ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P38, 野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件
前ページから更に続いて、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討を、「新・人間革命」での描写も併せて行った。
■学会と公明党の関係(P19-30、「池田大作と宮沢賢治」P316-322)
記念講演では学会と公明党の関係は、創価学会は宗教団体、公明党は政治団体であり、明確に政教分離の出発を目指しておいた。
昭和四十年七月での「宗教政党」という理念では「理念は一体であるが、体制・機能においては別である。誤解を受けたが学会と公明党が「一体不二」とは理念・理想が同じであるという意味であって、体制・機能も「一体不二」ではない。
公明党ビジョンでも学会員一人一人の政党支持は自由と明言した。創価学会は信仰・布教に専念し、公明党は公党として大衆福祉の為に戦事が、池田の一貫した願いであったとした。 公明党誕生の母体は、創価学会であり、母と子の関係とみられたが、公明党は第三党になって立派なおとなである。学会が面倒をみるのは不合理で、社会の批判をうけるのも当然である。理事会で決定したが、あくまで制度は明確に分離していくとの原則を皆さん方の賛成をいただきたいと呼びかけ、会場の賛成挙手を受けた。
さらに 以後、党の票や議員数が減っても世論や本来のあり方であるならば当然。具体的には、当分は重複するが、学会役職兼任議員は学会の役職をはずし、二、三年で安定をみる方向にする。
学会は、公明党の支持団体であり、当然、学会員の個人個人の政党支持は、従来通り自由である。学会は宗教団体であって、会員の政党支持に全く干渉しない。
すなわち支持政党やイデオロギーによらず「全くなんの差別もなく、平等に包容されるべき」としながら、「学会内部を撹乱し、人々の信仰を濁らせ、組織を破壊する行為は、許されない」「信仰の純粋性、美しい和合僧の団結は、どこまでも守らなければならない。これを乱す行為に対しては、除名などの措置をとるのもやむをえない」とした。公明党は党組織を確立し、選挙活動は党組織の仕事として、明確に立て分けて行う。創価学会も支持団体として従来通り地域ごとの応援は当然していきたい。学会の内外を問わず、党員を幅広く集めて基盤をつくることをと公明党に要望した。
このように創価学会と公明党の分離を提案し、会場から全員挙手を得た。
なお、公明党は民衆から賞賛される確固たる中道政治を願い、党の問題は、人事・政策等の問題は、全く党の自主的決定によるとした。 池田自身は、生涯、宗教人として生き抜き、政界には出ないとした。
「新・人間革命」第14巻P301-304 には、この部分に相当するところは、すなわち学会は支持団体として、党を支援するが、組織的には双方を明確に分離するとし、以下も概ね記念講演に沿った内容である。 続いて「『やがて山本会長は、自らも政界に出て、首相になり、権力を手にするつもりである』といった噂が流されていた。それを実現するために、創価学会が公明党を誕生させたかのような印象をいだかせるための、デマといってよい。もとより伸一には、そんな考えは毛頭なかったし、それは、これまでにも、折に触れて、語ってきたことであった。
しかし、謀略的な噂を打ち破るために、再度、その考えを明らかにしたのである」
と記載されている。
ところで、謝罪講演で、このときの公明党にたいして創価学会は支持母体でなく、支持「団体」となっていることが欺瞞である。
公明党が創価学会と一体不二でなかったとすれば、公明党は創価学会以外にも有力な支持団体があったというのだろうか。
現在においても、あるというのだろうか。
現在の公明党の票取りの実態は、ほぼすべてが創価学会員の活動によるものとみなしてもよい。
であるならば、公明党は、いまだに票取りを母体である創価学会組織がほとんど丸かかえしているのであるから、この謝罪演説でいえば、生みの母体である創価学会は愚かな母親、公明党は、いまだに乳離れもしていない巨体の乳児ということになるであろう。
公明党こそ、池田大作アニミズムの立場にたってみれば、広宣流布が達成され切った組織であるといえる。
その組織が、結党以来、さまざまな不祥事を繰り返しているのも事実であり、田代富士男の砂利船汚辱、最近ではコロナ禍、緊急事態宣言中の深夜、東京銀座のクラブで飲んでいた遠山清彦は、記憶に新しい。
「新・人間革命」においては、美辞麗句でうまくまとめられているように見える。
池田大作の野望は、制度上のみの政教分離で、一時躓いたが、メンタルも含めた事実上では、政教分離は、歴史をみてもほとんど守られていないことがわかる。
たとえば、山崎正友著「続・「月刊ペン事件」法廷に立った池田大作」2001/07/30,第三書館 P200には、法廷でのやり取りが述べられている。
これによると「池田大作は、自分の妾を国会議員にした」について弁護人が、公明党の国会議員候補の決定のプロセスを質問したが、証人で当事者の元議員だった渡部通子は、「当時は政教分離していなかったが、選挙の理事会あたりで推薦していただき、各部の執行部でも了解し、党の機関にはかられて決定した」と証言した。
原島崇は傍聴席で「学会員が聞いたら面喰うだろうな」とあきれかえった。
すなわち、国会議員の候補者は、池田大作の鶴の一声で決まることをすべての学会幹部は知っている。
理事会では一度も討議がなく、池田大作自ら発表するのであって、「理事会で公明党の候補者を決めた」などという記事は一行もない。後に竹入義勝委員長が「人事権は、私たちにはなかった」と、朝日新聞に回顧録を連載し、大橋敏雄(衆議院議員)、藤原行正、竜年光(都議会議員)らが皆、「池田大作の鶴の一声で決められる」と証言した。〝政教分離〟を建前としながら一向に変わらず政教一致である。平成十三年の段階で、再度渡部通子の証言をやり直したら、渡部通子は、間違いなく〝偽証罪〟であろう。昭和五十七年九月という時期では、それを直接にあばく手段を弁護団は持ち合わせていなかったとし、
「その場しのぎでうそ八百を言い、あとでバレても知らぬふりをする。池田大作流の〝たぶらかし術〟を、通子は忠実に実行したまでのことである」
と述べられている如くである。
なお、「新・人間革命」では、上記のあと、公明党議員の一人が、信心という面で、どう考えたらいいのかのとの質問に対しての答えがある。
「皆さんは、学会の役職を外れ、党務に専念することになりますが、民衆の幸福、世界の平和を願う心は一緒です。〝民衆を幸せにしよう。民集のために働こう〟という心が、学会精神です。この一点だけは、永遠に一緒でなければならない。
また、仏法から発した人間主義という理念を、政治の場で実践していく使命を担っているのが皆さんです。それだけに、その根本となる信心を磨き抜き、深めていくことが極めて重要になる…中略…
一信仰者として、どこまで、求道心を燃やして法を求め抜くか。自身の仏道修行として何をやるのか――これが最も大事になります。
他人の目はごまかすことはできても、自分をごまかすことはできない。また、生命の因果の理法は厳然です。誰人たりとも、そこから免れることはできない。どうか、議員の皆さんは、自分に負けることなく、信仰者として、どこまでも、清らかな信心を貫き通していってください。それが自身の崩れざる幸福を築く、唯一の道です」
と、答えている。
この事件の後も、公明党が結局、メンタルにおいては実質的に政教一致のまま現在まで続いていることは、多くの識者や造反者が明らかにしているところである。
その根本的な事は、後述する池田大作の野望が、この事件でも潰えることなくつづいていることとともに、信仰そのものが、上記の答えのように純粋に求めれば求めるほど池田本仏論につながっていることとなっているためである。
つまり、公明党議員のメンタルが、池田大作を頂点の師匠と仰ぐこと、つまり「師弟不二」になっていて、それが純粋な信仰であるとされている以上、どんなに美辞麗句をかさねて建前上の制度をととのえても、結局は公明党は創価学会と一体不二である状態は、永遠に変わらない。
まさに、他人は誤魔化せても、自分は誤魔化せないのである。
宗教的信念を、国会の論議の場で根本とすることは、いかに取り繕うとも、本来の政教分離に反する。
国会議員は、宗教の理念ではなく、現憲法の理念を根本とすべきだからである。
国法よりも仏法律を選択するときは、国法と仏法律とが合一している場合は良いが、相反しているときは、必然的に彼らは国法を捻じ曲げていくことになるからである。
そして、後述すること、すなわち池田大作が国家権力を握ろうとする野望がある以上、その手駒として、公明党議員がアングラで利用されることも当然にありうるからである。
このように、演説内容は制度という形だけの政教分離であったことは明らかで、多くの識者は、これを見抜いていたようであるが、建前が実現されるのを様子観察するしかなかったのであろう。
■池田大作「天下取りの野望」
この事件の40年後に書かれた「新・人間革命」において、先述したが、池田が首相になり権力を手にするつもりは毛頭なかったことを、策謀的噂を打ち消す意味で明らかにしたとあるが、それは全くのウソ偽り、捏造であり、都合よく過去の歴史を書き換えていることは、以下にあげる自ら語っていた野望や独善的文言や、文献、その他の人たちの数々の著作によっても明らかである。
まず第一に、戸田時代、池田大作は24歳で白木かねと結婚したが、その婚約を報じた昭和27年3月10日付の聖教新聞に、
「同君は常に言う『天下を取ろう』と、大志努力の人池田大作君御目出度う」
とある。
天下盗りは、池田大作の大志であった。
それは、仏法者としてあるまじきもの、そして、自ら直結と言い張る日蓮の姿勢とは正反対のものであった。
それ以降も、これにつながる一部の事件を、拙論文でも取り上げてきた。
池田大作は、昭和38年7月1日、台東体育館、男子部幹部会の席上、15000名を前にして、今度は私の本門の活躍の時代と述べ、政治家や指導者たちが自己中心的で責任感がなく選挙民や大衆を見下していて、腐りきった保守党(註、自民党のこと)と共鳴したりだまされるわけでもないと述べた。(池田大作著「会長講演集」第九巻、1964/3/16、創価学会、P296-300)
自分の「本門の時代」という宣言は、戸田と入れ替わった自分が「師匠」であり、創価学会の最高権力者であることを実質的に宣言したものと言える。
この講演の中で、渡部君が出てくるが、彼は、先述した渡部一郎氏のことであろう。
渡部講演は先述したが、その師の池田大作も、師匠自ら、批判者や対立する者たちにこのような「低劣な中傷を投げつけたものであった」ようだ。
池田大作が、自分の「本門の時代」といった目的と、その後の流れは、継命新聞編「崩壊する池田創価学会」1990/2/3 日新報道,P60-62によれば、池田は戸田の権威を利用して自身の地位を強化し、「本門の時代」や「広布第二章」などの言葉で会員を扇動し、自身の独裁を強化した。また、「人間革命」を代作させ、会員必読の書とし、自身の思想を会員を洗脳するために利用した。彼は「立正安国論講義」で、日蓮の立宗宣言は三十二歳の時で、池田の会長就任は三十二歳の時、また立正安国論は日蓮が三十八歳、この講義録は池田が三十八歳(和泉覚、前進S41・5)などと、自身が本仏の再誕であることを示唆し、公明党の勝利を広宣流布の実現と位置づけ、会員の宗教的情熱を政権獲得のための権力闘争へ利用した。
池田大作が日蓮の再誕として神格化され、小説「人間革命」が聖典とされて、藤原弘達が指摘した通りに、創価学会が発展していたことがうかがわれる。
昭和38年7月30日、長野市民会館での中部第二本部幹部会で7000名を前にして、池田大作は、正直者がバカをみる世の中で、ろくな指導者、政治家がいない、人非人のような存在が多いこの時代に日蓮の使い・弟子として戦っているとし、
「だれびとからも一銭ももらわず、悪口雑言されながら、牧口先生以来今日まで三十年間のあいだ戦い抜いております」と述べ、時代は政治家は勲章をもらい金をとり、また有名人は利己主義で名を売り金をもうけする、めちゃくちゃな世界であるが、日蓮の「愚人にほめられるのは第一の恥なり」、戸田の「大聖にほめられるは一生の名誉と思って戦え」を挙げて、
「私ども創価学会員は、位もいらない名前もいらない、有名でなくてもよい、大臣もいらない、また権力もいらない。私どもは、大御本尊様をだきしめ『日蓮大聖人様が見てくださっている』と確信していきましょう」
といっている。
今の創価学会が、本来見習うべき指導がここにあるではないか…といえば、皮肉にちがいない。
八風におかされない仏法者としての姿勢、日蓮の姿勢が「位もいらない名前もいらない、有名でなくてもよい、大臣もいらない、また権力もいらない」に、あらわれているからである。
池田大作は、社長会(金剛会)で、これと全く正反対の本音を少なからず吐いている。
そして、現在、池田大作は、ばく大なカネ、多くの権力や名誉称号、多くの施設を集めてきた自身の姿が、これと全く正反対であることを、現証として示しているのである。
自身のいう、仏法は勝負であるなら、仏法者と正反対の現証は、地獄に落ちたことに匹敵するのではなかろうか。
むろん、仏法は、池田大作が言うところの現実における「勝負」ではないことは、かなり前に述べた。
池田は報恩抄の「国主は但一人なり。二人ともなれば国土穏やかならず。家に二の主あれば其家必ず破る」を解釈して、国主が一人では独裁政治となるが、その一人が中心になり皆で合議する、これを拡大して国家にすればよい、その「一人」は正法で福運を積んだ人が、王になる必要、すなわち政治家になる必要がある趣旨を主張した。
広宣流布の時のあかずの門を通る先頭が、時の最高権力者である自分だと述べたことは、前ページP37で取り上げたが、これらを指摘しながら創価学会に詳しい高瀬広居は、こう述べている。
「民に安らぎと平和な国土での生活を与え導く者は、創価学会会長……。
しかも、法華経でいう国とは日本だけをさすのではないと池田大作はいう。
一応は日本、再往は地球全体。
かれは、しばしば『私は政治に出ない』という。その政治とは既成の考えでいう『政治』であり、全文化を包合する意味での『王』―政治をさすならば、まさにかれは『王仏冥合の中心的実体』として政治の要となるのだ。
『私が戸田会長から教えられたこと、創価学会会長というものが、どのような存在であるか、注入され自覚させられたことだ。それは一体なにか』
池田会長は…中略…激しい語気でいった。
『私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である』
同席の大幹部数人は深く肯き、息をのんだ。…中略… 三十七歳の創価学会会長は、自らを全世界の指導者、日本の国主たる気概と現実的意志のもとに、数百万世帯の人々を背景に、舎衛三億の目標に向かっているのである。」(高瀬広居著「人間革命をめざす 池田大作―その思想と生き方―」P76-78)
「王仏冥合は、私どもの大理念であり、大指針であります。一往は王といえば創価学会、仏といえば日蓮大聖人の大仏法ですが、再往は、創価学会のこの五百四十万世帯の結合、団結、これが仏であり、公明党等を先駆とした活動は王であります」(前進1966/11)
これを引用して、溝口敦は自著「池田大作『創価王国』の野望」1983/6/10、紀尾井書房、P32には、
「つまり創価学会は日蓮正宗を外護するのでなく、むしろ同宗にかわって宗教的権威を一身に担い、公明党が政治的に天下を取ったときに〝冥合〟するとの宣言であり、〝池田本仏論〟のいいかえにすぎなかった」
と述べている。
また、同著は、池田が学会は会員数から国連の中で二十数位に位する大組織とであり、学会は国家内の国家とみなし、創価学会=公明党による日本の制圧を構想していると指摘した。さらに池田は昭和六十五年を目標にして、広宣流布の大総仕上げにかかる、この年には公明党も力をつけ、また折伏も一千五百万世帯になり、日本の半分以上を占め、釈尊の〝舎衛の三億〟それ以上の結果になると述べた(聖教新聞、1966/5/4、要旨抜粋)ことを指摘した。
池田大作の天下取りの野望を、早くから聞いていた幹部は少なからずいる。
山崎正友は、自著「懺悔の告発」1994/3/15 日新報道、P121で、以下のように述べている。
「池田大作は、既に昭和三十五年、会長就任直後から、天下盗りの構想を練っていた。
三十八年、幹部に対して、『諸君、天下を取ろう!』と声をあげ、翌年、公明党を作って衆議院に進出を果たした。従来、『参議院進出は、国立戒壇建立のためである。衆議院には出ない』といい続けてきたのに、一夜にして前言を翻したのである。
それは、『折伏による強勢拡大が従来通り進めば、昭和四十七年ころには、日本の人口の過半数が創価学会員になり、公明党は国会において過半数を占める。その時、自分が総理大臣となり、天下を治める』というものだった。当時、池田大作は、既に閣僚名簿まで作って側近に見せ、悦に入っていた。天下盗りの最終目標年度は、その後、状況の変化により先送りされたが、昭和六十五年(大石寺開基七百年)まで延ばされた」
また彼は、自著「創価学会と『水滸会記録』2004/6/10、第三書館、P56-58で、池田大作の権力奪取構想を、自ら暴露した水滸会記録をあげて解説している。
「〝総理大臣になれば日本を自由にできる〟
水滸会記録の本文は『国家機構』から始まり、冒頭に『総理大臣』という項目が設けられている(三七頁)
本文
『今、日本の社会で司法陣が負けているということがどこでわかるか。非常に縮小しているのでわかる。これにはかならず盛り返しが来る(佐藤幹事長汚濁問題で、犬養政権が、指揮権を発動して、司法陣をおさえた。)その時、吉田(首相)は、もろくも破れるだろう。
今の吉田は天皇より力を持っている。軍隊を持ち、警察権を持ち、持たないのは司法権だけである。これがひどくなれば、革命しか、その権力をくつがえす方法はなくなる。吉田は力がなくなると、刺客が殺しに来るかもしれないという心配もあるし、現在の地位をめったに捨てることはないと思う。
✕ ✕ ✕
今の総理大臣の権力は、明治時代の天皇以上である。総理大臣になれば、日本を自由にすることができる権限をもつことができる。自衛隊を動かすことのできる権力も持っている。ある意味では、広宣流布しやすくなったな。』
戸田城聖が、明治憲法下の権力機構及び実権の所在と、新憲法下のそれを比較して、さりげなく述べたようになっている冒頭のこのくだりは、創価学会の方向性を解析する上で、最も重要なヒントを与える部分である。
〝今の総理大臣の権力は、明治時代の天皇以上だ〟〝総理大臣になれば、日本を自由にすることができる〟〝ある意味では、広宣流布しやすくなったな〟
という部分こそ、創価学会がなぜ政治活動をするか、という動機であり、‶天下盗り〟をめざす本音が明かされている、といってよい。
国民は、だれ一人、天皇になることはできないが、しかし、総理大臣になる資格ーーは平等に持っている。そして総理大臣には、三権(司法・立法・行政)の中でも、強大な権限が集中している…中略…そして、『総理大臣になる』ということは、衆議院で過半数を得ているということでもある。
この状況を踏まえて、〝広宣流布しやすくなった〟としているのであり、それは創価学会の猛折伏によって会員を増やし、国民の過半数を制すれば、総理大臣の座を手中にでき、そして〝総理大臣になれば、日本を自由にできるからだ〟というのである。
戸田城聖、池田大作、そして創価学会首脳にとって、〝広宣流布〟とは、自ら日本の国の総理大臣になり、日本の国を思うがままに、自由自在に支配することを意味していることが、ここにはっきりと述べられているのである」
藤原行正は、自著「池田大作の素顔」P101-104によれば、すなわち池田大作は昭和五十四年までに日本全国を創価学会一色に変えると本気で日本乗っ取りを考え、正本堂の建立を重要な通過点と宣伝し、政界進出を目論んでいて、純粋な学会員達はこれらが自らの大目標でもあり、それが一歩一歩着実に前進していると信じていた。
公明政治連盟から公明党結成、四年後の衆議院進出と、計画的に事態は進行。池田独裁体制が完成し、池田の意思はイコール創価学会の決定となって「私の言葉は学会内では憲法になる」と述べた。
世帯数も延び四十四年十二月の衆院選では四十七議席と衆院勢力が拡大。
池田は「学会を大きくしてがっちり固めたら、いよいよオレは政界入りする。その時には公明党委員長じゃなく公明党総裁に変えてやろうじゃないか」さらには日本の宰相と創価学会会長を兼務するという野望を周りの学会幹部に言った。
北条浩などは公明党の副委員長や書記長時代に、池田を総理にするのが自分たちの目標だと常に述べ、これは幹部全員の思いであった。 青天井に見えた組織の躍進は一般会員の士気を駆り立て、この調子で倍々ゲームでいけば天下をとれる、日本人の三分の一が創価学会員、三分の一を学会・公明党のシンパとする「舎衛の三億」の実現が迫っている幻想に憑りつかれていた。
そして、池田の致命的な欠点として、大組織のリーダーとしての社会的使命感や、学会員個々への責任感が、野望実現に我を忘れたことで欠落していたと指摘した。
矢野絢也も、自著「私が愛した池田大作」P216-219で、以下のように述べている。
「私は池田氏が宗門乗っ取りに方針転換したのは、言論出版妨害事件がキッカケだったのでは、と推察している。それまで池田氏は、本気で『政界の王者』を目指していた。実際、
『天下を取ろう』
という檄が我々公明党幹部に対し、一時はしょっちゅう飛ばされていたのである。
『ここは慎重に』
などと弱腰を見せれば、
『そんな弱きでどうする。前進、前進あるのみだ』
と叱咤された。
当時の池田氏は、このままいけば公明党が議席の過半数をとるのも夢ではないと本気で考えていたようだ。『過半数を得て、総理を公明党から出すんだ』と言われたこともしばしばあった。もちろん、このときの総理は池田氏以外には絶対にあり得ない。たしかにあのころ、公明党は怒涛の勢いで議席を増やしていた。会員数も膨れ上がる一方だった。あの勢いのなかにいれば気分も高揚し、誇大妄想に取りつかれたとしてもおかしくはない。信者が増えれば議席も増える。議員の過半数を獲得すれば国会運営は思いのまま。『国立戒壇』『王仏冥合』も政治力で成し遂げることができる。
池田氏はあのアドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』に出てくる言葉を好んで引用していた。彼は本気でヒットラーのような超独裁者になることを夢見ているフシがあるのだ。
ところが現実はそんなに甘いものではない。ヒットラーは街頭で大衆にスピーカーを通して演説したが、池田氏は『超』が付く内弁慶だから、そんな真似はできない。
言論出版妨害事件を機に政治の側からすさまじい学会攻撃を受けたとき、青年部や我々の間には、ヒットラー・ユーゲント(ヒットラー青少年団)さながらに『こんな無茶をやるなら、国会周辺でデモをやろう』という勇ましい意見もあった。しかし、池田氏は国会喚問を拒み続け、謝罪し、政教分離を明言せざるを得なかった。当時、池田氏をなだめていた古参の側近が『池田氏は小心者だ』と語っていたのが印象的だった。本気で勝負できない人なのだ。『国立戒壇』『王仏冥合』の夢を自ら放棄する発言を余儀なくされた。『権力を打ち倒すんだ』と豪語していた人が権力の恐ろしさというものをまざまざと思い知った格好だ。特に国会論戦で憲法の『政教分離』の壁が立ち塞がったことは大きかった。
そこで方針が転換された。『政界の王者』がすぐに無理なら、次は『宗教界の王者』を狙おうというわけだ。ローマ帝国の皇帝になれないのなら、ローマ法王に、というようなものだ。かくして宗門乗っ取りが目指されることになった。
そして宗門との戦争に専念するには、背後を固めておく必要がある。最もうるさい共産党を黙らせておかねばならない。そのための創共協定だった」
原島崇は、自著「誰も書かなかった 池田大作創価学会の真実」2002/7/25、日新報道、P112-113にて、以下の通り述べている。
「池田大作の天下盗り…中略…
昭和三十六年に公明政治連盟が結成されたさい、総本山大石寺の宿坊で、幹部が大まじめで『閣僚名簿』を作っていました。そこで二種類の名簿を作りましたが、いずれも『総理大臣』は池田大作でした…中略…
昭和三十八年秋の学生部幹部会で池田ははっきりと次のように言っています。
『今日、ここに集まった学生部幹部諸君を心から信頼して、私は本当のことを申し上げる。広宣流布とは、しょせん天下を取ることだ。諸君、私と一緒に天下を取ろうではないか。私が立たなければ、日本はつぶされる。これまで世間からバカにされたり無視されながら着々と力をたくわえ、準備をととのえてきた。世間をあっといわせよう。三国志をはじめようではないか』
池田は、昭和三十九年の公明党結成時には党首脳たちに、自らを『国父』と呼ばせ、また衆院選の公明党控室には、池田の写真と、その自筆の和歌『妙法の宝を胸に抱きしめて、君等戦え天下取るまで』の色紙を飾らせたりしました。そのころの私も、『池田先生がやがて日本の総理大臣になられる』と信じて疑わなかったのです。
公明党が初めて衆院進出したのが、昭和四十二年の一月、このとき二十五席獲得し、昭和四十四年十二月の総選挙ではほぼ倍増の四十七議席に達しました。このころ池田は周囲の人たちに、『学会を大きくしてがっちり固めたら、いよいよオレは政界入りする。その時は公明党委員長ではなく公明党総裁に変えてやろうじゃないか』と語っていました」
溝口敦は自著「池田大作 創価王国の野望」にて、以下を指摘していた。
「はたして世論に池田大作の野望を阻む力はあるのか。彼が今の体制をたて直して、再び日本国を望める根拠は用意されるのか。予想はかなり困難である。短期的には、彼が天下取りの片棒として頼りににしている田中角栄は懲役五年の求刑でどうなるのか、その時々の政治状況と密接、かつ複雑にからまりあって、池田の野望が達せられると否とにかかわらず、野望実現に向けた過程自体がすでにして害悪をたれ流すことである。
創価学会の迷惑はいうまでもない。前章までに触れたように、学会員は自ら好んですることとはいえ、身も心も金も奪われ、家庭を壊され、体を傷めて、はては犯罪まで走る。
社会病理学的な現象といっても過言ではない。
加えて非会員にとっても、公明党政治にさらされる以外に、悪しき人気を数えねばなるまい。
およそ現世利益を追い、欲望を満たすことを手放しで礼賛し、真実を軽んじてウソも方便とする創価学会教学、公明党の無原則で利害だけに基づく突然の方針転換など――これらの今いわれる荒んだ人の心の原型は、池田創価学会が先駆けとなって範を示したものともいえよう。おそらく学会が本尊を幸福製造機と呼ぶ以前には、人が立身出世や金儲けを口にするとき多少の後ろめたさを感じたものだし、公明党が衆院に出る前は政党はよし悪しはともかく、今少し分りやすい行動をとったはずである。
あるいは、筆者は全体と部分を取りちがえているのかもしれない。つまり荒廃に向かう社会に創価学会の教えがフィットしたからこそ、ここまで池田創価学会が伸びたのだ、と。そういいかえてもいい。
池田大作はすぐれて今の社会が持つ負の側面の化身である。もし彼の野望が将来、達せられるならば、それは時代が望んだことになろう。」(溝口敦著「池田大作 創価王国の野望」1983/6/10、紀尾井書房、P256-257)
「…これらは内部告発によって初めて世間に知られるところとなったものだが、明らかにされた不正に対する創価学会の事後対応もまた、社会的な未成熟を十分疑わせるものであった。
すなわち、批判者に転じた同会の幹部である山崎正友、原島崇両氏に責任を転嫁し、同会の負うべき責めに頬かぶりを通しているばかりか、両氏をはじめ創価学会批判の内藤国夫氏などに対する個人攻撃を重ね、批判そのものを圧殺しようとしている。
創価学会に対する批判は昭和四十五年時とは異なり、同会と公明党がマスコミ、政界などに対し一定の勢力を食い入らせているがために十分でない。一部団体と個人は同会の提供する利便を受けて、創価学会の実像を曇らせ、美しい虚像を社会に売り込む役割を果たしている。…中略…
池田大作氏は、いまだに『創価王国』の野望を捨てきってはいない。目指すところは創価学会による日本支配であり、それが実現するか否かは一にかかって、池田氏と創価学会を見つめる社会の目にあるといえよう。同会の〝平和運動〟に幻惑されるのはもちろん、その実力を侮るのも危うすぎる。」(溝口敦著「池田大作 創価王国の野望」1983/6/10、紀尾井書房、P258-259)
以上の文献をもって、自らも文言とともに、また、回りの側近やジャーナリストも、池田大作の「天下取りの野望」を語っていたのである。
決して、「新・人間革命」でいうところの、「噂」などではないことは明白である。
創価学会の正史と、教義を語るという聖典「新・人間革命」は、ここでも事実の隠蔽・捏造をしているのである。
日蓮は、国家を諫めたが、権力を握ろうとしたことはなかった。
天下を取ろうなんて、日蓮の姿勢からはまったく正反対である。
現在の創価学会は、この事件以降、財務としてばく大なカネを毎年集め、さまざまな団体や企業を経済的な取引で操り、豪華な伽藍や会館、贅沢な施設を国内や世界に建て、池田大作唯一人の名誉称号を集めるために多くのカネや人を動員し、学会員の票を国会対策や選挙取引に利用してはばからない。その結果、自らの議員の中からも汚濁事件などの不始末を起こしたり、他党の金まみれ選挙違反に加担した議員を当選させていることは、広く国民に知れわたりところとなっている。
こうした中には、日蓮の血脈がまったく存在しないことを明確に示す証拠である。
日蓮は決して民集を利用して天下を取るのではなく、封建制度の中にあっても、さまざまな特権や国家権力を利用することは微塵もなく、あくまで民衆の中で、清貧を貫いて、厳しい自然の中、民衆のレベル以下の草庵を拠点に、草の根の布教活動を、生涯貫いたし、このことを門下にも徹底していたことを、あらためて確認しておく。