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P34, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(4) 山崎正友の進言で謝罪へ転換

■言論出版妨害事件1970年2月-5月分、現時点でのウィキペディア(Wikipedia)での概要


「また、この事件を機に、宗教団体である創価学会と政党である公明党の関係が「政教分離」に反する問題として論じられた。野党から真相究明のため、創価学会会長・池田大作をはじめ関係者の証人喚問を要請する声が上がった。しかし、自民党、公明党の反対で国会の場では実現しなかったため、野党の有志議員が妨害を受けたとする著者や出版関係者らを議員集会に招いて、証言を聴いた。そうした中で、出版業界の関係団体からも創価学会・公明党の言論妨害を非難する声明がいくつも上がり、「言論の自由」や「出版の自由」を守れという世論が高まり、多くの知識人・文化人もこの問題に対して声を挙げ、真相究明、問題の解決に取り組んだ。
 詳細は「創価学会#政府の公明党と創価学会に対する見解」および「政教分離原則#宗教団体の政治参加について」を参照
このような社会的批判の高まりと、政治的追及が創価学会と公明党の「政教一致」問題にまで及ぶに至り、池田は1970年(昭和45年)5月3日に創価学会本部総会で、……」



 なお、渡部一郎氏の演説は、当時の2月頃から赤旗や週刊誌などで取り上げられ、創価学会・公明党への激しい攻撃の材料とされた。
 当時としては周知の事実となっていたが、今日、この忘れ去られようとしている事件を風化させない為に、長い演説であるが、当時の創価学会・公明党の真実の状態を率直に反映しているものであり、あえて検証するために前ページで取りあげた。


■山崎正友著「再び、盗聴教団の解明」2005/4/8 日新報道 P93-94 での記載


 「創価学会内に、楽観論が広まり、強気が頭を持ち上げて来た。
 ところが、同年二月二十四日、『言論出版の自由に関する懇談会』(呼びかけ人・人類史学者高橋碩一、宗教家壬生照順、世話人・草加外吉、賛同者・石川達三、阿部知二、中野好夫、大内兵衛氏ら二四〇名)によって、一月十一日の学生部幹部会における〝渡部演説〟の録音テープが公表された。
 同日の『赤旗』はその全内容を掲載し、マスコミも一斉に取り上げて批判した。それは、まさに消えかかった〝火に油を注ぐ〟結果をもたらしたのである。

 この演説はマスコミだけでなく沈静しかかった国会にまで影響を及ぼし、衆議院議員運営委員会で追及の動きが出た。
 渡部氏によって、〝ウスバカ〟〝黒い霧がいっぱいある〟とやり玉に挙げられた各党が怒り、苦心して続けて来たせっかくの裏工作が、水泡に帰すかと思われた。
『池田証人喚問が蒸し返される恐れがある』
 震えあがった創価学会・公明党は、ただちに渡部一郎氏に国会対策委員長を辞任させ、各党に頭を下げさせて収拾をはかった。
 竹入委員長ら公明党首脳から弁明と謝罪を受けた田中角栄氏、福田赳夫氏らは、不快さを隠そうともせず、それでも
『わかった』
とぶっきら棒に答えて電話を切った。
 無理もない。池田大作に泣きつかれ、高柳法制局長に『創価学会擁護の答弁』をさせ、窮地を助けたのに、バカ呼ばわりされたのでは割があわない。
 佐藤栄作はじめ自民党首脳には、選挙の際、学会票を差し出すことを約束して頭を下げ続け、社会党には東京都知事選での美濃部氏支援をはじめ選挙協力を約束し、民社党には、当時の西村栄一委員長に
『公明党を差し上げる。民社と一緒にして指導してください。創価学会は選挙で支えます』
と約束した。こうして、なんとか池田証人喚問だけはくい止めたのが三月十三日のことであり、
『言論問題はひと山超えた』
と池田大作は胸をなで下ろした。」


(ちなみに、山崎正友が、この事件を機に、共産党宮本顕治委員長や対立する者たちへの盗聴など、その後の創価学会によるダーティな謀略の首謀者として、池田大作に重宝されていったことは有名である。
 ここに、共産党宮本顕治委員長宅の電話盗聴事件の伏線、そして、彼を首謀とする創価学会の様々な反社会的策謀の伏線となっているのである。)


 この頃の状況について「新・人間革命」第十四巻P251-252には、
「同志は語り合った。
『国会で取り上げるなんて、騒いでいる党もあるけど、変な話ね。妨害された、脅迫されたというのなら、裁判にでも、なんでも、訴えればいいじゃないの』
『選挙で公明党が伸びたんで、悔しくって、仕方がないのだろう』
『何か、謀略めいたものを感じるな。しかし、こんなことに負けて、広宣流布を遅らせるわけにはいかない。今こそ折伏だ。学会の正義、仏法の正義を語り抜こうよ!』」
 とある。

 これは、当時のおおむね、熱心な学会員たちの本音であろう。
 ちなみに、この連載がなされていた頃と思われれる2005年4月21には、創立75周年を記念する第48回本部幹部会が開催されていた。
 これについては、昨年2020年5月3日発行で、コロナ禍、緊急事態宣言の中でほとんど、各末端会員世帯に訪問して一部ずつ手渡しで配布された(私のところにも2人の幹部が、妻と私の家族分として1部持ってやって来た)という「池田先生 会長就任60周年記念 栄光の共戦譜」P118には、
「学会は、御書に寸分違わず『広宣流布の信心』『師弟不二の信心』『破邪顕正の信心』『異体同心の信心』『勇猛精進の信心』で勝った、と宣言する」
 とある。



■超豪華な会長専用施設へ逃げ込んだ、時に半狂乱の池田大作


 前ページで、藤原行正氏の著作で、この時期に池田が箱根の研修所に逃げ込んだことをあげたが、それはどのような場所だったのか。そしてその時の池田の状況を語る重要な資料を提示しておく。

 それは、後に月刊ペン事件の差し戻し一審の審議で、証人として出廷した原島崇の、証人尋問での証言である。
 これは、山崎正友著「続・「月刊ペン事件」法廷に立った池田大作」2001/07/30,第三書館、P121より40ページぐらいにわたって詳細に記されているが、ここでは言論出版妨害事件について、あげてみる。

……
(弁護人・佐瀬)「それでは先ほど述べられた特別施設なり寝室なりに池田大作氏がどういう女性を呼び込まれておったか、あるいはそれに似たようなどういうことがあったか、直接関知している面があれば、大体いつ頃、どの場所で、どういうことがあったか、お答え願いたい」
(原島崇)
「私がはじめてそうした事実を目撃したのは、昭和四十五年二月の初旬だったと記憶しております。場所は箱根の仙石原にある箱根研修所でございます。私と桐村氏と上田雅一氏の三人が呼ばれておりました。ちょうど言論出版問題のさなかでございました。
池田大作氏は会長を退くとか退かないとかいうような話もそのころあったわけでございますが、箱根研修所の二階の池田大作氏の寝室にその三人を呼んだことがあります。お前たちに大事なものを見せるということで、行きまして、そのときに池田氏の遺言集のようなものでございました。こういうものをきちっとつくってあるんだということで、覚えておきなさいということでした。私がそうした奥の院に入ったのはそのときがはじめてであったと記憶しております。そのときに、池田大作氏はお風呂が好きで日に何回も入るわけでございますが、ちょうど午後だったと思いますが、その部屋の隅のゆかに、下着のたぐいが置かれてあったわけでございますが、そのときに私はそのゆかたのすそのあたりに赤い紅のようなものを見ました。…中略…」(同書P122)

「…四五年の言論出版問題のときは言ってみればもう会長になってはじめてその経験で、狂乱状態のようなときもありました。時には午前四時にある女性が靴下もはかないまま私たちを呼びにきたようなことがございました。等々、非常に度を失っておられた時期だったので、そうした場面にも遭遇したのではないかと私は思っております。以上でございます」(同書P128)


(弁護人・田中)「それから、あなたの説明によりますと、会長専用施設というのは、創価学会の本部はもちろんのこと、各地方にもできておるということでしたね」
(原島崇)「はい、地方にもあります」
(弁護人・田中)「それは、いつ頃からそういうものが設置されたんですか」
(原島崇)「昭和四〇年代の初め頃からできておりましたが、特に多くできたときは、昭和四九年から五二年にかけてでございます」
(弁護人・田中)「端的に伺いますけれども、それはいかなる目的のためにつくられるようになったんですか」
(原島崇)「名目的には、名目も、実質も多少伴いますが、各会館が古くなって、で、新しく大勢の人を収容することのできる立派な会館をつくるという趣旨でつくられ、そこでさまざまな教学の学習とか仏教の研さんとかそういうものが行なわれるためにつくられたものであります」
(弁護人・田中)「私が聞いているのは会館じゃなくて、会長専用施設のことですが、それはどういうことなんですか」
(原島崇)「それはやはり池田大作氏が各地に行ったときに、池田大作氏にゆっくり休んでいただくように、ほんとうに静かなところでゆっくりと休んでいただいて、そして鋭気を養っていただいて、指揮をとっていただくように、という気持ちでございます」
(弁護人・田中)「そうすると、要するに会長さんの宿泊所ということですか」
(原島崇)「そうです。宿泊所兼執務室も兼ねます(ママ)」
(弁護人・田中)「すると、公的なものであり、かつ私的なものですか」
(原島崇)「公的な要素も若干含まれるだろうと思いますが、やはり私的な要素が強いと思います」
(弁護人・田中)「主たる目的は私用目的でつくられたということですね(ママ)」
(原島崇)「はい」
(弁護人・田中)「それで、方々各地にあるというような指摘が先ほどありましたね」
(原島崇)「はい」
(弁護人・田中)「各地によって専用施設の間取りと言いますか、作りは違いはあるんですか」
(原島崇)「各方面には文化会館というものがあります。非常に豪華な」
(弁護人・田中)「端的に答えてください。違いがあるのかどうか。皆、同じようなものなのかどうか」
(原島崇)「多少、違いがあります」
(弁護人・田中)「それじゃ、その全体を見て、その間取りの点について、共通なものと言えば、どういう点が共通なんですか」
(原島崇)「きれいな庭があり、寝室があり、居間があり、また豪華な応接室があり、それから会長執務室があり、また専用のキッチンがあり、また専用の風呂があり、トイレにまでじゅうたんが敷きつめられている非常に豪華なものです。で、風呂の近くには等身大の鏡が置いてありました。今はどうなっているか、わかりません」
(弁護人・田中)「すると、寝室と風呂場というのは必ずついているわけですね」
(原島崇)「はい」
…中略…
(弁護人・田中)「それから、あなたの知っている範囲内で結構ですが、会長が今の専用施設を使われる時間は、大体何時頃から何時頃までなんですか」
(原島崇)「外へ出て車で回ったり、あるいは会合に出たり、その他著名人と会談する以外は、大体専用施設を使っておりました」(同書P149-150)




■重病人芝居を続けていた池田大作


 ときには半狂乱となっていたという池田大作であったが、月刊ペン裁判において、この逃げ込んでいた時点で第一庶務の女性と肉体関係をもっていた疑いを示す証拠を、根掘り葉掘り聞かれた原島崇であったが、これも根拠になっているためか、藤原行正の「池田大作の素顔」P133-134には、以下の記載がある。
「重病人に化けて、箱根の山へ逃げ込んでまで池田大作のホントの『病気』はやまなかったわけである。
 箱根滞在中、原島ら周りにいた部下、また一般会員の気をひくために打った芝居がまた面白い。
 「原島証言にもあるように池田大作は大の風呂好き。一日に二度も三度も湯舟につかる。重病人に化けた箱根でもこれだけは我慢できなかった。毎日せっせと入浴を楽しんだらしいが、風呂から上がるたびに熱を計った。湯上がりの池田が上気した顔で体温計を口に含む。体温計の針は急上昇する。それを部下に示して、
『おい、どうだ。こんなに熱がある!』
 そのまま床にもぐり、部下に用意させた氷嚢を三つも四つも頭にのせて『ウーン、ウーン』と唸る一芝居。ところが数時間経つとまた起き出して入浴、そして検温……。まともな神経ではとてもつきあいきれないような真似を演じていたのである。
 この原島から私が教えられたことでは、池田は事件当時、彼ら側近に同じ言葉を毎日繰り返していたという。
『今回の問題は藤原(弘達氏)と藤原(行正)の問題だ。そこから端を発している』
 つまり事情を知らない学会幹部へはこんないい方で自分を正当化し、責任転嫁に懸命だったのである。
 同じ時期、池田大作はもう一つ学会史に残るぶざまなサル芝居を演じている。
 言論事件の直前だったが、池田は学会内に『未来会』という集まりをつくった。学会幹部の子弟、あるいは一般会員の子弟でとくに優秀な者を集めたこの会は高校生、中学生、小学生らで構成されていた。いわば池田王国のエリート予備軍。池田先生の正しさ、創価学会のすばらしさをきみらが証明しろ!そんな教育を小さい頃から徹底して受けた集団である。
 池田はその未来会のメンバーを箱根に集め、この事件は学会への迫害行為だとデタラメを教え、その『法難』と雄々しく闘う自分の姿を見せつけた。不精髭は伸び放題、よれよれのドテラ姿で杖をつき、池田大作は純真な子供たちの前で受難者を演じて見せた」


■ 「新・人間革命」の描写


 「新・人間革命」第14巻P272には、二月のある日の伸一と峯子の会話がある。
 「峯子は微笑みながら答えた。
『こんなこと、なんでもありませんよ。御書に仰せの通りに生きるならば、難があるのは当然ですもの。毎日、毎日が、ドラマを見ているようですわ』
『そうだね、今のことを懐かしく振り返る日が、きっとくるよ』
 二人は頷いた。
 来る日も、来る日も、嵐のような非難が打ち続くなかでの、夫婦の会話である。」


 夫婦でお互い励まし合う、許し合うのは麗しいことだが、当たり前の姿である。
 夫婦の間で、ウソがあっても、お互い許しあうべきであろう。
 しかし、許しがたいのは、子どもたちにもウソをついていたことである。
「新・人間革命」第14巻P273には、
「また、伸一は、子どもたちのことが気にかかっていた。連日のようにテレビやラジオ、新聞で『言論・出版妨害問題』として扱われ、伸一を証人喚問せよなどと、狂ったように集中攻撃が行われていた時である。
 当然、学校でも話題になっているはずである。あるいは、そのことで、あれこれ言われたり、いじめにあっているかもしれない。
 伸一は、子どもたちを不憫に感じたが、それは同時に、人生の大事な滋養となるにちがいないと確信していた。
 ある時、自宅に戻った伸一は、三人の子どもたちを集めて言った。
『今、学会がどんな状況にあるか、君たちもよく知っているね。私に対する攻撃も、ますます盛んになってきている』
 子どもたちは頷いた。
『でも、驚いてはいけない。また、怖がる必要もない。私は、何も悪いことなんかしていないんだから』」


 さらに、その正当化や、他への責任転嫁などが、今となっては許しがたい文言のように続く。
 「『学会がめざしているのは広宣流布だ。それは、地球上の人々が、民衆が、一人も漏れなく幸福になり、世界が平和になることだ。そのために、私は戦っている。
 しかし、世の中には、学会への誤解や嫉妬などから、学会をつぶしたいと考えている人たちもいる。それで、いろいろ悪口を言われたり、攻撃されたりすることもある。これは仕方がないことなんだ』」(同書P273)



 子どもたちが大人になって、自分の父親がウソをつき続けて世の中を大いに騒がせた真実を知った時のことを想像すると、ゾッとする。
 前述の父親の〝盗聴〟を、子どもが知ったら……
 大人は、純真な子どもにウソをついてはならない。
 「ウソは泥棒の始まり」と、言葉だけでなく自らの姿を通して教えなければならない立場である。
 過ちをすればごめんなさいとあやまる姿も、父親として見せなければならないのではないかと思う。




 だが、後述するが、こういった、ウソにウソを上塗りし、強行突破に近い路線も、池田大作は、この年の3月31日、強行突破の方針で固まった渋谷研修所での会議が終わった後、車の中で山崎正友(註、元創価学会顧問弁護士)の進言「〝負けて勝つ〟ということがあります…」をあっけなく受け入れた。
 創価学会・公明党は、まさに180度の方針転換をしたのである。

「私の進言に、池田氏は大きくうなずいた。
『まったくそのとおりだ。負けるが勝ちだよ。謝っちゃおうよ…』」
(山崎正友著「盗聴教団――元創価学会顧問弁護士の証言」1980/12/1,晩聲社、P19)


 これは、文面からすれば、本心から悪かったと謝ろうというのではない。
 全くもって、ずるい。



■諜報係:山崎正友の台頭


 この事件以降、山崎正友は、池田大作の弟子として、創価学会顧問弁護士として頭角を現し、創価学会の様々な策謀の首謀者となっていく。
 まさに、その後の創価学会の様々な策謀の歴史は、この事件がきっかけとなっているのである。

 山崎正友が創価学会にいる間に担当した仕事は、情報活動、事件処理、機構改革、渉外、組織活動などで、池田大作から「闇の帝王」、回りからはSCIA長官、山崎師団のボスなどと呼ばれていた。
 彼の情報活動は、この事件の発端となった昭和44年8月より2カ月ほど前の6月頃、創価学会学生部で「新学同」という学生運動団体を結成したときからである。
 山崎正友は副理事長、学生部主任部長として、オルグと指導の役割を担った。
 その秘密アジトは、東京都千代田区神田小川町近くの高橋ビル(淡路町)4階の一室を借りて、表向きは山崎法律事務所分室、費用はアルバイト料も含めて創価学会より一旦山崎事務所に報酬として支払われ、山崎事務所の経費として支出していた。
 山崎正友のこうした、表面化したら極めて都合の悪い活動は、創価学会とは一切関係がない形で行うように指示されていたため、山崎自らが、創価学会との関係を法的に切断していたのである。
 この方法が、結局は、彼が後に、創価学会から貶められたという恐喝事件へ繋がっていく、まさにこれも自業自得・因果応報なのであるが、それらは機会があれば後述してもいい。
 当時の学生運動では、機動隊との衝突も日常茶飯事であった
 彼によると、池田大作は当時、見栄や防衛のため過激派学生団体に数百万円のカンパをしていたという。
 また、このアジトをお忍びでやってきて、大変はしゃいだという。
 この「新学同」の活動は、彼の指揮の下、広野輝夫、竹岡。北林らが行なっていたが、多くのセクトからはバカにされ、相手にされなかったが、共産党をバックとする民青は、敵意と警戒心を抱いていたため、ウェートがこれにかかっていた。
 その経費は、創価学会から山崎を通じて支払われていたという。
 言論問題が起り、昭和44年末の選挙運動では、中野区の青年部責任者として没頭し、その後学会本部に戻った山崎正友の主な仕事は、やはり、共産党に対する情報収集であったという。


 「昭和四十五年一月中旬、私は、学生本部三階の仏間で、池田大作氏より直々に、『折伏経典』を手渡され、『この中に、強要罪や、宗教法人法違反の内容があるという人がいるんだ。学生部の法学委員会で検討してくれないか。共産党が国会で創価学会の体質問題をやるといっている。国立戒壇から何から、ひとつひとつ総点検して対策を立ててくれないか』と依頼された。
 私は、私のほかに長谷雄幸久、伊能重二(ともに弁護士)、桐ケ谷章、吉村弘、高井康行(当時司法修習生)、神崎武法(検事)、亀本和彦(建設省)氏らでプロジェクトを作り、作業を開始した…中略…その一方で,〝新学同〟のメンバーの中から、広野輝夫を中心とする情報マンを引き抜いて対共産党情報活動に着手した」
(山崎正友著「盗聴教団――元創価学会顧問弁護士の証言」1980/12/1,晩聲社、P14)

 当時、創価学会本部では、北林浩副会長(当時)を中心に、竹入、矢野、龍ら公明党首脳、秋谷、森田一哉、和泉覚ら組織幹部、山崎尚見、芳賀明人ら広報室関係、青木亨、福島源次郎、市川雄一ら機関紙ならびに青年部首脳が、毎晩、会議が開かれていて、山崎正友も、これに加わった。
「事件の推移の中で、私のプロジェクトチームの作業内容がしだいに重きをなし、会議は、竹入、矢野ら、公明党の国会およびマスコミ対策と、私のプロジェクトの分析が軸となって展開されていくようになった」(同書P14)


 ここには、創価学会=公明党、政教一致の体制で、この問題に取り組んでいたことがよく読みとれる。


「二月後半からは、直接、池田大作氏から私のほうに諮問されることが多くなり、三月後半から四月にかけては、重要な決定は、池田、北条、秋谷氏、そして私の間で行なわれるようになった」(同書P15)

 この関係は、この事件後も、池田が会長を辞任し、その後山崎が造反するころまで、約10年間、間を置きながら続くのである。


 以下、彼の著作より、その事実を追っていく。

「辻武寿氏(現副会長)らが、武井某という詐欺師にだまされ、『共産党の差しがねで、国税庁が学会に手入れをすることになった』などというガセネタをつかまされて、その報酬に千数百万円を裏金で支払った、という笑い話もあった。
 この金は国会議員たちが歳費の中から出し合ったものだ、と聞いている。国民の税金から支出される議員の歳費が、創価学会の機密情報費に化け、しかもそれが詐欺師の手に渡ったというのでは、お話にならない。
 この武井某は、ほかでもいろんなところでトラブルを起こしている。『月刊ペン事件』の隈部大蔵氏も、この男に偽情報をつかまされた苦い経験があるはずである。…中略…隈部氏の指摘した池田大作のプライバシーがおおむね事実であることも知っていたがゆえに、隈部氏の裁判で、池田大作を法廷に出さないための裏工作を引き受けざるを得なかった…中略…
いきおい、私のプロジェクトに負担がかかった」(同書P15-16)


■山崎正友著「再び、盗聴教団の解明」2005/4/8 日新報道 P94-97での記述


「 四、共産党対策が学会の最重要課題に
 しかし、共産党の創価学会批判キャンペーンはさらに激しく続いており、マスコミも国会も、キッカケがあれば燃え上がる、という状況が依然として続いていた。創価学会始まって以来の〝悪夢〟のような災難は、いつになったら終わるのか見当がつかなかった。
 私は、すでに一月初めから、池田大作直々の命令によって、言論問題対策の首脳会議に出席し、本部中枢に入り、司令塔役の北条浩氏の側にいつもいて、すべてのことをチェックする立場についていた。
 私にとって天を覆うような巨人であり、終始、自信満々に振る舞っていた池田大作は、帝釈天に責められ身を縮めて蓮の花に隠れた修羅のように、この頃、等身大以下の人間に縮んでいた。
 首脳を集め、その前で、頭に氷のうを二つのせ、テーブルの上のハサミを神経質に動かし、赤く充血した目を落ち着きなく動かして弱音を吐く池田大作を見て、私は、〝見てはならないものをみてしまった〟とうろたえた。
 その池田大作は、私達首脳に対し、
『公明党と創価学会を政教分離しようという意見は、創価学会を壊滅させようという陰謀だ。あらゆる手段を講じて、これに対抗しろ』
『純真というのは、ただ御本尊を拝んでいるだけじゃないんだ。御本尊を拝むと同時に、あらゆる策略を持って戦え。それが本当の純真なのだ』
『共産党とは、十年、二十年の死闘が始まるんだ。そのつもりで、腹を据えてやれ』
『後手後手だ。お前達のやっていることは全部、後手だ。闘いは先手をとるために全力をあげよ』
『最高幹部は、毎日家に帰るのはおかしい。本部や会館に詰めて、対処しろ』
等とヒステリックにどなり散らした。さらに、
『私は殺されるかもしれない。深刻な事態なんだ。これをよく認識しろ‼』
と、首脳達を叱咤した。会議などの席だけではなく、個々の首脳に電話で叱咤した。
 いても立ってもいられぬ、といった風情だった。
 こうした、自信喪失に陥った〝中枢〟に『切り札』として迎えられた私は以後、池田大作の指図のままに動いた。
 祈り、そして、謀略のかぎりを尽くして、戦った。
 池田大作から『闇の帝王』と呼ばれる存在にまでなった。
 だから今日、創価学会が、私を〝謀略〟〝謀略〟の主のように批判するのは、実は池田大作の指導を批判しているのであり、『そのような人間になれ』と命令し、育て上げた池田大作その人を非難しているのである。
 ちょうど、私が育成した後輩の弁護士達や情報師団によってワナにはめられ、卑劣な中傷攻撃を受けるのと同様、これぞ〝因果応報〟、皮肉な巡り合わせという他ない。
 言論問題を機に、池田大作によって、私は〝戦闘サイボーグ〟として作り変えられていった。
 その私が、言論問題対策の中心に据えられ、活動し始めて直面したのは、〝共産党対策〟の手薄さであった。手薄というより無為無策、といった方が正確かもしれない。」



 ここで、〝見てはならないものをみてしまった〟というのは、藤原行正が指摘する重病人芝居のなかで、池田の修羅の生命境涯を物語っているといえる。



 3月31日を皮切りに流れが変わった……




■「負けるが勝ち」を選択した池田大作


 「よく池田先生は、あの言論問題のとき『私を守ってくれた人は一人もいなかった。私は、もうだれも信じまいと思った。私は宇宙と語る』ともらされました」(原島崇著「池田先生の手紙」P45)

 この頃、池田大作に付き添っていた山崎正友は、自著で述べる。
 「言論問題の渦中にあった創価学会にも、大きな転機となったときがあった。昭和四十五年三月末がそのときであった。
 この日まで、学会と公明党の合同会議の方針は、ほぼ強行突破に近い路線であった。三月三十一日、渋谷研修所で池田氏を囲み、北条副会長、竹入委員長、秋谷副会長、私、それに塚本素山氏、橋本公旦中央大学教授らで、竹入委員長談話の原稿を練った段階までは、そうであった。
『(言論抑圧という)事実はなかったが、そう受けとられいることは遺憾である。法廷に出ても闘う』といった調子だった。
 会議が終わったあと、池田氏は北条副会長と私を自分の乗用車に乗せ、二時間ばかりぐるぐる回りながら、いろいろと話し合った。
『日本の国はもう終わりだな。私をこんなにいじめるようでは』
『アメリカへ行くよ。自由の天地アメリカで広宣流布するよ』
『どうだ、数年後に三十万ぐらいは会員が残るか』
『日本は小さいよ。俺がちょっとなにかやると、すぐさわぎになってしまう』
 などと、池田氏はうぬぼれと悲観のまじった心境を言葉の端々にうかがわせていた。
 車がちょうど外苑通りを通って曙橋を渡り、靖国通りへ降りる合羽坂にさしかかったとき、池田氏は突然、
『友さん(池田氏は私をそう呼んでいた)、君の本当のところはどういう考えなんだ?』と聞いた。
 今日一日、私が言いたいことをじっとこらえていた様子を見抜いていたようだった。
『はい。これまでの方針で押していくのもたしかに一つの戦法です。いずれ松川裁判のように十年、二十年の戦争になるでしょう。松川裁判はたしかに無罪になった。二十年後に勝った。しかしこの二十年間、松川事件のおかげで、共産党はどれだけマイナスをこうむったかわかりません。どれだけイメージダウンしたことか。学会も〝事実無根〟路線で押すことは訴訟も起こされるでしょう。十年、二十年と、社会と摩擦を残したままいくことになります。たとえ二十年先に勝っても、途中では学会はダメージを受ける一方で、小さくならざるをえません』
『そうなんだよ、それなんだよ』
 池田氏はわが意を得たりといわんばかりに大きな声で言った。
『学会は庶民ばっかりだ。共産党と違ってオバさんや女子部員も多い。みな純粋でお人好しだから、権力にやられるとかわいそうだし、ひとたまりもないよ』
『〝負けて勝つ〟ということがあります。一時あっさり引いても、そのことで状況を転換しきれたら、あとでいくらでも取りかえせますよ。それにこの際、改めた方がよいこともかなりあると思いますが――』
 私の進言に池田氏は大きくうなずいた。
『まったくそのとおりだ。負けるが勝ちだよ。謝っちゃおうよ。こういうときじゃないと体質も変えられないよ。とにかくいままでウチ(学会)は、通りを夜昼かまわず大声で怒鳴りちらし、カネと太鼓を鳴らしながら歩くようなやり方だった。常識的なやり方にもどそう。その方が世間も安心するよ』
 問題は、強行突破で固まった今日の会議の始末であり、ことに塚本素山氏、橋本公旦氏らへの根まわしも必要だった。が、いずれにせよ、このときから池田氏は、五月三日の謝罪演説へ向かって、まっしぐらに進んだのであった。
『大将が謝ってはしょうがないよ』(秋谷栄之助氏現副会長)
『撤退は、弾丸を撃ちながらやらなくては』(竹入公明党現委員長)
 などという意見もあったが、池田氏はそれらの意見には耳を貸さなかった。ここらへんの判断力は、さすがというほかない見事さであった。』(山崎正友著「盗聴教団――元創価学会顧問弁護士の証言」P17-19)


■最後の敵は共産党だ


 「原島崇氏(元創価学会教学部長)を中心に、池田氏の五月三日の講演原稿作りが昼夜を問わず進められた」(同著P19)

「その原稿の草案は、箱根研修所で先生の指示のもと、桐山泰次氏(現教学部長)と私の二人でつくらせていただきました」(原島崇著「池田先生の手紙」P40)


 そして、山崎正友は、自著で述べる。

 「池田氏は、新聞記者や政治家、財界の有力者に会って、方針の根まわしをし、協力を要請した。
 四月二十日すぎのある日、朝日新聞社央忠邦記者、神崎武法検事、それに私が箱根研修所に呼ばれ、池田原稿の討論に加わったこともあった。
 しかし、私はその一方で、対共産党情報に神経をとがらせていた。退却するのはいいが、つけ入られて攻めこまれ、収拾がつかなくなっては困る。追撃がかからぬことが必須条件であった。
 自民党、社会党、民社党の首脳は直接の折衝で、学会が体質改善の方向を示すならばこれ以上深追いはしない、との了解がついていた。共産党だけは、今後の出方の読めぬ不気味な存在であった。
 共産党に対しては、こうした当面の事情以外に、学会首脳の心理に特殊な事情が存在した。
 池田氏は、『戸田二代会長は〝最後の敵は共産党だ〟といわれた。広宣流布の最終段階で、共産党とは死闘を演じなくてはならない』と強調していた。選挙のたびに、組織選挙という面で似た者同士のこぜり合いが絶えなかった。そこへきて言論問題の火つけ役・推進役が共産党であった。そのうえ共産党の機関紙『赤旗』には、『黒い〝鶴〟のタブー』という連載記事がいつ果てるともなくつづいていた。
 このようなわけで、創価学会は長期的展望の上に立って、本腰を入れて共産党対策に取り組まなくてはならない状況にあったのである。当然、私の配下の情報師団の責任も重くなったのであった」((山崎正友著「盗聴教団――元創価学会顧問弁護士の証言」P20-21)



 また、こうした流れは、先述した、月刊ペン事件の再審裁判で、原島崇の証言によっても裏づけられている。
 山崎正友著「続・「月刊ペン事件」法廷に立った池田大作」2001/07/30,第三書館、P126-127には、この期間、箱根研修所にこもっていた池田の専用部屋に呼ばれた際、池田のステテコに紅がついてたことを弁護側尋問の証人として証言する原島崇の、以下にあげる証言がある。


 「第三に私が目撃したのは、同じく昭和四五年五月三日の総会の講演が最終段階に入ったときのことであります。五月三日の池田大作氏の講演は、社会的にも重要な講演であっただけに、さまざまな根回しをする必要がありました。時には公明党の首脳とも根回しをいたしましたし、創価学会の首脳には当然根回しをいたしました。その四月の下旬、ほぼ最終の原稿ができあがった段階、レジュメがタイプで打たれた段階のときのことでございます。このとき確か山崎正友さん、神崎さん、それから新聞記者が一人呼ばれておりました。その日はそのレジュメの検討をしたわけでございますが、翌日午前一〇時半頃、二階に山崎正友氏が呼ばれました」
(弁護人・佐瀬)「これは場所は」
(原島崇)「箱根研修所でございます」
(弁護人・佐瀬)「そしてあなた方三人もあわせて行ったわけですか」
(原島崇)「はい、三人もいました。二階に翌日山崎正友さんが呼ばれました。そのあと私が呼ばれました。当時学生部長が森田康次氏で、私は青年部のなかにおいては副青年部長で学生部担当でありました。で、池田さんが私に、すぐ森田に――森田というのは森田康次氏のことですが――山崎正友に優秀な人材をつけるように伝えなさい、とこういう話でございました。そのときに池田さんの服装は、ゆかたの上にちゃんちゃんこみたいなのを着ておりましたが、ステテコにやはり紅がついておりました。私は山崎さんが見なければいいな、と非常に不安でありました。
とにかく先に私のほうが降りました。…中略…
やがて山崎氏が階下に降りてきました…中略…
そのときに山崎さんに、一体何のこと、と私は質問いたしました。そしたら山崎さんが言うには、現在対共産党に対して(ママ)データを集めているんだ、そしてこれから盗聴をやったり、また向こうに人を入れたりするんだ、そのためにはどうしても優秀な人材がほしいんだ、と。…中略…
私自身それに対しては反対の心をもっておりました。どこまでも正攻法でやるべきだという気持ちをもっておりましたし、できることならばもう一度山崎さんと一緒に上へ上がって池田さんに報告し直して、そして冒険をやめさせるように山崎に言いました。君は冒険主義だからだめだ。何かに突込みすぎる、やめなさいというふうに言いましたけれども彼らからは向こう――向こうとは共産党ですが――向こうのの出方がわからない、出方がわからないと言いまして」



 ところで、山崎正友は、こうした流れで、この事件後に、池田大作の指示の下、共産党宮本顕治宅盗聴事件へと続いていく。
 ちなみに山崎正友は、この10年間、池田大作に最も尽くした弟子のひとりではあったが、結局、池田に裏切られ、貶められることになる。


 弟子が誤ったことをしでかしたとしても、それを許し、しりぬぐいを自らするのが師匠というものだはないだろうか。
 そのうえ、山崎正友に言いつけて指示した仕事は、背徳的・反社会的な部分が多いのである。
 機会があれば紹介するが、互いに共犯同士であると池田が言うやりとりも、山崎正友の著作にでてくるのである。

 いづれにせよ、池田と山崎は、この事件で互いの信頼・結束を更に強めた。
 3月31日の会議のあと、池田は山崎の助言を受け入れ、謝罪方針に転換、事件の収拾に向けて、まっしぐらに進んでいくのである。


 2日後には、戸田の13回忌法要が迫っていた。


■「新・人間革命」の4月以降の記述

「新・人間革命」第十四巻P287-288には、
「桜花の季節が訪れようとしていた。
 四月二日、総本山の大客殿で、第二代会長戸田城聖の十三回忌大法要が厳粛に営まれた…中略…
 彼(山本伸一=池田大作)は、師の戸田城聖に語りかけるように話し始めた。
『私どもの畏敬する恩師戸田城聖先生に捧げます……』…中略…

『…御本仏日蓮大聖人の広大な慈悲、そして、末法折伏の総帥・恩師戸田城聖先生の御構想は、末法万年の一切衆生をば、大白法の功徳に浴せしめ、一切衆生の幸福境涯と、常寂光土の平和社会を具現することを、強く確信いたします。
 私たちは、いかに嵐が叫ぶとも、怒涛が猛り狂うとも、御仏の、師子王の子らしく、また、戸田門下生の誇りをもち、それぞれの使命の庭に、必ずや勝利の記念碑を打ち立ててまいります。
 先生が亡くなられる直前に言われた、『一歩も退くな!』『追撃の手をゆるめるな!』とのお言葉を、私ども弟子一同は、深く、深く、胸に刻んで、障魔と戦い、勇気凛々、仲良く生き抜いてまいります』
 烈々たる誓いの言葉であった。」
 とある。


 池田大作が、「一歩も退く」だけでなく、箱根の研修施設に身を隠し、帝釈に責められて蓮の穴に隠れている修羅のようになっていたことは、側近の山崎正友が語っている。
 池田大作は、もうこの時点では、あやまろうと、心に決めていたのであるから、なんとも言葉もない誇張表現である。


 ちなみに、このモデルとなった元の挨拶は、池田大作著「池田会長講演集」1980/5/3,聖教新聞社 P167-172に収録されており、かなりの長文である。
 冒頭の言葉は同じであり、また、「御本仏日蓮大聖人の…強く確信いたします」も、同じ文言である。
 しかし、これに続く以下の文言、
「先生が教えてくださった七つの鐘のうち、六つの鐘が今、鳴り終わろうとしております…中略…諸兄は、必ずやまた各地の法戦に馳せ参じ、七つの鐘を乱打していくものと、私は信じております」
 が、抜かれている。
 また、
「しかも、私どもにとって、最大の依処とし、喜びとするところは、日達上人猊下がますますお元気であられることであります。…中略…近くはただただ日達上人猊下の毎自作是念の祈りこそ、広宣流布の大業をおこし、事の三大秘法を成就する根源にほかなりません。
 今まさに広宣流布実現の表徴ともいうべき、三大秘法、事の戒壇たる正本堂が、清浄なる富士の裾野に、その勇姿を現わさんとしております…中略…」
 も、モデルから抜けているのは、意図的であろう。
 七つの鐘の構想に正本堂が入っていたことは紛れもない事実であって、これは、すでに取り壊されている。
 また、正本堂建立の前後から日達上人との仲が悪くなり、山崎正友に盗聴させたり、ときには苛め、罵倒し、さまざまな教学問題を宗門との間に起こしてお詫びを繰り返し、結局、七つの鐘のうち、最後の鐘を打ち鳴らす年に、池田大作は会長を辞している。
 さらに、続く文言は、
 「そのために、いかに嵐が叫ぶとも、怒涛が猛り狂うとも、御仏の、師子王の子らしく、また、戸田門下生の誇りをもち、必ず最後の仕上げまで戦い切っていくことでありましょう。
 先生がいまわのきわに仰せられた、『一歩も退くな』とのお言葉を、私ども弟子一同は、強く胸に刻んで仲良く生き抜いてまいります」
 とあって、これは、七つの鐘が無事に鳴り終わり、広宣流布が達成されることが前提となった話である。

 『一歩も退くな!』『追撃の手をゆるめるな!』は、自らが捏造した戸田の遺言を、くり返し言って、真実としようとしている。


 側近であった原島崇は暴露している。
「『追撃の手をゆるめるな』というのは、池田先生がつくった言葉です…中略…それは私にも他の人にも『あれはオレがつくったんだよ』と明確に、真実を語ってくれました。もちろん、一般会員の方に、そんな〝真相〟は明かしません」(原島崇著「池田先生への手紙」P106)

 池田大作が「ウソも百遍言えば真実となる」と言っていることを、複数の側近の著作でも指摘されている。
「……池田大作は戸田城聖の弟子時代に習い覚えた日蓮正宗の故事を巧みに利用した。子供騙しの手口ではあるが、池田はしつこく何度も同じウソをさまざまな場所で繰り返した。
『ウソも百遍繰り返せば真実になる』」(藤原行正著「池田大作の素顔」P168)


 更にいうには、破門された後だからこそか、
「猊下がいつまでも、いつまでも、お元気であられんことをお祈り申し上げ、かつまた、猊下に一層の忠誠を尽くすことを、全信徒を代表し、全信徒とともにお誓い申し上げるものであります…(以下略)」
 も、2005年の出版時には、大変に不都合な部分となっていた。

 もっとも、正本堂完成1年後の1973年(昭和48年)10月14日、池田は正本堂東広場で日達を怒鳴りつけている。
「『猊下はすぐお忘れになってしまう。学会を奴隷にしないで下さい。このままいったら宗門はめちゃくちゃです』」(原島崇著「池田先生への手紙」P26)


 また、これを裏付けるこんな指摘もある。
「名誉会長に退いたわずか三カ月後、池田に睨みをきかせていた日達上人が急死した。生前の日達上人は池田を『俗物のきわみ』と毛嫌いしていたが、池田も会長辞任を迫られた時、
『あんな老いぼれ死んでしまえ!』
 と側近たちにわめきちらし、日達上人の急逝の一報を聞くとまるで小躍りするような表情でいった。
『死にやがったか』
 そして、池田は新法主となった阿部日顕上人とは旧知の仲ということで、故・日達上人の約束を簡単に反古にし、あっという間に息を吹き返した」(藤原行正著「池田大作の素顔」P162)



 池田大作は、日達に「学会を奴隷にしないで下さい」と怒鳴った、と原島崇の著作にあるが、池田は社長会で、こんな本音を言っていることは、改めて指摘しておく。

 「学会っ子は、名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。奴隷のように学会に仕えよ、それが御本尊様につかえる事だ」(第50回社長会,昭和46年7月8日,
継命編集部編「社長会全記録」,1983/6/10,継命新聞社,P222)


 どうも、「奴隷」が、キーワードのひとつのようである。

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