ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P37, 国立戒壇の否定 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(2)、言論出版妨害事件
前ページに続いて、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討を、「新・人間革命」での描写も併せて行った。
■「新・人間革命」での謝罪
「新・人間革命」のP299には、個人の熱情からの交渉であった等と謝罪文がある。
記念講演の原文の「個人の情熱」が「個人の〝熱情″」に引き下げられ、原因がよりいっそう「個人」という軽い別物の仕業のような言い換えになっている。
続いて「新・人間革命」では、
「さらに彼は、今回の問題をめぐって、幾つかの新聞や雑誌が、フランスの作家ボルテールが述べたとされる『私は、君の言うことには反対だ。しかし、君がそれを言う権利を、私は命をかけて守る』との言葉を引用していたことに触れた。
そして、その考え方のなかに、『言論の自由の根本』があるとして、こう語った。
『名誉を守るためとはいえ、私どもはこれまで、批判に対して神経過敏にすぎた体質があり、それが寛容さを欠き、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。関係者をはじめ、国民の皆さんに、多大なご迷惑をおかけしたことを、率直にお詫び申し上げるものであります』
伸一(註、池田大作)は頭を下げた」(同書P299)
とある。
原文の作家ボルテールの引用はあるが、記念講演での、法律に抵触するものではなかった云々が省略されている。これはともあれ、記念講演にある、同じ轍をふまない、関係者にお詫びしたい云々が省略されているのは、はっきりいって、当時、まったくその気がなかったことの表れであり、記念講演自体に、本心からの謝罪の意図がなかったことの証である。また、30年後の「新・人間革命」執筆時点でも、まったく真実を明かそうとせず、自分自身が根本原因であったことの謝罪や反省の意図がなかったことを明白に顕している。すなわち、歴史の改竄である。
「独善的な姿勢ですまされる問題ではなく、まさに道義的に考えなければ」と言いながら、結局のところも、この時点であっても、前述(P36)の如く「猛省」などはなく、戦略的なポーズの表現に終始しているのである。
その後の結果としても、藤原弘達など多くの関係者へ自らお詫びに行ったということは、知られていない。「関係者の方におわびしたい気持ち」など微塵もなかったことは明らかであるからである。
なんということか。
そこには崇高な仏法者としての姿が見えない。
宗教人であれば、さらには日蓮仏法を語る者であれば、またその指導者であれば、なおさら、世間一般での道徳的な言動・行動はわきまえるべきであり、そうあるべきという世間の期待や、信者の期待をも裏切っている行為である。これでは日蓮仏法を語りながら、生涯「世間の咎一文もなし」と正法を弘め貫いた日蓮の顔に泥を塗るような行為であろう。日蓮が現在も生きていれば、またはタイムマシンに乗って、この世に出現したならば、大いなるお叱りと破折をうけることであろう。
続く「新・人間革命」P300では、
「参加者は驚きを隠せなかった。…中略…
〝私たちは、社会に迷惑をかけるようなことは絶対にしてはならない。それは、学会に迷惑をかけることになるのだ〟」
と、真実を知らされていない幹部たちの描写が痛々しく続いていく。
しかし、ここでの幹部たちの誓いはもっともなことである。
さらに「新・人間革命」では、
「また、ある人は、伸一が、今、発表した『社会に信頼され、親しまれる学会』というモットーを思い返した。
そして、社会を大切にし、大きな心で人々を包む寛容さを、会長は身をもって示したのだと思った。
言論の自由の尊さを述べた伸一は、『言論の自由を守り抜くことを私どもの総意として確認したい』と、力強く呼びかけた。参加者はそれに、雷鳴のような拍手で応えた」
と、続いている。
このように、「社会を大切にし、大きな心で人々を包む寛容さを、会長は身をもって示した」と思わしめるには十分であったことがわかる。ただし、「雷鳴のような拍手」というこの表現等そのものに、記念講演自体が策謀的謝罪であり、謝罪の意図が全くなく、しかも純粋な会員に対して事実真実を知らせることなく、他者に原因の責任を転嫁し自己の正義を訴え、マスコミ関係者に創価学会の団結や偉大さをアピールする目的があったことを裏付けている。そして、これによって真実の歴史を隠蔽し、都合よい捏造を「新・人間革命」では行っていると言えるのである。
■本門戒壇の意義(同書P13-19)
記念講演では、国立戒壇を否定すべく、これについて、
①『国立戒壇』は日蓮の御書にはなく、明治時代から使われた。
②日蓮正宗では、一般にならって『国立戒壇』を使用した。正式には『本門戒壇』『事の戒壇』である
さらに、以下の要約のように続く。すなわち全世界の平和・繁栄を願う本来の精神を端的にあらわす言葉として、国立戒壇を用いたが、国教化という誤解を生じないよう、国立戒壇イコール国教化は、最初から否定してきた。だが、イメージで、国家権力で戒壇を建てて他教を弾圧する恐れと誤解が続き、やむをえなかった。
そこで国立戒壇という表現を止め、戒壇は民衆立であるとしてからも、学会の政治進出目的は国立戒壇、憲法違反、やがて国会で多数を占めて、国立にするのではないか等と、疑惑がもたれた。「かつてそれに近い表現もあったことも事実」と認めた上、具体的なプロセスは後世に託されており、明確な路線として、本門戒壇は国立である必要はなく、「国立戒壇」は使わない(全員挙手)、国教化は否定(全員挙手)、国会の議決によって国立にしない(全員挙手)、
政治進出は戒壇建立のための手段ではなく大衆福祉が目的で、宗門、学会の諸活動とは無関係である(全員挙手)と述べ、その都度満場から賛同の拍手を受けた。
さらに続いて日蓮の御書講義に入った。すなわち日蓮大聖人の仏法は、民衆の文化の大海であり、人格陶冶を通して時代を先導し、全人類の魔性を砕き、悲惨と苦悩を絶滅するのが本意である。そして日蓮の立正安国論の一文「汝早く信仰の寸心を改めて、速に実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり。仏国其れ衰んや。十方は悉く宝土なり。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん」(御書P32)と。日寬の解釈「文はただ日本および現在にあり、意は閻浮および未来に通ずべし」を引用し、全人類の平和、未来永遠にわたる幸福の確立こそが、日蓮大聖人の終極の目的であり、決して一時期の、限られた人々のためのものではないと述べた。
そして大御本尊(大石寺の板マンダラ)は相伝では全世界に与えたとあり、世界の大白法であると御書に書かれているとして、三大秘法抄の一部「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」(御書P1022)を恣意的に引用し、本門の戒壇は全世界の人々の懺悔滅罪の道場であり、世界のあらゆる指導者も、平和のために集まるとの断言・予言であるとした。そして戒とは非を防いで悪を止めさせること、すなわち全人類の悲惨をなくし、非道と根本悪を防止することであり、本門戒壇の本義は「全人類の恒久平和と幸福を祈願する大殿堂」だと述べた。
記念講演では、三大秘法抄の「戒壇とは王法仏法に冥じ…中略…勅宣並に御教書を申し下して 霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か 時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、」が、講演で引用した文のすぐ前にありながら、これを隠して、続く「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」だけを引用している。この部分の文意は、文字通り読めば時の国の権力者の命令を受けて戒壇を建てよ、すなわち現在にあてはめれば国立戒壇を建立せよとの意味である。
だから恣意的引用と言うべきであり、これは創価学会が都合よく御書を利用して自己の主張を展開する得意の常套手段、すなわちコピー&ペースト・パッチワークである。
国立戒壇の解釈の元となっている前の文をあえてださないことが、この欺瞞を巧みに隠蔽していることになる。
そもそも、このような考えは古い、過去の遺物である。
日蓮の三大秘法抄も、当然に、再検討・訂正するべきであり、「勅宣並に御教書を申し下して」とか「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて」などは、その典型の部分のドグマである。
そもそも「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」は、有り得ない理想であり、その理想が実現すれば、あえて勅宣など必要なく、最勝の地なども定めなくてもよいではないか。
このような矛盾を抱えたままのドグマなのである。
つまり、日蓮の真意を、鎌倉時代の縛りを排して、永遠の仏法・法則に立って再検討すれば、いつでもどこでもだれにでも、無条件にその人のいる場所が本門戒壇(防非・止悪の場所)なのである。違うか?!
国立戒壇という用語は、これ以来、創価学会では一切使われなくなった。
しかし、いまだ完成していない正本堂を、民衆立の本門戒壇としてしまったことが、後の妙信講との宗内争いとなり、350億円という巨額な供養を集めた時に、喧伝していたことが、後に覆されることになる。
さて、そもそも戒壇について、さかのぼって、日蓮は、法華取要抄(御書P336)に、
「問うて云く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」
とあり、出世の本懐として三大秘法である「本尊と戒壇と題目」をあげた。
このうち、本門の題目は南無妙法蓮華経であり、1253年4月28日にはじめてとなえ、本門の本尊は、観心本尊抄などで明かされ、真筆のマンダラも存在している(先述したが、日蓮正宗では、大石寺の板マンダラが唯一のそれとなっている)。
ただ、残された本門の戒壇のみは、晩年1年前の三大秘法抄(御書P1022)に、
「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時 勅宣並に御教書を申し下して 霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か 時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」
と、述べている。
この解釈をめぐって、さまざまな争いがあるが、要するに、日蓮がいう本門の戒壇とは、王臣一同(全民衆)が日蓮仏法を持つという広宣流布が実現すれば、(天皇、幕府など最高権力者の)「勅宣並に御教書」によって、霊山浄土に似た最勝の地に戒壇を建立すべきであるとし、これは、全世界の人が集うべきところ、大自然もそのように受け入れるところというのである。
日蓮の弟子である日興も、
「是れ偏えに広宣流布の時、本化国主御尋ねあらん期まで深く敬重し奉るべし」(富士一跡門徒存知事)
と、子の義を受け継いでいる。
時代を経て、日寬は、戒壇について、
「本門の戒壇に事有り義有り。所謂義の戒壇とは即ち本門の本尊所住の処・義戒壇に当る故なり。…中略…正しく事の戒壇とは一閻浮提の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり。秘法抄に曰く『王臣一同に…中略…」(文底秘沈抄)
また、
「本門戒壇に事あり、理あり…中略…
広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等に皆嫡々書写の本尊を安置す、其の処は皆是れ義理の戒壇なり…中略…
事の戒壇とは、秘法抄に云く『王法仏法に冥じ…中略…事の戒法と申すは是なり』等云云」(法華取要抄文段)
と述べている。
つまり、既にある末寺や在家の曼荼羅安置の場所を義の戒壇、これに対して広宣流布の暁に立てられる、三大秘法抄でいう戒壇を、事の戒壇としている。
したがって、事の戒壇とは、古くから時の最高権力者の命による戒壇を指すとして伝えられてきたことが明白である。
昭和になって、田中智学や戸田城聖は、時代にあわせて、この日蓮のいう本門戒壇を「国立戒壇」と称した。これは正しい判断である。すなわち、日蓮の遺文、とくに「勅宣並に御教書」を文字通り解釈すれば、今日でいうところの「国立」と称すべきであろう。
当然ながら、日蓮のこの遺文も、鎌倉時代の縛りを受けているのは自明であり、前述の如く、常にアップデートしていかねばならないのである。
さて、ここで、池田大作が師匠と仰ぐ戸田城聖の論述から振り返っておく。
戸田は生前に、「広宣流布は、日本じゅうだいたいの人が信心しても、本門戒壇を建立しなければ、広宣流布の目的は達せられません。
本門戒壇とは、国家鎮護の寺として認めなければならないのです。たとえば、国家が不景気の時、国がお願いをして、これが叶う戒壇を建立した時を広宣流布というのです…中略…国民の生活が安定する準備として戒壇を建立するのです。今日のように月給のないときをキチンといいます。こういう状態にさせないように、国家を代表した人が国家のために、ご祈念をすればききめがあるのです。そういう時をつくろうというのが、広宣流布の目的です」(「戸田城聖全集」第四巻、1965/12/10、和光社、P123-124)
と、述べていた。
なぜ参院選に立つのかの問いに対し、戸田は、
「王法、仏法に冥じ、仏法、王法に合するその時をつくるのが広宣流布の下地です。その時機をつくらなかったならば、ただ広宣流布、広宣流布というだけでおわってしまいます。『勅宣並びに御教書』(三大秘法抄一〇二二ページ)とおっしゃっているが、勅宣とは、天皇陛下のお許しです。御教書とは、国会の許可です。その国会の許可を取るためには、いま政治というものに関心をもたなかったら、いつになっても御教書をもらえないでしょう。なにも私は日本の国をぜんぶ南無妙法蓮華経にするのではない。ここを思い違いしてもらうと困ります。
いかに広宣流布したからといったって、キリスト教も、アミダ教もぜんぜんなくなるというのではないのです。
ただ、勅宣ならびに御教書を申し下すという日蓮大聖人のご命令に答えて行かなければならない、そして本門戒壇を立てればよい。
国家が国家のこと、あらゆる一大事をここで祈念すれば、かならず国家が安泰であります。早くしなければならない。そこで広宣流布の一段階として、参院に出すのです。この次にも出す、私は日蓮大聖人様のご命令どおりにやればよいのです。各地にそういう人がどんどん出てもらわなければなりません。」(前掲書P160-161)
さらに、広宣流布の暁の政治について、戸田は、
「陰険な政治家がいなくなるときであります。今の政治家は売春婦と同じであります。利害のために動き、国家を考えていない。広宣流布の暁には、ほんとうの国士の政治家が出るのです」(前掲書P161)
そして、弟子の池田大作は、会長就任前ではあるが、創価学会は、日本の国をとるのでもなく、政治団体でもなく、あくまでも国立戒壇の建立が目的であり、三大秘法抄の南無妙法蓮華経の広宣流布、すなわち、国立戒壇の建立が目的である(「大白蓮華」昭和33年9月)と述べた。
「仏命たる富士山に本門寺の戒壇の建立は未だならず『時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり』の御予言こそ、残された唯一つの大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。これを化儀の広宣流布と称し、国立戒壇の建立というのである」(「大白蓮華」昭和34年1月)
と、はっきりと、創価学会の目的が国立戒壇であることを述べている。
「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべきどうしても通らなければならないのが、創価学会の選挙なのであります」(「大白蓮華」昭和34年6月)
また、会長就任後も、池田大作は、
「国立戒壇建立が、大聖人様御入滅後の弟子に残されたのである」(「大白蓮華」昭和35年6月)
「日本一国が広宣流布された暁には、民衆の総意によって国立戒壇を建立するのです。」(「聖教新聞」、昭和37年3月3日)
と受け継いでいるごとくである。
すなわち、世間の誤解の恐れや可能性などではなく、はっきりと、時の国家の権力者によって戒壇を建立すべきと述べていた。
これか、この言論出版妨害事件で、その意義を覆せざるを得ない状態になったのである。
■選挙対策としてのカムフラージュ
もっとも、昭和39年6月30日学生部第7回総会(池田大作著「会長講演集」第十一巻、1965/1/2、創価学会、P213-217)では本音を隠して以下のように、
「『創価学会は国立戒壇をめざしているからよくない』このように陳腐な論議をしております。まったくナンセンス…中略…大聖人様の仏法においては…中略…その終着点は本門の戒壇となります」
と前置きして、御書にも日興・日寬も〝国立戒壇〟と言わず、戒壇とは本門戒壇建立である と、屁理屈をこねて述べていたこともある。
たしかに、日蓮も日興も日寬も、表現として「国立戒壇」とは言っていない。
しかし、その真意は前述の遺文の通りであるが、民主主義の時代の今は、民衆が皆信心をして納得したしるし・終着点・総意として国立という表現になったと述べた。
つまり「帰着点」「ひとつのしるし」に言い換えられてしまった。さらに、国鉄と私鉄との関係に譬え、私鉄の立場で板マンダラを護り、信者以外は拝ませないが、国が建てた公共施設となれば、信者以外でも拝むことができる、本門戒壇の建立は、その儀式にすぎないと、詭弁を弄している。
そもそも戒壇建立時点で国民全員が信心しているなら「信仰しようがしまいが拝ませてやって」という理屈は成り立たない。
また、公共的でなくても、神社や鎌倉大仏や、野仏など、万人が自由に参拝することができる対象が存在するではないか。
さらに、この講演では、政党では政権をとるという終着点があるとと、本音をもらし、
「宗教においても、その終着点が必要です」
として、国民全員が入信することを終着点、すなわち広宣流布としている。
続いて、
「ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。」
「国立として、全体が公共物として…中略…見学もできる、それが国立美術館であり、国立博物館であり、国立競技場です。
同じように、国立という名前は使いませんし、使う必要はありませんが、本門戒壇ということも、これらと共通性をもっているのです」
と述べている。
つまり、本門戒壇を、公共性があるものとして、公共物として、自由にそこで遊ぶこともできるような、公共の戒壇と意味づけているのである。
これは、創価学会・公明党が一国を支配して国立戒壇を建立しようとする意図を、巧妙に隠したスリカエである。
ちなみに「信仰しようがしまいが拝ませてやって」というなら、今すぐにでもできることがある。それは、他宗の寺院や神社のように、日蓮正宗が板マンダラを直ちに一般公開すれば済むことである。
それが、広宣流布であるなら、なおのことであろう。
なぜに、板マンダラを隠す必要性があるのか。
板マンダラが後世の偽作であることが完全に暴露されるのが怖いのであろうか。
また、それが、日蓮の述べたドグマだからである。
この主張は、日蓮仏法を科学的見地からアップデートする意味では卓越した論であるが、残念なことに、池田大作の本音は、そうではなく、日寬アニミズムをドグマとして、あくまで日蓮正宗の戒壇を国会の決議で建てることにあったことは、これまでの歴史的経過から、いうまでもない明らかなことである。
むろん、憲法では、信教は自由であり、国立戒壇に参拝するのを国民に強いるか否かはともあれ、これによって日蓮正宗を国会が決議した事実上の「国教」とすることであり、これを広宣流布(布教の終着点)としていた。
だから、この演説は、選挙にむけて本音をカムフラージュするための詭弁であったことは自明である。
ただ、このカムフラージュが、時代とともに変遷しているのである。
■純粋な信仰心を巧みに利用する、潜聖増上慢
当時の創価学会員は、ほとんどが純粋な信仰集団であった。
強引な折伏(その善悪を問わず)により、急激に肥大しつつあった集団のなかでは、日蓮のこの遺文、事の戒壇が国立戒壇であることが、文句なしの教示であった。
この時代の選挙の票取りは、ほとんど折伏と同時に行われたのであり、会員たちは、大いなる目標に向かって、燃えに燃えていたのである。
池田大作は、こういった会員たちの情熱を、巧みに自身の権力のために利用していった。
側近たちや幹部たちも、戸田の遺言(派閥を作ってはならない、皆で仲良くやっていけ)を忠実に守り、池田をものの見事に賛美し盛り上げた。
昭和39年8月27日の幹部指導会(萩会館)で、池田大作は、
「まじめに真剣に学会活動をしていく以外の信心強きということはありえない。そこに創価学会が和合僧であり、王仏冥合をめざしての大聖人様の仏意仏勅にかなった厳然たる証拠があるゆえんなのです。
学会を離れた場合は信心できない。また、学会を離れて御本尊様を長くたもっている人がありますが、功徳がでない。折伏はできない。それは不思議なものです。また、学会を批判すれば法罰、仏罰は厳然たるものです」(「会長講演集」第11巻、1965/1/2、P289-291)
と、こう語っている。
純粋な日蓮仏法の信仰者の心を、日蓮の遺文を利用して創価学会組織にのみ誘導し、罰論で脅して束縛する。
さらに続いては、罰が出て功徳が出ず、顔色が悪く、一家が調和できない、和楽でない等は、信心が濁っているか人を怨嫉している、信心が純粋・潔白で峻厳な人はかならず勝ち、あらゆる功徳がわいてくるとして「仏法は証拠です。その証拠を出しきっていくためへの強い強い信心でなければならない」
といって、巧みに純粋な信仰者を、常にハッパをかけて組織拡大へ駆り立てる。
むろん、これは、言葉の上では、純真な信仰を持ち続けるためにはある程度正しい。
しかし、根本としている信仰の内容が日蓮仏法ではなく、しかも目的や誘導先が創価学会の組織拡大、さらには創価学会による国立戒壇建立と、後述する天下取りへ結びついているのである。
この現象は学会員にとって、まさに日蓮の言う「魔たよりをうべし」であった。
日寬アニミズムに染まり、会長争奪戦に勝利した池田大作が、こうした側近幹部たちの忠実な支援と賛美を常に一身に浴びながら、さらに激増しつつある学会員たちの社会に与える影響が高まってくることを、おのれ自身の力と錯覚し、その野望をますます拡大していくことは、いとも自然な成り行きであった。
「長」と呼ばれ、多数の会員から賛美・尊敬され、従われる状態を、自分ひとりの人徳・力量のように錯覚してしまうのは、創価学会では、なにも池田大作に限らない、幹部一般にも少々みられることであった。
彼が、同類の幹部に対し激高することも、それが同類であるからである。
こういった心の状態、生命に巣くう悪魔が、魔、いわゆる天子魔であり、これに委ねた状態が増上慢である。
そして、多くの会員や組織全体に影響力が高いほど、俗衆増上慢、道門増上慢から、潜聖増上慢の要素が高くなるのが、日蓮仏法の方程式である。
その背景には、「長」にすがり、「長」に自分の至らない姿を投影し、「長」に依り添い、従うことによってはじめて己の喜びや欲を満たし、不安を解消しようとする、「権威への逃走」という心理を、多くの会員が具えていたことである。
これは、フロムの「自由からの逃走」に指摘されている、後述するが、現代人における「サド・マゾヒズム的共棲」の状態である。これはナチズムが発展した背景とされている大衆心理でもある。
元来、我が国の民族は、「和」を美徳とし、「和をもって尊し」とすることわざもある。
これは、「寄らば大樹の陰」が表裏一体となっていて、要するに欧米と違って自己の確立が未熟な傾向の現れである。
つまり、優雅な孤独や、栄光ある孤立に耐え、それを楽しむことの困難な民衆なのである。
自己の確立が未熟なまま、戦後の権威支配から一気に「自由」という海へ解放された民衆は、混乱した社会の荒波にもまれながら、自身を支える新たな権威に、容易にすがりつく傾向にあった。
神々のラッシュアワーと言われるほど、新興宗教がはびこった時代、こんな背景の中で、創価学会が、上記のような指導で学会員を常に駆りたて、このような自己確立の未熟な民衆を強引に折伏して急拡大したのである。
日寬アニミズムは、とても都合が良い、よくできたドグマであったと評価できる。
話は戻る。
こういった様子は、なにも創価学会に限らない。
一般の企業や団体の組織の指導者やそれに依り添う人々にも、ふつうにみられる現象である。
拙論文P28で前述したが、正本堂の意義については、池田大作は、
「正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立を待つばかりになります。したがって、全体的な御供養といたしましては、今度の正本堂の御供養だけで、一切将来はいたしません」(池田大作著「会長講演集」第十一巻、P170-172)
と、述べている。
「あとは本門戒壇堂の建立を待つばかりになります。」
と、述べているとおり、この「本門戒壇堂」が、公明党が政権を取った後、国会の議決により建立しようとする「国立戒壇」を指すことは、明白であった。
また、その後も、学会の幹部が、このあと(の、国立の戒壇)は国費でまかなわれる旨の指導もあった。
また、上記を裏付ける以下のような資料もある。
「学会の目的はただひとつであり、それは広宣流布といい、王仏冥合といい、国立戒壇といい、ぜんぶ同じことを指しているからである。広宣流布が達成されれば、すべての人は御本尊を信じて個人の幸福をうちたて、同時に民主国家であるならば、政治家もまた日蓮大聖人の教えを根本にして政治活動を行なうのである。これは王仏冥合の姿にほかならない。そうなれば、日蓮大聖人の御遺命である戒壇建立の条件(王臣一同に三秘密の法を持ちて)がそうであるから、とうぜんの結果として、民衆の総意によって戒壇が建立されるのである。民主国家における民衆の総意は、同時に国家の意思であるから、それが国立戒壇と呼ばれても何ら不思議ではない」(青木亨、「大白蓮華」昭和39年11月号)
このように、はっきりと王仏冥合=国立戒壇=広宣流布と述べ、その論理的流れまで明確にまとめて、分かりやすく機関誌に掲載していたのであるから、世間が政教一致と判断するのは当然のことである。記念講演では、世間の誤解等と言い訳されているが、誤解でも何でもない。そのものズバリではないか。
これを、選挙に勝つためにカムフラージュして、公には、誤解だなどと詭弁を弄して世間をたぶらかすのは、誠実な人として、政治をつかさどる人として、そして宗教人・仏法者のやることではない。
さらには、池田大作は、学会組織内では、こう本音を述べている。
「その時には不開門が開く。(はじめて門を通過するのは)一義には、天皇という意味もありますが、再往は時の最高の権力者であるとされています。すなわち、公明党がどんなに発展しようが、創価学会がどんなに発展しようが、時の法華講の総講頭(39年4月から池田就任)であり、創価学会の会長(池田大作)がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。(大拍手)
後々のためにいっておかないと、狂いを生ずるからいうのです。私は謙虚な人間です。礼儀正しい人間です。同志を、先輩をたてきっていける人間です。そのため、かえってわからなくなってしまうことを心配するのです。そうなれば、こんどは皆さん方が不幸です。学会も不幸です』(「聖教新聞」 昭和40年7月26日、「大白蓮華」昭和40年9月号)
ちなみに不開門とは、創価学会版の「日蓮正宗教学小辞典」によれば、広宣流布の時がきて勅宣ならびに御教書が下されたとき、はじめて勅使が通過するための特別の門が日蓮正宗総本山大石寺にある。これは勅使門といい、それまでは誰も通さないので、「あかずの門」といわれている。
さらに、池田大作は、先述したが、こうも述べている。
「正本堂に御本尊様を安置すれば、御宝蔵、奉安殿より広く拝ませる事になるが、あくまで入信者に限るので内拝である。
将来一国の総理等が信者で、又、国家権力を押さえた時に国中の人に拝ませる。」
(昭和43年10月24日、第17会社長会記録、「継命」編集部編「社長会全記録」1983/6/10,継命新聞社、P88-89)
国立戒壇建立は、池田大作が、時の国家としての最高の権力者になるための、単なる口述にすぎなかった。
以上挙げた、池田大作の本音は、このことを裏付けている。
そもそも、自分自身が謙虚で礼儀正しい人間という自覚がある人は、自らを指して、謙虚で礼儀正しい人間とは言わない。これをいうのは明らかに傲慢であり、上から目線で聴衆を従えようとする意図があり、さらには自分自身に自信がない、すなわち臆病であることを自ら曝している。あかずの門が開くときに最初に通る人間が自分自身であると、何故にあらかじめ宣言するのか。すでにその時の皆は信心して、最高の幸福境涯を享受している状態だから、それが誰であっても何の問題もないではないか。仏界という幸福境涯にある人のいったい誰がそのことにこだわるというのか、そして、なぜ皆がそれを分かっていなかったら不幸だと言うのか?
これは、こう宣言するのは、こう言うしか自分自身が満たされないからである。その原因は、無意識下で自分自身に自信がなく、自身が小さな存在であることを自覚しているので、周囲に自身を大きく見せなければ、自己満足が得られないからである。これは一種の修羅の境涯で、他人に勝ちたい・自分は他人より優れていると他人に理解させなければならないという勝他の念の顕れである。ちなみに動物でも、被食者が捕食者に対し、自己を大きく見せる本能行動があるが、これの一種でもあるから、池田の境涯は畜生界の境涯の顕れでもある。内面の本音がこのような状態では、とても人のあるべき道を説く宗教を語る境涯としてはふさわしくない。まして、崇高な日蓮仏法の後世として、さらにはその指導者としてはあるまじき境涯であろう。
さらに、自分自身が日本の支配的な権力を握ろうとしている。これは、日蓮の教えや生涯とは真逆である。
こういう存在すなわち、自身が畜生・修羅の境涯でありながら、多くの信者を集め、多くの絶対的な信頼や賞讃を集め、多くの富や権威権力や名誉栄誉を集め、世間に大きな影響を及ぼす存在を、仏法では「潜聖増上慢」という。これは、正しい仏法を弘めようとした人々を妨げ害を及ぼし、周囲に悪影響を及ぼす存在として挙げられている「三類の強敵」の中で、最も恐ろしい存在である。
日蓮の後世にも、あろうことか、潜聖増上慢が、それも戦後最大の宗教集団となった創価学会の最高指導者だったことは、驚くべきことである。
彼が、そのような存在に陥っていたのも、歴史的に様々な要因が考えられるが、その根本は、根底となったドグマが日寛アニミズムであったことだ。
日寬アニミズムも、彼の悪用材料として、ほぼ完ぺきなドグマ体系を備えていた。
もちろんのことだが、そこに日蓮の言う「血脈」=生死一大事血脈は存在しえず、彼の唱えた主張の根底を成すものはそれとは対極の、潜聖増上慢の利用に組する体系でしかなかった。
昨年の拙論文{私の池田大作観(1)池田大作入信神話と師弟不二」でも指摘したが、池田大作自身が戸田城聖との出会いを「師弟不二」と位置づけ、日寬アニミズムを利用して入信神話等をでっち上げ、自身の履歴についてもウソの創作出版をしたのも、会長就任前後からこの頃のことである。
だから、以上を見る限り、世の懸念、藤原弘達の指摘は、池田大作の最高権力者への野望をものの見事に的中しているのである。
ところが、この言論出版妨害問題の真最中に、日本共産党の谷口善太郎議員によって、国立戒壇の違憲性等に関する質問があった。
これをうけて政府は国立戒壇の意義について創価学会に照会した。
創価学会は、これに対する回答書では、「本門戒壇とは、本尊をまつり…中略…信者の総意と供養によって建てられるべきものである。…中略…正本堂の建設…中略…これが本門戒壇にあたる。…中略…国家権力とは無関係である」とあり、
この池田大作の記念講演を待つまでもなく、密かに会員には徹底しないで、すでに正式に、国立戒壇を否定し、正本堂は民衆立としていたのであるから、その無節操な変容ぶりには驚きである。
こうして、日蓮の勅命、戸田の遺言であった事の戒壇=国立戒壇を、民衆立の正本堂へ、すりかえていたのである。
純粋な仏法の方程式に依るのではなく、その方程式の時代によるアップデートを検討することもなく、その時々の都合に依る、己の権力欲や組織の事情などを根本としていたから、コロコロと理念や教義を言い換え、過去の言を覆さなければならない。
こういうのを詭弁というのではないだろうか。
日蓮の言うところの「広宣流布」の解釈を、この記念講演にて、「広宣流布とは決してゴールインを意味するものではない」などと言い換えたのは、まさしく創価学会が目的としてきた事の戒壇=国立戒壇を、まだ未完成の、民衆立の正本堂へ、すりかえるためだった。
決して、日蓮仏法そのもののドグマを自ら再検討していたのではなかった。
先述したが、自らの独善的なドグマの流布を「広宣流布」=「大文化運動」と定義したのは、前ページで指摘した如く、戦略的に自らを正当化したに過ぎず、それは、池田大作の策謀謝罪の前置きとしてしか意義のなかったものだったのである。
だから、その2年後の正本堂落成時にも、正本堂建設のための供養を集める時から自分たちが主張し続けて来たその意味づけや教義を、歪曲せざるをえなかった。
そして、これが、新たな紛争、板マンダラ事件の訴訟へと発展していくのである。
まさしく日蓮の言う、「自界叛逆難」の一現象である。
以上に挙げる如く、記念講演でのこの部分は、見事な詭弁という要素もあり、藤原弘達によって批判されていた当初の野望を、いみじくも挫かれた格好となった。
かつてからの野望も、このときはついえたかに見えた。
「新・人間革命」では、この部分について、
「また、〝学会は建設中の正本堂を『国立戒壇』にしようと考え、政界進出を果たした目的もそこにある〟との誤解が、いまだに社会の一部にあることから、伸一は、この問題にも言及していった。
そして、『本門の戒壇』は『国立戒壇』の必要など全くないこと、政界進出は戒壇建立のための手段では絶対にないこと――を改めて確認したのである」
と、わずかに触れている。
しかし、ここでも、世間の認識を「誤解」とし、公明党の政界進出の本音の意図、すなわち国会の決議によって国立の戒壇を建立しようとしていたことを否定し隠蔽している。そして本門の戒壇とした民衆立の正本堂を、後に国会の決議によって国立にしようとしたという世間の批判を否定しているのである。
まさに、歴史の改竄であろう。