ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P31, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(1)、被害者ぶった描写、田中角栄氏を使った策謀
■言論出版妨害事件1969年8月-12月分、現時点でのウィキペディア(Wikipedia)での概要
言論出版妨害事件は、社会的に大いに問題となった、創価学会・公明党の発展においての重要な事件であり、現在のIT時代にはウィキペディアが要領よくまとめられているため、以下に、概要を把握するため、1969年分についての部分を引用しておく。
「1969年(昭和44年)、明治大学教授で政治評論家の藤原弘達が創価学会・公明党を批判した著書『創価学会を斬る』を出版することを計画。出版予告が出ると間もなく、藤原や出版元の日新報道社に対して電話や手紙で抗議がなされ、直後に予定されていた衆議院選挙への悪影響を考えた公明党幹部の東京都議会議員・藤原行正や学会の言論部門トップだった聖教新聞社主幹・秋谷栄之助(後に学会第5代会長)が、藤原や日新報道に本来あるべき取材がないことを抗議し、資料の提供を提案し、書き直しや出版の中止などを要求したが拒否されたため、公明党中央執行委員長・竹入義勝が自民党幹事長・田中角栄に事態の収拾を依頼した。角栄も藤原弘達に出版の中止や書き直しを求めた他、「初版分は全部買い取る」などの条件までつけて働きかけたが、藤原の出版の決意を変えることはできなかった。
『創価学会を斬る』が出版されると、今度は聖教新聞社、潮出版社などの創価学会系列の出版関係者や創価学会員などが取次ぎ店や全国の書店を回り、藤原の本を返本するよう、扱わないようにと働きかけた。各書店からの大量の返本が相次いだこともあり、大手取次店が全国への配本を断り、一般紙や電車内の中吊り広告も、掲載の予定が一転して断られることになった。出版社から直接取り寄せた書店の多くも脅迫や嫌がらせを受けた。過去にも出版に対する妨害は他でもあったが、流通過程にまで介入したのは出版史上初めての事であった。
創価学会に対する批判をタブー視していたマスコミがこの問題を取り上げなかった中、日本共産党は、所属議員が NHKでの公明党との討論会で出版妨害の事実があったことを告発したり、機関紙『赤旗』(現「しんぶん赤旗」)紙上で、角栄から介入を受けたという藤原の告発を掲載するなど、この問題を先駆けて追及した。 それに対して創価学会・公明党側は「事実無根」だとして、その関与を全面否定した。一方、田中幹事長は公明党の依頼ではなく、「つぶやきを聞いて、おせっかいを焼いた」と、自発的だとしながらも、関与したこと自体は認めた」(…以下後述)
■30年後に連載の「新・人間革命」において、事実の隠蔽・捏造
この事件について、それ以前にも創価学会が言論出版妨害をして来た事実の一例を先述した。
矢野絢也著「私が愛した池田大作」『虚飾の王』との五〇年 2009/12/21 講談社、P140には、その背景として、
「実はこれ以前にも、学会を批判する出版物にはあちこち妨害をしかけてきた経緯があった。
事件の直前、『毎日新聞』記者の内藤国夫氏が書いた『公明党の素顔』(エール出版)にも圧力をかけていたが、それ以外にもあれこれの妨害で、出版そのものを阻止した〝実績〟もあった。作者や出版社に抗議の手紙や電話を殺到させるだけでなく、
『この本を置くなら我が潮出版社の出版物を店頭から全部引き上げさせる』
などというふうに書店にまで圧力をかけていた。」
とある。
この事件の発端について、矢野絢也は、
「言論出版妨害事件(創価学会・公明党は、今でもこの事件を『言論問題』と呼んでいる)の発端は一九六九(昭和四四)年の八月だった。政治評論家の藤原弘達氏が日新報道という出版社から、『日本教育改革案』なる本を出版した。『この日本をどうする』というシリーズの、第一巻とする触れ込みだった。…中略…
ただこれに続いて同社から、シリーズ第二弾として『創価学会を斬る』という本を出すとの宣伝があった。電車の中吊り広告の片隅に、ごくごく小さく第二巻の予告が掲載された。
さあそうとなれば看過するわけにはいかない。どれだけ小さな広告であろうとこれを見逃すような学会ではない。」(同書P141)
さらに、自らも言論妨害に関わったことを以下の如く告白している。
「白状すると、私も学会批判の記事を差し止めようと『週刊朝日』の編集部に乗り込んだことがある。もっとも、『記事を見せろ』と言って、『事前検閲だ』と突っ撥ねられただけだったが。
当時、党の副書記長だった大野潔氏など、『週刊新潮』編集部に乗り込んで机を蹴ってきたという〝武勇伝〟を遺している。世間的には決して誉められないこうした行為が、内部では好意をもって受け入れられるのだ。悪口を言うものに対しては抗議するのが『仏道修行』という教えなのだから、やる側も本気である。」(同書P141)
ところで、この事件に関して池田大作が釈明・謝罪した1970年から35年後出版された、創価学会の正史を綴る池田大作著「新・人間革命」第14巻,2005/10/12、聖教新聞社、「烈風」の章(以下、「新・人間革命」)では、以下のようにある。これと、実際の当事者であった藤原行正の著書「池田大作の素顔」での記述を、比較検討してみる。
登場人物については、山本伸一=池田大作、藤沢達造=藤原弘達、秋月英介=秋谷栄之助(後の第五代会長)である。
「新・人間革命」第14巻P234-234には、すなわち、二年半前にある月刊誌で公明党と学会の中傷を展開した藤沢のシリーズ本の電車の中吊り広告が出され、そこに創価学会を批判する本の発刊が予告されていたので、学会員が怒りを覚えた。「藤沢は、テレビやラジオでも毒舌を売り物にし、創価学会を『狂信徒集団』呼ばわりしてきた。さらに、学会の婦人たちを侮辱し、卑しめるような発言をしたこともあった。
〝また今度も、学会を中傷し、言論の暴力を重ねようというのか!〟…中略…
山本伸一も、この著者の言動には、憤りを感じていた。
自分への誹謗ならまだよい。だが、健気に、法のため社会のために、尊き献身の汗を流す婦人部員を侮辱することは、断じて許せなかった。」
と、ある。
真っ先に、主に、学会員が怒っていたことをでっち上げ、池田はその最初の首謀者ではないように書かれている。
藤原弘達の「創価学会を斬る」は、おおむね事実に基づいた批判であり、「憶測と偏見に満ちた〝中傷〟」部分はない。だからこそ、池田が謝罪したのではないか。
そして、「婦人部員を侮辱」とは、とんでもない言いがかりである。
この著作には、婦人部員を侮辱した文言は見当たらないのである。
そもそも、この事件の発端は、池田大作の「鶴の一声」であった。
藤原行正著「池田大作の素顔」P112-113には、
「『こんな本は邪魔だから潰せ』
四十四年八月末、朝早く北条さんから自宅へ電話をもらい、私は学会本部で池田から一つの仕事を命じられた。…中略…本部の応接間には北条、秋谷が同席していた。
『政治評論家の藤原弘達が学会批判の本を出そうとしている。選挙前にこんな本が出るのは邪魔だ』
『藤原君は彼と面識があっただろう。すぐに相手と話をつけて、余計な雑音を押さえろ』
池田はいつもこの調子だった。要するに同じ時期、出版予告の出ていた学会批判書『創価学会を斬る』の筆者、出版元に談判して出版を中止させろというのが池田の指示であった。
学会勢力はすでに七百万世帯を超え、国会へ進出した公明党は衆参両院で五十人近い議員を擁する一大勢力である。公明党の動向がジャーナリズムの俎上にのせられるのは当然といえたが、一方で世の批判にはいっさい耳を貸さないという空気が池田大作をはじめ学会内部に強かった。こちらは絶対正しい絶対善で、相手は絶対悪だ。学会に反対するものは全部悪だからやっつけろ! という論理である…中略…かなり世間を甘く見ていたともいえるだろう。
加えて、ちょうど同年暮れに第三十二回衆議院選挙が控えており、二度目の総選挙戦となる公明党は議席倍増を狙っていた。『創価学会を斬る』の出版がこの選挙戦へのマイナス要因となるのはだれの目にも明らかである。そんな本は手段を選ばず排除してしまえ。そんな強い思い上がりが学会全体を支配していた。
こうした力まかせの論理から、まず池田大作が強引な指示を出し、私が一方の主役を演じたのが、世にいう創価学会の言論出版妨害事件であった。
実はその年の六月ごろから学会内部には『創価学会を斬る』の情報をキャッチしていた。それが八月末になって、同書の出版予告が車中ポスターで掲載される事態となった。池田が私を呼んだのはその直前だったのである。」
とある。
つまり、事実は、『創価学会を斬る』の中吊り広告の前に、池田大作が藤原行正都議を呼びつけ、出版妨害を命じたということになる。
この点でも事実関係が逆転しているが、さらにもう一つ天地逆転しているのは、藤原弘達が創価学会を『狂信徒集団』〝呼ばわり〟してきたということであり、現実に、「こちらは絶対正しい絶対善で、相手は絶対悪だ。学会に反対するものは全部悪だからやっつけろ!」 という『狂信徒集団』であったといわれてもしかたがない集団であったことである。
さらに、見てみよう。「新・人間革命」第14巻P238には、
「九月の半ば、学会の総務で聖教新聞の専務理事であった秋月英介は、公明党の都議会議員でもある幹部と、藤沢の自宅を訪問した。…中略… 秋月は、自分が個人的に藤沢と会って、率直に要望を伝えてみようと考えたのである。…中略…きちんと取材もして事実に基づいて書いてほしい。また、そのために資料も提供するし、総本山にも案内する。」すなわちそれが、秋口たちの一貫した要請で、藤沢達造に丁重に要望を述べ、藤沢の了承を得て、出版社の関係者にも要望を伝えたがかなわず、批判書は発刊されたとある。
まず「秋月は、自分が個人的に藤沢と会って」は、ウソである。これは池田大作の指示であったことが、前述の通り明らかである。
また「憶測や極端な決めつけ」も絶対ないとは言えないが、そのほとんどは他の取材や根拠に基づいたものであり、もしそうでなければ誰も買わないだろう。
取材して事実を書いてほしい、資料も提供する等とあるが、この時点での創価学会が真実を述べることや正確な資料を提供することはほとんど期待できないことは、先述の藤原行正の指摘で明らかである。
概して、真実の暴露本というのは、著者や出版社が、こういった多くの制約を自ら克服した成果なのである。
この部分も、創価学会の都合の良いように作文されているといえるが、藤原行正の指摘は、次の通りである。
「さて、池田から命令を受け、私はとにかく著者の藤原弘達氏と一度話し合ってみようと思った」(「池田大作の素顔」P113)
「私が東京世田谷の弘達氏宅を一人で尋ねたのは同年八月三十一日の早朝…中略…午前七時ちょうどに相手宅の玄関ブザーを押した。…中略…まだお休み中…中略…午前九時に再び訪れ、迷惑そうな弘達氏と一時間ほど話し合った。
この初回訪問の時、私は弘達氏への五つの依頼項目を用意していた。その内容はまず近く選挙もあるのでできれば本の出版そのものを取り止めてもらいたい。それが無理なら『創価学会を斬る』という刺激的な題名を変更してもらいたい。三番目の依頼事項として出版時期を延期してほしい。それも駄目なら四番目、事前に原稿を見せてほしい。
そして最後、もっとも重要な依頼項目としては池田会長(当時)について本文中で言及するのを遠慮してもらいたいというものであった。
これは私の独創というより、当時の創価学会が外部からの批判封じの一策として、対外的な交渉の場でよく使った一つのパターンなのである。相手の様子を見ながらこちらの要求を一つずつ順に小出しにしていくわけで、Aが駄目ならB、Bが駄目ならCといった具合。かなりネチっこい交渉方法だから、相手にとっては迷惑この上なかっただろう。
迷惑といえば、このころの学会のやったイヤガラセ戦術は凄まじかった。学会の攻撃目標となった相手は『人海戦術』による散々な被害を覚悟せさるを得なかった。」(「池田大作の素顔」P115)
「弘達氏との初回の二者会談は物別れとなった。私が持ち出した五つの依頼項目に関して相手の返事はすべて『ノー』であった。…中略…
その四日後、今度は都内のホテルで出版元の『日新報道』の代表者二人と会ったが、この話し合いも不調に終わった。…中略…
当時の手帳では、弘達氏への二度目の交渉は初回訪問日から二週間後の九月十四日となっているが、その前日、私は池田から本部に呼ばれたいる。その場にはやはり北条、秋谷が一緒にいたが、二人は池田のやりとりをただ黙って聞いているだけであった。
『今回の一件はもうこれ以上の無理押しはやめたほうがいい。強引にやれる相手じゃないですよ』
私は池田に向かって結論を先にいった。そのあと自分の判断を説明しかけたのだが、池田がそれを押さえた。
『いや、藤原君の判断なんてどうでもいい。もう一回行ってこい』
『もっと強引に頼みこめ。きみのやり方は手ぬるいんじゃないか。向こうからやられてもいい覚悟で徹底的にやってこい』
脅しでもなんでもいいからやれ、それができないのは自分の身が可愛いからだろう。そんな響きが言外に感じ取れた。この池田の言葉にカチンときた。
私は自分が『鉄砲玉』であることを承知していた。しかし実際に渉外に動いた感触から今回の問題は強引な手を打ちすぎると学会へ悪影響を及ぼすとの判断を強めていた…中略…
しかし、池田は私の意見に耳を貸そうともしなかった。…中略…
その日は高円寺の自宅に一度戻った。…中略…無性にハラが立った。
『池田の野郎。オレに失敗してこいといってやがる、チキショウ!』
そんな独り言が二十回、三十回。繰り返し何度も口を出た。
『パパ、何かあったんですか』
私のただならぬ気配を感じた家内が心配そうに何度か声をかけたが、私は返事もしなかった。
もっともそのころの家内は池田教信者だったから池田へ不平を鳴らす夫に内心では不満を感じていたらしい。
『うちのパパはどうして、こんなに信心がないのかしら……』
第一渉外部長のポストを離れてはいたが、当時の私は外部との渉外ではまだ学会一だと自負していた。その私がダメだと判断した『創価学会を斬る』の出版妨害の件で、無理押しをつづけたら事態はさらに悪くなるのは目に見えていた。それがわかっていながら池田の命令には背けない。背けば反池田のレッテルを貼られて学会から除外されかねない。すでに二人の立場の差は歴然としていた。その無念さが私の胸に渦巻いていたのである。
『やるしかない、か……』
私はようやく気を取り直して浩達氏のお宅へ電話を入れた。
『もう会う必要はない!』
相手の返事はにべもなかった…中略…会ってくれ、会わないの押し問答がつづいた…中略…
『たかが都会議員風情を相手に二度も三度も会えるか!』
…中略…こちらも売り言葉に買い言葉だった。
『そういういい方はないでしょう! あなたは都会議員をバカにしているのか』
私も気色ばみ、ケンカ腰の言葉を返した。…中略…ところが、弘達氏は急に『いいよ、じゃ会おう』と折れ、急転直下、翌十四日の再訪を約束する事態となった。
あとから考えれば、氏が態度を変えたのはこちらへの譲歩ではなく…中略…その会話をテープにとって動かぬ証拠とし、横暴きわまる創価学会の圧力を世間に公表してやる。弘達氏の頭にその考えが浮かんだのは、おそらく私との電話中だったと推察する。
その日、私は再び本部へ向かい、弘達氏との約束の一件を池田へ直接報告した。
『今度は、秋谷も一緒に行け』
池田は同席していた秋谷にそう命じた…中略…
彼は池田に命じられたので仕方なく同行するといった表情であった。」(「池田大作の素顔」P120)
以上の告白から、この件が、最初から池田の指示で始まり、強引に押し進められたことが分かる。
秋谷栄之助(秋月)も、自主的に行ったのではなく、すべて池田の指示で仕方なく同行したに過ぎない。
ところが、新・人間革命P239-242において、続いての記述も創価学会に無謬、完全な正義があったような描きようである。すなわち、藤沢の本の見本刷りを見た男子部員は、その内容が衆院選挙前の悪質な妨害であると感じた。藤沢は、学会が公明党を通じて憲法を変え、日蓮正宗を国教化しようとしていると主張していたが、これは山本伸一が何度も否定してきたことであった。藤沢は学会本部に取材せず、他の出版物を資料にして執筆していた。また、学会の選挙支援活動についても、会員を無能にし、意のままに操って票を集めていると批判していた。藤沢は、学会が組織への盲目的服従を強いているとも主張し、事実無根の話をもとに学会と公明党を民主主義の敵と断言していた。
「彼は、厚顔無恥にも、『折伏』は『人の不幸』につけこむものと決めつけていた。相手の幸せを願って、真心の対話を重ねる学会員の姿を直視したことがあるのか。
あるいは、学会が民衆の心に希望と勇気の光を送り、人びとを蘇らせていったことを、民主主義の『落ち穂拾い』などとも評していた」
見本刷りを見た青年は怒りを感じ、これは言論の自由を利用した言論の暴力であると考えた。青年たちは、この本が悪辣な誹謗書であることを広めようと決意した――とある。
小説「新・人間革命」は「人間革命」と同様に、小説という建前を装いながら、創価学会の史実・真実を綴った聖典として、創価学会組織内で重宝されている。
創価学会の末端組織では、地区座談会・地区協議会・唱題会などで、会員がそれぞれ聖教新聞に毎日の如く連載されたものを切り抜いて持ち寄り、読み合わせて、山本伸一=池田大作のすばらしさを宣揚し合うのである、
そして、連載がある程度たまった段階で出版されるのであるが、それも末端組織を通じて会員に販売される。ノルマのある場合がほとんどであるが、割り当てられた分で余った分は、広宣流布の為とか池田先生の正義を訴えるためなどと鼓舞しながら、友人に与えるもの等として、責任者たちが手分けして購入するところも少なからずあったという。
こういうことだから、創価学会員ではない一般人には自らの意思で購入する者はほとんどいないだろうが、熱心な会員や責任者(面従腹背の者も含めて?)たちの購入等によって、数字においてはベストセラーとなり、聖教新聞社(創価学会)の出版事業における大きな収益となっているという。(ちなみに私も、広宣流布の為・池田先生の正義を訴えるため、組織に割り当てられた書籍の5~10部ほど購入して、友人に無償配布していた時代も長くあった。いい思い出である。)
さらに言えば、池田大作著となっているが、前作の「人間革命」の大半が篠原善太郎の代作であったし、この「新・人間革命」も、建前は池田大作著となっているが、実質は池田大作の命を受けた著作グルーブ(筆頭者は不明)による代作で、池田がそれを承認しているだけであるシロモノであることが、現在では暴露されている。
こんなことだから、こうしてここで故意にウソ・欺瞞の描き方をすることは、会員を愚弄するものではないだろうか。
この描写における、藤沢(藤原弘達)の指摘はおおむね真実であることは、前述の通り、明らかである。
「学会は、公明党に天下を取らせて、やがて憲法を変え、『日蓮正宗を国教化』しようとしている」
というのは、拙論文P29 でも前述したが、隈部大蔵が、戸田城聖の論述を引用して、指摘した事実である。
ちなみに、藤原弘達が使用した「民主主義の『落ち穂拾い』」は、確かに彼の著書にはある。
これは、当時の創価学会が、軍国主義・全体主義から解放された戦後の混乱期に、恵まれない社会の底辺層の人達の多くの支持を得て発展した。
この事実は、多くの宗教学者や識者の見解と一致している。
ゆえに、藤原弘達は、このことを象徴的に表現したもので、著者の前後の文脈からも批判的な意味合いはきわめて薄い。
そればかりか、法華経には、菩薩や声聞・縁覚に対し仏に成る記別を与える「くん拾付嘱」(くん拾とは「落穂を拾う」ということ)が解き明かされている。
末法の時代に活躍すべき本命の地涌の菩薩に仏勅の付嘱を与えた後、それ以外の当時の現実の菩薩たちに成仏の付嘱(仏に成る保証)を与えたことが、まさに『落ち穂拾い』付嘱といわれているのである。
藤原弘達が、この法華経を研究していたかどうかはともかく、少なくとも法華経(=妙法蓮華経)を、鎌倉時代当時の最高の仏教経典として用いて導き出されたのが日蓮の教えであることは周知の事実であるから、創価学会はこれすらも知らなかったことによるものか。
釈尊が当時の菩薩を導いたことが『落ち穂拾い』付嘱であったように、民主主義の『落ち穂拾い』と言ったのは、まさに、民主主義の時代になってから当時の「学会が民衆の心に希望と勇気の光を送り、人びとを蘇らせていった」ことを賞賛する表現ではないか。
この『落ち穂拾い』を、仮に「誹謗・中傷」の言葉の例として挙げていることは、自分たちがよりどころとする仏教そのものの理解が乏しい、つまり自分たちの教学が乏しいことを自ら暴露していることでなはいか。
さらには、
「正本堂に御本尊様を安置すれば、御宝蔵、奉安殿より広く拝ませる事になるが、あくまで入信者に限るので内拝である。
将来一国の総理等が信者で、又、国家権力を押さえた時に国中の人に拝ませる。」
(昭和43年10月24日、第17会社長会記録、「継命」編集部編「社長会全記録」1983/6/10,継命新聞社、P88-89)
と、池田自身が語っている。
藤原は、「学会と公明党は『民主主義の敵』と断言し、公明党の解散を叫んでいるのである」が、それは確かな事実に基づくものであり、これは池田自身が、本音で、
「今、世の中は個人主義、自由主義になっているが、本当は全体主義は一番理想の形態だ。」(昭和47年6月15日、第61会社長会記録、「継命」編集部編「社長会全記録」1983/6/10,継命新聞社、P285)
と語っていることからも、『民主主義の敵』であることは明らかであろう。
これらを「新・人間革命」で、「山本伸一(池田大作)が、これまで何度も、公式の場で明確に否定してきたことであった」と言っているが、これこそ公式の場でウソを言い続けてきたという自らの告白に相当する。
さらに「学会の選挙の支援活動についても、会員の政治意識を目覚めさせる教育はほとんどなく、会員を無能にし、意のままに操り、票を集めていると言っている」
や、
「『折伏』は『人の不幸』につけこむもの」
も、前ページで指摘した如く、そのまま事実・真実の一部なのである。
藤原行正都議は自著「池田大作の素顔」P160で
「選挙にしても、学会員が公明党候補へ一票を投じるのは『池田がつくられた政党だから』という理由づけが当然視されている。この池田崇拝をテコとして、池田大作は公明党に強い支配力を発揮する。竹入、矢野といえども『生き仏』の神通力の前にはただかしこまるだけである」
また、
「学会幹部や公明党首脳にしてみれば、下手に池田にさからっていまの社会的立場を失いたくない、自分の身を守りたいという気持ちが強くある。人間なら当然の心理だ」(同書P158)
と、その証拠を裏付けている。
これらを、
「言論の自由をいいことに、嘘と罵詈雑言で塗り固めた、誹謗・中傷のための謀略本」
と言い張りながら、世間で指摘されてきたことをすべて拒否している。
自らの過ちを改善してさらなる成長をなしとげようとする謙虚な姿勢がまったく見られない。
自分たちのみが正しいと主張し、事実を隠蔽・真実を捏造し、自らのみを正当化するという、創価学会の伝統的な独善体質が、ここに現れているといえる。
ここでの「世の中をよくしよう、民衆の手に政治を取り戻そうと、社会建設の使命に燃えて支援活動に取り組む人々へ」とは、熱心な創価学会会員のことである。
前述からすれば、その学会員を、「甚だしい愚弄」をしていたという張本人こそ、池田大作自身ではないか。
さらに、藤原弘達が主張する「組織への『盲目的服従』を強い」て、「言論の自由を利用した言論の暴力以外の何ものでもない」ものを、駆使していたのも、池田大作を頂点とする創価学会中枢から末端組織の幹部ではないか。
「学会員に対する、なんたる侮辱であろうか」なども含めて、これらの文言や描写が、そのまま池田大作の姿に還っているのである。
30年も経っているからといって、もう世間は忘れているとでも考え、堂々と歴史を捏造する創価学会。
世間をなめてかかっているのではなかろうか。
そして、師に対しても、弟子である熱心な会員に対しても、こんな裏切り行為はなく、戸田城聖への師敵対、そして日蓮の血脈はないことの現れ、と思われる。
この事件の背景についての指摘をさらに見てみよう。
藤原行正著「池田大作の素顔」には
「全員が池田の『呪縛』にとらわれている」(同書P156)
「なぜ、創価学会ではこういう不自然な事態が生まれるか。学会幹部や公明党首脳にしてみれば、下手に池田にさからっていまの社会的立場を失いたくない、自分の身を守りたいという気持ちが強くある。人間なら当然の心理だ。しかし、もう一つ、全員が池田の『呪縛』にとらわれているのも事実である。
池田の『呪縛』。いい換えれば学会全体に浸透している池田崇拝だ。この池田崇拝は創価学会の指導者は池田大作以外にないという学会内部の思い込みから生まれてくる。しかし、だれがそう決めたのか。なぜ池田大作でなければいけないのか。学会幹部でさえこの質問にだれも答えられないはずだ。」(同書P158-159)
「仏教には各宗派に形こそ違え、信者にとっては絶対的存在のご本尊がある。日蓮正宗では信者はそのご本尊へ向かって、題目を唱える。それが信仰の本来の形である。ところが、池田大作は一信者の立場でありながら、本来、ご本尊へ向かうべき一般学会員の信仰心を自分へ向かわせた。巧妙なデマ作戦から自分は生き仏であると一般学会員を洗脳した。
そしてこの『生き仏』伝説が学会内に浸透した時、日本最大の宗教団体・創価学会は『池田先生のため』という一言ですべての無理強いが通ってしまう組織へ変わってしまった。」(同書P159)
「選挙にしても、学会員が公明党候補へ一票を投じるのは『池田がつくられた政党だから』という理由づけが当然視されている。この池田崇拝をテコとして、池田大作は公明党に強い支配力を発揮する。竹入、矢野といえども『生き仏』の神通力の前にはただかしこまるだけである。
無駄になることを知りながら、行きもしない民音の切符を無理して買う。実際には読みもしない人までが聖教新聞を五部、十部と購読する。池田の著書は割当販売で必ず三十万、四十万部の大ベストセラーになる。その学会員の意識の底にはやはり『池田先生のため』という強い思いがあり、池田個人は合法的に年間一億円を越えるその印税で潤うのである。」(同書P160)
こういう内部事情が背景となっていた。
■加害者が被害者ぶった描写
その藤原弘達の著書が発刊された後から年末までの、小説「新・人間革命」の描き方は、P242-244だけで、こうである。
すなわち、藤沢達造の本が出版されると、評論家がテレビで取り上げ、藤沢を賞賛した。その後、藤沢は民社党系の思想研究団体が主催するシンポジウムで、創価学会と公明党から妨害を受けたと主張し、週刊誌や共産党の機関紙で大きく報じられた。
「藤沢は、共産党系の機関誌『赤旗』のインタビューに応じた。彼は反共評論家としても知られてきた人物である。それが、共産党の機関紙に、臆面もなく登場したのだ。」
赤旗は大々的に公明党の言論・出版に悪質な圧力と報じた。社会党の機関誌「社会新報」(二十一日付)も報じ、
「〝言論・出版妨害問題〟なるものが急浮上した。藤沢達造と話し合った秋月英介は、言論・出版妨害されたと騒ぐ藤沢の言動に不可解なものを感じていた。丁重に要望を伝えただけであることは、本人が一番よく知っているはずである。それを妨害されたと吹聴しているのだ。
秋月は思った。
〝中傷本を出すことを予告し、こちら側が抗議などの働きかけをするのを待って、圧力をかけられたと騒ぎ立てる計画だったかもしれない……〟」
藤沢は秋月英介とのやりとりを録音して圧力の証拠だと騒ぎ、
「藤沢は『いやがらせや脅迫の電話が殺到した』『圧力によって出版取次店などでの本の扱いも、全国紙などの広告掲載も断られた』と、マスコミなどに語ったのである。」
これにより、学会と公明党への批判が高まり、衆院選挙で苦戦したが、公明党は最終的に47議席を獲得した。――である。
さて、検証するに、藤原弘達が、二回目に都議の藤原と秋谷二人で会った時のテープをとったのは事実で、これを言論出版妨害の事実と受け止めたのである。
藤原行正が都議の権威をふりまわしてケンカ腰で無理やり会見を要請された藤原弘達にとっては、正当な自己防衛であり、対抗手段だったと思われる。
『いやがらせや脅迫の電話が殺到した』『圧力によって出版取次店などでの本の扱いも、全国紙などの広告掲載も断られた』と、藤原弘達がマスコミなどに語った内容は事実である。
藤原行正は自著の中で、「このころの学会のやったイヤガラセ戦術は凄まじかった。学会の攻撃目標となった相手は『人海戦術』による散々な被害を覚悟せさるを得なかった。
この昭和四十四年の言論妨害時には組織内に言論部という部門があり、学会批判者などへひどいイヤガラセをする担当者まで準備されていた。全国の各地域から一定の役職以上の婦人部幹部、あるいは筆の立つ一般学会員を抜擢して言論部員に任命しておき、何か問題が生じるたびに各地の創価学会会館などへ召集をかけるのだ。なにしろ七百万世帯を数える巨大集団だから、その言論部員は五人や十人ではない。本部から指示が出るたびに各地の部員たちは葉書を持ち寄り、多い場所では一ヶ所百人、百五十人単位で集まった。
現場の一室では言論部担当の学会幹部から部員一人ひとりに具体的テーマ、宛先までがふり分けられる。それぞれがせっせとイヤガラセの手紙や投書を書き、その場で書き上げるまで帰宅させない。これを全国数十ヵ所、数百ヵ所の各支部、各会館でいっせいにやるわけだから、標的にされた相手はたまらない。文字どおり、イヤガラセの手紙が洪水のように流れ込んでくることになる。
たとえばこの出版妨害事件の際、学会側から相手の弘達氏の自宅に投げ込まれたイヤガラセの投書類は優にミカン箱十箱分はあったろう。」(「池田大作の素顔」P115-116)
また、脅迫電話についても、同著に、
「投書作戦も電話作戦も池田お得意のやり方だった。『私の言葉は学会の憲法だ』とウソぶいた池田三代会長の号令一下、選ばれた言論部員をはじめ学会員たちは池田の言葉を疑いもせず『悪者』に向けて熱心に攻撃をしかけた。その姿は世間の目には一種の狂信集団と映っただろうが、学会員個々はむしろ熱心な信者たちであり、その宗教心を池田が巧みに操っていた。」
さらには、出版社である日新報道出版部などについて、言論出版の自由にかんする懇談会編「公明党・創価学会の言論抑圧問題」1970/3/20、飯塚書店 P19-20では、以下のように述べている。
「六九年八月下旬、この本の予告広告が出た時から、妨害がはじまった。公明党の都議会議員(藤原行正)や創価学会会員(秋谷栄之助総務=当時)などが、著者や出版社に対して、『題名をかえろ』とか、『出版時期が総選挙の前なのでまずいからこれをずらせ』とか、『出版に要する経費は当方で負担する』とか、『みせかけだけの出版をして、残りは当方が全部買いとるから書店に並べないようにしてほしい』とかいう、勧誘や圧力をかけたのである。そして十月になると、『政府与党の最要職にある有名な政治家』(自民党の田中幹事長)が、公明党の竹入委員長の強い要請で、執筆を中止させようと、著者にはたらきかけた。けれども、著者はこうした申し出をことわり、そういう圧力があったことを『まえがき』に書いて世に問うた。
一方、出版社側も印刷の過程でどういう妨害が出るかわからないというので、非合法出版なみに編集・校正などすべてを秘密裡におこなって十一月上旬に初版ができあがった。ところが、その直後に出版社の編集長の名をかたった者が印刷工場にあらわれ、『刷リが悪いから』と印刷しなおしを命ずるという怪事件がおきた。また、大新聞への広告や電車の中づり広告を出すことにしたが、『アジビラのようだ』とか『題名が大きすぎる』という理由にならない理由で拒否された。さらに大手取次店は新刊本としての委託販売の扱いをことわり、一般の小売店への新刊書としての配本はされないことになってしまった。そこで出版社の社員たちが足をつかって小売の書店をまわって注文をとり歩くのだが、すでに『潮出版社の者』を名のる者たちが、藤原氏の本を扱わないようにと圧力をかけて歩いていた。また、創価学会の幹部(板倉弘典都議の息子の晃氏)の車が、同書が出てから総選挙公示までの約二十日間、出版社の近くにはりこんで、荷の動きなどを監視していたことものちに明らかにされた」
当時のこういう事実から、「新・人間革命」での、秋谷が「丁重に要望を伝えただけ」というのはウソである。
さらに、
「〝中傷本を出すことを予告し、こちら側が抗議などの働きかけをするのを待って、圧力をかけられたと騒ぎ立てる計画だったかもしれない……〟」
と、創価学会を罠にかけたような言い方をしている。
また、ここで言う『藤沢』(藤原弘達)が騒いだことは、藤沢だけでなく、出版社の日新報道や、それに関連した取次店や書店すべてで、圧力がかけられていたのであって、よくもまあ、このような被害者ぶった描き方をしたものである。
どういう神経をしているのであろうか。
「さらに藤沢は、…臆面もなく登場したのだ。」という描写について、「臆面もなく」としているが、これについては、
「藤原氏は、この本では、共産党の『国会や選挙に対する見方、考え方という点では、どこか共通性』があるとして、共産党を公明党と同次元の党としている。その限りでは、反共色の強い本である。著者は、いわば保守的な政治学者、政治評論家として知られてきた人だが、今回のことで、『赤旗』の取材に応じ、共産党が著者に対しては独自の見解をもちながらも言論・出版の自由をまもるたたかいをともにすすめているということで、新たな評価をくだし、『ファシズムかコミュニズムかということになれば、コミュニズムをとる』という発言をしていること(『文芸春秋』三月号など)」(「公明党・創価学会の言論抑圧問題」P23)
に、ある通り、しっかりとした著者のポリシーであり、「臆面もなく」とは、中傷ではないか。
つまり、これらもすべて、創価学会の組織ぐるみであって、実際の加害者である池田大作・創価学会が、完全に被害者ぶって描いた捏造作文であることが、明らかなのである。
しかも、後述する、田中角栄氏を巻き込んだ公明党の策謀や、公明党矢野書記長の『事実無根』談話などは、一切触れていないのである。
■田中角栄氏を巻き込んだ創価学会・公明党の策謀、「新・人間革命」触れられない重要な事実
その後の事件の経過は、矢野絢也著「私が愛した池田大作」P141-145に、内部事情を語るものとして詳しい、
「『創価学会を斬る』に関しても、同様の動きが始まった。
作者や出版社に抗議すると同時に、池田氏から直接の命を受けた都議の藤原行正氏が、直々に弘達氏の自宅を訪れた。宣伝の出た八月の末、三〇日のことだった。
ところが出版の差し止めや書き直しを求めても、
『言論妨害だ』
として拒否された。日を改めて、当時『聖教新聞』主幹だった秋谷栄之助氏とともに再訪してみたが、どうにもラチが明かない」
そこで、いよいよ公明党の竹入義勝に、池田大作の命が来たというのである。
「これは少々手強そうだということで、今度は竹入氏に指示がきた。当時、自民党幹事長だった田中角栄氏を使って、弘達氏を説得しろという話になった。…中略…角栄氏が弘達氏にちょっと接触してみた限りでは、どうにもケンもホロロの反応だったようだ。そこで、これは本腰を入れてやらねばダメだ、という話になったのだろうと思われる。
料亭に弘達氏を呼んで、じっくり膝を突き合わせて説得しようということになった。だが、一度やってみたがダメだったので、次は竹入氏も来てくれ、ということになったらしい。
竹入氏から『お前も来い』と声をかけられて、ノコノコついて行った。一九六九年一〇月二三日のことだ。
場所は赤坂の『のぶ中川』という料亭。…中略…
料亭に着いてみると、二階の部屋が三つ並びで抑えられていた。私と竹入氏は一番奥の部屋で待機することになった。真ん中が角栄氏の控え室。一番手前が弘達氏というわけだ。角栄氏が説得に成功すれば、その場でそちらの部屋に移り、そのまま手打ち式になだれ込む、という段取りだった。
ところがここに来ても弘達氏は頑強である。説得になかなか『うん』と言ってくれない。
こちらの出した条件はこうだった。最初は強引に、
『出版そのものを取り止めろ』
と迫ったのだが、それでは弘達氏の受け入れる余地がない。そこで、
『出版は出していい。出したうえで大半をこちらが買い取る。新たな増刷はしないと確約してほしい。その代わり、非常にうまみの大きい仕事をこちらから回す』
と提案した。だが、弘達氏は頑として首を縦に振らない。
とうとう角栄氏が我々の部屋へ来て泣きついてくる。例の威風堂々とした、押し出しのいい普段の姿とは打って変わって、いかにも困り果てた風情である。
『おい。弘達、ダメなんだよ。固くてダメだ。全然聞き入れようとしないよ』
しかしことらとしても、ハイそうですかと引っ込むわけにはいかない。
『そんなこと言わないで、なんとか頼む。もう一押し、二押ししてみてくれ』
竹入氏がそう言って、仕方なく角栄氏は再び弘達氏の部屋へ。しかしまたも拒絶されてしまう。
『おい、やっぱりダメだぁ』
『こっとこそダメだ。なんとかしてくれ』
今にして思えば、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの天下の自民党幹事長を、なんともひどい役どころでコキ使ったものである。これもまた学会や池田先生を守るためという、我々の執念の発露なのだ。
ただ、角栄氏、本当に気の良い、親切な男だった。そもそも彼は、どうしてここまでの雑事を、引き受けてくれたのか…中略…竹入氏との友情があったからこそ、あんな役回りを引き受けてくれたのだろう。
ところが、弘達氏は頑固言一徹。結局このときの会談も、物別れで決裂した。
『もうこれ以上は無理だ』
さすがの角栄氏も匙を投げ、この問題からいっさい手を引いてしまった。考えてみれば当然のことである。
この後、学会による弘達氏への攻撃は激しさを増したようだが…中略…
学会のほうでは、北条氏が日本大学の古田重二良会長に頼んで、買い取った本をすべて日大に持ち込んで燃やすという話まで進んでいたようだが、これも後から聞いた話だ。
…中略…
ともあれ党としてはこの時点では、この問題にあまり関わり合わないよう努めた。問題がややこしくなるだけという判断に加え、年末には衆院選が迫っているという事情もあった。
この判断は正しかった。…中略…私らの懸念どおり、この件は翌年政治問題に発展して、大炎上してしまうのである。」
と、当時の状況、つまり、公明党ぐるみで当時の自民党幹事長(後の首相)の田中角栄氏を使って、藤原氏へ圧力をかけたことが、生々しく述べられている。
■衆院選挙投票前、公明党・矢野書記長の『事実無根』談話
ちなみに、この公明党の策謀後に、矢野書記長は、この件に関し、以下のように白々しく「事実無根」談話を発表している。
「公明党・矢野書記長の『事実無根』談話
評論家、藤原弘達氏の著書『創価学会を斬る』の広告、販売が、特定政党の圧力で妨害されているとする学者、宗教家、評論家約四十名が、二十三日午後、東京本郷の学士会館分室に集まり、同書の出版元、日新報道部の皆川隆行編集長から事情を聞いた。
同編集長の話しによると、…中略…公明党から、選挙前に出版しないでほしいと要求された。出版後には書店に、この本を扱うのは考えた方がよいと圧力がかかり、大手の取次店のなかには、聖教新聞などを扱っているので、この本は扱えない、といってきたところもある。車内や新聞広告は、広告代理店のところでストップしたままという。
この日の会合では、出席者が連名で『公刊された出版物の広告、配本への妨害は、憲法で保障された言論・出版・表現の自由をおかす』との声明を発表した。
これについて矢野書記長は、『公明党が出版や広告に圧力をかけたというのは、まったく事実無根であり、悪意にもとづく中傷だ。共産党がデッチ上げてさわいでいることだが、きわめて次元の低いデマであり、選挙妨害、名誉きそんにあたるので、ただちに公明新聞で党の見解を明らかにする予定だ。声を出した学者、文化人の人たちも、先入感(ママ)をもたずに、客観的な認識をもって、よく調べたうえでやってもらいたい』と反論している(十二月二十四日北海道新聞朝刊、北海タイムス、公明ー共産両党にらみあい、藤原氏の著書めぐり波紋)」(言論出版の自由にかんする懇談会編「公明党・創価学会の言論抑圧問題」1970/3/20、飯塚書店、P178)
このような、創価学会にとって極めて都合の悪い、恥ずかしい事実については、「新・人間革命」には、一切描かれていない。
それどころか、自分たち創価学会が被害者のような描きぶりである。
「新・人間革命」では、山本伸一は創価学会会長であって、一貫して無謬のスーパーヒーローとして描かれている。
このため、都合の悪いことはすべて隠蔽されているか、どうしても記載が必要な場面では、事実の捏造や正当化が巧みに行われている。
この証拠が、この言論出版妨害事件に関しても、一貫しているのである。
それは、なんのためか。
こんな、世間では公に広がっている、周知の事実に対しても、ウソ・隠蔽・捏造を行なうのは何のためか、誰のためか。
ところで、このころ、池田大作は、以下のような本音を語っている。
「世の中で一番悪い奴は評論家だな。もっと民衆が強くならなければならない」
「公明党は伸びると云う噂だが、噂程すごい事はない。コンクリートも何回も何回も塗り固められて、始めて使いものになる。公明党も同じだ。世間はそんなに甘くないよ。大きくなれば大きくなる程、私は苦しみます。」
(昭和44年11月23日、第30会社長会記録、「継命」編集部編「社長会全記録」1983/6/10,継命新聞社、P138)
「たいした妨害ではないよ。どこもやっている事だよ。…」
(昭和45年2月27日、第32会社長会記録、於箱根研修所、同書P144-145)