ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P64, 御本仏「池田大作」誕生、捏造神話を安易に採用した御用学者やジャーナリスト達
■ 問題となっている出会いの座談会
話が前後したが、小説人間革命での池田大作と戸田城聖との出会いの座談会ついて、その場に居合わせた竜年光が、自著「池田創価学会を解散させよ」1991/8/1日新報道、P63-64で、以下の如く記載している。
「池田大作が現われたのは、三宅さんの家で先生(註、戸田城聖)が『立正安国論』の講義をされていた時であった…中略…
そういう厳粛な中に『こんばんは』と入って来たのが池田大作だった。三宅さんの次女が池田と小学校の同級生で、戸田先生に合わせようと連れて来たのだ。池田は、末席にいた私の前の、玄関の脇に坐った。
やがて講義が終わり、戸田先生が、『何か聞きたいことがあれば……』と仰ると、池田がスッと立ち上がって、『天皇制はどうするんですか』とボソッと尋ねた。…中略…先生は懇切丁寧に説明をされると、池田は再びピョコンと立ち上がり、胸から紙を取り出して、何やらボソボソ読み出した。誰も何をいっているのかわからない。そして『失礼します』といって、スッと帰ってしまった。
私は呆気にとられて、なんだ、ずいぶん失礼な奴だ、と思ったものだ。
池田の著書『人間革命』では、この場面は見事に美化されている。池田は戸田先生と丁々発止のやりとりをしたのち、感動の余り朗々と詞を朗読したことになっている。
…中略…私だけが、池田の前に坐っていたので、異常な行動が強く印象に残っていたのだ。
また、同級生の女に連れてこられたというのではいかにも具合が悪いと思ったのか、もう一人、男の同級生を登場させて、その二人に連れてこられたことになっている。池田の創価学会活動歴は、初端からして、このように大変な粉飾が施されている。」
また、居合わせた三宅妙子はこのように暴露。また藤原行正は自著でそれを暴露している。
「小説人間革命の入信決意の描写は、事実とは異なります。座談会で詩を諳んじたというのも、全くのフィクションそのものです。私は生き証人です。」(「サヨナラ私の池田大作―女たちの決別 」大作さんからのラブレター P40 三宅妙子)
つまり問題となっている座談会における、池田大作と戸田城聖との出会いのエピソードについて、その場に居合わせた竜年光や三宅妙子などの証言から、その内容が事実と異なり、大幅に美化されていることが明らかである。
すなわち竜年光は、池田が初めて戸田城聖と出会った場面は、創作とは異なり、池田が座談会で天皇制について尋ね、その後すぐに帰ってしまって、感動的なやり取りや朗々と詩を朗読するシーンは一切なかったと明かした。三宅妙子も生き証人として、池田が座談会で詩を朗読したという描写が全くのフィクションであることを証言した。池田の入信決意の描写が事実と異なることを暴露している。
これらから明らかなように、池田大作は自己の入信エピソードを美化し、創価学会の正統性を強調するために歴史を改竄している。このような改竄は、信仰の純粋さや真実性を損なうものであり、信仰者に対する誠実さが欠如している。また、創価学会の内部での信仰とリーダーシップの在り方に対する重要な疑問を提起する。
言い換えると、池田大作の入信エピソードに関する改竄は、彼の信仰者・宗教指導者としてのあるべき姿・資質に関する重大な問題、そしてそれを支える創価学会組織の、信仰集団としての重大な問題を浮き彫りにする。そもそも信仰は真実と誠実さがその核心にあるべきであり、その上に立って人格陶冶・社会貢献の行動へと導くものであるゆえに、このように歴史を改竄し、自己を美化することは信仰の本質に弓を射る行為である。まして、このような行動や姿勢は、日蓮の教えを実践する指導的立場にある者やそれを支える組織として大いに反省・懺悔・改善すべきことである。直ちに日蓮仏法の本質に立ち返り、信仰の真の意味を再考すべきである。
■池田大作入信神話の完成への過程
再びまとめてみよう。
以下がこれまでに指摘したところの、歴史の必然のような創価三代の師弟の出合いを加えた、いわゆる池田大作入信神話の完成への過程である。
八月十四日の初めての座談会以降、池田大作の言葉は、先述した小口偉一編「宗教と信仰の心理学」P57-59での生発言(テープに録音されている)によると、南無妙法蓮華経は嫌いで反対したが、理論で破れて信仰しなければならなくなった。八月二十四日御受戒の後
御本尊を三日間おがまずに放置した。寝ても覚めても弾圧された時のことを考え、やめるなら今のうちがよいと考え、一年間、もんもんと悩んだ。はじめの動機は、みっともない状態であった。
この生発言が、小説「人間革命」第二巻(建前上は小説)を経て、歴史上の年齢も含め、次のように都合よく変わる。
はじめてお目にかかった八月十四日は決定的な瞬間(池田大作著「私の履歴書」P77)で、「それは、私がいつかこの人(戸田)のあとを継ぐだろう、継がなければいけない、私はそのために生まれてきたんだ――という強烈な直感…中略…
私がそう直感した瞬間、戸田先生のほうでも、〝このやせこけた若者がいつかオレのあとを継ぐだろう。いまオレはついに後継者とめぐりあった〟――と、ひと目で直感された…中略…私の直感と決心を、そのとき、先生も完全に知ってくださったわけです…中略…池田は、前後も考えず、その場で戸田に弟子入りを申し出た。」(五島勉著「現代の英雄」P38 池田大作の生発言)
「はじめて会って三十分もたたないうちですが…私の直感と決心を、そのとき、先生も完全に知ってくださった…」
「戸田先生の話を聞き、姿を見て、『この人なら……』と信仰の道を歩む決意をしたのである」(池田大作著「私の履歴書」P78)
となって、この捏造が永遠に創価学会の正史となって残っていくことになる。
その師弟の出会いは牧口が48歳で戸田が19歳、戸田が四十八歳で池田が19歳。(小説「人間革命」第二巻、P253)となっている。
この捏造・脚色は一目瞭然だ。
ところで、池田大作が聖教新聞等で、後からの意味付けや不都合な歴史の改竄等が始まったのは、どうやら戸田城聖没後~第三代会長就任前後からではないかと私は考えている。
つまり、これ以後は、機関誌である聖教新聞や学会関係企業がらみの出版は、信憑性が格段に落ちることになる。
戸田城聖は、亡くなる前までも、後から考えて不都合なことでもあけすけに公にしていた。
しかし師弟継承の話につながっている戸田城聖の生前の言葉は、ほとんどその後になって池田大作だけから始めて発言されていて、他の側近からは聞かれない。(これも後に検討したい)
そのなかで、池田大作の指揮下、創価学会は、破竹の如き発展を遂げ、その5年後には600万世帯へと拡大した。
後述するが、やがて評論家、高瀬広居の前で、池田大作は、
『私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である』と豪語する。
そして高瀬広居はこれを後述のように採用・掲載する。
むろん、これとよく似た言葉が、日蓮の遺文にもあった…
たとえば日蓮は、開目抄(大石寺では第26世日寛以降で人本尊開顕の重書としている)で、
「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべ からず」(日蓮大聖人御書全集P232)
(われは日本の柱となろう、われは日本の眼目となろう、われは日本の大船となろう、等(主師親の三徳をもって末法の一切衆生を救済しよう)との誓いは絶対に破ることができないのである。
とあり、その5ぺージ後にも
「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(日蓮は日本国の諸人の主、師、父母(親)である)
また、他にも、
「日蓮は日本国の人の為には賢父なり聖親なり導師なり」(同書P140)
「日蓮は天上・天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり」(同書P879)
等とある。
当時の「貧・病・争」に苦悩する創価学会員にとって池田大作は、まさに人生の師であり、お父さんであり、一家の主人よりも大切な「主」であった。
だから、創価学会員の中には、この確信に満ちた発言を伝え聞いて、池田大作が主・師・親の三徳を備えた仏、日蓮の再誕と思いこんだ人が大勢いただろう。
「貧・病・争」は、仏法でいうところの「穀貴・疫病・兵革」に相当する。
三災七難に苦悩する末法の時代ならではであろう。
こうして、次第に実質的な池田本仏論へと発展していく。
■捏造神話にのせられた評論家たち。はじめに高瀬広居著
これ以後の文献をたどってみよう。この池田の捏造に、多くの善良な評論家が騙された。捏造された師弟の出会いと入信神話を真実と思いこんで評価した(させられた)ジャーナリストたちの文献がこの時期以降、多々著わされているが、古いものをいくつか紹介する。
1965年10月出版、後に創価学会をよく評価し報道した高瀬広居は自著「人間革命をめざす 池田大作―その思想と生き方―」の中、P149—P156の「戸田城聖との出会い」においては、小説人間革命第二巻における師弟の出会いに迫る創作が見られた。
この高瀬広居の著書では、池田大作が戸田城聖と初めて出会った場面は、連れの男に家の玄関に押し入れられた池田は、戸田の話の内容がよく理解できなかったが、次第に戸田の視線に気づき、戸田の話に感動し、得体の知れない光線が体内を駆け巡り、戸田の言葉に救いを見出し、自分だけでなく他の人々も救えると感じたとした。そして戸田が池田に人生について質問し、池田は自身の思考、コミュニズムや天皇制、革命、日本の将来について質問し、戸田と激しいやり取りをした。この対話の中で、池田は戸田の後を継ぐ予感を抱き、戸田も同様に感じた。戸田は池田に対し、日蓮の仏法を学び実践するよう勧め、池田はすぐには承諾しなかったが、最終的に、入信を決意した。その後、先輩から「戸田先生の立派な弟子となりなさい」と励まされ、池田は戸田の強い個性と仏法の奥義に対する不安を抱きつつも、信仰の道を歩む決意を固めた。この一年間、池田は師を識り、信仰の絶対性を身証する闘いに挑むことになったとされている。
その後、五島勉氏は1971年の自著「池田大作という人」P114-115で、更に師弟の運命の出会いを記している。
「『新しい哲学を教えてくれる思想家がいるようだ。いっしょに話をききにいかないか』…(中略)…
だが戸田さんとめぐりあい、その話をきいてみたら、それはただの新しい哲学なんてもんじゃなかった。それはシャカが考えぬき、日蓮が確立した、深い大きな最高の仏法だった。…(中略)…
池田青年が必死にもとめていた、どう生きるべきかの答えは、この哲学のなかにあざやかに示されていた。
うれしかったろうと思う。池田青年をみたとたん、(ついにめぐりあったぞ!)と戸田さんは直感したけど、池田青年も(これだ! この人だ!)って思った。でも、かれは慎重派だったから、いったん家にかえって、十日間、昼も夜も考えつづけた。いろいろ批判も考えた。
だが、考えれば考えるほど、(これはまちがいない。これはほんものだ。よし! あのひとのもとでたたかおう、仏法のために!)という決心が、日ごとに強まるばかりだった。
それで、戸田さんとめぐりあってから十日目、かれは創価学会にはいった」
すなわち池田はさまざまな思想に絶望し、友人に誘われて戸田の話を聞きに行った。戸田の話は単なる哲学ではなく、日蓮が確立した深い仏法だった。池田はこの哲学に生きるべき答えを見出し、戸田と運命的な出会いを感じた。慎重に考えた結果、十日後に創価学会に入信する決意を固めた。戸田も池田に対し運命的な出会いを感じた。
室伏高室著「池田大作」P243-にも、当時の池田大作の姿が評価されている。すなわち、池田が病弱で貧しい家庭環境にありながらも逆境に打ち克ち、最高の人生観を求めて信仰に生きる姿が評価され、逆境を一つの転機として捉え、池田はそれをしっかりと掴んだとされている。また、戸田には裏の部分もあったが、それを知りながらも池田は戸田城聖を師として仰いで尊敬し、その強烈な信仰に仕え続けたとされた。そして大衆社会において、池田はリーダーとしての資質を持ち、創価学会と一体となってその目的を実現したとして、池田と創価学会は二つにして不二であり、その指導力は大衆社会における真の意味を実現しているとした。
彼のこの指摘は今となっては極めて的はずれで、それらの指摘は一次的な現象であったことになる。
これらは、明らかに、池田の捏造に騙された、善良な、かつ有力なジャーナリストたちによる評論である。この評論によって社会に与えた影響は無視できないほど大きい。
依正不二・諸行無常の原理がそのままあらわされている。
つまり、高瀬広居の著書では、池田大作と戸田城聖の出会いが劇的かつ感動的な場面として描かれている。この描写は、池田が自己の入信エピソードを美化し、神秘的な要素を取り入れたものであり、実際の出来事とは大きく異なる。特に、池田が戸田に対して詩を朗読し、激しいやり取りを交わす場面は完全に創作である。これにより、池田のリーダーシップとカリスマ性が強調され、真実を歪めることで信仰の純粋さと誠実さが失われる。
五島勉氏の著書では、池田が戸田城聖と出会い、その話に感動して信仰を決意するまでの過程がが運命的で神秘的なものとして描かれている。池田が初めて戸田と会った瞬間に強烈な直感を抱き、戸田も同様に感じたというエピソードは感動的であるが、明らかに美化され、事実とは異なる。このような神秘化は、池田のカリスマ性を高めるためのものであり、真実とはかけ離れた描写である。これにより、読者に対して誤った印象を与え、創価学会の信仰の純粋さを損ない、信仰の本質を歪める結果となる。
室伏高室の著書では、池田の逆境を乗り越える姿勢や、戸田に対する忠誠心が高く評価されています。しかし、この評価は、池田の自己美化されたエピソードに基づいており、実際の平凡な入信経緯とは異なる。戸田の指導力と池田の忠誠心を強調することで、池田と創価学会の一体性を示しているが、このような美化は信仰の純粋さと誠実さを損なうものであり、真実性が欠如している。
すなわちこれらの評論は、池田大作の捏造に基づいており、善良で有力なジャーナリストたちが騙された結果、社会に看過できない大きな影響を与えた。信仰は個人の主観的な体験である一方、真実と誠実さがその核心にあるべきである。歴史を改竄し、自己を美化することは信仰の本質に反する行為であり、信者や世間を欺くことである。
繰り返すが、池田大作の入信エピソードに関する改竄は、彼の信仰者・宗教指導者としてのあるべき姿・資質に関する重大な問題、そしてそれを支える創価学会組織の、信仰集団としての重大な問題を白日の下に曝す。そもそも信仰は真実と誠実さがその核心にあるべきであり、その上に立って人格陶冶・社会貢献の行動へと導くものである。この前提に立てば、池田のように歴史を改竄し、自己を美化することは信仰の本質を破壊する行為である。まして、このような行動や姿勢は、日蓮の教えを実践する指導的立場にある者やそれを支える創価学会組織として大いに反省・懺悔・改善すべきことである。直ちに日蓮仏法の本質に立ち返り、信仰の真の意味とあるべき姿とは何かを再考すべきである。
■「革命の大河―創価学会四十五年史」
1975年の「革命の大河―創価学会四十五年史」上藤和之・大野靖之編では、P86-90で池田大作の入信について紹介されている。
8月14日の座談会で、戸田城聖との出会いがあったとし、「池田はこのとき『何と、話の早い人であろう。しかも、少しの迷いもない。この人の指導ならば自分は信じられそうだ』と、直感したと、後に『人間革命』で述べている」とあり、既にこの時点で、小説人間革命が確立された「正史」として引用されていることが分かる。
さらには、池田を誘った三宅淑子など関係者も実名で以下の如く記されているが、自らの創作を自らの創価学会史で引用していることが、なんとも白々しい。
「戸田城聖に対する謝意の意を即興詩に託して吟詠した『旅びとよ…(中略)…われ 地より湧き出でんとするか』で終わる。この最後の一節が、地涌の菩薩の義について全く知らないはずの池田の口から出たとき、戸田は微笑したと伝えられる。
当時、座談会で詞を吟詠する青年など皆無だったので、居合わせた三宅たち友人や原島夫妻、竜年光などは、なんと変わった青年かと声もなくあっけにとられていた。しかし、戸田と池田の、この宿命的な出会いは、創価学会にとって、いや、世界の歴史において決定的な意味をもつのだが、当時だれ一人としてそれを予想した人はなかった。
戸田城聖が恩師牧口常三郎に会ったのが十九歳のころ、そしてこの池田大作が戸田に会ったのも、同じく十九歳のときだったのである」
これなどは、もうすっかり定着した感がある。
学術級レベルの著書「日興門流と創価学会」2018年,須田晴夫著)でも、過去の文献(小口偉一など)を確認しないで捏造された事実・内容を取り入れている。
これは、彼の立場や信仰心などが、純粋な科学的学問的良心を曲げた結果とはいえまいか。
■溝口敦の指摘する矛盾の正体
これについては溝口敦が明確に以下の如く明確に指摘している。
「が、それでも戸田の講話、人格にうたれたにもかかわらず、五時間も締め上げられ、理論に負けてシャクにさわるという矛盾はまるで解消されない。
池田が戸田の講話に感動したというのは明らかに捏造である。だが、さらに注目されるべきことは、池田がこれらの嘘を年齢の一致という嘘の伏線、下ごしらえとした点にある。すなわち、池田は、出会い時の池田19歳、戸田48歳という年齢を会長就任という自らの跡目相続の正統性の論拠とした」(池田大作「権力者の構造」P68)
すなわち溝口敦は、池田が戸田城聖の講話や人格に感動しながらも、五時間も締め上げられ、理論に負けて悔しがるという矛盾を指摘。これは、池田が実際には戸田の講話に感動していなかったことを示しており、池田の捏造が明らかになる。
さらに、池田が自身と戸田の年齢の一致を利用して、自己の入信エピソードを美化し、会長就任という跡目相続の正統性を強調している点を指摘。池田が19歳、戸田が48歳という年齢設定を下ごしらえに用いることで、池田のリーダーシップを強調した意図が明らかである。
このような改竄は、信仰の純粋さや真実性を明らかに損ない、信仰者としての誠実さの欠如、信者への欺きとなっている。また、池田の捏造に基づいたエピソードが社会に与える影響は看過しがたく、有力なジャーナリストや評論家たちが騙されることで、創価学会の宗教団体としての正統性に対する誤解が広まる可能性がある。
歴史を改竄し、自己や自己組織を美化することは信仰の本質を否定し、宗教団体としての社会性・正当性に泥を塗りたくる行為であるどころか、掲げている日蓮仏法を毀損する行為である。直ちに、日蓮の教えを実践する指導的立場にある者やそれを支える組織として大いに反省・懺悔・改善し、日蓮仏法の本質に立ち返り、信仰の真の意味を再考すべきである。
■ 昭和の御本仏「池田大作」の誕生
そして、このような中、高瀬広居の自著「人間革命をめざす 池田大作―その思想と生き方―」のP76-78においては、その時代の背景とともに創価学会の発展模様が以下のように絶賛されているのである。
「池田会長自身もいうように、かれのこの立場は、仏法上―法華経と日蓮上人の『御書』―によって裏づけられているというのだ。…(中略)…
池田会長は…中略…静かに、そして激しい語気でいった。
『私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である』
同席の大幹部数人は深く肯き、息をのんだ。」
すなわち高瀬広居の著書では、池田大作が法華経と日蓮仏法に基づくリーダーシップについて語る中で、池田は、法華経の教えに従う者の最高のリーダーが「国主」となるべきだと考えており、そのリーダーとしての役割を創価学会会長が担うべきだと述べた。さらに、池田は創価学会会長として日本だけでなく地球全体を視野に入れて活動しているとし、「私は政治に出ない」と言いながらも、全文化を包合する意味での「王」としての役割を果たしていると述べた。さらに池田は、自らを「日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」と宣言し、創価学会の会長という立場がどれほど重要であるかを強調した。同席した大幹部たちは深く頷き、池田の決意を感じ取る場面が描かれている。
日蓮の遺文にも、日蓮自身が仏界の境涯に達して、日本の国の人たちにとっては主人であり師匠であり親であるとの自覚を宣言した部分がある。池田大作は、この日蓮の遺文をそっくり真似たものと思われる。
この発言は、池田が自身の権威を法華経と日蓮仏法によって裏付けようとする意図が明白である。彼のリーダーシップの正統性を強調するために、法華経と日蓮の教えを用いることは、信仰の純粋さを損ない、信者や世間を欺くものである。この池田の自己位置付けは、歴史的な文脈から見ても非常に野心的であり、創価学会の内部での権威とリーダーシップの在り方に対する看過できない疑問を提起する。
池田大作の発言は、日蓮の遺文を真似た、傲慢な発言であろうかと感じるのは私一人だけではないだろう。
■反戦ではなかった牧口常三郎と戸田城聖
話はそれるが、牧口常三郎は決して戦争反対の立場ではなかった。これは、拙論文でも先述したが、自身の論文「『皮を切らして肉を切り…』という剣道の真髄を、実践に現わして国民を安堵せしめられるのが、今回の日支事変および大東亜戦争において百戦百勝のゆえんである。それは銃後におけるすべての生活の理想の要諦でもある…」からもうかがわれるように、当時の大日本帝国国民と同様、太平洋戦争の勝利を礼賛していたそうだ。投獄された後の尋問調書などから明らかなのは、牧口の説いたのは日蓮の立正安国論に基づき国の謗法を誡め法華経に帰依せしむることが天下万民の安寧であり、あくまで国を護り戦争を勝利に導くために軍部に対して行った諫暁なのである。しかも投獄された原因は治安維持法違反の不敬罪(神札を捨てさせた)だった。
創価教育学会時代に具体的な反戦運動を起こしたかどうかも詳細は明らかでない。
現に、昭和19年3月16日、牧口貞子宛獄中書簡においても、自ら「国法にはどんなにでも服従すると言うのだから、心配はいらない」と告げているのである。(宮田幸一監修「牧口常三郎 獄中の闘い」2000/12/10、第三文明社、P222)
■戸田城聖の戦争観(生発言)
牧口の弟子である戸田城聖も、獄中までは、決して反戦の立場ではなかった。
「戦争では勝ちたかった。負けるとは思つていなかった。私の今もっている信念は、当時はなかった。…中略…初代会長は勝つといっていた。教線が伸びたのは日本の戦勝と一致していたし、学会の弾圧と敗戦への方向が一致し、初代会長の獄死と共に本土空襲がはじまったので、その結びつきは考えた。…」(「宗教と信仰の心理学」P36)と、自身でも直接語っているのである。
戸田の反戦平和の主張は、出獄後、創価学会再建の中で、原水爆禁止宣言前後ぐらいといえる。
この事実は高橋篤史著「創価学会秘史」などに詳しく展開されている。宮田幸一(創価大学教授)がこれについて、前掲書や第三文明 2018年7月号P83に苦しまぎれの反論を載せているが、ここでは割愛する。
また、ちなみに意味ありげな戸田城聖自身の生発言として「私が日蓮正宗に入ったのがその年の秋で、目白小学校の校長さんの三谷さんから折伏されてねえ。…中略…その頃の信仰は拝まないとバチが当ると困ると思って拝んだ程度で、研究なんかしたことはなかった。昭和一八年警察に引張られて、未決でぶち込れていた頃、はじめて『五書』を読んだんです。初代会長は良く経典を読んでいましたなあ。私はそれを聞くのが嫌で良く逃げ出したもんだ。」(「宗教と信仰の心理学」P34下段)もある。
『五書』は御書のことだろうか。独房ではじめて読んだと言っている。
それにもまして、研究なんかしたことはなかったとか、牧口会長の経典を聞くのが嫌で良く逃げ出したというのには、今、創価学会の宣揚する信仰上の「師弟不二」の雰囲気すら感じられないことに、私は正直なところ驚いた。
反戦に限って言えば、戦前から戦争の被害者としての立場が一貫していたのは池田大作のみであるが、これらは多くの創価学会員の認識とは異なっている。
つまり、溝口敦や高橋篤史などの指摘によれば、牧口常三郎は戦争反対の立場ではなかった。彼の論文や獄中書簡からも、太平洋戦争の勝利を礼賛し、戦争を勝利に導くために法華経に帰依することを説いていた。牧口が投獄された原因も、治安維持法違反の不敬罪であり、反戦運動ではなかったことが明確である。
牧口常三郎が戦争を支持していたという事実は、彼の思想や行動が一般に持たれているイメージとは異なる。牧口は国法に従うことを強調しており、具体的な反戦運動を行っていなかったことも指摘されている。このような歴史的事実を明らかにすることは、信仰の純粋さや真実性を再評価するために重要である。
これらの指摘は、彼らの信仰と行動の本質を理解するための重要な手がかりである。歴史的事実を正確に伝えることは、信仰者に対する誠実さを保つために不可欠である。
ちなみに日蓮の生きた鎌倉時代は、一方的に中国を統一した元からの侵攻があって、それを他国侵逼難と位置づけることができた。
これに反して、そもそも太平洋戦争は、歴史上は日中戦争も同じであるが、きっかけとなった事件やその背景はともあれ、始めのうちは日本から相手国に攻め入ったものであって、日本が仕掛けたと位置づけるべきであり、仏法でいう法難とは言い難い。
つまりは自業自得とすべきだろう。前半の戦況が好ましいため、日本中がそれにわいていたときもあったという。
そもそも日蓮の時代は封建制度であって、武力自体が正義であった。
日蓮自身も、反戦――武力行使に反対した――という史実や遺文はみられないし、信者からの供養の刀を持っていた。
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(四条金吾殿御返事、日蓮大聖人御書全集P1295)などをはじめとして、封建時代における武力行使を容認して踏まえた指導の遺文を多く挙げることができる。
したがって、牧口常三郎の国家諫暁といっても、日蓮の教えが根拠だったが、その意味では投獄された原因は「殉教」であって「反戦」ではない。彼の活動は国家を護り、戦争を勝利に導くためのものであったため、反戦活動としての評価は適当ではない。彼の獄中書簡からも、国法に従う姿勢が見られるからだ。
すなわち牧口常三郎と戸田城聖の戦争観についての指摘は、歴史的な文脈を理解する上で重要である。彼らの活動は反戦ではなく、国家諫暁を目的としたものであり、信仰の純粋さを再評価する必要がある。信仰は真実と誠実さがその核心にあるべきであり、歴史的事実を正確に伝えることが前提である。
■師弟の出会い時の年齢の検討
師弟の出会い時の年齢については、1965年までは、創価学会内でも、池田大作の師弟の出会いは19歳だったが、戸田城聖の師弟の出会いは20歳と考えられていた。
戸田城聖自身の生発言は
「二〇歳で正教員の資格を得たので、二一の時に東京へ出たのだが、東京では食えなかったですよ。それで初代会長の牧口さんのところへ行って、下早小学校の代用教員にしてもらったんだが…」(「宗教と信仰の心理学」P33下段、二一は数え年の表現)
会長になる前の池田大作編収録論文においても明確に〝二十歳〟と書かれている。
「私は牧口会長の死を知らなかった。……〝二十歳〟の年より師弟の縁を結び、親子もすぎた深い仲である」(「創価学会の歴史と確信」、戸田城聖全集第一巻1965/9/2 池田大作編P301〝 〟は筆者)
これに従い、池田大作の一番弟子である原島崇の書いた昭和40年の「創価学会」では、戸田城聖の牧口常三郎との出会いは19歳ではなく20歳と記載されていて、当時の側近たちの認識があらわれている。
「戸田が、牧口の門をたたいたのは、大正九年八月の〝二十歳〟の夏で、牧口が四十九歳、西町小学校の校長をしていた時であった。」(原島崇著「創価学会」P244-245〝 〟は筆者)
1971年、日隈威徳氏の著作も同じ、出会いは20歳の夏であった
「明治三十三年(1900)二月十一日、戸田城聖は、石川県江沼郡塩屋村(現在の加賀市塩屋町)に生まれた。」(「戸田城聖ー創価学会 1971年2月 新人物往来社刊行」の復刻である「戸田城聖ー創価学会―復刻版」2018/6/26日隈威徳著 本の泉社P14)
「二十歳の戸田は、退職と同時に、ただちに上京した。…(中略)…
やがて戸田は、北海道の先輩の紹介状をもって、大正九年(千九百二〇)の夏八月ごろ、当時、下谷の西町小学校長であった牧口常三郎の自宅を訪ねた。『戸田先生は後に、牧口先生宅をはじめて訪れられたとき、奥さんが井戸の水を汲み上げておられた情景をよく話されていた』(大白蓮華152号)…
牧口常三郎は、明治四年(1871)に新潟の漁村に生まれているので、戸田よりちょうど三十歳年上である…」(P25-28)
このように、実際の戸田城聖の師との出会いは19歳ではなく20歳であり、周りも同じ認識であった。
それを19歳と言い張ったのは会長になってから以後の池田大作だった。そして、
「ウソも100回言ったら真実になる」(「嘘も100回言えば真実になる」は、ナチスのヨーゼフ・ゲッベルスの言葉)とばかり、言うだけでなく著作も出して、真実とした。
「戸田先生が、初代牧口先生に師事されたのが十九歳のおんとき。また、第三代会長池田先生が戸田先生の門下生になられたときも十九歳のおんときと聞く。まことに仏法の不思議!」(聖教新聞1960年5月13日)
のちに「創価教育の源流」編纂委員会編に掲載されている、最近の学会関連の第三文明社「評伝 戸田城聖: 創価教育の源流 第二部(上)P141」や 、「評伝 牧口常三郎: 創価教育の源流 第一部 P249-250」では、ずっと後から出てきた大白蓮華302号(1976年6月)掲載の、窪田正隆が弟にあてた手紙や言動「初めて牧口常三郎先生にお目にかかったのは大正九年二月初旬のことである」を唯一つの根拠に、どうしても戸田城聖の出会いが誕生日2月11日を迎えるより前の19歳であったことにしたい意図が苦しながらに見える。
脚色のある人間革命第2巻よりもかなり経過してからのことであるから、利益相反を考えると、この掲載記事自体に信憑性が乏しい。
生年月日について、池田大作は1928年1月2日、戸田城聖は1900年2月、年の差は28年だから、ともに誕生日を迎えた後の昭和22年(1947年)8月14日に会っていたとしても、その時の戸田先生は47歳であり、48歳ではない。戸籍まで偽ってもバレるのは明白なのに、どうしてこんなウソ・捏造を行なうのか。
ジャーナリスト溝口敦は、牧口と戸田、戸田と池田、各出会い時の年齢の一致と、それによる原始的・呪術的な池田自身への正統性、神性の付託である(池田大作「権力者の構造」溝口敦著P69)と断じ、「池田の入信神話は、デマゴギーの発生と肥大に関する調査、研究に、貴重なデータを提供できるほどのもの」(同 P73)と指摘した。
またこれより先の昭和58年著作である「池田大作『創価王国の野望』(1983/6/10、紀尾井書房、P201-203)において溝口敦は既にこう指摘している。
「池田はのちに入信時の模様を神格化し、戸田城聖との劇的な出会いを喧伝した。だが、関係者の話を総合すると、三宅家で戸田の講話を聞き、のちに西神田の学会本部に出向いて小平芳平から矢島周平、あるいはその両者から折伏を受け、歓喜寮に出向いて入信手続きをとったものと見られる。
『堀米日淳師からよく聞かされたものだが、池田は小平と一緒に歓喜寮に来たが、御授戒だけは受けたものの御本尊をいただくのはどうしても嫌だという。日淳師は仕方なく小平に持たせ、そのうち池田の気が変わるだろうからといったそうですよ』(当時『大日蓮』の編集を手伝っていた瀬尾正吉談)
池田自身も初期のインタビューでは、その後のこととしてこう述べている。
『家に帰っても三日間おがまずにほっておきました…』(先出「宗教と信仰の心理学」)…
『それから…中略…寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました』(同前)
池田の小心さを如実に示す言葉である。戦前の弾圧はただ恐ろしいだけで、それが敗戦を境に名誉の履歴に変ったとみる青年らしい常識にも欠けていた。…中略…池田はその時にあっても、貧しく実直な堅気の家庭が持つ牢獄を恐れる気持ちをストレートに持ち込み、おどおどと心を悩ましていた。
ところが現在の回想では、この当時は次のようになるのだから、池田の無恥無慙はほとんどビョーキである。
『戸田先生の話を聞き、姿をみて、『この人なら……』と信仰の道を歩む決意をしたのである。
さらに、話を聞くと、この戸田先生という人物は、戦時中、あの無謀な戦争に反対し、軍部独裁の国家権力の弾圧にもかかわらず毅然として節を曲げずに、昭和十八年、治安維持法違反ならびに不敬罪で検挙され、投獄されながらも己の信念を貫き通したというではないか。これは決定的な要素であった。…中略…当時の私にとっては『戦争に反対して獄に入ったか否か』ということが、その人間を信用するかしないかを判断する大きな尺度になっていたといっても過言ではない。…中略…』(池田「私の履歴書」)
両書を読み比べると、まさしく池田は尊大な大物風への〝人間革命〟を断行したことが歴然としている。が、実像と虚像のギャップを埋めるものが、己を高しと見せかける作文(それもゴーストライターによる)であるならば、人間革命の結果は悲惨である」
さらに、再びこう述べる。
「現在の彼の見栄や外部指向を前にすれば、インタビュー時の彼の無知は、いっそ初々しいものとさえいえる。尊大な大物風への「人間革命」の結果は悲惨としかいいようがない」(池田大作「権力者の構造」溝口敦著 P78)
つまり、溝口敦の指摘はこうである。すなわち、池田大作が自身の入信エピソードを神格化し、戸田城聖との劇的な出会いを喧伝した。池田が小平芳平や矢島周平から折伏を受け、歓喜寮で入信手続きをとったことや、御本尊をいただくことを拒否した事実を明らかにし、池田の初期のインタビューでも、御本尊を受け取った後、三日間拝まなかったことや、バチを恐れていたこと、池田が自らの神性を強調しようとした試みを批判し、池田の入信神話がデマゴギーとして発生し肥大していった。
更に、池田大作が自身の入信エピソードを回想する中で、戸田城聖の話に感動し、信仰の道を歩む決意をしたと述べている部分を引用し、池田は、戸田が戦時中に戦争に反対し、軍国主義と戦った人物であることを知り、その信念に感銘を受けた。このエピソードは「尊大な大物風への〝人間革命〟」、実像と虚像のギャップが広がっている。池田の回想がゴーストライターによる作文であることで、現実との乖離を強調した。池田の過去のインタビューから見える無知は初々しいものであったが、現在の見栄や外部指向が悲惨な結果を招いている。
繰り返すが、彼は池田大作の入信エピソードにおける矛盾と改竄を鋭く暴露した。池田は自らの入信エピソードを美化し、戸田城聖の人格と講話に感動したと述べたが、実際には初期のインタビューで見られるように、御本尊を受け取ることに対して強い抵抗を感じ、信仰に対して疑念を抱いていた。この矛盾は、池田が自己の神性を強調し、正統性を付与するための試みであったことが明らかである。
さらに溝口は、池田が自己の年齢と戸田の年齢の一致を利用して、自己の入信エピソードを神格化し、会長就任の正統性を強調しようとした点を明確に指摘。この原始的な思惟に基づく発想は、池田のデマゴギーの発生と肥大に関する貴重なデータを提供しており、歴史的事実と改竄のギャップを浮き彫りにしている。
溝口敦は、池田の無知が初々しかった時代に比べて、現在の見栄や外部指向がいかに悲惨な結果を招いているかを明確に示し、尊大な大物風への「人間革命」を断行した結果、虚像が実像を上回ることとなり、己を高く見せかける作文が虚構を生んでいると指摘。このような改竄と虚飾が信仰の純粋さや真実性を損なうものであり、信仰者や一般社会に対する誠実さが欠如していることを強調しているのである。
すなわち彼も、池田大作の入信エピソードにおける矛盾と改竄を明確に示している。歴史を改竄し、自己を美化することは信仰の本質を汚す行為であり、信仰は真実と誠実さがその核心にあるべきなのは言うまでもない。
その後はご存知のように、様々な宣伝・讃嘆本や批判・告発本のオンパレードとなったが、こういう改竄が判明している以上、捏造・改竄の存在や利益相反の観点からも、大いに検討を要するだろう。
また、仏法で説くところの「因果応報」は、まことに厳然としていることは、その後の池田大作の姿や創価学会組織をみれば明らかだろう。
■ 池田会長全集7にみられる、一次的に修正された人間革命第2巻
さらに、池田会長全集7 1973/2/16にも人間革命第2巻があるが、戸田先生の年齢部分は、以下のように、前述引用した初版部分とは微妙に違って、P300-311で、正確に修正されて書かれている。
「『山本君は、いくつになったね?』
…中略…
『十九歳です』
『そうか、もうすぐ二十歳だね。僕は、〝二十歳〟の時に東京に出てきた。北海道から、はじめて東京に出てきたのだ』」(P302、‶ 〟は筆者)
さらにまた、
「彼は、‶二十歳〟の春、北海道から上京したころのことを、しきりと思い出していた。
牧口常三郎と、はじめて会ったのは、その年の八月のことである。…中略…
――その時、戸田城聖は‶二十歳〟で、牧口常三郎は‶四十九歳〟であった。
いま、戸田は、四十七歳になっている。そして、今夜の山本伸一(池田大作)は、十九歳だと言った。
彼は、‶二十歳〟より、牧口に師事し、牧口を護りきって戦い続けて来たのである。時代は移り変わり、自分にも、真実の黎明のような青年の弟子が現われることを、心ひそかに期待して居ったであろうか」(P311,‶ 〟と( )は筆者)
と、1973年時点では修正されている。
真実を正直に書いてあるではないか。
拙論文で先述引用した小説「人間革命」第二巻と同じ部分を比べてみるといい。
この池田会長全集7は、絶版で、入手できないので、一時期のみの修正に終わっている。
すなわち、1973年に刊行された「池田会長全集7」では、「人間革命」第2巻の内容が微妙に修正され、戸田城聖の年齢部分が正確に訂正されている点が注目される。この修正は、池田大作の自己美化や歴史の改竄を是正しようとする試みであると考えられる。
修正された内容では、戸田が19歳の池田に対して「もうすぐ二十歳だね」と述べ、戸田自身が20歳の時に東京に出てきたことを思い出す場面が描かれている。さらに、戸田が20歳で牧口常三郎に師事したことが明記されている。この修正により、初版では曖昧だった年齢の一致が正確に描かれ、歴史的な正確性が高まっている。
この修正は、池田が自己の入信エピソードを美化し、リーダーシップの正統性を強調しようとする試みの一部であったことを示唆している。修正された内容は、真実を正直に描く姿勢の一部を示している。しかし、絶版となっているため、一時的な修正に終わったことが残念である。歴史の正確性を重視するためには、こうした修正が広く認知されるべきだ。
繰り返すが、このような捏造・改竄をはじめとする欺瞞、そして日蓮仏法を利用しながらこれを創価学会の組織拡大に利用した様々な行為は、日蓮仏法のみならず、一般的な信仰の純粋さや真実性を明らかに損ない、信仰者としての誠実さを著しく欠くものであり、結果として信者や一般社会を欺くものである。また、この「人間革命」がノンフィクション部門でベストセラーとなっていて、その後に様々な著者から正史として引用されている現実を見れば、池田の捏造に基づいたエピソードが社会に与える影響は到底看過しがたい。加えて、有力なジャーナリストや評論家たちがこれに騙されることで、また「人間革命」が英語などの多国語に翻訳されて世界中に出版されたことで、創価学会の宗教団体としての正統性に対する大いなる誤解を、結果として世界中に弘めた。これによる創価学会組織内での影響や、日本社会やグローバル社会に及ぼした影響は非常に大きい。
このような、歴史を改竄し、自己や自己組織を美化することは信仰の本質をないがしろにし、宗教団体としての社会性・正当性に大いなる疑問を投げかける行為である。それどころか、掲げている日蓮仏法を毀損し、他の日蓮の教えを信じる人々や後世に対しても恥をさらすような許し難い行為である。日蓮は一切の現世利益にとらわれず、万人の救済を目指す仏法の最勝の教えを説き、世間の咎一分もあらずを貫き、生涯にわたって清貧を貫き、権力や一般庶民からの迫害を「我が義破られずばもちいじ…」(開目抄)と耐え忍んだのである。その日蓮の生涯の姿勢や教えを前提とすれば、先述の改竄や欺瞞の行為や、現世利益にまみれて権力におもね参画する有様は、真っ先に破折されるべきであろうし、当然ながら改めるべきであろう。直ちに、日蓮の教えを実践する指導的立場にある者やそれを支える組織としての創価学会は、大いに反省・懺悔し、日蓮仏法の本質に立ち返り、信仰の真の意味を再考して、自らその姿勢を正し、改善すべきである。
つづく。