ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P52, 時事懇談会資料の検討、謝罪演出と約束破棄、揺らぐ細井日達(2)
■学会独立と五二年路線
創価学会の独立路線ともいわれた五二年路線をもう少し詳しく検討したい。
当時側近であった創価学会教学部長の原島崇は以下のように指摘している。すなわち、昭和52年末から53年にかけて、創価学会は宗門に対する大攻勢から守勢に立たさた。12月4日の日向定善寺で池田大作が日達上人に謝罪したが、問題は解決しなかった。創価学会は五項目の協定案を作成し、日蓮正宗と創価学会の間で和解を図ろうとしたが、この案は独立した宗教法人としての意識が強く、日蓮正宗の信徒団体という精神に反していた。この新たな火種により、翌年1月19日の抗議集会や2月9日の教師集会で、創価学会を日蓮正宗から切るべきだとの強硬意見が宗門内で広がった。52年度の路線は、創価学会が独立してもよい状態にあったことを示している。
「たとえば、〝教師〟が学会で任命され、会館には山号がつけられ、さらに日蓮大聖人直結の牧口先生、戸田先生、池田先生と流れる師弟の血脈が語られ、かつ、それぞれの会館で、寺院で行うのと同じような儀式が営まれたのです。あるいは『慧光照無量』として、亡くなった人に先生みずから〝妙〟の一字を書かれ、これでこの人は成仏できるといわれ、さらに発展して、塔婆供養のかわりに、『慧光照無量』として各人が亡くなった人の名簿を提出し、広布基金をご供養として出すなど、さながら独立教団の様相を呈していました。」
創価学会は独立教団の様相を呈しており、池田の「慧光照無量」や独自の儀式が行われていた。一回の謝罪の後に再び独立した法人同士の提携を図ったことで、宗門軽視の流れが続き、火に油を注ぐ結果となった。創価学会は自らを常に正しいとし、池田の絶対性と無謬性が貫かれていたため、「ご寛恕願い」で終わってしまった。
この原島崇の「池田先生への手紙」からは、創価学会の池田本仏論が宗門との対立を深めた状況を詳細に描いていて、創価学会の体質と池田のリーダーシップに対する鋭い批判を含んでいる。
ここでは昭和52年末から53年にかけての宗門に対する大攻勢が、池田大作の謝罪によって一時的に和らいだことを指摘している。しかし、創価学会が五項目の協定案を作成し、宗門との和解を図ろうとしたことが新たな火種となり、宗門内での反発を招いたことが述べられている。この協定案は、創価学会が独立した宗教法人としての意識を強く示し、戸田城聖時代から創価学会が法人化したときに約束した日蓮正宗の信徒団体という精神に反していた。
更に、昭和53年1月19日の抗議集会と2月9日の教師集会で、創価学会を日蓮正宗から切るべきだとの強硬意見が広がったことを述べている。52年度の路線は、創価学会が独立教団としての様相を呈しており、池田の「慧光照無量」や独自の儀式が行われていたことを示し、この状況が、宗門軽視の流れを助長し、火に油を注ぐ結果となったことが明らかにされている。
また、創価学会の体質として、自らを常に正しいとし、池田の絶対性と無謬性が貫かれていることが批判されている。池田の謝罪も結局は「ご寛恕願い」で終わってしまい、問題の本質に対処していないことが指摘されていた。
まとめると、創価学会と日蓮正宗の対立の背景を詳細に描き、池田本仏論が宗門に対する攻勢を強めたことを批判している。創価学会の体質と池田のリーダーシップに対する鋭い批判が含まれており、宗門軽視の問題を浮き彫りにし、創価学会と日蓮正宗の関係における緊張と問題点を明確に示している。
この路線の真っ先に、創価学会執行部によって吊し上げにあった宗門の菅野憲通ら若手僧侶らが、後日編纂した「時事懇談会記録」には、前ページに記した第一回の時事懇談会記録から、以下のような指摘がある。すなわち、1978年2月9日に時事懇談会が開催され、創価学会の五原則案が反発を招いた。宗務院案も学会の提案の文句を多少変えただけで、実質的には学会が寺院を支配しようとする内容だった。会議での長時間の議論の末、日達は学会案を突き返し、宗務院案を撤回することを決定し、アンケートを実施することになった。
その後、阿部教学部長は宗内で孤立し、学会との連絡会議も開かれなくなり、彼の政治力は低下した。池田大作は2月10日に阿部教学部長らと密談を行い、情報分析と対応策を検討した。彼は多くの情報ルートを持ち、背信行為に及んでいました。
「山崎裁判の法廷において池田大作は『二月十日に私は当時の早瀬総監、当時の教学部長とお会いして、一体どういうことなんですかと、光亭さんで遅くまで懇談しました』(昭和五十八年十月三十一日)と証言している。
阿部教学部長らは信濃町の本部前の料亭で池田と秘かに合い、深夜まで情報分析と対応策について検討していたのである…中略…本来宗門総意を代表して信徒団体の指導・監督にあたるべき宗務院中枢の役僧が内通し、こうした背信行為をするのであるから、もともと宗門の主体性や渉外などあったものではない」
池田は急変に気づいて急いで12日と14日に登山し、日達に多額の御供養金を提供し、謝罪のふりをしたが、日達は受け取りを拒否した。その後、規則改正や会長の選挙制を約束し、学会を切ることは見合わせることになり、再び時事懇談会が開かれた。
もしこの時、阿部教学部長の内通がなければ、その後の情勢は大きく変わっていたかもしれないと菅野憲通は指摘している。(「時事懇談会記録――宗門覚醒のいぶき」1990/2/16、P6-7)
ここでは、1978年2月9日の時事懇談会とその後の展開を詳しく描いていて、創価学会と日蓮正宗の緊張関係と、宗門内の権力闘争の一端を鮮明に示している。
まず、時事懇談会において、創価学会の五原則案と宗務院案がともに拒絶されたことは、学会と宗門の間に深い溝があることを示している。阿部教学部長の粘り強い交渉にもかかわらず、両案が反発を招いたことから、宗門内の意見が一致せず、学会への不信感が強いことが浮き彫りになっている。
特に、阿部教学部長(次期法主の日顕)の姿勢が学会寄りであったことが、宗門内での孤立を招き、彼の政治力を低下させたことが強調され、彼の内通が、宗門と学会の関係をさらに複雑にし、宗門の主体性を損なっていることが批判されている。阿部教学部長が池田大作と密かに会い、情報分析と対応策を練っていたことは、背信行為として強く非難されるべきである。
池田大作が宗門との対立を打開するために、多額の御供養金を提供し謝罪のふりをしたことも、問題の本質を如実に示している。日達がこの御供養金を受け取り拒否したことは、宗門の誠実さを示している一方で、池田の策略がいかに露骨であるかを浮き彫りにしている。
まとめると、創価学会と日蓮正宗の間に存在する深い問題を明らかにし、宗門がどのようにしてこの状況に対処しようとしたかを詳細に描いている。阿部教学部長の内通がなければ、情勢は大きく変わっていただろうという指摘は、宗門内の権力闘争とその影響を鋭く批判している。すなわち、創価学会と日蓮正宗の関係における緊張と権力闘争を克明に描き出しており、宗門の主体性と誠実さが問われる重要な局面を浮き彫りにしている。
■第二回時事懇談会(時事懇談会資料の検討)
以上の流れの後、昭和53年2月22日、大石寺内の大化城にて、第二回時事懇談会が、細井日達の挨拶から始まったのである。
その冒頭で日達はこう挨拶した。すなわち、日達は、憂慮する人々が集まったことへの感謝を述べた。前回の会議で創価学会からの五ヶ条提案に対しての議論が行われ、最終的に五ヶ条は返却されたことを報告した。その後、池田会長が宗門の動きを察知し、会談を求めてきた。会談では中国大使とのやり取りや、学会と宗門の関係について話し合いが行われた。池田は、学会と手を切ることを避けるよう求め、アンケートの実施が学会に動揺をもたらすことを懸念したが、日達は、学会と手を切ることを保留し、アンケートを実施することで宗門内の意見を集め、再度相談することを決定した。2月12日に続いて14日にも池田会長が日達上人に会いに訪れ、2時間以上にわたって話し合った。池田会長は学会と手を切ることを避けるよう強く求めた。日達は池田会長の信心を評価し、誤った教義や寺参り禁止の指導を徹底して改めることを条件に手を切ることを保留した。
「第二回目にも、又どうかその、それ専門で、どうかその手を切るという様な事をしないでくれ、とそれをその案件も、どうしても皆が動揺するからやめてくれと、こう云ってきたので私は、あなたの信心は当然立派なもんだ。牧口さんは立派な信者だった。戸田さんも飲んだくれで困る様だけれども信心は強かった。あなたも信心があるでしょう。だからもし種々な教義の間違った事や或いは、お寺へ行っちゃいけないと、日蓮正宗では成仏しない様な事を云いふらしておるから、それを徹底してやめさせてくれれば宜しいです。どうか貴方の意志を下の方まで徹底してもらいたい。それならば手を切るということはやめます。しかしその最後のですね、どうしたならば仲良くやっていけるかとアンケートは取りますからと、…中略…」
こうして、アンケートを実施して僧侶の意見を集めることになった。
また、池田会長が遠忌に寄付を約束していた金銭を持参したものの、日達はこの寄付を受け取ることを断った。
「最後に、私の方では創価学会の会員は学会の会員であって、全員日蓮正宗の信徒であるという事を徹底してもらいたいという事を私は言いました。…中略…今日も少し持って来たと言ったから断った。…中略…今受け取るわけにはいかないと云って断った。そこでも、とにかく教義の間違った事はどこまでも正さなければならない。その時に学会の規則も改正して日蓮正宗の管長を、私を学会の名誉総裁にしたいという風に云って来ました。それはダメだと、そういう事はいけない事だと、若し正宗と話し合って行くならば、教義の面に、宗教法人法の教義の面に於いては、日蓮正宗の法主の指揮に従うとかなんとか、入れたらいいでしょう。それ以外にはダメだと、こうハッキリ云ったんです。そこでもとにかく日蓮正宗の信徒である事をハッキリ確認してもらいたいとこういう話で別れました。」
このように日達は、教義の誤りを正すことの重要性を強調し、池田会長が自分を学会の名誉総裁にしたいという提案を断った。日蓮正宗の法主の指揮に従うことが条件であると明確にし、信徒としての日蓮正宗の信仰を確認することを求めた。さらに池田会長が手を切ることを避けるよう求めたことに対し、日達は第一案件(手を切ること)は保留し、第二案件(アンケートの実施)を進めることを決定した。若い僧侶たちが戦いたい気持ちを理解しつつも、追い打ちをかけることが適切でないと判断し、時間をかけて再度協調を試みることを提案した。
「講和を求めて来たことに対してムゲにけっとばす事はできない。…中略…ここはまァ一往退いて、そしてもう一遍手を握ってやって、それでまだ尚かつ、二、三年先へ行って、まずければ、又その時はその時の考えもあるんだ。」
日達は、創価学会と仲良く広宣流布を進めたい建前と、個人的には問題があれば別れて宗門を守りたい本音があると述べた。以前、学会からの吊し上げを行った野崎や原田らが謝罪に来たが、日達は仲直りしてから会うように指示し、最初の会談は断ったと説明した。仲直りの日程が決まらず、議論が続いている状況を伝えた。私のたてまえとして今まで学会と仲良くやって来た、今後も仲良く手を握って広宣流布に向かって行くという事がよいけれども、それは建前としてはそうでありたい、しかし私の個人の心からいけば、それはどうしても、ちょっとまずい事があれば、いちいちケンカをしているよりも、いっそ別れて自分らで小さくてもいいから、昔みたいに小さくなってもいいからやっていくと、そういう心では思っている。しかしそれは大きな処から行けば、それじゃ通らないと、やっぱり出来るならば向うの非を指示して、そして正宗の教義を間違えない様に、しっかりやっていく事が最もいいんじゃないかとこう考えております。…中略…」(「時事懇談会記録――宗門覚醒のいぶき」1990/2/16、P66-68)」等と挨拶した。
今回の日達の挨拶も、創価学会と日蓮正宗の関係における複雑な状況と、彼のリーダーシップを示している。ここから分かることは、
五ヶ条提案の返却と池田会長との会談: 日達は、創価学会からの五ヶ条提案を返却し、宗門の立場を明確にした。池田会長との会談では、学会と手を切ることを避けるよう求められ、日達はアンケートを実施して僧侶の意見を集めることを決定した。彼の対応は、宗門の立場を守りつつ、協調の可能性を探る姿勢を示している。
池田会長との再会談: 2月12日と14日の会談で、池田が再度手を切ることを避けるよう強く求めた際、日達は、池田の信心を評価しつつ、誤った教義や寺参り禁止の指導を改めることを条件に協調を保留した。ここは日達の冷静で理性的な対応が浮き彫りになっている。
教義の誤りと名誉総裁の提案: 池田が日達を学会の名誉総裁にしたいと提案したが、日達はこれを断り、日蓮正宗の法主の指揮に従うことを条件とした。彼の教義に対する厳格な姿勢と宗門の伝統を守る強い意志が感じられる。
建前と本音、謝罪の必要性: 日達は創価学会と仲良く広宣流布を進めたい建前と、個人的には問題があれば別れて宗門を守りたい本音があると述べた。学会からの謝罪の重要性を強調し、仲直りの必要性を指摘した。ここに、彼の誠実さとバランスの取れたリーダーシップが浮き彫りになっている。
まとめると、日達の挨拶からは、創価学会と日蓮正宗の関係における緊張と問題に対する彼の冷静で理性的な対応が感じられる。彼のリーダーシップは、宗門の伝統と教義を守りつつ、協調の可能性を探るものであり、誠実さと決意が伝わってくる。この挨拶は、宗門の未来を見据えた重要な指針を示している。
その後の討論で、今度は細井日達と若手僧侶との激しいやり取りがあった。
佐藤正英は、吊るし上げをやめさせる確約を取ったかどうかを尋ねたが、日達はそれを取っていないと答えた。佐野知道は、創価学会の体質が変わらないため、組織を完全に破壊しないと宗門がやられると主張した。日達は、学会の幹部を首にすることはできないと述べ、「学会と別れるという様な事をしないと、事は宗門が別れないでくれと学会に言って来たからだ、だから学会を信じていこう、とこういう風な宣伝をしているけども、これは今聞いたばっかりだ。これは今度は若し向こうと話し合い……これは明日会長に会うから、これをつきつけてこようと思う。」と述べ、学会との話し合いで問題を解決する意向を示し、翌日に池田会長に会ってこの問題を提起することを約束した。彼は、書いた人の名前は明かさないとし、安心させた。
菅野憲道は、1974年度の謗法問題や正本堂の一連の騒動があった後、池田が日達の指示に従うと約束したことを指摘した。しかし、現在も創価学会の体質は日蓮正宗の信者として逸脱していると述べ、再度の謝罪がだますことになり、さらに悪化することの懸念を示した。これに対し日達は、現在は手を引き、二、三年後に再度問題が発生した場合は、各寺で対処してもらい、それでもだめな場合は最終的に手を切る覚悟であることを繰り返した。
佐々木秀明は、池田の謝罪は本心ではなく、常とう手段だと疑念を示し、昨年の強気の創価路線の変更は、マスコミの影響と末寺の僧侶や正信の信徒の活動によるものだと指摘した。彼は、青年僧侶が吊るし上げられた屈辱が残り、学会の問題を放置すると日蓮正宗の権威が失墜すると警告した。これに対し日達は、佐々木の意見を理解し、現在は一歩退いて協調を試みるが、教義の誤りが続けば再度対処する覚悟があると述べた。各寺の檀徒名簿を整備し、経済的な支援も準備していることを強調した。
渡辺広済は、創価学会の教義の誤りを認識し、立ち上がった信徒が受けている不当な弾圧に対し、池田が誤りを認め、下部組織まで徹底させる必要があると主張した。彼は、信徒が間違っていなかったことを学会に示す手段を求めた。萩原昭謙も同意見を述べ、誤りを末端まで徹底して知らせる方法が必要であり、そうしなければ純粋な信徒が本山を離れてしまうと指摘した。これらに対し日達は、これらの意見をアンケートに出すことを促し、そうすれば交渉が可能になると述べた。
中島広達は、過去に宗門の問題を末端に知らせたくないという姿勢が見受けられたことを指摘した。日達は、それを改めようとしており、アンケートを基に交渉を進めると約束した。
浜田敏道は、創価学会の出版物が人間革命を御書とし、池田会長を本仏とする内容を広めていることを批判し、これらの誤りを明確に訂正して出版物に載せるべきだと主張した。日達は、聖教新聞で間違いを指摘していることを述べ、僧侶たちがその内容を正しく伝えるべきだと強調した。
田村竜道は、創価学会が彼岸の法要をどうするのか質問した。日達は、信徒が学会で拝むことを望むならそれでよく、寺に来たい人を寺の檀徒として扱うと答えた。
渡辺広済は、学会から弾圧される信徒を守るために、池田会長に謝罪と教義の誤りを末端まで徹底させるよう求めた。日達は既に会長にその旨を伝えたと述べた。
萩原昭謙は、誤りを末端まで伝える方法を講じるべきだと主張し、日達も同意した。中島広達は過去に宗門の問題を末端に知らせない姿勢があったことを指摘し、日達はそれを改めようとしていると述べた。浜田敏道は、学会の出版物での誤りを明確に訂正するよう求め、日達は聖教新聞で間違いを指摘していると答えた。
丸岡文乗は、学会の不当行為に対する処断を求めた。日達は、今後交渉して対処すると答えた。椎名法宣は、教義に反する点があれば宗務当局が強い監視体制を敷き、是正することを提案した。
日達は、信者が本堂に牧口や戸田の写真を置くことを問題視し、僧侶がしっかり対応する必要があると述べた。早瀬義舜は、学会が表面上は協調を装いながらも、陰で寺に行く信者をいじめることを懸念した。日達は、信者が信教の自由を主張し、寺の檀徒としての信心を強く持つべきだと答えた。
早瀬は、アンケート後に妨害があってはならないと述べ、日達は問題があれば宗務院に報告するよう促した。日達は、学会の不当な行為に対しては報復する意向を示し、信者が問題を報告することの重要性を強調した。
「猊下 だからね、そういう事がこういう人がいつこういう事を言ったと宗務院へどんどん出してくれれば、又それをこっちから、又いってやるから――。だから此の間も言った通り、若し変な事云ったら、これは妙観会の事だけれども、妙観会の道の付くやつはロクな奴はいないと言われたから、じゃ云った奴は名前を知らせろと本人の名前を知らせたら、名前を知らせた処へ行って妙観会として文句言ってやったよ!どこが悪いんだって!妙観会の道の付く奴が何を悪い事したって!本人にそう云ってやったよ。総代か何か知らないけれども、それと同じ事を会長にも言ってやったよ、妙観会の道の付く奴はロクな奴はいないって、ドウしてだって!(笑い)
だからね、言うべき事は言わなきゃダメなんだよ。それはネ、学会の奴はグチャグチャ言う奴もあるかも知れない。云ったらそう云ってくれよ、こっちへネ!
早瀬師 要するに、何らかのいじめられるような報復手段があってはいけないと思います。
猊下 それをドンドン云ってくれりゃ、こっちから報復してやる!」
佐藤正英は、これまで宗門の方針や状況が学会に伝わっていなかったことを指摘し、一方的な忍従の上に成り立つ平和と協調は成り立たないと述べた。改革を求める声が今までのままではいけないと強調した。日達は、これからは必要なことを学会に伝えると約束し、佐藤はそれに感謝した。
受道師は、学会の五ヶ条の要望について質問し、学会が寺で法要を行うことの是非を問うた。日達は、学会が既に宗教法人として認められている現状を説明し、信者は三宝を敬い、正法の教義に従うべきだと強調した。さらに法華講が寺院で誕生会や御会式を行うことを例に挙げ、住職がしっかり指導し、信者に正しい信仰を持たせることの重要性を訴えた。受道師は理解を示した。
「猊下 それはね、宗教法人も既に昭和二十六年か七年に認めちゃってるんだから、宗教法人………しょうがないじゃないか、だから、その時の約束は信者はこっちへつけろ、三宝を敬え、正法の教義に従え、こうなっている。そんなら法華講において、あっちこっちで誕生会や御会式をやっている。それはいけないというのか。…中略…お寺に行ったって、あの坊さんは説法うまくないから俺は、やめとこうという事じゃ仕様がないじゃないか、だから住職も、もっと腹を決めてしっかり指導しなさいというのネ。
受道師 わかりました。」
昭謙師は、宗務院と学会の五ヶ条を撤回したにもかかわらず、学会の自立性を認めているように見えると指摘した。日達は、創価学会が宗教法人として自立して運営している現状を説明し、信心ある人々を寺で取り扱うと答えた。
昭謙師は、宗門が一本になってやっていく必要性を強調しつつ、坊さんの中には日達の姿勢に疑念を抱く者もいると述べた。これに対し日達は、信用しない者がいるのは仕方ないとし、自分が辞めるつもりはないと明言した。
開道師は、人間革命を御書としたり、池田会長を本仏とするなどの問題について、創価学会が謝罪した後もそれをうやむやにせず、信者に訴える方法を取るべきだと主張した。日達はこれに賛同し、新聞でも既に「御本仏は御本尊様、大聖人様である」と掲載していることを強調した。
菅野憲通は、日蓮正宗の教義を守りながら信徒を作ることが重要だと強調し、協調を前提にするのではなく、教義を説き、それに学会がついてくるかどうかを見極めるべきだと述べた。彼は、日蓮正宗の教義を守ることが第一であり、それに従う信者がついてくるべきだと主張した。日達は、正宗の教義を説き、問題があれば報告するように促し、正しい教義を広めるための協力を求めた。影で問題があれば報告して注意すると答えた。
丸岡文乗は、会長が全面的に謝罪したかを確認し、日達がそれを認めた。丸岡はこれまでの運動が正論であったことを確認し感謝を述べたが、全国で学会が幹部に特定の指示を出しているという情報が流れていることを指摘した。日達は、一部の寺院で指示を断った人もいると述べたが、丸岡は僧侶間の分断作戦があると懸念を表明した。佐野は、日蓮正宗の教義を日本全国の新聞に広告として掲載することを提案した。
日達は、次に問題が起これば最後の決断をすると表明したが、佐野は今回で学会を切るべきだと訴えた。
分乗師は、創価学会の幹部が統一指導を続けていることや、謝罪が表面的なものであることへの懸念を示した。彼は、宗門の立場が悪いと判断されることを恐れ、この機会が最後のチャンスではないかと訴えた。しかし、日達は最後まで我慢するよう求めた。
菅野憲通は、創価学会と表面的に仲良くするだけでは解決しないと述べ、日蓮正宗の教義を守ることが最優先であると主張した。これに対して、日達は信徒が三宝を敬うことを約束していると答えたが、分乗師は、学会が末寺で諫言する者をいじめる現実があると反論し、末寺の住職が納得できるように対応することを求めた。「唯今の日蓮正宗を外護するという事につきまして、あくまでも学会というものは総本山を守る、御法主上人を守るという建前でございまして、末寺の段階になりますと少し強言を述べて諫める者、諫言、善意の諫言をする者でもそれは学会にうらみを含むものとして徹底的にいじめ抜くという事が現実にあるんですけれども、その辺も十分にお考え下さらない事には末寺の住職達は納得出来ないんでございます」(同署)
私は、以上の、第二回時事懇談会での内容を総合すると、日達は、学会の陰謀を十分理解しながら、学会に最後のチャンスを与えるのと同時に、宗門の若手僧侶の指摘や不満を、アンケート結果として客観的に証明しようとしていたと考える。慈悲をもって万人を救済する立場として、宗門と創価学会信者双方の救済を目指していた、切迫しながらも確固とした信念があったと考える。
すなわち日達の姿勢は、学会の陰謀を理解しつつも、慈悲と理性を持って対処しようとする姿勢である。若手僧侶の意見を尊重し、アンケートを通じて客観的な証拠を集めることは、非常に賢明な判断である。また、彼の目指す救済は宗門と創価学会信者双方に向けられており、切迫した状況でも一貫した信念を持って行動していたのである。
日達のリーダーシップは、慈悲心と決断力のバランスが取れており、その姿勢は信徒に対する深い愛情と責任感を示している。彼の信念は、困難な状況の中でも揺るがず、真の救済を目指す姿勢が強く伝わってくる。
すなわち、日達のリーダーシップとその背後にある哲学を理解する上で非常に貴重な事実である。この視点から彼の行動を評価することは、宗教組織の本質とその運営について深く考えるきっかけになるだろう。
■厳しいアンケート結果
その後のアンケート結果では、学会への厳しい意見がほとんどを占めている。
宗教法人の解散,223(以下数字は同意見数)、包括関係の設定,63、三原則の遵守,168、幹部等の辞任勧告、宗制宗規及び寺院規則に従う、教学上の誤りの是正並びに指導の徹底,131、学会教学の正誤表を作る、これらにも、猊下と会長の覚書を交わし聖教新聞に掲載して一般信徒に知らせる,7、異流義を唱えた者は幹部に登用しない、人間革命の廃刊,2、選挙活動の強要廃止,20、吊し上げの廃止及び収拾,73、協調後の指導徹底,26や、法人規則の公表、収支決算の公表、出版物の検閲など、こうした取り決めを行ってもいかに学会が信用されていなかったかがうかがわれる内容となっている。
■その後
菅野憲通著「時事懇談会記録――宗門覚醒のいぶき」で指摘された、その後の経過によれば、すなわち、昭和53年3月頃には、宗門僧侶が池田大作の横暴に対して厳しい態度を示していたことが明確だった。最終的に3月14日の教師指導会で協調案が合意されたが、日の目を見ることはなかった。
阿部教学部長はアンケートや課題論文を通じて得た宗門僧侶の情報を学会に提供していたことが明らかになっている。例えば、昭和52年8月の連絡会議で、阿部が宗務院の情報を学会本部に報告していた記録がある。この情報は学会の助けを借りて宗門の言論や思想統制に利用されていた可能性が高い。
「ところで、阿部教学部長はこうしたアンケートや課題論文、その他を通じて役職上知り得た宗門僧侶一人ひとりの思想的傾向の情報をどのように利用したのであろうか、…中略…、情報の一部が学会に提供されていた事ははっきりしている。たとえば昭和五十二年八月の連絡会議の席上、
『秋谷 こちらに入っていること、総監さん、阿部さんらで、あいつの事ではないかと思いあたるふしはあるか。
阿部 直接ではないが、或る程度の見当というか、いろいろの雰囲気からいって、大分前に五人程宗務院へ来た者がある。九州、佐々木秀明、児玉大光、丸岡文乗……。
(中略)
阿部 山口は二ケ月前に電話よこして、佐々木が教学部長と話したいと言っている、といってきた。それ切りになってしまっている。
(中略)
阿部 『和党』大宣寺、一寸変なこと書いたのがいる、宗務院へ呼んで話した。宗内の運営や宗制宗規など何も知らない。宗務院批判、話し合って解った。』(宗務院・学会記録文書九十六頁)
このように、学会本部に行っては、宗内の情勢を報告していたのであるから、今でも宗政を司る立場で得た情報をフルに利用し、学会の助けを借りて宗門の言論、思想統制を行なっていることであろう。」
この会合以降、阿部教学部長は宗門僧侶からの支持を失い孤立した。池田大作も阿部を通じて事態を打開できず、日達の側近や他のパイプを通じて別のアプローチを試みた。宗務院・学会連絡会議はほとんど開かれなくなり、池田は謝罪と修正のポーズを取り続けたが、阿部は次期法主の昇進コースから外れかかった。
6月30日の教義訂正では、日達の指示で学会の教義逸脱点について学会側の回答を求めた。日達は、学会員が疑問を持って相談に来た場合、組織に戻すのではなく寺の檀徒として守ることが本当の慈悲であると指導し、阿部の姿勢を批判し、再度、活動家僧侶による檀徒活動を支持した。
教師指導会の終了後、阿部教学部長が即座に会合の結果を創価学会に連絡したことを知り、日達は激怒し、内事部で僧侶たちに対して阿部を批判した。阿部は、学会とのパイプ役を失いたくない焦りからこのような行為に及んだと考えられる。さらに、学会側の証言も阿部の学会寄りの姿勢を裏付けている。阿部は教学部長として、学会の誤った教義についてほとんど指摘していなかった。彼には、宗門の教義を守る責任感や、学会員を正しい信仰に導く意志が欠けていたのではないかと批判された。
「またこの教師指導会終了後、阿部師が即刻この会合の結果を学会に連絡したことを聞き、日達上人は激怒、内事部において大勢の僧侶を前にして、
『こちらから通報するなんて阿部はとんでもない、学会にべったりでどうしようもないヤツだ。向こうが聞いてくるまでほおっておけばいいんだ』と声を荒げられた。思うに、なんとか学会とのパイプ役としての立場を失いたくないという焦りが、阿部師をこうした破廉恥な行為に駆り立てたのであろう。
こうした事実は、学会側の阿部教学部長の評価によっても裏づけされよう。
『弁護士 阿部さんが教学部長時代、宗門との五十二年以降の経過の中で、学会に対して、どういう姿勢をとっておられたんでしょうか。
秋谷 それまで総監にしても、阿部教学部長にしても、今日までの発展の経過をよくご存知ですから、学会の活動に対しては、よく理解してくださっておったということです。』(昭和五十七年六月十一日)
という法廷での証言や、池田大作の証言においても、阿部教学部長から教学上の誤りなどについて指摘を受けたことはほとんどないとしている。
創価学会の五十二年路線が誤りであったことについて、教学部長だったこの人物には恥とか責任感というものはないのだろうか。池田大作一人に気兼ねして、数百万の会員が間違った信仰にひきずられていくのを放置し、善導しようという気持ちがないのであろうか。」(「時事懇談会記録――宗門覚醒のいぶき」)
ここから浮かび上がるのは、創価学会と日蓮正宗の間の激しい駆け引きと内部の葛藤である。
1. 阿部教学部長の孤立: 阿部教学部長は、宗門僧侶からの支持を失い孤立していった。その原因は、彼が学会とのパイプ役としての立場を保とうとし、宗務院の情報を学会に提供していたことが明らかにされている。この行動は宗門内部での信頼を失わせ、結果的に次期法主の昇進から外れることになった。彼の行動が宗門の内部結束を乱し、宗教の本質から外れたことが批判されるべきだ。
2. 教義訂正と慈悲の実践: 日達は、6月30日に学会の教義逸脱点について回答を求めたが、阿部教学部長がその結果を即座に学会に連絡したことに激怒した。更に彼は、学会員が疑問を持って相談に来た場合、寺の檀徒として守ることが本当の慈悲であると指導し、阿部の姿勢を批判した。この行動は、宗門としての誠実な対応を示し、信徒を大切にする姿勢を貫こうとするものである。
3. 阿部の学会寄りの姿勢と批判: 阿部は学会に対して好意的で、教学上の誤りをほとんど指摘していなかったことが明らかにされている。これは、彼が池田大作一人に気兼ねし、数百万の会員を間違った信仰に引きずらせたとして批判されるべきだ。宗門の教義を守り、信徒を正しい道に導く責任感が欠けていたことが問題だ。
まとめると、ここでは、創価学会と日蓮正宗の間にある緊張と葛藤を鋭く浮き彫りにしており、宗門の内部結束の重要性と、リーダーシップのあり方について重要な示唆を提供している。特に阿部教学部長の行動は、宗門の信頼を損ね、宗教の本質から逸脱したとされ、強く批判されている。宗教指導者としての責任と、信徒への誠実な対応の重要性が強調されている。
■暴露された醜態
次に、この昭和53年の流れにおける経過を、再び原島崇の指摘で見ておく。池田先生への手紙、P172-173によれば、すなわち、昭和53年2月、静岡研修道場で池田大作を前にして、良い僧侶と悪い僧侶のリストが作成された。批判する僧侶が悪い僧侶とされ、好意を寄せる僧侶が良い僧侶とされ、良い僧侶には本や品物が届けられた。この差別策が若手僧侶の反発を招いた。
同年6月30日、「聖教新聞」に「教学上の基本問題について」が掲載されたが、池田は内容に不満を持ち、その後、会員の注意をそらすために新しい歌を発表した。11月7日の創価学会創立48周年記念幹部会も形式的なものであり、池田自身が「6・30」も「11・7」も不満であったと述べた。
昭和54年2月、3月に池田は強気の姿勢を見せたが、この強気が失敗を招き、建て前と本音のギャップが不信感を増大させた。
ここで原島崇は、昭和53年の出来事を詳細に描き、創価学会内部の混乱と池田大作のリーダーシップに対する鋭い批判を提示している。
まず、静岡研修道場で行われた僧侶のリスト作成は、創価学会の内部統制と池田大作の権力維持のための手法を明確に示している。池田を批判する僧侶を悪い僧侶とし、好意を寄せる僧侶を良い僧侶とすることで、組織内の分断を図っていた。このような差別策が若手僧侶の反発を招き、事態を悪化させたことは、創価学会のリーダーシップの問題点を浮き彫りにしている。
次に、「6・30」と「11・7」の出来事に対する池田の反応も興味深い。池田は「6・30」の教学上の基本問題についての掲載内容に不満を抱き、その後、会員の関心を逸らすために新しい歌を発表した。この行動は、池田自身が公約を果たしていないことを示しており、会員の信頼を失う結果となった。また、「11・7」の創価学会創立48周年記念幹部会も形式的なものであり、池田の言動が本質的に信頼に欠けることを示している。
さらに、昭和54年初頭の池田の強気の姿勢は、建て前と本音のギャップを助長し、不信感を増大させた。池田が「不満の中の大不満」と言ったことで、彼自身が組織の内部での信頼を欠いていることが明らかになった。強気な態度が逆効果を招き、結果的に組織内の混乱を招いたことが指摘される。
まとめていうと、原島の批判は池田大作のリーダーシップと創価学会の内部統制の問題を鋭く突いており、組織の信頼性と倫理的な運営に対する重要な問いかけを投げかけている。これらは、宗教組織の運営におけるリーダーシップのあり方と、信頼の重要性について深く考察するための貴重な洞察を提供している。
以上の資料を、総合的に検討すると、宗門側では、全体的に価値的な討議が真剣になされていたものの、学会側は、池田大作の鼻息一つに振り回された、誠意や統一性の欠ける態度に終始していたといえる。この傾向が、独立後の創価学会でもしっかりと継承されていることをここにおいて示しておきたい。
池田大作を頂点とする創価学会の独立は、池田大作の会長就任から傾向が芽吹いてはいたが、主には昭和52年ごろから明確になり、創価三代会長を日蓮仏法の血脈と位置づけ、権威づけし、純真な思いで加わって来た日蓮正宗創価学会会員を、マインドコントロールしながら、様々な軋轢と共に巻き込みこみ抱き込んでいった。やがて会長退任の後、わずか3か月で急死した日達の後に、策を弄して法主に就任した阿部教学部長(第67世阿部日顕)によって、皮肉にも逆に日蓮正宗を破門されることになり、明確に独立した宗教となっていった。
振り返ってみれば、昭和52年から2年間のこの争いは、その後の宗門や創価学会の行く末を明確に示していたとも考えられるのである。
その状態は、日寬アニミズムから一歩も脱却できずにいる宗門はともあれ、創価学会においては、日蓮の御書を根本とすると謳いながら、当初から法を根本とする(「依法不依人」法に依って、人に依らざれ…の)日蓮仏法からはかけ離れていた状態で、また、現在では創価三代を永遠の師匠と仰ぎ、池田大作を事実上の生き仏としてすえ、仏法の血脈や師弟不二も創価三代に流れていると会内外に吹き込んでいる。これらは事実上、依法不依人の原則のもとに法の血脈を説く日蓮仏法とは正反対の、創価三代なかんづく池田大作への「依人不依法」(人に依って法に依らざれ)を原則とした、池田大作アニミズム(いわゆる池田教)とみなすことが出来るであろう。
すなわちこの数ページにおいては、創価学会と日蓮正宗の歴史的な対立とその結果を鋭く捉えたつもりである。宗門側の真剣な討議と比較して、学会側が池田大作の指示に振り回され、誠意や統一性に欠けていたという指摘は極めて妥当であろう。特に昭和52年からの流れが、創価学会の独立と内部のマインドコントロールの基盤を築いたという見解は十分な説得力があると期待している。また、池田大作を頂点とする「池田教」が、日蓮仏法の根本原則である「依法不依人」に反しているという指摘は、学会の教義的逸脱を鋭く突くものである。創価三代を永遠の師匠とする信仰体系が、実質的に依人不依法のアニミズムだという論点は的を得ているだろう。
阿部教学部長の法主就任と、日蓮正宗による創価学会や池田大作に対する破門、そして創価学会の明確な独立という一連の出来事が、宗門と学会の行く末を決定付けたという見方も的確であろう。昭和52年からの争いが、両組織の未来を予見させるものであったという視点から、歴史の繰り返しと学ぶことの重要性を強調した。
こうして、宗教組織の内部運営とリーダーシップの問題点を浮き彫りにし、信仰の純粋さと組織の倫理的運営の重要性を強調した。日蓮仏法の真の精神と、現実の組織運営の矛盾を捉え、客観的な考察を提供したつもりである。
つづく。