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P36, 言論出版妨害事件 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(1)、日本共産党への憎悪

 つぎに、批判を展開していた日本共産党の側からの指摘を、もう一度確認しておく。


■盗聴裁判記録による、宮本顕治日本共産党委員長の主張

 「裁判記録 創価学会の電話盗聴」(1990/2/1、日本共産党中央委員会出版局)では、司法の場で、創価学会が、批判の急先鋒を担っていた日本共産党を逆恨みし、対抗として、宮本顕治委員長宅の電話盗聴を、組織的に行なったことが、明らかにされている。

 「池田大作会長は、一九七〇年五月三日…中略…謝罪と『猛省』の意を表明したのであった。
(二) 日本共産党への逆うらみと報復のための盗聴計画
 しかし、こうした『謝罪』や『猛省』も、実はたんに世論の批判をかわすことを目的とした、言葉だけのものにすぎなかった。二度と同じ轍を踏まぬなどという言葉とはうらはらに実際は創価学会幹部らは、言論出版妨害事件で一貫して厳しい批判をおこなった日本共産党を逆うらみして、同党に報復しようと企て、そのためには、同党の『内部情報』を入手しなければならないと考え、あえて不法な電話盗聴まで計画するにいたった。…中略…一九七〇年四月上旬ころ、…中略…被告山崎正友弁護士は、創価学会本部に被告北條浩(ママ)副会長をたずね、日本共産党の『内部情報』入手のために電話盗聴を行う計画をくわしく話し、『やる以上はきちっとやります。本格的な手段でやらないとしくじるので中途半端ではだめです』とのべ、大がかりな作戦にでるので資金として一、〇〇〇万円位かかることも伝えたうえ、計画実行について許可を求めた。
 被告北條浩副会長は、被告山崎正友弁護士の右の提案について賛意を表したが、『重大なことであり、自分の一存だけでもきめかねるから、結論は少し待ってくれ』とのべた。
 同年四月二十日過ぎころ、被告北條浩副会長は東京都新宿区信濃町三二番地所在文化会館内副会長室わきの小会議室に被告山崎正友弁護士をよび、計画をすすめるように話し、その場で活動資金の一部として三〇〇万円の現金を手渡した…中略…

(二) 実行グループの編成
 被告北條浩副会長をつうじて計画実行の許可を得た被告山崎正友弁護士は、被告広野輝夫と協議のうえ、創価学会学生部書記局に保管されていた学生部の『幹部カード』を参考資料とし、『タフであり、目がきき、要点をおさえて報告ができ、家族関係に問題のない』精鋭分子と思われる者を選択し、実行グループを編成した。
 こうしてつくられた実行グループは、被告山崎正友弁護士を最高責任者とし、被告広野輝夫が現場の指揮者格、被告竹岡誠治、同北林芳典が副指揮者格で、その他数名で編成されたが、被告竹岡誠治、同北林芳典をはじめ実行グループの全員はいずれも、盗聴の目的をうちあけられ、事情を知った上で参加したものである」

 ここで、北林芳典は、その2年前の新宿替え玉事件(参議院議員選挙でにおいて大規模な詐欺投票を行った事件)で禁固4か月執行猶予3年が確定し、執行猶予中の身であった。
 さらに、盗聴の下見は、池田大作の謝罪演説直後から開始されていたとある。


 「一九七〇年五月三日の前記池田大作会長の講演直後から、盗聴器を設置する場所、時期、方法をきめるために、日本共産党本部周辺の下見作業が行われた…中略…同年五月一〇日過ぎころにいたって、前記原告宅の電話を盗聴することに計画を変更しようと考え…中略…盗聴器設置の対象を原告宅の電話に変更することにした。この計画の変更は、被告山崎正友弁護士から被告北條浩副会長につたえられ、その了解を得た。
同年五月一四日ころ、被告広野輝夫ら実行グループは、…中略…前記原告から約二〇〇メートルの距離にある…中略…青木高井戸マンション四階Ⅾ室を…中略…いずれも実在しない虚偽の住所と偽名を賃貸借契約書に記入して賃借し…中略…右のアジトを中心に、さらに詳細な下見作業が行われていた…(以下略)」(同書P16-19)

 とある。
 司法の場で、このような詳細な因果関係の分析が行われるのは、希な事ではない。
 判別するための基準となる法が「仏法」律でなく「日本国憲法」ではあるが、それなりに当時における水準での科学的・合理的因果関係の分析がなされている。
 さらに、この盗聴事件は、刑事的には完全犯罪の様子を見て、10年後の山崎正友の創価学会恐喝事件の材料とされ、彼の証言によりはじめて明らかにされたという事件であり、言論出版妨害問題と密接な因果関係が存在している。
 その上で、その後の創価学会の歴史を前提にしなければ、池田大作の謝罪演説の本質を見逃す恐れがある。

 このため、もう少し、この書を材料として挙げておく。

 同書P32-34では、この民事訴訟を必要とした経緯のなかで、創価学会の組織的不法行為、およびその最高指導者である池田大作の社会的責任を問う部分が以下のように述べられている。

 「原告宮本顕治を幹部会委員長とする日本共産党中央委員会は、昭和五五年六月、本件盗聴行為が創価学会幹部による組織的不法行為であることが明らかになった直後、創価学会にたいし公開質問状を発し、『日本共産党と創価学会との合意についての協定』の死文化や創価学会への公明党支持おしつけ等の問題等への質問と合わせ、本件盗聴について、『その事実を率直にあきらかにする意志があるかどうか』『有罪あるいは時効にかかわりなく貴会としていかなる反省をし、いかなる措置をとったのか』と質問した。
 訴外池田大作(名誉会長)を事実上の指導者とし、被告北条浩(ママ)を会長とする創価学会は、右の公開質問状に何らかえりみることなく、一切回答を行なうことがなかった。
 被害者と国民に陳謝しなかったばかりか、機関誌やマスコミという場において、正々堂々と事実を明らかにし、国民世論の判断を仰ぐという機会すらもみずから放棄したのである。
 また、本件盗聴行為は、ほんらい被告らにたいして刑事責任が追及されるべき犯罪であった。…中略…
 ところが、被告らは、創価学会の組織ぐるみの隠蔽工作等によって、時効により刑事責任の追及を免れてしまった。
 つまり被告らの行為の真実の解明とその責任の追及は、被告らをふくむ創価学会によって、公の論争で国民の判断にゆだねる道はとざされ、刑事責任については時効で追及不能となったのである。
 したがって原告は、残された最後の手段として、真相の解明と正邪の判断、および損害の回復の道を民事裁判の場に求めることとしたのである。…中略…

 2、池田大作、創価学会の社会的責任
 本訴訟においては、盗聴に関する不法行為責任の構成上、被告は北条浩以下五名にとどめられた。
 しかし、後に詳述するように、本件盗聴行為は、宗教団体創価学会の業務と別個に行われたものでなく、創価学会の業務として、その組織を使って行われたもので、被告らはその不法行為において中心的役割をになったものとして追及されているのである。したがって、本件盗聴行為の全体を考察するにあたっては、訴外ではあるが、当時の創価学会会長池田大作、および宗教団体創価学会の果たした役割を見ることが不可欠である。
 池田大作会長(現名誉会長)は、創価学会の最高指導者として、同会の主要業務の最高決裁者、指揮者であり、かつ同会の行動は相当細部にいたるまで『報告書』によって池田会長まで集約されるシステムが確立されていた。本件盗聴の動機をなす言論出版妨害問題への対処において、対策会議をおこない、陣頭指揮をとっている。盗聴という行為についても法主である日達上人にたいする盗聴では池田大作が了解のうえ盗聴が行なわれており、日本共産党にたいする盗聴についても了解していることが示されている。
 しかも、本件盗聴行為には創価学会組織の指揮命令系統のもとに幾多の最高幹部にいたるまでが関与しており、創価学会の責任、およびその最高責任者である池田大作の責任が社会的に問われなければならないことは明らかである」

 ここで、池田大作に学会の行動が相当細部にいたるまで『報告書』によって池田会長まで集約されるシステムが確立されていたことが重要な点である。
 ここにも、言論出版妨害問題における池田大作「謝罪演説」に関する検討には、考慮に入れるべき不可欠な要素が含まれているのである。



そもそも、日蓮仏法から見れば、日本共産党は創価学会にとって善知識に相当することを、先述した。


以下、くり返しになるが、実態と経過について、さらに続きを見ていく。

 「一、背景および動機――言論出版妨害事件と創価学会らの対応
 1、言論出版妨害事件とその経過
 総選挙を控えた一九六九年(昭和四四年)暮、創価学会批判の出版物に対する学会の一連の出版妨害が明るみに出、いわゆる言論出版妨害事件として一大政治問題となった。
 発端は、同年一二月一三日夜放映されたNHKの総選挙特集番組、二党間討論『日本の進路』(共産党ー公明党)で、共産党側が、『創価学会を斬る』(藤原弘達著・日新報道出版部刊)、『公明党の素顔』(内藤国夫著・エール出版社刊)などの出版に際し、創価学会、公明党が著者や出版社に圧力、妨害を加えた問題を追及したことに始まる(甲第四号証)。
 著者藤原弘達に対しては、公明党都議や創価学会幹部、さらには田中角栄(自民党幹事長、当時)までが、出版をやめさせるために動いたほか、電話、ハガキによる脅迫が集中した。出版元の日新報道出版部は、大手取次には配本を拒否され、新聞各社からは広告掲載を断られるなど、大がかりな出版妨害にあったという問題である。
 この討論での日本共産党の追及に対し、公明党正木良明(衆議院議員候補、当時)は、『すべてウソである』と公言。
以後、日本共産党と公明党および創価学会の間で、言論の自由に関する激しい応酬が続けられることになる。これを契機に、かつて、同様の言論出版妨害を受けた著者・出版社等が、続々その妨害の事実を明らかにし、創価学会の体質ともいうべき出版妨害の実態が厳しく追及されていく。…中略…
 翌一九七〇年一月五日、公明党竹入委員長は記者会見で…中略…『事実無根の中傷』と全面否定の発言を行い(甲第四六号証)、この発言は創価学会、公明党に対する社会的批判の火に油を注いだ結果となった。
 国会では全野党からの追及を受け、労働団体、宗教団体、学者、文化人などから一斉に批判と抗議の声が挙がり、新聞各紙もキャンペーンを開始したのである(昭和五六・一一・四、山崎本人尋問一四丁以下)。

 2,一貫した共産党の追及、国民世論の高まりと窮地に陥った創価学会
(一) この創価学会・公明党の組織的、系統的な言論出版妨害問題について、最も徹底した追及をおこなったのは、原告が当時、書記長の任に在った日本共産党であった。
 共産党はこの問題を自由と民主主義の基本に関わる重大問題として位置づけ、前記のとおり、NHKの二党間討論でこの問題の火つけ役となったばかりでなく、国会内外での追及の先頭にたち、また機関紙『赤旗』での、連日の批判キャンペーンなどを徹底しておこなった(甲第二号証ないし甲第四六号証)。
 共産党は、言論出版妨害問題について、具体的事実にもとづき徹底した追及を行うと同時に、その根底にある公明党と創価学会の『一体不二』の関係及び創価学会の政界進出の目的とされる『国立戒壇建立』など、憲法に反する政教一体の非民主的体質をも全面的に批判し、終始、共産党対公明党・創価学会の対決の形を軸に問題が進行した。

(二) 当初、『事実無根』とシラを切り、ウヤムヤにしてしまえるとタカをくくっていた創価学会・公明党側も、社会的な厳しい追及に対応を迫られ、被告北条を中心に最高幹部が創価学会本部に、毎日集まり、国会・マスコミ・組織対策等を検討していた。
 出席メンバーは、被告北条、秋谷栄之助(現会長)、山崎尚見(現副会長)ら、公明党からは竹入義勝委員長、矢野絢也書記長らであり、弁護士としては被告山崎がただ一人、一月中旬ころより常連として参加していた(昭和五六・一一・四、山崎本人尋問二三丁以下)…中略…
 二月二四日、『赤旗』は、公明党渡部一郎国対委員長が、一月一四日、日大講堂で行った演説全文(「言論・出版の自由に関する懇談会」が入手し、記者会見で公表したもの)を掲載した(甲第四七号証、甲第六一号証)。
 渡部演説は、創価学会、公明党が外部的には『反省』を口にしながら、創価学会内部では、全く欺瞞的に居直り…中略…各党に対する低劣な中傷にも満ちたもので、渡部は、二月二十七日、国会対策委員長辞任に追い込まれた。…中略…

 3、日本共産党対策の強化と反共攻撃
(一) このように社会的批判をかわす表面上の手直しを行う一方、公明党・創価学会内部では、批判の急先鋒であった日本共産党に対する反撃が組織された。
 すなわち、共産党関係の『スキャンダル』などを集め、創価学会の持つ全媒体を利用して、闘いをいどむという方針を実行したのである(昭和五六・一一・四、山崎本人尋問、二六丁裏以下)。日本共産党に対するキャンペーンのための特別の組織『理論総合会議』が設置され、秋谷栄之助(現会長)を議長に作戦を立て実行した(同、三一丁表以下)。
 池田大作会長は、社会的批判の強まりに狼狽し、『政教分離は創価学会を壊滅させようという陰謀だ』『私は殺される』などと取り乱す一方、『共産党とは一〇年二〇年の死闘が始まる』『お前たちのやっていることは全部後手だ、先手をとれ』と幹部を叱咤激励した(同、前二八丁裏以下)。
 この山崎供述のとおり、二月一五日付『公明新聞』(甲第四九号証)には、『他党の中傷反論せよ』との表題で、公明党国会対策委員会で出た共産党への反撃を支持する強硬意見が紹介されている。
 二月二七日付朝日新聞(甲第五〇号証)は、公明党機関紙『公明新聞』が言論出版妨害問題となってから初めて共産党攻撃の記事を載せ、〝反撃〟にのり出したと報道している。
 しかし、公明党の〝反撃〟なるものは、追及されている言論出版妨害について、正面からフェアに論争し反論するのでなく、これには全く答えずに、ほおかむりをしたまま、共産党の〝言論妨害〟〝失業対策の不正受給〟など筋違いの問題を云々する全くのすりかえであった。
 これについては日本共産党書記長であった原告が、三月四日、定例記者会見で手厳しく批判した(甲第四〇号証)ほか、三月五日付朝日新聞(甲第五一号証)も、『各党、〝すりかえ〟を警戒』(〝出版妨害〟問題、公明の反撃)『共産党と正面対決ー暴露作戦の準備進める』の表題でこの問題を報道した。
 その中で創価学会機関紙『聖教新聞』が三月二日付紙面から『共産主義の本質=第一部、隠された革命戦略』という反共連載を始めた事実なども報道し、これは、『徹底した公明党批判を続けている共産党にしぼって逆襲を開始したものとみられる』『各党は、言論・出版問題にからむ世間の批判をそらすため、問題の所在をすりかえようとするものとして警戒している』と批判的に報道している。
 また、同紙面、『記者席』欄は、黒柳公明党参議院議員の予算委員会での質問を、『言論・出版妨害問題で痛めつけられた共産党への〝憎しみ〟がむき出し。』と報じた。これは当時の創価学会・公明党の共産党憎しの感情の強さを裏付けている。…中略…
 公明党・創価学会は、文字どおり国民各層からの厳しい批判の十字砲火を浴びた形となったのである」


 ここで、渡部講演の公表は、共産党の盗聴によるものではなく、
「渡部講演は、…中略…講演内容のテープが『言論、出版の自由を守る懇談会』(約四〇〇名の文化人・知識人の組織)に講演が行われた日から一カ月も経った同年二月二〇日ごろに届けられた。同懇談会がこれを公表したのは同月二三日の記者会見の場であった。右の学生部幹部会なるものは、約二万人の学生会員が参加したとされ(「聖教新聞」同年一月一二日)、会場内で講演内容を録音する者も少なからずあったはずである。学会は当時、一般学生部員むけ宣伝教育用として渡部講演の録音テープを積極的に聞かせていたともいわれる。――日本共産党による盗聴などという憶測には何の根拠もないのである」(同書P280)

 この指摘からは、前述した「新・人間革命」P280での記述「「不当な方法で録音した可能性の高い会内行事のテープを、無断で公表し、新聞等に掲載させたことは、著作権の侵害であり…」なども、相手に濡れ衣を被せた捏造であったことが判明する。

 また、
 「しかも渡部講演の内容は、国民が当時深く憂慮した言論出版の自由妨害事件を『笑い話のような事件』『バカバカしい話』『ハナ糞みたいなもの』とし、それを批判する者に『社会党のうすバカども』『(民社党は)頭が宙返りしている』『自民党に〝貸し〟はあるけど〝借り〟はない』『このおろかなる共産党』などと低劣な中傷を投げつけたものであった。このような低劣な講演内容を反省し、恥じ入るのならともかく、その内容が国民に知られたことをきっかけに日本共産党にたいする電話盗聴を企むなどという学会メンバーの心情には、およそ言論出版妨害問題への真摯な反省などひとかけらもうかがわれず、常軌を逸しているものと言うほかはない。
 こうした一連の経過が示すとおり、本件盗聴には、創価学会・公明党を護るためにはいかなる反社会的行為も、いかなる法違反も敢えて辞さない、学会及び北條らの独善的反社会的態度が一貫しているのである」(同書P280)
 と、糾弾している。

 また、池田の謝罪演説については、
 「4、創価学会の対応の変化とその本質――『策動的謝罪』
(一) 一九七〇年(昭和四五年)五月三日、池田大作創価学会会長(当時)は、第三三回創価学会本部総会で講演を行い、その中で、言論出版妨害問題について『言論妨害というような陰険な意図は全くなかった』と言いつつ、『言論妨害と受け取られ、関係者に圧力を感じさせ、世間に迷惑をかけたことについて』『二度と同じ轍を踏ふまぬと猛省する』『民衆の権利である、言論の自由を守りぬくことを学会の総意として確認したい』と、いわゆる『謝罪講演』を行った(甲第五三号証の二)。また、共産党に対する態度として、『現在、共産党と学会が常に敵対関係にあるかのような印象を世間に与えているのは、共産党の学会に対する攻撃から、防衛のため、こちらとしても反撃せざるをえなかったから』などと弁解しつつ
、『我々はかたくなな反共主義を掲げるものではない』『私どもの意向としては、こうした無益な争いは絶対にやめるべきである』などと、宗教の次元に立つ学会が、政党と同次元で争うことをすべきでないとの態度表明を行った(甲第五三号証の三)
 これらの意思表明は、文字通り受け取るなら、政教分離の方向とともに、創価学会の『反省』の表明としては、それまでの姿勢から一歩を前に進めたものであった。
(二) しかし、その『謝罪』講演は、その言葉とは裏腹の策動的『謝罪』ともいうべきものであった。このことは、その後の公明党・創価学会の政教一体の実態や、変わらぬ反共主義をみるまでもなく、当時この『謝罪』講演への方針変更、そして講演原稿の作成に深く関わった被告山崎正友自身の供述が、そのいきさつを明らかにしている。すなわち、
(1) 三月二十四日ころ(被告山崎は、当初の三月末という供述を、後に記憶を喚起し訂正している、昭和五九・九・一二、山崎本人尋問、一丁裏)、創価学会渋谷研修所で、池田、北条、竹入、被告山崎、塚本素山、橋本公亘(中大教授)らで竹入談話の打合わせを行った。打合せの結果は、従来どおり、『言論妨害ではない、しかしそのようにうけとられるかのようなことについては遺憾である』という態度のものであった(昭和五六・一二・九、山崎本人尋問、三丁表以下)。
(2) その打合わせ後、池田会長と被告山崎は、二人で池田専用車で都内を回りながら話をした。
 『学会への批判はおさまるか』との池田の心配に、被告山崎が、「おさまらない』『ある程度思いきったいき方をして頭を下げ、この際、改善すべきは改善して、やりなおした方がやり易い。』と進言した。池田はおおきくうなずき『そうしよう。自分もそう思っている。』『長いことやりあってもたまらない』との趣旨の発言をし、方向転換が決まった(同五丁)。
(3) 方向転換は、橋本公亘、秋谷栄之助、竹入らには不評であったが、池田の決心は固く、直ちに『謝罪』講演の原稿草案にとりかかった(同六丁)というのである。
 すなわち創価学会・公明党にとって、五月三日の池田『謝罪講演』は、本心からの『猛省』でも『謝罪』でもなく、日本共産党の徹底した追及や野党、労働団体や民主団体、広範な国民の高まる批判に、逃れようもなく追い詰められ、『たまらない』、『思い切って頭を下げる方が得策』と選んだ方策でしかなかったのである。
(三) この五月三日の『謝罪演説』に向けて、最高首脳の間で方向転換が決められた三月下旬ころ、公明党・創価学会内では、批判の先頭に立つ日本共産党に対する憎悪の感情はますます強まり、『公明新聞』『聖教新聞』での異常な反共キャンペーンの連載や、怪文書的なパンフを学会組織を使って流すなどが、三月、四月と続けられ、組織的なトラブルも続いた(同七丁)。
 このような状況の中で、本件原告宅電話盗聴の謀議計画、準備が進められたのである」(同書P33-40)
 とある。

 ここには、先述した山崎正友の著書において若干の日時の記載の変更はあるが、拙論文で述べてきた具体的事実をすべて裏づけるに十分であり、さらに、若干の事実が指摘されている。
 それは、批判の急先鋒だった共産党に対する「憎しみの感情」の存在である。
これは、宗教問題に限らず、一般人においても「仇討ち」、「復讐」の連鎖が起きる。
 本来は、罪を憎んで人を憎まず、人を許して諭す、そういったことの役割を担うのが宗教である。
 創価学会の掲げる教義は、仮に立派で正しいものであったとしても、それを広める人や組織が、その教義に反したり、反社会的であったり、反省もなく、正しい指摘を拒否することは、必然的に法を破ることにつながり、天を仰いで唾を吐くことに匹敵する。
 歴史的にも世界中に宗教問題によって、幾多の報復の連鎖が繰り返されてきて、現在もその一部は続いている。

 さらに注目すべき点は、事実を科学的分析することに長けている宮本顕治日本共産党委員長が、その後、創価学会を再評価し、1974年に池田大作と和やかに人生対談(「人生対談」1975/12/20、毎日新聞社刊、「宮本 牧口さんや戸田さんの受難は、私もかねがね心にとめています」同書P14など)を行って互いに評価し合い、創共協定(飯塚繁太郎外山四郎共著「池田大作と宮沢賢治」1975/8/15、一光社、P18等)まで行っていた。
 そういった中、池田大作の信義に悖るこの事件を、訴外とはしながらも厳然と科学的分析と信念に基づいて、
『その『謝罪』講演は、その言葉とは裏腹の策動的『謝罪』ともいうべきものであった』
 と断じ、民事裁判を通じて、再びこの言論出版妨害事件、及びそれからの10年間池田大作と創価学会の社会的責任を糾弾していることである。
 


■池田大作「謝罪演説」の検討

 年初から国会をも巻き込む大問題に発展していた創価学会の言論出版妨害事件は、4月に入り、創価学会の方針転換とともにその収拾へ向けて、内部根まわしやマスコミ対策などが急ピッチで進んだ。
 当初、池田会長の記者会見による謝罪も検討されたが、来賓を迎えた内部総会で、謝罪をもりこむ方針となった。

 それも、謝罪部分は、盛大に行う池田自身の会長就任十周年の祝典との「抱き合わせ」という策略であった。
 「負けるが勝ち」という策謀にもとづいてか、今からみれば、何とも言えない悪知恵(著名人からみれば猿知恵?)のそしりは免れない。
 なお、池田大作の謝罪を含む演説の原稿は、側近弟子の原島崇、桐山泰次が作成したものであることが、検討に注意を要する。



 1970年(昭和45年)5月3日、東京・日大講堂を15000人の創価学会全国代表幹部で埋め尽くし、著名人を来賓に向かえ、第33回本部総会が盛大に開催された。
 この全文は、翌日の「聖教新聞」に掲載され、各社マスコミや著名人たちの著書にも、論評において様々に引用された。
 たとえば「池田大作と宮沢賢治」には、謝罪部分から共産党に対する態度にいたるまでの全文が、資料として掲載されている。

 これは、池田会長講演集第3巻,1971/5/3,P3-56に全文が収録されている。
 その54ページにわたる長文の内容を見ると、順番に、池田会長就任十周年の意義に8ページ、言論・出版問題に3ページ、本門戒壇の意義に7ページ、学会と公明党の関係に5ページ強、立正安国の原理に4ページ強、共産党に対する態度に1ページ強、創価学会の体質問題に7ページ弱、そのあと20ページにわたって70年代・21世紀の展望(問題視するところはほとんどなく、社会的な働きかけや意義に関する正当化や指導)が費やされている。
謝罪部分にあたる言論・出版問題は、長文54ページの中のわずか3ページ、1割にも満たない。

「この講演は、実に一時間二十七分にわたった」(「新・人間革命」第十四巻、P310)
 とあるから、この数字が事実ならば、来賓や多数のマスコミ関係者たちは、わずか数分の謝罪部分を聞くために、その10倍以上の時間を無関心で余計で聞くに堪えない(?)創価学会内部宣伝を聞かされるハメになったわけで、熱心な学会幹部ならともかく、来賓にとっては随分と忍耐が強要されただろう。


 週刊文春1970年5月18日号,P28-31では、この総会の様子を以下のように伝えている。
「『(言論・出版問題についてワビる件)……を確認しておきたいと思いますが、(ひときわ声高く)みなさん、いかがでございましょうか!』
全員拍手。
『(国立戒壇というコトバは今後、使わない件)……を明確にしておきたいと思いますが、いかがでしょうか!』
 拍手。『賛成の人は手を挙げてください』とさいそくされて『ハァーィッ!』(もちろん全員)
『(学会と公明党を切り離すことについて)……を明確にしておきたいと思いますが……』
『ハァーィッ!』…中略…
『もう一回、手をあげてください!』
『ハァーィッ!』(全員)
 以後、『学会の体質改善』にフれ『ハァーィッ!』『ハァーィッ!』。
…中略…
 終わりに近づくにつれ青年部の挙手も元気がなかった。
『新聞にはでないが、会長講演の前に立った辻(武寿)総務部長は、『先駆者はつねに迫害にあう』と述べ、つぎに立った日達上人も『いわれなき非難に苦しまされる池田会長』と同情のコトバをのべていますからね。
池田会長の〝全面降伏〟をきいてナミダしていた女性幹部は、会長を気の毒におもう気持ちでイッパイでしょうな。報道陣や来賓を前にして、〝堪えがたきを堪える〟心境だったのでしょう。一口に言えば、今度の総会はマスコミ向けに演出された集会といっていいですヨ』
 と、来賓の一人が感想を洩らす。」
 とある。

 どうやら、池田大作はじめ、側近たち、創価学会は、熱心な会員を総動員して、お涙頂戴、池田大作の正当化・会長続投の支持とともに、創価学会の内部宣伝を社会に対して芝居演出したのである。
したがって、謝罪部分に入る前置き演説部分が大いに役立っている。

 以下、実際の池田大作の謝罪を含む記念講演(以下、記念講演)と、小説「新・人間革命」第十四巻での記述(以下「新・人間革命」)とを比較検討してみる。
「新・人間革命」には、この総会の様子が「大河」の章として記載されている。
 午前10時50分開会宣言、管弦楽団による総会祝典序曲演奏、合唱団、鼓笛隊、吹奏楽団の演奏が参加者を魅了したという。

 記念講演では、
「薫風さわやかな本日、総本山より日達上人猊下の御臨席を仰ぎ、多数の御僧侶のご出席をたまわり、そして法華講の方々、御来賓の皆様に暖かく見守っていただくなか…中略…」
 で始まったお決まりの冒頭の次に、
「本日を、日達上人猊下の御登座十周年の祝典の日とさせていただきたいのであります。…中略…」
 と続くが、「新・人間革命」では、これらを含む日達上人猊下に関することは省略され、続くところの、
「この十年間、皆さま方の真剣な努力精進によって、広宣流布の輝かしい時代を見事に築きあげることができました。…中略…本当にありがとうございました。(拍手)」
 は、「新・人間革命」P296からほぼそっくり始まっている、山本伸一の挨拶の第一声となっている。
 「新・人間革命」では、続いて、
「健気なる、大誠実の同志がいたからこそ…この同志のために、わが人生を捧げようというのが十周年を迎える彼の誓いであった」とあるが、それを示す言葉は、記念講演には一切ない。
 記念講演は、①自分の会長期間10年分も含めて、「広宣流布の一切の基盤は、全学会員の努力の結晶であり、全部、皆さま方のもの」との宣言、②戸田会長からの流れを振り返り戸田逝去時より約10倍の拡大をしたことの誇りと、「この実証が人類の新しい時代の潮流」との叫び、③「時代はいよいよ広宣流布の正宗分に入った…中略…これからの十年は創業の時代、建設の時代を終えて、完成期、総仕上げのときに入った」として、拡大のみの時ではなく「一人一人の社会での成長が最も望まれる」気運としたこと、④正本堂こそ、「皆さん方一人一人の胸中に絶対の幸福の宝塔が湧現していく象徴」とし、その完成を目指して前進を開始しようと訴えている(拍手)。

「新・人間革命」では上記の①②は省かれ、③については「社会での一人ひとりの活躍」が最も望まれるとしている。
 ④については「正本堂の完成をめざし、さまざまな目標を掲げて前進していた。そしてそれを達成すれば、その日を境に、時代も、社会も一変してしまうかのような思いをいだいている人も、少なくなかったのである」としている。
 しかし、拙論文内で後述する予定であるが、④の記載は明らかに歴史の書き換えであって、結果からさかのぼっての正当化である。
 正本堂の意義については、前述したが、その建立時点が広宣流布達成の時であるとして、創価学会は多額の供養を集めていたのであり、この講演の時点でもなんらその意義は変わっていなかったのである。
 それが建立直前になって、妙信講(現、正信会)との争いにより、その意義が変更され、広宣流布の終着点ではないとされたのである。
 大枚はたいて供養したのにがっかりした会員も多かったはずである。


 記念講演では、広宣流布の本義について、⑤「広宣流布とは決してゴールインを意味するものではない。なにか特別な終着点のように考えるのは、仏法の根本義からしても正しくないと思う。大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、常に未来に広がっていく正法であります」⑥「大聖人は鎌倉時代当時を指しても広宣流布の時であると断言されておりました。それは、大御本尊という全民衆の信仰すべき法体を確立されて、そこから広々と、妙法の源流が流れていくことを確信せられていたが故に、たとえ一国謗法の時であっても、因果倶時で広宣流布の時であるとされていたと思うのであります」⑦「しかも大聖人が『末法万年尽未来際』と叫ばれたのは、それ自体、広宣流布の流れは、悠久にとどまるところがないことを示されたものであります。広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります」⑧正本堂建立は、終着点ではなく、世界へ向けての妙法広布の開幕である、⑨今まで全力で本尊流布してきた結果が日蓮以来の法体の広宣流布の結実であり、これが即、「世界への化儀の広宣流布の始まり」でもあり、これが因となって万人に伝播する、⑩法体の広宣流布を土台、化儀の広宣流布を建物にたとえながら、
「法体の広宣流布が、社会の底流を築く戦いであるのに対して、化儀の広宣流布は現実社会の姿のうえに妙法が反映され、みずみずしい生命の和泉が万人を潤していくことにほかならない。
 所詮、宗教は文化の土台であり、人間性の土壌であります。健全な宗教を失ったとき、文化は退廃し、人間性のなかに大きな空洞ができてしまうといえましょう」
 として、政治に重大な関心を払い公明党が政界に新風を送った、政治が全てではないが宗教は文化の根本に関わるので、
「学会員の一人一人が社会のなかで人間的に成長し、価値を生んでいくことが、本格的な広宣流布の展開であると意義づけたい。…中略…広宣流布とはまさしく〝妙法の大地に展開する大文化運動〟であると定義づけ…中略…信心しているいないにかかわらず、一切の人々を包容し、一切の人々と協調しつつ、民衆の幸福と勝利のための雄大な文化建設をなしゆく、その使命と実践の団体が我が創価学会であると、ここに再確認したいのであります。
 そして、私どもは『社会に信頼され親しまれる創価学会』をモットーに、再びさっそうと、忍耐強く進んでいきたいと思いますが、いかがでありましょうか。(拍手)」
 のように続いている。
 ここまで前置きで8ページ、約12分、約15000人による5回の拍手の後、ようやく言論・出版問題の言及へつながる。
 ただ、これはその後の正当化論理の展開のために極めて重要な前置きである。

 「新・人間革命」では、上記の④のあと⑤⑦がほぼそのままつながり、
「広宣流布が『流れそれ自体』ということは、間断なき永遠の闘争を意味する…中略…そこに生命の歓喜と躍動と真実の幸福がある」と続く。
 そして⑧⑨と⑩の、法体の広宣流布などについての内容は省略され、
 「さらに伸一は『宗教は文化の土台であり、人間性の土壌である』と述べ、広宣流布とは〝妙法の大地に展開する大文化運動〟であると定義づけたのである。そして『いっさいの人びとを包容しつつ、民衆の幸福と勝利のための雄大な文化建設をなしゆく使命と実践の団体が創価学会である』と語り、こう呼びかけた。
『私どもは『社会に信頼され親しまれる創価学会』をモットーに、再びさっそうと、忍耐強く進んでいきたいと思いますが、いかがでありましょうか!』
 賛同の大拍手がわき起こり、会場の大鉄傘を揺るがした。参加者は、崇高な社会建設の使命を、一段と深く自覚したのである」
 と絶賛しているのである。

 この、巧みに演出された大いなる盛り上がりは、来賓やマスコミ関係者などを圧倒し(?)、次に続く謝罪の影響を最大限に薄めるのに貢献した(?)のである。
 いわば、我ら15000人が会長(本仏)と仰ぐ池田大作が、全国のマスコミのカメラの前で頭を下げる前に行なった、その恥や深手をぼやかすための精一杯のお膳立てが行なわれたのである。


 当然ながら、「新・人間革命」で省略された⑥⑧⑨と⑩の一部分は、この時点で根本・唯一無二としていた弘安2年の大御本尊、これを法体とする日蓮正宗の教義についての宣揚である。
 さらに重要な点は、これ自体が真の日蓮仏法ではないところの、日寬アニミズムであることは、拙論文で先述した。
 つまり、その後に展開された主張、「広宣流布とは〝妙法の大地に展開する大文化運動〟である」との定義は、根底とした池田大作のアニミズムを、弟子の原島崇と桐村泰次が、きれいな文言で飾り立てたものである。
 一般に「文化」というと、人類や、特定の国家や地域、民族の生活や諸活動全般をいう概念で、その高低浅深・正邪善悪などを検討すべきでないという、幅広い概念である。
 たとえば世間でも学問の場でも、十字軍や魔女狩り、またイスラム原理主義によるテロは一般にも正邪善悪の対象となっているが、その背景・母体となっているキリスト教やイスラム教の文化を、文化として批判・非難することはない。
 どんな文化も尊重されるべきという、モラルや暗黙の了解がある。
 つまり、自分たちへの過ちや批判を、耳当りの良い「大文化運動」という表現で、正当化し、さらなる崇高な格付けに利用するのに、効果的であったといえる。


 当時の創価学会は、(今でもそうだが)日寬アニミズムを盲目的にドグマとして受け入れ、日蓮仏法についての「理証」すなわち科学的検証などを全く行わなかったのであるから、ドグマを当時の風潮に言いかえるしかなかった。
 当時の日蓮の開目抄の切り文「…智者に我義やぶられずば用いじ…」の真意(これも先述したが)を、科学や学問の発達した今もなお分からないでいるのが、創価学会に限らず、多くの日蓮教団に共通している。(なお、創価学会は、「仏法は(現実における)勝負」と曲解していることも付け加えておく)

 学生運動の盛んであった当時、全国から集まってきた創価学会幹部にとっては、革新的・革命的な文言に聞こえたであろうが、この文言の根底に、仮にキリスト教やナチズムがあってもこの定義づけが成り立つことを鋭く見抜かねばならない。
 「妙法」を、これらのドグマに置き換えても、それらを信奉する集団にとっては十分通用するではないか。
 ちなみに、ナポレオンの伝記や、ヒトラーの「わが闘争」を参照してみることをお勧めする。
 つまり、単なる組織拡大の論理の、耳辺りよい巧みな言いかえにすぎない。
 この原稿の作者の原島崇は、この化儀の広宣流布の模様を、人間革命になぞらえて現代風に「総体革命」と称したが、これはたちまちその後の創価学会組織内に広まった、というおまけがついている。


 

■言論・出版問題での謝罪部分(同書P10-13、「池田大作と宮沢賢治」P314-315)

 「次に言論・出版問題について、私の心境を申し上げます。
 今度の問題は『正しく理解してほしい』という、極めて単純な動機から発したものであり、個人の情熱からの交渉であったと思う。ゆえに言論妨害というような陰険な意図は全くなかったのでありますが、結果として、これらの言動が全て言論妨害と受け取られ、関係者の方々に圧力を感じさせ、世間にも迷惑をおかけしてしまったことは、まことに申しなく、残念でなりません。
 たしかにこれは、それ自体として法律に抵触するものではなかったと思う。しかし私は、法に触れないから、かまわないというような独善的な姿勢ですまされる問題ではなく、まさに道義的に考えなければならない、最も大切な問題だと思うのであります。
 今回の問題をめぐって幾多の新聞、雑誌にフランスのボルテールの次の言葉が引用されておりました。それは『私は、お前のいうことに反対だ。だが、お前がそれをいう権利を、私は命にかけて守る』という有名な言葉であります。私はこれこそ言論の自由の根本だと思う。
 かくも言論の自由が尊重されるゆえんは、それが人間の権利の欠くべからざる要素であり、あらゆる人が自己の主義・主張をなんら拘束されることなく、表現できることが、民主主義の基盤であるからであります。
 その点からいえば、今回の問題は、あまりにも配慮が足りなかったと思う。また、名誉を守るためとはいえ、これまでは批判に対して、あまりにも神経過敏になりすぎた体質があり、それが寛容さを欠き、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。今後は、二度と、同じ轍を踏んではならぬ、と猛省したいのであります。
 私は、私の良心として、いかなる理由やいいぶんがあったにせよ、関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直におわび申し上げるものであります。もしできうれば、いつの日か関係者の方におわびしたい気持ちでもあります。
 また、この問題には、学会幹部も何人か関係していますが、全般の学会員の皆さん方には、なんら責任のないことであります。その皆さん方に種々ご心配をおかけしまして、私としては申しわけない気持ちでいっぱいであります。
 私自身、小説も書いております。随筆も書いてきました。いろいろな論文も書いております。これからも書いてまいります。近代社会の言論の自由の恩恵に浴している一人であります。もし今の社会に言論の自由がなかったならば、自分の思うことも書けないでありましょうし、こうして話していることもできなかったかもしれません。総じては、学会の発展も、こんなに急展開できなかったでありましょう。
 言論の自由が、幾多、先人の流血の戦いによって勝ち取られたものであり、人間の権利を保障する尊い遺産であることも、よくわきまえているつもりであります。
 これを侵すことは民衆の権利への侵害であることを明確に再認識し、言論の自由を守り抜くことを私どもの総意として確認したいと思いますが、いかがでしょうか。(拍手)」



 さて、池田大作は、この部分の原稿を読みながら、本当に「ごめんなさい」という気持ちで、頭を下げたのであろうか。
 元はと言えば自分自身の命令一言で発展した大問題であり、それは自分自身が一番よく知っていることである。
 どうして、この本当のことを打ち明けて、あやまらなかったのであろうか。上記のごとく、この本当のことが、謝罪部分には一言もない。
 全国民に多大な迷惑を及ぼしたことに対して述べるにしては、美辞麗句を駆使して苦しい言い逃れに終始した、かなり不遜な内容ではなかろうか。
 それが、いつもながらの「代作」であってもである。

 これでは、後に自分の悪事の真実を暴露して懺悔した弟子、山崎正友の懺悔にも劣るではないか。
 自分を師匠として仰いでいる弟子や学会員までも、裏切るものではないだろうか。

 池田大作は、本当に心から懺悔したのではないことが、前述の背景とこの文面で明らかである。
 そして、そのことは、その後の創価学会の歴史も裏付けている。
 そこには、自分の胸中の「真実」を覆い隠し、自身の魂を悪魔に委ねた姿があった。
 自らの悪魔、自らに内在する悪魔、つまり仏法上でいう「第六天の魔王」に、魂(生命)を委ねた姿である。
 もっとも、この悪魔は、拙論文で先述したところの、御塔川リンチ事件から、主たる役割を果たしていたのであろう。

 このことは、他でもない池田大作自身が、未来永劫、背負っていかなければならない罪業である。

 また、衆生世間という別の側面からは、これは、彼を信奉する日蓮仏法の信者の生命にとっては「潜聖増上慢」にあたり、真の成仏の妨げとなるのである。

 仏法律に立てば、いかに外面を飾っても、どんなにウソで取り繕っても、自身の胸中=自分自身の生命は、厳然とした因果倶時であり、一念三千の因果応報=諸法実相の何ものでもないのである。

 仏法律は、まことに厳しい。
 それも自分自身が一番よく知っているはずであり、師匠を名のるのであればなおのこと、弟子たち(側近から末端会員まで)に、堂々と模範として背中を見せる立場にたっていたにもかかわらず…である。


 弟子の山崎正友の進言「負けるが勝ち」にそって行われた、宮本顕治日本共産党委員長が訴訟で語る『策動的謝罪』が、かなり的を得た指摘となっている。

 
 この会場に集まった15000人の幹部たちは、前述のジャーナリストの指摘の如く、ほぼ全て、この池田大作を糾弾することもなく、彼の提案に大拍手や挙手を行い、かえって、なお一層自分たちの師匠・指導者として認め、讃嘆した。
 大勢の彼ら彼女ら幹部も、集団心理もあってか、悪魔に魂を委ねてしまったのである。
 その後、創価学会の発展にともなって、自らの生活や利益のために、悪魔に魂を売った会員も少なからずいる。
 山崎正友や原島崇、福島源次郎などの愛弟子は、自ら気づいて懺悔・告発したが、気が付かない者、気が付いていながら面従腹背の者、なんとか創価学会を改革しようとする者など、さまざまな会員としての同志の姿を、私は知っている。

 日蓮によれば「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱えへがたき題目なり(諸法実相抄、御書P1360)であるから、こういった組織であっても、互いに許し合い指摘し合うべき同志の集まりなのであり、尊重・尊敬し「水魚の思い」であるべきなのである。また、

 「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(生死一大事血脈抄、御書P1337)

 とある如く、そんな同志も含めて、また同志が創価学会とは別の組織であっても一緒に題目を唱えることが日蓮仏法の「血脈」なのである。


 日常、こうして日蓮の遺文に接していても、やがて創価学会が破門されても、潜聖増上慢の姿を見抜けない会員は多い。

 まさか、自分たちにとって、その最高指導者に潜聖増上慢が宿っているとは、誰も思わない…これが、潜聖増上慢の本質なのであるから。
 こうして悪魔(化他自在天、第六天の魔王)に魂を委ねた指導者を、正面切って糾弾する弟子は、その後10年間、ほとんどいなかった。
 その後、昭和54年に池田大作は会長を辞任し、山崎正友や原島崇などの愛弟子が造反して懺悔告白の活動を始めるが、第六天の魔王の策謀は、潜聖増上慢として内部に場を移した宗門や、外部では政治の場で、仇討ちや報復・策謀の連鎖として繰り返されていくのである。

 神聖な宗教者、仏法者を語りながら…

 この総会に参加していた幹部たちは、今生きていればやはり70代以上の高齢者となっているはずであろう。
 いまこうした事実が忘れ去られ、都合の悪い部分を隠蔽し、美化して塗り替えられている創価学会の歴史については、偽りを排した真実の歴史に戻すべきである。
 そして、私達は、日蓮仏法の真の信者として、それを人生の先輩(の書物)から受け継ぎ、後世に正確に科学的分析して伝えなければならない。

 日蓮仏法から外れた日寬アニミズムといっても、これにもとづいた大規模な集団心理が、それなりの効果を発揮したことは、注目すべき現象である。
 今の日本社会では、このような見せかけの謝罪演説は世間に通用するはずもなく、もしこの事件が現在起っていたならば、池田大作はナポレオンのように失脚したであろう。
 この謝罪演説の後半には、エーリッヒ・フロムの指摘も引用されているが、池田大作が許され、その後創価学会がある程度発展したのは、この1970年代特有の時代背景や民衆の心理が大いに影響していたのは確かである。
ここには、ナチズムが拡大する中で、そういったことについて1941年代に書かれた哲学書「自由からの逃亡」においてフロムが指摘するところの、「権威へ依存」するという、戦後の昭和時代に多くの民衆に見られた傾向の現れとも分析することができる。

 エーリッヒ・フロムの指摘については、できれば引用して、創価学会会員について詳細に分析してみたい。
 現在も先述したような、創価学会の末端組織では、さまざまな会員(池田大作ファン)たちがいて、今も創価学会では毎日の如く、池田大作の「大売り出し中」であるが、自ら日蓮仏法を科学的に検討して自身の信念とする者は少なく、やはりフロムの指摘する「権威へ依存」する者が圧倒的に多いような印象を、私はもっている。



 以上の考察は、以下の日蓮仏法の前提にもとづいて行なった。
 悪魔に魂を委ねた人々、悪魔に魂を売った人々(ともに十界の境涯でいえば畜生、修羅)も、十界マンダラには一念三千の法理「南無妙法蓮華経」として参加している。
 仏法では悪魔とは第六天の魔王、潜聖増上慢のことであり、曼荼羅にも内包してる、自分自身の、一念三千の生命の一部分である。

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