田の師弟不二を強化拡大していたが、これを池田大作が都合よく利用しながら会員の指導に取込んでいった。
 池田のマゾヒズムは戸田を崇拝し無条件に仕えたこと、池田のサディズムは、自身へ奴隷として仕えよ、手駒となれ、というものであった。
 それは阿梨樹の枝に相当するような側近の性格変化をもたらした。すなわち、彼らの指導は池田をそっくりまねて、師匠としての池田を崇拝・宣揚しながら会員を奴隷化するものでもあった。さらに下位・末端の会員への指導もその容態・形式が受け継がれ、これが会員の性格形成への大きな要因となった。
 もっとも、これには先述の罰論(それと抱き合わせの功徳論)およびそれに関する内容の適応――すなわち命よりも大事なもの、絶対的なもの――が、御本尊だけでなく、自分自身よりも上級の幹部達や学会組織そのものへと拡大適応されていったものであろう。

「学会っ子は名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。‶奴隷のように学会につかえよ。〟それが御本尊様につかえる事だ」(社長会全記録 P222 ‶ 〟筆者)
 そして、つまるところ「池田に仕えよ、池田の手駒となれ」という会員の奴隷化を基礎に、池田の天下取り構想を発生・増強させたものであり、折伏によって組織が拡大するとともに奴隷化も拡大していったと考えられる。(「会長就任直後からナチス張りの天下盗り構想」、山崎正友著「創価学会と「水滸会記録」」2004・6・10、第三書館、他、参考書多数あり)
 これは、組織の打ち出しに一切異を唱えることなく従い行動する幹部達を見れば明らかである。彼ら彼女らは、組織の打ち出しに理性をもって考えることを放棄し、池田大作と一体感を持ちながら(師弟不二)、ひたすら組織と共棲しているのである。
 なんだか、先に引用した陀羅尼品の切り文が示すあり様であるようにみえるが、以上が、池田大作が公から失踪するまでの、創価学会の性格変化といえる。

 フロムはさらにこう述べているのは、この状態を裏づけるものである。
「…これらの説明にたいして、われわれは一般にイデオロギーや文化は社会的性格に根ざすものであること、社会的性格それ自身はある一定の社会の存在様式によって形成されること、また逆に支配的な性格が社会過程を形成する生産的な力となることを主張してきた。プロテスタンティズムの精神と資本主義の精神との問題については、私はつぎのことを示そうとした。すなわち、中世社会の崩壊は中産階級に脅威をあたえ、この脅威から無力な孤独感と懐疑の感情が生まれ、この心理的な変化がルッターやカルヴァンの教義の訴えをうけいれるのに力があったこと、またこれらの教義が性格的な変化を強化し固定し、こうして発達した性格特性が、つぎには、もともと経済的政治的変化から生じた資本主義を促進する上に、生産的な力となったことを指摘したのである。
 ファッシズムについても、同じような説明原理を適用した。下層中産階級は、発達する独占の力や戦後のインフレーションのような経済的変化に反応するさいに、たとえばサディズム的な、あるいはマゾヒズム的な衝動のような性格特性を先鋭化した。ナチのイデオロギーは、これらの特性に訴え、それを強化した。そしてこの新しい性格特性が、ついで、ドイツ帝国主義の拡大を裏づける有効な力となったのである。どのばあいにも、ある社会階級が新しい経済的傾向によって脅威をうけると、その階級はこの脅威にたいして、心理的に、またイデオロギー的に反応していく。そしてこのような反応によってもたらされた心理的変化が、経済力の発達を促進する。」(「自由からの逃走」P325)


■創価学会の現世利益追求、会員の心理的満足

 学会の現世利益追求について、フロムはこう述べている論理が参考になる。

「下層中産階級に特徴的な、自分自身のための利益というせまい利己主義的な追求は、個人的な地盤から国民的な地盤へもちあげられた。私的な争いで用いられてきたサディズム的な性格もまた、一部は社会的政治的な場面にもちあげられ、また一部は欲求不満によって先鋭化した。ついでかれらは束縛的要素から解放され、政治的迫害や戦争のうちに満足を求めようとした。こうして、欲求を満足させない全体的な状況のためにひきおこされた憤りと絡みあって、心理的な力は、既存の社会秩序を強化するかわりに、民主主義社会の伝統的な政治的経済的機構を破壊しようとするグループによって利用されるダイナマイトとなった」(「自由からの逃走」P314- P315)


 かつての組織活動であった折伏(相手を折り伏せ謗法払いをさせた)を達成した会員の心理は、また今での主たる活動である公明党の票取りを行ない候補議員当選を達成した会員の心理については、フロムがこのように述べているのが大いに参考になる。すなわち、
「性格の特性は、このような経済的な機能のほかに、それにも劣らない重要な、純粋に心理的な機能をもっている。そのパースナリティから金をためたいという欲望をもつ人間は、そのように行動できれば、深い心理的な満足を感じる。すなわちかれは金をためるとき、じっさいに利益をうるばかりでなく、同時に心理的にも満足を感ずる。このことは、次のような例を考えればたやすく納得できるであろう。たとえば、下層中産階級のある女は、市場で買物をして二セント倹約したとき、彼女は他の性格の人間が、なにか官能的な享楽によって味わうのと同じほどに、幸福を感じるということである。」(同書P314-315)


 池田の奴隷・手駒となった学会員の心理、つまり熱心な学会員や幹部の心理も同様である。
 つまり、かつての折伏や現在での公明党の票取り(バーター取引としての自民党議員への票入れも含む)も、純粋にそれらを達成するために行動することができただけで「同時に心理的にも満足を感ずる」のである。これが性格構造によるものである。

 さらにこれに続くフロムの指摘、すなわち、
「このような心理的な満足は、性格構造から流れ出る要求に一致して行動するときだけでなく、かれに訴える思想を読んだり聞いたりするときにも、同じような理由からあらわれてくる。権威主義的性格にとっては、われわれが服従しなければならない強力な力として、自然をなぞるイデオロギーや、政治的事件のサディズム的な有様を得々と語る演説などは強い魅力であり、それを読んだり聞いたりすれば、心理的にも満足するのである。要するに、正常な人間にたいする性格の主観的機能は、[かれをして実際の見地から必要なことに即応して行動せしめるということであり、またその行動によってかれに心理的な満足をあたえるということである]。」(同書P311-312)
 は、機関誌(聖教新聞や大白蓮華など)や公明新聞を各家庭で読んだり、あるいは座談会や活動者会などの会合で読み合わせたりすること、もっと言えば組織のありとあらゆる会合に参加・結集することにも、「このような心理的な満足」が得られることを意味している。
 もっとも、機関誌は、このような目的のために、記事内容が選ばれている。会員が喜びそうな記事を選んでいて、真実であっても不快な記事や、組織にとって都合が悪い内容は、決して掲載されない。


「社会的性格が社会過程でどのような機能をもっているか…すなわち、人間は社会的条件に適応するうちに、かれが[しなければならない]ことを、したいと[欲する]ようになるような特性を、発達させるということである。もしある一定の社会における大部分のひとびとの性格――すなわち社会的性格――が、この社会で個人がしなければならない客観的な仕事に適応するならば、ひとびとのエネルギーは、その社会の活動にかくことのできない生産的な力となるように形成される。」(同書P312)

 この論述のように、創価学会の社会的性格によって、学会員は、折伏(現在では主に公明党の票取りと池田の宣揚)をしなければならない、いわば義務として尻を叩かれたところに、これを自らやりたいと欲するような特性を発達させてきた。つまりは、折伏をなおやろう、池田を宣揚しよう、公明党の票取りをやろうという心理を駆り立て増強し広める。これは熱心な会員ほど顕著である。


 しかし、今世紀に入ってから最近の創価学会員の特性として、学会員として所属していながら活動に無関心で、創価学会組織から離れている人たちもかなりの割合で存在している。いわゆる未活・非活とかいう状態である。
 
 かつての熱心で原理的な会員と、歴史を経た現在の活動に無関心な会員の増加について、フロムの下記の論述があてはまるように思える。

「かれらの多くは、われわれが権威主義的性格として述べたような、多くの特性をもつパースナリティのタイプに属している。かれらは確立された権威にたいして、根強い尊敬とあこがれとをもっていた。社会主義は権威にたいしては個人の独立を強調し、個人的な隠遁にたいしては連帯性を強調するが、それは、これらの労働者の多くのものが、かれらのパースナリティ構造にもとづいて、本当に求めていたものではなかった。急進的な指導者の犯した一つの誤りは、たんにその思想が広い範囲にいきわたっていたということだけで、その政党の力を評価したこと、そしてその思想には重さが欠如していることをみのがしたことである。
 これに反して、われわれがプロテスタントカルヴィニズムの教義を分析して明らかになったことは、これらの思想が新しい宗教の帰依者のあいだで強力な力となったのは、それらの思想が、それを教えられたひとびとの性格構造のなかに存在していた、欲求や不安に訴えたからだということである。いいかえれば、[思想が強力なものとなりうるのは、それがある一定の社会的性格にいちじるしくみられる、ある特殊な人間的欲求に応える限りにおいてである。」(同書P309-310)

 昭和の創価学会草創期においては、創価学会の思想が、それを教えられた人々の性格構造のなかに存在していて、欲求や不安に訴え、その賛同を得たからであった。
 そしてかつての創価学会の発展を支えたのは昭和の草創期の会員にある特殊な人間的欲求(つまりは現世利益)に応える限りにおいてであったからだ。
 また、この引用部分で社会主義、労働者をそれぞれ創価学会、熱心な会員に置きかえてみると、現在その構成が変化した会員の多くのものが、「かれらのパースナリティ構造にもとづいて、本当に求めていたものではなかった」が故に、また、創価学会執行部が「たんにその思想が広い範囲にいきわたっていたということだけで、その政党の力を評価したこと、そしてその思想には重さが欠如していることをみのがし」ている故に、現在の凋落傾向を説明できる因子があると思われる。
 

「たとえばサド・マゾヒズム的な性格にとっては、愛とは共棲的な依存を意味し、けっして平等関係にもとづいた相互の肯定でも合一でもないということ、犠牲とは個人的自我をより高いなにものかに徹底的に服従させることであり、精神的道徳的な自我を主張することではないこと、差異とは力の差異であって、平等という基礎の上に立つ、自我の実現における差異ではないこと、正義とは各人がそれぞれ受けるに価するものを受けとることであって、個人が生まれながらの譲渡しがたい権利の実現を、無条件に主張することではないこと、勇気とは進んで服従したり苦痛にたえることであって、権力にたいして個性を徹底的に主張することではないこと、などを示した。ことなったパースナリティをもつ二人の人間が、たとえば愛について語るばあい、その言葉は同じであっても、その意味はかれらの性格構造の差異によって、まったくことなっている。事実、これらの概念の意味を心理学的に正しく分析することによって、多くの知的混乱は避けられるであろう……
これらのことなった性格構造をもった人間は、このような目標をかかげる人間がなにを話しているのか、たとえその言葉は理解できたとしても、その内容はほとんど理解できないであろう。同じように、ヒットラーやかれとおなじ性格構造をもっている一部のドイツ人は、戦争をなくすことができると考えるような人間はまったくの馬鹿か、たんなる嘘つきにほかならないとまじめに感じている。かれらには、その社会的性格のために、苦悩や災害のない生活などは、ちょうど自由や平等と同じく、ほとんど理解できないのである。
 思想というものは、ある集団に意識的には受けいれられていても、その集団の特殊な社会的性格のために、じっさいには受けいれられないことがしばしばある。このような思想は意識的な信念としては残るであろうが、いざというときに、ひとはその思想にしたがって行動できない。……」(同書P308-309)

 フロムが社会的性格についてこう説明しているとおり、現在の創価学会組織において、熱心な会員(多くは高齢化)と非活・未活の会員との落差が著しいのは、こういった因子があるからであろう。とりわけ池田大作自身が事実上非活・未活同然となっている現在、過去の栄光や主たる教義である「師弟不二」や執行部の打ち出しに論理的矛盾を感じる会員が増え、その魅力が消失しつつあることを物語っているといえよう。


■「依正不二」

 この、フロムの分析は、古くは日蓮の遺文の中にも洞察されている、仏法の一念三千を論理に含まれる「依正不二」という原理である。

「十方は依報なり.衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(瑞相御書、御書P1140)
《十方空間(環境や社会)は依報である。衆生は正報である。例えていえば依報は影であり正報は体である。身がなければ影はない。つまり正報がなければ依報もない。またその正報は依報をもってその体をつくる》

 以上の原理を、現代の心理学・哲学として詳細に説明したものといえる。
依法である社会的性格が、その社会に属する人間の性格構造を形成しゆく。
 そして後にフロムも指摘しているが、「自由から逃走」している自らが本来の自由を取り戻し性格構造を変えたならば、その属する社会の社会的性格も変わっていくのである。

 先述したが、凋落傾向の創価学会組織の変革やその未来について、執行部がどうの、公明党がどうの、○○がどうの、それぞれの立場の人がそれぞれの意見を散見する。
 しかし、結局のところ、先述した日蓮の遺文の原理の通り、一人ひとり・自身が即身成仏・一生成仏による利他の行動を末端組織の中で遂行していく――つまりは成仏の草の根運動を展開していくことに尽きる。
 むろん、かつては創価学会末端組織でも仏法対話として(今はすっかり強調されなくなったが)組織拡大のための「草の根運動」を云々していた。
 真の日蓮仏法による民衆救済――広宣流布は、地道ではあるが、ほんの身近な、自身の即身成仏による利他行動を草の根運動として、凋落局面の組織の社会的性格を少しずつ変えていくこと――そのなかの一人一人を少しずつ変えていくこと――が、今のところ膨大な未来の先にしか実現しないだろうと思われても、根本的な解決への道筋と考えられるのである。



■幻影の個性に生きる現代人

 現代人は、真の個性ではなく、幻の個性を自分自身の個性と思い込んでいる――というか、思い込まされている。
 そして、その幻の個性・幻の自己が、まさに自由な決定・選択を行っているという実態を、真の自己の決定と思い込み、自由に生きていると勘違いしながら、日常をおくっている。
 社会に流布される様々な風評やデマ、権力や大企業などが利用するマスコミ操作による洗脳に、いとも簡単に乗せられ、際限のない欲望に駆り立てられ、浅薄な意義にすぎない余計な競争・紛争に巻き込まれている。
 そんな中でも、そういった迷いの中の羅針盤(現代においてはGPS)ともいえるフロムの著「自由からの逃走」には、現代人の姿をまさに指摘・予言した部分が多くある。たとえば、
「しかしファッシズムの脅威を国の内外を問わず真剣にとりあげても、もしわれわれが、われわれ自身の社会においても、個人の無意味と無力さという、どこででもファッシズム台頭の温床となるような現象に直面しているのをみのがすならば、これほど大きな誤謬、重大な危険はない。
 このような考えは、あらゆる外的な束縛から個人を解放することによって、近代デモクラシーは真の個人主義を完成したという通念と対立するものである。われわれはどのような外的権威にも従属していないことや、われわれの思想や感情を自由に表現できることを誇りとしている。そしてわれわれはこの自由こそ、ほとんど自動的にわれわれの個性を保証するものであると考えている。[しかし思想を表現する権利は、われわれが自分の思想をもつことができるばあいにおいてだけ意味がある]。外的権威からの自由は、われわれが自分の個性を確立することができる内的な心理的条件があってはじめて、恒久的な成果となる。われわれはその目標を達成したであろうか。」
「近代人にたいする自由の二面性を論じたとき、現代において、個人の孤独と無力を増大させている経済的諸条件を指摘した。すなわちその心理的結果を論じて、この無力は権威主義的性格にみられる一種の逃避を導くか、あるいは孤独となった個人が自動人形となり、自我を失い、しかも同時に意識的には自分は自由であり、自分にのみ従属していると考えるような強迫的な画一性に導くことを示した。」(「自由からの逃走」P266-267)

 フロムの指摘する真の「自由」は、現代人のほとんどは持ち得ていないのではないだろうか。

 仏法者を名のりつつ、せっかく最第一の自由な境涯ともいえる仏界を確立する方法を知っているにもかかわらず、創価学会の座談会や各種会合などにもこのような指摘の如く、自ら自由から逃走した人達が集まってきているものと考えられる。
 つまりは、自己の確立がない、逃避・隷従したり無力だったり、自らの独自で独創性のある思想そのものがないものは、自由の保証がない状態である。なぜかというとその与えられた自由を放棄して権威に隷属しているからである。
 政治的論議や政策の是非を深く考え論じることもなく公明党の集票に邁進する熱心な会員ほど、その傾向が強いといえる。


「直接に抑圧されるのは、たんに敵意だけではなく、またにせの感情をつみかさねる結果、抹殺されるのは、たんに親しさだけではない。自発的な感情がひろく抑圧され、にせの感情に置きかえられる」(同書P269)

 こういった姿も、学会組織内での触れ合いのなか、座談会でのなかで私は多く見てきたことでもある。


「われわれの社会においては、感情は一般に元気を失っている。どのような創造的思考も――他のどのような創造的活動と同じように――感情と密接に結びあっていることは疑う余地がないのに、感情なしに考え、生きることが理想とされている。『感情的』とは、不健全で不均衡ということと同じになってしまった。この基準を受けいれたため、個人は非常に弱くなった。かれの思考は貧困になり平板になった。他方感情は完全に抹殺することはできないので、パースナリティの知的な側面からまったく離れて存在しなければならなくなった。その結果、映画や流行歌は、感情にうえた何百万という大衆を楽しませているような、安直でうわっつらな感傷性に陥っている。」(同書P270)

 これも学会組織内での触れ合いのなか、座談会でのなかで、よく見られることであって、私自身も経験してきたことである。

 創価学会の会合においては、個人的な感情は組織の打ち出しに沿ったもの以外はほぼ完全に抑圧されている。このとき抑圧された感情に結びついているいかなる創造的思考も、組織の風に吹かれて消失する。組織の打ち出しに沿ったように考え行動することが仏法の本来の教え=御書根本=池田大作と呼吸を合わせた生き方であると指導されている。また、選挙の票取りを要請されたり、その目標をみんなで出し合って誓う場面もあったりする。断り切れない空気の中、やり過ごすのが精いっぱいで、かりそめにも心に無い数字を言ってやりすごすという人もいる。
 つまりは、学会の打ち出しや幹部の指導に沿わない感情的・創造的生き方は不健全で不均衡なことであり、家庭指導の対象とされ、さらにはこういったことが続くと「獅子身中の虫」「仏敵」とされかねない末端組織や部門もあるようである。
 だから、組織内では個人は称賛されてはいるが非常に弱い存在であり、個人の思考は貧困・平板なものになっている。しかしそういった感情は完全に抹殺することはできないので、個性の知的な側面からはまったく離れて存在しつづけているしかない。
 そして、こうした活動や空気に馴染めない人は、次第に会合に来なくなり(参加したくなくなり)、非活動家となっていく。
 いうなれば、これも、組織内での重要な社会的変化の一要素である。


 日蓮正宗から破門後より今世紀に入って、互いに会員や法華講員を奪い合う脱会運動・脱講運動がおきた。機関誌を通じて誹謗中傷合戦や、それについての訴訟も多く行われた。こうした歴史の流れの中で、非活動家が増えていったのは、ある意味、自然な流れであろう。
 現実に、先述の過激な内容の指導や請願が行われる会合では、フロムの指摘する「われわれが、われわれ自身の社会においても、個人の無意味と無力さという、どこででもファッシズム台頭の温床となるような現象に直面している」(同書P266)のであり、これを容認することは現代民主主義にとっての重大な危険である。


 もっとも、現代民主主義に生きる私たちの多くは、いかなる外的権威権力にも従うことなく、思想や感情を自由に表現することを誇りとし、この自由こそ、自動的に自身の個性を保証するものと、うわべだけでは思っているであろう。
 しかしながらそれは、自分の確立した思想や明確な感情を怯えることなく主張する勇気が伴っている場合にはじめて意味があるし、その場合に限られている。


 そしてフロムが指摘している通り、実質的には孤独と無力によって自我を失い、権威に従属して偽の自我を演出しながらその操り人形でありつつ、その正反対に、自己の意識としては、自分が自由な選択をしていると思い込んでいる(思い込まされている)。つまりは「脅迫的な画一性」に、多くの現代人が陥っているのである。
 私は、創価学会の会合においても、こうしたことに多く遭遇してきた。

 こういった孤独と無力による逃避のメカニズムは、乳幼児期から成人するまでの長い期間にわたって、親、学校教育や社会的な環境によって、心理学的に醸成されてきているとフロムは述べているが。その詳細は割愛する。

 話を戻して、個人・個性の中の仏性を称賛することは法華経の中でも繰り返し述べられてきたし、それが法華経の精神とも言えるのであって、善業を積むことでもある。しかしながら、正邪善悪を含んで、その真実の実態についてはきちんと把握したうえで、先述した八風の中の誉れ・称えに犯されることなく、昇華していくことが必要なのである。

 仏性を現しながら個人を完成へと向かわしめる生き方を常に実践していくことこそが、孤独と無力を克服する唯一の方法ではないか。

 仏法の中には、原始仏教から日蓮仏法でも、それを道理・方程式として、時代に即して比喩的に説かれた部分が多くみられる。
 これを、現代に合わせて更新し続け、未完成でありながらも限りなく完成を目指すことが、絶対的幸福な境涯なのである。
 血脈とか師弟というのも、あくまでその目的のために、その在り方について述べられたものであろう。




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2.
コメント2、種種御振舞御書、御書P934-935

「疑つて云く 法華経の行者をあだむ者は頭破作七分ととかれて候に・日蓮房をそしれども頭もわれぬは日蓮房は法華経の行者にはあらざるかと申すは道理なりとをぼへ候はいかん、答えて云く日蓮を法華経の行者にてなしと申さば法華経をなげすてよとかける法然等・無明の辺域としるせる弘法大師・理同事勝と宣たる善無畏・慈覚等が法華経の行者にてあるべきか、又頭破作七分と申す事はいかなる事ぞ刀をもてきるやうにわるるとしれるか、経文には如阿梨樹枝とこそとかれたれ、人の頭に七滴あり七鬼神ありて一滴食へば頭をいたむ三滴を食へば寿絶えんとす七滴皆食えば死するなり、今の世の人人は皆頭阿梨樹の枝のごとくに・われたれども悪業ふかくして・しらざるなり、例せばてをおいたる人の或は酒にゑい或はねいりぬれば・をぼえざるが如し、又頭破作七分と申すは或は心破作七分とも申して頂の皮の底にある骨のひびたふるなり、死ぬる時は・わるる事もあり、今の世の人人は去ぬる正嘉の大地震・文永の大彗星に皆頭われて候なり、其の頭のわれし時せひせひやみ・五臓の損ぜし時あかきをやみしなり、これは法華経の行者をそしりしゆへにあたりし罰とはしらずや」

 《疑問であるが、法華経の行者を仇とする者は「頭が七分に破れてしまう」と説かれているのに、日蓮房を謗ったけれども頭も割れないから、日蓮房は法華経の行者ではないというのは道理と思われるがいかがか。
 お答えしよう。日蓮を法華経の行者ではないといわれるならば、では反対に、法華経をなげ捨てよと書いた法然ら、釈尊をまだ無明の辺域者であると記した弘法大師、理は同じだが事では真言が法華経に勝れると宣べた善無畏・慈覚等が法華経の行者であるというのか(決してそんなことはない)。そして、頭破作七分とはどんなことか、刀で頭を斬ったときのように割れると思っているのか。経文には続いて「阿梨樹の枝の様だ」と説かれているではないか(刀で斬った割れ方ではない)。もともと人の頭には精気の根元をなす七滴の水があり、それを七人の鬼神が食べようとしているところ、一滴食えば頭を痛める、三滴を食えば寿命が絶えようとし、七滴食えば人は死ぬのである。今の世の人々は皆、頭が阿梨樹の枝のように、頭の水を食われてわれてしまっているが、悪業が深いために自覚できていないだけである。たとえば傷を負った人が酒に酔うか又は深く寝入ってしまえば痛みを感じないようなものである。また、頭破作七分というのは、あるいは心破作七分ともいい、頭の皮の底にある骨が心気の激動によってひびわれるのである。死んだ場合にはこのように割れることもある。今の世の人々は去る正嘉の大地震・文永の大彗星出現のときに皆頭がわれてしまった。その頭がわれたときに喘息を病み、五臓を損なったとき赤痢を病んだのであった。これは法華経の行者を謗ったために当たった現罰であると気づかないのか。》

1.
コメント1、四条金吾殿御返事(八風抄)、御書P1151

「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなりしかるを・ひりに主をうらみなんどし候へば・いかに申せども天まほり給う事なし」
《賢人とは八風といって八種の風に犯されないのを賢人というのである。八風とは利(うるおい:利益)・衰(おとろえ:損害)・毀(やぶれ:誹謗中傷される)・誉(ほまれ:名声、栄誉)・称(たたえ:ほめる、たたえる)・譏(そしり:そしる、悪口を言う)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)である。つまり世間的利益はあっても喜ばず、損をしても嘆かないなどの心である。この八風に犯されない人を、諸天善神の加護があるのである。ところがそれを、道理に背いて主君を恨んだりすれば、どんなに祈っても諸天は守護しないのである》

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