ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P89, 信心の有無を問わない「依法・不依人」・万人が平等の仏法
■「依法・不依人」
改めて、仏法が科学に基づいて説かれている要素ついて、確認してみる。
依法不依人は仏教用語で、法に依って人に依らざれと読み、仏道修行においては仏の説いた法に依るべきで、それ以外の人の教えに依ってはならないと言う意味である。釈迦が涅槃に入る前に説いた涅槃経に依法不依人とあり、この場合の法とは仏(釈迦)の教えを指す。プロローグ以降でも度々言及したが、現在確認できる仏典自体も後世による合作であり、時代の制約を受けている。
拙論文では、依法不依人を科学的見地からみなおし、法を自然科学や学問で追求していくべき一般法則や、人格陶冶によって人間としての完成を目指す倫理・哲学的法則や方法も含むものと見直して定義し、用いてきた。ときに仏教用語の依法不依人と厳密に区別する場合は「 」をつけ「依法不依人」とした。さらに最近の自動翻訳機能による誤訳を回避する意図をもって「依法・不依人」と表記した。
すなわち「依法・不依人」は、法則に従い、人の勝手な主張ではなく、真理や人格の完成への法則にしたがうことである。これは、人の容姿や社会的つながりや信頼・権威や主観的な解釈に頼らず、正しい教えに基づいて行動することである。人が幸福になるための真理・法則が間違っていれば、それに従っても幸福になれない。人の主張は時代や社会的要素に影響を受けて常に変化し、真理・法則を正しく解釈したつもりでも間違っていることがしばしばある。権威者が邪論を述べたり、罪人が正解を主張したりすることもある。冤罪が発生したり、誤った情報を拡散するインフルエンサーや、民衆を洗脳する教祖や独裁者などの登場も、この明らかな例である。だから、「依法・不依人」に基づき、その主張内容が法則・真理に合っているかどうかを見分けることが、人の幸福のみならず社会の安寧・世界平和・人類の存続にとっても非常に大切である。科学の進歩は「依法・不依人」の原則に基づき、真理・法則の発見とその蓄積による。
ところが、宗教組織は、人類史上、原始的なアニミズムからその後発生して神学もある一神教のキリスト教などは、「依法・不依人」とは逆の意味の「不依法・依人」(真理や法則ではなく、人の勝手な主張に従う)の論理でドグマや独善的理論を真理と謳い利用してきた。これはしばしば民衆を洗脳し、紛争や戦争へと発展し、排除や差別などの弊害をもたらしてきた。「不依法・依人」によって説かれた宗教はすべて非科学的である。これらの非科学的宗教は、教えの本質的な部分が自然科学などの一般法則に基づかないため、ルネサンス以降は進歩する科学と袂を別つしかなかった。一神教も広義でのアニミズムであると考えられるから、拙論文では「不依法・依人」の教えや主張・宗教などをまとめてアニミズムとして使用してきた。
日蓮は、この非科学的アニミズムである念仏を真っ先に破折し、ついで真言・密教などのアニミズム(いずれも迹仏に霊力を設定した教え)を論理的に破折した。その際に指標・原則となるのが、「依法・不依人」である。日蓮の唱えた法=南無妙法蓮華経は、法則であり、だれがどのように書いても、同じ意味を持つものである。そうでなければ、普遍的法則とはいえない。
信仰も学問における追究も、更にはあらゆる人倫の営みにおいても、真実と誠実さがその核心にあるべきである。虚偽・捏造は排除し、誤りや過失は謝罪・訂正すべきであろう。すなわちすべての主張は「依法・不依人」の原則に基づいてなされ、科学の論理・客観性・再現性を基準に評価・検討されるべきである。そして拙論文では、日蓮仏法を今日の科学に沿うようにアップデートを試みた解釈を採用している。
繰り返すが、宗教は、人類の発生時点から文化の形成に寄与し、その繁栄を支えてきた。現在の人類の進歩に寄与する宗教の役割は多大である。
しかし現実には宗教は、ルネサンス以降、その非科学性から科学と袂を別ち、一方では形骸化し、他方ではその独善的・原理主義的行動が多くの残虐な歴史を刻んできた。その最大の原因を挙げるとしたら、真実を無視した不誠実な態度である。宗教は真実と誠実を核心とし、人々に生き甲斐と希望を与え、人を完成へと導き救済を図るべきものである。その信仰も、人間として、真実に基づき論理的で誠実であるべきだ。信仰によって得られた慈悲・智慧や勇気は、誠実な行動の中でのみ真価がある。これまで拙論文で指摘したような虚偽・捏造・隠蔽や、欺き・脅し・裏切りなどの不誠実な態度は、科学によって厳密に糺され、宗教によって懺悔滅罪すべきである。人は誤りを犯すからこそ、その救済・滅罪のための謝罪・改心の役割を宗教が担うべきであり、真実に関する科学的見地が更新されていくのもこのためであることはいうまでもない。この真実は信仰の核となるのであるからすなわち、宗教においても時代遅れのドグマに囚われることなく、太古の叡智や洞察を利用しつつも科学の進歩に応じて、その教義を更新しながら進歩すべきである。
日蓮の教えをこの観点から見ると、日蓮は、「法華経の題目を以て本尊とすべし」「法華経を本尊とすべし(いずれも本尊問答抄、御書P365)「已今当の一切経の中に法華最為第一なり」(同、P366)と、南無妙法蓮華経を、阿弥陀仏などの像や人やモノではなく、法則として本尊とした。この点は、アニミズムに堕ちていた科学的な教えを、本来の「依法・不依人」の教えとして復活させた点で大いに評価できる。さらに彼の「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(同、P1546)との定義は、仏滅後の時代区分である正像末に関わらず、すなわち時空を超えて、南無妙法蓮華経を自然法則・万物一切根源法として扱うと解釈できる点で、大いに科学的である。しかし、人間として目指すべき最高の境涯である「仏界」の科学的説明が、当時の中世・鎌倉時代における非科学的学問のレベルでなされている限界上、具体的に明らかにされていない。これは、御書全体をなめるように見てもあきらかで、仏界の説明は、宗教的レベルにとどまっていて、科学的再現性を、少なくとも思考実験レベルまでは高めることができていない。したがって、「ただしご信心によるべし」と述べたことに象徴されるが、「信心」のある人に限られた範囲での真実にとどまっている。ちなみに、日蓮は観心本尊抄でも、十界互具の説明の中で、九界の説明は例を挙げているが、仏界の説明は、文証のみにとどまっている。(詳細は、観心本尊抄を参照)
ただし、日蓮は、晩年の身延においての三大秘法抄にて、はじめて具体的に「一心欲見仏 不自惜身命」の境地を仏であると明かした。これは法華経寿量品の自我偈の句である。
日蓮は、立宗宣言以降も、自らの論理を常に思索し更新したことが、御書全編を通じて見ることで明らかである。拙論文P5にて、この仏性すなわち仏界の境地を、九界即仏界・仏界即九界とあわせて、現代風に、凡夫として「未完成ながら、命を捨てて、限りなく完成を目指す境地」と表現した。
その仏界の境地について、時代や地域を違えて、エーリッヒ・フロムが、いみじくも、これに相当することを述べていた。彼は民主主義体制の現代人における、自由を捨てて様々な権威へ逃走する心理を分析し、その解決法を提示した中で、あらゆる権威を認めず、自己よりも大きな権威や文化的風潮に依存せず、自己独自の科学に基づいた思想・世界観を持ち、自己の本来の独自性・独創性・創造性を発揮しながら、人間としての完成を目指す中に、真の民主主義の実現があると結論した。そして、その実現を目標として挙げ、その方途を示した。この表現は仏界の境涯を発現し菩薩の行動を万人が目指すことに相当している。さらに日蓮の時代にはなかった精神医学的・社会学的・人間的分析が展開されている。すなわちこれは、一念三千を人類学的に具体的な現象として分析した達観である。また、ジュディス・バトラーは、その後もパフォーマティヴィティ(行為遂行性)の概念を、ジェンダーの分析から世界へと広げ、これまた一念三千に含まれる具体的分析・説明を展開している。
■LGBT等の性的マイノリティに関する認識の進歩
法華経では、性差別が無くなり、境遇の差なく、万人が成仏すると説かれた。
ところで、ジェンダー論について、近年の論議や認識の進歩はめざましい。
男女の性自認については、私の検索範囲では、日本においては前世紀後半まで云々されることはほとんどなかったようだが、欧米ではルネサンス以降から始まっており、前世紀においては性(セックス)について、民主主義社会において、フーコーの『性の歴史』(セクシュアリティ、精神疾患、同性愛などの心理学的研究)や、ジュディス・バトラーの「ジェンダー・トラブル」が出版され、前世紀末に日本語訳が出版されていた。彼女はレズビアンのタチ役だったが、様々な文献や科学的考察を示し、セックス(性)は常にジェンダーであると主張し、肉体的性別に関係なく、男女やLGBTなどの性別は社会的文化的に形成された産物だと喝破した。これを契機に欧米の従来の非科学的なフェミニズムが圧倒され、日本にも、今世紀に入ってゆっくりとこの認識が広まった。LGBT等の性的マイノリティは、当初は精神医学的にも性的倒錯や性同一性障害などという精神疾患として扱われた。また、古今東西、性的マイノリティーは社会的に認知・受容されず、様々な差別や偏見・制約をうけていた。しかしながら、現在はかなり改善・更新がなされ、精神医学的には、健康人の範疇として扱われるようになっている。さらに世界的には、LGBTをはじめとする性自認のマイノリティの人々に対する人権保護運動も盛んになり、同性婚を認める州や地域が増えた。日本においても東京都内のある地域で、同性婚を認める条例の制定や、教育現場において、LGBTへの配慮を求める法律が制定されている。
ただ、その認識や受容はまだまだ狭い範囲で実現されているに過ぎず、差別は依然として広く残っている。社会的文化的に形成された産物の性別概念が、数年や数十年で劇的に変わることは期待できず、旧来の男か女かでしかない二分化論やフェミニズムとの対立や権利争い(たとえば女性専用の公衆浴場や公衆トイレなどの公共施設への利用を、女性を性自認する人に使わせないなど)などが、世間を騒がせているのが現状である。性的マイノリティーの権利保護運動を、生物学的な男女の固定観念を基盤に「性革命」と断じる論者もいる。
これらには、社会的秩序を形成してきた個人的な感情や性的羞恥心などに衝突するほか、さまざまな政治的・宗教的・権威的利益なども複雑に絡む。まさに長期間かけて形成されてきた「文化的」なことだからだ。
性的マイノリティの人権が、従来の古典的な男女の性別観念を持つ人たちと同等に保証されるには、まだまだ数十年以上は必要かと思われる。
LGBTなどの性的マイノリティが、社会が科学的文化的進歩を遂げてメジャーとなり、一般的なマスコミにも歌番組・バラエティー番組やアナウンサー、美人コンテストなどやさまざまな番組にLGBTの人たちが出てくるような暁には、解消さるであろう。
■ 万人が平等の仏法
仏法には、元々、差別はない。万人の救済を説くからだ。
これは多くの仏法学者のコンセンサスである。
ジェンダーについて、日蓮は、中世の鎌倉時代の時点ではあるが「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」や、「竜女乃至成等正覚等云云 此れ畜生界所具の十界なり・・・経に云く「或説己身或説他身」等云云即ち仏界所具の十界なり」(観心本尊抄、御書P240)
また、「昔雪山童子と申す人ありき、 雪山と申す山にして外道の法を通達せしかども・いまだ仏法をきかず、時に大鬼神ありき説いて云く「諸行無常是生滅法」等云云・・・」(日妙聖人御書、御書P1214」
「最後の御遺言に云はく『法に依って人に依らざれ』等云云(開目抄、御書P558)
すなわち日蓮も、竜女・鬼であろうが、成仏するのであり、彼らが述べる法が正しいなら、採用せよという、「依法・不依人」の姿勢を一生涯貫いた。すなわち、日蓮の仏法は、正しい仏法を説く者の境涯や姿は問題とせず、「依法・不依人」を根本とするものである。
人の姿を問わず、人が誰でどのような境涯であっても、主張する法が正しい仏法なら採用せよということだ。日蓮の教えでは「依法・不依人」の「法」は、当時の最高学問である、中国から日本に伝来した仏教や儒教などの歴史書が中心だった。拙論文は、単なる畜生界の疼きや餓鬼の脅しではなく、現代の科学的知見も取り入れて更新した「法則」に依る、一貫した「依法・不依人」の論理で書いてきた。
現代の、科学者・哲学者をはじめ、真に真実・真理を求める人はすべて、「依法・不依人」を徹底して貫いているのはいうまでもない。
裏を返せば、この逆の、「不依法・依人」の人、すなわち権威や権力や己の利益に惑わされた人の論理に、多くの現代人は惑わされ、結果として六道輪廻の無明、「没在於苦海」になっていると言える。コロナ禍でWHOやアカデミック領域でさえ、欲にまみれた国や権威・権力やグローバル企業に乗っ取られてしまった現実は、それをいみじくも示している。
この一貫した「依法・不依人」を貫く者に対して、その者の姿・形や境涯を理由に「法を下げる」「品位が問われる」などという批判や見解を持つ「不依法・依人」の者が、日蓮の後世の中にもしばしば存在する。私もしばしばこうした人に遭遇した。こうした見解は日蓮仏法の「依法・不依人」に違背した「不依法・依人」の、根拠のないいいがかりであり、人格攻撃の類である。
日蓮も、自身の姿について、
「何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり 心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て 畜身なり魚鳥を混丸して赤白二渧とせり 其中に識神をやどす 濁水に月のうつれるが如し 糞嚢に金をつつめるなるべし、 心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず 身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり」(佐渡御書、御書P958)
と述べている。すなわち、人の姿や門地・出生などの属性を根拠にしてはならないことが明白なのである。これをするのは人格攻撃にほかならない。
ちなみに今の文化的背景での世間の人から見たら、私の画像も「身は人身に似て 畜身なり 魚鳥を混丸して赤白二渧とせり ・・・ 糞嚢に金をつつめるなるべし」に相当すると、私は考えている。
拙論文を掲載するブログやホームページで、私自身の容姿の画像は、恐れ多いが、これにつづく「賢聖は罵詈して試みるなるべし、 我今度の御勘気は世間の失一分もなし 偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし」を模範として、これにに、わずかでも近づくことをあえて意図するものである。
また、更なる「不依法・依人」の例として、日蓮正宗の信者や創価学会会員が「ニセ本尊」という言葉を使うことがあげられる。本尊は正しい法則なのだから、法則にニセも本モノもない。正しいか偽りかどうかが、判断の基準である。偽物か本物かを判断の基準とすること自体が、それをモノとして取り扱っている証拠である。すなわちこれは本尊を「物理的物体」として扱っているのに相当し、日蓮の法則が書かれた内容を否定・冒涜する表現である。
■信心の有無を問わない「依法・不依人」の仏法
「依法・不依人」を証拠に、筆者は、現在、真の科学的日蓮仏法に基づいて、自筆・自作のご本尊を数か所に掲げて、唱題しており、確たる実証を得ている。これは当たり前の事実で、正しい法則に基づいた行動の結果、すなわち因果応報である。例えば、私の専門は外科医だが、専門外の医師が、その正しい医療の法則を信じていようと疑っていようと、正しい医療の法則に則って、正しい全身麻酔薬を使い、正しい手技を用いて行えば、結果は私が行ったのと同じ全身麻酔が実現する。それを受ける患者も、それを信じようが信じまいが、全身麻酔が実現することには関係がない。修行法も含む「法則」とは、このように、「信」の有無を問わない。中世では無疑日信といって、信心が必要と強調されたが、現在ではむしろ、「疑い」があることが、法則の真偽を試すことになり、かくして科学技術の進歩が実現するのである。
いいかえるが、日蓮仏法は、信心の無い者であっても、日蓮の説いた万物一切根源法(日蓮の定義によれば南無妙法蓮華経)の通りの実践(すなわち仏界の境涯で行なう菩薩の行動)をすることが、善業に該当する絶対的幸福境涯であると説くものだ。
もっと簡単に、世間での神様について言われている常識「信じる者は救われる」をまじえていえば、日蓮の定義した南無妙法蓮華経は、すなわち信じる者しか救われないのではなく、信じない者をも、救われる、一般法則なのである。
さらに注目すべきことは、日蓮は、「智者に我が義やぶられずば用いじ」(開目抄、御書P232)との大確信で、「其の外の大難・風の前の塵なるべし」と、難を忍んだ。しかし、すでに現代科学によって、少なからず、「我が義やぶられ」、その後も久しい状態である。日蓮の生涯は、歴史上は末法ではなく像法であったし、三大秘法抄での戒壇「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時 勅宣並に御教書を申し下して 霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か 時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」(三大秘法抄、御書P1022)や、広宣流布後の現世安穏の姿を示す「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば 吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を 各各御覧ぜよ 現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(如説修行抄、御書P502)という表現も理想的で実現不可能・非科学的で、現実にはありえない方便であった。拙論文では、これらの非科学的方便は、それを信じる者や集団の範囲に限定された真実であり、純真な信仰として尊重すべきと考え、けっして否定するわけではない。ただ、適応できる範囲の限定があるため、日蓮の唱えた普遍的な法則である南無妙法蓮華経の本尊には相当しない。
拙論文で筆者は、師匠であっても法の誤りは厳格に破折する(師匠の道善房を、5回無間地獄に堕ちると破折)という日蓮の姿勢を見習って、日蓮の教えそのものも、時代にそぐわないアニミズム部分を、道理(正しい論理)・文証(正確な文献)・現証(研究結果)に基づいて科学的に更新しようとするものである。
真理・真実に勝るものはない。法の勝劣は、どの分野でも時代によって更新されていくのが現実であり、昔のままのドグマは一部の限定した集団や限界の中でしか通用しない。
しかし普遍的・客観的に更新された真理・真実に基づいてこそ、医療分野に限らず、人類の様々な分野での進歩・革新がなされるのである。
拙論文において、日寛のアニミズム回帰による宗門と学会の修羅道争いを指摘しながら、さかのぼって、日蓮の仏法を見直してみると、「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云」(善無畏三蔵抄、御書P888)とあるように、日蓮は、「日本第一の智者」、すなわち一切法、万物の法則の解明を目指したのである。その知見を得るために、比叡山など、当時の最高学府へ遊学したのである。
もし、今の時代に日蓮が輪廻転生したら、その知見を得るためには、仏法だけでなく、全世界のあらゆる哲学、最先端物理学、生物学、医学や社会学などの、あらゆる分野における科学的知見も、その対象として、万物一切根源法として、南無妙法蓮華経を定義するであろう。
カント、ヘーゲル、アインシュタインやシュレディンガー、フロムやバトラー、アーヴィン・ラズロなどの生命に関する科学的知見も取り入れられるだろうし、カール・ポパーの「批判的合理主義」にある、「真理・法則は常に批判され更新される余地があることを条件とし、この条件がないもの(宗教のドグマやマルクス主義など)は真理・法則ではない」という知見も取り入れられるはずである。すなわち、本尊とすべき法則=南無妙法蓮華経の定義は、常に更新すべきものとなされるにちがいない。
すると、日蓮が、当時のアニミズムであった念仏を真っ先に破折したように、現在はびこっている一神教やアニミズム宗教、すなわち非科学的ドグマを含む宗教を次々と破折するであろう。もちろんその中には、現在、日蓮の後世を名乗る多くの宗教団体(日蓮宗、日蓮正宗、創価学会など)も含まれるだろうし、過去に自分が残した遺文の間違いに対しては懺悔し、再解釈や更新も行うにちがいない。現在では仏典はサンスクリット語から直訳もされ、中村元氏や植木雅俊氏など、竜樹・天台をはるかに凌ぐ叡智を語る哲学者「人師・論師」がいる。
これらの叡智も取り入れられることは勿論である。
さらには、今の世に出現した日蓮は、過去世の因果を受けているから、特定の団体に所属して、その団体のドグマ(教義)のみを弘め、これを広宣流布とすることはない。
また、創価のように国家権力やマスコミや世論を操作して、自教団の名誉獲得・権威維持・利益追求などに加担することもない。
大きな寺や豪華な施設を望むこともない。
日蓮の生涯をきちんとみれば、こうした現世利益にまみれ権力におもねることはありえないことなのである。
「名聞名利は今生のほだし…恥づべし恥づべし」と日蓮が述べている通り、これらの現世利益・栄誉栄達はすべて、成仏の妨げとなるものであり、さらには日蓮自身が「今生の祈りなし」と、述べているのがその証拠である。
それらの現世利益の誘いがあっても固辞し、当時の鎌倉においての草庵や身延においての「其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候 昼は日をみず夜は月を拝せず 冬は雪深く夏は草茂り問う人希なれば道をふみわくることかたし、殊に今年は雪深くして人問うことなし命を期として法華経計りをたのみ奉り候」(御書 P925)に相当する場所を拠点として、「爰に庵室を結んで天雨を脱れ・木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折りて身を養ひ秋は果を拾いて命を支へ候つる」(御書P1078)のごとく、今のITを利用して全世界に向けて広宣流布の情報を発信するだろうと筆者は考える。
それと同時に、周囲や社会の信者や信者でない人たちに対する、慈悲・智慧を駆使して菩薩の行動を「一心欲見仏 不自惜身命」の境地で取り組まれるのではないだろうか。
恐れながら、筆者は世間からは蔑まれるルックスをネットに投稿しながらも、日蓮の凡夫としての姿を模範として見習い、わずかでも学び実践しようと、毎日を送っている。
現在でも、法華経の地涌の菩薩の中に含まれていた、眷属を持たずに、たった一人で教えを弘めていた人のように、たった一人でも、日蓮の血脈を受けついで、全世界に対し広宣流布が可能である。
■現代の「没在於苦海」状況における、各人の課題
繰り返すが、近代哲学や現代科学の知見を参考に、とくに哲学的にはエーリッヒ・フロムの著作を参考にした現代人の哲学的分析や、宗教の本質などを参考にすれば、創価学会員や日蓮の後世も含めて、現代人全般が、凡夫の弱さゆえに現世利益に囚われ、真の自由から逃避して既成の権威と共棲関係に陥っている。これでは国家や集団内での真の民主主義の実現は不可能である。そこではせいぜい衆愚政治に陥るか、政治不信に陥るか、特定の権威・権力やそれらにおもねる団体の利益・世論や常識などのによる操作の餌食となって翻弄される歴史を綴っていくことになる。独裁者が大手を振って紛争や戦争などの対立を煽り、騙し・欺き・誑かしの詐欺や窃盗などの犯罪が密かに大規模にアンダーグラウンドで展開されていく。
それはかつて言論出版妨害事件の発端となった、藤原弘達が指摘していた著書にもあるファシズムの温床でもあり、フロムの言う真の自我の確立=仏界の境涯に、到達しがたい状況である。
多くの現代人や多くの組織と同様、創価学会組織内では会員がその束縛から解放されていない。同様に人類も既成の様々な権威に共棲し自動人間となって久しい。この原因は個人の無力さ、すなわち仏法においての無明の苦海に没在した状態にある。これは自由に選択し個性を発揮して生きるという個人主義の完成という通念を幻想におとしめ、真の民主主義から遠ざけている。思想表現の自由は自己の独自の思想を持つことが前提で、組織権威からの自由は個性確立の内的条件、すなわち不惜身命で完成へ向かう行動(仏界の境涯、人格の陶冶)を行うプロセスの中で初めて実現する。この意味で、せっかく日蓮の教えに触れていても、現世利益に囚われ、選挙の票取りに駆り出される熱心な創価学会会員の成仏の達成は疑わしい。なぜなら会員は熱心になればなるほど無意識的に孤独と無力に陥り、組織と共棲し、自動人形として動かされているからである。
多くの現代人と同様、現在の創価学会員一人ひとりが直面している課題は、組織や権威の奴隷であることをやめ、各自が自分自身の思想を日蓮仏法の真の実践によって確立しながら、創価学会の組織的な力の真の主人となって、その力を再組織化することである。簡潔に言えば真の日蓮仏法に回帰して自我を確立(仏界の境涯を湧現)し、組織の奴隷から脱皮してその主人となることだ。これはトップダウンの打ち出しにとらわれず、日蓮の生涯を模範とした草の根運動を展開し、時代遅れの教義を更新し、集約することを意味する。現実問題を直視し、活動内容を見直し、組織と個人の目的を一致させ、会員が積極的に努力することが必要である。この論理は創価学会に限らず、広く一般に人類の課題、我々一人一人の課題もこれに尽きる。
そのための「依法・不依人」の日蓮仏法である。
「一心欲見仏・不自惜身命」の境地である仏界の境涯で菩薩の行動(利他の行動)を各人が行っていくことが、各人にとって絶対的幸福であり、各人独自の生きがいや使命を見いだし、独自性・創造性をいかんなく発揮することであり、それが社会福祉・地域貢献につながり、地域・組織・国家・社会の繁栄、さらには直面している様々な人類の危機の克服へとつながっていく。
すなわち、真に自ら仏界の境涯をあらわした創価学会の会員は、固執してきた教義、「仏法は勝負」などという日蓮仏法の誤った解釈を更新して、時代に合わせて書き直すことに着手するであろう。これこそが、信仰の本質であるべき真実と誠実を核心とする態度である。つまりは、創価三代会長の永遠性(池田大作は生前は生き仏の存在とされてきた)という幻想を捨て、隠蔽された都合の悪い過去の歴史を懺悔・清算し、きちんと真実を書き直しながら、組織の一員として新たな一歩をふみだすべきであろう。さらに、真に信ずるに値する法則を、日蓮の生涯を模範として追究し、これを信仰の本尊とすべきであろう。
まとめてみると、これまで拙論文として、現在の科学・学問のレベルで、古い世界観で書かれ伝承されてきた日蓮の教えを、現代の学問レベルで再び解釈しなおし、日蓮仏法が持つ本質的な教えをより普遍的で現代的なものにし、科学的な疑問に対する解答を提供してきた。その中では、日蓮仏法における「仏界」は信心の有無にかかわらず客観的に存在するもので、特定の信仰を持たなくても、日常的に成就する。すなわち、信じようが信じまいが、特定の宗教をもっていようともっていなくても、他の方法でも法則の修行によって幾多の達成法がある。日蓮の教えは、それを信じようが信じまいが、どちらの人も成仏に導くことができることを、科学的・客観的に証明するものである。多くの宗教の教えは、信じる者は救われるが信じないものは救われない・信じる者しか救われないという偏狭な教えであるが、日蓮の教えは、そうではなく、「信じないもの」をも「信じないまま」で救うことができる一般的な法則の類である。
すなわち、日蓮の後世の展開する宗教や、日蓮正宗、創価学会の信仰によらなくても、成仏の境涯は客観的に存在する。これが真の日蓮仏法における血脈であり師弟不二である。
「相模守殿こそ善知識よ 平左衛門こそ提婆達多よ 念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘なり、 在世は今にあり今は在世なり、 法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等とのべられて候は是なり・・・釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ」(種種御振舞御書・御書P916~917)
筆者は、この日蓮の言葉を肝に銘じ、すべてを善知識と受け止め、感謝・称讃する。これは自らの宿業に対する懺悔・滅罪を兼ねた昇華である。
使命とは、命の使い道である。
筆者は、法華経寿量品の自我偈の末文:
毎自作是念:常に自らこのように念じている。
以何令衆生:どのようにして衆生を、
得入無上道:無上道に入りさせ
速成就仏身:速やかに仏の悟りを成就させようかと。
という、仏界の境涯を、絶対的幸福として、この世に生まれた意味と使命として、残っている命の時間を使っていきたい。