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P42, 「師弟不二」という、池田大作への絶対的奉仕感情、王仏冥合から反戦平和へ転換

■ 謝罪演説を振り返って

 藤原行正は語る。
「左手にマイクを握った池田は壇上から開口一番、お得意のワザを決めて見せた。
『どうですか、わたしがヤメてよろしい、と思う人、手をあげてください!』
 重苦しい空気の場内はシーンと静まりかえったままだった。
『では、やめては困るという人、手をあげてください!』
『ハァーイ』と会場全体を揺るがすほどの大歓声が上がった。事件当時、一般会員の大半は事件の真相を知らされず、ただ『池田先生を信じろ』と徹底して教え込まれた。ある程度の事情を察した中堅幹部、本部の若手職員でさえ『池田先生を守るしかない』が合言葉だった。だから学会指導者として致命的な誤りを犯し、天下に正体を暴露したはずの創価学会三代会長はこの日、わずか数秒間で、言論出版妨害事件における自分の責任をすべて帳消しにしてもらえた。あとは調子に乗った池田の独演会であった。
『ボルテールの次の有名な言葉に、『私はおまえのいうことに反対だ。だが、おまえがそれをいう権利を、私は命にかけて守る』というのがあります。私はこれこそ言論の自由の根本だと思う』(ママ)
 この演説原稿を書いたのは原島崇だった。池田大作はそれをただ棒読みしただけ。その同じ壇上で池田は、
『いつの日か、関係者の方にお詫びしたい』
 殊勝げにこんな言葉を吐き、会場の学会員たちは自分たちの指導者の謙虚さに胸を熱くした。
しかし、これは心にもないウソだった。」(前掲書,P135)


 このときの会場の様子は拙論文でも先述したが、週刊文春1970年5月18日号,P28-31で
「『一口に言えば、今度の総会はマスコミ向けに演出された集会といっていいですヨ』
 と、来賓の一人が感想を洩らす。」
「『こんどはおワビしますよ。わたしは、正邪のハッキリしないのは大きらいです。
言論、出版問題のこと、ほんとにわたしは何も知らなかったんです…中略…
国会喚問にも、わたしは『応じる』といったのですが、幹部が『会長は何も知らないんだ。何も知らない人が出ては偽証になる』と、とどめるもんで、出られなかったんですよ』…中略…
『ずいぶんタタかれましたねェ。わたしは良いが、会員がかわいそうで……(とカオをおおう)…中略…いまのキモチとしては
『処女のお嬢さんが、輪姦されたあと、さらに蹴とばされているような気分だ』と女房にいいましたよ』…中略…
『言論妨害、言論妨害っていいますが、どこも大なり小なりやっているじゃないですか』
『しかし、こんどのことは『できるなら、藤原弘達さんにもお会いしてあやまりたい』
「…中略…ここにいたった原因については…中略…
『…中略…幹部にシュカンシ(主観士)が多いよ。(山崎氏に)
よオ、そうだろ!』
 ハッ、申しわけありません。
『理解していただく努力がたりなかった』
 ハッ、申しわけありません。
『そう、キミたちの責任だよ。独善だよ』
『いままでいってたんだよ。そういうこと。バカだけれども、わたしは誠実だけはつくしてきたんです』
『いまこそ転換期ですよ。シンシな態度『社会は仏法なんです。学会だけが仏法じゃいけません』
 
『政党をつくって、単独政権を目ざすというようなところに、さいしょのまちがいがありましたね。十五年前に地方選挙に出て以来、いろんな形で近代化のコロモをつけようとしてきたのがダメでした。現代に通用しない政治論が、よくも十五年間に通用してきた、ということですよ。〝批判拒否〟しなければつづきようがなかった。王仏冥合の理想をもつのは当然だが、それをどういう形で、どこまで内面化していくことができるか、そういう点の認識がなかったのが池田会長のミズでしたね』と、年来、主張しつづけてきた村上重良氏(宗教評論家)の指摘を、会長自身はまったく受け入れたかたち。
『…中略…いままでも学会は、前言を平気でひるがえしてきた。コトバだけじゃ信用できない。外圧論ではダメで、内在的原因を会員全てが認めるかどうかですヨ』
 と村上氏は今後をうらなう」


 ここで、「言論、出版問題のこと、ほんとにわたしは何も知らなかったんです」というのは、よくとぼけたものであろうが、この種の虚言の徹底ぶりは、この時に始まったことではない。
「池田入信神話」に関する拙論文でも、その経過や巧みさなどについて論じた。
 池田大作は、この釈明演説をした2日後の5月5日、その舌の乾かぬうちに、箱根研修所にて行われた社長会で、次のような発言をしている。
 「竹入に今まで以上に王仏冥合、政教一致でゆけ、と云おうか。」
 そして、この問題の根源であり、世間や学会に対する最大の加害者でもある池田が、
 「5月3日が終われば、山は過ぎた。5月3日は勝ちだな。」
 「私が神経を使わなかったら、学会はどうなっているか。」
 「今度は1人の犠牲で学会は守った。それで良いな。とにかく学会は守ったよ」
 といい、自分一人が犠牲になったと、被害者になっている。
 そしてさらにハッパをかけ、
 「何もかも一切終わったら、断然やろう。まず内部だな。やった人とやらない人とは断然と差がつくよ。」
 極めつけは、
「ざまあ見ろと云うには10年かかるな、でもやろうよ。」(「社長会全記録」,1983/6/10,継命新聞社,P153)
 と、仇討ち根性をむき出しにしている。


 とても日蓮の真実の教えを広める指導者とはいえようのない言動であろうが、この会では、謝罪演説の原稿を書いた原島崇も同席している。
 その原島も、以下を指摘している。
 「言論問題の責任をとって、池田先生が『関係者の方々にお詫びに行きたい』などというのも、やはり建て前であったことはその後の歴史が明確に物語っています。事実、その当時、逆に、私にすごい形相で、
『タカシ!(私の名前) いいか! 必ず仇をうて、いつか、この本は何だ!と本人の前にたたきつけるのだ』
と、それは恐ろしいけんまくで言うのでした。私は、
『ハイ!必ず先生の仇をうちます!』
と返事をし、必ず先生を苦しめた人間たちを先生の前にひれふさせてみせるという誓いを心に決めたのです。
 しかし、結局のところあの五月三日の発言は、一時撤退、ないしは迂回作戦にすぎなかったのです。報道関係者、文化人を多数呼び、公の席上発表したことも平気でホゴにしてしまうことが、はたして仏法の上でも、社会の上でも許されることなのでしょうか。」(原島崇著「池田先生への手紙」1980/8/24,晩聲社,P43-44)



■創価学会の体質改善の試み


 原島崇は、同書にて、それでも池田大作に期待して、
 「当時の私は、先生の講演がその真実の心をあらわしていると思い、これで学会は生まれ変わることができると喜んだのです。私は『朝日』、『読売』の記者の方に『創価学会にとってマイナスどころか、千載一隅のチャンスです。これを機会に新しい学会が生まれるのです』と語ったのでした(浅野秀満著『私の見た創価学会』二七七ページ参照)。」
 と書いている。

 事実、原島崇は桐村泰次とともに、当時池田大作のブレーンとなっていた特別書籍グループで、機関月刊誌『大白蓮華』のコラム欄にて、創価学会の体質改善のために訴えを始めた。

 その一例を以下にあげる。
 「古い考えをする人のなかには、こうした〝下からの盛り上がり〟というものに対して、偏狭な感情をもつ場合もあるかもしれない。しかし御本尊への信心と、学会を守る熱意と、広宣流布への情熱から出た声であるならば、最高に敬意も払い、意見の実現につとめるのが、幹部としての責任である。自分の意見を押しつけることしか知らぬ指導者は、新しい時代の人でもなければ、真の学会人でもないことを知るべきである。
 ただし、民主主義の根本は、権利には責任が伴うということにある。発言する権利の裏には、必ず実行への責任がなくてはなるまい。これを無視した〝民主主義〟は、名ばたり民主主義であってもその実は〝衆愚主義〟(こういう名称が成り立つかどうかは疑問だが)に他ならないであろう。真の民主主義の縮図が学会のあるべき姿であることを再確認して、皆の力で、新しい学会を見事に軌道にのせていこうではないか。
 なにごとにせよ、事の成否を決する、最大の要素は〝全員参加〟の意欲の有無である。これを大聖人は『異体同心』と説かれ、『異体同心なれば万事を成し同体異心なれば、諸事叶うことなし』(ママ)(異体同心事一四六三㌻)と申されたのである。命令主義で動く組織は〝同体異心〟である。一人一人が責任と自覚をもった組織は〝異体同心〟である。この〝全員参加〟の異体同心の学会を築いていくことが我々の使命ともいえよう。
 現代人の大部分は、人生の目標と生きがいを見失っているのが実情である。レジャーブームといいマイホーム主義と言っても、実体はそんなところにある。崇高な、しかも崩れることのない理想をもち、生命の奥から湧きあがる充実感をもって生き、動き、戦っていけるのが、妙法をたもった学会人の特質である。学会のこのすばらしさこそ必ず世の人々を覚醒せしめていくことを確信して進んでいきたいものである。(雪山居士)」(大白蓮華 1970/7)

 こうした中で、原島崇は、次のように述べている。
 「たとえば昭和四五年七月号では『学会の体質改善という問題をめぐって、会長の提案を受け、活発に議論が交わされている姿がみられる。下からの盛りあがる声こそ、学会の前進のエネルギーなのだ。議論のための議論や、批判のための批判に終わらせないよう、皆の力で、これを結実させていかなくてはならない。とくに幹部は賢明に舵をとり、有効に生かして、全員が納得し、さらに意欲をもやしていける体制へ導いていくことが望まれる。(中略)命令主義で動く組織は〝同体異心〟である。一人一人が責任と自覚をもった組織は〝異体同心〟である。この〝全員参加〟の異体同心の学会を築いていくことが我々の使命ともいえよう』
 ここに〝異体同心〟というのは、皆一人一人、体は異なり、境遇、立場、経歴ぜんぶが異なります。仏法は、みな同じ姿になれ、右へならへといったものではありません。すべての個性を生かしながら同心でなければならないということであります。この〝異体同心〟という言葉は、学会でもっともひんぱんに使われてきた用語でありますが、いつの間にかこの〝同心〟という言葉が、学会を守る、先生を守る、といった組織の論理や先生という〝人〟を中心とした団結の意味合いにすりかえられていったのでした。
 それはともかく、このコラムで言おうとしたことは、当時、社会から指摘されたごとく、対社会との問題というだけではなく会内的にもさらに厳しく存在していた事実への問題提起だったのです。つまり表面の装いは別としていまなお続いている批判拒否体質、〝知らしむべからず依らしむべし〟という旧態依然たる統治方式が、厳然と貫かれていたことを反省しようという前向きのものだったのですが、それは後に譲ることにいたします。
 また、翌月号(八月号)の『大白牛車』というコラム(九五ページ)には『文上、文底という言葉がある。釈尊の経文をそのまま読むのは、正像二千年までに既に利益がなくなり、末法は法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法の仏法によらなければならないということである。
この仏法本来の意義を離れて、学会の指導、とくに池田会長の話についてまで、文上と文底をたてわける者がいるとすれば、それは仏法の歪曲である。文底仏法に、そのまた文底があるわけはない』とあります。
 仏法用語があってわかりにくいでしょうが、要するに、池田先生の指導が、公の席上で行われたものは、建て前(文上)であり、本音(文底)は別にある、といった考え方を否定したものでした。
 ところが、その後の現実をみるとき、建て前と本音の区別がこれほどたくみに行われている団体もめずらしいのではないでしょうか。池田先生がいみじくも、よく『公の席上の話はセレモニーであり、こうして三人、四人で話をしているなかに、本当の仏法がある』と語っているように、どこまでも公の席上の話は〝建て前〟であり、〝本音〟は別なのです。こんなことに、文上、文底という日蓮正宗の法義の根本が使用されてきたということは悲しむべきことです。
(原島崇著「池田先生への手紙」1980/8/24,晩聲社,P41-43)



 以上、原島崇が指摘するように、池田大作の言動といい、著作といっても、徹頭徹尾、建て前と本音の区別がたくみに行われているのである。
 本音は、証拠が極力残らない様に口コミなどで工夫され、表面化しても言い逃れできるように、周囲の多くが取り繕うことになっている。
 そして、おおぜいにとっては都合が悪く隠蔽されているもののうち、ほんの一部の勇気ある無欲な真実の声だけが、造反者のレッテルを貼られながら、明らかにされてきているのである。




 話がそれるが、ここにおいて、文上・文底の解釈の概念こそ、非科学的であって、日寬アニミズムの典型であり、日蓮の遺文もこの部分は書き換えて解釈していかなければならないことはいうまでもない。
 そもそも、釈迦の諸説がみなその時点でも真実の一般法則に基づくものならば、時の経過(正像、末法という時)に影響されることはないはずである。
 例をあげてみれば、そんなことは簡単にわかる。
 足し算を例に挙げれば、1たす1は2である。
 これは大昔であっても時代の最先端であっても変わる事のない真実である。
 これについて、たとえば、末法になったら、足し算の効力が無くなって「1たす1は2である」が「1たす1は0である」というのならば、足し算の法則自体が、そもそも初めから間違っていたというべきであろう。
 それぞれの「1」を、釈迦仏法、修行とおきかえてみると、
{1}(釈迦仏法)に{1」(修行)を加えても「0」(効果がない)
といいかえることができるだろう。

 こんな論理が真理・真実といえるだろうか。
 個の例でも明らかなように、文上・文底などという解釈は、日蓮の時代になってからであって、文底というのは日蓮の独自の教義体系での新解釈であり意義付けなのである。
 釈迦仏法に、効力があるとか、救いがある等というのは、そもそもその教義なり呪文なりに、非科学的「霊力」をでっち上げ、自教団の我田引水に過ぎないことを、理性や科学の目できちんとわきまえなくてはならないだろう。



■池田大作への絶対的奉仕感情

 先の週刊文春で「こんどの問題は組織がひきおこしたものであって、会長の真意がどうであろうと、これを『迫害』と受けとる会員側のほうがモンダイ。」
『創価学会が政党を組織し、政権をとろうというのが間違いであり、現代に通用しないその政治論は〝批判拒否〟し続けなければ続きようがなかった。王仏冥合の理想をどのようにどこまで内面化していくかの認識がなかった、
そして学会は、前言を平気でひるがえしてきた。言葉だけじゃ信用できない。外圧論ではダメで、内在的原因を会員全てが認めるかどうかですヨ』
 と村上重良氏(宗教評論家)が指摘している。


 この謝罪講演にみられる、池田大作に対する圧倒的多数の会員の「感情」――この時代の多くの著作(批判者やシンパも含めて)にほぼ共通する指摘として、池田大作会長を絶対視する理論に加えて、この絶対的「感情」が、集団的な異常心理状態で衆愚となっている多くの悪体質の根源であることがわかる。

 多くの学会員の心を縛っているのは、日蓮が折伏の根拠とした仏法の正しい「法則」ではなくて、日寬アニミズムの板マンダラを確実な御利益をもたらす幸福製造機として有難いものとする教義とともに、いや、それ以上に、池田大作に対する個人的な熱狂的感情である。

 新田倫三氏は自著にて以下を述べている。
 「『第三文明の宗教』で高瀬広居は、池田会長にたいする会員の絶対的なあこがれと信頼のさまを描くくだりで、次のようにいう。
『池田先生ですか? なんというか、親のような、先生のような、ときには親しみやすい兄のような、すごい男性的魅力をもった方のような、ああ、なんといっていいかわかんないわ!』と歎息する女子部員のコトバは、会員の会長に対する、畏敬とも尊敬ともつかぬ絶対的感情をよく物語っている。
『池田先生は、現代社会での最高の方です』と老いたサラリーマンはいう。
『池田先生からお声をかけて頂くと、体がふるえてくるんです。どうしてだか、わかりません』と青年部の部隊長がいう。
体育大会などで、池田会長が手をふってグランドを一周するときの歓声と拍手はすさまじい。
女子部員などは眼に涙をうかべている。
 その光景は、終戦直後の天皇の地方巡幸にみられた民衆の姿と似ている。もちろん、ほとんどの会員は、会長に一度や二度しか接したことがない。しかし、
「池田先生と天皇陛と? くだらないこというんじゃないよ。あんた、自分の親と天皇とどっちが大事だい。池田先生は、全世界の民衆を救う大指導者だよ。天皇なんか問題になるかよ。なあ、みんな』
 そうだ、そうだと声があがった。東京の下町、江東区での座談会の席上のことである。
なんとおそるべき発言ではないか。このような発言は、数多い会員のなかにはたまには狂ったものがあるというものでは決してなく、この団体に流れている亡国的血脈の露頭であると断言しうるのである」(新田倫三著「創価学会 公明党の真相」1965/6/10、真世界社)



 私見では、一般的に、非科学的新興宗教では、教義にどんなに矛盾があるかを指摘しても、信者は動揺しない。
 創価学会においてもこれは同様である。

 池田大作や創価学会の人にたまたま出会って、病気がなおったり商売が繁昌したり事故から免れたなどの体験は、単なる偶然であっても、そこから醸成した理屈を超えた感情、心情が、彼らの絶対的な信仰を成り立たせている。
 会員にとっては、比較的理性的な人でも、教義やドグマは、むしろそういった感情を正当化するためのアクセサリーであるともいえる。
 そして、その手段でもあり目的でもある、醸成された池田大作への「感情」(熱情)は、戸田前会長没後から、古参には原島宏司、辻武寿などにはじまる多くの側近たちによって、創価学会組織維持拡大のために演出によって蓄積されてきたものである。
 この感情は、池田も戸田の威光を借りながら、池田大作一人に集中させて、演出されてきたと言える。




 以前にも、高瀬広居は、先述してきた藤原行正(後に造反)ら側近幹部たちと、池田大作のやりとりの一場面を、自著にて紹介している。
「『会長は、実につらい立場にいるんですね。大幹部だって最後は会長にまかせてしまえばいいという甘えがあります。それはいけないんですが、あまりにも会長がその広やかな心と偉大さをもっているからです。いつでしたか、会長と旅先で入浴したときです。そう会長が、三百万遍題目を決意したあとでしたね。私がじいっと湯槽の脇からみていると、会長は小さな声で題目をとなえていました。私たちは安心し、きっとのんびりしていたでしょう。それだけにハッとしました。会長にとってはそうした一刻一刻の間にも会員の幸せを祈っておられたのです』
 藤原行正理事は眼をうるませてそう語っていた。
 どうして、北条とか、秋谷とか、藤原といった大幹部が、会長の前で、心の緊張を抑えきれず率直に面にあらわすのか、その不可解さが解ける。
 『ちょっと御書を』そう会長がいえば、電撃にあったように御書をとってくる巨漢藤原理事。
 会長が頁をめくっていれば『私が探します』と手をさし出す彼。
 かつては同志的立場であったはずの二人が、会長と理事とにその学会人生をふみわけたとき、二人は師匠と弟子になる。
 心情的には理解できるが、合理的ではない。
が、それを偽らず自然になしうるものはなにか。
 宗教的権威者への従属とはいえない。
『師に仕える』という気持ちが自然にわいてくる、そうとしか考えられないものが、身内に 激情をこめて突きあげてくるのであろう…中略…
『池田先生が死ねといわれるなら、死にます。右翼が襲ってきたら、生命を賭して守ります。もちろん素手で』東大生はいう。
『池田先生は絶対間違ったことをなさらない』彼らは確信している。
『わたしの言葉が憲法になる』池田会長の声がよみがえる」
(高瀬広居著『第三文明の宗教』1962/12/20、弘文堂、P128-130、適宜改行した)

「二階の教室に会長が『やあお邪魔してごめんなさい』と入ったときだ。前から三番目にいた女子学生が、いまにも泣き出しそうな顔で『会長先生!』とつぶやいた。声も出ないらしい。会長が去ったあと、その多感な乙女は、大きく胸をふくらませ、両手でなでおろしながら、『うれしいなあ、うれしいなあ』と歌うように天井をみつめていた。
 若い人たちは、会長の柔軟な人格に傾倒しきっている。
『池田先生に身を守られていると思うと、いつも安心していられるんです』箱根の上空でステュワーデスがいった。」(高瀬広居著『第三文明の宗教』1962/12/20、弘文堂、P130-131)

 造反前の藤原行正の姿が対照的である。
 会員の池田大作への感情、熱情は、
「『師に仕える』という気持ちが自然にわいてくる、そうとしか考えられないもの」
という。
 それは、異性にとっては「劣情」にもなることもあるのだろう。


 そういった例は、側近の幹部にもあろう。
 池田大作の一番弟子となった原島崇も、自著にて、こう明かしている。
 「昭和三十五年五月三日に池田大作が第三代会長に就任しましたが、それを実質的に推進した人物は私の父でした…中略…いまから思えば、池田大作は草創期の大功労者であった父・原島宏治に取り入り、利用したに過ぎない…中略…
 私の父は理事長に就任し、池田大作は会長就任の翌日、父を自宅まで送って来て、私に厳粛な面持ちで新しくなったばかりの名刺を差し出し、
『会長の名刺を初めて君にあげる。私の弟子の第一号だ。私の側近No.1として活躍してもらいたい。弟子というものは、たとえ師匠が地獄の相で死んだとしても、疑わずについてくるのがまことの弟子だ。君にその決意があるか』と言いました。
 私は大感激で、元気よく『ハイ!』と答えました。これで『部員増加が一人できた』とも池田はつけ加えていました。
 私は、『この師匠に生涯をかけて尽くして行こう』との固い決意がみなぎっていました」
(原島崇著「絶望の淵より甦る」2007/4/2,日新報道、P121-122、適宜改行)


 「杉木立の間にこだまする学会歌。天をつくかちどきの声。
十五万達成の喜びの中で迎えた画期的な学生部登山会講習会の感激こそ、わが人生における、大いなる感激であった。
 ふつつか者の私たちを、もったいなくも弟子と呼んで下さり、戦いの指針を敢然と与えて下さった師匠のありがたさ!
 天下をとれ、広宣流布の最後の仕上げをせよと申された構想の偉大さ!
…中略…
 思えば、初登山のとき、病気と宿業に悩む自分はたしかに死んだのだ。そして、新しい自分が、池田先生のもと、広宣流布の一端に加えていただくべき使命をもった自分に生まれ、今ここに生きているのだ!
世界一の大師匠のもと、希望と確信に満ちた人生を生きているのだ!」(山崎正友著「懺悔の告発」1994/3/15,日新報道、P18-21)


 「昭和三十五年五月三日…中略…この日の第三代会長就任の総会に出席した奇しき宿縁をしみじみ思います。新たに就任した池田会長の姿に初めて接し、名状し難い感動を受けたのです。『この人が捜し求めていた師ではないのか。広宣流布の大指導者なのだ』という思いが体の内から湧き起こりました…中略…
『この方により広宣流布は実現できる』――多くの会員がそう思い、私もそう信じました…中略…
 池田会長は数々の魅力をもっていました…中略…恩師を常に語り、宣揚し、その教えを実践し、実現し、実証しようとする求道と報恩の姿は、私の胸を打たずにはおられませんでした。
 北條浩氏をはじめ大先輩達の語り教える会長像のすばらしさに、いよいよ尊敬と信頼の念は深まるばかりでした。あらゆる先輩幹部が指導することは、常に弟子の道のあり方でした。この偉大なる師に対して、弟子はいかにあるべきかを最大の課として取り組む日々でありました。
この頃本部職員の文集に私はこう綴りました。
『先生なき人生は暗黒である。先生なきわが人生は考えられない……」(福島源次郎著「蘇生への選択」1990/2/11、鷹書房、P25-27)



 以上、原島崇(元教学部長)、山崎正友(元顧問弁護士)、福島源次郎(元副会長)の例をあげた。
 それらを高瀬広居は、以下のように分析している。

 「『科学的理性』や『民主主義精神』は、学会の行動や哲理、文証、理証、現証について容認できず否定的である。
 たしかに現代の科学観にたつ限り、死相の問題や病気の奇蹟的恢復は信じ難いし、戦争体験の深い根は、軍隊的呼称をいささかも許さないであろう。だが、今日の学会の問題は、そうした領域に止まって批判されても、なんの意味もないところにきている。
 現証を非科学的といおうが、三百万世帯、六百万人が知識人もふくめて、そうしたことを容認している事実。軍隊的であろうと、組織が巨大なエネルギーと化している現実は、一体どう考えたらいいのか。
 大石寺には『お肉牙』とよぶ日蓮聖人の歯が、肉のついたまま保存されている。それを『拝見した幹部』の話では、『広宣流布が進み、学会員がふえるごとに、歯は水晶のごとく輝きをまし、肉はもりあがってくる』といっている。これなどは、『非科学的』なるものの最高かもしれない。
 けれども、そうした、さまざまの『不思議』が多数の人間になぜ信じられているのか。
 人間が科学を信用するのは、それが真理だからではなく、おのれの生活に、直接、現証としてあらわれるからに他ならないからである。学会とは、そうした科学観をもち、その根源を日蓮仏法に求める人々の集団なのである」(高瀬広居著『第三文明の宗教』1962/12/20、弘文堂、P237)

 この指摘は的確で重要である。
 創価学会会員にとって、日蓮仏法の「理証」「現証」とは、客観的な真理やそれに基づく結果ではない。

 「おのれの生活に、直接、現証としてあらわれるからに他ならない」と、思いこんでいる(洗脳されている)にすぎないことが重要なのである。
 個別に思えたすべての体験は、それが功徳であれ罰であれ、六百万人もの人がそれぞれあくまで個人的に「不思議な現証」に対して「科学的」と思いこんでいるに過ぎない、不合理なことなのである。
 「人間が科学を信用するのは、それが真理だからではなく」、不合理な感情によるものであり、それが時代背景とともに、巨大になっただけである。
 その不合理な感情は、日蓮の遺文が切り文として利用され、「師弟不二」という絶対的盲目的主従関係を肯定する理念によって正当化され、それが信念と化し、集団心理となったものである。

 こうした例は、なにも創価学会だけではない。
 歴史上でもっと大きくて、不合理な感情的思想集団のもたらした悲劇的な例は、ヒットラーの率いるナチス党をあげることができるだろう。

 この時代の会員は、今世紀に入ってかなり薄れてきてはいるものの、創価学会が貧乏人と病人の集まりと揶揄されていたことによる劣等感や批判・迫害を恐れてか、自分自身が学会員であることを会社や同僚や友人たちには隠しながら、折伏にしても仏法対話にしても一人ではなく集団で行動しながら、大会合では心地よい集団心理に浸っていた。
 また、御利益が得られたという満足感はあるものの、真の法則を実践しているという「法悦」に乏しい。
 批判に対してもまた、自らの頭で考えた理性的な論理ではなく、絶対的なもの(板マンダラの功徳や会長や幹部の指導など)への威信を根拠にしたこじつけであって、意識的無意識的にも、どこかしら理性的・科学的でないことに不安や良心の呵責などが根底にひそんで疼いているものである。
 自身の思索が乏しいから、頭ごなしに批判拒否となったり、都合の悪いことは皆ウソだと決めつけるしかない。

 創価学会組織では、「歓喜」と表現しているが、その実態は単なるアニミズム的感覚(――ここではマンダラとか、宇宙のリズムとか、池田会長とかの、しがない自分より大きな存在に、とにかく自分自身を投影したときの幻想的一体感覚――)にすぎない。
 私は、こういった特徴をとらえて、熱狂的会員たちのことを「池田大作ファン」と称している。
 真の法則を実践しているという「法悦」は、日蓮の説く「成仏」の感覚のひとつであるが、創価学会が説く御利益や実証や歓喜、また教学的には境智冥合と称しているものとは、根本的に異なるものである。

 こうした、学会員側の心理的な問題点については、後にも考察する予定である。





 池田大作は、5年後の著作「私の履歴書」1975/5/19,日本経済新聞社,P148-150では、この事件について、以下のように述べている。
「四十五年には、いわゆる言論問題が起きた。実は、その前年の暮れ、かなり強行スケジュールの旅をし、無理をしたこともあり、私は四十度を越える熱を出し、従来の結核と肺炎が結びついたかたちで、体力を減衰させてしまっていた。…中略…私は、事の真相が初めわからなかった。よくよくその本質を追求していったときに、これは創価学会の体質にかかわることであることを知った。そのことについては、四十年ごろから考え始めていて、なんとかしなくてはいけないと思っていたところであった。それが、極めて意外なところから噴出したわけである。 四十五年の四月ぐらいまで、全く熱が下がることはなかった。…中略…私は五月三日の第三十三回本部総会の席上、創価学会と公明党の政教分離の徹底、量より質への転換を示す数々の指針を示した。これが契機となって、創価学会は、強固な創価学会より強靭な創価学会へ転換していったことは、まぎれもない事実である。」

 これに対し藤原行正は、
「実に立派な作文である。一般会員はこの内容を頭から信じた。池田大作という男がいかに一般学会員を小バカにしているか。また、この書物が日本経済社から刊行されたものであることを考えれば、世間に対しても平気でウソをつける男であることがわかる。」(前掲書P140)
 と指摘している。

「池田大作が口にするこの手のウソは場当たり的なもので、すぐにほころびはじめる。たとえば政教分離を明確にした四十五年当時、池田が内輪の会合で逆に政教一致のホンネを吐いた発言記録がある」(前掲書P140)として、さらに以下をあげる。

「今度の事件で、とにかく日本中に浸透した。有名になった。本当は政教分離どころか、政教一致で私が指揮をとりたいよ。ほっておけない。竹入、矢野はよく頑張っている…中略…たいした妨害ではないよ。どこでもやっている事だよ。…中略…新聞記者はどんな時でも味方につけなければならない。」(第32回社長会 昭和45年2月27日、箱根研修所、社長会全記録 1983/6/10、「継命」編集部編、継命新聞社、P144)

「この発言日時は四十五年二月二十七日。先の逃避行のさなか、箱根研修所で開かれた『社長会』でのもので、この会合は学会幹部を兼ねる関連企業の経営者との会食会であった。
『私の履歴書によると事件の渦中、『四十度を越える熱を出し、従来の結核と肺炎が結びついたかたちで、体力を減衰させてしまっていた』はずの人間が実は学会幹部たちとごちそうを食べ、これだけの快気炎を吐いていたわけだ。
 さらに四十五年五月五日、この日は池田が大勢の学会員を前に『私が辞めていいですか』と思わせぶりな演技をやり、世間に向けては政教分離を発表した二日後である。ところが、この日の社長会ではこうウソぶいていた」(藤原行正、前掲書)
「竹入に今迄以上に王仏冥合、政教一致でゆけ、と云おうか」(第34回社長会 昭和45年5月5日、箱根研修所、社長会全記録 1983/6/10、「継命」編集部編、継命新聞社、P153)


 「わずか二日前に世間に非を認め、わざわざボルテールの有名な言葉まで引用して言論の自由を約束し、創価学会は政教分離すると宣言。社会に謝罪した池田大作のこれが偽らざるホンネであった。その謝罪は外部への見せかけのポーズにすぎなかった。」(藤原行正、前掲書P141)


「現に池田は四十五年以降さらに公明党支配の意欲を強め、その現実を覆い隠すためには学会幹部、公明党首脳など全員が社会へウソをつかざるを得なくなった。もちろん私もその一人である。
 その欺瞞的行為を繰り返すうちに、創価学会も公明党も本来の宗教的情熱が色褪せ、見せかけだけのタテマエ社会へ変貌した。なによりもタテマエを重視し、多少の論理矛盾はあっても表向きの装い、ポーズを取り繕えばいい。そんな悪しき池田大作流の体質が学会上層部に浸透していき、それに習って公明党も外向きの顔を懸命に繕う。すなわちポーズ政党になりはてたのである。」(藤原行正、前掲書P141)

「公明党を腐敗させた元凶
 言論出版事件ののち、創価学会と公明党は『政教分離』を世間に公表した。が、池田大作はその社会的約束を歯牙にもかけず『党首』の地位を降りようとしなかった。繰り返すが、公明党の腐敗はすべてこのウソからはじまったのである。
 つい最近、池田打倒の旗揚げをした私にやはり造反組の山崎正友学会元弁護士がある雑誌のコメントで次のようなエールを送ってきた。
『藤原さんは公明党結党以来二十二年にわたって中央執行委員をつとめたキャリアの持ち主だ。政教一致の学会と党の関係を暴露する材料には事欠かないはず……』
 この記事を見て私は困惑した。正直なところ、暴露もクソもない。創価学会と公明党は不即不離、百パーセント池田大作の意向どおりに動いているわけで、それを一つひとつあげつらっていったら切りがない。政教一致の実態がありすぎるため、外部の人達にわかりやすく説明するのが困難なのである。
 世間の人には奇異と感じられるかもしれないが、学会内部にいる人間にとっては池田の意向がすべてに優先する。これはあたりまえすぎる既成事実であって、そのことが問題視されること自体に首をかしげてしまう空気がある。たとえば対外的に公明党の重大な政策決定を発表するのは前は竹入前委員長、いまは矢野委員長だが、竹入にしろ矢野にしろ池田の操り人形にすぎない。
 学会内部、公明党内部ではそれは常識だ。党の代議士連中は竹入や矢野の提案を黙って聞きながら、その背後に池田大作の顔を思い浮かべている。だからだれ一人反対しないのである」((藤原行正、前掲書P142)




 「宇宙で人間を説明すれば気分は良いだろう」と、石田次男が指摘する如く、創価学会の会員は皆、こういった指導・激励を無疑白信し、会長池田大作に陶酔した。
 私もその一人だった。
 皆、会員たちは、自ら池田の手駒となって、奴隷となって、学会活動に汗を流し、時には血も流した。

 下記は、それを象徴するような、1971年7月8日の社長会での池田の言葉である。
「学会っ子は名前もいらない、カネもいらない、体もいらない。奴隷のように学会に仕えよ。それがご本尊様につかえる事だ」(「社長会全記録ー人間・池田大作の野望ー」「継命」編集部編、1983/6/10 継命新聞社、P222)
 この部分の解説が下記である。
「学会では池田に奴隷のように仕えることが「学会精神」とされた。その学会流理論が『無疑日信』(学会を絶対疑わないことーむろん、これは本来の意味とは異なる」(同書P226)

 更に、こんな言葉もある。
「風俗館の手伝いなんか、急ぐ雇わないで、幹部の女房連中が無料奉仕でいいじゃないか。うちはうちの生き方が一番いい」(同書P222)


 後に、池田の女性スキャンダル記事を隈部大蔵が月刊ペンで掲載した。
 それは、池田が手を付けたというよりも、
「私の証言を含めて考えていただければ、クロであることは当然のことです。しかし、私のように創価学会の女性幹部は自ら傷ついても事実を明らかにしようとしません。なぜなら、彼女たちは、池田会長に何かをされた、という感じよりも、池田会長に〝奉仕〟したという感じが強いからです」(「私は池田大作に二度奉仕した」寺田富子、週刊新潮 1984/7/12 新潮社 P41)
 のように、学会組織では、陶酔した婦人部や女子部員たちが、池田に、手駒となって、奴隷となって、自ら競い合って奉仕する雰囲気だったから、「イヤらしい」という声さえ聞くことはなかったという。


 つまりは、「師弟不二」とは、池田大作への絶対的奉仕感情を思想化したものである。


「池田の師弟論の根幹は、まず自らを絶対無謬の師匠という立場に置き、弟子である幹部や会員を無知暗愚の存在と規定することから始まる。
 池田は常に中心であり、本体であり、有知の人である。それに対して会員は〝末端〟などと呼ばれているように、枝葉であり、周辺であり、無知の人々である。つまり、上下の徹底した完全な差別の上に池田の師弟論は成り立っている。これは会員が、『われわれは『無知の者は此経を説く者に使われて功徳をうべし』のごとく、先生のもとで戦わせていただくこと自体に誇りと喜びをもって戦っていきたい」(前進S41・10)と、奴卑となって池田に仕えるという信条を吐露していることからもうかがえる」(継命新聞編「崩壊する池田創価学会」1990/2/3 日新報道 P72)



 ここで、師弟関係に悪用されたと考えられる日蓮の遺文がある。
 ひとつは、
「無智の者は此の経を説く者に使れて功徳をうべし」(松野殿御返事、御書P1383)
《仏法に無智な者は、この経を説く者に仕えることによって功徳を受けることができる》

 更には、
「若し爾らずんば 奴婢と為つて持者に奉えよ」(顕立正意抄、御書P537)
《もし、そうでなければ奴婢となって持者に仕えるべきである》


 最初の松野殿御返事の遺文は、前後を含めてみれば、師弟不二のような絶対的主従関係でないことは明らかである。通解しておく。
《法華経は、正しい仏が世に出現しなかったならば、仏の本意のままに説くことは難しい上、さらにこの経のいわれを問い尋ね、疑いを晴らしてよく信ずる者は稀であるといわれている。
 いかに身分の賤しい者であっても、少しでも自分より勝れて智慧のある人に対しては、この経のいわれを問い尋ねなさい。しかし、悪世の衆生は、我慢・偏執で名聞・名利に執着して、そんな人の弟子となるべきであろうか。もし、そんな人に仏法の教えを習うならば、人から軽蔑されるのではないだろうかと思って、常に悪念のままに、悪道に堕ちるであろうと、経文に説かれている。
 法師品には「ある人がいて、八十億劫の間、無量の宝物を尽して、仏に御供養申し上げる功徳よりも、法華経を説く僧侶に供養し、短い間でもこの経の法門を聴聞することがあれば、その人は、自ら、大きな利益、功徳を得ることができると、心から悦びなさい」と説かれている。
 仏法に無智な者は、この経を説く者に仕えることによって功徳を受けていくことができる。どのような悪鬼、畜生であっても、法華経の一偈一句を説く者に対しては「まさに、心から礼を尽くして遠くより出迎え、まさに仏を敬うようにしなさい」と、法華経の道理であるから、仏法を持った者は、仏に仕えるごとく、互いに尊敬しあうべきである。たとえば、法華経宝塔品の儀式のとき、多宝如来が半座を分けて釈迦仏を迎え、二仏が並座したように、たがいに尊敬しあわなければならない》

 次の、顕立正意抄の遺文も、同様に、絶対的盲目的服従を説いたものではないことが分かる。
《日蓮が弟子等もまた、この大難は免れがたいであろう。かの不軽菩薩を軽毀した人々は、生きている間に信伏随従したが、それまでの誹謗の罪が強かったので、まず阿鼻大城に堕ちて千劫の間、大苦悩を受けている。
 今、日蓮の弟子等も同じである。あるいは信じ、あるいは伏し、あるいは随い、あるいは従うが、ただ名だけで心に染め抜いていない信心薄い者は、たとえ千劫は経ずとも、あるいは一度は無間地獄に堕ち、あるいは二度、乃至、十度、百度、無間地獄に堕ちることは疑いないだろう。
 これを免ようと思うならば、各々、薬王菩薩のように臂を焼き、楽法梵志のように皮を剥ぎ、雪山童子のように身を投げ、心から(仏法のために)仕えるべきである。もし、そうでなければ、五体を地に投げ、徧身に汗を流すべきでる。もし、そうでなければ、珍宝を仏前に積むべきである。もし、そうでなければ奴婢となって持者に仕えるべきである。もし、そうでなければ等、四悉檀をもって時にかなった修行をすべきである。
 我が弟子らのなかにも、信心の薄い者は臨終のときに阿鼻地獄の相を現ずるだろう。そのときに日蓮を恨んではならない》


 つまり、どちらの遺文でも、仕える対象はあくまで「法」であって、「人」ではないのである。
 池田大作という「人」に仕えるのではなく、南無妙法蓮華経という「法」に仕えること、つまり、正しい法を修行することを教えている遺文なのである。
 まさに、依法不依人である。




 「以後、創価学会は、貧・病・争の言葉で表される社会の下層を取り込む戦闘的な折伏至上主義から知識人・学生をはじめとするリベラル層への浸透も狙った反戦平和を強調するソフト路線に大きく舵を切ることとなる。
 ここで物を言ったのが、初代会長である牧口の獄死というシンボリックな出来事だった」(高橋篤史著「創価学会秘史」2018/2/27、P277)

 牧口の獄死の原因は彼が反戦平和をとなえたことでなかったことは、高橋篤史がすでに指摘している。
 さらに彼は以下のように分析し述べている。
 毎年11月18日前後の聖教新聞の紙面では、1970年を境に様相が変わった。
牧口の『創価教育学体系』第一巻の発行と獄死した日が同一の11月18日であることを強調し、牧口の死は「反戦・平和を貫き通す」ため「軍国ファッショとの対決」をしたこととして、この日を創価学会の創立記念日とこじつけたように決めた。
戸田城聖の「原水爆を使用する者は悪魔だ」という講演も、牧口のこととともに、この時までほぼ10年間、聖教新聞にあまり取り扱われることがなかったが、この言論出版妨害事件以降、王仏冥合実現・国立戒壇建立を取り下げた代わりに、反戦平和団体を標榜・宣揚しはじめたのである。
 池田大作のカリスマ性は会長辞任を経ても高まり、その教線は海外へ拡大、宗門との対立激化の末、完全に袂を分かった。
そして、
「一方で、大物幹部のなかからは、叛旗を翻す者が相次いだ。長らく顧問弁護士を務めた山崎正友や、原島宏治の息子で教学部長を務めた原島崇、それに狸祭り事件で大きな役割を果たしていた龍年光や石田次男らである。創価学会の歴史は数々の裏切りに彩られたものでもあるが、宗門と決別し日蓮仏法から離れていくとともに、組織における揺るぎない中心思想となったのは、牧口、戸田、池田の三代会長の歩みを手本とする『師弟不二の精神』だった。弟子は決して裏切らずどこまでも師匠に付き従うという教えである」
と述べている。



 原島崇は、自著にて池田を諫言している。
 「後に池田先生は、あの言論問題を、『法難』としきりに言うようになりました。はたして『法難』といえるものだったのでしょうか。自らを絶対化するというのは仏法上誤りです。
 日蓮大聖人御書(御遺文集)に『仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるを何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か』(御書全集九ページ)とあります。
 仏法は、法に依って人に依らない(依法不依人)のであります。それが、先生を無謬化し、絶対化し、それを批判(いい意味での批判があることを学会は見失っていますが)することに対しては相手がだれであろうと、ありとあらゆる手段で圧力をかけたことは、仏法上、社会上、ともに許されることでしょうか。私には、いまあの言論問題は法難というより仏罰と思えてなりません。
 なぜ、十年も前のことを問題にするかといえば、これが過去のことではなく、現在もまた同じ轍をふみつづけているからであり、私は言論問題を法難としてかたづけ、いまもまた私たちの問題提起を法難とし、私たちを獅子身中の虫、反逆者、裏切者のレッテルをはって、問題をすりかえているからです…中略…
 長年教学部長の重鎮にありながら、池田先生という〝人〟の絶対化に手をかし、仏法の峻厳な法理を中心とする、つまり〝法〟を絶対とする精神を貫けなかった愚かな人間の告白の書として読んでください。…中略…
 なんでも『私がやったんです』『私はすごいだろう』『どうだ、私のようにはできないだろう』。まあ、それはありとあらゆる機会に『私』ばかりが出てきて、少しも自己を客観視したり自己省察したり、内省されている姿は見受けられません。…中略…
 しかし、仏法を誤れば『何にいみじき人なりとも御信用あるべからず』と大聖人が仰せのごとく、外見がどんなに立派でも、決して用いてはならないのです。『外には賢善をあらわし、内には貪嫉をいだく』人こそ、もっともまぎらわしい人であり、仏法の上からその実像を明確にしなくてはなりません。
 池田先生の『反省』とか『猛省』とかあるいは『誠実』とか『謙虚』などという言葉は、一時しのぎ言葉なのです。『反省』とか『誠実』という言葉は『ポーズ(姿勢)』ととるとよくわかり、『謙虚』という言葉は『傲慢』ととるとよくわかります。その立派な言葉の奥には、必ず〝何年後をみていろ〟という仇討ちの執念の火がむらむらとすさまじいばかりに燃えさかっているのです」(原島崇著「池田先生への手紙」1980/8/24,晩聲社,P44-47)

 20年近く、池田大作のブレーンとして、池田を支える忠実な弟子であり続け、創価学会の組織維持に心底から貢献し続けた原島崇の、大いなる勇気ある諫言である。
 間近で観察してきた池田大作の虚像と真実像の描写、そして、創価学会という組織像が、この書の全編にわたってありありと描かれている。
 いつまでたってもどこまで行っても、ウソはウソ、真実は真実であり、池田大作が本音でいうところの「ウソを百遍言ったら真実になる」ことは、科学的には絶対にない。
 ウソは隠蔽されても、誰かがどこかで必ず明らかにするものである。


 だから、真実に勝る価値はない。
 これが、仏法でも説かれている、厳然とした因果の理法なのである。
 ウソをついたこと、ウソに従って人を欺いたこと、ウソを暴き懺悔した事等々、こういったそれぞれ自身の宿業は、生生世世、未来永劫にわたって、自身が宿業として背負っていく事になるのである。


 池田大作は、会長就任時に、持論である「七つの鐘構想」をもちだしていた。
 昭和5年11月18日を創立とし、7年を節目に鐘が鳴り、戸田の21回忌にあたる昭和54年に第七の鐘が鳴る。このとき一閻浮提(全世界)広宣流布が達成される予定だから、それまで死力を尽くして頑張れと。
 これにより、創価学会員は、壮大な夢を見ていた、いや、その時まではそんな夢も夢ではないと思えるほど、名目上は飛躍的な組織拡大をしていたといえるだろう。

 そして、次第に池田大作を現代の本仏とし、それを広め、実質的にはその組織の拡大こそが広宣流布とされていった。
 池田大作という英雄的虚像が、厳しい現実に直面していた会員にとっては、自らの理想の投影となり、その思想『師弟不二の精神』が自らの理念に置き換わっていた。
 だからこそ、その指導や、一挙一動が注目され模範とされたのである。

 しかし、それは「非科学的」であり、真の日蓮仏法とはかけ離れたものだった。

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