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P69, 永遠化される俗世の師弟と仏法本来の「師弟不二」、真に信じるに価する宗教とは

 以下は過去の拙記事:私の池田大作観(1)ページ8をアップデートし再掲載したものです。



■永遠化される俗世の師弟と、仏法本来の「師弟不二」

 これまで、釈迦や日蓮から創価の組織における「師弟」の流れを見てきたが、改めて創価学会における「師弟不二」についてまとめたい。

 ちなみに、日蓮や天台は釈尊の教えの中で法華経を最第一と立て分けたが、その検討の対象である五時八教のなかの大乗経典は、「如是我聞」という建前で、釈尊滅後100年以上たってから編纂され、原始仏教での釈尊の言葉とはかけ離れて創作されたものといえるのであり、壮大なSF物語の様相である。
詳しく言えば、断片的な釈迦の随時の教えを「私はこのように聞いた」という建前で集めた情報をもとに、その(科学が未発達な)時代の人たちにとって辻褄があって受けいれられるように創作された代物である。
 その中に「宇宙一切根源の法測」である、永遠の生命、因果応報、業、そして一念三千などが、比喩として説かれていて、膨大な量にわたる非科学的な仏の讃嘆・宣揚で埋められている。
 IT時代の今日から見ると、表現は適切でないかもしれないが、ざっくりいえば、未開人である後世による偉大な改竄と創作の産物である。つまりは「如是我作」とでもいえよう。
 これを根拠として、鳩摩羅什の漢訳、天台の五時八教の立て分けなどが摩訶止観、日蓮の南無妙法蓮華経へと発展してきた。
 この歴史的観点では、日蓮仏法も「如是我作」であり、これを真実・根拠として、日蓮が、上行菩薩の再誕として最初に末法に出現し南無妙法蓮華経を弘めるという確信(もっと突っ込んでいえば「迷信」)となっているにすぎない。

 一歩さがって、このような過程で成り立っている仏法――そのレベルは当然に非科学的なドグマであることをことわっておく――において、「師弟」というときは、師とは仏、弟子とは衆生であって、仏と衆生の関係を意味する。
 そして師弟不二とは、師である仏と弟子である衆生の関係は二であってしかも二ではなく(而二不二)、その本性が一体であることで、真実の師弟の関係をいう。
「師弟不二」とは、元来、前述の時代をも超越する原理である。

「師匠と弟子の関係は二であってしかも二ではなく(而二不二)、その本性が一体であること。真実の師弟の関係をいう。師は衆生を教化する仏、弟子は師の説法を行ずる衆生をいい、衆生が仏と等しい境地になることをいう。…大聖人は御義口伝に…我等衆生は親なり仏は子なり父子一体にして本末究竟等なり…と述べられ、父(仏)と子(衆生)は一体であることを示されている。また末法の師弟不二とは、別しては日蓮大聖人と二祖日興上人をいう…」(「新版 仏教哲学大辞典」1985/11/18 創価学会教学部 聖教新聞社)

 この本来の意味は、師弟不二とは個別には師=日蓮と弟子=日興の関係が、一般的には仏=日蓮=南無妙法蓮華経=地球上における宇宙一切根源の法と、弟子檀那=信仰を行ずる衆生という師弟関係が、二であってしかも二ではなく本性が一体であることをいう。
 あくまで、師とは仏(人においては日蓮)=南無妙法蓮華経=地球上における宇宙一切根源の法、つまり信仰し境地妙合すべき「法」なのであって、世俗でいう生身の人間としての師匠では断じてない。

 誤り多き凡夫としての人間を絶対的な不変の「師」(=仏)としてみなすと、それは仏法ではない。
この落とし穴に多くの人がはまり、間違った解釈におちいってしまっている。
 
 仏法の一般法則として(日蓮の遺文では「総じて」と表現されている内容)その師の教え伝える内容は「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに」(生死一大事血脈抄、御書P1337)
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり」(同 P1337)
と、日蓮は言う。
 あくまで師とは法としての仏、弟子とは仏の教え=法を行ずる衆生のことであり、それらの関係をいうことなのである。

 つまり「血脈を継がしめんとする」のが「仏」であり「師」である「法則」、そして「南無妙法蓮華経と唱え奉る」のが「弟子」なのである。
そしてこの「血脈」の上に初めて「師弟不二」が成り立つことになる。


「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(華果成就御書 御書P900)は、日蓮が自身の師匠の道善房との関係を、弟子の浄顕房と義浄房に示した文であるが、見事に自身の時代における現実的な弘法に演繹されている。

 ここで注意を要するのは、これは観心本尊抄でいうところの「流通分」としてである。「流通分」とは、法則を広めるための「方便」「比喩」として利用されうる部分である。
 「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(百六箇抄 御書P856)とされているのは、こういう意味である。(もっとも、多くの学者では、「百六箇抄」は後世の偽作という扱いになっている)
 この、法が広まっていく原理としてのみ、実務的に法と衆生との間に師弟関係が演繹されるわけで、それが「師弟不二」でなければならないのである。

 言い換えれば、弟子である衆生が南無妙法蓮華経に帰命することで、仏界という境涯=師匠の境涯が湧現すること、すなわち「即身成仏」の方程式の別説明となっている。

 ここにこそ、普遍的に、すべての一切衆生が、宇宙一切根源の法=南無妙法蓮華経により即身成仏へ至るという、科学的再現性のありそうな方程式を垣間見ることができる。

 西欧の社会学者も、この原理を一応は正確に捉えている。
 ブライアン・ウィルソン氏とカレル・ドベラーレ氏は、共著の「タイム トゥ チャント イギリス創価学会の社会学的考察 中野毅訳、紀伊國屋書店」において、師弟不二の原理を以下に記している。
「信仰についての総合的指導と、日蓮の著作および池田大作会長の著作を学習し論議していくことは、異なった理解の段階にいるメンバーたちを結びつける重要な絆を形成し、組織全体に『師弟不二』と呼ばれる信仰体験に基づく結合の環を構築する。この原理の英語('master-disciple, two yet not two')への文字どおりの訳、『師弟と弟子は、二人であって二人でない』が暗に意味するように、師匠と弟子は精神的に一体であるべきと考えられている。したがって、創価学会は哲学的には明らかに個人主義と平等主義に立っているにもかかわらず、信仰における古参原理が仲間意識と結びついており、その結合には神秘的な要素がある。人と法とは一体であるという『人法一箇』の原理によって、理論的には南無妙法蓮華経または御本尊が師である。しかし日蓮は、御本尊は自身の生命を描き現したものであると宣言しているのであるから、日蓮が師である。日蓮の一文を引用しつつ、池田は『法華経を信じ、実践する人は、釈迦牟尼仏と等しい存在である』と語ったが、さらに、日蓮仏法は『すべての人々を平等へと、仏陀と一般の生きとし生けるものが皆等しく一つとなる状態へと導いていくのである』(82)と述べた。責任の担い方の差異にかかわらず、彼らはすべて自身の仏性を活性化するために御本尊に南無妙法蓮華経と唱えるが故に、等しく一体である。」
 ここに「理論的には南無妙法蓮華経または御本尊が師である」と明言している。

 この表現においてもアニミズム感が完全にはぬぐえないが、残念なことに、それに続いているのが、
「この師弟不二の原理は、牧口常三郎の弟子としての戸田城聖、戸田の弟子としての池田大作という関係にも適用される」である。

 この時点で彼らは、師が正しくても、受けとめる弟子の方が、師匠を「法」ではなく、現実の誤り多き凡夫の一人としての、俗世の師弟関係の師としてしまっていて、自己矛盾に陥っているのに気がついていないのである。
 法に先立つもの、法より大切なものとして、一人の人格を奉ってしまった。
 そうすると、その人格に帰命=命を預けることになる。
 この誤りが現実化すると、師弟の密着が猥雑なまでになり、師の個人的な三世にわたる悪業の因果をも、そっくりそのまま受け継いでいくことになる。
 また、具体的に現実に密着した行動が何年も続ける人数は、限られてくる。
 あるのは個々別々の実例であり、そこに一般性や客観性・科学的再現性はない。

 たしかに、その続きは「『池田会長の恩師、戸田城聖二代会長に対する絶対の信頼は、われわれの人間革命と世界平和をめざす日々の活動の源泉となる。池田会長から啓発を受けて、……われわれは、日々のわれわれ自身の努力と御本尊との関係を通して、社会におけるわれわれの役割を果たしていくのである。彼の言葉、行動は権威や権力、または生命についての単なる知識を表明しているわけではない。むしろ彼の努力、尽力は、彼自身の経験と結びつきながら、すべての個々人が真に偉大な人間存在になりうる可能性を秘めていることを証明しているのである。』(83)」であり、多くの社会的実証はあるだろう。
 しかし、
「このような合理的説明は、池田が得ている広範囲な名声を個人崇拝と見なして批判する人々を納得させないかもしれないが、(少なくとも大多数の)SGIメンバーが抱く池田への注目を正当に表現しているように思われる」(P60-62)
 とあり、現地のSGIにも、高尚な仏法の原理が世俗の師弟関係に演繹・解釈されていることを示していると同時に、その実態が科学的普遍性を持たないことも自己弁護的に示唆している。

 これも願兼於業の一つと見ることも出来るが、創価学会はこの個別の実相のみに、永遠性・普遍性を師弟不二の原点として意義づけた。
 ここに、すべての錯誤の出発点がある。

 以下は、私がかつて先述した。
「再度念を押すが、この師弟不二の道は、あくまで仏法への一つの縁としての重要性に限られるのであって、それ以上に、本来最も重要とされるべき内容とは、池田大作のすがったものが、宇宙一切根源の法=南無妙法蓮華経だったことである」

 だがこれは、実際はそうではなく、池田大作のすがったものは、歪んだ非科学的な日寛アミニズムの南無妙法蓮華経であった。
その後、池田やその弟子たちにも継承されたが、客観的なものとはとうていいえない。
 加えて残念なことに、池田大作の師弟不二の理解や受け止め方は、戸田城聖があってこその仏法、師匠あってこその仏法であるとされた。これは、仏法よりも師弟関係を重視する邪見であって、言い換えれば世俗の関係を仏法上の関係より優れるとすること、いわば本末転倒であった。

 実はそれは、二代会長戸田城聖も同じだった。

 生死一大事血脈抄、御書P1338にある「過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ」
 これは先の「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに」に続く文であるから、文意は仏法における本来の「師弟不二」である。
「在在諸仏土常与師倶生」は、よく創価の師弟不二、師弟の因縁を論ずる根拠として用いられる仏法用語であるが、これを戸田城聖は事実上世俗的な意味に使った。

 その証文は、若き日の手記・獄中記 戸田城聖著P180-181に、戸田城聖が一ノ関の妹の主人宛てへの手紙である。
「在在諸仏土常与師倶生と申しまして、師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の供力によりまして、同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、何十億万年前からの規定を実行しただけでございます。
 私と牧口常三郎先生とは、この代きりの師匠弟子ではなくて、私の師匠の時には牧口先生が弟子になり、先生が師匠の時には私が弟子になりして、過去も将来も離れない仲なのです。…中略…
哲学的に電気化学の原理、電子論に原子論に研究を加えれば、加えるほど、生命の永久を確心しなくてはならないのであります。K雄さん、人の一生は、この世きりではありません。また親子、兄弟、夫婦、主従、子弟の因縁ではありません。その中の子弟の因縁の法華経原理を身をもって読むといいまして、自分の身に体験し体現したのが、私の事件です。…中略…(昭和二十年九月)」(今の使い方では、文中の「子弟」は「師弟」、「確心」は「確信」という意味だろうが、そのまま引用)

 そして 池田大作、以下現在へは、同様に受け継がれる。

「私の人生における最大の幸福は、戸田城聖という生涯の師にめぐりあい、師弟の道を貫くことができたことである。」(池田大作全集第18巻P92-95)

「仏法の師弟不二の原理にあっては、卓越した指導者のもとに、その指導者の意中の底まで汲み取り、それを実践する卓越した弟子が厳然と出現するのである。宗教革命を遂行する創価学会にも、この厳粛な師弟の関係が、脈々と流れていたのである」(原島崇著「創価学会」P316)

「池田会長は、戸田城聖という人間を知り、また『人間』というものをおそわった。そこに仏法があった…中略…戸田先生は、牧口先生を知っていたために仏法を知ったのであり、仏法を知ってから牧口先生についたのではないということだ…中略…池田会長と戸田前会長との出会いも牧口、戸田の初代、二代会長の出会いと全く同じだと思う」(「創価学会の歴史と伝統」P82)
「池田にとって戸田とともにする労苦は信仰の危機ではなく、信仰の証だった。」(「池田大作『権力者』の構造」P103)

 ちなみに、ここでいう在在諸仏土常与師倶生では、科学的再現性のある解釈をするのならば、師とは「法」=法身という意味である。
 この範疇でとらえなければ歴史に耐えられないし科学的とはみなせない。
 これを特定の人物に適応することは可能だが、その生きた時代にのみに限定される。
 もしそこに永遠性を付加するならば、その人物や対象を神格化・絶対化することになる。
 ここに、日寛アニミズムにみられる「人本尊」の設定や、永遠の師の設定(創価三代の師)には、科学的普遍性や再現性を破る要素があるのである。

 そもそも永遠の師を設定しなくても、現世の師はいくらでも出現できる・誰でも師に成れるという論理でなければ、科学的普遍性をもたなくなる。
 誰でも何処でも南無妙法蓮華経を修行すれば真の意味での成仏――人間革命――ができるとされているが、これは池田大作や戸田城聖のような、いわゆる「人間革命」ではない。
 真の人間革命を実現・再現する人々が次々と出てくることが、広宣流布されていく歴史の有様だろうし、これこそが科学的再現性の様相、そして本来の日蓮仏法の広宣流布なのではないだろうか。

 結局のところ創価学会の師弟の理解は、世俗社会の一般的な師匠と弟子の範疇に止まりながら、単なる一人の凡夫である池田大作を〝生き仏〟にランクアップさせ、絶対性・無謬性を宣揚し、それを政治の場や総体革命へとつなげていった。
 在在諸仏土常与師倶生を根拠としてあげ、創価三代の師弟をことさらに礼賛する誤りがここにある。



 池田大作は結局のところ『私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である』(高瀬広居著「人間革命をめざす 池田大作―その思想と生き方―」P78)
と祀り上げられ、池田や弟子たちがよってたかって創価学会を発展させた。

 海外の識者もこれに安直に呼応するかのように、たとえばN・ラダクリシュナン氏は、こう絶賛する。
「博士は、正真正銘の教師、友人、哲学者、父親、先導者であり、人々を鼓舞する想像力の大いなる源泉であります。」(池田大作 師弟の精神の勝利 N・ラダクリシュナン著 栗原淑江訳P12)

 また、こうも言う。
「池田博士は、超人的な闘いを展開される中で、師弟関係に新たな特質を付け加えてこられました。『師弟関係は非合理的で、非科学的で、異国風で東洋的なものである』という神話を、説得力に満ちたやり方で打破されたのです。
 池田博士が、『師弟の道に徹することによってのみ、生命の永遠性を覚知することができる』と強調されるとき、信仰あつき人もそうでない人も、永遠の真理に思いを馳せることでしょう。
 博士はまた、『師弟の関係は、もっぱら宗教や精神の領域での関係であり、世俗的あるいは科学的に見れば逆行である』とする誤謬も、博士特有の温かさをたたえながら、みごとに打破されました。博士は主張しています。『…師弟の道は、正義の道、友情の道、確信の道なのである』と。」(P45-46)

 故に結果は、先にあげたように、こうなった。
「戸田の言動を絶対無謬と仕立て上げ、自らを唯一の後継者として信じ込ませることができれば、絶対無謬の神話は自らのものとなる…打ち込んだ情熱はやましいものだが、学会員に熱と力を与えた。それは強い副作用を伴うものだった。数々の犠牲を出しながら、試みはなんとか成功した。いまや池田大作は二度目の自公政権を実現せしめるに至った」(元創価学会本部広報部副部長小川頼宜「池田大作と原島家―池田大作を会長にした原島宏治とその家族」原島昭著 P9)

 これも仏法でいうところの自業自得・因果応報というのであろう。
 結局のところ、師匠と祀り上げられた創価三代会長が教える仏法は正しい仏法ではなかった。(もっとも、何度も断わっておくが、拙論文においても仏法といっても、また日蓮仏法であっても、それらは非科学的なドグマの域を出ないが…)
 更に、極めて残念なことに、創価学会における「師弟不二」の実態は、まったく世俗の、前近代的な意味での師匠と弟子の関係に過ぎなかった。
 それは、本来の仏法の師弟不二とは全く違うものであり、仏法の権威に結び付け、唯一永遠の真理のごとく宣揚するという大いなる過ちを犯し続けている。
 特に池田大作本人は、前述の引用の如く、戸田城聖から、「『ぼくが全部教えてやるからな』」という極めて幸運な?機会があった。
しかし、いったい何人の弟子がその幸運にありつけるだろう。「それから数年にわたって、先生のお宅や、朝早く会社で、個人教授…、法律、政治、経済、物理化学、天文学、漢文といった科目を、外国語を除いて、あらゆることを懇切に教えて下さり」「ご自分のなかにある、すべての学問を、私に移そうとさえし」てもらえることを。
 したがって、彼以外の多くの弟子はほんのわずかな機会を、一眼の亀が浮き木に遇うがごとく有り難く宣揚するしかない。
 こうして、誤り多き凡夫のすべてを師匠としてそのまま仰ぎ、これを永遠の法理である仏法の師弟不二だとするしかないとしたら、師匠の凡夫の誤りがそのまま神格化・絶対化され、崇められた人物は独裁者となっていくしかない。
 実際に会えなくても、
〝池田先生は、全てが分かってくれている。すべておみとおしである…〟
〝池田先生と呼吸を合わせる…、〟
 聖教新聞や様々な体験談集にもあり、創価の組織内でよく語られるこれらの言葉によって、特定の人物を唯一絶対者として宣揚することは、もはや仏法ではなく、よこしまな外道の戯言に陥っている。
 御書にもあるように、かえって外道に堕ちている証左である。
 


■「永遠性」を確立したい人たち――池田大作ファンクラブ

 池田大作が公から姿を消して久しくして出版された池田大作著「人間革命の宗教」には、こうある。
「師弟不二の精神によって継承された麗しい異体同心の仏勅の和合の前進にこそ、恒久的に仏の生命が脈打つのです。ここに『学会の永遠性』の確立があります。」(人間革命の宗教 池田大作著 P134)
「師弟の縁は、この世から始まったと、ごく常識的に考えていた…中略…ところが大聖人は、この師弟の因縁は今世だけではない、『三世の契り』(御書P1070)『師弟の契約』(御書P1340)なのだと断言されるのです。…その文証として…中略…『在在の諸仏の土に、常に師と俱に生ず』…三世にわたる『師弟の契り』『師弟の因縁』によって、師と弟子が妙法流布に永遠に共に戦っていくドラマは、法華経の根幹のテーマといえましょう…」(同書P180-182)

 この指導からは、創価三代の師弟の絆は今世でみなせるとしても、牧口常三郎にとっての「永遠の師」は、創価学会は歴史上の仏法者として誰を認定するのであろうか。その人物に牧口常三郎が師事した明らかな記録は存在しない。

 しかし、私は、宇宙一切根源の法から見て、牧口常三郎の師は、法としての南無妙法蓮華経だったと考えたい。

 実をいうと、これも代作の一つであろうが、聖教新聞や創価学会の出版物はこのように、しきりに創価三代の師弟の宣揚、特に過去の写真とともに池田大作の宣揚が続いている。

 池田大作が公から姿を消して久しい今、……
『学会の永遠性』の確立をしたいのは、いったい誰なのか。

 創価三代のいう「師弟不二」を宣揚する人々は、もはや池田大作の名前を使って代作や代筆、代弁を繰り返し、師匠の名前を巧みに利用しながら、巧みに師匠を乗り越えて、自ら『学会の永遠性』の確立を遂げつつある。
 すなわち『学会の永遠性』の確立をしたいのは、まさに創価の中にいる、執行部を含む大勢の熱烈な池田大作ファンたちなのである。
 彼ら彼女らは、前述したが、池田大作とサド・マゾヒズム的共棲関係にある。
 そして、『創価学会仏』とはこの象徴である。
 過去に演出した池田大作の理想像と共棲関係にあって、もはやフロムの言う「自由から逃走」し、マゾヒズム的願望・マゾヒズム的歓喜を求めてやまない人たちなのであろう。もはや彼ら彼女らは、こうして自我を自ら喪失しているので、この根本的な法理について自分の頭で考えることをしないし、そもそもできない。
 だから、法則とは関係のない827万世帯という数字や規模も根拠として掲げ、日蓮仏法の広宣流布は自分たちのみにしかできない、唯一の団体と言い張っているのである。実質は、ある宗教学者やジャーナリスト達からの調査によれば2~300万人だそうだが、827万世帯という数字は、建前上、常に上げ潮・常勝でなければならないから、未来永劫にわたって修正されないだろう。日蓮の言う「従藍而青」の如く、ますますその鼻息が荒くなっていくのではないか。
 つまりは、この数字だけでなく、組織が内外に打ち出したあらゆる数字、あらゆる語呂合わせ、あらゆる意義づけがすべて、創価学会組織を維持する「師弟不二」――サド・マゾヒズム的共棲関係――の材料となっているのである。


 俗世の師弟より以前に、真の仏法=南無妙法蓮華経=宇宙一切根源の法に巡り合えたことこそが、最大の幸福ではないだろうか。この仏法よりも先に師弟を論じ宣揚すること…
 それは彼らが言う根本とすべき「御書」でいうと――因果応報であるが――次のようになる。

「妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり」(一生成仏抄 御書P1337)
ただし、妙法蓮華経と唱え、受持するとはいっても、もし己心の他に法があると思うならば、それは全く妙法ではなく麤法である。(私風現代語訳)

「かくの如きの人をば仏法を学して 外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり」(御書P1337)
こんな人を「せっかく仏法を学びながらも、かえって外道の見解と同じになっている」と、天台大師が摩訶止観において説明されている。(私風現代語訳)

 もし日蓮が現在に在住なら、両目が吊り上がり眉間に深き縦皺がよっていることは想像に難くない。

「…久遠の仏様の悟りの内容の中に入るべき意味があります。それが大聖人様であると拝するまではよいが、それと同じように妙法を広めているのは私たちなんだから、その中心者であり、指導者はその意味がある、という考えにだんだんなっていくのは行きすぎです。
 そのような流れから、『久遠の師』とか『悟達』とかいう言葉が、いわゆる『昭和五十二年路線』のときに出てきたのであります…(中略)…戒壇に関する我慢偏見もそれです。なんとかこちらが教導しようとしても、俺の考えは絶対正しいんだと……。仏法を私する、まさに悍馬のごとく、手が付けられないという感じが率直に言ってあったのです」(〝創価学会員の皆さんへ〟阿部日顕「池田大作・創価学会に騙されるな」創価学会問題研究会編 P22)


 私も以前にはこういう考え違いをしていた。せっかく真の仏法を弘めているのにもかかわらずである。
 ちなみに私たちの「永遠の師匠」池田大作にはもう今ですら現実にお目にかかることが出来ないのに、池田大作滅後の創価の人は、いったい誰を、現実に密着する師匠とすればいいのだろうか。

 彼らが言うその結果や展望は何度も触れることであるが、こうである。
 過去に小説「人間革命」「新・人間革命」などで演出した池田大作の理想像を崇め、これをまとめる権威=創価学会組織と共棲関係にあって、もはやフロムの言う「自由から逃走」し、マゾヒズム的願望・マゾヒズム的歓喜を求め続けていくことになるだろう。
 その歓喜はフロムの言うところの、真の自由や歓喜ではなく、偽りの自由・歓喜である。つまりは根本的に無力感や孤独感などが無意識化にも残存し続け、自己疎外状態に陥ったまま、六道輪廻から抜け出せないことになる。

 創価三代の師を、実相は現世に限定されたのみの師弟を「永遠の」師弟として宣揚したところに、その理論の限界がある。

 もっとも、科学的再現性の観点からは、日蓮正宗の法主本仏論も、池田本仏論とドングリの背比べではある。
 日蓮正宗から独立し「創価ルネサンス」を成しえたと主張するのに、池田本仏論が根底になっていたのである。ちっとも「ルネサンス」になっていないのが皮肉であろう。


 繰り返すが、師弟とは 仏法を修行する観点においては、あくまで師=南無妙法蓮華経=法則としての法身、弟子=それを修行する人である。
 そして師弟不二とは それら二つが二にして一つとなること。すなわちこれは即身成仏の姿、境地妙合の方程式をいう。
 だから、決して、一時的な現世・俗世における生身の人間同士の師弟に適応すべき次元ではない。
 俗世における師弟とは、その道を究めた者が求める者へ教える・教わる、与え・授かる、仕込む・仕込まれる、躾ける・躾けられるという関係であり、知能的には教育とか、肉体的でいえば鍛錬・調教とかの次元であり、その関係は主従関係、つまり何らか(社会的契約とか絆とか義理、人情など)を媒介した支配と服従の関係でもある。
 この場合は、決して不二ではなく、たとえ対等・平等であってもなお、明確な差異・差別が存在する。サドやマゾッホやフロムの様々な指摘が参考になる。


 こういう事情を理解した上で、あえてそれを選択するのは自由である。
阪神タイガースが優勝した際、汚いとわかっている道頓堀川に身を投げる心理も、私も阪神ファンだからよく分かる。
 総体革命が進んでいるというその実体は、政権与党に参画している公明党、時には政府官僚との人脈を通じて権力の行使を十分為し得る、組織内外ともに広がる巨大な池田大作ファンクラブのようだ。
特に、学会員の中にいる多くの熱心な「師弟不二」の池田大作ファンは、依正不二の原理から見ると、本来の仏法の意味やその広宣流布の在り方を知らず(理解させられず)良しにつけ悪しきにつけ、単に自己の理想像を投影した「池田先生」という絶対的アイドルと運命を共にしようと意気込んでいることになる。
 しかし、そのことが自分自身の真の意味での人間革命(仏法における一生成仏)につながっていないことは明白である。脱会者が多数出ていて、熱心な子孫継承もままならず、若者の新規入会者が落ち込んでいて、組織内でまさに少子超高齢化が進む実態をみることができるからである。
 たとえばかつては「無冠の友」と称されその功徳は無限であると指導され組織されていた聖教新聞配達員たちは、無償で機関紙などを配達していたが、その人材すら不足し、徐々にその配達が地域の他社の新聞配達店に委託されることが全国的に広がっている。
 また地域に建てられた創価学会会館も警備や運営を担当する人材グループ「創価班」「牙城会」も、メンバーが集まらず衰退し、それらの維持もままならない状況が広がってきている。
 科学的にいえば、「無冠の友」が機関誌を配ることに無限の功徳があるのなら、その配達をする委託配達員にも無限の功徳があることになろう。

 先に創価三代会長を「永遠の師匠」と祀り上げ、それを前提としてこそ仏法への導きがあるとする教えは、たとえば創価学会が根本とする御書(日蓮の遺文)のなかで、
「修羅が 仏は十八界我は十九界と云ひ 外道が云く 仏は一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く」にはならないだろうか。
「螢火が日月をわらひ 蟻塚が華山を下し 井江が河海をあなづり 烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし。」(どちらも佐渡御書、御書P961)ではないだろうか。
 そして、結果として、南無妙法蓮華経(=宇宙一切根源の法)を上げ下げすること――「或は上げ或は下て嘲弄せし」――にはならないか?

 佐渡御書に、このようにある。
「日蓮は此因果にはあらず 法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね 華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を 或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり」(P960)
 日蓮が苦難にあっているのは、この因果ではない。日蓮は過去に法華経の行者を軽んじたために、また法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山を重ね、玉と玉とをつらねたような尊極の御経を、あるいはもち上げ、あるいは見下して嘲り愚弄した故に、この八種の大難にあっているのである。(私風現代語訳)

 仏法の根本を正確にわきまえないで世俗でひたすら現世利益を追求しゆくその先は、栄枯盛衰を免れず、未来の「平家物語」として語られるようになるかもしれない。
 そうならないように、身内である組織の中からでも片足をかけてしがみつきながら、微々たるものでしかないが、こうした警笛をならしていこうと思う私である。



■一点・一瞬から無限大∞への科学的法則へ――真に信じるに価する宗教

 昨年挙げた拙記事の、現代科学の知見を包含した宇宙一切根源の法
『生命とは「法」-南無妙法蓮華経と名付けられた「法則」-その自然科学的解析と、真の日蓮仏法の視点』
からみれば、三世生命の長さは無限大∞、その数も∞で、関係する間柄の数も∞であって、これらと比べれば、現世は時間・空間・社会的関係の数もすべて限りなくゼロに近い「一瞬」でしかない。
 その中において、師匠と弟子の契りとして、特別な関係が仮にあるとしても、その人数も回数も∞に存在することになるのであって、これでは、今世だけの関係として創価三代を特別視することに何の意味があるというのだろうか。
 あえていうなら師弟関係である相手の数も∞、一つ前の過去世も一つ先の来世も違った師弟関係であっても、無限大の時空を得るならば、創価三代がたまたま同じ時空で出会うことなど、いくらでもありうるのである。
 そのなかの南無妙法蓮華経を弘めるというドラマの、偶然たった一つとなったのが、繁栄した文化的生物の歴史上で、創作された法華経なのであり、虚空会の儀式、地涌の菩薩もこの中にある。そして日蓮、日興、創価三代へと続いて登場してきた。
 これらのどの時点を二つとってもその間に常にあてはまる――先に出た師と後からの弟子との関係にあてはまる――時空を超えた原理といえるのが、仏法本来の「師弟不二」、すなわち法を修行するという観点から捉えた科学的再現性のある「師弟不二」なのである。

 だから、本来の正確な師弟不二の「師」とは、「法(法身)」としての南無妙法蓮華経、「弟子」とはそれを日夜修行に用いて、人間革命(=即身成仏を繰り返し続けて一生成仏を遂げる)をする一切衆生である。
「在在諸仏土常与師倶生」も、本来は、この意味なのであり、世俗の師弟関係にこじつけた創価三代の師弟不二の永遠という論理は、明らかに宇宙一切根源の法(=仏法)の視点からは「誤り」であり「邪(よこしま)」である。

 かつて池田大作自身は、1975年「現代文明と宗教」(池田会長全集9,P762-763)において、こうも述べている。
「私と学会員の皆さんの関係は、師弟という相対するものではなく、同じ目的に進む横隊、もしくは、あえていえば、私を中心とする円形ということになりましょう。
ともあれ、日蓮大聖人の教え、学会精神を等しく学び、同じ自覚で、和合僧として広宣流布のためにたちあがった人は、等しく同志であり、地涌の菩薩です。その人こそ、常随給仕の人であり、師弟不二の人である。距離や役職上の立場の相違は、信心の自覚には関係がないのです。」

「円形」とは数学的に同一平面上のことである。上下の差別はなく、同じ時であり、永遠ではない。
「師弟という相対するものではなく、同じ目的に進む横隊」「等しく同志」と断言して、私が前述した真の仏法上の「師弟不二」を明確に述べているではないか。
 これをこの時点でわきまえていたのか単なるリップサービスだったのかどうかは不明だが、いつの間にか、己の都合のよい理論に変えられてしまって、歴史の経過で、創価学会は凋落傾向の局面にある。
 現在の創価学会における凋落局面は仏教で説く法則の一つである四劫――成住壊空――における「壊劫」(環境世界や生命体が破壊されていく期間)といえよう。
 

 創価学会のごく一部の熱心な会員が日蓮仏法を建前上でも弘めていることは、素晴らしいことである。だがそれは会員のほんの一部しか当てはまらないだろう。ほとんどの会員や幹部はかつての創価学会の熱心な会員のように御書を携帯して紐解くなどはしなくなった(私はそのような幹部や会員を見るようなことが今世紀に入ってなくなった)。真の日蓮仏法のアップデートをするどころか、池田大作の讃嘆や、毎年順番・定期的にやってくる国会議員選挙や地方議員選挙においての公明党の票取りに常に尻を叩かれていて、二世・三世どころか子孫継承もままならない状況のように見えるのが実態である。
 さらには、会員であれ非会員であれ、創価学会との関係を維持する主たる・又は大きな目的は、日蓮が説くところの崇高な自身の「成仏」や他人(や社会)の真の救済(日蓮の言う真の広宣流布)ではなく、利害・権威権力や政治的目的、はては己の世間体・生活維持のためになり下がっている。これは、己の基底の生命境涯が、仏法で説く地獄・餓鬼・畜生・修羅を含む六道輪廻の生命境涯の中に止まっていることに相当する。言いかえれば、己の貪欲すら克服できていない、いや、しようとしない、つまりは仏法の目的からは遠く離れた姿なのである。
 そういった結果なのか因果応報なのか、会員数や公明党の獲得票(今世紀に入っての国会議員選挙や直近の統一地方選挙においても)が減少しつつあり、組織全体が凋落傾向あること、公明党議員の不祥事や、一部の幹部や末端会員の犯罪行為などは、多くの非会員の知るところになった事実でも組織内では隠蔽され、語ること自体がタブーであるため、その実態を「知らぬは純真な会員や幹部」ばかりなのである。
 これらの有様も前ページで先述したが、小口偉一が述べていたところの、「教祖(つまりは創価学会・公明党や池田大作)に利用価値がある」からであって、言いかえれば日蓮が説く即身成仏よりも現世利益や処世術そのものが目的となってしまっているからである。
 むろん、創価の信仰を仮に建前にせよ、また信念としていたとしても、末端組織の会員における互助会的な助け合いや地域への貢献は大いに評価できる。しかし、これは客観的に言うまでもないが、社会人として共に助け合いながら生きていくためには常識的なことであり、創価学会の主張する信仰をもたなくても十分可能であって、多くの他の宗教団体や無信仰者でも一般的になされていることである。そしてその貢献度や規模の大きさは創価学会のそれを越えているものも多くあろう。したがってそれは、つまりは創価の主張する信仰は、優れた人の道を説く・世界の救済(広宣流布)を目指す「宗教団体」としての創価学会組織において、真に純粋に日蓮仏法で説く即身成仏・一生成仏――真の幸福境涯の持続――を実現しているのみであるとはとうてい言えないことを意味する。

だからこそ、優れた人の道を説く・世界の救済(広宣流布)を目指す日蓮仏法、その究極の目的であり絶対的幸福であると説かれる「即身成仏・一生成仏」――それは信仰のない人にとっても科学的再現性のある「教え」であるべきである。そして、そうであってこそはじめて、信じるに価することではないか。
 人類の歴史は、人間性の進化・発展の歴史ともいえる。原始キリスト教も宗教革命を経て発展してきたといえるが、残念ながらその非科学性のため、発展する科学とは袂を別かつ状態となったため教義上の客観性は止まったままである。
 仏法においては近年、その科学性が一部の哲学者・識者によって注目されている。(詳細は割愛する)
 私は、日蓮仏法こそ、科学と袂を別かつことなく、いやむしろ進化・発展する科学と共にアップデートしていき得る教えの一つであると考えている。
 当然に、信仰の対象となる法則も科学と共に新たな真理が発見されるとともにその定義をアップデートしていくべきであり、これこそが真に信じるに価する「信仰の対象」とすべきであろう。
この時こそ、真に人類を救済する――真に即身成仏・一生成仏――真の幸福境涯の持続――を実現せしめるところの、真の正しい宗教となると考える。

 これが凋落しつつある創価学会の改革の一助となれば、この上なく幸いである。

 ちなみに何度も繰り返すが、師弟不二について言えば、具体的には、仏法上の師とは南無妙法蓮華経であり、俗世上の創価三代の師は、仏法においてはあくまで一切衆生の凡夫、先輩としての同志という捉え方で、定義しなおすべきである。
 そしてその他の日蓮の遺文の前近代的・非科学的な部分も含めて、日蓮仏法の教学を常にバージョンアップし続けていかなくてはならないのである。

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