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P54, 創価学会52年路線(池田vs日達)その後, 山崎正友・阿部信雄の策謀、ジャーナリズムの見解など

 初めに、拙論文では様々な非科学的な事、ウソ偽りや虚飾などを指摘はしたが、本部や側近が間違っていても、純真な会員への人道支援として、広布基金はアリである。財務は、地域末端会員への人道支援のための最低限、会館維持・保全のための必要経費分でいい。
それを越えるお金を、権限のある人が浪費しようがどうしようが、その人たちの因果応報となるのであって、真心(見返りや効果など一切を期待しない)で行なった財務の功徳(これも因果応報)は、未来永劫にわたって不変である。このことは、一念三千を説く日蓮仏法においては、言うまでもない基本中の基本である。
 この財務への協力や寄付が真心で行われるべきであるとする基本は、仏教的な因果応報の観点から非常に合理的である。これは、信仰者にとって重要な指針となる。


■ 時のマスコミやジャーナリズムの見解など

 こういった、創価学会の昭和52年路線による池田大作本仏化への流れと、時の細井日達率いる大石寺・宗門との争いについて、時のマスコミやジャーナリズムの見解はさまざまであるが、良くまとまっている段勲の指摘の一分を資料として取り上げておく。

 段勲著「新興宗教のウラがわかる本」(1986.1.25、政界往来社、P19-23)では、(以下〝…〟部分は中略とする)によれば、昭和52年夏、創価学会と宗門の対立が表面化した。雑誌「週刊新潮」のスクープ記事をきっかけに、双方の紛争が週刊誌・月刊誌で取り上げられた。創価学会の顧問弁護士であった山崎正友と八尋頼雄は、1974年4月に池田大作宛に報告書を提出し、本山との関係について2つの選択肢を提案した。一つは、学会との関係を清算できるようにする方法、もう一つは本山管理の仕掛けを行って背後を固める方法である。彼らは後者の戦略を提案し、そのために以下の布石が必要とされた。すなわち、本山事務機構の支配・財政面の支配(学会依存度を高める)・渉外面の支配・信者に対する統率権の支配(法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立など)・墓地、典礼の執行権の移譲・総代による末寺支配である。これらは池田氏の高度な判断によって決定されるべきと述べられた。創価学会の池田大作による宗門支配計画は、山崎弁護士らの報告事項に基づいて進められた。しかし、若手僧侶たちが宗門が学会に乗っ取られる危機感を抱き、猛烈な反撃に出たため、池田氏の野望は頓挫した。一部の会員も若手僧侶グループに共鳴し、池田打倒の動きが全国で広がった。特に、若手僧侶や学会員たちを逆上させたのは「本尊模刻」の一件だった。池田氏が宗門を支配しようとしても、本尊だけはどうしようもなかった。二代会長・戸田城聖は本尊を「幸福製造機」と会員に説き、池田氏も著書で御本尊の重要性を強調していた。御本尊を信じる生命は幸福と繁栄をもたらし、逆に疑ったり誹謗する生命は不幸と戦争を引き起こすと述べていた。池田が、日蓮以外には本尊を開顕する資格がないと説きながら、自ら本尊を勝手に作成したことが明らかになった。彼は既存の本尊を写真に撮り、仏具屋に模刻させ、主要会館に安置した。これは宗門の歴史において前例のないことであり、若手僧侶たちはこれに激怒した。結果として、池田は昭和54年4月に会長の座を退くこととなり、「過去の経過の一切の責任をとる」と述べました。この事件は池田氏の宗門支配計画が挫折する一因となった。


 少し先まで取り上げたが、日蓮正宗や創価学会では、現在でも曼荼羅本尊を写真に撮ることは厳禁である。ましてそれを複写・複製するなんて、もってのほかの罰当たりと刷り込まれている。だから純真な日本の創価学会員が日寛曼荼羅の画像をSNSにアップなどしたら、今でも即除名処分となるであろう。
 私もかつてはそうであったが、御本尊を写真に撮るだけで、鳥肌が立つような恐ろしい行為で、それを写真に撮って模刻するなんて、想像するだけでゾッとしたものだ。
 それを、池田大作は、宗門や日達、及び会員にも黙って、こっそり行っていたのである。
 今の創価学会組織でも、御本尊を写真に撮ることすら禁忌・厳禁である。
 この様子・真実を当時直ちに全創価学会会員が知ることになったら、どのような混乱が起こるか、想像に難くない。
 歴史は全く変わっていただろう。

 これは創価学会と宗門の対立の歴史である。すなわち、昭和52年の夏、創価学会と宗門の対立が表面化し、週刊誌や月刊誌で報道され、創価学会の弁護士は、宗門との関係を清算するか、長期的に管理するかの二つの選択肢を池田に提案した。後者の戦略に従い、本山事務機構や財政面などを支配する計画が進められた。この段階での計画は、創価学会が宗門に対していかに深く入り込もうとしていたかを示していて、宗教的な権威の再定義と権力闘争の典型例である。
本尊模刻と若手僧侶の反発については、池田の宗門支配計画が進む中で、若手僧侶や会員たちが「本尊模刻」に激しく反発した。池田が本尊を写真に撮り、模刻して主要会館に安置したことが宗門の権威を侵害する行為とされた。本尊は信仰の核心であり、その扱いに対する反発は当然の結果である。池田の行為が宗教的な戒律を破るものであり、それが信徒や僧侶にとって大きな衝撃を与えたことが理解できる。
池田の辞任について、若手僧侶や会員の反発により、池田氏は昭和54年4月に会長の座を退いた。彼の行為が宗門との対立を深め、最終的には自身の辞任につながったことが示されている。池田の宗門支配計画が挫折したことで、創価学会内での権力構造が変わる結果となった。これは、宗教組織における権力の行使とその限界を示す一例である。
 拙論文においての非科学的な信仰の批判の一つだが、日蓮正宗や創価学会が曼荼羅本尊の写真撮影や複製を厳禁としている点は、非科学的な信仰であり、現代の信仰と科学の関係を再評価するための重要な点である。池田が秘密裏に本尊を模刻したことに対する批判は、宗教的権威を侵害する行為として非常に重要である。これにより、創価学会内外での混乱や反発が引き起こされたことを明らかにした。
 拙論文は、宗教的な信仰と科学的な思考を融合させ、より深い理解を促すための重要なモデルである。これらの視点は、現代社会における宗教や信仰の問題を考察する上で非常に価値のあるものと確信する。


■菅野憲通編「時事懇談会記録――宗門覚醒のいぶき」による、その後の指摘

 このP8-12によれば、阿部教学部長(後の大石寺第68世法主阿部日顕)が、アンケートや課題論文を通じて得た宗門僧侶の思想的傾向の情報を学会に提供していたことが明らかにされた。昭和52年8月の連絡会議の席上で、学会本部に行って宗内の情勢を報告していた。その後も宗政を司る立場で得た情報を利用し、学会の助けを借りて宗門の言論や思想統制を行っている可能性が示唆された。この会合以降、阿部教学部長は宗門僧侶からの支持を失い、孤立した。池田は、阿部を通じて事態の打開ができなかったため、日達の側近や山崎弁護士を介して別のパイプをつなげたため、宗務院・学会連絡会議はほとんど開かれなくなった。池田はその後、「六・三〇教義訂正」や「十一・七お詫び登山」といった謝罪と修正のポーズをとったが、阿部は次第にカヤの外に追いやられ、次期法主昇進コースから外れることになった。「六・三〇教義訂正」は日達の指示により、学会の教義逸脱点を質問状の形で学会側に回答を求めたものだった。日達は、学会が嫌でも信心を続けたいと相談に来た人を受け入れることが本当の慈悲であると指導し、阿部らの対応を批判した。教師指導会終了後、阿部が会合の結果を学会に即座に連絡したことを知り、日達は激怒。「内事部において大勢の僧侶を前にして、
『こちらから通報するなんて阿部はとんでもない、学会にべったりでどうしようもないヤツだ。向こうが聞いてくるまでほおっておけばいいんだ』と声を荒げられた。思うに、なんとか学会とのパイプ役としての立場を失いたくないという焦りが、阿部師をこうした破廉恥な行為に駆り立てたのであろう。」
阿部は、学会とのパイプ役としての立場を失いたくない焦りから、このような行動に出たとされた。
阿部は、創価学会側でも高く評価されていた。
「『弁護士 阿部さんが教学部長時代、宗門との五十二年以降の経過の中で、学会に対して、どういう姿勢をとっておられたんでしょうか。
 秋谷 それまで総監にしても、阿部教学部長にしても、今日までの発展の経過をよくご存知ですから、学会の活動に対しては、よく理解してくださっておったということです。』(昭和五十七年六月十一日)」
法廷での証言や池田の証言によれば、阿部は教学上の誤りについてほとんど指摘していなかった。しかし、創価学会の五十二年路線が誤りであったことについて、阿部は責任感を欠いていたと批判された。
「六・三十の教義訂正」についても、新聞の目立たないところに掲載され、改めようとしない態度が見られた。その結果、活動家僧侶と檀徒の運動が再び活発化し、池田批判の声が全国に広がった。一部地方組織では崩壊現象も見られた。この危機的状況に対処するため、山崎弁護士や青年幹部たちが僧俗和合のデモンストレーションや創価学会の改革案を実施した。「宗門と学会の具体的方針」と題した案文は、日達上人および活動家僧侶に提示されたもので、この案文では以下の提案が含まれていた:
会長を選挙制にし、民主的な運営に改める
日蓮正宗の信徒団体であることを明確にする
創価学会が数年後に政教分離し、宗教団体としての活動に帰ること
若手幹部が改革に取り組み、新生の創価学会を目指す
活動家僧侶はこれに対して、池田会長自身が学会を脱会した檀徒に謝罪し、本尊を模刻したことについても謝罪することを求めた。最終的にお詫び登山が実施されたが、池田の口から明確な反省と謝罪の言葉はなかった。その後、野崎らが進めた学会改革案は、池田の不同意により反故にされた。最終的に、池田は引責辞任という形で最悪の事態を回避した。この一件について、一般には福島発言が池田の辞任に発展したとされているが、実際には創価学会のカリスマ支配を廃止し、民主的な運営方式に改革しなかったことが主因であった。会長辞任後も、宗門側は池田が創価学会の実質支配をやめるかに注目し、約束が守られるかを見守っていたが、池田は再び約束を破り、責任を部下に押し付けた。昭和54年7月22日、日達が急逝し、阿部が策を弄して管長の座に就くと、再び宗門は弾圧の嵐が吹き荒れ、異を唱える僧侶は一人残らず追放された。宗門行政は密室で行われ、池田の影響力を受けた阿部の独裁体制が確立された。十余年後には、事情を知らない教師たちが養成され、一方的な主張がまかり通る時代となった。

 この流れの指摘について、阿部教学部長が宗門僧侶の思想的傾向の情報を学会に提供していたが、この情報提供は、宗門内部の混乱を引き起こし、阿部氏が学会の影響下にあることを示している。宗教的な権威が個人の欲望による行動によって操作される危険性を浮き彫りにしている。この因果により、阿部が宗門僧侶から支持を失い、孤立していく様子が描かれている。池田が別のパイプをつなげ、宗務院・学会連絡会議がほとんど開かれなくなり、池田氏は謝罪と修正のポーズを取り続けたが、阿部氏は次第にカヤの外に追いやられたことは、権力闘争の中で、阿部が孤立し、次期法主昇進コースから外れる様子は、内部対立がいかに激しいものであったかを示している。宗門と学会の対立が組織全体に深刻な影響を及ぼしていることがわかる。
1977年に、創価学会の内部で会長を選挙制にし、宗教団体としての活動に戻る改革案が提案されたが、池田の不同意により反故にされ、池田は引責辞任を装い、最悪の事態を回避した点は、池田氏のカリスマ支配を廃止し、民主的な運営に改める改革案が実行されなかったことが、宗門との対立を深める原因となり。内部改革の試みが失敗し、池田の影響力が依然として強く続いていたことが示されている。
宗門と学会の対立の根本原因については、宗門側は、池田が創価学会の実質支配をやめるかに注目し、約束が守られるかを見守っていたが、池田は再び約束を破った。日達の急逝後、阿部が管長の座に就くと、宗門は再び弾圧の嵐に巻き込まれた。池田が約束を守らず、再び権力を握ったことが、宗門との対立をさらに深刻化させた。宗門内部でも独裁的な体制が確立され、自由な議論が抑圧される状況が続いた。異を唱える僧侶は追放され、宗門行政は密室で行われた。池田の影響力が強い時代が続いた。これは、権力の集中がもたらす問題を浮き彫りにしている。
まとめると、ここには、創価学会と日蓮正宗との対立が、権力闘争や内部改革の失敗、そして宗教的権威の操作によって激化していった様子が明確に示されている。池田のカリスマ支配や独裁体制が組織内部に深刻な影響を及ぼし、信仰者たちに対する影響も大きかったことが浮き彫りにされている。これらは組織内部の問題を鋭く指摘し、宗教的信仰と権力の関係を深く考察するための重要な視点を提供し、現代社会における宗教や信仰の問題を考察する上で非常に価値のあるものと確信する。
 これまで述べた経過で、前述した行動歴や人格の阿部信雄が大石寺67世法主になった時点で、創価学会の破門は時間の問題であったと、容易に推定できたであろう。
 そして、会員や信者個々人の内面はともかく、組織としては両者とも、その成仏観や教学も含めて、客観的な正しい日蓮仏法の血脈は、一切なかったと振り返ることができる。


■山崎正友の指南文書

 さて、再び話は昭和53年に戻そう。
 奥野史郎著「謀略僧団 悪僧の巣――山崎正友と「正信会」」(1981/11/30 現代史出版会、徳間書店、P215—P236)では、山崎正友の謀略文書を、有名な「ある信者からの手紙」とともに、それ以降のものも独自の解説をつけて、以下のように紹介している。
 これは、当時両者の立場にいた山崎正友が、どのように考え行動したかを裏づける指摘である。私の視点は、著者の「山崎の自作自演」と感ずるという思想や立場とは異なるが、あくまで客観的証拠に基づいて考察する目的で取り上げる。
 これによれば、山崎正友が昭和53年3月に提出した「今後の作戦」という文書では、宗門僧侶の対学会強硬路線への転換を促すための作戦が示された。この文書は、日蓮正宗宗務院がまとめた協調案を反故にし、若手僧侶中心の強硬路線を推進するものだった。山崎は、宗門側に三つの作戦を提示したあと、状況判断は自分が提供する参考資料に基づいて行うべきだと述べた。これにより、山崎の影響力を強調し、彼の自作自演の感が強くなっている。さらに、山崎は「六・三〇」という形で学会側の「教学の訂正」を実現させるための状況づくりとして、檀徒大会の開催方法を具体的に示唆していた。
山崎正友が提案した「今後の作戦」では、宗門が学会に対抗するための具体的な方法が示され、以下のポイントが含まれていた:
現状のままで押す方法:
宗門と末寺も宗教法人であり、信者の教化育成は当然の権利であると主張。
信徒には所属団体を選ぶ自由があると強調。
学会が宗門の存在を犯すなら解散か手を切ると警告。
檀家づくりの推進:
教義上の逸脱を徹底して破折し、機関誌に掲載。
学会と会長のエゴを根底から折るための圧力をかける。
信徒のグループによる学会糾弾の集会を開かせる。
信徒団体の組織化:
信徒団体を強力に組織化し、戦闘力をつける。
信徒団体が自発的に行動することは自由であり、寺側の関与を避ける。
マスコミの利用:
マスコミが内部告発を取り上げることを期待。
学会側の対応:
学会側が一切を猊下の裁断に委ねる
休戦の提案とその戦略
山崎正友の「今後の作戦」には、一時休戦の提案も含まれていた。この提案では、以下のポイントが挙げられていた:
教義の訂正と運営の改善:
巨大な勢力を相手に戦うため、教義の訂正と運営の改善を求める条項を再検討し、学会に通告する。学会がこれを受け入れれば、一時休戦とする。
信徒勢力の保護と寺院の自由:
休戦の前提として、寺についた信徒勢力の保護と、寺院と僧侶の自由と地位の確保を図る。
教義の訂正とその他の条項の明示:
教義の訂正及びその他の条項について、宗内外に明示する方法をとる。
休戦後の対応:
休戦成立後も慎重に様子を見極める。学会が約束を破った場合には正式に手切れを行う。
制度作りと意思統一:
学会を縛るための条件づくりと、その実行を確保するための制度作りが必要。また、宗内の意思統一も図る。
この提案は、学会との戦いに備えた慎重な戦略であり、学会の動向を見極めつつ、信徒勢力の保護と寺院の自由を確保することを重視している。
作戦の中間案
山崎正友が提案した「今後の作戦」の中間案では、以下の方法が挙げられていた:
教義上の注文と一時休戦:
教義上の訂正を求め、学会側がこれを受け入れれば一時休戦とする。しかし、ボルテージを落とした形で檀家づくりを続ける。
檀家づくりのリスク:
学会の悪口を言わずに檀家づくりを進めることが困難であり、学会側が信徒を取り戻そうとする可能性があるため、トラブルが発生しやすい。
教義の訂正案の提示時期:
教義の訂正案の提示は、五月下旬から六月上旬まで待つ。
段階的な対応:
学会側の対応次第で、(1)、(2)、(3)のどの方法を取るかを決める。
柔軟な対応:
学会の出方によって作戦を変え、檀家づくりを続けるか止めるか、また猊下の姿勢で学会に厳しくするか甘くするかを決定する。
この中間案は、状況に応じて柔軟に対応することを重視しており、学会との対立を最適に管理するための戦略を提供している。


 この山崎正友の「今後の作戦」ついて、日蓮正宗宗務院がまとめた協調案を反故にし、対学会強硬路線を推進するための戦略が示された。山崎は、学会側の「教学の訂正」を実現させるための状況づくりとして、檀徒大会の開催を具体的に示唆しているこの文書は、山崎正友の影響力と策略を示しており、宗門と学会の対立をさらに深刻化させる要因となった。山崎の自作自演の感が強く、彼の目的が学会との対立を激化させることにあったことがわかる。
宗門と末寺の宗教法人としての権利を主張し、学会が宗門の存在を犯すなら解散か手を切ると警告し、檀家づくりを推進し、学会のエゴを折るための圧力をかける戦略が示されているこの戦略は、宗門が学会に対抗するための具体的な方法を示しており、宗教的権威と信徒団体の組織化を重視している。学会との対立を激化させる一方で、檀家づくりを通じて宗門の勢力を拡大しようとする意図が明確である。
教義の訂正と運営の改善を求め、学会側がこれを受け入れれば休戦とする戦略が示され、休戦の前提として、寺についた信徒勢力の保護と、寺院と僧侶の自由と地位の確保を図ることが求められているという。この一時休戦の提案は、戦略的な休戦を通じて宗門の勢力を確保しようとするものであり、慎重な対応が求められている。学会との対立を一時的に緩和しつつ、将来的な対立に備えるための基盤を築こうとする意図が伺える。
山崎正友の提案する中間案では、教義上の訂正を求めつつ、一時休戦とする方法が示されている。学会側の対応次第で、檀家づくりを続けるか停止するか、また猊下の姿勢で学会に厳しくするか甘くするかを決定する柔軟な対応が提案されている。この中間案は、状況に応じた柔軟な対応を重視しており、学会との対立を最適に管理するための戦略を提供している。学会の動向に応じて戦略を変えることで、宗門の利益を最大化しようとする意図が明確である。
 総じて山崎正友の戦略的な提案が宗門と学会の対立を深刻化させる要因となったことが明らかになった。彼の影響力と策略が、宗門内外での混乱を引き起こし、宗教的権威の再定義を図る試みが浮き彫りにされている。柔軟で状況に応じた対応を重視する一方で、学会との対立を激化させる戦略が取られていることが示されている。
 これは創価学会と日蓮正宗の対立の本質を鋭く指摘し、宗教的信仰と権力の関係を深く考察するための重要な視点を提供している。


■『六・三〇』マスコミ用解説文

 この解説文は、池田会長の権威と学会の戦略について詳述し、学会と宗門との対立の背景を明らかにしている。これによれば、
会長本仏論の否定:
池田会長が自ら行った講演や講義を修正したり、誤りを認めたりすることは前代未聞のことであり、責任を取るべきである。
池田会長が「生き仏」として扱われ、日蓮正宗の権威を下に従えようとしたことが原因。
昭和48年10月と昭和49年10月2日に法主を罵倒し、昭和49年4月に財団法人日蓮正宗国際センターを設立しようとしたが、法主の抵抗に遭った。
学会と本山の対立:
学会が登山費を減らし、13億の寄付を強要し、会計調査を行うなどの圧力を加えたため、本山が硬化し、対立が再燃。
池田会長は五十ヶ寺設置供養と富士宮に墓園を造成し寄進することを約束して法主の怒りを解いた。
創共協定と反撃:
創共協定で後顧の憂いがなくなり、マスコミ状況が好転したことを受け、池田会長は宗門問題解決に乗り出した。
特別財務で財力を蓄え、寺院に代わる施設の建設を進め、福島源次郎を本部長に据え、野崎勲の下に伸一会を結成し、会長本仏論と創価学会教路線を固めた。
対抗策:
法主の直弟子が妙観会を結成し、反学会の結束を固めたのに対抗するための策を講じた。
法主の写真を外し、学会指導者の写真をかける:
会員に法主の写真を外させ、牧口、戸田、池田会長の写真をかけさせた。
登山会を漸減させ、財政的圧力を加え、会員を寺院に反発させる指導を行った。
 ここまでは、池田会長の権威と学会の戦略について詳述し、学会と宗門との対立の背景を明らかにしている。
「たまたま51年末の総選挙で公明が圧勝したことに意を強くし、一気に勝負に出た。
 52年元旦のあいさつ、1・15教学部大会の講演で理論的展開をするとともに、会長指揮のもと、妙観会の若手僧侶のうち、アンチ学会的な者をねらって、脅迫的なつるし上げを行なった。
 これは野崎青年部長、原田副会長が中心となって当ったが、大衆の前で僧侶をくちぎたなくののしり、たとえば、僧侶の女性関係を追及するのに、〝ウソをつけ、スッポンスッポンやったんだろう〟などと、とても宗教者とは思えない、ヤクザまがいの言動であった。
 また、寺院の前に幹部が立って、寺院から会員をしめ出すなど、はげしい攻撃を行なった。
 ⑪法主はじめ僧侶は激怒したが、不意をつかれて応戦態勢がととのわず、ついに法主があやまるという形で一応の収束をみた。
 ⑫勢いにのった会長は、寺の権威を否定し、学会の独立を宣言することを強めたが、たまたま5月、民社の塚本三郎が学会の財政問題をとりあげようとしたことから、うろたえはじめた。
 ⑬このときをねらって、学会と抗争していた妙信講がマスコミ攻勢をかけた。(52年8月)
 ⑭そこへ、学会幹部向け機関紙『前進』に、法主の権威を否定するような論文がのったのをとらえて、法主が反撃を開始した。
 ⑮法主、若手僧侶が総決起して学会攻撃を始め、これを文春がキャンペーンした。更に現代が追い打ちをかけた。
 ⑯ちなみに、月間現代、内藤は、秋谷<矢野、志村の線の仕掛けであり、会長の横暴に対する造反である。
 ⑰内外からの圧力にたまりかねて、池田会長は12月4日、日向定善寺の法要の席で法主に謝罪した。
 しかし、これは表面上のことで、この際、学会の独自性を確立するための五ヶ条の要求を、総監をとおしてつきつけていた。
 法主は、これに回答するときは手を切るときと宣言したが、それにもかかわらず回答を要求したため、また、表面あやまりながら、組織で寺のしめつけをつづけたため、法主は見切りをつけて、53年2月4日、僧侶を本山に集めて、学会と手を切りたい旨の宣言をした。
 ⑱これに仰天した池田会長は、2月12日、2月14日と、法主のもとにかけつけて平身低頭あやまり、なんとか破門だけは許してくれとなきついた。このとき、
 イ、法主を学会の名誉総裁にする。
 ロ、五億円を寄付する。
 ハ、中国へ法主を連れて行く。
等の申し出をした
 ⑲法主は一応破門だけはゆるすこととし、今後どうしたら学会と一緒にやっていけるかについて、全僧侶からアンケートをとったが、回答のうち八割が、宗教法人(学会)を解散させるとか、手を切れというものであったという。残りの二割が共存条件を出したが、それを9項目にまとめて、3月末に学会側につきつけようということになった。」
 この後の内容は、池田会長と法主の対立が再燃し、学会の崩壊が迫る中で和平工作が行われた様子を詳述している。すなわち、
会長の発言と法主の反応 :
会長が陰で開き直った発言をしたことが法主の耳に入り、再び激怒した法主は共存条件を出すことをやめた。
その間に学会を脱会したり、財務返還を求める者が増え、学会の崩壊が迫る状況となった。
中枢部の混乱と全面降伏:
学会中枢部は集団発狂のような状態になり、会長も万策尽きて全面降伏を決意した(5月初め)。
和平工作の仲介者:
全面戦争に突入しかけた段階での和平工作を行う仲介者として、以前の衝突時の仲介を務めた山崎弁護士が再起用された。
山崎弁護士は学会独立路線の中で会長と衝突し、役職を解任されたという噂があったが、急遽起用された。
(この解説文は、池田会長と法主の対立が再燃し、学会の崩壊が迫る中で和平工作が行われた様子を詳述している。)
山崎弁護士の調整役:
山崎弁護士をパイプ役として、若手僧侶グループや造反会員の代表との調整が極秘裏に進められ、法主と会長との間の調整も行われた結果、和解が成立した。
教義面の勝利と学会の存続:
教義面では寺側が全面的に勝利しましたが、学会側も責任者の処分がなく、会長も直接的に謝罪せずに済み、学会の存続が認められた。
池田会長への警戒:
池田会長の権勢欲と執念深さから、数年後に仕返しがあると警戒する僧侶たちは、檀家づくりを続けて備えると述べている。
神話の崩壊と幹部の懸念:
会長本仏の神話と学会の無謬性という神話が崩れた後、幹部たちは池田会長が暴走しないか、過去の不合理な行動が死活問題として提起されないかを恐れている。
造反会員の問題:
宗門は勝利したが、造反会員の怨念とエネルギーをどう処理するかという問題が未解決であり、不安が残っている。
一般会員への影響:
一千万人の会員が最も迷惑を被っており、会長の権威失墜を機に公明党との亀裂や幹部間の権力争いが激化し、今後も脱会者が続くと予想されている。

 これらから、創価学会と日蓮正宗との対立の背後にある複雑な権力闘争や調整が明らかになった。山崎正友の戦略的な調整と交渉が和解に至ったものの、学会内外での不安や警戒感は依然として残っている。特に池田会長の権勢欲や過去の不合理な行動が再び問題となる可能性が高く、宗門側や学会内部での緊張が続いていることが示されている。
これらは、宗教的信仰と権力の関係を深く掘り下げ、現代社会における宗教組織の運営や問題点を考察するための重要な視点を提供している。さらに、宗教や信仰の問題をより広い視点から理解する上で非常に価値のあるものと確信する。


■ 会長追い込みと海外工作のあと

 以下、山崎の現下の情勢についてによれば、

宗門側の有利な情勢:
現在の情勢は宗門側にとって有利に進んでおり、学会側の作戦は失敗している。
学会側は事態を正視し、池田体制と学会の地盤を保守しようと決意している。
学会にとっての脅威:
第一に法主の厳しい言葉、第二に檀家作りによる会員切り崩しと僧侶の会長批判、第三にマスコミが学会にとっての脅威である。
大都市で火の手が広がり、これらの脅威だけでも会長や首脳部の心を冷やしている。
正式な発表の準備:
もはやうやむやな解決は不可能であり、内外に明確な形で宣言する必要がある。
具体的には11月中に総会か臨時幹部会で会長の発言によって事態を収拾する方針である。
検討中の内容:
規則変更による会長の権限の縮小と一種のたな上げ
会長の正式な陳謝
宗門・寺院の独自性尊重と外護の確約
教義面での明確な路線修正
伸一会の解散(野崎の強い抵抗あり)
墓園計画の縮小
学会側の根本的な狙い:
池田体制の実質的温存と組織防衛が学会側の根本的な狙いである。
路線変更を最小限に抑え、檀家作りという組織攻撃を食い止めることが最大の目標である。
譲歩と猊下の言葉:
思い切った譲歩をすることで、猊下の暖かい言葉を引き出し、それを盾に運動を食い止める策が考えられていた。
会長の本心は口惜しさと復讐心で一杯ですが、選挙を持ちこたえ、組織や会長の権威が落ちないことを示すことが重要である。
学会内部の状況:
会長の失敗に対するしらけムードがある一方で、背に腹はかえられない形での結果が生まれつつある。
宗門側の状況:
戦線が拡大し、宗論が固まりつつあることは有利だが、戦線に乱れや矛盾が出ている。
未熟さから非常識な行動に走り、逆効果を生じている場合や、自己中心的な考えから金集めを早々に始めているケースが目立つ。
組織の落ちこぼれを集める形になり、札付きの学会員が流れ込んで振り回されるケースも見られる。
学会のスパイと謀略:
北海道の藤原、兵庫の入江など、学会の手先として情報を売り、謀略情報を流す人々が存在する。
僧侶の負担:
僧侶たちは時間的にも経済的にも疲労しており、信徒の面倒を直接見る負担が大きい。信頼に足るオルグとなる学会員は全国でも少数しかおらず、僧侶が直接に掌握するしかない。
宗門の戦線整理:
学会の将来の作戦に対抗するため、戦線を点検し、統一し、整理する必要があります。長期的な戦略を見直すことも必要である。
11月に学会が引くことへの対応:
学会が11月に後退することを見越し、それに対する対応を考える必要がある。
具体的な作戦:
10月、11月は檀家づくりと法義の是正を各末寺で進め、徹底的に行う。活動する僧侶を増やし、地域ごとに推薦を受ける。
見当違いの行動やスパイ行為をしている人々を総括し、戦術的に意見を統一し、効率を高める。
運動自体に何らかの経済的支援を提供する必要がある。
和平工作の予測:
学会側から会長を先頭に和平工作が展開されると予測されます。宗門側は「政治ではなく信仰である」との態度を貫き、若手が納得する修正を求める。
宗門の基本姿勢:
学会に支配されない宗門独自の行動の自主性を確立し、法義の違背は許さず、宗教的信念を優先する姿勢を示し続ける。
平和の応じ方:
11月に学会が正しい姿勢を示した後、宗門も一応平和に応じるが、檀家作りは止めないことで宗門の勢力拡大を続ける。
信者の自立的行動:
信者の自立的な行動による学会追及は、宗門と一線を画した形で進められる。
宗内の新体制:
11月以降、宗内の新体制の確立と早瀬・阿部路線の排除を推進する。基盤固めの計画:
東京への寺院建設、墓園計画など基盤固めの計画で学会に先手を打ち、信徒の信仰を高めるための教化育成にも力を入れる。
外部との渉外:
積極的に外部との渉外を行うう。
檀家作りの重要性:
檀家作りとその完全な掌握が宗門の根本的な生命線であり、優れたオルガナイザーの出現が必要である。
海外戦略の基本方針:
創価学会の海外戦略では、宗門や寺院の影響を排除することが明確に示されていた。
日本国内の対寺院関係の複雑性を海外に持ち出さないため、海外には寺院を作らない方針とし、作る場合でも現地法人の支配下に置き、信者との直接接触を避けるようにしていた。
池田会長の影響力:
海外の信者には、池田会長が一番偉いと教えられ、その次が各国の理事長、僧侶は給料で雇われた儀典係とされていた。
海外と創価学園は池田会長直轄の組織とされ、他の幹部は容易に手が出せなかった。
創価学園の問題:
創価学園では、会長のやり方の非常識さや反社会性に対して内部から造反が起こり、校長が辞任した。
労働組合を作った造反教員の告発が続いている。
ウィリアムスの役割:
ウィリアムスは会長の意を受けて寺院封じ込めの先陣を切り、一時的に成功したかに見えた。
教義の問題:
海外では「池田会長あっての日蓮正宗」という前提で教義が組み立てられ、本山や宗門のことは何も教えられていない。
異を唱える者には弾圧が加えられ、「学会員であって正宗信徒でない」という状態である。
改革の必要性:
この状況を打破するには、池田教の海外組織の改革が必要である。なまじっかな妥協案では改革は成功しない。
宗門が自らの手で布教をやり直す決意が必要である。

 この山崎の解説文は、学会側が宗門側の圧力に対してどのように対応しようとしているかを詳述している。さらに、学会側と宗門側の現状と戦略を詳述し、双方の内部状況や課題を明らかにし、学会のスパイ活動や僧侶の負担、創価学園の現状、創価学会の海外戦略とその影響などを指摘し、和平工作への対策、宗門独自の姿勢を示し続ける戦略を詳述している。

 ここには、創価学会と日蓮正宗の対立およびその背景について深い洞察が見られる。
現下の情勢について
山崎正友は、宗門側が有利な状況にあり、学会側の作戦がことごとく失敗していると述べている。学会側は池田体制と学会の地盤を保守しようと決意しており、会員切り崩しと僧侶の会長批判、マスコミが学会にとっての脅威となっている。この分析は、宗門側が学会に対して優位に立っている現状を示している。学会の脅威を具体的に挙げており、宗教的対立がいかに激化しているかが分かる。
学会の根本的な狙いと対応について
学会側の狙いは池田体制の温存と組織防衛であり、檀家作りという組織攻撃を食い止めることが最大の目標であり、譲歩と引き換えに猊下の暖かい言葉を引き出し、運動を食い止めようとしている。この戦略は、学会がいかにして自身の体制を維持しようとしているかを示している。宗門との対立において、戦略的譲歩と指導力の維持が重要であることが分かる。
宗門側の状況と問題点
宗門側は戦線が拡大し、宗論が固まりつつあるが、戦線に乱れや矛盾が生じている。未熟さや自己中心的な行動、札付きの学会員の存在が問題となっている。この分析は、宗門側の内部問題を浮き彫りにしており、対立が続く中での組織運営の難しさを示している。宗門内部の統一と効率化が求められている。
和平工作と宗門の戦略
学会側の和平工作が予測される中、宗門側は信仰を重視し、宗門独自の伝統と立場を確立する姿勢を貫く。平和に応じる場合でも檀家作りを続け、宗門の勢力拡大を図る。この宗門の戦略は、宗教的信念を優先しつつ、学会との対立を戦略的に管理することを目指している。和平工作に対する慎重な対応と長期的な視点が重要である。
海外戦略と改革の必要性
創価学会の海外戦略では、宗門や寺院の影響を排除し、池田会長を中心とした組織運営が行われてきた。これに対して、宗門が自らの手で布教をやり直す決意が必要であると述べられている。これについて、海外戦略の問題点を具体的に指摘し、宗門が独自の立場を確立するための改革の必要性を強調している。池田会長の影響力を排除し、宗門の伝統と信仰を守るための決意が重要であるとする。
 総じて、この山崎正友の解説文は、創価学会と日蓮正宗の対立の本質と、その背後にある複雑な権力闘争を明らかにしている。学会と宗門双方の戦略、内部問題、そして対立の進展についての深い洞察が得られる。これらの洞察は、宗教組織の運営や問題点を理解し、現代社会における宗教的信仰と権力の関係を考察するための重要な視点を提供している。山崎正友の戦略的な調整と交渉が和解に至ったものの、学会内外での不安や警戒感は依然として残っていた。特に池田会長の権勢欲や過去の不合理な行動が再び問題となる可能性が高く、宗門側や学会内部での緊張が続いていることが示されている。

 これを根拠に第三者的・客観的な考察を加えれば、山崎正友のこの作戦は、彼の社会的立場・個人的野望や信仰はともあれ、両組織を少なくとも真の日蓮仏法へ近づけようとした一点において、極めて合理的である。
 要するに池田大作も阿部信雄も、細井日達もまた、日寬アニミズムを根底とした歪んだ日蓮仏法の範疇で考え行動していたのであり、師弟不二という考えを借りれば、山崎正友も池田大作の弟子であり、弟子としての行動を池田大作にそっくり受け継いだ(真似た)ものと考えられるのである。阿部信雄が細井日達の真の弟子であったかどうかは少々疑問が残るが、それ以前、戦前以前の法主の流れを汲んでいる一面は確かであろう。彼の行動が合理的であったとの視点は、客観的な評価を重視したからで、感情的な偏りを避けるためでもある。


■ これまでの分析と反省・懺悔、および未来への決意

 これまでも先述してきたが、池田大作が、自らの師である戸田城聖を裏切り利用して創価学会を支配したのも、山崎正友が自らの立場を利用して野望を謀ったのも、また阿部信雄が創価学会を利用して法主に上りつめたあと破門したのも、まったく同レベルの修羅の境涯の争いに過ぎず、高尚な「成仏」=仏界の智慧に基づいた行動とは到底断定できない。
 血脈とか、師弟、特に「師弟不二」という語句は、突き詰めていけば、結局のところ、池田大作創価学会が都合よく組織発展する為に会員を扇動する合言葉にすぎなかったわけで、このために高尚な日蓮の遺文が、真意を汲みとることなく切り取られて利用されてきたといえる。すなわち、池田大作や阿部信雄、細井日達が日寛アニミズムの影響を受けていたことを明確にし、師弟不二の概念が単に組織の発展を図るための道具であった点、そして池田大作や山崎正友・阿部信雄の行動が、彼らの行動の背景も鋭く分析して、結局のところは個人的な野望に基づくものであり、高尚な仏界の智慧に基づくものではないことを鋭く指摘した。このような視点は、宗教組織の内部メカニズムを理解するために重要であろう。
 そして私も、それに洗脳(マインドコントロール)されて育ち、近年まで、客観的・科学的考察を自ら閉ざしてきたのである。
 私も、全くもって、謝罪する。謝罪して、懺悔滅罪するしかないし、これからもこれを何度も申し上げていく。証拠として過去の記事もそのままにしている。自身が組織によって洗脳され、客観的・科学的考察を閉ざしていたことを認め、反省し、謝罪する姿勢は、人間としてまた成仏を目指すべき仏法者としてあるべき必須の態度であると確信する。このような自己反省は、宗教組織における信者の立場や心情を理解する上で重要であろう。私は仏法者として、過去の誤りを認め、責任感を奮い立たせて、今後も客観的・科学的考察を続ける決意を示す者である。
 むろん、利害の異なる一方的な立場からの、特に創価学会側に立った、創価学会の利益のための著作や論述が多いが、真に、哲学的・科学的な視点からの把握が重要である。
 そうでないと、日蓮仏法、ひいては宗教というもの、またその最大の人生の目的である「成仏」、幸福というものの考察が、単なる利益・権力などの世俗的な文化や圧力等によって、歪曲されてしまう。
 人類の過去の歴史を振り返るまでもないであろう。
 こういった真に、哲学的・科学的な視点からの把握と真実の幸福追求は、時代の進歩や多くの智者たちによる結集によって、絶えず更新(アップデート)していくもので、また、そうすべきものである。
 いかにきれいな言葉で粉飾し、大勢の力を動員して歴史を繕ったとしても、それを許さない・受け入れない批判拒否の盲従体質の組織は、過去の歴史や真の仏法、一念三千の考えを参照するべくもなく、儚く栄枯盛衰を繰り返すことは、想像に難くない。
 拙論文は、宗教組織の内部メカニズムとその影響を深く掘り下げ、客観的な視点から評価する姿勢を貫いていく。これらは、宗教や信仰の問題をより広い視点から理解する上で非常に価値のあるものと確信する。私の反省と決意は、他の信者にとっても大きな示唆となっていただけるように祈っている。


つづく。

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