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P44, 池田本仏、仇討ちズムの総体革命、教義逸脱

■ 広布第二章


 正本堂建立後、次の7年は、広布第二章と位置付けられた。
 この七年には、日蓮正宗僧侶とのイザコザが絶えす続き、教学問題がおこった(第一次教学問題)
 それは、昭和52路線となって、内外共に表面化する。
 そして、池田のスキャンダルが報道され、福島源次郎副会長の大牟田発言などが重なって、ついに昭和54年(1979年)、第七の鐘が鳴り終わる年に、池田は会長引退となる。


 池田大作の天下盗りの構想は、既に結婚前からあったことは述べたが、それを具体的に論じた資料として、溝口敦が自著「池田大作『創価王国』の野望」(1983/6/10、紀尾井書房、P22-)にて、自ら取材をとおして明らかにしているので、おさらいのためにその分析を見てみよう。
「三十八年に入ると、池田はいよいよ本性をあらわにする。彼は男子部総会の席で、
『私も恩師(戸田城聖)の七回忌…中略…を終えてこそ、今度は私の本門の活躍の時代であるといいことを知っていただきたいのであります』…中略…池田の時代が始まることを宣言した。
 おおよそこのころ、池田の権力は確立したとみられる…中略…
 同年七月十四日の学生部総会では『あと二十年で日本の広宣流布を実現する』と述べ、信仰上の永遠の目標であるべき広宣流布を現実次元に引き下げ…中略…彼は連戦連勝の戦績に酔い、将来を単純な足し算で量って、実際に『天下をとれる』と考えたのであり、とともに彼自身の天才を疑う心を失っていた」(同書P22)
 この池田の演説は拙論文でも取り上げたが、さらに指摘は続く。
「池田によれば広宣流布とは何より現実的、政治的な課題であった。教義から発するものでありながら信仰の質を問う視点はまるでなく、翌三十九年五月の第二十七回本部総会では以後七年間の目標として、①正本堂の建立、②六百万世帯の完遂、③創価文化会館の建設、④公政連の進出――を発表する」(同書P24)

 公明党は昭和39年11月の結党大会で、原島宏治委員長、辻武寿副委員長、北条浩書記長が任じられ、原島委員長その挨拶で、
「池田先生は、この公明党の生みの親であり、現在、偉大なるささえとなってくださっております。そして、われわれの将来をじっと見守ってくださっております」
 と、公明党は池田の指導下にあることを念押ししている。

「公明党こそは日本に君臨することを夢みた池田にとって、その夢を実現するための装置だった。三十六歳の若き池田は、党結成時には党首脳たちに自らを『国父』とよばせ、少し後には自筆の和歌『妙法の宝を胸に抱きしめて 君等戦え天下取るまで』を衆院の公明党控え室に飾らせるまでに、野放図すぎた夢を真剣に見たのである。
 池田はつづく昭和四十年には『聖教新聞』に法悟空の名による『人間革命』の連載を開始、そのなかで他の最高幹部を超絶する池田の神話を創作しながら、すでに日本国を呑む野望を一心に育んでいた。
 彼の野望は当時、五年後に建立を予定していた正本堂の持つ意味に関連する。二月に総本山大石寺で開かれた第一回の正本堂建設委員会の席上、法主・日達から正本堂が実質的な本の戒壇の建立と同じ意義を持つとの話があったとしたのである」(同書P25)

 これは原島崇の指摘(自著や彼がゴーストライターとなった池田大作著の「立正安国論講義」など)と一致する。

 「正本堂が本門の戒壇ということは信者にとっては重要な意味を持つ。そのときまでに広宣流布が達成されているはずだからだ。
 平均的な会員の理解は次のようになろうか。
『その時には、天皇陛下も創価学会員になっているはずだし、折伏の最終目標たる広宣流布も達成されている。さらに、王仏冥合も達成されて、公明党政権が樹立され、各地方自治体の長も、あらゆる社会機構の長も、すべて学会代表によって占められていなければならない。それだけではない。ありとあらゆる宗教団体は、すべて創価学会の傘下にはいって、その御神体、あるいは本尊に創価学会のマンダラが掲げられることになっている。そうしたことのすべてが、正本堂建立の年に実現される』(植村左内『これが創価学会だ』)…中略…(同書P26-27)
 これについても、この頃の多くの創価学会員の経験しているところで、先述した。

 その後の参院選で二名の落選者を出したが、池田は選挙の直後、七月度本部幹部会で、池広宣流布が達成されて天下を取った日を予想して、その権利を主張した。
 
「その時には不開門が開く。一義には、天皇という意味もありますが、再往は時の最高権力者であるとされています。すなわち、公明党がどんなに発展しようが、創価学会がどんなに発展しようが、時の法華講の総講頭であり、創価学会の会長がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。(大拍手)
 後々のために、いっておかないと、狂いを生じるからいうのです。私は謙虚な人間です。礼儀正しい人間です。同志を、先輩をたてきっていける人間です。そのため、かえってわからなくなってしまうことを心配するのです。そうなれば、こんどは皆さん方が不幸です。学会も不幸です。本山にも不祥事をしてしまう」(聖教新聞 1965/7/26)

 「池田は天皇にかわる現代の最高権力者は池田だという『方程式』を謙虚に表明したのである。
彼が最高権力者になる手段は池田政権の樹立だった。このとき、理事長・北条浩は『池田先生に、日本の指導者として立っていただく』と講演したし、一年前には『正しく戒壇建立の暁には、わが男子青年部の手によって内閣を結成して』(秋谷城栄、『大白蓮華』三十九年二月号)との言葉も吐かれていた。
 当時、半公表されていた政権樹立のスケジュールは、次のようなものであった。
『四十年中に三十五名を衆院選におくる……第二段階は四十四年の選挙に全区から一名ずつ立候補させ、百十八名を当選させる。ここで公明党は第二党になる。……四十四年から四十八年までに、百五十名から百七十名を進出させる。……第三段階は四十八年から五十二年までで、衆議院に二百名から二百三十名を確保する。各地方首長(知事、市長)選に立候補し、連立政権の条件をあきらかにする。第四段階は昭和五十二年以降、公明党の単独内閣が実現する。党員五百万名、学会員三千二百万名』(草柳大蔵『現代王国論』)
 スケジュールどおりだったならば、現在、すでに公明党単独内閣が樹立され、正信会僧侶や檀徒、池田創価学会批判の政党や評論家は根こそぎ弾圧しつくされていたかもしれない。だが、…中略…政権樹立構想はスタート段階から現実離れしたものだった。過去の会員世帯数の伸び率を将来に向けてひきうつしたものにすぎない」
 「しかし、会員は誰もが池田の、天皇にかわる最高権力者との発言を滑稽視しなかった。彼らは池田の指導によって、創価学会員が主人公の世の中になる、と程度の差こそあれ、考えていた。
五年前、彼が会長に就任してからの発展ぶりを振り返れば、順風満帆の進展であり、経験主義の立場でみるなら、確かに天下をとりかねないほどの勢いであった。池田はまだ三十七歳の若さであったが、会員からは、ほとんど超絶的な神として扱われていた。
『池田が四十年頃に札幌スポーツセンターの幹部会に出席した時は、会場中央通路に純白な布を敷き、壇上にはこれまた白布を掛けたひじ掛け椅子をしつらえて迎えた。地元幹部はおりたたみ椅子。池田はその時すでに本仏化していて、得意になっていたのだろう。
 そして彼が一夜、道本部で寝たフトンを払い下げると、会員が争って入札、五万円で落札し、その家の宝として奉っている〝純粋な会員″もいたのです』(『週刊サンケイ』五十五年十月二日、元会員からの投稿)
 この昭和四十年の十月には、正本堂建立の供養355億円をわずか四日間で集めたが、
「組織の収穫だったにもかかわらず、池田は彼自身の収穫と錯覚し、創価学会のなした成果によって、自らの偉大さを実証するという判断の誤りを犯した。彼は莫大な金を前に、ますます自己を中心として世界が動いているという錯覚を深めるのである」(溝口敦、同書)


 その後、池田の慢心は、宗門の僧侶や、日達上人へ向けられていく。
第66世日達上人は、池田が会長に就任した年に相承を受け就任し、池田を現在の在家の功労者として、多くの池田の著書にも功績をたたえる祝辞を出すなど最大限に応援していた。

「〝広宣流布〟とは〝日本乗っ取り〟なり
 供養集めの一月後、東京・品川の明光寺で開かれた正本堂建設委員会の席上、池田は法主・日達を中心に、彼と総監の席が同席に並べられていたこと、法主の席にはヒジ掛けがあって彼の席にはなかったことの二つで腹を立て、法主・日達の目の前で、妙光寺の住職でもあり、宗門の総監でもあった柿沼広澄をどなりつけ、委員会を流会させてしまう。
 五日後、柿沼は、任期満了を待たずに辞表を出し、富士学林長へと替えられ…中略…宗門は、十九日『法華講総講頭の待遇について』との院達を出すに至る。総講頭はいうまでもなく池田である。
『総講頭は仏法守護の統領として、僧俗こぞって尊敬すること。 1 法要の席は特に設ける。 2 行列の場合は、仏法守護のため先陣をなす。 3 法要以外の席は、猊下に並ぶ。 4 末寺へ来寺の通知があった場合は、住職は出迎えること。 5 その他のことは、これに準じて尊敬のまことを尽くして待遇すること』
 創価学会は日蓮正宗の信徒の団体であり、教義的には法主と信徒団体の会長が並ぶことなどあり得ようはずがないが、すべては時の勢いであった。法主と並ぶからには、他の僧は池田の下位に位置するのだと考えられ、院達は池田の増上慢をさらに固めていく方向へと作用する」(溝口敦、同書)


 池田は『王仏冥合』(政教一体)という日蓮正宗の教義を曲げ、次のように述べる。
「王仏冥合は私どもの大理念であり、大指針であります。一往は王といえば創価学会、仏といえば日蓮大聖人の大仏法ですが、再往は、創価学会の五百四十万世帯の結合、団結、これが仏であり、公明党等を先駆とした活動は王であります」(創価学会幹部史料「前進」1966/11)


 「つまり創価学会は日蓮正宗を外護するのではなく、むしろ同宗にかわって宗教的権威を一身に担い、公明党が政治的に天下を取ったときに〝冥合〟するとの宣言であり、〝池田本仏論〟のいいかえにすぎなかった。
 池田が五十四年四月に、宗門との軋轢のため、総講頭も会長も辞めざるをえなかった遠因はこのあたりに求められよう。池田の宗門軽視が進んで宗門無用視になったとき、法主・日達と呼応して若手僧侶が立ち上がったのであり、それが現在の正信覚醒運動となって池田創価学会批判を継続させるわけである。
 また、今、露呈されつつある創価学会の謀略の出発点もこのころに求められよう。ひっきょう謀略もまた池田の天下取りに貢献するものだったからである。日本国に君臨する日のために、池田神話を会外にも外延するため、出版妨害があったのであり、それと接して、池田創価学会の存続と拡張のため、また四十五年には断念せず単に目標達成期日を延期しただけにすぎなかった日本国獲得のために、謀略があったのである。広宣流布を宗教上の永遠の目標から、現実次元の課題にひきおろしたのが池田創価学会だから、結局、広宣流布とは日本乗取りと同義語である」(溝口敦、同書P33)


 1966年5月の本部総会で、池田は長期目標を明らかにする。
『昭和五十四年から十一年目の昭和六十五年……この年を目標にして、広宣流布の総仕上げにかかりたい。こう決意している…中略…一千五百万世帯になれば、いまの日本の世帯数は、二千四百万世帯ぐらいですから、ゆうに半分以上を占めることになります。そうなれば、釈尊の〝舎衛の三億〟の方程式は、事実上間違いなく、それ以上の結果になる』(聖教新聞 1966/5/4)

 「池田はここで早くも、さきにあげた政権獲得スケジュール表のゴールを十一年間、繰り延べにした…中略…
 延期に見合って池田は、その間を人材育成の期間にあてようとする。池田政権樹立時に各分野の要職を占める知的エリートの育成をひそかに目指したのである。七月、総本山大石寺で第九回の学生部総会が開かれ、池田はこのことをこう表現する。
『私は、学生部にもっと期待をかけています。ということは、この宗教革命ならびに政治革命、経済革命、文化革命等々、歴史始まって以来の無血大革命を断行しているのが私どもであります。その頭脳が、震源が、学生部であらねばならぬということであります。また最後の結論となるべき革命を、総仕上げしていくのが諸君であります。そのために、私は諸君を大事にするのです』(「聖教新聞」四十一年七月二十七日)
 このとき…中略…質的な充実策として国家試験対策委員会を発足させる。司法試験をはじめ、外交官試験、国家公務員上級職、公認会計士、税理士などの各試験に学生部員を合格させ、それぞれの分野に送りこみ、一朝事あれば創価学会政権に、はせ参じさせようとの深謀遠慮の作戦である。この池田の期待に忠誠を誓う意味で九月、学生部は『ザ・グレート・イーグル』との六百四十ページにも及ぶ大部の文集をひそかに発刊した。
 山崎正友はこの年四月、池田からの祝い金で事務所を借り、法律事務所をすでに開いており、学生部副部長として文集に一文を寄せてはいるが、より注目されるのは、共産党委員長・宮本顕治宅電話盗聴事件や妙信講盗聴事件に加担したといわれる法務省刑事局付検事・神崎武法(のちに辞職)、宇都宮地検検事・会田宣明かこれに寄稿していることである。
 神崎は『〝いざ鎌倉〟の精神で』と題し、同部副部長として、創価学会の本部職員の気持ちで仕事(公務)につくことを奨励する。
『『本部から派遣になっている気持ちで戦っていきなさい。刀折れ、矢つきたら、いつでも私の所へきなさい』との池田先生の激励を思いうかべて戦うのである。(略)
 池田先生は『どの世界でも同じだが、とくに仏法の世界においては〝いざ鎌倉〟というときに、はせ参じられる人が、真の人材であり、信者のなかの大信者なのである……〝いざ鎌倉〟というときには、自分が率先して学会を守り、学会を推進していくのだという幹部にならなければいけない。この心構えさえあれば、ふだんの行動に、自然とにじみ出てくるものである』と指導されている。
 われわれは〝いざ鎌倉〟の精神で戦うことを決意しようではないか』
 また会田は文集の中で、神奈川第二十一部長として昭和六十五年まで、池田のために働く決意を披露した…中略…
 彼らの池田創価学会に寄せる使命感は、出版妨害事件にも挫けず、その後の謀略事件にも加担していくことになったとみられるのだから、次回衆院選で福岡一区からの出馬を決めている神崎武法はなお池田のために〝いざ鎌倉〟の心境にあることを推測させる…中略…
 政界に公明党、官界に学生部出身のエリート、経済界に翌四十二年に発足する社長会、金剛会、教育界に創価学園と創価大学、言論界に言論部や文芸部、系列出版社、文化界に民音、民演など、池田は現実社会のあらゆる分野に創価学会の組織や人員を浸透させ、その分野を侵食して影響力を広げると同時に、広宣流布達成の暁には一挙に制圧して、全分野をもれなくおさえるつもりでいた」

「ここで一応、山崎師団のなした謀略にふれておきたい。今は創価学会の謀略性、社会的不正が問われているのであり、それは山崎正友の『恐喝』とすり替えられるような性質のものではないと考えられるからである。
 まず山崎師団は池田が公認し奨励した創価学会という組織の根源に由来する構造的な機関である。決して池田の気まぐれや道楽の産物ではない。国家の持つ全機能を前もって持とうとすることを一例とするような創価学会の『国家性』に発するものであり、国家の果す任務ならば殺人も合法化されるように、創価学会によって理論武装(正確には遮眼)された機関だからこそ、大量替え玉投票や電話盗聴など、日本国の国法を平然と犯してまで機能しえたのである。
 山崎師団の人員は数多いが、現在、山崎正友の告発によって事実を認め、謝罪しているのが冒頭に述べた梅沢十四夫や稲垣和雄ら外部機関員にとどまり、北林芳典や広野輝夫、竹岡誠治(いずれも学生部出身)らがシラを切り通しているのは〝創価学会国〟の人間か否かの相違からきていよう。
 また山崎師団が池田公認の恒常的組織だったことは、その経費、年間二千万から一億数千万円が北条、池田から出ていたことにも明らかである。そればかりではなく、外部機関員への謝礼支払いには創価学会そのものと解される本部連絡局の河上覃雄が当っていた。
 稲垣和夫には四十八年から五十五年五月まで定期的に謝礼が支払われていたという。
『創価学会は今まで私だけに五、六千万円の金を使っています。四十八年には毎月五十万円、七月と十二月にボーナスとして各一ヶ月分…中略…』
 稲垣は創対連の解散、日本宗教放送協会の買収、分裂組織『明日の佼成会を守る会』の旗揚げ、松本勝弥、保田妙本寺の盗聴などに辣腕をふるい、創価学会としては、月三十万円、ボーナスとして年二回各三十万円加算を、仕事がなくなった後も支払いつづけて損はないとの気持ちだったのであろう。
 河上に、稲垣に支払える金はなく、また支払う理由もなく、稲垣への金は創価学会から出ていたのであり、これによっても稲垣の所属する山崎師団が創価学会の遊軍的組織だったことは否定のしようがない。
 また山崎正友と山崎師団は池田の恥部隠しだけをしたのではない。諜報謀略機関が防御・防諜を行なうのは従であり、山崎師団の性格はむしろ攻撃的である。山崎正友自身が明らかにしているので、ここでは宮本宅電話盗聴事件などには触れないが、もっとも長期にわたって攻撃を加えつづけた妙信講への対策で例示しよう。

 妙信講に対するスパイ活動
 すでに創価学会は四十七年九月には同会系の興信所を使って妙信講幹部の行動や身元を洗い上げている。四十九年十月からは調査の範囲をさらに広げて再調査を行ない、尾行も併用する。一例として妙信講幹部K・Mに対する尾行調査報告を挙げる。
『実施月日 十一月一日(金曜日)…中略…』
こうした調査を積みあげ、創価学会は五十一年三月までに妙信講幹部クラス二千二百余名の名簿を完備するまでに至る。またこれに並行して四十九年八月ごろから妙信講内に三人のスパイを潜入させ、三人をM1、M2、M3と名づけた。うち二人は山崎師団とは別で(ただし山崎が統轄指揮)、学会内で〝文京グループ〟と呼ばれていた謀略組織のメンバーであり、対共産党、対新宗連などの謀略工作で経験を積んだ腕ききだったという。
 スパイの一人M3が妙信講側についた日蓮正宗の僧・松本日仁の寺、東京・墨田区の妙縁寺に入り込み、日仁と起居をともにしてスパイ活動をしたことはすでに公表されている。妙信講では『スパイの一人が沢崎和雄だということははっきりしていますが、あとの二人は確証がつかめない。間違ってはいけないことなので――』(同講総務・村岡長治)といっている。きわめて巧妙な潜入だったことを証明するわけだが、またそのころ、スパイとまぎらわしい人物が多数同講に接近して、誰がスパイだったか判然としないことも事実だろう。これらにより創価学会は妙信講の内情や集会での発言内容を逐一、即座に入手し、ここではふれるスペースがないが、待ち伏せによる暴行、傷害、広報車への損壊などの暴力行為を加えた。またそれとともに切り崩し部隊をも結成した。折伏類似の行為とはいえ、ケンカをも辞さぬところのアース隊と名づける精鋭部隊である(妙信講をゴキブリに見立てて、殺虫剤から命名したアース、ワイパーの両隊があった)。
『報告先・BOSS(注・山崎正友のこと)
 報告者・櫻井和夫 五十年二月八日
 ○M(注・妙信講)の攻撃について
…中略…
 イMを退転させ、寺院の所属がえをさせる
 ロMの行動(注・創価学会批判行動の意)はとらせなくする。(以下略)』
 この企画提案による妙信講攻撃はほぼすべてが実施に移された。これらによっても山崎師団のなした社会的不正が創価学会の体質に発する対外社会への攻撃だったことは明らかである。池田がどのように否定しようと、また、まだ創価学会に居残り、かくまわれる山崎師団員がどのようにシラを切ろうと、資料と証言が示す方向は同一である。

 池田が『つくり話や、謀り事ばかりで、なんとも思っていない』というのは簡単だが、実はその池田の『謀り事』を長期間、黒子となって担ってきたのが山崎正友である。池田に一切を認めさせ、すり替え工作を撤回することを求めるのは、ちょうど国家間の戦争で、まだ与えたダメージが十分でないのに降伏を求めるに等しく、成立しない話だが(また指摘して前非を悔いるような体質なら、最初から謀略活動はしまい)、少なくとも社会は池田にすり替えを許さないことはできるわけである」(溝口敦著「池田大作『創価王国』の野望」1983/6/10、紀尾井書房、P22-44)

 また、溝口敦も、言論出版妨害事件に対する謝罪演説が、言い逃れに過ぎなかったことを述べている(同書P59-60)
 「ところがこの池田発言が、その場しのぎのいい逃れにすぎなかったことは、今ではすっかり明らかになっている。学会員には政党支持の自由ばかりか、棄権の自由さえないことは天下周知の事実なのだ。
 しかも池田自身が最近は開き直って、こうもいいかえている。
『(公明党を)応援しなければ、マスコミが、竹入委員長と私は仲が悪いと書くでしょう。……やっぱり公明党の実績、信頼が社会に定着するまでには、まだ二十年は必要なんじゃないでしょうか。そのへんまでは、なんらかの形で応援してあげなければならない因縁だと思います』(「週刊朝日」五十六年三月二十七日号、池田インタビュー)

 これでは『社会の批判を受けるのも当然の理』ではないのか。学会員個々には善意の人が多いのは、取材に当たっての実感だが、池田を頂点に集団として動くとき、これほど信用ならない団体は皆無といっていいい。ことをなすに決して組める相手ではない。
 だから創共十年協定を結んで、発表したとたん創価学会に反故にされ、手ひどい打撃を受けた共産党の場合、相手を信用する方が悪いとさえいえる…中略…
 創価学会の政治進出は、その根幹をなす目標や支持母体の面ですでにして権謀術数的である。そのため実際の政治活動の面でも謀略的なのは当然かもしれない。
 公明党はその時々の都合で右に揺れ、左に揺れつづけた…中略…
もともと学会=公明党は体質的に右である。時に左に揺れるのは、自民批判票を吸収するためにほかならない。どちらにしても謀略的なわけで、要は学会=公明党とすれば、政権をとれればいい――政策などは二の次である。公明党について、今では〝大臣病〟とか〝閣僚予備軍政党〟とかいわれるが、それはなにがなんでも政権の一角に食いこみたいという熱望を表している。とにかく足場をつくって、その後、大量になだれ込もうという作戦である」


■『総体革命』、各分野に張り巡らされるエリート学会員

 次に行政、司法への浸透を見よう。これも原案者は二代会長の戸田城聖で、彼は例の『遺誡置文二十六箇条』の中でこう答えている。
『―― われわれが将来一番とりにくいところはどこですか
 先生(注・戸田のこと) 官庁だな。それには優秀な人を抜擢して先輩が自分より出世させ、出世した者がまた後輩を引きたててゆくしかないな。
 警察などの場合、警部補、部課長クラスを占めてしまえば強いものだ。将来、二万の青年が各官庁や会社の重要ポストを占めるようになれば、その仲間同志で何でもできる。だから青年に国家改革を頼む以外にないのだ』
 戸田のこの考えに基き、池田は若きエリートの養成に着手する。山崎正友は京大法学部在学中の昭和三十四年に学会に入信、三十九年には学会学生部出身第一号の弁護士になっているが、池田は山崎のような有資格者を大量に簇生させようと計画する。
 そのため池田は昭和三十八年に法学委員会を学生部に設置、山崎を初代委員長につけ、四十一年には国家試験対策委員会を発足させて司法試験をはじめ外交官試験、国家公務員試上級職、公認会計士、税理士などの各試験に学生部員を合格させ、それぞれ要衝のポストにつかせようとする。
 創価学会ではこれを『総体革命』といいならわしている。法学委員会は①法学研究会(司法試験グループ)②経済研究会(公認会計士、税理士試験グループ)③国家公務員研究会(国家公務員上級職試験グループ)④外交研究会(外交官試験グループ)――の四部門に分けられ、それぞれ会員受験生の掌握、指導、合格指導に当たっている。
 昭和五十一年時の累積勢力(合格して実地につく)は①弁護士三十三人、検事十八人、判事三人、修習生十六人、②公認会計士六人、同補二十七人、税理士十二人、③国家公務員上級職三十六人④外交官試験上級九人、中級八人、語研十八人で総合計百八十六人、また五十一年度の各グループ合格者見込みは各十人、計四十人とされている。
 おそらく現在(注、昭和58年当時)では約五百人がそれぞれ資格を得て実務についているはずである。この数字を多いと見るか少ないと見るかはともかくとして、着実に創価学会勢力が各分野に浸透していることは実感できる。
 昭和五十一年、学会顧問弁護士・桐ケ谷章の書いた『法学委員会の新体制について』と題する報告書には、次のように記されている。
『総体革命の中において各分野にどのように切り込んでいくか(例、民商、青法協等に対抗する組織の構築、官僚機構等に対する食いこみ、そのあり方等の検討等々)を検討していかなければならない段階にさしかかっている。
 さらに学会の諸活動に関する戦略ブレーンの本格的育成も重要な任務となってきている。……
 OB中心の組織は青年部又は社会本部所属とする(但し、余り表に出せない面があるので、特殊組織にする必要がある)。その主な役割は……(2)総体革命戦略の構築(各分野にどのように切り込んでいくか)(3)特殊問題に関する戦略ブレーンの育成(4)情報交換、情報提供……
 Ⅳ 今後の展望
 〇 合格者の増員 今後五年間で現在の倍、十年間で現在の四倍にすることを目標にする。

五年後(昭和五十六年)十年後(六十一年)
 弁護士 60     100
 検事  40     80
 判事  10     20
 修習生 30     50
〇 拠点の構築 現在、弁護士は東京中心に固まっているが、将来は各地方に拠点を構築していく。……検事は五年後には各都道府県に一人、十年後には二人位宛て配置できる人数になる。……国家公務員は各省庁に、外交官は各国に配置できるようにしていく』
 これを見て慄然とするのは、筆者ばかりではあるまい。彼らが権力を握れば、学会批判者や他宗教に対する憎悪の深さ、謀略性からいって、行政は不公正をきわめ、裁判は暗黒となり、人は故なく捕らえられよう。実に池田によって歪められた組織である。

 検察権力の中にも根を張る

 池田が山崎正友についで期待をつないだのは、五十七年三月に検事をやめ、福岡一区から衆院選に出馬する神崎武法に対してであった。神崎ら検事グループは『自然友の会』というカムフラージュ名を名のり、検事についた後もしばしば池田に接触している。池田は彼らに会うとき、つねに機嫌がよく、そのときの語録が数通残されている。
『今、私が衆議院なんかに出て、バンバンやれば、日本の国は大変なことになるだろうなあ。しかし、私は、そういうことはしない。私が戦ったのは、戸田先生の復しゅうのためだけだ。革命とは復しゅう戦だよ。……私の復しゅうは弟子たちがやるんだ。……(神崎さんに)君は将来検事総長になれるか? なれるのなら(これから勤行で)祈ってあげよう。今だかつて(ママ)病気の人なんかで僕の頭の中に入った人で祈って死んだ人は一人もいないんだ。これはひそかに自負している』(五十一年八月二十二日、自然友の会メンバーと)
 神崎が『〝いざ鎌倉〟の精神で』という文章を書き、創価学会の本部職員になった気持ちで仕事(公務)につくよう呼びかけたことはかなり有名な話である。最近、筆者は神崎を取材したが、彼は今なおそうした気持ちを残しているように見受けた。検察権力のなかにどっぷり身をひたして十四年間、池田への忠誠心を保ちつづけさせたというのはやはり並の組織ではない。
 また池田は昭和四十六年に、やはり創価学会のための人材養成を目的として東京・八王子に創価大学を設立している。現在の学部は経済、法、文、経営、教育で、学生は五千二百余名と多い。
 だが、同校は『池田先生を慕って』などの理由で五学部全部を受験する学生が多いため競争率は高いものの、学生間の学力のバラツキが多く、総体としての水準は低いという。そのため一流企業に学会員を送り込むという計画の実現ははかばかしくなく、五十七年度の同大四年生の就職先を見ても人気企業への就職は思わしくない」(同書P60-64)


 ここで、
『〝いざ鎌倉〟の精神』も、自分に奴隷の如く従わせようという池田の師弟不二の精神とされたが、さらに、
「私が戦ったのは、戸田先生の復しゅうのためだけだ。革命とは復しゅう戦だよ。」
「私の復しゅうは弟子たちがやるんだ。」
 以上の言葉にも、池田大作の仇討ちズムが明確に現れている。
 池田大作は、これ以外にも厳選された未来部の人材や創価学園の子どもたちにも「仇をうってくれ」などといっていたという。
 原島崇が聞いた内容は先述したが、多くの側近もこの仇討ちをいい、これが師弟不二であることを言っている。
 しかし、仏法には仇討ち思想は微塵もない。
 日蓮は、自身を迫害した平頼綱に仇をうてと、門下に指示した遺文は一言もない。
 日蓮は、逆に、真っ先に平頼綱を成仏に導こうと言っているのである。
 また、日蓮は、権力に食いこむこと、すなわち当時の鎌倉幕府に取り入ろうとしたことは、自身や門下も含めて、一切ないのである。
 池田大作の掲げる「総体革命」は、明らかに日蓮仏法に違背している姿である。



■教義も塗り替え、供養や財務も権力もほしいままにする


 拙論文の前ページにて、池田の矢野絢也公明党書記長に対する生々しい呪術的な数珠殴打をとり上げた。
 池田大作の元の宗旨は真言宗であり、この業をうけついでいるのか、数珠を使って病人の体をさする、打つ、しばくなど、呪術的なマジナイを平気で行い、自身の霊感やカリスマ性を平気で宣揚していた。
 しかし、これらは回りの者や社会に対する猜疑心と臆病の裏返しであったと考えられる。

 継命新聞編「崩壊する池田創価学会」1990/2/3 日新報道には、いくつかの例が挙げられている。
「未だかつて、病気の人なんかで、僕の頭の中に入った人で、祈って死んだ人は一人もいないんだ。これはひそかに自負している」(S51・8・22、内部文書)
 これは典型的なウソ・ハッタリである。

「これは、ここだけの話にしてほしいのだが、私のおふくろは81歳になるが、実は一度死んだんだ。葬式まんじゅうも用意し葬儀屋も手を打った。ちょう辞も全部用意した。私も久しぶりだったが足を運んだ。するとみんな泣いている。そこで私は初めて念珠を持って題目を唱えながら、もう死の寸前のおふくろの体じゅうをさすってあげた。足も全部冷たくなっていた。(略)すると、六月の末に死ぬのが、死ななくなってねぇー二〇〇〇個の葬式まんじゅうも腐っちゃったんだ。医者も、もう一度医学を初歩から始めるといっていた」(S51・8・22、内部文書)
 この文言について、医者の立場から言わせてもらうと、私が臨終をみとった患者はすでに千人をはるかに超えているが、場所がICUであれ一般病床であれ自宅であれ、患者の死亡時刻を正確に推定することは困難で、上記の様な例は日常でよくみられることである。そこには数珠や祈りがあろうとなかろうと、家族がそばにいようといまいと、全く関係がない。これを、非科学的な念珠によるマジナイに結びつけて宣揚するなんて、言語道断である。
「もう一度医学を初歩から始めるといっていた」ところの医者は、単に経験不足なだけであろう。

「吉田渉外、五時三十五分頃、貧血? 顔色真青にて汗をかく。題目を唱えながら、背を数珠でさすり、やがてタタミへ寝かせる」(S51・11、宗務院・学会記録文書)
 これをあげて、以下へ続く。
「貧血はしばらく安静にすれば自然に治るものだが、池田は渉外部長が意識を取り戻すや、『どうだ、オレがお数珠でさすってやったので治ったぞ』と自慢した…中略…池田の祈祷好きは事実として動かせないものとなった。
 もう一件は、昭和五十三年、本山妙蓮寺の漆畑日広師に行なわれた…中略…入院中の師を見舞った池田は、例によって数珠を使い気味悪くマジナイをしたという…中略…
この二件の僧侶に対する〝数珠さすり〟は、宗門を見下すための池田の示威行為でもあった。
在家信者の池田にとって、終生目の上のタンコブとなるのは僧侶である。池田の心理を思えば、僧侶を、それも宗務役僧や能化といった高僧を、いささかマヤカシではあるが祈祷によって治癒せしめるということは、この上ない愉悦であったのである」(同書P66-67)




 また、前ページにて、会員から「真心の」莫大な御供養を集め、それを自らの名聞名利・野望実現のために使った池田大作自身や創価学会について挙げたが、その後昭和46年7月27日の社長会で、
「正本堂の350億の半分を、私は猊下から頂きましたが、それも使わず、利息も使わずにやってきた。私もほんとにお人好しだ」(継命編集部編「社長会全記録」、1983/6/10、継命新聞社、P230)
と、その後の事実を本音で語っている。
 
 さらに同日には、
「水滸会の誰人も考えない事を、戸田先生のお考え通り、大聖人の通りに考えたのは私1人だ。誰人もいない。折伏の事も、又学会の運営も、私1人だった。
ほかの人もそれはやったし、その波動はあるが、戸田先生がおっしゃった事を知っているのも私、その先生の心を知っているのも私、その思っている一念までわかるのが私、これはどうする事も出来ない。それがなくて、きやすめにはなるが、指揮はとれない」(同書P229)
 と、自分一人のみが戸田の弟子であり日蓮の通りに考え、一人ですべての学会運営(いった不二である公明党も含む)を独占してきたことを宣揚している。
 また、
「大聖人様の時代には、命を長らえる御供養が大事だった。今、それに当たるのが経済だ」
 と、邪見を吐き、
「長期戦の、又しっかりした闘いをして行くには、こういう、ゆったりする事が大事だね。戸田先生は『大作、思索が大事だ』と云ったが、私は実践派だった。今になって云える事は、偉い人は、別荘が絶対必要で、又なまけている様でも、ゆっくり、勝手に考える事が大事だ」
 と、全国の会館の特別室(池田専用施設)を自分の別荘とみなしているのである。(いずれも同書P223)
 全国の会館は正本堂建立後、全国の会員から約600億円もの特別財務などを集めながら建て始めたものである。
特別室は、豪華な風呂、豪奢な設備などをそなえていたが、山崎正友等の指摘によれば、これを告発する民社党の国会質問書がリークしたときに、あわててそれをつぶして改装し、恩師記念館などにつくりかえられたという。
 このとき、戸田城聖が獄中に牛乳瓶のふたをひもでつないで数珠をつくり使用していたという言い伝え(獄内では、ひもは自殺や脱獄に使用される恐れがあり、元々もち込み・使用とも禁止のはずだったが)に基づいて、熱心な会員たちによって牛乳瓶のふたの数珠が作られて展示されていた。しかし、そこへ訪れた会員のなかには、牛乳瓶のふたの日付(昭和50年前後)を見て、信心がおかしくなったり退転者もでたという。
 

 かつて日蓮は、聖人御難事(御書P1189)にて
「日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」
《もし日蓮が末法に出現しなかったならば、仏は大妄語の人、多宝如来や十方の諸仏も大虚妄の証明である。仏滅後二千二百三十余年の間に、全世界で、仏の御言葉を助けた人は、ただ日蓮一人なのである》
 と、ご自身の地涌の菩薩としての大確信を示されたが、これを悪用してか、池田大作は、日蓮大聖人御書講義 撰時抄 第三 本抄の元意において、
「まず、わが創価学会の勇猛果敢なる折伏闘争は、竜樹・天親・天台・伝教は申すにおよばず、大聖人以後においても、だれひとり肩をならべるものはないのである。創価学会が出現しなかったならば、釈迦・多宝・十方の諸仏はもとより、日蓮大聖人までが大虚妄の仏となってしまう。仏滅後2910余年、全世界において、釈尊および日蓮大聖人の御言を助けたる人は、ただ創価学会のみである。過去・現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民は、始めは事なきようであっても、終に亡びないものはなかった。いま創価学会も、またかくのごとく、わが創価学会を軽賎する王臣万民は、ことごとく滅亡し、地獄へおちざるをえないのである」(池田大作著「日蓮大聖人御書十大部講義第六巻、撰時抄」1970/9/12第16刷、創価学会、P34)
 と、自分自身を頂点とする創価学会を仏化するために日蓮を悪用しているのである。
自身の仏法悪用=日寬アニミズムを反省することなく、このように、日蓮を超えるものと宣揚すること自体、大いなる増上慢であり、日蓮正宗の宗門から見れば教義の逸脱である。

 また、「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」(観心本尊抄、御書P253)や、「有徳王、覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」(三大秘法抄、御書P1022)をとりあげて、地涌の菩薩の広宣流布は「創価学会によって実践されている。賢王として、また有徳王として、兵馬弓箭の代わりに、選挙を通じ、文化活動を通じて、広宣流布の大道を前進してきたのである」
と述べて、明確に「選挙」と「文化活動」(これらは実質的にはほとんど名聞名利)を、広宣流布だとしているのである。
 このような主張は日蓮の遺文には全くない。
 また、先述してきた日蓮仏法の深意から見たら、ありえない。
 ここにも、生死一大事血脈抄をあげるまでもなく、日蓮仏法からの逸脱、血脈の断絶が明確に現れている。


 振り返れば、霊的存在が肉体や物体を支配するという精神観、霊魂観、また、大自然や大きな物体、神や仏、特定の人格などの様々な対象に、超自然的な霊的意義を設定し、これにおすがりする信仰は、アニミズムである。
これは、拙論文P11、P12でも述べたが、日寬が江戸時代当時の時代背景に流されて自宗の処世術のため、日蓮の本因妙思想を利用しながら師敵対の日蓮本仏論・板マンダラ本尊などのアニミズムを形成したことを述べた。
 池田大作の論述は、この日寬の論理形成も含めて、よく似ている。
 さらに、これより前、三鳥日秀が、日蓮の本因妙思想を展開して、自身を日蓮と同等かこれ以上とみなし、曼荼羅書写を行なっていたが、池田大作は、その論述が、これにそっくりであり、後に8体ほど板本尊の偽造をおこなっている。
 師弟不二が絶対的な日蓮仏法への唯一の道であり、また、創価学会が日蓮の遺命達成の唯一の存在であり、しかもそれを運営するのは自分一人であるという、池田大作のこれらの主張は、まさに自分自身を日蓮と肩を並べ同格におく存在とし、絶対化するアニミズムである。
 日蓮仏法は「依法不依人」であり、首題の南無妙法蓮華経はあくまで真理の「法則」である。
 これとは全く逆である依人不依法のアニミズムは、日蓮仏法の歴史全体の中で見たら、日寬のアニミズムだけでなく、当初は隠れ蓑になった師弟不二の論理を語る「池田大作アニミズム」(=池田本仏論)も、萌芽・出現していたのである。
 そして、池田大作創価学会は、日蓮の即身成仏・一生成仏の法や広宣流布を、明確に「選挙」と「文化活動」に置き換えて洗脳し、昭和時代の末まで多くの会員を集めたのであった。
 日蓮仏法の本因妙思想は、悪用されると本当に恐ろしい。


 その後の創立90周年を迎えた創価学会の興亡をみれば、末尾の「わが創価学会を軽賎する王臣万民は、ことごとく滅亡し、地獄へおちざるをえないのである」というのは、全くの虚構であり、そのような虚言も歴史が否定していることが明らかなのである。
 日蓮の遺文の悪用ぶりは、例をあげればきりがないが、この遺文に関しても、日蓮の元意は、その直前の文で
「而るに日蓮二十七年が間.弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪,文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未 九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし」
 とある通り、日蓮自身のたび重なる命に及ぶ法難を根拠として、地涌の菩薩としての自覚をしているのである。
 いったい、池田大作が、また彼が率いる創価学会会員が、日蓮と肩を並べられるような命に及ぶ法難を一度でも受けたというのか。
 もしそのように主張するのならば明らかに増上慢であり、修羅界である。
 池田大作は、牧口・戸田の投獄(牧口は殉教)の事実と、戸田の師弟関係及び戸田の遺言をでっち上げてその威光を借り、自分自身の正当性を王権神授説(注、溝口敦著「池田大作権力者の構造」)として宣揚した。
 大阪事件や言論出版妨害事件において臆病な醜態を見せ、側近たちが尻拭いしたのに、これを法難と宣揚した。また、その後の月刊ペン事件でも法廷出廷逃れのため、側近たちに警察権力などへの裏工作や背徳的謀略をかさねた。
これらのことは部分的には裁判記録にも残されているが、それを踏まえると、上記の文言はどのように総括すべきだろうか。
「創価学会は…中略…力強く王仏冥合の大前進を開始した。御本仏、日蓮大聖人はじめ三世諸仏の御歓び下さることは絶対なり」と「確信して止まない」(同書、P37)というが、確信することは自由勝手でも、日蓮大聖人はじめ三世諸仏が歓ぶことは絶対にないであろうことを、創価学会の歴史が証明しているのである。

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