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P91, 具体的な成仏を目指す行い、所有ではなく存在・行動へ

それでは、日蓮の全生涯をかけて見いだした仏界の境涯、すなわち、ひたすら成仏を目的として南無妙法蓮華経と唱え、実践するということは、我々の日常生活において具体的にはどういう修行をすればいいのだろうか。
生死一大事血脈抄に書かれた、南無妙法蓮華経・臨終正念の行いとは、どういう行いなのだろうか。
得度した僧侶なら当然理解しているだろうが、我々は常に欲にまみれ迷い流されている凡夫である。

 そんな凡夫の信者のために白米一俵御書という、日蓮が書いた手紙を紹介する。
 この手紙は一部が消失しているため宛先も日付も不明であるが、内容から、身延で晩年の弘安4年あたりに書かれようにうかがえる。
身延での厳しい大自然、厳寒の冬・灼熱の夏で、年中食料も乏しい中に身をおく日蓮へ、白米を供養*1された信者に対するお礼をまじえたお手紙である。
筆者はこれを読むたび感涙を抑えがたい。
これを切り文利用といわれては残念なので、全文を現代語訳する。

 白米一俵御書(御書P1596-1597)現代語訳
《白米一俵・毛芋一俵・河海苔一籠、お使いを頼んでわざわざお送りいただき頂戴いたしました。
 人間には二つの財宝があります。一つ目は衣服、二つ目は食物です。経文にも「人は食べることで生きている・・・」などと説かれています。この文意は、生命ある者は食物を食べ衣服を着ることによってはじめて世の中で生きていけるということです。ちなみに魚は水中に住んでいるので水が宝です。木は地の上に生えているから地が宝です。人間は食物によってこそ生きていけるので食物が財宝なのです。
 そもそも生命というものは一切の財宝の中で一番尊い財宝です。なぜなら、「大宇宙の片隅まですべての空間を財宝で敷き詰めたとしても、生命と同じ価値のあるものにはならない」と説かれているように、大宇宙をすべて満たせた財宝であっても、命に代えることはできません。
 そんな中では、命は灯火のごとく、食物はその燃料となる油のようなものです。油が尽きれば灯火は消えます。食物がなければ命は尽き絶えてしまいます。

 ところで、一切の神仏を尊敬する最初の言葉には、必ず南無という文字がついています。南無というのはどんな意味かといえば、それはインドの言葉で、中国・日本では帰命といいます。帰命というのは自分の命を仏に捧げるということです。
 人はそれぞれの境遇の違いで、妻子・眷属・所領・金銀等を持っている人もいるし、そんな財産等がない人もいます。しかし、財産のある人もない人も、命より価値のある財産はありません。なので、昔の聖人・賢人とされた人は、自分の命を仏に供養して成仏したのです。
 いわゆる雪山童子という人は、自分の肉体を鬼神に捧げて「生滅滅已・寂滅為楽(生成や消滅に囚われる迷いから離れて、心安らかな悟りの境地に達することが最高の楽しみである)」の八字を習い、薬王菩薩という人は、自らの臂を焼いて筆にして法華経の書写に捧げました。わが日本国でも、聖徳太子という人は手の皮を剥いで紙にして法華経を書写し、天智天皇という国王は、薬指を削って釈迦仏に供養したと伝えられています。これらは賢人・聖人のことですので、私たち凡夫にはとてもできないことです。

 では、私たち凡夫は、どうしたら最高の楽しみである仏界の境涯になることができるのでしょうか。
 それについて、凡夫は、法華経への志を肝に銘じることによって仏に成るのです。志というのはどういうことでしょうか。詳しく考えると、それは観心の法門*1,*2ということです。
 この観心の法門というのは具体的にはどういうことでしょうか。
 たとえば、残りたった一枚しか着ていない衣服を法華経に供養するのが、聖人にとっての身の皮を剥ぐ供養にあたるのです。また、飢饉の世に、これが今日の命をつぐただ一つの残った食物であるとき、そのたった一つの食物を仏に供養することが、命を仏に捧げることになるのです。ここでは捧げるものの量や市場価値は一切関係ありません。法華経への志で捧げるものがその人にとってどのくらい命に値するか、どのくらいかけがえのないものなのかどうかで決まるのです。
 これは先述した薬王菩薩が臂を焼いたことや、雪山童子が身を鬼に与えたこととも全く劣らない功徳になります。聖人のためには事供養*4、凡夫のためには理供養*5というのが、摩訶止観第七に示された観心の修行の中での檀波羅密*6という法門なのです。

 本当は、世間の法がそのまま仏道です。金光明経には「もし深く世法をわきまえればこれがすなわち仏法である」と説かれ、涅槃経には「一切世間の仏教以外の経書もすべて仏の教えであって、仏教以外の教えではない」といわれています。これを妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆、実相とは違背しない」との経文を参考にして、その意味をこう説明しました。すなわちなにぶん金光明経と涅槃経のふたつはそれなりに深い教えではありますが、法華経には今一つ及ばないので、世間の法は仏法由来だとして解釈しました。しかし、実は法華経はそうではなく、世間の法自体が仏法の全体であると説明しています。
 法華経以前の経の真意は、一切の法則は心より生じていると言っています。譬へば、心は大地のようだ・草木も一切の法のあらわれだと言っています。
でも、法華経は違います。心はすなわち大地そのものです・大地こそが草木と一体ですと説明しています。
 また、法華経以前の経の真意は、心が澄み切っているのは月のようだ・心が清いのは花のようだというのに対し、法華経はそうではなく、月こそ心だ・花こそ心だという法門です。
 このことから申し上げます。あなたが御供養された白米は単なる白米ではなく、あなたの命そのものです。

 私はずっと正法という美食をすすめてきたにもかかわらず、幕府は結局それを受け取らないので力及ばず、今は、この身延の山林の中に身をおいております。
 しかし、凡夫なので冬の寒さも忍びがたく、夏の暑さも防ぎようがありません。一年中食物もわずかしかございません。表○目*7が万里を行くのにたった一食で過ごすといわれますが、私には忍びがたく、思子孔*8は百日でたった九回の食事で堪え忍んだと伝えられていますが、私にはとても堪えきれず、今まさに私の読経の声は止まろうとし、成仏を目指す
心も尽きはてようとしておりました。
 そんな中、千載一隅のご訪問、これはひとえにただごとではございません。教主釈尊の御勧めによるものでしょうか、はたまた過去の宿習によるおはからいでしょうか。あなたのご厚情は筆舌に尽くしがたいことでございます。恐恐謹言。》

*1 供養は、真心をもって行う行為であり、けっして見返りを求めることなく、無償で行うことである。仏教においては、真の供養は利己心を超えて、他者の幸福や冥福を願う心から行なうものである。無欲の心(欲望や利己心から離れた心)で、利他の精神(他者の幸福を願い、そのために行動する)に立ち、無私の行為(純粋に他者のために尽くす行為)で行うものである。
*2 観心・・・「観心とは我が己心を観じて十法界を見る」(観心本尊抄、御書P240)《観心とは我が己心を観察して、自身に具わっている十法界・一念三千を知ることである》
*3 観心の法門・・・日蓮は「観心本尊抄」で、天台智顗の『摩訶止観』に説かれた「一念三千」を成仏のための観心の修行とみなし、その根幹を凡夫が自身の心を観じて十界がそなわることを見ることであると示した。一瞬の心の中に三千の諸法が具備していることを覚知する観心の修行が重要で、この法門を受持即観心といい、成仏を目的として南無妙法蓮華経の曼荼羅を信じ受け持つことが末法の衆生にとっての観心に相当し、これによって成仏できる。
*4 事供養とは、現実的なものや目に見える物で表す供養のこと。具体的な行為としては、花を飾る、果物や菓子を供える、線香を立てる、お膳を供えるなどがある。故人の冥福を祈るために行う追善供養や、仏像の開眼のための仏事を行う開眼供養なども事供養と呼ばれる
*5 理供養とは、心での供養のこと。物質的なものではなく、心の誠を傾けて仏道を行うこと。摩訶止観によれば、理供養は慳貪(けんどん、物を惜しみ欲にまみれた心)そのものを破すために法を説いて施すことを意味する。
*6 檀波羅密とは、仏教において供養の方法を表す言葉で、具体的には六波羅蜜の一つであり、悟りを得るために他人に財宝や真理を施す修行を指す。布施波羅蜜とも呼ばれる。したがって、弘教も含まれる。
*7 「表○目が万里の一食」の、○は原文のママ。万里を行くのにたった一食で過ごしたという「表○目」は、筆者の想像では渡り鳥の類ではなかろうか。
*8 「思子孔」は、儒学の主要な一人で、孔子の孫である孔伋(こうひ)のこと。


■菩薩の行動(利他の行動)こそ、真の完成(成仏)をめざす行動(絶対的幸福)

 日蓮のいうところの血脈、すなわち、ひたすら成仏を目的として南無妙法蓮華経と唱え、実践するということは、日蓮自身はこのときも身延で貫いていたことであるが、今の時代、我々の日常生活において具体的にはどういう修行をすればいいのだろうか。
 この御書も取り入れて考察すると、先ずは、地涌の菩薩の自覚に立ち(本心でそう思えなくてもそのつもりだけでもいい)、不惜身命で雑念を振り払いひたすら成仏を目的として南無妙法蓮華経と唱えながら瞑想する。このとき、曼荼羅御本尊はあった方がモチベーションにもなるから、それに越したことはないが、法への帰命であるから、なくてもいい。現世利益などを吹き飛ばし、人界のエクスタシーに至るまで、こころいくまで唱え、法に帰命する。このレベルはピンからキリまで様々な段階があることは先述した。どのくらい一切根源法である南無妙法蓮華経に命を捧げることができるかの程度によって、その後の完成へと向かう自身の行ないが変化する。すなわち現実世界での六道輪廻や声聞・縁覚そして菩薩の境涯においての、具体的な行動が、各人様々な境遇にもとづいて、様々な智慧と慈悲がわいてくるのにしたがって、随時チャレンジして行けばいいのである。それぞれの境遇に独自でふさわしい、利他への奉仕、社会への貢献、一切根源法である南無妙法蓮華経を弘めるさまざまな手段があり、不惜身命で成仏をひたすら求めて臨めば、それに適切な智慧や慈悲が随時わいてくるはずである。

 たとえば家庭について言えば、それぞれの役割分担や支え合い、近隣とのつき合いや自治会などへの参加などで地域社会への助け合いや貢献が果せる。子どもがいればその教育について、介護が必要な老親がいればその手厚い介護などで、無私の行為すなわち供養を行なうことができる。労働者なら社会のルールや礼儀をわきまえてきちんと出勤し、企業の業績をあげるために努力することが、自身の完成を目指す行動である。そして報酬として受け取る給料を上回る生産性をあげることこそ、企業に勤める人としての完成を目指すことにつながる。その評価は実績となってあとからついてくるものである。経営者の立場なら業績を上げることはいうまでもないがコンプライアンスやガバナンスの向上に努め、企業組織全体の社会性の向上や社会的貢献にも努める行動が、完成を目指す行為となる。教育にたずさわる者であれば、後世の育成において、無私に真理を教え伝えることが自身の完成へとつながるであろう。技術者や学者であれば、それぞれの専門分野における真理の探求は勿論のこと、地球全体にとっても総合的に価値あることへの探求が、成仏への具体的行動につながっていく。マスコミ関係者は、真実を報道することによって、悪を暴き正義を貫くことが、自身の完成へとつながる行動である。また、政治家や宗教界や医療従事者については改めて論じるまでもなかろう。なぜならその仕事自体が菩薩の行動そのもので成り立っているはずである。

 どのくらい一切根源法である南無妙法蓮華経に命を捧げ、未完成な自身を完成へと進めることができるか。
これは、この御書にて、「凡夫のためには理供養」とあるように、自分にとって命に匹敵する又は命に迫る大切なものを、どれだけ法のために供養できるかと言い換えることができる。法に供養することは、利他の行動を通じて法を弘めることであるから、自分にとって大切なものを、どれだけ法を弘め他人のために行動するために捧げられるかということである。成仏という、限りなく完成へ向かう一念とは、このことを意味している。すなわち、見返りを求めない利他の行動そのものが、その人が持つ信念や弘めている法が真実であることを証明しているのである。
他人や社会に捧げる財産が余裕をもってある人は、それぞれの機会に応じて見返りを顧みずに真心から寄付をすればいい。権威権益や人脈を持っている人は、無私の心でそれらを役立てて他人を助け救ってあげればいい。
では、そういった財産や権威権益を持たない貧困の人は、何をもって利他の行動をするといいのか。
 それは、自分自身の肉体を使うことである。当然、それには時間も要する。
真理・真実を弘め、真の法則を弘め拡散するのは、身近な人からでも十分可能である。手段は直接の会話によるコミュニケーションで十分である。自分の口、肉声、生の顔や身振り素振り、これらすべてが一緒になって、相手を思いやり尊重し讃嘆する。これはとても大きな効果がある。これによって相手も自分が認められ評価されたと感じて自分を同様に見れるようになり、お互いの信頼関係が生まれ、発展していく。日蓮が、人のために明かりをともせば自分の周囲も明るくなる、また、鏡に向かって頭を下げると鏡に映った姿も自分に向かって頭を下げると言っているのと同じく、利他の行動は、同じように自分自身に返ってくるのである。そこに、相手を利益し、かつ、相手に対してなんら見返りを期待するものでなければ、これが理供養の最初の第一歩なのではないだろうか。現在では、容易に活用できるSNSやリモート会議、チャットなども一般的に普及している。その内容は様々だが、残念ながら現世利益や誹謗中傷・ウップン晴らしなどに満ち満ちている。だからこそ、無私の情報発信が貴重な価値となる。
 また、そういった時間的余裕がない人もいる。時間がなく、日々生きていくための仕事で精いっぱいの人も多い。特に若い人にそういう境遇の人が多い。そういう境遇の場合は、時間そのものが命に匹敵する価値をもっている。そうだ、時間を南無妙法蓮華経に捧げればいいのだ。貴重な時間をさいて、勤行・唱題および法を弘め利他の行動へまわす。その行動があくまで無私無欲で真心からの行動ならば、自分の命を法に捧げる立派な供養なのである。このことが、昔の聖人の行なったところの身命を捨て法に捧げる行為、すなわち雪山童子が、自分の肉体を鬼神に捧げ、薬王菩薩が臂を焼いて筆にし、聖徳太子が手の皮を剥いで紙として法華経を弘めた行為に匹敵するのだ!
要するに、様々な現実の困難の中で自分の身を、自分の一生を、すべて法のため他者の救済のため人類の未来のために捧げると誓いながら、無私に瞑想し行動すればいいのだ! これが真の日蓮仏法でいう成仏の境涯、すなわち人間として未完成ながら限りなく完成へと向かい行動する一念なのだ!
この一念の持続こそ、善業を生み、それが連鎖となって現世から未来永劫へつながっていく。内面ではただちに法悦という果報、外的環境は因・縁・果・報のループに基づき時間差をもって向上・克服へのトレンドを確実に生んでいく。そのとき直面していた現実の様々な執着や困難の壁(現世利益など)は、その克服過程で自身の人生のために最も価値あるものに変換されて実現していく。この過程は必ずしも満足を伴うものではないが、不満足な状態で実現する法悦なのである。先述した九界のエクスタシーからも説明できることなのである。実は、煩悩即菩提(煩悩・苦悩がそのまま仏の悟りとなって最高の楽しみとなる)という方程式は、こうした自身の内面と外的環境の変化を前提とした仏の境涯を意味しているのだ。
別の見方から言えば、欲や権力・名声などの現世利益にまみれた境涯による満足は、それらの目的のモノを獲得・所有することによってはじめて得られるが、これは天界の一時的満足にすぎず、すぐにその満足は獲得・所有したものを上回るモノへの渇望等となって、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣の境涯に引き戻される。先述したフロムによれば、捕まえたと思った瞬間に消えてしまう幻を人々は追い求めているという。六道輪廻の中の欲は青天井なのだ。
成仏とは、完成を目指す境涯の過程で得る法悦とは、三世永遠の生命の観点から見れば、わずかではあるが確実に完成へと向かう在り方や行動に伴うもので、単なるまみれた欲の一つが満たされたなどという浅はかなものではない。まみれた欲(現世利益一般)から解放され、命を捨てて純粋に自身の人間としての完成を目指す状態・行動である。先述してきたように、この仏界のエクスタシーも他の九界の中で発現する。このことから仏界即九界という。
もっと簡単な問いに変えて言えば、
なにをどれだけ所有するかではなくて、どんな崇高な存在・行動であるか
何を持っているかではなくて、どう在るべきか
すなわち所有ではなく存在・行動が問われる。
そして、成し得た結果ではなく、その生きる過程が問われているのだ。
創価学会流「仏法は勝負」ではないのだ。


■ 現世利益の、境涯による違い、人生の総決算へ向かって

 成仏の境涯、すなわち「一心欲見仏 不自惜身命」で完成を目指す生命にとっての現世利益は、欲にまみれた六道輪廻の衆生にとっての現世利益とは全く異なったものとなる。
前者はすべての生命を成仏に導くためのアイテムやリソースとなって実現し、日蓮が法華経の行者の祈りが必ず叶うと保証したものである。そしてこれによる価値は無限に生み出されることになる。
これに対して後者は骨肉の争い・相互の限られた価値の奪い合いや競争等を経ながら無限大に膨らむバブルであり、日蓮が保証したものではなく、人類の歴史がいみじくも示している。

 生きとし生けるものはすべてやがて必ず衰えて土にかえる。どんな財産や栄誉栄達をもってしても、また最新科学技術をもってしても、それを防ぐことはできない。その土は細菌や植物を生み、動物の餌となって、また人間を養い、こうして大自然の中で命が循環する。どんな生物にも、生老病死があり、必ずそれぞれのステージをむかえ、それぞれに応じて最高・最善の生き方・在り方がある。これも妙法蓮華経に説かれた法則、簡単に言えば大自然の掟の一部である。
 様々な業を背負ってきているとはいえ、せっかく文化的生物である人間として生まれてきたのである。なので、どんな境遇であっても、たとえば五体満足でなくても、貧乏であっても、学歴が無くても、体力が衰えても、病気であっても、そして余命いくばくもない状態になっても、そんな命の限界の中で、それぞれの境遇に応じて少しでも時間をさいて体や頭を使って、最後の最期まで人間としての完成を目指し、利他の行動を行ない、これを通じて真実の成仏への法を弘めていくーーこれこそ、真の日蓮仏法における仏の境涯・即身成仏ということではないだろうか。
 ぞれぞれの境遇は相対的ではあるが、命に勝る財宝はない。まして、三世永遠にわたる仏法の見地に立てば、そんな境遇の差はどうでもよくなるだろう。これからもわが国でも超高齢化社会の課題がズシリとのしかかっていくが、たとえ寝たきりになっても認知症になっても、どんな境遇になっても、わずかでも人のため法のために自分自身が行動できる余地は十分あるのではないだろうか。それができるかどうか、それをするかどうかが、その人ならではの人生の完成への努力として問われている。そして、それを力を振り絞って純粋に行う姿だけが、自身の人生を偽りなく讃え、周囲の人の心に響き、やがてそれらが積み重なって、人類の叡智となっていく。その虚飾や偽りのない姿こそが、その人の持つ信念や法の真実を証明しているからだ。
 成仏の境涯、すなわち「一心欲見仏 不自惜身命」で完成を目指す境涯の手ごたえ・法悦は、時の経過により衰え朽ち果て、機能を喪失しゆく肉体に付きまとう疼痛・不安・精神疾患・不自由さなどのマイナス面をすべて埋め合わせてもなお莫大な歓喜が余ってゆくのだ。そして、やがて臨終という人生の総決算を、完成を目指す法悦と歓喜に浴しながら、次なる転生の世界へ一瞬で遷っていくと確信できる。もちろん、おまけもなければ割引もない宿業(因果応報)を受け継ぎながら、永遠に輪廻転生を繰り返していくのである。この核心・確信は、高齢化社会への大いなる指標となるであろう。
 なお、欲にまみれた六道輪廻の中で迎える人生の総決算については、論ずるまでもないため省略する。

 日蓮も自身が「既に一期おわりになりぬべし」《すでに人生の最期を迎えるようです》と悟りながらも、弟子に対し真の仏法を述べたあと《念には念をいれて申しますが、今は穏やかに行動し、造営の工事からはずされたことを恨みつらみせず、身なりも質素にし、使用人を連れまわしたりせず、いい馬にも乗らないで、のこぎりやかなづちを手にもち腰につけて、常に微笑み姿でいてください》と、重い身をふり絞って懇切丁寧な指導の筆をとられていた(八幡宮造営事、御書P1105-1107)。先述したが、その後、弟子に支えられながら治療を求めて旅を続け、最後の最期近くまで、池上邸において身体を柱にもたげながら立正安国論を信者に講義していたことが記録されている。けっして身を隠すことなく、凡夫そのままとしての完成への姿を貫かれている。この姿は、永久に、日蓮仏法を語る上で、人生の模範とすべき姿である。
日蓮自身が生涯の身をもって、仏法における真の血脈を示しているのである。


 こうした成仏を目指した行動は、瞬時に自身の社会脳が自分自身をほめたたえるため、その程度によって自己評価につながり、ひいては自我の確立や完成へと貢献する。これは仏法の十如是で言えば、行動が如是「因」(原因)であり社会脳の評価は如是「果」(内部の結果)である。またそれが自分以外の外部環境に及ぼす結果が如是「報」(外部の果報)であり、社会的評価となってふたたび自身に返ってくる。返ってきた報はさらに如是「縁」(外的原因)となって自身の生命に如是因として作用し・・・そしてこれらの因果は瞬時同時に具わっており(因果倶時といい、蓮華の花に譬えている)、こうしてさらに一瞬一瞬の因果応報が連なっていき、時間とともに完成へと向かっていく。そしてこの連鎖が業として、おまけもなければ割引もなく記録され、死後の転生も含めて三世永遠に連なっていく。この方程式が一念三千の論理であり、妙法蓮華経に説かれている法則なのである。
 しかしながら、そうはいっても、表向きはその建前を利用して、裏では欲にまみれて私腹を肥やし、権威権益に固執する輩が跋扈している。人類の栄枯盛衰の歴史の多くはこの歴史と言っても過言では無かろう。これでは菩薩の行為ではなく、その人たちは地獄・餓鬼・畜生・修羅の境涯である。それらもまた同様に、今述べた三世永遠にわたる業の因果に連なっていくのであるが、残念ながらこれが現状の実態であり、この体たらくが、まさに法華経に予言された末法の姿となっているのである。だからこそ、更新しながらの真の日蓮仏法による理解と行動が、人類にとって緊急に求められていると、あらためていえる。

 先述してきた歴史を振り返ると、日蓮の時代には、たび重なる法難により殉教した行者も数多くいる。その後世でも、殉教した人達の文献も見られる。また、牧口常三郎は、日寛アニミズムへの殉教ではあったが、それも、古代の方便の時代で聖人たちが行なったことと同じ供養に相当するといえる。戸田城聖の投獄されたことも同様であろう。
また、創価学会の純粋な信仰を持つ会員たちについて考えると、たとえば正本堂供養の時に、当時の多くの会員は純粋に自身の命に相当するものを捧げた人もいたであろう。欲に煽られ見返りを求めた部分は差し引かれるが、その人たちの功徳は三世永遠に因果応報となって現れることは間違いない。逆に、そういった純真な供養を利用・悪用した者たちの因果応報も、歴史に厳然と残る部分もあるが、確実に自身の生命の中に業として刻印され、三世永遠に懺悔滅罪が完了するまでその因果を受け続けることが、仏法の厳然たる法則なのである。結局のところ正本堂は取り壊され、板まんだら事件も起きた。創価学会では真の仏法に迫ろうとした会員や側近が造反した。豪華会館施設を全国および世界中の各国に建設して栄華をきわめた創価学会であるが、今世紀に入って確実に会員数を減らしている。その最高権力者であった池田大作も、人生の最後の12年間を世間に見せられない姿で過ごした。これらも組織もそれに所属する個人についても、それぞれ別々に、真心や菩薩の行動に応じた果報をうけ、もしくは地獄・餓鬼・畜生・修羅の境涯に応じた因果応報を受け続けていることが、仏法からは明らかなのである。もっとも、その一部は世間に明らかになっているし、いまだそうでないものもある。また、心の中で疼き苛まれ続けているのを表面に出さないようにひたすら覆い隠している場合も多くあることであろう。
 本稿で指摘した都合の悪いさまざまな事実や歴史の隠蔽は、世間では一定期間はごまかし続けることは出来ても、その当事者が一番よく知るところであるから、脳科学の最新の知見を参照するまでもなく、すでに自身も良く知っている仏法上での明らかな因果応報による果報を、当初から受け続けていることは間違いない。その心中を心からお察し申し上げる。
 一方、そんな中でも、ひたすら純真に成仏を目指して身を切るような供養を財務として納め、会員のために、また地域のために菩薩の行動にいそしむ創価学会の会員たち一人一人も、三世永遠の見地からは、おまけもなければ割引もない相応の果報を現世または来世永遠にわたって受け続けるであろう。これはまことに素晴らしいことである。
 一念三千の理論を踏まえれば、たとえその指導者や組織に悪の部分が含まれていても、それはその人にとって衆生世間という、生命の重要な部分である。五陰世間にあたる肉体と精神は一体であり、これに加えて、住む自然環境(国土世間)と、所属する社会組織(家族から企業、国、世界まで、衆生世間)は、主体と環境はともに一体であるという依正不二の原理から、すべて、その人固有の生命なのである。これは三世永遠にわたる。だから、組織がいまだ更新途上または衰頽滅亡への局面であっても大いなるエールをおくりたい。たとえば釈迦族が過去の宿業を受けて滅ぼされた時も、殺生をしないという仏法の教えを貫いた人々は天界へ転生したという意味の教えが残されている。純真でひたすら成仏を目的として行なう菩薩の行動の果報は、間違いなく自身の完成(成仏)への過程において、現れるものであるから、真の日蓮仏法が真実の法則である限り、本稿で指摘した真実を、いつかはきっと認識していただける時が来ることを私は確信している。つまりは、そのことを、真の日蓮仏法は示しているのである。
ここに、真の日蓮仏法における血脈を明らかにする必要があるといえる。

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