ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P35, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(5) 戦略的で周到な捏造
■言論出版妨害事件1970年5月分、現時点でのウィキペディア(Wikipedia)での概要
「詳細は「創価学会#政府の公明党と創価学会に対する見解」および「政教分離原則#宗教団体の政治参加について」を参照
このような社会的批判の高まりと、政治的追及が創価学会と公明党の「政教一致」問題にまで及ぶに至り、池田は1970年(昭和45年)5月3日に創価学会本部総会で、「『正しく理解してほしい』という極めて単純な動機から発したものであり個人の熱情からの交渉であった」、「言論妨害というような陰湿な意図は全くなかった[※ 3]」と弁明しながらも、「名誉を守るためとはいえこれまでは批判に対してあまりにも神経過敏にすぎた体質がありそれが寛容さを欠きわざわざ社会と断絶を作ってしまったことも認めなければならない……」
この、池田の謝罪演説の前段階において、以下の指摘事実をあげておく。
■藤原行正著「池田大作の素顔」での記述
「池田大作はそれだけ巧妙に自分の権力構造をつくり上げたわけだが、その過程で二つの『魔法の杖』を使った。
その魔法の杖とは『戸田城聖』という先代会長の名前の利用と、仏法の悪用である。この二つの作業を徹底して繰り返したのが池田の学会管理術の秘密であった。
また、池田大作が三十二歳で手に入れた創価学会会長という地位は一般の想像以上に強大な力を約束されていた。社会的には日蓮正宗の信者の代表の一人であり、宗教法人『創価学会』の代表者だが、それとは別に目に見えない部分で大きな権力を発揮できる立場であった。すなわち創価学会会長とは信仰上で最高指導者として学会組織では絶対的権威を認められる存在であり、それにふさわしい『精神の高さ』の持ち主と学会員から無条件に尊敬される立場とされているのである。こうした創価学会会長の絶対的権力を規定したのは戸田二代会長である。
たとえば戸田二代会長の振興の学会組織を強めるために次のような戦略論を遺した。
『学会の組織訓育の基本は会長絶対主義の徹底である』
創価学会の命令系統は会長たる者へ一点集中する。会長だけが会員に命令し、行動目標を与えることができる。この権威の前には大幹部であろうと、一般会員に過ぎず、会長を師匠として崇めなければならない……
この『会長の権力』は戸田城聖イコール絶対的権威の象徴という当時の学会事情から生じた大原則である。そしてそれは戸田城聖という指導者の場合は当然のことだった。昭和二十年代という混乱した世相にあって仏法による世直しという新しい使命感を学会員へ植えつけたのも、その使命感と若い情熱を独自の方法論でうまくかみ合わせたのも、今日的な集団組織の戦略でゼロに近い組織を百万世帯という大所帯に育てた業績も、すべて戸田二代会長の手腕であったからだ。
一方、池田大作は学会内部の『戸田信仰』へ早くから目をつけていた。
『会長になってしまえばこちらのものだ』
と、私にうそぶいた池田の着眼は学会内の『戸田信仰』すなわち『会長の権力』を手中とするところにあった。戸田城聖の跡を継いで三代会長になれば、この絶対的権威を自分のものにできる。池田の本当の計算はそこにあったと思われる。
三代会長就任という第一目標を達した池田は、学会員のより強い尊敬を一身に集めるためにさまざまな自己宣伝を繰り返した。
池田が戸田二代会長と自分との特別の関係を強調するために『師弟相対』という仏法の教えに目をつけたのはその時だ。仏法で師弟相対というと、日蓮正宗の宗祖・日蓮大聖人と開祖・日興上人との関係、あるいは宗祖と総本山トップである猊下との関係以外には使えない言葉とされている。
それを無視して、池田は戸田先生と自分との関係、また戸田先生と牧口初代会長との関係を『師弟相対』といい、三人の会長は血脈で通じ合った特別の人間であり、その教えは相伝だとやった。一般にはわかりにくいかも知れないが、この『師弟相対』を強調することでのちに第四代会長も第五代会長もただの人、三代会長で現名誉会長である池田大作だけが、創価学会という宗教団体では特別の存在とされる空気ができ上がったのである。
さらに、仏教の考え方の一つに『無疑日信』(疑いなきを信という)というものがある。仏を絶対的に信ずる心、という意味だ。これはすなわち日蓮正宗の信徒は自分たちのご本尊を疑うことなく、南無妙法蓮華経の題目を唱える信仰をつづけていけば、功徳を得て最後には仏の境涯を得ることができるという教えである。
この『無疑日信』は、本来、信仰に生きる人間の清らかな心のあり方を教えたものである。学会員全員はその理想の境地をめざして信仰生活をつづけている。
ところが、池田大作の手にかかるとこの大切な教えも悪用の材料でしかなかった。池田はその意味を勝手に歪曲して、デタラメな三段論法で学会員の信仰心を悪用した。
つまり、日蓮正宗の信者はご本尊を信じる。ご本尊を信じるということは、創価学会を信じること、そして創価学会を信じることはそのリーダーたる池田大作を信じることという論理を学会全体へ押しつけ、この延長線上に、
『学会員は奴隷のように池田先生に仕えよ』
と、戸田時代には考えられないような学会精神を植えつけたのである」(藤原行正、前掲書P165-167)
「池田会長が三十二歳で会長に就任されたのは日蓮大聖人の生まれ変わりなればこそだ。二度まで会長就任を断り、三度目に受けられた。これも仏の姿にかなっている……池田大作は戸田城聖の弟子時代に習い覚えた日蓮正宗の故事を巧みに利用した。子供騙しの手口ではあるが、池田はしつこく何度も同じウソをさまざまな場所で繰り返した。
『ウソも百遍繰り返せば真実になる』
池田大作はこの人生哲学を大真面目に実践し、やがて出所不明の『池田本仏論』なるものが学会全体に口コミで流された。
『池田先生こそ現代に生きる仏さまである』」(同書P168)
■会長就任時よりの池田講演記録について
小多仁伯著「池田大作の品格」2007/12/25、日新報道 P65-73には、池田大作の講演や指導などについては、会長就任時より、徹底した記録と、内部の学会員や外部に対する徹底した情報操作が行われていたことを示す記載がある。
「元創価学会芸術部書記長の現場から見た「池田大作体験」の真実
コラム 池田の取材陣と講演の記録
池田大作の講演がどのように記録されていくのか、また取材陣の規模などを、具体的に述べておきます。池田のスピーチは、創価学会の末端には、学会流「如是我聞」と称して、口コミで広がっていくんですが、むろん、正式な記録も残っているのです…中略…当日の池田の生の話と、二~三日後に聖教新聞に掲載されるものとでは、どれ一つを取ってみても、かなり違うもの、修正された内容のものとなります。
では、元となった生のスピーチ記録はといえば、これもしっかり保存されているのです。
そもそも、池田大作のスピーチ並びに映像(写真・フィルム)は、後世に残すための、重要な〝お言葉、お姿〟であるとされ、その取材を担当する聖教記者、写真部、広宣局(録音担当)、映像担当のシナノ企画等のスタッフが、毎回、池田に随行し、記録を取るのです。
その随行記録担当は、聖教記者二~三名、写真部二~三名、広宣局一~二名、シナノ企画三~五名という、十名以上の大取材陣から成っています。
昭和三十五年、池田大作が会長に就任して以来、この四十数年間、取材体制はほとんど変わらず、今日に至っているのです。
それぞれの担当部局は、池田大作の膨大な言行記録をどう保存するかに苦慮していて、原版や原本の他に、マイクロチップ(活字や写真を大量に保管できる)や、音声をCDにしたりして、管理しています。
池田Xデー後、歴史の研究者や検証者が、これらの池田大作のオリジナルテープやマザー原稿を目にしたとき、一般に出版されている〝池田出版物〟との相違に、どのような感想を持つでしょうか。池田大作並びに学会執行部は、これまで、学会史を平気で〝改竄〟してきましたが、その〝ツケ〟は、必ずや歴史の中で厳しく問われる運命であると、思い知るべきなのです。
学会執行部は、『永遠の指導者』池田大作の都合の悪くなった講演記録や映像を、それこそ〝永遠に封印〟しておかなければ安心できないでしょうが、この〝改竄病〟をどう克服するのか、ごまかしと悪知恵を得意とする、創価学会の『歴史の言い訳』が見ものとなります。
ちなみに、池田スピーチが支離滅裂、意味不明になりはじめたのは、昭和四十年代中ごろあたりからです…中略…
その支離滅裂、意味不明の講演理由は、極度の美食と側近女性たちとの関係、そして自らまいた〝言論出版妨害事件〟などの反社会的行為、宗門との軋轢などによるものです。仏法の眼からみれば、根本の原因は池田大作の三宝破壊による応報なのです。
七、本部職員の『全体会議』とは
『全体会議』というのは、本部職員が全員参加する職場の会議です。…中略…
まず、創価学会本部では、この『全体会議』に池田大作が出席します。これは、池田大作が昭和三十五年に会長に就任してからまもなく始まったもので、その目的は、創価学会の方向性を示して幹部を育成するためであり、また、池田自身による職員監視のためでもあったのです。…中略…
昭和四十四年一月の全体会議で、選挙の得票数が折伏の停滞にあるとの結論になったようで、池田大作は次のように指導しています。
池田『三年間、悩んできた。そして結局到達したところは折伏以外にない。世帯数の実績増が大事である。世帯数を伸ばしていく以外にない』
こうして、選挙の票獲得のため、まやかしの折伏の号令がかかったのです。
一人ひとりの幸せを願っての折伏活動ではなく、創価学会の勢力拡大を世間などにアピールするために、それ以後、名目上の公称世帯数(インフレ世帯)になっていくのです。…中略…
昭和四十四年の後半の全体会議メモを見ると、共産党が言論問題に対してのキャンペーンを行っていることに、池田大作は異常に反応しているのです。 九月二十四日の全体会議において、池田大作は次のような指導を行っています。
・近所では内部(学会内)のことを言うな、厳禁
・会館等の出入りも注意
・近所に如何なる人が住んでいるか、よく調べる
・広宣流布は、戦争なのだ、本当に戦争だと思わないから知恵が湧かない
この指導を検証しますと、池田大作が自ら招いた言論問題に対し、猜疑心と恐れを抱いていることが推察できます。…中略…
よほど、共産党の存在が気になるのか、その後に話した森田副会長(当時)は『万博に行きたいという人がいるが、こういう時に、そういう気持ちの人間は現状を認識しなさすぎる。私たちは、血で血を洗う革命の経験がない。この事件(言論問題)を避ける人は無間地獄に行く。この難局を乗り切ってゆく人こそ一生成仏ができる』。
この発言を通して、いかに創価学会全体がナーバスになっていたのか良く分かるのです。
そして、森田から、池田の伝言として『大難ですよ、当分続くであろうが、乗り切ろうではないか』と伝えられ、更に『言論妨害の事実がないのにデッチ上げられた』と言っているのです。
この池田大作の伝言は、池田の無反省と間違いを素直に認めない性格、話にならない池田の卑怯な態度ムキ出しの言葉といえます。
後日、産経新聞のインタビューに、池田大作は、『言論問題は、二、三人の人間がやったもの』等の、あきらた発言をしています。
このように、池田大作の発言は全く信用できないエセ指導者そのものといえましょう。」
■「新・人間革命」第十四巻での、事件の分析
「新・人間革命」第十四巻、P289—293には、この事件の分析を、30年以上を経て行っているが、やはり被害者ぶった分析である。
すなわち創価学会組織は、無謬の組織、社会の模範でなければならない。弾圧が意図的であっても、社会を騒がせた責任を、伸一は感じて事件を分析している。
弾圧は社会的な問題を捏造して起こるため、社会に誤解を与えないようにすることが重要で、学会は社会の模範となるべきであり、慎重な対応が求められる。今回の問題で学会は社会を騒がせたことに責任を感じ、会長は謝罪を考えている。言論の暴力と戦う権利はあるが、純粋な正義と寛容さを併せ持つことが課題である。この試練を通じて、学会はさらに発展する決意を固めた、とある。
謝罪を考えた点は評価できるが、社会の模範でなければならないからこそ、社会の批判には真摯に耳を傾け、落ち度があれば真っ先に謝罪するべきである。
さらに、原因分析が、相変わらず自らの責任を隠した被害者側の視点に終始し、全く事実と反することは、当事者であった藤原行正の記述でまとめて明らかである。
「このころの学会のやったイヤガラセ戦術は凄まじかった。学会の攻撃目標となった相手は『人海戦術』による散々な被害を覚悟せさるを得なかった。
この昭和四十四年の言論妨害時には組織内に言論部という部門があり、学会批判者などへひどいイヤガラセをする担当者まで準備されていた。全国の各地域から一定の役職以上の婦人部幹部、あるいは筆の立つ一般学会員を抜擢して言論部員に任命しておき、何か問題が生じるたびに各地の創価学会会館などへ召集をかけるのだ。なにしろ七百万世帯を数える巨大集団だから、その言論部員は五人や十人ではない。本部から指示が出るたびに各地の部員たちは葉書を持ち寄り、多い場所では一ヶ所百人、百五十人単位で集まった。
現場の一室では言論部担当の学会幹部から部員一人ひとりに具体的テーマ、宛先までがふり分けられる。それぞれがせっせとイヤガラセの手紙や投書を書き、その場で書き上げるまで帰宅させない。これを全国数十ヵ所、数百ヵ所の各支部、各会館でいっせいにやるわけだから、標的にされた相手はたまらない。文字どおり、イヤガラセの手紙が洪水のように流れ込んでくることになる。
たとえばこの出版妨害事件の際、学会側から相手の弘達氏の自宅に投げ込まれたイヤガラセの投書類は優にミカン箱十箱分はあったろう。」(藤原行正著「池田大作の素顔」P115-116)
つまり、これらもすべて、創価学会の組織ぐるみであったことが、明らかなのである。
「新・人間革命」では、上記引用のように、
「学会員の怒りは、確かに激しいものがある。自分たちの団体が『狂信者の群れ』『ナチス』『愚民化』などと罵倒されれば、普通の神経なら、誰でも怒りを覚えるであろう。また、一部に抗議する人が出るのも当然である。
悔しさと怒りに震える学会員の抗議には、強い語調の電話や、論旨に飛躍が見られる文面もあったかもしれない。学会は既に七百五十万世帯を突破している。仮に千世帯に一人、一万世帯に一人が抗議の手紙を書いても、受けとった側から見れば膨大な数に上り、脅威を感じ、結果的に迷惑をかけてしまったにちがいない。」
と、一部の学会員個人個人の自然な抗議が重なって膨大になったと綴っているが、創価学会中枢からの命令・召集で、これらが組織的になされていることをひた隠しに隠して、臆面もなく捏造している。
このような体質であるからこそ、真実の暴露本の著者は、その当事者に取材など意味がなく、ほとんどしないことも充分な理由なのである。
さらに、「新・人間革命」では、
「それにしても、伸一が腑に落ちないのは、いやがらせや脅迫電話、脅迫状が相次いだと言われていることである。
もし、喧伝されているように、学会員が、脅迫じみた言動をとれば、さらに学会に非難が集中することは自明の理である。そんな学会を貶めるようなことを、あえて学会員がするとは、どうしても考えられなかった。」
とあるが、これなども、「池田大作の素顔」には、
「この投書作戦のほかに、電話作戦も強烈だった。やはり本部が学会員を動員して、学会批判をやったテレビ局やラジオ局、雑誌編集部をめがけてどんどん電話をかけさせた。個人宅にも『家に火をつけるゾ』、『夜道に気をつけろ』といった脅迫電話が殺到したり、散々なイヤガラセ戦術が展開されたものである。」
と、暴露されている。
次に、「新・人間革命」で、
「脅迫電話や脅迫状があったとするなら、学会への反発や敵意を高めさせるための謀略かもしれない。しかし、困ったことには、それを証明する手立てはなかった。
ともあれ、学会が小さな団体であれば、なんでもないことでも、大きな勢力になれば、意図に反して相手は脅威を感じることもある」
とあるが、
これなども、もともと、池田大作の指令の下、創価学会が組織的に行ったことを隠蔽したウソであって、藤原行正著「池田大作の素顔」に、
「投書作戦も電話作戦も池田お得意のやり方だった。『私の言葉は学会の憲法だ』とウソぶいた池田三代会長の号令一下、選ばれた言論部員をはじめ学会員たちは池田の言葉を疑いもせず『悪者』に向けて熱心に攻撃をしかけた。その姿は世間の目には一種の狂信集団と映っただろうが、学会員個々はむしろ熱心な信者たちであり、その宗教心を池田が巧みに操っていた」
と、ある如くである。
また、「新・人間革命」で
「これまで学会は、若さゆえに、批判に対して、あまりにも敏感すぎたのかもしれない。日本第一の教団に発展した今、学会は社会を包み込む、成熟した寛容さをもとことの大切さを、山本伸一は痛感するのであった。」
とあるが、これも、全くのおとぼけ表現であって、 「池田大作の素顔」に、
「学会の裏側を知らされず、池田大作の打つ手はすべて順風満帆と一般学会員は頭から信じきっていた。しかもその前年にキモを冷やした『集団替え玉投票事件』をうまくモミ消せたことが池田大作をさらにのぼせあがらせていた」
とある如くである。
さらに、「新・人間革命」で
「言論・出版問題は、伸一の会長就任以来、初めての大試練となった。だが、それは、最も理想的な社会の模範となる創価学会をつくろうとする彼の決意を一段と固めさせた。
いわば、この試練が未来への新たな大発展の飛躍台となったのである」
に対しては、「池田大作の素顔」に、つづいて、
「図に乗った指導者のもとで、学会全体が世間をナメていたといえる。言論出版妨害事件はその延長線上に起こるべくして起こった象徴的な出来事であった」
とあって、実際は前述の如く、釈明謝罪も、実質はポーズだけであったことが、数々の指摘にある如くである。
■池田大作の野望
溝口敦氏は自著「池田大作『権力者』の構造」にて、この事件までに抱いていた池田大作の野望について、以下のように述べている。
「それまでの彼の野心は、公称会員755万世帯を擁する創価学会会長という現状に甘んじるものではなく、その組織を基盤とした上での「日本の最高権力者」、あるいは自らを首班とする公明党単独内閣の樹立にあった。いわば彼の政治的野心は、巨大な組織によって可能だったのであり、政治的野心を抱くこと自体が、彼の権力の一つのありようでもあった。
5月3日の発言前、池田は苦悶の日々をおくり、「自殺寸前の心境に到った」と語ったが、長年ひめやかに養ってきた政治的な野望を自ら封殺するのであってみれば、あながち大仰な世迷い言ともいえなかった。
池田組閣の構想は半公然の事実であり、彼の衆議院出馬という意向の背後には、『(公明党)議席数百を突破しての、連立による政権獲得構想があった。・・・・・この構想を持っていた頃の池田会長は、『私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。その時には創価学会を解散してもいい』と語っていた。池田政権によって、王仏冥合が達成されれば、もはや創価学会の必要がなくなるということであろう』(戸川猪佐武、高瀬広居「公明党はまもなく大転換する」、『現代』昭和45年7月号)とされていた。
池田政権は外部からの推測にとどまるものではない。たとえば、『池田先生が、日本の指導者として立っていただく』(北条浩、『聖教新聞』 昭和40年7月26日)、『正しく戒壇建立の暁には、わが男子青年部の手によって内閣を結成して』(秋谷城永、『大白蓮華』 昭和39年2月号) 等、創価学会幹部の言々句々にうかがわれるばかりでなく、池田自身、39年の公明党結成時には党首脳たちに自らを『国父』と呼ばせ、また衆議院の公明党控室には、池田の写真と、その自筆の和歌『妙法の宝を胸に抱きしめて 君等戦え天下取るまで』の色紙を飾らせた(村上重良『創価学会=公明党』)。
さらに池田は、40年7月、日大講堂での本部幹部会で、往古の天皇にかわる現代の最高権力者は池田だという『方程式』を創価学会用語で謙虚に言明している。現代の『最高権力者』を内閣総理大臣、もしくはそれをも凌駕するトルヒーヨばりの『国父』と解するのは自然であろう。
創価学会の究極の目的の一つである広宣流布の儀式が行われるとき、こう語った。
『不開門(総本山大石寺にある勅使門)が開く。(はじめて門を通過するのは)一義には、天皇という意味もありますが、再往は時の最高権力者であるとされています。すなわち、・・・・・時の法華講の総講頭(39年4月から池田就任)であり、創価学会の会長(池田)がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。(大拍手)
後々のためにいっておかないと、狂いを生ずるからいうのです。私は謙虚な人間です。礼儀正しい人間です。同志を、先輩をたてきっていける人間です。そのため、かえってわからなくなってしまうことを心配するのです。そうなれば、こんどは皆さん方が不幸です。学会も不幸です』(『聖教新聞』 昭和40年7月26日)
自らを最高権力者と規定するという、池田の国家を遠望する気概を滑稽化しなかったのは、彼のすでに持つ権力の強大さであった。実際、戦後池田以上に強大な権力を許されたものは、ただ一つ国家のほかになかったであろう。
意図した効果を作り出すために他人を支配する力が権力とすれば、支配の状態が確固としていればいるほど、また支配する人員が多ければ多いほど、その権力は強大といえよう。
池田の権力の強大さは、創価学会公称世帯数755万という圧倒的に多数の会員と、『池田先生が死ねといわれるなら、死にます。池田先生は絶対間違ったことをなさらない』(高瀬広居『第三文明の宗教』)という、池田によせる会員の盲目的な信頼心、その二つに裏打ちされていた。…中略…
創価学会の公称世帯数は、戦前、その規模の大きさと行動性で世の耳目を集めた大本教の最盛期の信者数30万名を足下に見下ろし、出版妨害時、他の宗教団体と比べても、霊友会(約496万名)、立正佼成会(442万名)、生長の家(218万名)、天理教(191万名)、東本願寺(671万名)、西本願寺(663万名)に大きく水をあけ(いずれも『朝日年鑑』昭和46年版)、また宗教関係以外の諸組織には、比較すべき対象を持たないほどに巨大だった。
池田への信頼心、崇敬の念は活動的な末端の会員から最高幹部に至るまで、いわゆるカリスマ的とされる熱烈さに貫かれていた。元毎日新聞記者・内藤国夫によれば、東京都議会の公明党議員(創価学会員であり、その幹部であった)は池田について、口をそろえてこう自慢するのを常とした。
『『自民党や社会党の党首や委員長がこういうこと(煎餅や饅頭を買って議員控室に届ける)をしてくれますか。会長先生はわれわれにも、たえず目をかけてくださるのです。都議会の審議が長引き、われわれが疲れたなと思うと、きまって〝 しっかりやりなさい。ご苦労さん 〟と激励しながらお菓子を買って下さる。会長先生はなんでもお見通しなのです。うれしいじゃありませんか』そして池田会長賛辞が競争するようにして続く。
『会長先生はわれわれのお父さんのような方です』『会長のご指示に従っていれば絶対にまちがいはない。 先生のご判断はいつも的確です・・・・・』』(内藤 『公明党の素顔』)
まさしく、池田からいわれたことをただ『そうか、そうか』ときいて動く団体だから「そうか学会」というとの揶揄がうなずける体の池田への忠誠心であり、それが会員数以上に、創価学会と他教団を隔てる要因となった創価学会の卓越した活動性、資金力を支えていた。
たとえば創価学会の銀行預金高は三菱銀行220億円、三菱信託銀行50億円、富士銀行60億円など総額553億円に上ると推定され(44年9月末現在、某有力銀行『宗教法人の預金調べ』、木谷八士『疑惑のなかの公明党』から引用)、年利5.5%の定期預金としても約27億円の年間利息を生み出し、それだけでも45年の政治資金、社会党6億円、民社党2.9億円に大きく差をつけ、ほぼ公明党の27.9億円に匹敵するほどだった(旧称ママ)。
組織の強大さは一応、組織員数と組織員の質(組織への忠誠心や行動性など)の積であらわされよう。
創価学会=公明党は、会員数も会員の質もずば抜けており、両者が相まって、その組織を、政府関係を除けば日本最大最強のものに仕上げていた。
池田の権力が直接根ざしたものは決して彼の人間性ではなく、明らかに創価学会=公明党という巨大組織であった。
そしてそれらは池田による単一の支配だったから、池田の一身に組織の持つ力が体現されていた。組織が池田に遠大な乗っ取りの白昼夢を夢見させ、それに迫力を加えたのだ。
したがって池田の権力が創価学会=公明党と盛衰をともにせざるを得ないことは自明である。彼は政界への野心を自ら放棄したが、それにも増して彼の発言中の国立戒壇の否定、創価学会と公明党の分離、強引な折伏活動の停止は、それぞれ組織という基盤をゆるがし、いや応なく彼の望蜀の一念を破砕せずにはおかないものであった。」(溝口敦著「池田大作『権力者』の構造」 2005/9/20 講談社 P314-320)
しかし、一ヶ月ほど前に「負けるが勝ち」に方針転換してからは、うまく一芝居を打ち、この難局を乗り切ろうとした池田大作やその側近たちの舞台裏については、その一部は創価学会専門のジャーナリスト(おそらく高瀬広居氏)が、以下のように明らかにしている。
■週刊文春の、比較的良心的な舞台裏記事
まさに3月31日の強行突破会議のあと、山崎正友の進言を受け、急に謝罪へ向けて方針転換した池田大作であったが、心からの謝罪は微塵もなく、本心は初めから一芝居打つための単なるポーズであったことは、その後の歴史が物語っている。
彼らの戦略は、見事なものであるといえよう。
この舞台裏について、週刊文春1970年5月18日号,P28-31では、このの様子を以下のように伝えている。
「そして、創価学会専門のジャーナリストに対し、4月17日の会見では、
「『こんどはおワビしますよ。わたしは、正邪のハッキリしないのは大きらいです。言論、出版問題のこと、ほんとにわたしは何も知らなかったんです。しかし、知らなかったとはいえないし、病気も重なって、出られなかったんです。国会喚問にも、わたしは『応じる』といったのですが、幹部が『会長は何も知らないんだ。何も知らない人が出ては偽証になる』と、とどめるもんで、出られなかったんですよ』…中略…
『ずいぶんタタかれましたねェ。わたしは良いが、会員がかわいそうで……(とカオをおおう)わたしは『自殺したいョ』と女房にいったんです。『がんばりなさい』となぐさめられましたよ。いまのキモチとしては
『処女のお嬢さんが、輪姦されたあと、さらに蹴とばされているような気分だ』と女房にいいましたよ』…中略…
『言論妨害、言論妨害っていいますが、どこも大なり小なりやっているじゃないですか。親せきのこと、悪くいわれれば、『ヤメテクレ』という程度のことはいうでしょう。『潮』(学会系雑誌)でも、頼まれて記事にするのをやめてあげたこともありますよ……』
と、ウラめしげに口を開く。
しかし、こんどのことは『できるなら、藤原弘達さんにもお会いしてあやまりたい』と、はじめて外部の記者に見せた低姿勢だった。
2回目の会見では、
「…中略…ここにいたった原因については、
『組織が大きくなった。学校を卒業してすぐ創価学会に入り、ここを一つの社会と思っている人間がふえ、他との調和を忘れ知らず知らずダンゼツを生じていた。悪気じゃなく、単純なんです。おヒトよしで、世間知らずで、ストレートに動くところがあるんですね。反省もしなきゃいけないが、ずいぶん誤解されちゃったなァ。ウチはウチの世界だけで生きてきたから、知性がネ、もう少しタリないんだナ。幹部にシュカンシ(主観士)が多いよ。(山崎氏に)
よオ、そうだろ!』
ハッ、申しわけありません。
『理解していただく努力がたりなかった』
ハッ、申しわけありません。
『そう、キミたちの責任だよ。独善だよ。(フーッとため息)こうなるとは思わなかったな。いままでいってたんだよ。そういうこと。バカだけれども、わたしは誠実だけはつくしてきたんです。政治の世界、その他……冷酷だなあァ。いまこそ転換期ですよ。シンシな態度でいかなきゃいけないと思います。社会は仏法なんです。学会だけが仏法じゃいけません』
……と、ざっと以上が、池田会長〝謝罪演説〟の一文をつくり公表するまでの〝真意〟である。
しかし、こんどの問題は組織がひきおこしたものであって、会長の真意がどうであろうと、これを『迫害』と受けとる会員側のほうがモンダイ。
『政党をつくって、単独政権を目ざすというようなところに、さいしょのまちがいがありましたね。十五年前に地方選挙に出て以来、いろんな形で近代化のコロモをつけようとしてきたのがダメでした。現代に通用しない政治論が、よくも十五年間に通用してきた、ということですよ。〝批判拒否〟しなければつづきようがなかった。王仏冥合の理想をもつのは当然だが、それをどういう形で、どこまで内面化していくことができるか、そういう点の認識がなかったのが池田会長のミズでしたね』と、年来、主張しつづけてきた村上重良氏(宗教評論家)の指摘を、会長自身はまったく受け入れたかたち。
『…中略…いままでも学会は、前言を平気でひるがえしてきた。コトバだけじゃ信用できない。外圧論ではダメで、内在的原因を会員全てが認めるかどうかですヨ』
と村上氏は今後をうらなう。」
池田大作の情けない姿や言い訳に比し、ひたすら、組織維持と自己保身のため、被害を最小限に食い止め、建前維持に奔走する周りの人たちとのコントラストがまぶしい。
さらに、村上重良氏の指摘は鋭い。
この中の以下の言葉、
「ほんとにわたしは何も知らなかったんです」
「正邪のハッキリしないのは大きらい」
「病気も重なって、出られなかったんです」
「国会喚問にも、わたしは『応じる』といったのです」
「幹部が『会長は何も知らないんだ。何も知らない人が出ては偽証になる』と、とどめるもんで、出られなかったんです」
「わたしは良いが、会員がかわいそうで……」
『処女のお嬢さんが、輪姦されたあと、さらに蹴とばされているような気分だ』
「『そう、キミたちの責任だよ。独善だよ。(フーッとため息)こうなるとは思わなかったな。いままでいってたんだよ。そういうこと。バカだけれども、わたしは誠実だけはつくしてきたんです。」
「いまこそ転換期ですよ。シンシな態度でいかなきゃいけない」
について、
このような、仏法者としてこの上無く恥ずかしい、見え見えのウソと、卑猥な表現の被害者意識、幹部への責任転嫁、そして、全くその気もない反省の態度を、臆面もなく記者に言った、そういうのが池田大作であった。
そして、付き添っていた側近たちがいたならば、
「ハッ、申しわけありません。」
と、否定しようもなく、同様に見ていたに違いない。
純粋無垢な会員を、日蓮仏法を悪用してだまし続けて来た彼は、日蓮仏法の立場からみれば、まさに潜聖増上慢そのものではないだろうか。
法華経勧持品には、潜聖増上慢について、
「利養に貪著するが故に、白衣の与(ため)に法を説いて、世に恭敬せらるること、六通の羅漢の如くならん」
「是の人 悪心を懐き 常に世俗の事を念い」
「常に大衆の中に存って我等を謗らんと欲する」
とある。
その後の池田大作の姿、とりわけ権力にしがみつき、世間では多数の名誉博士・名誉市民・勲章などを集めて自慢し、「世に恭敬」されたいと漁り続ける姿は、現代における潜聖増上慢である。
ただ、週刊誌のこのようなささやかな真実の記載も、創価学会の一般会員へは、どれだけとどいたのであろうか。
それは、ほとんどといっていいほど、届かなかったことは、5月3日の謝罪演説での、参加会員全ての反応をみれば明らかである。
彼が潜聖増上慢であったことを証明するものであるが、これについては次のページで述べる。
■真実は語らなければ、残らない
さて、そもそも、「新・人間革命」第十四巻で言論出版妨害事件が綴られるのは2003年夏以降である。
池田大作は、40年以上前の、忘れ去られようとしてたこの事件を、どのような思いで綴ったのか。
池田大作は、2003年8月8日付けの聖教新聞に連載された、「随筆 新・人間革命」で、小説「新・人間革命」」の執筆開始より10周年を迎え「今、書かずして、いつ書くのか」と自身の心情などを述べた後、小説を書いてきた過程を振り返りながら、この事件を書くにあたって、
「『真実』を明確に書き残すことが、未来の人びとの明鏡となる。」
「『真実より強いものはない。真実を持てる者は、勝利者である。同志が待っている。さあ、続けよう」
「ここまで私が小説『新・人間革命』に綴ってきた、第三代会長になってからの十年間、わが学会は太陽が昇りゆく勢いで、連戦連勝であった。
それは、みな、迫害の烈風のなか、信心の無数の勝利の利剣を持った、わが同志の勇敢なる戦いのお陰である。そこに、諸天善神が総力をあげて、敵を倒し、道を開き、勝利へ勝利へと、導いてくれたのである。」
(池田大作著「池田大作全集」第134巻 2011/11/18、聖教新聞社、P169-171)
と、真実と勝利を連発して語った。
「真実」を連発するこの文の中には、池田大作の、歴史を塗り替えようとする並々ならぬ決意がみなぎっている。
「ウソも百遍言えば真実になる」と側近に語っていた池田大作が、まさにそれを実行し、ウソを何回も真実と言い、日蓮の遺文まで利用して、「真実は語らなければ、残らない」としながら、「書く」も連発している。
さらに「勝」も連発し、
「我らは、幾たびとなく戦い、勝った。負けたことは、一度たりともない。」
と、鼻息を荒立てて書いているようだ。
また
「正しき信心からきた『妙法の秘術』の結果」
と、根拠もなく、こじつけている
これなども科学的にはありえない「ウソ」である。
「負けるが勝ちだよ。謝っちゃおうよ」というのはどこへやら。
そして、こうして書かれたものが、今、拙論文で検討している「新・人間革命」第十四巻の部分なのである。
いまや、ベストセラーとなった「新・人間革命」は、世界中に販売されている。
この恥ずかしい、ウソで塗り替えた欺瞞と、その行為を、なんと世界中へ弘めてしまっていることになる。
前ページで取り上げた、「人は、ともすれば、自ら得意とするものによってつまずくものである」と断じた公明党渡部一郎国対委員長の演説、
「おシャカさまは、悪口をいった人の数を勘定したそうですが(笑い)、あのころはまだ勘定できた(笑い)。いまは勘定できない。毎日の新聞による悪口を勘定してごらんなさいよ、悪口だっていっぺんいうならまだいい。朝日新聞なんてのは、五百万部出ているから、一部ずつを一ぺんとしたら一日で五百万回いわれたことになる(笑い)」
を、再評価してみるといい。
さらに、哲学者の言葉、
『人間は、妬みの動物だ。人間は、やっかみの動物だ。人間は、怨みと羨ましさに狂い叫んでいく動物だ』
は、皮肉にもそっくりそのまま、自分自身を指摘している。
まさに、「永遠の優勝の証」が、今の創価学会の衰弱へ向かう「証」ともなっているのは、何とも言いようのない、これも因果応報である。
渡部一郎議員の演説のなかにも
「ところが、取次店がその本を見て、ひかえる場合は、たった一つしかない。『こんなバカな本をあつかったら、うちの権威が傷つく』といった場合だけ、象が自分を反省するときだけしかない。アリのさけびとは関係ない」
を、見直してみる。
笑いごとではすまされないではないか。
「象が自分を反省するときだけしかない。アリのさけびとは関係ない」
というのは、まさに的を得た指摘ではないか。
人も組織も、反省しなければならない。
それが無ければ進歩もない。
科学的議論も進歩しない。
しかし、池田大作や、創価学会は、この事件を通じて、本当に反省していたのではなかったことが、その後の史実で明らかとなっている。
ここで言及したことそのものが、そっくりそのまま池田大作の真実を知る人たちにとっての、書き残すための使命であると思える。
日蓮は、『かうただ・かきをきなばこそ未来の人は智ありけりとは・しり候はんずれ』(御書P1221)とある。
真実を明確に訴えることが、現在の人々の明鏡となり、
真実を明確に書き残すことが、未来の人びとの明鏡となる。
そして、真実は、公にしなければ、闇が闇を増し、人びとの迷いが迷いを生むだけだ。
独善主義に陥り、批判を受け入れることなく、理念や指導の誤りを指摘されても修正もせず、ウソの上塗りを重ねながら、常にアップデートしない組織の未来は、やがて衰退・滅亡へ向かうに違いない。