ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P56, 偽装和解だった11・7お詫び登山、教育者としての池田大作、会長辞任も偽装ポーズ、昭和54年池田会長勇退の舞台裏(2)
■ またもや偽装和解だった11・7お詫び登山
高橋公純著「冬は必ず春となる「創価学会の虚構と真実」」1991/5/27、恒友出版,P54-P58 には、池田本仏論を論じた部分がある。
「私たちは池田先生を本仏とまで仰ぎ、それにそった行動をしなければ出世出来ませんよ」と、学会本部職員が十数年前に言った言葉である…
この「池田本仏」思想はどのようにして出来たのか。
高橋公純によると、すなわち、「池田本仏」思想は昭和38~39年頃から学会大幹部や中堅クラスで「上行の再誕」とささやかれ始めた。昭和41年の教学試験では、池田氏が「主師親の三徳」を備えているとする優秀答案が学会の機関誌「大白蓮華」に掲載された。さらに、同年の試験で「法華経の行者について論ぜよ」という問題の優秀答案も、池田が法華経の行者であるとする内容が掲載されました。これにより、池田が末法の本仏とされる思想が広がった。牧口常三郎初代会長の記念法要で、彼が「真実の成仏即幸福の道を指し示し、広宣流布の大願へ民衆を導いた大導師」と称されたことが述べられている。これは、宗門で「大導師」といえば二祖日興に対する言葉であり、同じ言葉が牧口に冠せられたことで特別な意味を持つ。さらに、昭和52年6月の学会幹部向け機関誌「前進」では、戸田前会長が牢獄で大宇宙に向かって二百万遍の題目を唱え、地涌の菩薩の棟梁として開悟したと述べられている。これらの称賛が重なることで、初代および二代会長が宗祖らに肩を並べる存在とされ、三代会長である池田大作が本仏とされるのは時間の問題だとしている。創価学会の指導者たちが特別視されることで、池田の地位が確定したように描かれている。福島源次郎氏を中心に「師への帰命」「稀有の師と一体となった『妙法への帰命』」という言葉が広まった。この「帰命」とは、南無妙法蓮華経に対する帰命、つまり身も心も命を捧げることを意味し、「池田という本仏」に帰命することを指していた。こうして「池田本仏思想」が徐々に広まった。学会側は、池田本仏論は信者の称賛の声の高まりだと弁明したが、実際には創価学会の幹部や池田自身が計画的に推進したもので、池田が八体もの御本尊を模作したことが、その証拠となっている。
ここでは、「池田本仏」思想の成立について、創価学会の本部職員が「私たちは池田先生を本仏とまで仰ぎ、それにそった行動をしなければ出世出来ませんよ」と述べたことが紹介され、これは「池田本仏」思想がどのように形成されていったかを示している。昭和38~39年頃から「上行の再誕」としてささやかれ、昭和41年の教学試験では池田が「主師親の三徳」を備えているとする優秀答案が大白蓮華に掲載されるなど、池田が本仏とされる思想が広まった。これは宗教組織内部でのカリスマ性の構築と教義の操作がどのように行われるかを示している。池田本仏論が、単なる信者の称賛ではなく、組織の指導者層によって計画的に推進されたものであることを明確にしている。
次に、牧口常三郎初代会長が「真実の成仏即幸福の道を指し示し、広宣流布の大願へ民衆を導いた大導師」と称され、さらに戸田前会長が地涌の菩薩の棟梁として開悟したと述べられ、特別視されることで、三代会長である池田が本仏とされる道が整えられた。これは、歴代の会長が特別視されることで、現在の指導者のカリスマ性が確立されるプロセスを示している。宗教組織における権威の継承と教義の操作が、信者の信仰を導く方法として利用されていることが明白である。
更に福島源次郎が「師への帰命」や「妙法への帰命」という言葉を広め、「池田本仏」に対する信仰が徐々に広まったこと、学会側が池田本仏論を信者の称賛の声の高まりと弁明したが、実際には計画的に推進されたものであった。これは、池田本仏思想の拡散過程を具体的に示している。信者の信仰を組織的に操作し、カリスマ指導者を神聖視するプロセスが明確に描かれている。池田が御本尊を模作したことがその証拠となる点は、教義の操作と信仰の管理がどれほど深く行われていたかを如実に顕している。
以上で明らかになるのは、創価学会における池田本仏思想が単なる信者の自然な称賛ではなく、組織の指導者層によって計画的に推進されたものであることだ。宗教組織における権威の継承と教義の操作が信者の信仰を導く方法として利用されていることが浮き彫りになっている。これらは、宗教的信仰とカリスマ性の構築について理解を深める上で非常に価値的である。
下山正行著「私は創価学会の「スパイ」だった」(1979/12/15、晩聲社、P91-99) にも、こう指摘がある。すなわち、池田大作と創価学会の大きな過ちは、御遺命たる本門事の戒壇、すなわち国立戒壇の否定にある。宗門と創価学会の紛争は、日蓮大聖人の教えの重要部分とは無関係な形而下の抗争に過ぎず、宗門側は経済的に豊かで不安のない生活が保証される限り、池田と創価学会の教義違背や謗法に目をつむってきた。一方、池田と創価学会は政治権力志向の肥大化とともに信仰の次元を逸脱し、宗門を政治権力獲得のために奉仕させることに焦点を当てていた。正本堂即、事の戒壇説や戒壇論をめぐる妄説を日達に言わせ、妙信講の諫暁が日達を動かしそうになると経済的圧力を加えた。そして妙信講の講中解散処分という手段で邪魔者を排除し、宗門に対して専横をほしいままにした。御本尊模刻はその最たる事例である。「だが、妙信講排除によって…池田・創価学会は、思いあがったあまりに二つの誤りを犯してしまった。一つは、講中解散処分により妙信講が消滅すると考えたことである。…もう一つの誤りは、組織の肥大化に伴う経常費増加など自分自身の都合から、宗門財政を脅かしたことである。まさに正義を喪い、与えられた奢侈に慣れた宗門僧侶は、その奢侈が保証される限り、池田と創価学会の都合に迎合して、彼らが歪曲した教義に権威を与えさえした。だがそれは、くどくいうが、宗門僧侶に奢侈が保証される限りにおいてのことなのだ。それが脅かされるとなれば、彼らが意外な反撃をすることは、既に見たとおりである。池田と創価学会はその誤りを犯したために、いわば無用の紛糾を惹き起こしてしまったのである。
これが宗門と創価学会の紛争の本質なのである」
ここでは、池田大作と創価学会の大きな過ちとして、御遺命たる本門事の戒壇、すなわち国立戒壇の否定が挙げられ、宗門と創価学会の紛争は形而下の抗争に過ぎず、宗門側は経済的安定が保証される限り、池田と創価学会の教義違背に目をつむってきまたが、経済的不安が生じると、宗門は池田攻撃を開始した。池田と創価学会は政治権力志向が肥大し、宗門を政治権力獲得のために奉仕させようとした。この点は、宗教組織内部での教義の逸脱と、それに対する組織の対応を鋭く指摘している。宗門側が経済的安定を優先し、教義違背に目をつむってきたことは、宗教の本質を損なうものであり、信仰の純粋性を危うくしている。また、池田と創価学会の政治権力志向が信仰の次元を逸脱していたことは、宗教が持つべき社会的責任を問うものであり、宗教組織がいかにして信仰を歪めるかを明らかにしている。
次に、妙信講排除により、池田大作と創価学会は、講中解散処分により妙信講が消滅すると考えたことと、組織の肥大化と経常費増加から宗門財政を脅かすという過ちを犯した。宗門僧侶は奢侈が保証される限り、池田と創価学会の教義違背に目をつむっていが、それが脅かされると反撃を開始した。この点は、宗教組織内部での権力闘争と、その結果として生じる紛争の本質を鋭く指摘している。宗門僧侶が奢侈を優先し、教義違背に目をつむっていたことは、宗教の倫理的側面を大きく損なうものであり、信徒の信頼を裏切る行為である。また、池田と創価学会の誤った判断が無用の紛糾を引き起こしたことは、宗教組織がいかにして自己破壊的な行動を取るかを示していて、宗教組織が持つべき倫理的責任と信頼の重要性を強調している。
これらを通じて、創価学会と宗門の対立が宗教の本質を損なうものであったことが明らかになる。池田大作と創価学会の教義違背と宗門僧侶の奢侈を優先する態度は、信徒の信頼を大きく裏切るものであり、宗教組織の倫理的側面を問うものである。加えて、宗教組織が持つべき責任と信頼の重要性を強調しており、宗教的信仰の純粋性を守るための重要な教訓となる。
彼はこの修羅道の争いをきちんと把握していた。当然ながら、純真な創価学会員には、これらの真実は知らされていない。
更には彼の結論「宗門と創価学会紛争の歴史とは、日蓮大聖人のお教えの重要部分と、本質的には無関係な形而下の抗争に過ぎなかった」というのは真実である。そして、下山は妙信講の視点から、この紛争の本質を見事に解析している。
そして彼の言う「戒壇論」と「国立戒壇否定」を、それぞれ「科学的アップデートを記した真の日蓮仏法」、「日寛アニミズム否定」に置き換えて再構成したら、拙論文の主旨と見事に一致するものが書ける。
まさに彼が指摘したような教義違背・謗法に目をつむる宗門と創価学会であったといえよう。
■ 教育者としての池田大作の姿
昭和五二年路線の最中、池田大作は自身が創立した創価学園(当時は男子校)で創立者として訪れ、数々の理想的な内容の講演や指導を行っていた。創価学園生徒会誌「渓流」2号(昭和52年3月16日発行)によると、彼は創価一貫教育の構想を述べ、その原点は創価高校であると強調した。また、生徒たちに対し「御恩になった方には、必ずその恩は返します、その人のことは生涯胸に刻んで私は忘れません――という決意をもって」池田への恩返しの重要性を説き、貧困な状況でも勉学に励み、学生生活を送り抜くよう促した。
池田はどんな誹謗中傷も気にならない、「なぜか。私には学園生がいる、創大生がいる、人材がいます。次に続く何千何万という優秀な若き人材が、雲が涌くごとくいるんです。だから、私は世界平和のために戦ってくれる後世の人たちの犠牲になっていくのが、本望なのです。犠牲になって道をつくるのが、私の願望なのです。私個人のことなんか、何とも思っていません。これが、私のいつわらざる心境であります。諸君を大切にします。一生懸命、健康を祈っております。これが、創価学園の創立者の境涯であるということを、諸君は、きょう改めてわかってください」
と、一方では先述した虚々実々の行動を進めながら、他方で純真な青少年に向かって美しい絆を結び、誠実に未来の行動を鼓舞していた。
さらに、彼は学園の寮で寮生に対し、暴力を否定し、言論で真実を追求すること、自己犠牲を強調し、母校を愛することを指導した。「裕福でないことが幸せなんだ。勝っている人は、滅びる因を作っている。今負けている人は、勝つ因を作っているんです」
「自分が青春時代を歩んだ所、友達や同志と共に乱舞した世界を大切にし、愛するということほど尊いものはない…愛されれば、どんな苦境に陥っても強い。忍耐がある。執念がある。そういうように、私達は母校を愛そうよ」
などと指導した。これに応えて寮生たちは
「創立者の通りに、寸分の違いもなく生きよ。絶対に」
「創立者の御心を、深く探っていかねばならぬ。…僕には、学園の伝統継承という重大な使命が残っている。…自ら苦労の渦中に飛び込んでこそ、大いなる成長があるんだ」
「自分の欲することを第一義とするのではなく、学園の為に今、何が必要なのか。その為に自分はどう行動すればよいのか。この発想法こそ、エゴを超えた真実の生き方ではないか……明日も今日よりも真剣に戦い、真剣に思う。創立者への肉迫。眼目はそれのみ」
「一期生のOさんがこられ、こう語られた。『学園精神とは、校訓と創立者への肉迫であり、その問題にどれだけ悩んだかが大事だ。また、弟子として本当に創立者を守っていく責任を持っている人が本当の弟子だ』さらに、『とにかく、創立者の御構想を実行していかなくてはいけないのは学園生であるという原点をいつになっても忘れてはならないし、常日頃、確認すべきである』と…負けてたまるか!」
「僕の人生は、創立者と共にしかない。学園精神とは、生涯創立者と共に歩む生命なんだ。忘れるものかこの日の感激を。崩してなるものか、この永遠の師弟の契りを」
などと、それぞれに師弟の契りを培っていた。
ちなみに「じっとこらえて今に見ろ」は、仇討ち根性丸出しのフレーズにも見えるが、創価高校八期生の愛唱歌「わが青春に誇りあり」の二番にも取り入れられて、学園生の師(=池田大作)への思いを綴っている。
また、講堂で「労苦こそ最大の財産」と名打った第四回鳳友祭における池田の挨拶では、
「『後生畏るべし』という有名な言葉があります。先に生まれた人を『先生』といい、次につづく人を『後生』という。それは師弟という関係にも通じます。ところで、今の世の中は、あらゆる社会が、自分より上に後輩を行かせたくない、なんとか抑えつけておきたい、そして自分自身の優位を勝ちとっておきたいとする姿がほとんどであります。しかし、真実の姿は、『先生』よりも『後生』の方が一段と成長し、偉くなっていかなければなりません。
そして『先生』というものは…〝後生畏るべし〟で、どうか後輩が自分よりどんどん成長し、偉くなっていってもらいたい。そういう意義が、この言葉には込められております。きょうの諸君の姿を拝見して、まさしく『後生畏るべし』の感を深くいたしました。若き諸君は頭脳においても、情熱においても、あらゆる学問の知識においても、身体においても、『先生』よりも、はるかに上回って、立派になっていくようであっていただきたい。それが、人類社会をより進歩、発展せしむる真実の人間道のあり方なのであります。
したがって、諸君は、今のうちにしっかりと勉強しておかないと、悔いを残します…ともかく、一歩も退かないで、皆んなと一緒に真剣に学問に取り組んでいこうとすること自体が、実は真の生きた学問、進歩に通じるのであります…それがない人は、進歩しようという決心のない人は、どんな姿を見せたとしても、どんな立派なことを言ったとしても、それはもはや敗北者であります。男性は力です。その力をつけるために最も大切な訓練を受ける期間が、何度も申しあげるように、今の諸君の年代であります。そのことを忘れず、我が信念の道を進んでいっていただきたい」(同書P19-20)
ここでは、「後生畏るべしを師弟の関係と結びつけ、男性は力であると、しっかり力をつけて、自分よりも偉くなってもらいたい、そうなっていかなければならないという期待が込められている。この挨拶は教育者の挨拶としては無上に素晴らしい。ただし、ここには総体革命を目指して、創価学園出身の優秀な人材を、社会や全世界のあらゆる部門の要職へ就かせ、活躍させ、創価学会=公明党の拡大(創価学会が言うところの広宣流布)を成し遂げようという大志も見える。
また、これに似たような池田大作の詩が、学会員の青少年たちの未来部にあてた「大いなる希望」である。言論出版妨害事件真っ最中の昭和四五年元旦付、七五〇万世帯達成宣言の頃の詩である。
「君たちよ 大木となれ 力と福運の葉を茂らせよ 勝利の花を爛漫と咲かせ 実を結べ 僕は 根っこになる 根は見えない 見えなくてもよいのだ 君たちよ 壮大な大殿堂をつくりゆけ…僕は喜んで その礎石となろう…」(「池田大作全集第39巻」、1991/2/11 聖教新聞社、P388)
これらを並べてみると、自ら「あらゆる社会」の悪例として述べている、なんとか抑えつけ、自分自身の優位を勝ちとっておきたいとする姿等は、昭和五二年路線を推し進める自らの姿と重なり、この美しい詩が欺瞞に見える。
さらに後述する辞任劇において山崎正友がこう述べている。すなわち首脳達には、会長は変っても、師匠と弟子の関係は変らないと根回しし、北条夫人には会長夫人といっても私の女房の場合とは違うぞと念を押し、先生というのは池田だけ、形は変っても、今までどおりと幹部のあらゆる会合で行われたなどとあることから、子供たちに後生畏るべし等と指導しながら自らはそれと全く正反対の姿を演じていた。まさにこの互いに衝突しうる多面性は、仏法上で言う「頭破作七分」ではなかろうか。
池田大作の、こういった多面性・虚飾性を原島崇・福島源次郎や山崎正友は着実に掴んでいたといえる。
すなわち池田大作は、昭和52年に創価学園(当時は男子校)で、創立者として教育指導として、創価一貫教育の構想を強調し、生徒たちに恩返しの重要性や勉学の励みを説き、誹謗中傷に動じない理由として、「未来を担う優秀な人材が次々と現れること」を挙げ、彼らのために自らを犠牲にする姿勢を示した。また、池田は暴力の否定や言論による真実の追求、自己犠牲、母校愛を寮生たちに教えた。寮生たちは池田の教えに感銘を受け、師弟の契りを強く意識して、これに応え、「創立者の教えに忠実に生きる」ことを誓った。池田が創価学園で教育者として果たした役割は、理想的な教育理念と実践を通じて、未来の人材育成に努めたものと言え、彼の教育者としての一面を強く示している。しかし、これらのエピソードは、彼の理想的な教育理念と指導法がうかがえる一方、背後にある戦略的意図も見逃せない。「後生畏るべし」という言葉を用いて、生徒たちの成長と成功を強く期待する姿勢は、教育者として素晴らしいし、彼の指導が多くの生徒に深い影響を与えたことは間違いないが、この素晴らしい教育姿勢の背後には、創価学園出身の優秀な人材を社会の重要なポジションに就かせ、創価学会=公明党の影響力を拡大するという明確な戦略が見え隠れしている。つまり、池田大作の教育は、単なる個々の成長を超え、組織全体の影響力を強化する目的も含まれていたということである。
こうした戦略的意図を持ちながらも、生徒たちに対して誠実に向き合い、未来への希望を語りかける彼の姿勢は、教育者としての一面とカリスマ指導者としての一面が融合したものであると言える。教育が個人の成長と社会の変革を結びつける力を持つことを示す一例とも言える。
池田大作の詩「大いなる希望」や彼の発言を並べてみると、表向きの理想的な言葉と実際の行動との間に大きなギャップがあることが浮き彫りになる。表では「後生畏るべし」と若者の成長を促し、自身を「根」として若者を支える姿勢を示していたが、その裏では権力を抑えつけ、自分の優位を保つための策謀を巡らせていた。
繰り返すが、このような多面性や虚飾性は、仏法で言うところの「頭破作七分」にも通じるものである。池田大作の行動と発言の矛盾を原島崇、福島源次郎、山崎正友が着実に見抜いていたことが分かる。こうした矛盾や裏表のある行動は、信仰者としての信頼を大きく損なうものであり、宗教指導者のあり方について再考を促す重要な視点、宗教や信仰の本質について深く考える機会を提供するものである。
■会長辞任も偽装ポーズ
「3月6日 学会・福島源次郎副会長、大牟田市で「墓地問題で御本尊を抵当に入れて借金した僧侶がいたり、カツラかぶって酒を飲みに行ったクソ坊主がいた」「会長本仏論というのは、我々が先生を尊敬するあまりに誤解されたことである。本山においても、池田先生がいれば皆ワッと寄ってくる。しかし猊下が通られても、どこのおじいさんだ、という感覚しかない」と発言して物議をかもす」
これがとどめとなって、ついに昭和54年(1979年)、自ら構想した第七の鐘が鳴り終わる年に、池田は会長引退となる。
しかし、これもまた、偽装ポーズであったことが、後に分かるのだが、とりあえずは、その舞台裏も含めて辿って行こう。
創価学会副会長であった福島源次郎の著「蘇生への選択」(1990/2/11 鷹書房)は、403ページに及び、池田への諫言や、当時の創価学会の状況など、彼の生の主張が載っている生々しい書である。
似た内容は、原島崇や山崎正友、石田次男、龍年光、矢野純也等、創価学会内部で池田のために身を尽くした複数の造反者の著作にもあり、これらは、創価学会内部の実態と池田大作の偽装ポーズを暴露する貴重な証言として重要なものとなっていて、宗教指導者のカリスマ性とその裏に潜む権力闘争を鋭く描き出している。すなわち、きわめて客観性が高い。内部の声ほど、重い真実はないだろう。
これによると、すなわち、1979年4月5日に池田大作は会長辞任を決意し、日達上人に辞任を伝えた。しかし、この辞任は偽善的なものでした。福島が副会長を辞任することに対し、池田は自らも辞任すると言った。
「『昨日お山に行き会長をやめると貌下に話してきた。貌下は烈火のように怒って福島はどうしたと話にならなかった。お前のおかげでえらいことになった。お前も副会長をやめ、俺もお前を抱きかかえて会長をやめるよ。(事情をよく知らない私が「それは絶対にあってはいけません。やめるのは私一人だけで十分です」との発言に対し) いやいや、師匠というものはそんなものだ。弟子の副会長が辞表を出しているのに、会長が残っているわけにはいかないよ。…みんなお前のためだ…』」
福島は深い罪悪感と重圧感に襲われて泣いた。
4月23日の会長辞任諸行事の前に、北條理事長が過去の経緯や新しい会則、福島の立場について説明し、福島の罪悪感を少し和らげた。会長辞任後、福島は学会と池田に迷惑をかけたことを償うために精進すると決意したが、後に池田の偽善性を感じるようになり、役職辞任とともに本部職員も退職した。池田の虚言癖が会員間に知れ渡っている一方で、信じ込んでいる会員も多い。池田の嘘は、自分を偉大に見せるためであり、多くの嘘が含まれていて許し難い、そして、
「七五〇万世帯の折伏をやったというのも、前述のように大嘘でした。小説『人間革命』の中でも、入信情景をはじめとしてあちこちに、事実のなかに嘘を書き入れ、偉大なる弟子像を作り上げて、私達を欺きました。事実性を追及すると、これは小説だからと逃げます。『人間革命』は学会の真実を書き綴ってあると、何度語ったことでしょうか。この発言も又嘘だったのです。
このような重大事を、仏法指導者である人が嘘をつくはずがないと信じぬいていた私達も、愚かすぎました。」
「『私には戸田先生しかない。それが私の一切である。戸田先生の『心』をこの世で実現していく、それが私の使命であり、栄誉であると思っている。それ以外の私自身のことや一家一族のことなど全く眼中にない」(創立57周年記念勤行会 62・11・18)
このような発言を聞くと、この人は骨の髄まで嘘つきの人だなとの思いに駆られます。憤りとともに、ここまで嘘をついて自分を立派にみせたがる修羅の欲念に、哀れささえもよほします。創立記念の重要スピーチの中で、真剣に確信的に語れば、純真な人は『先生は何とすばらしい人であろうか』と敬仰したくなります。私も二十数年、その思いでまいりました。だからこそ、恩師を引き合いにして自分を宣揚するこの種の嘘が、許し難いのです。」
これらの嘘により、名誉会長が信頼を失い、学会の衰退と堕落を招いたとしている。池田は、戸田の教えを実現することが使命であり栄誉であると語ったが、それも嘘であり、彼の欲念が哀れに思える。また、彼の言葉が本当であれば、学会の衰退はなかっただろうし、外道義混入の教説も存在しなかっただろうと指摘。さらに、妻を婦人部のトップに据えたり、長男を副青年部長に任命するなどの行動も批判。池田は自分が「一家一族のことなど眼中にない」と述べながら、福島が副会長就任時に池田が「『君の就任のはなむけとして、ひとつ言っておこう。君のこれからの重要な仕事は、私の家族のことまで常に心に掛け、将来にわたって面倒をみていくことだ。この点がまだ君に欠けている。中西を見習うのだよ』(51・12・8)」と述べたことを挙げ、池田の言動が自己保身や自己賛美のための嘘に満ちていることに驚き、彼が平然と嘘をつける人間であると断じた。
「もしも皆さんの周りに次のような人がいたら、どう思いますか。
実際には、人に冷く、親に不幸のかぎりを尽くしている人が、それを知らない人達に、『人には親切にしなさい。親孝行をしなさい』と常に教え訓していたら、その人は人に親切で、親孝行の人であろうと思うことでしょう。又詐欺師の常習犯なのに、その子供には『決して人を欺してはいけない、人間はまっとうに生きなければならぬ』といつもいい聞かせている父を、誰が詐欺師だと思うでしょうか。
名誉会長には、これと同じような習性があるのに気が付きませんか。じつは私もこれに気付いたのは、五十五、六年の頃で、本当に驚き、またその巧みさに感心もしました。…中略…名誉欲や金欲をかなぐり捨てよ、名声や富を第一にする人で本当の指導者はいないなどと、名聞名利を排する生き方を、どれほど強調したことでしょう。
嘘やハッタリやごまかしは、本物の人には通じない、正直・誠実の人間であり、人生であれと、繰り返し戒めています。
ところが、本人はどうでしょう。諌言は聞き入れず、むしろ諌言したら反逆と糾弾します。名声を追い求め、国連平和賞や各国の勲章などの栄誉を、いろいろと弁解しつつも得々と貰ったではありませんか。桂冠詩人の称号を貰った時は、自分が日本で最初の人だと、そのいわれや価値を長々とスピーチしたことは、記憶に新しいことです。本当にほしくないのなら、一切辞退すればよろしいのです。それで広布が停滞したり、妙法が傷つくはずがないし、むしろその方が仏法者として立派なのですから。世間では、こういうのを、嘘つき、ごまかしといいます」(同書P281-284)
すなわち池田が親孝行や誠実さを教える一方で、自身の行動がそれに反している点、他者の意見や諫言を聞かずに名声や富を追い求める姿勢を批判。池田の言動が一貫性を欠いており、仏法の教えに背いていることを強調した。更に福島は、名誉会長が国連平和賞や各国の勲章を受け取ることで名声を追い求める姿勢を批判し、本当に欲しくないのであれば辞退すべきだと述べた。これらの行動が嘘つきやごまかしであり、信頼性に欠けることを強調した。
ここから見えてくるのは、まず、池田大作の言動が一貫性に欠け、虚偽や自己賛美に満ちているという点である。
1979年、池田大作は会長辞任を決意し、副会長の福島源次郎に対し、自身の辞任が福島のためであると語った。福島はこの言葉に深い罪悪感と重圧感を感じたが、後に池田の態度が偽善的であることに気づいた。会長辞任の背景には、宗門からの圧力や内部の権力闘争があって、会長辞任が偽装ポーズであったことは、彼の指導者としての誠実性に大いなる疑問を投げかける。福島の告白は、創価学会内部での権力闘争や欺瞞がどれほど深刻であったかを示している。また、池田が弟子のために辞任すると見せかけることで、自身の権力を守ろうとする姿勢は、指導者としての信頼性を大きく損なうものである。
次には虚言・無反省・有言不実行の池田大作の姿勢が問題である。
福島源次郎は、池田大作の虚言癖と自己賛美の嘘について指摘した。池田は自分を偉大に見せるために多くの嘘をつき、学会の正史としての「人間革命」や池田の入信情景なども事実とは異なっている。彼の虚言は信者を欺き、組織の衰退と堕落を招いた。
更に、池田大作が自分の家庭のことを福島に気にかけるように指示しながら「一家一族のことなど眼中にない」と述べたことを福島が批判。池田の言動は自己保身や自己賛美のための嘘に満ちており、真実を語ることなく、信者を欺いてきた。
この池田の虚言癖と自己賛美の嘘は、指導者としての倫理に反するもので、その信頼性を大きく損なうものある。福島の指摘は、池田が信者を欺くために多くの虚言を用い、その結果として組織の信頼性が失われたことを示している。宗教指導者が虚言を繰り返すことで、信者の信仰心や組織全体の倫理が揺らぐ危険性をまさに強調している。
これらは信者に対する裏切りであり。福島の批判は、宗教指導者が自己保身や自己賛美のために信者を欺くことの危険性を更に強調している。
すなわち池田大作の言動が一貫性に欠け、虚偽や自己賛美に満ちているという点が大いに問題なのである。彼の会長辞任が偽装ポーズであったことや、虚言癖、家庭重視の虚偽の教えが信者を欺いてきたことが示されている。福島源次郎の指摘は、創価学会内部の欺瞞と権力闘争を鋭く暴露しており、宗教指導者としての倫理の重要性を強調し、信仰の純粋性と指導者の信頼性を守るための重要な教訓となるものである。
私も自ら様々な文献を読み、気がついた時の正直な思いがそのまま述べられていると考える。
普通の理性があれば、科学的考察により容易にたどり着ける結論であろう。
ちなみに、池田大作は自ら創価学会の最高機関とした社長会で、
「学会っ子は、名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。
奴隷のように学会に仕えよ、それが御本尊様につかえる事だ」(第50回社長会,昭和46年7月8日,継命編集部編「社長会全記録」,1983/6/10,継命新聞社,P222)
と、本音を語っていることも、福島源次郎の主張を裏づけている。
普通の理性と科学的考察により、これらの結論に容易にたどり着けると述べている点は重要である。池田大作の矛盾や虚言が、理性的な分析によって明確になることを示しているからだ。
池田の発言や行動が、教育者としての姿勢と指導者としての権力闘争の二面性を持っていること、また、特に、彼の虚言癖や自己賛美の傾向が、信仰者に対してどれほどの影響を与えたかが重要である。
池田の指導が、信仰心や忠誠心を操作する方法として利用されている点は、宗教指導者としての倫理に大いに疑問を投げかける。彼の言葉が信者をどのように導き、同時に欺いたかが、如実に明らかになっている。
拙論文では、こうして池田大作の言動の矛盾を鋭く分析し、福島源次郎の指摘を裏付けた。そして信仰や忠誠心の操作について深い洞察を提供した。これらは、宗教指導者としての倫理を考える上で非常に価値のあるものである。
■ 山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」1981/12/15、三一書房P26- には、この舞台裏の真実が克明に記されている。
多くの創価学会員は「すべてウソだから買うな・読むな・信じるな」と洗脳されている著書である。
これによると、すなわち、
山崎正友は、1979年3月31日に兄の葬儀を終えて東京に戻った際、池田大作から日達上人との間の調停を依頼された。当時、宗門と創価学会の関係は末期的状態にあり、3月6日の福島源次郎の発言が本山側に漏れ、全面戦争へと発展した。3月31日、法華講連合会が池田に対して総講頭辞任要求を突きつけ、日達の意思が背後にあると考えられた。万策尽きた池田は山崎に和平工作を依頼し、山崎は調整に尽力した。前年6月30日に第一回和解が成立したこともあったが、池田の不誠実な言動で一カ月も経たずに破綻していた。山崎は、二度の調停の失敗の後、信仰心に基づいて自分の道を歩むと決めていたが、再び泣きつかれて三度目の調停役を引き受けた。1979年4月2日、池田は立川文化会館で山崎に対し、総講頭と会長を辞任する意向を示し、騒動の収束を依頼した。山崎は、池田が危機に陥った際に「やめたい」と言って側近の忠誠心を試し、実際には会長の椅子に執着していることを知っていた。池田は嘆願書や誓約書を取ることで独裁を強化してきた。彼は1月6日に山崎に対し、宗教法人規則の改正をやめて会長職に居座ろうとする意向を示した。池田の言動は、危機に際して自身の立場を守るための策略であり、そのために山崎を利用し続けた。
「『私は、総講頭と会長をやめようと思う。そのことで、いまのさわぎを、君の手で完全に収束してくれないか』と切り出した…
私は、池田氏が、危機に陥ったときの便法として側近の忠誠心をさぐったり、同情を得たりするために、これまで何度となく〝やめたい、やめたい〟と云って来たことを知っていた。
口ではそういいながら、実際は、どれだけ会長の椅子に執着していたかも知りぬいていた。
こうしたとき、うっかり
『先生のお心のままに』などと云ったりしたら、その側近幹部は、二、三年いびり抜かれる。
『とんでもない。先生にやめてもらっては困ります』
と、芝居がかって慰撫しなくてはならないのである。
そうすると、池田氏は、その都度、最高幹部から、池田留任の〝嘆願書〟や〝誓約書〟をとり、前にも増して独裁を強化するのだった。
つい三か月ほど前の一月六日、池田氏は私に、
『おい友さん、規約改正は、やめて、しばらく様子をみようよ。君なら猊下にたのめるだろう。君ならできるよ』
といった。つまり、十一月七日の和解の前提として学会側は宗教法人規則を改正して会長選挙制にする、ということを、日達上人に約束していた。その後のさわぎのしずまり具合をみて池田氏はそういう約束を、私のあっせんで反古にし、終身会長職に居すわりをはかろうとしたのである。」(同書)
池田大作の真意を理解していた山崎正友は、1979年4月2日に池田から総講頭と会長を辞任する意向を示され、騒動の収束を頼まれた。池田はこれまでも同様の状況で「やめたい」と言って忠誠心を試してきたため、山崎は慎重だった。池田はしみじみと語りかけ、最終的に以下の条件で和平を提案した。――総講頭を辞任して名誉総講頭となる・会長を勇退して名誉会長となる・引責辞任ではなく、世界布教や執筆活動といった前向きな理由にする・これまでの紛争を水に流し、檀徒づくりや学会攻撃を永久に中止する――これを受け、山崎は池田の最後の切り札に応じざるを得ない立場に置かれた。山崎は、池田との三度目の調停に際して、裏切られた時のために証人を求め、宗門側の仲介人として日蓮正宗海外部長の菅野慈雲尊師の応援を取り付けた。菅野とともに総本山大石寺を訪れ、日達に面会し、基本方針について了承を得た。続いて、辞任劇の日を5月3日と定め、秘密保持と根回しを進めた。4月10日、山崎は池田に会い、進捗を報告した。夕方には菅野慈雲と会い、日達の周囲の動きを確認した。11日と12日に山崎は北条浩と会い、今後の流れと学会側の準備について確認した。山崎が池田と北条に要求したのは、休戦協定の徹底、池田辞任の理由と花道の具体化、宗教法人規則改正案の確定、日程の確定、秘密裡の根回しなどだった。この初めのスケジュールは順調だったが、日蓮正宗側に異変があり、日達が九州の寺院で檀徒づくりや学会の謗法を攻撃するよう指示した。13日、日達と側近の僧侶達が集まっている大石寺出張所から菅野が山崎に電話をかけ、「池田が辞任しても学会は変わらない」という意見が強まり、日達が迷っていることを伝えた。「池田さんが辞任しても、実質的に学会は変わらないのではないか。現に、昨年六月から半年もたっているのに、余り変りばえがしてしない。今さら同じことをくりかえして形だけ引いて見せても、皆がおさまらなければ、どうしようもない。以上のような意見がかなり強くて、猊下は迷っておられる…」(同書)
4月16日、山崎は日達と会い、池田が辞任後に創価学会の運営には関与せず、執筆活動や平和文化の活動に専念するという条件で合意した。しかし、この内部調整が始まると、池田は側近を使って計画をぶち壊していた。首脳たちには「会長が変わっても師弟関係は変わらない」などの根回しが行われ、北条夫人にも特別な説明がされた。
「池田氏は非常にものわかりの良い、立派なことをいったあと、〝しまった〟と思ったときは、側近の中西治雄氏(当時総務)、または婦人部最高幹部を使って、ゆさぶりをかけ、ぶちこわしてしまうという特技を持っている。
既に、首脳達には、
『三代会長までと、それ以後の会長は違うのだ』
『会長は変っても、師匠と弟子の関係は変らない』
などと根まわしを充分に行い、北条夫人には、
『会長夫人といっても、私の女房の場合とは違うぞ』と念を押した。
『何があっても、先生というのは池田先生だけ』
『形は変っても、今までどおりだから、心配いらないよ』
といった説明が、幹部のあらゆる会合で行われた。
結局、四月二十日頃までには、『難局を乗り切るために、皆で池田辞任劇の演技をするが、本心は変らないし変ってはならない』という歌舞伎の勧進帳みたいな仕組みが出来上っていた。
私は〝またか〟とうんざりしたが…」(同書)
ここから見えてくるのは、池田大作の会長辞任とその偽装ポーズである。すなわち山崎は、1979年に池田が会長辞任を決意した経緯を描き、池田が実際には辞任を決意していないことを指摘。池田は側近の忠誠心を試し、辞任する意志を示しながら、実際には独裁を強化するために辞任劇を演じていた。山崎はこの策略を見抜いていたが、池田の要請に応じざるを得なかった。池田大作の辞任劇が偽装ポーズであったことは、指導者としての誠実性に疑問を投げかける。山崎の告白は、創価学会内部での権力闘争や欺瞞の深刻さを浮き彫りにしている。池田が忠誠心を試し、独裁を強化するために辞任を演じる姿勢は、宗教指導者としての信頼性を大きく損なうものである。
先に挙げた福島源次郎の指摘した、自分を偉大に見せるために多くの池田の虚言・無反省・有言不実行は信者を欺き、組織の衰退と堕落を招いた。これらも指導者としての倫理に反する。宗教指導者が虚言を繰り返し、自己保身や自己賛美のために信者を欺くことの危険性を強調している。これらも信者に対する裏切りである。
山崎正友は、1979年に三度目の調停を引き受け、池田大作が総講頭と会長を辞任する意向を示したことを受けて和平工作を進めた。池田は本心では辞任するつもりはなく、側近を使って計画をぶち壊した。彼が和解工作を進める一方で、内部調整を破綻させる姿勢は池田大作の策略とその不誠実さを如実に示す。池田が側近を使って計画を破綻させる姿勢は、指導者としての信頼性を大きく損なうものであり。山崎の告白は、創価学会内部での権力闘争の複雑さと欺瞞の深刻さを浮き彫りにしている。
日蓮正宗側の異変と迷いは、池田大作の辞任が信頼されていないことを示す。山崎の報告は、和解工作の困難さと池田の信頼性の欠如を更に浮き彫りにし、宗教組織内部での信頼関係の脆弱さが明らかになる。
要するに池田大作の言動が一貫性に欠け、虚偽や策略に満ちているという悪質な点である。以上に取り上げたこれらの告白は、創価学会内部での権力闘争と欺瞞の深刻さを示しており、池田の指導者としての誠実性と信頼性の欠如を強調している。これらは宗教指導者としての倫理の重要性を再確認し、信仰の純粋性を守るための重要な教訓となる。
さらに同書の続きを見ると、すなわち、
4月17日、規則改正を、野崎・八尋(頼雄弁護士)両氏と検討し〝名誉会長〟という役職の内容について、野崎氏らは〝仏格化〟をねらい、池田も別室で盗聴器で聞いていたが、山崎は反対して譲らなかった。
更には日達から「口先で上の幹部がいくらいっても、末端会員は一向にかわらない。こういう体質をそのままにしておいて、池田さんがやめたといっただけで問題は解決しない」と言われた。山崎はこれに対して、僧侶の代表と学会首脳とで学会の法義の問題を指導する最高会議を設け、 そこで決定したことは文書で支部長に通達し違反したものは処分するという規則で了解を得た。日達が、山崎が責任を持つという条件付で、この案を承認した。この〝最高教導会議〟のメンバーには僧侶側は、総監、宗会議長、重役という日蓮正宗の三役、学会側は北条(当時理事長)、森田、秋谷、和泉、辻(以上当時副会長)、それに私が入ることに決まった。
4月20日、東京・目黒の妙真寺で、野崎勲と佐々木、山口、渡辺広済、丸岡文乗、萩原昭謙ら活動家僧侶との最後の話し合いにて、
野崎は池田に花道をつくることに協力を懇願しが、活動家僧侶達は、池田が明確に謗法を認めて謝罪することを要求、野崎は、池田を戦犯扱いすることだけは、止めてほしいと必死に頭を下げた。
総本山内やマスコミ関係者にも情報が洩れ、22日に池田と山崎が登山して、日達に一切の直接決裁を受けるなど、急遽スケジュール変更となったが、日達が、人の首を切るような学会側の会合に出席しないと言った。「交替劇に私が出ることはまるで私が、池田さんを切るために出たみたいにみえてみっともないじゃないか」
結局4月22日、規則の改正案・日程その他すべての書類と今後の方針策をもって、池田は日達に会い説明。マスコミ取材には居留守をつかった。更に予定日を早めて4月24日、池田辞任のニュースが全国に流れる中、池田と山崎は総本山大石寺に登山。
大奥対面所で、三人だけで会い。池田が総講頭辞任届を提出。
日達は、「『私は、あなたの功労を最大に感謝して来ました。私が法主の間にあなたほど本山につくした人は他にいません。それが最後にこういうことになってまことに残念です。本当に気の毒でなりません。私には、怨みや、個人感情はまったくない。どうか、また、騒ぎがおさまって、学会がきちんとなって、あなたが力を出せるよう、私は祈っています』
最後は、涙ぐまれていた。
池田氏は、名誉総講頭任命の辞令を受け取ると柔和な顔で、
『私の不徳で、御迷惑をおかけしました。私は、どんな立場にあろうと、日蓮正宗の信徒です。三十年間、学会活動一筋に来た人間ですから、他にすることはありません。随力弘通で、がんばります』と答えた。
日達上人は…食事の仕たくを命じられ…中略…食事をしながら雑談をかわしたが、日達上人が久しぶりに、緊張から解放されて、ほっとしたような姿であったのに対し、池田氏は、笑顔を見せながら、全身で必死に、何かを耐えている姿勢がかくし切れないようであった。
この時、池田氏は腹の中では、『この仇は必ず討ってみせる』と、日達上人と私を憎悪しつつ、表面は柔和をよそおっていたに違いない。
しかし、この時の池田氏は、私が見た人物の中で、また、池田氏自身のそれまでの振舞いの中で、一番男らしかった。
こういう人がどうして狂ったようにおかしなことをしたのか。
また、日頃、権謀術数のかぎりを尽くすのか…」(同書26-45)
山崎正友の策士として驚きの行動がみてとれる。
また弟子として池田大作から学んだことを十二分に発揮していたと言えそうだ。
同時に、池田大作の策謀や復讐の怨念を垣間見るようである。
ただ、会員や外部の知る由もない、池田大作が辞任前から始めていた背信行為を見れば、山崎正友の予想通り、この修羅道の争いは、その後も続くことが分かる。
ただ、山崎正友が「…一番男らしかった」と感じた伏線は、前年昭和53年のお詫び登山以前から見出すことはできる。
ちなみに、原島崇著「池田先生への手紙」P189には、以下の遺言が残されている。
「また立川文化に着いてからも、一室で二人で約二時間ぐらい懇談した。その時、山崎正友氏が猊下に言ったことを話してくれた。正友氏の言ったことは真実なのである。しかし、状況的に、私は、それを否定しなければならない立場に置かれていた。『もしかの場合は猊下(引用者注、日顕)に、お前が行って、そんなことはありませんというんだな』と名誉会長は語った。山崎正友氏を悪者にせよ、ということである。…
私には、それはできない…
真実を曲げることはできない。また、真実を語った山崎正友氏を裏切ることはできない。…
十月十七日、コーヒー店で、名誉会長は私、原田、野崎の三人に『正友問題の本質は、四悉檀の問題と、猊下は信心がないといったこと、これだけなんだ。あとはなにもない』と語った。
猊下は、山崎氏がウソを言ったのか、原島がウソを言ったのか、それとも名誉会長がウソを言ったのかを見究められなかったようである。だから、名誉会長のこうした発言があるのだとしか思えない。
以上、私は、大御本尊に誓って、真実を書いた。これが、私の一つの遺言である。
東京都新宿区信濃町十六 原島崇
昭和五十四年十月十九日、午前零時30分」
この辺りの駆け引きがありありと浮かんでくるようだ。
全くもって、日蓮仏法とはかけ離れている。
つづく。