ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P46, 昭和51年前後のマッチポンプ山崎正友や、御本仏池田大作の回りの微妙な関係
前ページで、昭和五十二年元旦の池田大作の挨拶や、誤った「仏教史観を語る」、寺院不要論をとり上げたが、この年から創価仏法、創価宗の独立とともに、総本山大石寺の支配へと、池田大作創価学会は具体的行動を強めることになる。
この年から、朝晩の勤行に使用する経本を創価学会独自で作ったものにかえた。その御観念文の中で、日道上人・日行上人への文を削除し、牧口常三郎と戸田城聖へのの死身弘法の報恩感謝
を加えた。
「初代、二代、そして三代会長も猊下なみという画策なのであろう。
一月二十日、菅野憲通という、当時千葉蓮生寺の住職が、学会本部に呼び出されつるし上げられ、詫状をとられると、翌日二十八日には、四国の松本珠道住職、二月に入って坂井進道、栗原開道、水野顕道、高見求道、中村福道住職、三月西本暁道住職、八月玉沢研済住職と、まるでゲシュタポまがいのつるし上げの狂気が吹き荒れた」(「池田大作・政教支配の実態 創価学会=公明党の覚醒に向けて」1998/11/20 創価学会内部改革派優創グループ(代表・大西進次郎)著、エスエル出版会 鹿砦社、P69)
さらに同書は、
「四月、戸田会長を『獄中の悟達』とし、巣鴨刑務所の中で体現された悟達が創価宗の原点であるとした。日蓮正宗の否定である。
六月、牧口初代会長生誕百六年法要に、池田氏は牧口会長を『広宣流布の大願へ民衆を導いていった指導者、大導師である』と、日蓮正宗では、大聖人にのみ使う『大導師』という仏教用語をなんと牧口会長につけて創価宗の血脈の正統を主張した。
また、浜田憲司なる学会の教授がいて、『日蓮大聖人様は生涯寺院というものを持たれなかったから(現在も)寺院は不要であるという論文を出し…」
とある。
このような情勢の中、創価学会顧問弁護士の立場を最大限利用しながら創価学会の謀略に加担していた山崎正友に、重大なる決定的転機が訪れた。
「同年二月、私は日達上人から、『内々で話したいことがあるから、(東京都)文京区西片町にある管長宅(大石寺出張所)へおこし願えないか』との招待を受けた。
困ったことになったと思いつつ、人目を忍んで訪問したところ、」(山崎正友著「懺悔の告発」1994/3/15 日新報道P88)
私は、山崎正友の著書の引用には十分な注意をはらった。
彼の主張は、「虚実とりまぜて」といわれているように、重い真実も多いが、軽いウソも少なからず混じっている。
彼のこの傾向は、池田大作ゆづりのものともいえる性質が含まれている。
なぜなら、彼も、まぎれもない、池田大作の忠実な弟子であって、池田大作をそばで守り支え、自らの手を汚しながら池田大作の野望の実現に大いなる役割を果たしたからである。
山崎正友の使ったウソは、まさに創価学会の組織の遺伝子を彼の口から発現させたものであると評価できるであろう。
むろん、その根源にあたるのは、拙論文でも先述したが、戸田時代の折伏経典に記載されているものである。
山崎正友が逮捕され、自らの因果応報により、自身の財産や身体の自由も含めすべてを失った時、
「魔法使いでもない限り、事実や歴史をつくりかえることはできないのである。どのようにあがいても、池田大作氏は、自らの愚行を闇に葬りさることは不可能である」
「私には世俗的な勝利はなく、良心の勝利があるだけである。
無実を主張し、官憲の不当弾圧を叫ぶ刑事被告人としての立場と同時に、自分の信仰心に照らして人生をふりかえれば、只今、一身に受けている迫害や苦難を、罪障消滅のためのみそぎと受け止める心境にある。ざんげの気持ちをこめて、真実を語りつづける義務感は、どのような権力の迫害や危害の脅しでも、止められるものではなかろう」
と叫びながら、命がけで綴った著作の中に、多くの真実が述べられているのを、選別して紹介していく。
貴重な歴史的資料である。
まずは、昭和50年前後から52年前後、特別財務が行なわれた付近から、ちょうど、山崎正友が良心に目覚め、信仰心に立ちかえった決定的転機となった前後の様子である。
以下続きは、山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」1981/12/15、三一書房、P69からである。
■ 「世界一贅沢な男
許されない社会的不正
昭和五十五年十一月十五日、創価学会五十周年記念パーティが、創価大学で開かれた。会場で、池田氏が新聞記者の質問に対し、
『原島、山崎らの告発は次元の低いことだ。いちいち気にしていては、民衆の王者になれませんよ』
という趣旨の発言をした旨報道された。
盗聴も、替玉投票も、にせ本尊作りも、いずれもすべて、池田氏自身が指図してやらせたり、やったりしたことである。自分のしたことを〝次元の低いこと〟であったといい、〝気にしない気にしない〟というのは、まことに池田氏らしい無責任な、自己矛盾にみちた発言である。
自分に責任のある、次元の低い社会不正を、ひとごとみたいにきめつけて、自分自身を切っていることに気がつかない。
池田氏は、学会の中では、いつも別格であり、人のことばかりあれこれいって、自分のことをいわれることがない立場である。たしか、言論問題のときの謝罪も〝自分と関係のない学会の悪しき体質〟を、池田氏がわびたような形になっていたと記憶している。
みずから行った行為を〝次元が低い〟とあざわらうことは、鏡にうつった自分の姿を〝みにくい〟とあざわらうようなものだ。油をとられるガマだって鏡にうつったおのれの姿のみにくさを恥じて脂汗を流すというのに、〝謙虚人間〟を自称する池田氏は、これほど恥知らずの人間なのである。
相伝を詐称するニセ法主をつくり、これとぐるになって日蓮正宗を盗みとろうとするほどの人だから、羞恥心など、どこかに、とっくの昔に投げ捨てていても不思議ではない。
それにしても〝民衆の王者〟とは、まことに厚顔な表現である。貧乏で、純真な会員から巨額な金をしぼりとり、全国各地にぜいたく三昧な専用施設をつくって君臨している姿は、王は王でも魔王ではなかろうか。
池田氏のもとで行われている社会的不正がどれほど悪質なものであるか。
ひと口に、替玉投票と軽く言うが、まじめに選挙ととりくんで当選するためには、一票をかせぐために、どれだけ頭を下げ、足を棒にし、そして声をからさなくてはならないことか。どれだけ、日常活動をしなくてはならないことか。少しでも選挙にかかわったことのある人なら、容易にわかることである。
その一票を盗み、公明党に入れる行為が、替玉投票である。新宿事件のときは、新宿区だけで、六千票近い票が盗まれた。その後も今日まで、公明党の選挙活動に替玉投票があとを絶たないことは、今、私の手もとに集まりつつあるデータが見事に証明しているのである。
こうした言語道断な不正行為が、警視庁予算をにぎっている東京都議会で、公明党がキャスティングボードをにぎっているが故に、大目に見られたり、モミ消されたりしているのである。
民主主義の世の中にこんなことが許されてよいのだろうか。
また、読者の皆様の電話や家庭に盗聴器がとりつけられて私生活や仕事が、すべて他人に聞かれていることを想像していただきたい。
いずれも、まことに容易ならぬ社会悪ではなかろうか。
私自身、こうしたことに深くかかわって来たことに対し、心から反省し、つぐないをしなくてはならぬと思っている。決して〝次元が低いから無視して開き直れ〟などと言う気にはなれないのである。
世間法上の間違いは、謝罪し、つぐなうことが可能である。仏法上の間違いは、地獄におちる。このことを心の中に銘記していれば常に安泰であろう。
そして、その両方を犯しながら、いまだ、知らぬ存ぜぬをとおし、〝次元の低いことだからかまわない〟などとうそぶく池田氏とその側近達は、身心ともに無間地獄間違いなかろう。少なくとも、宗教の指導者にふさわしくないことだけは間違いない。
昭和五十五年六月十九日号『週刊文春』からはじまった、原島崇氏ら七人のグループによる内部告発第五回(七月十七日号)において、
『特別財務六百億円で全国各地につくられた池田大作専用〝ラブホテル〟』という見出しのもとに、池田大作氏が、会員から集めた特別財務で、ラブホテルまがいの豪華専用施設を全国につくったという告発がなされた。
これに対し、創価学会は、文芸春秋と告発者を名誉棄損罪で告訴し、また五億円の損害賠償請求訴訟をおこした。
一方、訴訟と併行して、池田専用施設の改造が急ピッチで行なわれた。風呂場の鏡をこわしたり、備品をとりかたずけてかわりに、ショーケースを入れ、〝恩師記念室〟に作りかえ、地元の幹部を招いて披露し、何人かがそこで勤行している姿を写真にとり、大白蓮華のグラビアにのせたりして、〝ラブホテル〟の否定に大ワラワであった。例によって、性こりもない証拠隠滅工作である。
この、証拠隠滅工作に、現実にたずさわった人物が、私にすべてを話してくれた…中略…
既に、昭和五十三年の時点で栄光建設その他の学会外郭会社や出入業者によって、対山荘のプール、静岡研修道場の黄金風呂、広島文化会館の大理石の風呂、茶室や成金趣味の庭園、箱根研修道場の石碑など金にあかせてつくった池田専用施設が、国会や国税庁の調査が入る前に、と、大あわてで、惜し気もなくつぶされ、ぶちこわされているのである…中略…
■ ある文化会館管理者の証言
ここに、一通の内容証明郵便の写しがあるので紹介する
ある学会員から森田一哉理事長に宛てたものである。
『 質問状
拝啓、理事長には、多難の中、日夜御健闘下さり、陰ながら感謝しております。
さて、先日、聖教新聞紙上におきまして、週刊文春に対し創価学会として告訴したことを知りました。この件につき、いささか疑問に思われることが御座います。
それは私共が、大沼或いは箱根の研修へ行かせて戴きますと、数百名の宿泊者に対し、せいぜい十名前後の人しか入れない岩風呂風のお風呂しかなく、私達は、烏の行水のような形でしか入浴できません。ところが、江戸川文化会館の恩師記念室には、週刊文春のグラビアで紹介された対山坊の風呂場のような総檜造りの風呂が付いております。
恩師記念室は、普段は常に鍵がかかっており、誰も入れないようになっております。
名誉会長がいらっしゃった時に開かれるのかと思いますが、何年に一回使用されるかも解らない部屋に、立派なお風呂を造り、私達の使用する処に、その人数に耐えないような施設しか造られないのはどういう理由によるものでしょうか、お教え下さい。
又、江戸川文化会館の恩師記念室には、風呂場の他、大きな台所と清潔なトイレが付いております。
皆さんの会館と云われ、私達学会員の特別財務で建てられた文化会館でありながら、私達会員の利用できない、入らせてもらえない部屋にこのような設備がどの程度に必要なのでしょうか。
このような部屋の存在は、『皆さんの会館』という趣旨に反するのではないでしょうか。
次に、これまでの会館では、それまで会長室と呼ばれていた部屋を、理事室と名称変更したことが御座いましたが、この部屋は、ほとんど使用されたことがなく、名称変更にも係らず、本質的に会長室であったと思われますが如何でしょうか。
以上の数点を冷静に考えてみますと、今回の週刊文春は、私達の疑問に答える内容であるといえても、私達学会員の名誉が棄損されたことにはならず、一千万の会員の名誉も棄損されたと告訴したことは、心ある会員の真情に反しております。
私達が、このような気持ちになるのは、全国の会館、文化会館の恩師記念室の内部を秘密にしているからであります。
従って、各会館、文化会館の恩師記念室の内部写真の公開及び、学会員なら誰でも、何時でも、その部屋の見学を自由にして下さることを要求するものです。
右の質問並びに要求に対する回答と諾否を七月末日までに御返事下さる様、お願いいたします。敬具』(江戸川会館管理人嘱託の手紙)
池田専用施設の実態と使われ方は、どこもこのとおりなのである。学会の訴訟での主張は大ウソである。
■ 一平方メートル数万円のカーペット
今、私の手元には、池田専用施設の資料がたくさん集まった。いずれも、完成時の、什器備品を搬入する前後のものであるから、恩師記念室にカムフラージュする前の、文字どおり豪華専用施設である。ありのままに御披露申し上げる。
北は、北海道文化会館。池田専用フロアの執務室のじゅうたんは、一平方メートルナン万円はする。カーテンは一メートル六千円の高級品である。トイレにまで、じゅうたんが敷いてある。
私の手元に、内装の見積書がある。学会専用の用紙と様式で、出入りの業者がつくったものである。わかりやすく説明するため、専用応接と、一般用(上客用の最高級応接であることにかわりない)応接の、ソファの見積価格を比べてみる。
池田専用施設の方は、一脚が十九万円、一般用の最高級品が八万五千円四百円である。二倍以上である。
池田専用執務室のデスク、椅子などは、すべて特別あつらえで作らせる。
机が四~五十万円、椅子でも十五~二十万円する。その見積書もある。
その他の備品は、おしなべて専用施設の方が、三~四倍の価格になっている。備品だけではなくて、建物そのものにも、それだけ金がかかっていることはいうまでもない。
たとえば、三階建の建物のうち、三階が専用フロアだとする。そのフロアーに、他のフロアーの三倍、金がかかっている。ということは、専用施設がなければ、半分の工費で、建物が建つという計算になる。
最近では、五階建六階建も少なくないが、それにしても、池田専用施設のために、何割かの浄財が浪費されていることは間違いないのである。
北海道文化会館は、中の下くらいの程度の豪華さである。
一番豪華なAクラスとしては学会本部わきの白雲寮、渋谷研修道場、加住研修道場、神奈川文化会館等がある。じゅうたんの価格も一平方メートル十五万円から二十万円と、ひときわ高い。
別格で豪華さをほこるのが、芦屋市にある、戸田記念館である。元丸紅の会長邸で、テレビ映画〝華麗なる一族〟の舞台にもなった、市内で指折りの豪邸をそっくり買い取って、池田専用施設とした。そのぜいたくさは、目を見はるばかりである。
東北総合研修所の場合は、三階建の一般棟に、平屋建の、豪華な作りの専用施設がくっついている。これについては、幸いにして、図面を入手した。
豪華な民芸風の玄関。風呂(檜作り、鏡つき)、キッチン、第一庶務室、女性控室、池田専用室と次の間という間取りである。
普通は、これに十畳ばかりの専用執務室がつく。東北研修所の場合は、ややコンパクトである。文化会館の場合は、最上階のワンフロアーが専用施設だが研修道場では別棟形式になるのである。別棟形式で一番豪華なのは、霧島の牧口記念館で、天井版だけで百万円する。加住研修所をはじめ、超豪華な和風建物は、専門の、加住建設に発注する。
■ 王侯貴族にも優る贅沢三昧
このように、執務室、二つの和室、女性室、第一庶務室、内玄関、回廊、風呂場、じゅうたんを敷いた広いトイレ、それに台所、庭、というのが、池田専用フロアーのユニットであり、これが、全国の主要な会館と研修道場に必ずある。池田氏は、百近い豪華別邸を、全国各地に所有していることになる。世界中に、これほどぜいをつくした暮しをしている人は、ちょっと見当らない。
専用施設は、学会だけでなく民音、創価大学、創価学園、国際センター、そして公明党にもある(あったというべきか)。調度品は、もちろん特別あつらえで作らせている。
会員が、〝御供養精神〟で、民音の歌謡ショウの入場券を買わされ、〝創価教育のために〟と銘うって寄付をさせられ、正本堂御供養金から、『世界広布のため』という名目で、国際センターに寄付が行われた。学会員は、また、公明新聞をとらされ、選挙のたびに〝陣中見舞〟と称するカンパを求められる。
こうした名目で貧しい学会員達からも吸い上げられた金の一部で、池田大作専用の豪華な施設が作られ、維持されているのである。
昭和五十二年、民社党が、創価学会の資産を国会で追及しようとした。特に池田専用施設にメスを入れようとしたのであった。
創価学会は急遽、池田専用施設にショウケースを入れて、牧口初代会長、戸田二代会長の遺品などを並べて、〝恩師記念室〟にカムフラージュした。そのために、遺品の模造品を、二百組以上、業者に発注した。戸田氏が獄中で用いたとされる牛乳ビンのフタを糸でつないだ数珠が、どこの記念室にもあるが、フタの日付が、昭和五十二年だった、五十一年だった、などと目ざとい会員が見つけて欺瞞性に疑問をもち、退転したという人もいるというから、罪な話である。
熱海研修道場と、三重研修道場の専用施設も、恩師記念室にもようがえされた。どんなに豪華な専用施設もチャチな品物を並べれば宗教上の用に供するということになって、大手をふって免税となる。日頃、税金に苦しむ者にとっては何とも納得の行かぬ話であろう。
貧しい会員のシリをたたいて奪った特別財務が〆て六百七十億円である。
生活保護を受けている家庭からも、母子家庭からも、『御供養だ。福運をつかむのだ』と、特別財務を強要した。
ある脱会者は、
『生活保護の手続きやら、社会福祉の面倒を公明党議員に見てもらっていたので、こうしたとき、ことわれなかった』
と語っている。まさに貧者の一灯(ママ)というより、貧者の膏血である。
そのうち、三倍もかけた池田専用超豪華施設に支出した金額は三分の一を下るまい。そして、ボロかくしのために、恩師記念室にもようがえしたり、風呂場を改造したりの、捨て金が、どれだけ莫大な金額にのぼるか。また、違法な開発行為を摘発され、工事を途中でやめて現状に復したり、せっかくつくった庭や石碑をこわしたり、土をはこんでうめたりの無駄が、どれほどあったか。
■ 本来納税すべき分を私物化
池田氏一人の栄耀栄華のために、そして、そのボロかくしのために、会員の真心の特別財務六百七十億円のうち、少なくとも二百億円が、無駄につかわれてしまったと私は見ている。…中略…
社会的観点からいうなら、創価学会は、池田氏が年に一度、つかうかつかわないかの、それも、池田氏と、数人の女性と限られた人物だけしかつかわない、施設を、二百億円以上もかけてつくり、持っているということである。特財以前のものを入れれば、更にぼう大な金となろう。
これがなくたって、創価学会の活動に何の支障もないことはいうまでもない。
そして、これらの施設が、免税の恩恵を受けていることに、不公平を感じない人がいたら、どうかしている。
宗教法人に課税しても、創価学会はやっていける。ただし、池田専用施設をなくすればの話である。つまり、池田氏の栄耀栄華は、宗教法人に対する免税部分の上になり立っているということである。特権ともいえるが、見方をかえれば、本来納税すべき税金部分を私物化しているのだから一種の脱税で、ぜいたく三昧をしているといえないこともあるまい。
一体、どこの世界に、年に一回つかうかつかわないかの超豪華施設を全国に百カ所近くも持っている富豪がいるだろうか。
引き合いに出すのもおそれ多いが、天皇陛下におかれても地方御巡幸の折、全国に専用施設を持っておられるということはない。
故大宅壮一氏に、‶天皇ほうき論〟というのがあった。地方に御巡幸なさるたび、その地方が施設が充実し、きれいになる、という趣旨であったと思う。しかし、御巡幸で、立派な施設ができても、それは、その後はその地方の人達の用に供されるのであって、池田氏のごとく、余人に使わせることなく、カギをかけておくというものではない。
池田専用施設の無駄づかいはまさに狂気のさたなのである。これを狂気と思わないで、池田氏の絶対的君臨に平身低頭する側近幹部に、人の良心を語る資格などあるはずがないと、今の私には断言できる…中略…
しかも、くりかえすが、この狂気じみた浪費とぜいたくが、生活保護世帯からも集めた特別財務金でなされているのである。
『功徳がある。御本仏への御供養である』
といつわってあつめた金である。死んだ女の毛髪を抜いて、売っては生活費をかせぐ、羅生門の鬼婆にも似た、畜生界の王者の姿といった方がふさわしい。〝民衆の王者〟ではなくて…中略…
その上、悪が露見しようとしたときの隠蔽工作のすさまじさである。
日頃、日蓮大聖人の御書をよんで
『ウソをついても、御本仏はごまかせない』
と、純真な会員に指導している人達が、自分達のただれた背徳の生活をかくすために、一から十までウソで固めようとする、その姿勢に私はもはや耐えられなくなった。
くりかえすが、私は、そのボロかくしの専門家として、池田氏に、高給でかかえられ、甘い生活を保証されていた。
私が、日蓮正宗の本義に立ちもどり、信仰の原点に立ちかえろうとしたとき、池田氏にとって、私が不要となったのみか、邪魔になり、危険人物に見えてきたことも、いわば当然のなりゆきである。池田氏が、私を社会から生かしておけないと考えてあらゆる手段を講じて抹殺をはかろうとした動機が、私には、よくわかる。そして、そのことを、多くの人々に知っていただくこと以外に、創価学会の蘇生はないと考えているのである」(山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」1981/12/15、三一書房、P69-83)
さて、彼が「そのボロかくしの専門家として、池田氏に、高給でかかえられ、甘い生活を保証されていた」のも、真実である。
これは、池田大作やその側近には周知のことであり、彼の動きを支えた浜中和道(妙信講対策時代からの日蓮正宗の活動家僧侶、大分県竹田市の伝法寺の住職)も、その回想録で語っている。
浜中和道は当時、妙信講問題にゆれる妙縁寺に執事として赴任し、創価学会顧問弁護士であった山崎正友とともに、妙信講に対し『破邪新聞』を出すなど、その対策に没頭する毎日であった。
「妙信講問題は、それ以外にも裁判という大きな問題をかかえていた…中略…山崎氏は、それら全般にわたっての総括責任者であった。
昭和五十年暮れころになると…中略…山崎氏の生活が急にハデになっていった。山崎氏の交際範囲の広さは、とうてい、私の理解できることではなかった。しかし、私は山崎氏のハデな生活を見るにつけ、創価学会顧問弁護士という職業以外にもなにか他の仕事をして儲けているのだろうと思った。創価学会とは無関係の筈であるプロダクション会社社長・西崎氏に、妙縁寺の一億五千万円という大金の隠匿を依頼したことからも、それが伺えたのであった。
また昭和五十年の夏ころには、
『これは富士宮の親分の日原から貰ったんだ』
と言って、イギリス製の高級スポーツカー〝ジャガー〟をマンションに乗りつけてきた。私が、
『日原って誰?』
と聞くと、大石寺近辺の富士宮市でも有数の大金持ちであるとのことであった」
(浜中和道著「浜中和道回想録」2000/10/5、P78-79)
また、
「『これ、和道さんにやるよ』
と言ってくれた時計があった。
『これは阿部さん(註、当時日蓮正宗教学部長、その後第67世法主となった阿部日顕)に五十万円、御供養したら、そのお返しにくれたんだよ。セイコーの十五万円ぐらいのモノだよ』
山崎氏の表情には、〝こんな安物〟という思いがアリアリと伺えた。もっとも当時の山崎氏のしていた腕時計は数百万円もするものであった。
昭和五十一年に入ると、その山崎氏のハデさは、ますますエスカレートしていった。それまでは山崎氏の秘書がわりとして、岩住氏(当時創価学会本部職員)やアルバイトをしている児玉君という青年がいたが、新たに山崎氏は自分個人の運転手兼秘書として坂本龍三氏を雇い入れた。そしていつの間にか国産の高級車である〝クラウン〟を購入していた。山崎氏が言うには、
『僕もいつまでも、学会のことだけやっていられないんだ』
とのことであった。それでも気が向けば『破邪新聞』(註、妙信講対策のための機関誌)の執筆はしてくれた。そして相も変らず学会弁護士陣、本部職員らは以前同様に山崎氏のもとに、打ち合わせや報告のために出入りしていた。
ところが、この年の春になると、山崎氏の言動が変ってきた。
『池田さんは、僕が気にくわないみたいだよ』
と山崎氏は私に話した。私の脳裏に山崎氏の乱れた私行がよぎった。だが、その私の思いとはまったく関係ない言葉が、山崎氏の口をついて出た。山崎氏によれば、
『僕が本当のことをズケズケ言うからだよ。あの人はオベンチャラに慣れているから、言われればカッとくるんだよ』
と山崎氏は述べた。『あの人』とは、池田会長のことであった」(同書P81)
この年の春には、後述するに、重大事件があった。月刊ペン事件である。
ついでに、浜中和道は、池田本仏論の起こりについても、このころから、山崎氏の羽振りとともに語っている。
「阿部師は、
『四国の青年部長の北野というのが福道(註、中村福道、当時、四国の寺院の住職)のところに来て、『池田先生は仏様です』と言ったと、福道が日達上人に報告したんだ』
阿部師が言うのは、それを聞かれた日達上人がカンカンに怒られているという…中略…そのような『池田会長本仏論』は、中村師からだけではなく、いたるところから日達上人のお耳へ届いているとのことであった。
私は早速、そのことを山崎氏に尋ねてみた。山崎氏は、
『和道さん、まさしくそのとおりです。池田さん自身がもう仏気取りなんですよ』
と答えた。そして、
『それを煽っているのが野崎とか原田、宮川なんかです』
と述べた。野崎勲氏は当時の創価学会男子部長(註、後の副会長)であり、原田稔氏は青年部長(註、現創価学会会長)、そして宮川清彦氏は青年部の幹部であった。
山崎氏が語るには、それら学会の青年部が、
『池田先生にどこまでも〝仏〟として信伏随従する』
と誓いを立てたそうであった。そればかりではなく、日達上人の弟子の集まりである〝妙観会〟に対抗して、〝伸一会〟なる青年部のエリート組織を昨年、結成したというのであった。山崎氏によれば、
『伸一会のメンバーに当然、入るべき原島と自分は、はずされた』…中略…これら伸一会のメンバーは、池田会長の懐刀として池田会長を〝本仏〟に仕立てあげ、やがて日蓮正宗を乗っ取る腹積もりだということであった。その宣戦布告を五月三日の創価学会の本部総会で野崎男子部長がしたということであった。私はその五月三日の本部総会の模様を伝える『聖教新聞』を見ていなかったので、
『えー、そのことは『聖教新聞』に載っているの? 本当にそうだったら阿部さんに御報告しなくれはならないから』
と山崎氏に言うと、山崎氏は、
『学会はそういうことは絶対に記事にしないよ』
ということであった…中略…私は驚天する思いであった。本当に『妙信講どころ』ではなくなったのである。
それまでも、宗内の各所で噂されていた『会長本仏論』が噂ではなく、事実として、いかに池田会長と軋みはあるにせよ側近中の側近である山崎正友顧問弁護士の口から語られたのである。私は山崎氏に訴えた。
『もし、そんなことになったら喜ぶのは妙信講だけですよ。それに宗門だって創価学会に対する反発がすごいものになりますよ』
そして私は、
『なんとか池田会長を諫めてよ。野崎さんらだって、妙信講の現実や宗門の反発を話せば、そんな考えは捨てるでしょう』
と頼み込んだ。しかし山崎氏の言い方は冷淡だった。
『もう池田さんは、僕の話なんか聴きやしないよ。今までそういうことを僕が忠告したから、あの人は僕を遠ざけているんだから』
と冷めたような表情で言った。そして、
『和道さん、それから学会はもう寺は建てないことにしたよ』
と言った。私はこれにもびっくりした。…中略…昭和五十年九月十六日、『聖教新聞』紙上で『五十ヶ寺建立計画』が発表されたのであった。それが一年を経ずして、
『全部、パアですよ』
と山崎氏は言うのである…中略…そして山崎氏は、
『和道さん、もう僕は金儲けだけを考えるよ』
と最後に言い切った」(同書P82-85)
「後日、岩住氏が私になにげなく漏らしたことがある。私から聞き出した話をもとに作成した『宗門人脈図』を山崎氏が得意げに池田会長に見せたところ、池田会長が、
『宗門は外護するもので調査する対象ではない! 小ざかしいことをするな!』
と山崎氏を叱りつけたそうである。ともあれこの頃の山崎氏といえば、池田会長より、
『宗門問題から手を引け』
と言われてからは、それこそ遊興にのめり込んでいた。
連日のように銀座に繰り出して行くのである。私が山崎氏と知り合った当初は、銀座に行くといっても、その店はお世辞のも高級クラブと呼べるものではなかった。しかし、この頃より山崎氏が通い始めた店は、それこそ銀座の超一流の高級クラブなのである。山崎氏はそのようなクラブに行っても、一切、アルコール類は飲まず、ただトマト・ジュースだけを飲んでいるのである。しかし一緒に連れて行ったメンバーには、高給ブランデーをふるまうのであった。これは何やら気前が良さそうだが、トマト・ジュースの客では店側が喜ばないので、経緯上、アルコールを飲むお供が必要なだけなのである。
私も何度かそのような店に連れていかれたが、当時、余り酒が好きでなかった私にとって決して楽しいものではなかった。
ただ酒をおごってくれた山崎氏には失礼だが、だいたい振る舞い酒はうまいものではない。
しかも主役はトマト・ジュースを飲んでいる山崎氏だけなのである。他の同席者は山崎氏の引き立て役でしかなかった。そればかりか、山崎氏の悪い癖として、山崎氏に侍るホステスたちを前に、連れて行ったメンバーを腐し、相対的に自分をさも偉そうに見せるのである。男として女性の前でバカにされることぐらいプライドを傷つけられることはない。それ故に福島弁護士などのように気概を持つ人々は、山崎氏に銀座に誘われることを極度に嫌った。私もその一人であった。岩住氏などは、山崎氏に連れていかれる時は、まるで屠殺場に連れ出される牛のような表情であった。のちに創価学会から刊行された山崎氏を攻撃した本に、私を取り上げて、『酒を飲ませて、山崎は浜中を懐柔した』旨が記してあったが、私はそれを読み、
『ふざけるな』
と思ったものであった」(同書P89-90)
以上、これまでの文献だけでも、山崎正友と池田大作との共通している点が、既に読者の皆様にもお分かりであろう。
池田大作は側近たちに対し、山崎正友も同様に下の立場の者たちに、規模や組織は異なるが、やっていることは金と権力の上での優越感を至上の価値として求めた、修羅界の行動群である。先述もしたが、これらは日蓮の精神とはかけ離れ、日蓮の言う「八風」におかされた哀れな姿であろう。
■ 月刊ペン事件の幕開け
これと同時期にあたる昭和51年は、月刊ペン事件が起こった年でもあった。
因縁の隈部大蔵が、月刊ペンで池田大作の女性関係をスキャンダラスに書いたのである。
これを創価学会が訴え、名誉棄損で逮捕した隈部大蔵の刑事裁判において、池田大作と山崎正友が、笹川良一・笹川陽平親子と組んで、裁判官、検事、弁護士を篭絡し、八百長裁判で言論封殺した。この「月刊ペン」事件の真相を、後に山崎正友自身が自著「月刊ペン事件 埋もれていた真実」(2001/4/30、第三書館)で、明らかにしている。
「池田大作が手を付けた女性は、とたんに”女王蜂”と化す。最高首脳すらうかつに扱えない。
聖教新聞の横松昭出版局長が熱海研修所に泊まった際、池田大作会長お気に入りの女子職員に布団を敷かせたことを聞いた池田大作は、横松昭を呼びつけ、
『貴様、何様だと思ってるのだ!』
と怒鳴りつけた。
池田大作の手が付いた女性はそれぞれ”女帝”としてふるまっていて、男たちには手が付けられなかったのである。とりわけ可愛がった本田章子にチョッカイをだそうとしたと疑われた秋谷栄之助(現会長)など、そのことで池田大作の逆鱗に触れ、四年近く干されて、ノイローゼ寸前までいった。
まさに”アンタッチャブル”の聖域にふみ込まなくてはならぬ仕事に、さすがの山崎正友も尻込みせざるを得なかった。
それに、このところ、首脳たちと山崎正友の間に微妙なわだかまりが生じていた。秋谷栄之助や公明党首脳を中心に、排除運動が起りつつあった。
池田、北条の側近にいてお目付け役的な役割を長年していれば、他の首脳たちにとっては煙たい存在にならざるをえない。まして、多くの手柄を立てて破格の取り立てを受けていれば、なおさらである。
折から、富士宮市の告発事件の処理、富士桜霊園のコーディネートをめぐり、地元公明党議員の不正と怠慢を明らかにし、指弾せざるを得なかったが、彼らは逆恨みして、山友こと山崎正友は地元の一部有力者と癒着して利権にありついている、と讒訴していた。
『弁護士は、山友だけじゃない。もっと名の通った、腕利きの弁護士がいくらでも使えますよ』
公明党からの進言に、秋谷らが動きはじめていた。
池田大作自身が危機を脱した今、山崎正友を煙たがりはじめている。その一方で、創価学会と池田大作の裏側を見過ぎた山崎正友には、組織内で出世しようという意欲は頭から失せていた。公明党議員になっても、池田大作のロボットとして動かされるだけだ。何より長年〝汚物処理係〟として働きすぎて疲れすぎていた。
尻拭いをすると、すぐにまた、新しく事件やスキャンダルのタレ流しを繰り返す池田大作に『もうたくさんだ』と愛想をつかしはじめていた。
そんななかで、やっかいな事件の処理に新たに手を染め火中の栗をひろうことは、はっきり言って、もはや御免こうむりたかった。
昭和五十一年度から山崎正友は、法律事務所に顔を出し、弁護士会の会務に積極的にかかわりはじめ、その反面、創価学会首脳としての仕事を大幅に、桐ケ谷、八尋といった後輩の弁護士や河上覃雄(現参議院議員)、岩住俊典(現副会長)らにゆだねはじめた。
そのころ知り合い、付き合うようになった笹川陽平氏(その後日本財団理事長)は、山崎正友に言った。
『うちのオヤジや池田さんのような人は、太陽みたいなもんや。あまり近づきすぎるとやけどする。離れすぎると、寒い思いをする。ちょうど、地球みたいに適当な距離でグルグルまわっているのが一番だよ』
少し近づきすぎたかも知れない。私みたいなプライドの高い、個性の強い人間には茶坊主みたいな仕え方は向かないからな、と山崎正友。
池田大作はそこを見抜いていて、
『他の幹部は皆、自尊心をへし折ってから使ったが、君の場合はそうしていないからな。もっとも、君の場合は、他の連中と同じようにしたら、能力を発揮できなくなるだろう……』と言った。
池田大作は、いっしょに温泉に入るようなとき、他の首脳には背中を流させたりするが、彼にはそういうことをさせなかった。
幹部たちとの会食のとき、池田大作の食卓だけは、特別豪華な皿が並ぶが、池田大作は一箸、二箸を付けると、それをお下げ渡し、居並ぶ幹部に回し食いをさせるのである。山崎正友は、こうしたとき、食べるふりをして、フカヒレやメロンには手を付けず皿を次へ回す。これを目ざとく見つけても、池田大作は怒らなかった。もっとも、
『どうだ、友さん、うまいか』
と、声をかけて、”ちゃんと見ているぞ”という牽制球を投げたが……。
そういう態度も、他の幹部にしてみれば、許しがたい我がまま、思い上がり、生意気さにみえたのかもしれない。
だがしかし、トラブルやもめごとの始末には不思議な才能を発揮し、造反者をいつの間にかまるめ込んでしまう。その手腕は誰にも真似ができなかった。首脳が万策尽きて投げ出した事件を、山崎正友はいくつも処理してきた実績があるから、露骨には排斥できない。
山崎正友は事件処理のあと、二度と同じようなことがおこらぬよう、いろいろと首脳に注文を付ける。もちろん、池田大作に対しても例外ではない。しかし、厳しい条件下では皆したがうが、状況が好転すると我がままが出はじめる。
『君がいると、俺はどうも窮屈だよ』
一言で言って、山崎正友はやる気をなくしていた。池田大作はじめ首脳も山崎正友への依存度をできるだけ下げようとしていた時期であった。
だが、その後事態は反対の方向に進む。否応なしに、山崎正友は『月刊ペン』事件に引き寄せられていく。」(前掲書P46-49)
以下は山崎正友の回想である。
「最初、山崎正友を創価学会本部に迎え入れ、自分の参謀役として、また北条理事長の脇役として本部機構の中心に置くに当たって、池田大作は山崎正友を一室に呼んで、こう言った。
『私は身も心も、戸田先生(二代会長)に捧げ、仕え切った。その功徳で、三代会長となった。『私が人を殺せと言ったら、お前はその人間を殺すのだ。それが師弟の道だ』と戸田先生に言われた。私はハイと返事し、その覚悟で仕えた。
私も、多くは言わん。この、創価学会の危急存亡の時に当たって、役に立つのは君だけだ。まさに”時に当たっての人”だ。どうだ。私が人を殺せと言ったら、君は殺せるか‼
山崎正友は一瞬、心臓が凍りついたような表情をしたが、一息置いて、
『はい、先生の命令ならそうします』
と答えた。
以来、山崎正友は、池田大作の絶対とも言える信頼のもとに、創価学会にふりかかる難事を身体を張って次々と処理してきた。もちろん、法律とか常識とかは頭から無視し、奇想天外な手法で、ただただ創価学会と池田大作会長のために”勝ち”を拾った。
創価学会では、世法に反しても仏法にかなえば成仏する、それが人生最大の価値である、と教えられる。
公明党候補支援のために選挙違反を犯しても、”英雄”とされるし、組織のために、どんな卑劣な手段を取ろうと勝ちさえすれば許された。
山崎正友はある意味でその創価学会至上主義を実践し池田大作の信を得てきたのである」(同書P66)
こうした中、池田大作自身が熱海研修所で出迎え手厚くもてなし要請した山崎正友を、当初は創価学会首脳たちが排除して、創価学会は公明党等を使って勝手に手を打った。
そして隈部を逮捕へ導いたまではうまくいっていた。
「あの、起訴前の三日間が、最後の勝負、仕上げのときだったんだ。
山崎正友は思い出していた。
和解といっても、それは、日和見でも臆病でもない。計算しつくした落としどころだったはずだ。そのために、警視庁を最大限動かして、これでもかこれでもかと隈部大蔵を追いつめていったのだ。
そして、ギリギリのところで必殺ワザをかけようとしたら、うしろから突き飛ばされたんだ。
そのとたん、絶好のチャンスは、絶体絶命のピンチに変わっていたのを、半年近くも気づかずにノー天気でいたのだから、救いようがない……。
山崎正友が黙った切りなので、北条浩は身を乗り出し、肩に手を掛けるようにして続けた。
『頼む。もう一度、池田先生をお守りするために力を貸してくれ。弟子として、池田先生を法廷に立たせるようなことがあったら、末代までの恥だ。一千万会員にも顔向けできない。君なら池田先生を守れるだろう。いや、できるのは君だけだ。君には、いやな思いをさせたが、反省している。もう我々はだまされない。
君の言うことは、いつも間違いなかった。君の言うとおり何でもするから、頼む‼ このとおり、謝るよ。すまん』
他人がいじりまわしてこじらせ切った事件を押しつけられることは、これまでも何度もあった。どうしようもないような状況になって、何とかしろと池田大作から球を投げられることも少なくなかった。そのこと自体、慣れっこになっている。
しかし、今回は、何分にも心が重かった。口もとまで、断りの言葉が出かかったが、それをのみ込ませた、この十年余の池田大作のもとで過ごした歴史だった。
山崎正友は京都大学の学生時代から、池田大作に特別に目をかけられた。池田大作がまだ若くてさっそうとしていた時代から、スキンシップされて育成された。
政治家や他宗の教祖を震え上がらせる迫力、首脳はじめ幹部たちを一声でひれ伏せさせる威力。そうした姿とうらはらに、物分かりの良い兄のように、やさしく鷹揚に接した。いっしょに風呂に入っても、背中を流させたりはしなかったし、
『君は、他の幹部と違って、自尊心をへし折って使うことをしなかったなあ』
と、みずから言うような待遇をした。
その池田大作が、絶体絶命の窮地にある……。
恥も外聞もなく、なりふり構わず、SOSを発してきたのである。
目の前で、必死になって口説いている北条浩の背後に池田大作の姿が浮かんだ。
もう二度とかかわるまいと思っていたのだが、いざとなるとノーと言えなかった…中略…
『頼む。何としても池田先生の出廷を阻止してくれ。友さん。このとおりだ』
北条浩は何度も頭を下げ、会議を終えた。
首脳たちも、帰りぎわ、口々に山崎正友に声を掛けていった。(同書P125)
この頃の山崎正友の様子は、浜中和道によると、以下の如くで、きわめて対照的である。
「そして山崎氏の事務所兼住居は、いつの間にか四谷のマンションから、東京の一等地・赤坂にあるホテル・ニュージャパンに移動していた…中略…
自動車もクラウンと同時に、スポーツタイプのベンツをいつの間にか購入していた。そして山崎氏のニュージャパンの事務所には、銀座のホステスや現役のトップ・モデルというような美女たちが頻繁に出入りするようになっていった。
また、創価学会とはまるっきり無関係な山崎氏の事業のために雇用した社員が、いつの間にかいたのであった。ホテル・ニュージャパンの事務所は、山崎氏が創価学会の顧問弁護士から実業家へ、事実上、転身したことを示すもので、山崎氏はそこを実業家としての城として位置づけていたようだった。
私はそのころになると、山崎氏と創価学会の関係がまるで理解できなくなっていた。なぜならば、相変わらずホテル・ニュージャパンの事務所には、創価学会関係者も自然な形で出入りしていたからである。そればかりでなく、山崎氏はやはり創価学会の中枢部でしか知り得ない情報を私に折に触れて話してくれるのであった。ある時には、山崎氏は、
『創価学会と手を切る』
と話し、ある時には、
『僕は創価学会と宗門がどうなるか見届ける義務がある』
などと、まったく一貫性がなくその発言のズレはひどいものがあった。
山崎氏の話では、相変わらず池田会長は登山する度に、
『もう本山に行くのは、これが最後だ』
と言っているらしかった。私もこれでは何がどうなっているのか、さっぱりわからなくなってしまっていた…中略…
その夏には、『破邪新聞』を発行しつづけることが立ち消えになってしまった…中略…山崎氏が言うには、
『破邪新聞』は、池田さんがもうやめろとストップをかけたんですよ。『破邪新聞』は猊下をたたえる内容ばかりなんで、あの人は気に食わないんですよ』
とのことであった。それは山崎氏が池田会長に総括された直後のことであった。私は仕方なく、そのことを正直に日達上人に申し上げた。すると日達上人は、
『なに、会長がそう言っているのか。それじゃ、もうワシのことは『破邪新聞』に載せなくていい。しかし新聞だけは作れ。その金はワシが出す』
と言われ、さらにその費用を尋ねられたので、
『だいたい一号、十五万円ぐらいです』
とお答え申し上げると、私名義の貯金通帳を大石寺の内事部で作り、毎月十五万円が振り込まれてきた。しかしその後、二号ほど出したきりで、『破邪新聞』は事実上廃刊となった。
昭和五十一年の暮れになると、岩住氏が池田会長の命令で、山崎氏の下を離れ創価学会の総務局へ帰っていった。妙信講という火種を残したまま、創価学会は妙信講問題から手を引いたのだった」(浜中和道回想録、P91-92)
こうして、翌月の、狂気の昭和52年元旦の池田大作の挨拶へとつながっていたのである。
ただ、月刊ペンの差し戻し審で、せっかく証人として出廷したにもかかわらず、隈部大蔵の書いた事実の真実性の完全な証明に失敗した原因の一つとして、この頃の山崎正友の生活ぶりや「虚実とりまぜた」という信頼性の欠如をあげてもいいと、私は因果応報な思いである。