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P32, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(2)、池田大作と竹入義勝が‶盗聴〟 日蓮仏法の悪用

■言論出版妨害事件 1970年1月前後、現時点でのウィキペディア(Wikipedia)での概要

「創価学会に対する批判をタブー視していたマスコミがこの問題を取り上げなかった中、日本共産党は、所属議員が NHKでの公明党との討論会で出版妨害の事実があったことを告発したり、機関紙『赤旗』(現「しんぶん赤旗」)紙上で、角栄から介入を受けたという藤原の告発を掲載するなど、この問題を先駆けて追及した。 それに対して創価学会・公明党側は「事実無根」だとして、その関与を全面否定した。一方、田中幹事長は公明党の依頼ではなく、「つぶやきを聞いて、おせっかいを焼いた」と、自発的だとしながらも、関与したこと自体は認めた。
 共産党の報道をきっかけに、他のマスコミも創価学会・公明党を批判的に報じるようになった。」




■言論出版の自由にかんする懇談会編「公明党・創価学会の言論抑圧問題」1970/3/20、飯塚書店 P19-20 には、以下のように述べられている。

 「六九年八月下旬、この本の予告広告が出た時から、妨害がはじまった。公明党の都議会議員(藤原行正)や創価学会会員(秋谷栄之助総務=当時)などが、著者や出版社に対して、『題名をかえろ』とか、『出版時期が総選挙の前なのでまずいからこれをずらせ』とか、『出版に要する経費は当方で負担する』とか、『みせかけだけの出版をして、残りは当方が全部買いとるから書店に並べないようにしてほしい』とかいう、勧誘や圧力をかけたのである。そして十月になると、『政府与党の最要職にある有名な政治家』(自民党の田中幹事長)が、公明党の竹入委員長の強い要請で、執筆を中止させようと、著者にはたらきかけた。けれども、著者はこうした申し出をことわり、そういう圧力があったことを『まえがき』に書いて世に問うた。
 一方、出版社側も印刷の過程でどういう妨害が出るかわからないというので、非合法出版なみに編集・校正などすべてを秘密裡におこなって十一月上旬に初版ができあがった。ところが、その直後に出版社の編集長の名をかたった者が印刷工場にあらわれ、『刷リが悪いから』と印刷しなおしを命ずるという怪事件がおきた。また、大新聞への広告や電車の中づり広告を出すことにしたが、『アジビラのようだ』とか『題名が大きすぎる』という理由にならない理由で拒否された。さらに大手取次店は新刊本としての委託販売の扱いをことわり、一般の小売店への新刊書としての配本はされないことになってしまった。そこで出版社の社員たちが足をつかって小売の書店をまわって注文をとり歩くのだが、すでに『潮出版社の者』を名のる者たちが、藤原氏の本を扱わないようにと圧力をかけて歩いていた。また、創価学会の幹部(板倉弘典都議の息子の晃氏)の車が、同書が出てから総選挙公示までの約二十日間、出版社の近くにはりこんで、荷の動きなどを監視していたことものちに明らかにされた」

 また、同書P23では、藤原弘達の著書について、
 「藤原氏は、この本では、共産党の『国会や選挙に対する見方、考え方という点では、どこか共通性』があるとして、共産党を公明党と同次元の党としている。その限りでは、反共色の強い本である。著者は、いわば保守的な政治学者、政治評論家として知られてきた人だが、今回のことで、『赤旗』の取材に応じ、共産党が著者に対しては独自の見解をもちながらも言論・出版の自由をまもるたたかいをともにすすめているということで、新たな評価をくだし、『ファシズムかコミュニズムかということになれば、コミュニズムをとる』という発言をしていること(『文芸春秋』三月号など)」
 が、挙げられている。


 言論出版の自由にかんする懇談会については、「新・人間革命」十四巻P251で、
 「公明党と学会による〝圧力〟なるものが、既成の事実とされ、にわかに〝政治的大問題〟にされていったのである」
 と言及され、これ以降の世間の事実も、あいかわらず被害者ぶった書き方が続いている。



 前ページに引き続いて、「新・人間革命」では絶対書かない、創価学会・公明党の恥ずかしい行為を、もう少し検討しておく。



■池田大作と竹入義勝が二人で‶盗聴〟


 藤原弘達は、その後、自著「創価学会・公明党をブッた斬る」1985/12/20 日新報道、P38-55において、この事件をふりかえって、以下の事実を述べている。
 P38-42では、出版妨害に奔走した時系列を示し、P43では、2回にわたった田中角栄氏との話し合いについて述べているので引用する。

 「当時の自民党幹事長・田中角栄が、私に会いたいというので、赤坂の料亭『千代新』へ出かけたのは十月十五日のことである。この時、私が『この問題について総理(注・佐藤栄作)は知っているのか』とただしたところ、田中幹事長は『総理には、いっていない。自分は竹入らとの平素のつきあいから頼まれたものだ』と明言した。
 田中角栄の、私の本の出版を初版だけにし、その殆どを書いとる〝斡旋〟案は、要するに、本をヤミからヤミへ葬ろうというもので、もちろん、私は一蹴した。」
 
 この千代新での二人の会話を、池田大作と竹入義勝が隣の部屋から盗み聴きしていたというのだ。

 「滑稽なのは、これは後になり俵幸太郎らも雑誌に書いているのでわかったことだが、私が、『千代新』で田中角栄と会っている時、池田大作と公明党委員長・竹入義勝両人は、隣室で聴き耳をたてていたそうだ。盗聴器こそ使わないが、そのものズバリの〝盗聴〟(盗み聴き)なのだ。こうなると、まことにマンガ的としかいいようがない。会員数七百万世帯の新興宗教に君臨する男と、いやしくも国会に議席をもつ公党の委員長たる男の二人が、襖越しに盗み聴きをする図を想像されよ。いや、マンガ的と嘲笑してすまされないのである。民主主義社会において、公人の立場にある人間として、これほどの陰険さは類をみない。陰険というより、まことに卑劣極まる、あさましいの一語に尽きよう」(同書P44-45)


 まさに壁に耳あり障子に目ありである。
 彼の指摘はもっともな批判である。
 しかも、暴露されたら極めて「恥ずかしい」場面ではないか。


 一番最初から「ごめんなさい」と謝ってしまえばよかったではないか。
 そのほうが最小限の犠牲で済み、創価学会のためにもなったはずである。
 この、子どもで言える一言を、言わずに組織をあげて正当化し、ウソにウソをたび重ねた為に、組織の内外共に多くの害悪と犠牲をもたらしたということは、まことに因果なことであろう。


 これについては当事者の藤原行正都議も自著「池田大作の素顔」P126で
「四十四年十月十五日、赤坂の料亭『千代新』で藤原弘達氏と田中角栄氏との第一回目の会合がもたれた。これは弘達氏が旧知の相手の顔を立てたにすぎず、田中幹事長が一役買った初回の仲介は不首尾に終わった。
 池田大作が三たび失態を重ねたのはこの時だった。池田は竹入と一緒に問題の料亭のすぐ隣りの部屋に身を潜ませ、藤原・田中会談の話の成り行きにこっそり聞き耳を立てていたのである。
 ところが、その姿を係の仲居さんに目撃され、のちにこの事実は当時サンケイ新聞政治部記者だった俵幸太郎氏によってスッパ抜かれるというオマケまでついた」

 と、裏づけているのである。




 さらに、
 「再度、十月二十三日夜、同じ赤坂の『乃婦中川』で会った時、私は田名角栄にいった。『角さん、こんなことをやっていたら、あんたは絶対に総理大臣になれませんぞ』――今でも覚えている。あの田中角栄が顔面蒼白になったものだ。
 これで談判決裂になったのだが、私としては、田中角栄がこの問題に介入したことは最後まで伏せておくつもりだった。政治家としての彼の将来も考えたし、当時、人間的にもキライではなかったからだ。この件に関しては、池田、竹入、矢野、そして田中と藤原の五人以外は誰も知らないということだったから、出版元の幹部にすら伏せておいたくらいである。田中角栄にも、『あなたの名前は出さないようにする』と一応はいっておいた。
 しかし、その後も妨害やイヤガラセは続出した。あまつさえ、十二月十三日、NHK二党間討論(共産党ー公明党)において、公明党・正木良明議員が『あおんなこと(出版に対する圧力、妨害はしていない。全くのウソである』と全面否定した。ここに至っては、もはや、何をかいわんやである。黙っていては、私が言論人として自殺行為に等しいウソをついたことになる。十二月十五日、『赤旗』記者の取材を受けた時、私はいった。
『よし、こうなれば名前を公表しよう。それは自民党の田中幹事長だよ……NHKテレビ討論会という公の場で、公明党代表が出版妨害などしていない、全部ウソだといったのだから、私も黙ってはいられない』…中略…
それでもなお、公明党・竹入委員長はシラをきった。四十五年一月五日、竹入公明党委員長の発表した談話『私及び矢野書記長を含めて出版会社に中止を求めたというのは事実無根の中傷だ……共産党が一方的にやった、やったといっているだけだ』がそれである」
 と述べている。
 さらに、内藤国夫『公明党の素顔』への圧力の場合、日本船舶振興会会長の笹川良一氏が登場した例をあげて、
「『人のためになる』ことを主義とする笹川良一氏は、公明党に借りを返すためと称し、内藤国夫の本をヤミに葬ろうと図る。田中角栄も、初めは『……自分と竹入らの平素のつきあいから頼まれた』と、私に買収工作をもちかけた。自民党幹事長が妨害工作に介入したことを私が公表に踏み切った後、四十五年一月六日、田中角栄は苦しい弁明ながら事実を認めている。『公明党が弱ったナとつぶやくのを聞き、すこしおせっかいをやいた』――笹川、田中、二つの場合とも、自分たちのお節介からやったということで、公明党からの働きかけはなかった、とかばっているわけだが、これも全くの大ウソである」(同書P46)
 と、暴露している。


 以下、この事件が勃発してゆれたものの、前年末は衆院選挙で公明党の大躍進(47議席獲得)で終えた翌年、昭和45年1月年初より、通常国会が始まるまでを追ってみる。


■矢野絢也著「私が愛した池田大作」2009/12/21 講談社、P145-156 での記述

 「一九六九(昭和四四)年一一月六日、数々の圧力を撥ね除けて『創価学会を斬る』は刊行された。学会による妨害工作はすでに雑誌などで取り上げられており、話題になっていたこともあってすぐに増刷が決定。最終的に一〇〇万部を超えるベストセラーになったという。学会の工作は逆に話題性を煽り、本の売り上げに資する皮肉な結果となったのである。
 この年の年末、一二月二七日には第三二回衆院選が行われた。私たちはこの対応に大わらわだった。
 角栄氏は沈黙を守ってくれていたが、一二月一七日には弘達氏が、
『本をすべて学会に買い取らせるよう、角栄氏から頼まれた。角栄氏を動かしたのは公明党だ』
 と暴露した記事が新聞『赤旗』に掲載された。仕方なく私はマスコミの取材に対して、『そんなのは事実無根だ』と否定した。この私のコメントに弘達氏がまたも『赤旗』紙上で怒っているというので、今度はNHKの番組で『ウチは妨害などしていない』と改めて否定することになった。
 とにかくこの問題が選挙に影響することだけは避けなければ、と必死だった。どこかで火の手が上がると軽く打ち消して回る。全力で否定すれば、火の粉がこちらに飛んでくるからだが、まるでモグラ叩きをやっているようだった。学会ではこうした我々の対応に『手ぬるい』という批判が出てきた。
 選挙の前日、二六日にはNHKで討論会が開かれた。当時、NHKは選挙期間の最後の日によくこうした企画をやっていたものである。各党の幹事長、書記長クラスが集まっての討論会だった。討論の前、学会のある最高幹部から電話があり、『矢野さん、今日、言論問題の話題が出たら、ぴしゃりとやってください。明日は投票日だから、全国の会員たちを鼓舞するために』とクギを刺された。
 共産党は、当然のように討論会でも言論出版妨害事件に切り込んできた。
『創価学会と公明党が言論妨害をやっていると世間では騒がれているようだが』
 これに対して私は、
『それはありません』
 と、断固として突っ撥ねた。さらに、皮肉で返してやった。
『言論妨害とおっしゃるが、それについては共産党さんのほうに歴史があるのではないですか』
 放映が終わって学会本部に挨拶に行くと、職員の皆さんがわらわらと寄ってきた。
『やあ矢野さん、よかったよかった。よくあそこまで、歯切れよく反論してくれた。おかげ様で皆、元気づきましたよ』
…中略…
 ところがふたを開けてみたら、公明党は大勝利だった。それまでの二五議席が四七議席、ほぼ倍増という結果だった。民社党を抜き、社会党に次ぐ野党第二党へと躍り出たのである。…中略…

 一月二日には竹入氏とともに、総本山大石寺を訪れ、年始の挨拶をした。」


 矢野純也氏の事実無根発言はP31で先述した通りである。

 そして、この、年明け1月2日には、総本山大石寺で、全国から集まった幹部による創価学会幹部会が行われている。矢野氏もこれに出席していたのであろう。
 ここでも、後述するが、池田大作には、世間の批判を素直に受け入れようとする姿勢はみられない。

 これ以降は、矢野絢也は次のように述べる。

 「翌三日の総務会は、もちろん組織改革など他の案件もあったが、議論の大半は言論出版妨害事件についてであった。

「党は何もしない」というのが我々に向けられた批判だった。選挙期間中は選挙妨害になると遠慮したのか、マスコミ報道も下火だったが、選挙が終わると再びこの問題を大きく取り上げ始めていたのである。公明党の大躍進が周囲の問題意識、危機感を煽った影響も当然あったろう。国会が始まる前、不穏な雰囲気を私たちも感じてはいた。
 だが、我々としては、本来これは党で扱うような問題ではないという認識だった。政治問題化したら大変なことになってしまう。だから党としては表立ってこの問題に触れないほうがいい。そこで竹入氏と私が、
『これは学会の言論問題であって、そこに党が出て行くのはいかがなものか』
 というと、囂々の非難にさらされた。
『学会あっての党ではないか』
『今回の大躍進だって、学会の応援あってのことだ』
『なのに何を、他人事のように言っておるのか』
 一月五日には竹入氏が、公明党委員長として年頭の記者会見を行うことが予定されている。
 この場でこの問題について触れるかどうかが検討された。我々としては当初、『これについてはこちらから持ち出さない。質問されても『現在、調査中』で通すべきだ』と主張した。しかし北条氏らは譲らない。
『それではダメだ』
『いつまでも知らん顔している党は役立たずと言われるぞ』
『強い言葉で否定すべきだ』
 こちらもあまり強く言い返すことはできなかった。北条氏らの裏に、池田氏がいることは確実だったからだ。竹入・矢野にハッパをかけて、党としてこの問題を断固として否定させる。
党が盾となるべきだ。これが池田氏の意向に他ならない。つまり、『党は役立たず』と言っているのは他の誰でもない、池田氏当人なのである。
 結局、一月五日の記者会見で竹入氏は、
『『言論問題』は事実無根。一方的に事実と言うなら立証責任は向こうにある』
 と断言した。会見に同席した私も同調した。」
 ここでマスコミで報じられた竹入義勝委員長の事実無根公式見解を見てみよう。


■竹入義勝委員長の事実無根公式見解

 「公明党・竹入委員長の記者会見における公式否定発言(一月五日)
一、共産党は、藤原氏の本の出版について、私が自民党の実力者を通じて出版を取止めるよう依頼したと(赤旗に)書いているが、その事実はない。私と矢野書記長を含めて(同席の矢野書記長が、『公明党、創価学会全体を通じて』と言い直す)出版会社に出版のとりやめを依頼したおぼえはない。
一、選挙中だったし、昨年の都議選のときのような共産党との次元の低い泥仕合を再びやるべきではないと、厳正な審判を受けるため、あえて反論を避けてきたが、選挙も一段落したので、この際、明確にしておきたい。
一、(『藤原氏の問題だけでなく、一切の問題で事実無根といえるか』との質問に)その通りだ。出版をとりやめてもらいたいというような考えは持っていない。
一、(同席の矢野書記長が付け加えて)事実無根としかいいようがない。それを一方的に事実というのなら、立証責任は向うにある(一月六日、朝日新聞朝刊)」
(言論出版の自由にかんする懇談会編「公明党・創価学会の言論抑圧問題」1970/3/20、飯塚書店 P178)



 ふたたび、矢野絢也の著「私が愛した池田大作」P151-156 にもどる。
 「さあ、翌日から、大変な騒動になった。選挙期間中に私たちがちょこちょこと火種を消して回っていたときとはわけが違う。れっきとした公党の長、それも自民党、社会党に次ぐ第三党に躍進した公明党の委員長が、正式な記者会見で行った(ママ)発言である。意味も重さもまったく違う。
『竹入委員長、『言論妨害問題』事実無根』
『各界一斉に反発』
 そんな記事が大見出しで新聞に躍った。学会問題はあくまで宗教問題であって、政治問題ではない。だからそれまでは新聞の政治部も扱いかねていたのが、これで公然と政治問題化してしまったのだ。

 弘達氏も黙っているわけがなかった。
『『言論妨害』は紛れもない事実だ』
 まさに怒り心頭という物腰で反論した。もう、上を下への大騒ぎだった。
 一月七日には共産党の宮本顕治書記長(この年の七月に委員長就任)が『この問題を国会で取り上げる』と公表した。一月八日には江田三郎氏、一〇日には佐々木良作氏と、社会党、民社党の両書記長が『ウチもやる』と続いた。
 こうした騒動を受け、北条氏は公明党の副書記長を辞するハメになってしまった。
 火は角栄氏のところまで燃え広がった。弘達氏が、
『圧力は角栄氏を通じてもかけられた』
 と公言してしまったからだ。マスコミは騒然としてきた。
『おい。記者がうるさいんだよ。もう認めてしまってもいいだろ』
 角栄氏から泣きの電話が入る。マスコミから『本当に公明党に頼まれて圧力をかけたのか』
と質問が殺到し、どうにも防ぎようがないというのだ。
 ところが竹入氏に確認すると、
『とんでもない。絶対ダメだ』
『そんなことを認めてしまったら辞職モンだ。断固として止めろ』

 当然である。野党の委員長が与党の幹事長を使って、出版の妨害をしようとしたのだ。こんなことを公に認めてしまったら、党は吹っ飛んでしまう。
『あんた、ウチの委員長をクビにする気か。盟友のクビをあんたは切るんかい』
 私は角栄氏の要請を断った。
『しかしこのままでは俺ももたない。弘達が全部しゃべってしまってる』
 たしかにそれもそのとおりである。そこで苦しい言い訳を考えた。交渉の最中、料亭『のぶ中川』の隅の部屋で、我々が待機していたのは事実である。だが幸い、弘達氏とは会ってはいない。会っていない以上、『角栄の裏にいたのは公明党だ』と弘達氏が証明することもできまい。そこで、厚かましくも、こちらからお願いした。
『あんたが勝手にやったことにしてくれ。公明党が困っているのを見て、勝手にお節介を焼いたんだ、と』
『しかしそれじゃ、俺がバカみたいじゃないか』
『バカみたいに見えてもしゃあない。申し訳ないが、それで通してくれ』
 角栄氏も呆気に取られて、しばらく黙っていた。こちらが『なっ、なっ、頼みます。助けてくれよ』と泣きつくと、
『まあなぁ、仕方がないな。よっしゃ』
 結局、本当に記者団に向かって、
『俺が勝手にお節介を焼いたんだ』
 と会見してくれた。
 ただ記者としても、そんな見え透いた嘘を言われて『はい、そうですか』と受け入れるわけにはいかない。
『お節介ってなんですか。そもそも頼まれてもいないのにどうして、公明党がそこまで困ってるとわかったんですか』
 当然の突っ込みである。角栄氏は苦し紛れに答える。
『いや、だから……あいつらがつぶやいてるのを聞いたんだよ。なんとか出版を止められないかなあ、とかなんとか。だから、ああ困ってるんだなと思って、ついついお節介を』
 今度は記者がこちらにも来た。
『角栄氏があなたたちのつぶやきを聞いたと言っている。どんなつぶやきか』
『そんなん、俺達が知るかい。おおかた、夢の中で聞いたか幻想で見たかしたんやろ』
『そんなこと、記事に書けますか』
『それこそ俺たちが知るかい』
 最後は与党の幹事長サマを、夢想家あつかいである。本当に申し訳ないことをしたと今になっても思う。公明党に恩を売っておくと将来メリットがあるという思惑があったにしても、角栄氏はよくもまあ、あそこまでつき合ってくれたものだ。やはり、角栄氏の本質はつまるところ『よっしゃよっしゃ』の人の良さにあったのかもしれない。これ以来、角栄氏と竹入氏の友情は一段と深まった。
 さらに一月一一日には、党で国対委員長を務めていた渡部一郎氏が、問題発言をしてしまう。両国の日大講堂で行われた学会の学生部幹部会で、『言論の自由の問題について』と題して、講演を行ったのだが、その席で、『笑い話のような事件』『バカバカしい話』と全面否定。さらに『社会党のウスバカ』『自民党に貸しはいろいろある』『共産党は宮本天皇のもとに、かすかに生息している』などと他党を強い言葉で批判した。これらの暴言が『赤旗』などで暴露され、いちだんと問題が大きくなってしまったのだ。同氏はこの責任をとって、二月二七日には、国会対策委員長を辞任することになる。
 かくして党は、学会から散々非難を浴びた。

『竹入が記者会見で事実無根などと余計なことを言うからこんなことになったのだ』
 池田氏からお叱りを受けた。北条氏からも非難された。こちらとしては『そんな殺生な』という思いだ。それは言いがかりというものだろう。我々は発言すべきではないと反対したのに、そちらが言えと譲らないからこうなったのではないか。恐る恐る反論すると、
『いや、事実無根などとあんな極端な言葉は使うべきでなかった』
『もう少しうまい言い方があったはずだ』
 といい返される。強く言えと言ったのはそちらではないか。会見での発言内容についてギリギリまで悩んでいた竹入氏はブスッとすねて、そっぽを向いてしまう。私もまったく同じ気持ちだったが、トップの委員長にすねられてはどうしようもない。
 とうとう一月一六日、学会側の意向を受けて、私が訂正会見をさせられることになった。
『党でこの問題を調査した結果、著者に対して正確な知識と客観的な批判を要望した事実は認められるものの、あくまで不当な中傷に対し、名誉を守るための話し合いや、要望の範囲に留まるものである。しかし国民に疑惑を抱かせてしまったことは遺憾であり、今後これを反省の糧としたい』
 全面否定から部分否定への転換だった。
 だがもはや、そんなもので沈静化されるような状態ではなかった。問題は燎原の火のように燃え広がり、その程度のことで鎮火できる段階はとうに過ぎていた。かくして問題は、国会に持ち込まれることになる。」


 苦しい立場からの心情ややりとり等、恥ずかしい内部事情が正直に述べられている。
 




■「新・人間革命」第十四巻での記述


 創価学会の公明党支援も、公明党議員が信仰に励むことも憲法で保障された権利であり、憲法の二〇条での政教分離は、宗教団体の政治活動を禁じたものでは決してないとし、「創価学会と公明党の関係は、もともと憲法が禁ずる〝政教一致〟とは、全く異なるものである。だが、人びとが誤解や懸念を感じたりすることのないように、人事面でも一線を画し、両者の関係を明確にするために、創価学会と公明党が、自主的に踏み切った改革であった。」(「新・人間革命」第14巻P250)
とある。

 ちなみに、ここで、創価学会と公明党の関係が〝政教一致〟とは、全く異なるというのは、建前上・表面上のみであることは、前ページまでで、説明済みである。
 創価学会が、公明党に政権をとらせ、国会の議決で国立戒壇をつくり、全国民に板マンダラを拝ませようとする野望を実現しようとしていることまで、どうして憲法が保障しているというのか。
 この時の公明党に政権をとらせること自体が、国家(国会)が宗教に介入することになる。
 これが、予め分かっているのなら、この時の創価学会と公明党の関係は「憲法が禁ずる〝政教一致〟」そのものではないか。
 創価学会員以外の大部分の国民が不安・懸念していることは、まさにこの本音・本質部分である。
 公明党の議員は、議員となった以上は、仏法律よりも国法(憲法)を優先しなければならない。この時点でのかれらの信仰・信条は、これに反し、国法(憲法)よりも仏法を優先するものであることも、説明済みである。
 そして、仏法律(この場合は池田大作の命)に従わなかったら、池田大作から叱責され役職や議員をも追放されるのである。
 この「野心」を、創価学会・公明党は表に出さずに隠しながら、ひたすら「〝政教一致〟とは、全く異なるものである」と、権利を乱用して言い張り続けているのである。
 このことをズバリ、藤原弘達の著書は指摘しているのであり、この出版を弾圧したことそのものが、その本音が真実であることを示唆しているのである。

 また、「新・人間革命」では、上記にあげた重要な事実、つまり、田中角栄が藤原弘達へ圧力をかけた会話を、池田大作と竹入義勝が二人で‶盗聴〟したことはいうまでもなく、この間の、マスコミをにぎわした、竹入委員長や矢野書記長の事実無根発言や、田中角栄氏の関与の会見に関しては一切言及していないばかりか、その反省も隠蔽されている。

 実は、矢野絢也の告白どおり、消えかけていた世間やマスコミの批判の火に、油を大量に注いだようなこれらの会見によって、世間の流れが以下のようになったのである。


 第六十三回特別国会で野党各党は公明党、創価学会による〝言論・出版妨害〟を徹底追及する構えをみせ、さらにこの十四日、文化人、出版関係者ら百十人らが出席した「言論・出版の自由にかんする懇談会」の集会が開かれ、言論・出版問題の国会審議を要請する方針となった。
「公明党と学会による〝圧力〟なるものが、既成の事実とされ、にわかに〝政治的大問題〟にされていったのである。」(「新・人間革命」第14巻P250)
とある。あいかわらず、被害者ぶった表現が続いていく。

 「山本伸一は、学会、公明党の〝撲滅〟を打ち出してきた諸勢力が、この大躍進を、黙って見ているわけがないと思った。そして、事実、年が明けると、言論・出版問題をめぐって、大攻勢が始まったのだ。
 学会の一部のメンバーが、批判書の著者などに、要請や抗議を行なったのは確かである。伸一は、もし、そこに行き過ぎがあれば、会長である自分が、非は非として謝ろうと思っていた。それが彼の心情であった。
 問題は、そのことを針小棒大に騒ぎ立てて口実にし、学会を狙い撃とうとしていることである。」(同書P268)



 元はと言えば自分の命令ではじまったこの事件に対し、「学会の一部のメンバー」に濡れ衣を着せている。
 これは、まさに、日蓮が立正安国論で主張している、邪教による末法の社会を大集経を文証にして述べた、「各自が自分勝手な主張をし、無実の者に濡れ衣をきせる」という姿そのものである。

 「針小棒大に騒ぎ立てて口実にし、学会を狙い撃とうしている」というのも、同様に、自分の咎が責められることを世間に濡れ衣をきせる表現ではないか。

「攻撃の矛先は、公明党から創価学会に、そして伸一にと、一斉に向けられていったのだ」(同書P256)
 は、当然な因果応報である。


 さらに、許しがたいのは、こう言った自業自得・因果応報を、日蓮の遺文を使って正当化している部分が、各所に見られることである。
 つまり、「新・人間革命」第14巻P234で、
 「実は藤沢達造という政治評論家が書いた、創価学会の批判書の出版を、学会と公明党が妨害したという非難が沸騰するなかでの、支援活動であった」
 という文から以後、この事件に関する様々な描写を隠蔽・捏造・正当化する過程において、日蓮の遺文を根拠にして、仏法を利用していることである。

 たとえば、同書P246-247では、1970年1月2日、総本山での幹部会で、池田は種種御振舞御書(御書P917)の
「されば国主等のかたきにするは既に正法を行ずるにてあるなり、釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかた
うどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり……」
 を引用して、
「いかなる正義の戦いであっても、いな正義であればあるほど、必ず、いわれのない非難、中傷が競い起こってくる。この原理のうえから障魔の意義を述べられている…中略…大聖人の場合も、東条景信や極楽寺良寛などによって迫害され、大難を受けたので法華経の行者になれたと仰せになっているんです。
 私たちも難に遭い、魔と戦い、その悪を打ち破ることによって、自身の生命が鍛えられて、人間革命ができる。一生成仏ができるんです。また、それを乗り越えてこそ、学会の大発展もある」
 と述べ、さらに、
「この御聖訓に則って、非難や中傷の嵐が競い起これば起こるほど、団結を強め、信心を深め、勇気を奮い起こして、力強く前進していっていただきたいのであります」
 と、20行にわたってハッパをかけているのである。

 ちなみに、これは1月2日、大石寺大客殿で行われた全国大幹部会での池田の挨拶がモデルとなっており、「あけまして…」から始まるわずか33行で、池田会長講演集第二巻1970/5/3、P160-162に掲載されている。
 そのなかでは、お決まりの年頭の挨拶が7行のあと、種種御振舞御書の
「されば国主等のかたきにするは既に正法を行ずるにてあるなり、釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかた
うどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり(中略)日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」
 を引用し、すぐ続いて、
「さまざまな角度から拝していける御抄ですが、端的に申し上げれば、いかなる正義の戦いであっても、その戦いが進むにつれ、先駆者に対しては、いわれのない無知な批判・中傷などの障魔が競い起こってくるものであるという御金言です。そして、そうした障壁があることによって、それらを善知識として、自己の人間革命も、また学会の前進・発展もあるというご指導であります。
 仏教史観にのっとって事実を達観し、批判があればあるほど、団結を強めて信心を深め、勇気をもち、力強く進んでいってほしい。また、いかなる批判をも敢然と打ち破り、必ず勝利の証拠を示すという見事な信念で、成長を遂げていっていただきたい。(大拍手)」
 と、わずか13行で述べられているだけである。
 この引用した遺文と、「端的」な解釈には大いなる飛躍と逸脱があり、しかも、「先駆者に対しては」と、断って、あたかも自分自身に一切の「障魔が競い起こってくる」と、自分自身を日蓮に同化しているかのようである。

 事実、池田は、この年の5月3日、言論出版妨害事件での謝罪演説の2日後5月5日の社長会で、
「今度は1人の犠牲で学会は守った。それでよいな。とにかく学会は守ったよ」
(昭和45年5月5日、第34会社長会記録、「継命」編集部編「社長会全記録」1983/6/10,継命新聞社、P153)
 と本音を言っている。
 自分一人が、犠牲になって学会を守ったというのである。
 (同著の次のページには、この発言について、加害者が被害者にすり替わっているという注釈がある。)


 また、「いわれのない無知な批判・中傷などの障魔」とは、この事件の顛末を知る者にとっては、大いに的外れな「達観」である。
 「いかなる批判をも敢然と打ち破り」とは、一切批判拒否の独善体質の現れであって、批判から学ぶという科学的な謙虚な姿勢は全くみられない上で、「必ず勝利の証拠を示すという見事な信念」の結末を想像すると、まるで太平洋戦争中の軍部に似ていて恐ろしい。

 後述する、御書の曲解以外の違いは、障魔や難を受ける者が、モデルの挨拶が「先駆者に対しては」とあるのに対し、「新・人間革命」では「私たちも」に変えられている。
 これは、末端会員が聖教新聞に連載された「新・人間革命」を切り抜いて読み合わせることを念頭に置いているものと思われる。
 「新・人間革命」を読んだ末端会員は「”自分たちも”障魔や難に会うことによって人間革命ができる」と、自身を鼓舞し、勇気づけ、歓喜することができるのである。
 こういう無条件に池田大作を信じる者への指導的効果については、この小説は魅力的で素晴らしい威力を発揮していると評価できる。
 いわば、時代劇や勧善懲悪人気ドラマのように分かりやすい。
 ヒーローが山本伸一(池田大作)で、悪役が江戸時代の越後屋や悪代官ではなく、現代の創価学会の諸々の対立者などとなっている。

 当然に、僧侶や日蓮正宗も途中から悪役に仕立て上げられている。
 「人間革命」全12巻、「新・人間革命」全30巻上下にわたってこれがあちらこちらにあるわけで、熱心な創価学会員にとっては、難解な古文で文字も小さく重たく約1500頁もある「日蓮大聖人御書全集」に比べ、はるかにわかりやすく、身近で、歓喜しやすく、自身を池田大作の姿に投影しやすくなっている。
 したがって、創価学会員は、日蓮の遺文(御書)よりも、それを勝手都合で解釈した池田大作や創価学会幹部の指導の方が、頭に入りやすい。
 こうしたことが、日蓮の遺文が容易に曲解されて用いられる背景となっている。


 話を戻して、「日蓮大聖人御書全集」を紐解いてこの遺文の前後を見ると、この部分は日蓮が佐渡流罪において、佐渡に着いた時期に、摩訶止観を引用して、その時の境涯を仏法律にもとづいて分析したところである。
 佐渡流罪地の様子は
「死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず 心細かるべきすまゐなり、」
 という、ひどい場所であり、そんな中で、
「あらうれしや 檀王は阿私仙人にせめられて法華経の功徳を得給いき、不軽菩薩は上慢の比丘等の杖にあたりて 一乗の行者といはれ給ふ、
今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘めてかかるせめにあへり」
 と、「妙法蓮華経を弘めて難にあっているのだ」、「こんなうれしいことはない」という、雄大な境涯になられている。
 そして、
 「仏滅度後・二千二百余年が間・恐らくは天台智者大師も 一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず
数数見擯出の明文は但日蓮一人なり、一句一偈・我皆与授記は我なり阿耨多羅三藐三菩提は疑いなし」
 との大確信を述べられて、
 「相模守殿こそ善知識よ 平左衛門こそ提婆達多よ念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘なり、在世は今にあり今は在世なり、法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等とのべられて候は是なり、」
 と、感無量の境涯とともに、法華経の肝心を述べているのである。

 この部分は、少々説明が必要である。
 「諸法実相 所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等」
 このように法華経方便品第二にでてくる十如是に続く前に、森羅万象の根本原理を明かした法理が諸法実相であり、諸々の森羅万象すべてが実の相であるということである。

 これには、原始仏教において釈尊が説いたとされている「諸行無常」「諸法無我」も包含されている「一念三千」の原理である。
 そして、「如是本末究竟等」とは、如是相・性・体・力・作・因・縁・果・報をすべて一瞬・一体・平等であるという意味で、これこそ日蓮が「南無妙法蓮華経=一切根源の法」とした法則なのである。
 つまり、日蓮においては、法華経を説く自分自身も、日蓮を迫害する北条時宗や平頼綱も、おなじ一つの日蓮という独自の「生命」であり、すべて一瞬・一体・平等であるというのが「如是本末究竟等」ということである。
 一念三千の原理は、後に天台が形而上学的にまとめた概念であるが、このことを、包括的に表している。
 だから、因果も当然に含めて、敵も味方もすべて自分自身である、迫害する北条時宗や平頼綱も、法華経の行者日蓮と一体であることを、感無量に「相模守殿こそ善知識よ 平左衛門こそ提婆達多よ」と述べているのである。
 私たちの生命も、法則としては同等であるから、真実の仏法に則り、これを知ることができる。
 これを悟ることができれば、どのような悲惨な境涯であっても、このような日蓮の雄大な境涯になることができ、生きていること自体がこの上ない幸福と言える達成感がえられる。
 これを悟るには「南無妙法蓮華経」を弘めることだと日蓮は訴える。
 これは、日蓮自らが体を張って示しているところの、日蓮仏法のすばらしさの一面である。


 さらにこの根拠として、一念三千の法理をまとめた天台の摩訶止観を引用しながら、
 「摩訶止観第五に云く「行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る」文、又云く「猪の金山を摺り衆流の海に入り 薪の火を熾にし風の求羅を益すが如きのみ」等云云、釈の心は法華経を教のごとく機に叶ひ時に叶うて解行すれば七つの大事出来す、其の中に天子魔とて第六天の魔王 或は国主或は父母或は妻子或は檀那或は悪人等について 或は随つて法華経の行をさえ或は違してさうべき事なり、何れの経をも行ぜよ仏法を行ずるには分分に随つて留難あるべし、其の中に法華経を行ずるには強盛にさうべし、法華経を・をしへの如く時機に当つて行ずるには殊に難あるべし、故に弘決の八に云く「若し衆生生死を出でず 仏乗を慕わずと知れば魔・是の人に於て猶親の想を生す」等云云、釈の心は人・善根を修すれども念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば魔王親のおもひをなして 人間につきて其の人をもてなし供養す 世間の人に実の僧と思はせんが為なり、例せば国主のたとむ僧をば諸人供養するが如し」
 《摩訶止観第五に言う「行・解をすでに勤めたならば三障四魔が紛然として競い起こる」文と、また「(三障四魔の作用は)猪が金山を摺って、金山をますます光らせ、沢山の水の流れが海に入っていよいよ海水を増し、加えた薪が火をますます熾んにし、風が吹いて迦羅求羅という虫をますます大きくするようなものである」等とある。この解釈の真意は、法華経を教えのとおりに機根に叶い時に叶って信解し修行すれば七つの大事が起ってくる、そのなかに天子魔という、第六天の魔王が、ある時は国主、ある時は父母、ある時は妻子、ある時は檀那、又は悪人等にとりついて、ある時は行者に随って、法華経の行者をさまたげ、又は反対する事である、どの経を行ずるにせよ、仏法を修行するならば分々に随って留難があるはずである、そのなかでも法華経を行ずるならば、強盛にやるであろう、法華経を教えのとおりに時と機根に適合して行ずるならば、特に強く難があるはずである、ということである。
 故に、弘決の八にいう「若し衆生が生死を出離せず仏乗を慕っていないと知れば、魔はこの人に対して、猶、親のような想いを生ずる」等とある。この解釈の真意は、人が善根を修しても念仏・真言・禅・律等の修行をして法華経を行じなければ、魔王が親のような想いで人間に取り付いてその人を優遇し供養をする、それは世間の人に真実の僧だと思わせるためである。例えば国主が尊ぶ僧をあらゆる人が供養するようなものである、ということである。》
 と、述べている。

 そして、ようやく、これに続く文であるのが、指導に取り上げられた、
 「されば国主等のかたきにするは既に正法を行ずるにてあるなり、釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかた
うどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり(中略)日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ…」
 《だから、国主等がかたきにするのは私が正法を行じているからである。釈迦如来のためには提婆達多こそ第一の善知識ではなかったか。今の世間を見ると人を良くするものは味方よりも強敵が人をよく大成させている。(注、中略部分、その例は眼前に見えている。この鎌倉幕府の繁昌は和田義盛と隠岐法皇とがおられなかったらどうして日本国の主となられたであろうか。故にこの人々は北条御一門のためには第一の味方である。)同じく日蓮が仏になるための第一の味方は東条景信であり、法師では良観・道隆・道阿弥陀仏であり、彼等と平左衛門尉・時宗殿がいなかったならばどうして法華経の行者になれただろうか、と悦んだ。》
 である。


 山本伸一(池田大作)は、
 「三障・四魔・紛然として競い起る」という例として「天子魔」「第六天の魔王」の所作に言及し、このなかの「或は悪人等について」を、藤原弘達などに当てはめて解釈しているようだ。
 しかしこれは繰り返すが、その前文であるところの、
 「仏滅度後・二千二百余年が間・恐らくは天台智者大師も 一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず数数見擯出の明文は但日蓮一人なり、一句一偈・我皆与授記は我なり阿耨多羅三藐三菩提は疑いなし、相模守殿こそ善知識よ 平左衛門こそ提婆達多よ念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘なり、 在世は今にあり今は在世なり、 法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等とのべられて候は是なり、」
 とあることが前提になっており、この部分一帯は、あくまで「日蓮ひとりの独自の因果」について述べた部分なのである。
 決して、他人に当てはめて解釈してはいけない部分である。
 自分に当てはめて解釈するものは、自分が日蓮と同等と主張する、増上慢であろう。
 「いわれのない無知な批判・中傷などの障魔が競い起こってくる」のは、「法華経を・をしへの如く時機に当つて行ずる」ところの日蓮のみであって、法華経を曲げて行じた者には、当然に「いわれのある」批判・中傷があるのが諸法実相・因果応報である。

 それだけでなく、繰り返すが、日蓮は、
 「法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等とのべられて候は是なり」
と、厳然たる因果応報を説いたのが法華経であって、そして、その実例として、
 「相模守殿こそ善知識よ 平左衛門こそ提婆達多よ」
 と、感無量の境涯を述べているのである。

 池田は、「新・人間革命」では、この部分を表面的にのみ、
 「東条景信や極楽寺良寛などによって迫害され、大難を受けたので法華経の行者になれたと仰せになっている」
 と、解釈しているが、これは、日蓮の法華経、とりわけ「本末究竟等」を真に理解などしていない。
 「大難を受けたので法華経の行者になれた」としか理解していないことがその証拠である。

 「本末究竟等」をきちんと理解した解釈なら、同時に、
「法華経の行者であったからこそ、大難を受けた」
 という理解も、なければならないのである。

 一見、これは自明のように思えるが、もしそうなら、はたして、池田大作が、日蓮の遺文の文意のように、その時の状況をきちんと受け入れ、自分自身にあてはめて、
『藤原弘達こそ善知識よ、共産党こそ提婆達多よ』
 という、その裁きや所作を甘んじて受け入れる雄大な境涯になっていただろうか。

 そうではなかったことは、歴史が如実に証明している。
 そもそも日蓮は、非法な佐渡流罪をも「諸法実相」として甘んじて受け、門下に対しても幕府への働きかけを制止しているのである。

 池田大作の姿勢は、日蓮のそれに似ても似つかぬところである。
 すなわち、この事件の流れそのものが、池田大作に日蓮仏法の血脈がないことの現証である
 自分の胸の中は、自身が一番知っていることであろう。


 つまり、この遺文のこの部分を引用するときは、前ページからの「相模守殿こそ善知識よ 平左衛門こそ提婆達多よ 念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘なり、在世は今にあり今は在世なり、法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等とのべられて候は是なり」
 と述べられている重要なところを、決して見逃してはならないのである。

 これを見逃すのみならず、池田大作を頂点とする創価学会は、自分たちの正当化や、会員にハッパをかけるなどの目的に、日蓮の遺文を切り取って巧みに利用しているのである。


 しかし、仏法の深い意味からいえば、池田大作がそれを見逃し、容易に自身の保身や正当化に、この神聖な日蓮の遺文を利用していたことは、次の利己的な描写に端的に現れている。
 「参加者は皆、全国から集った最高幹部ではあった。しかし、この時の伸一の指導を、切実な問題として受けとめた人はほとんどいなかった」(同書P247)

 さらに世法的にもいえば、これは、あまりにも弟子たちを信用していない、ひどい描き方ではないだろうか。
 池田大作の主張する「師弟不二」とは、こういう姿となって顕れている。
 戸田城聖の弟子を語る池田を師匠と仰ぎ、池田に絶対的服従を強いることが、一貫している姿勢である。
 そして、そこには、先述の如く、日蓮の血脈は存在しない。


 こうして結局のところ、年が明けた最初の幹部会で、このような境涯だった池田大作が、その後に演じた失態が重なって、上記のように、弟子たちや協力者がふりまわされることになっていったのである。


 池田大作著「人間革命」第一巻、冒頭3行目には、
 「愚かな、指導者達にひきいられた国民ほど、あわれなものはない」
(人間革命第一巻、1965/10/22、P3)
 とある。
 この文では、「国民」を、すべての「組織」や「団体」と入れ替えても成り立つ定理である。

 こういったところも、恥ずかしい一面ではある。

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