ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P85, 草木成仏口決の現代風アップデート, 万物が成仏するしくみ(3)
■草木成仏口決の現代風アップデート
「お尋ねします。草木成仏とは有情(精神活動のあるもの)・非情(物質などの精神活動のないもの)のうちどちらの成仏のことですか。
お答えします。草木成仏とは非情の成仏です。
お尋ねします。有情も非情も法華経において成仏できますか。
お答えします。そのとおり、成仏できます。
お尋ねします。その文献証拠はありますか。
お答えします。妙法蓮華経の五字がその証拠です。妙法とは有情の成仏、蓮華とは非情の成仏と定義します。また有情は生きている間の成仏であり非情は死んでからの成仏のことです。二つ合わせて生死の成仏というのが有情非情の成仏のことです。
その理由は、私たち衆生が死んだ人のために塔婆を立てて開眼供養しますが、そのためにはこの塔婆が死の状態で成仏をしているとみなす必要があるためです。これが非情である草木の成仏にあたります。
ただし、ここで言う死の成仏は、成仏しているといっても、塔婆などの物質が自身で成仏の境涯を感じていることではありません。
あくまで、生きている私たちの思いや考えとして、死んでいるものが成仏しているとみなす、あるいは認識しましょうという仮の設定ということです。
実は、私たちにとって、マンダラや塔婆などの非情の成仏は、私たちが意味反応などのメカニズムによって、成仏へむかって修行するための方便にあたります。これによって、私たちは、供養と言う善業を積みながら成仏への修行ができるのです。
ここで、これらの対象とされる非情が成仏していないと定義するならば、それを供養することに何の意味があるのでしょうか。
今の時代は非情も修行する私たちと一緒になって成仏するとみなすことで、私たちは成仏への修行が可能となっているのです。
(ちなみに、意味反応などは実証されていますが、そのメカニズムは未だ完全には解明されていません)
そして実際には、私たちが南無妙法蓮華経と書かれたマンダラに向かって唱題する時、私たちが南無妙法蓮華経という「法」に帰命することになれば、まず先に私たちが成仏の境涯に達します。すると、依正不二の原理(主体と客体は一体である、自身と環境は一体であるという原理)によって、それが描かれたマンダラや周囲の環境ーー私たちの客体・環境となっているマンダラーーも同時に成仏しているのです。
この場合、マンダラはあってもなくてもいいのです。
マンダラがない場合は、周囲の非情である環境も成仏の境涯となっています。
ただし、自身の仏界のレベルもマンダラの仏界のレベルも、私たち自身が帰命するレベルによります。
すなわち、自身の信心と修行のレベルによります。
マンダラ自体はこのような成仏への帰命をすることは不可能です。
つまり、主体としての私たちの成仏あってのマンダラの成仏です。
天台大師の摩訶止観の第一には「一色一香のどれ一つとっても中道でないものはない…」とありますが、妙楽大師がこの文の意をまともに受けて「しかしながら色や香りも、ともに中道であることは認めるが、(色や香りを発する非情までが)仏性を具えていると説くことは、大いに耳を疑い戸惑った」と驚いています。
これはもっともなことです。驚くのが当然でしょう。
ここでは、この一色とは青・黄・赤・白・黒の五色のなかのどの色であるかではなく、五色をまとめて一色としているのです。色のあるものすべて、つまりすべての存在のことです。
一とは法性真如(物事すべての実の姿)の一理論のことです。これを妙楽大師は「色一つ香一つとってもすべて中道」と説明し、天台大師も「すべてが中道でないものは無い」と言ったのです。
一色一香の一は、二や三という数字としての一ではなく、唯一という意味です。中道である実の相(実体)の法性(法則性)を指して唯一というのです。
要するに、この中道法性のうちには、十界の依正・森羅三千の諸々の法則のすべて、適合していないものはないのです。(まとめていえば、万物が一念三千という性質を具えているという意味です)
そのなかで、この色香の成仏というのは草木の成仏のことであり、これはすなわち蓮華の成仏です。色香と蓮華とは、言葉は違っても草木成仏のことです。
これまで私は口から言葉として「草にも木にも成る仏」などと言いました。 この仏とは、あらゆる非情の草木にまでなっている釈尊、すなわち法華経如来寿量品に説かれた釈尊のことです。
寿量品に「如来の秘密神通之力は・・・はかり知れない・・・」などと説かれています。すべての空間にあるすべてのものは、釈迦如来のお身体でないものはありません。
ただし、このことも、万物の法則の説明とそれに基づいた成仏への修行法において、あくまで生きていて修行する私たちが、対象としての非情(物質・物体)を、そのように(釈尊のように成仏していると)認識しなさいという方便です。
そもそも死んでしまった物体は成仏への修行が出来ないのですから、その物体が成仏することはありえません。
だからここで、その方便によってあなたが成仏の境涯に達すれば、あなたの見つめる物体(非情)であるマンダラや周囲の環境も成仏していることになるのです。
これを悟った天台や、これを伝え聞いただけの妙楽は、どんなに驚いたことでしょう。
以下はかつて天台などが使ってきた難解な用語の定義ですが、かみ砕いて説明します。
仏の久遠の本地(本来の境涯)を明かしたことを顕本と言います。私たちの生命をつくっている種々のものも同じように、本地を顕しながら存在しています。
これには、理(理論上)の顕本と事(事実として顕れること)の顕本の二つの側面があります。
理の顕本は、理論の上で、万物や私たちの肉体・物質、たとえば私たちが生まれてくる前や今の、肉体の材料となるべきものすべてについての実体の法則です。
これはすなわち既に死んでいるもの(非情)の本地(本来の境涯)についての理論・法則ですから、妙法とみなして言うことにします。
そして、事の顕本は、今の事実として現れている万物や私たちの境涯、たとえば私たちが生まれ生きている、その肉体や精神が本地として顕れていることです。
これは、現に今生きているもの(有情)についての様相や境涯を顕していることから、蓮華ということにします。
すなわち、理の顕本は死んでいるもの(非情)についての法則の表現であり、非情が生きるもの(有情)のためにその材料を提供している論理を示します。そして、事の顕本は生きているもの(有情)についての境涯が顕われることであって、非情(物質)を摂取し代謝・排泄しながら生きている姿そのものについてを示します。
言い換えると、私たち衆生は、実際に、たのみとなる肉体を作っているもの(非情)によって、非情の蓮華(姿・形)となっているのです。これは事の顕本にあたります。
また、私たち衆生の言語音声など、生きているものとしての活動は、妙法という理論・法則に基づいて、私たちが有情となっている活動であると説明しているのです。これは理の顕本にあたります。
かつて死んでいた肉体も含む万物の物質(非情)が、妙なる法(法則)の定めによって、蓮の華(有情、生きている姿)となって生きているということですね。
身近な例では、私たちの体の中にも有情と非情の部分があります。
爪と髪とは非情で、切っても痛みを感じません。
その他は有情ですから、切れば痛みも苦しみも感じます。
これを、身体に同時に含まれる有情・非情といいます。
今言ったことも踏まえて、この有情・非情ともに十如是の因果の法則にもとづいています。衆生世間・五陰世間・国土世間の三世間も有情・非情についての説明なのです。
この一念三千の法門を一つのものに完全に要約し表現したのが大曼荼羅の内容です。
現在の習いそこないの学者たちにとっては、夢にも知らない法則です。
天台・妙楽・伝教も内心にはこのことを知っていましたが、他人には言葉を出して弘めませんでした。彼らはただ「色一つ、香一つとっても中道でないものはない」とか「非情に仏性があると聞いて、大いに耳を疑い戸惑った」などと驚きつつも、そのまま弘めると誤解されるから「南無妙法蓮華経というべき円頓止観」と、言葉を変えて弘めたのです。
ゆえに草木成仏とは死人(非情)の成仏のことです。
そして死人(非情)の成仏はあくまで生きている人の修行のために定義した方便です。非情(マンダラなど)は、それを客体として修行した人が成仏することによってはじめて同時に主体として成仏するとみなすのです。
つまり、私たち主体が修行して成仏の境涯になれば、依正不二の原理によって、客体である非情のマンダラも成仏の境涯になるのです。そしてまたそれが今度は主体となって、客体である私たちーー南無妙法蓮華経に唱えて帰命する私たちーーの成仏の境涯を維持するのです。
かつて私は、御本尊は明鏡であると言いましたね。
これは、こういう原理からの説明なのです。
こうした甚深の法則は知る人は少ないです。なぜならそれは、根本である妙法蓮華の元意を知らないところからくる迷いなのですから。
以上の法門を決して忘れないでください。恐恐謹言。
二月二十日 日蓮花押
最蓮房殿」
註1:ここでの「中道」とは、究竟の真理であるとともに、妙法蓮華経の当体としての万物の真実の姿のことである。
註2:顕本とは本地を顕すという仏教用語である。本地とは本来の境地のことで、垂迹(実際にさまざまに変化して現れた姿)に対する用語である。主に、仏が本来の姿を現わすことに使われる。
理の顕本とは、釈尊が久遠の昔に成仏したという理論である。
ところで、先述した通り、久遠実成の釈尊は日蓮が設定した架空の方便である。また、この御書の少し前に書かれた生死一大事血脈抄の中で、「久遠実成の釈尊」と「法華経」と「我ら衆生」の三つは同じであると述べられている。
なので、ここでは理の顕本の意味を私たち衆生(万物)について述べられているものと理解するのが相当と考えて、上記のように説明した。
すなわち理の顕本とは、生命活動があるか無いかに関わらず、万物(すなわち非情)についての法則を意味していて、これを日蓮は妙法と定義している。
これに対して、事の顕本とは、久遠の昔に成仏した釈尊が何らかの現実の姿として本地が現れることである。たとえば日興門流においては、正邪はともあれ、日蓮は竜の口の刑場において発迹顕本(迹を開いて本地を顕す)した、すなわち、本地である自受用報身如来として顕れたと説明している。
事の顕本とは、先述したことにもとづいて考えると、私たち有情が現実に生きている姿のことを示していることになる。なので、日蓮はこれを蓮華と呼んだ。
日蓮は、こうして、死人の成仏を定義することで、以前から行なわれてきた塔婆を立てて、故人を供養することの文化的な風習に意義を持たせたのである。
塔婆供養や回向は、死者を成仏に導くという方便を使って、生き残った我々一切衆生に、死者を偲ぶことで死者から学習し自らを反省し、新たな善根を積み成仏への修行を行なわせる文化的風習となっている。
日蓮も回向の重要性を説いているが、草木成仏口決は、この風習に論理的なお墨付きを与えた遺文である。
また、日蓮自身が常時携帯していた釈迦像や自身が書きあらわしたマンダラの物体としての成仏も、草木成仏口決において、理論的にその正当性を定義したのである。
くり返すが、ここで、草木成仏すなわち万物の成仏において、重要な原理となっているのは依正不二、すなわち主体(自分自身)と客体(その環境)が一体となっているという原理である。蓮華という植物は、花が咲くと同時に実がなる。これを因果倶時・依正不二の論理(妙法という法則)の代表例として名づけているのである。
たしかに、同時にまたは因果応報として、主体と客体は相互に影響しながら生命活動を続けていく。この過程において主体と客体は同時に成仏があり得るし、どちらかだけの成仏はありえないこととなる。
そして、草木成仏は、あくまで主体となる我々自体の成仏あってのことであり、そして我々の成仏へ導くための方便となっていることが重要なのである。
ちなみに、南無妙法蓮華経という法則を表現する文字も音声も一切の材料も、そもそも非情なのであるから、非情は我々の成仏を保障する法則に基づいている。
我々は非情によって非情を利用して成仏の境涯になる。
そもそも我々の生命活動は非情に支えられている。
上述したが、日蓮はこの非情による作用・因果を「妙法」と定義し、理の顕本としたのである。
そして、この非情による作用・因果を利用しながら有情である我々が成仏する姿・法則を、現実の姿の代表例として「蓮華」と定義し、事の顕本としたのである。
日蓮は、結局のところ、晩年にさしかかったところで、仏界も架空の産物であると明かし、その実態の定義を「身命を捨てて限りなく完成を目指す一念」とした。これこそ近代哲学のフロムの説くところの真の自由を生きる個人、すなわち独自性・創造性を発揮してどんな権威にも従属しない、個性を存分に発揮しながら人生を自由に謳歌する幸福な生き方そのものであり、時代を超えて透徹している法則である。
これらのことは本稿のP4,P5および創価学会の社会的性格を検討したページで述べたが、この定義を含めた法則――南無妙法蓮華経と定義した万物一切根源の法――こそが、日蓮の遺した真の仏法の血脈の真髄であり、現代科学の限りない発展においても透徹する法則であることは間違いない。
その万物一切根源法による考察では、我々個々の生命はそれぞれ宇宙のあらゆるもの、もちろん宇宙外のものも含めての一切の非情をリソースとして共有しているのであり、それらも含めての一個一個の独自の生命なのである。
我々日蓮の後世は、これに立ち返って、過去の時代背景に束縛された表現で書かれた日蓮の教えを、きちんと今の時代に合わせて、更新しなければならないことを痛感する。
私なりに現代のAI時代にあわせてアップデートした上記の内容も、万人の成仏のために、今後の多くの人による更新の材料となることを、私は切に望んでいる。