ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P84、 万物が成仏するしくみ、法則(=南無妙法蓮華経)の定義より検討(2)
■方便の種明かし(真実)
しかし、日蓮は、きちんとタネ明かしをしている。以下の教えを見れば明らかである。
日女御前御返事(御書P1244)
「此の御本尊、全く余所に求むる事なかれ。只我ら衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり。之に依って曼陀羅とは申すなり。曼陀羅とは天竺の名なり。此には輪円具足とも、功徳聚とも名づくるなり 此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」
《この御本尊は、全くよそに求めてはならない。ただひたすら成仏を目指す我等衆生が、法華経を信じて受け、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのである。これを「九識心王真如の都」というのである。十界具足とは、十界の各界が一界も欠けず、そのまま一界に納まっているということである。これによって、御本尊を曼陀羅というのである。曼陀羅というのはインドの名前であり、これは輪円具足とも、功徳聚とも名前がついている。この御本尊も、ただ信心の二字におさまっている。「信を以って成仏への道に入ることを得たり」とあるのは、このことである。》
本尊はただひたすら成仏を目指す我ら衆生の「南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団」にある。
ひたすら成仏を目指して南無妙法蓮華経と唱える人の生命(胸中の肉団)自体が、本尊であるという意味である。
この部分は、ひたすら成仏を目指して信じる人の、唱えている瞬間の生命状態が、御本尊そのものであり、それがすなわち、成仏という究極の境涯だということになる。
すべての、ひたすら成仏を目指す凡夫である衆生が、これによって成仏という究極の状態となる。
これが、日蓮の、凡夫本仏論である。
これこそ、時空を超えて貫かれている、科学的法則と定義できるではないか。
確認のために繰り返すが、現世利益や見返りなどを求めず「ただひたすら成仏を目指すこと(現世利益、様々な困難や苦しみから逃れること、自分の権力や利権を得て維持することなどの一切の欲望を持たないで)」が、必須の条件になっている。
本尊問答抄でも、こうある。
「彼等は仏を本尊とするに是(註、日蓮の仏法)は経(法則)を本尊とす」との主張は、現在にも、いや、未来永劫、信仰としての科学的真実として光るだろう。
日蓮の立てた教えは、絶対者(仏、創造主など)へではなく、真の法則(=南無妙法蓮華経)への信仰なのである。そして、その法則を師匠としているのである。
ここが、他の一切の宗教と異なる点である。
「神」や「仏」、「曼荼羅(マンダラ)」や「仏像」などへの信仰は、他力本願となり、何があっても「おすがり(註、絶対的依存)」信仰である。
これに対して、「法」への帰命は、自力本願、すべてを自己の責任で切り開くという信念と努力への誓いである。
問題となるのは、自分が命を預けた法が、現実に「正しいかどうか」だけなのだ。
■諸法実相抄での方便の種明かし
諸法実相抄 御書P1358ー1359にも、次のようにある。
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず
返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、
其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なと判じ給へり、
此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、
然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、
さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、
実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、
地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、
餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、
仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、
万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、
天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、
此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、
此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。」
《凡夫は体(註、本体)の三身(註、三身如来)であり、本仏である。
仏は用(註、作用)の三身(註、三身如来)であって迹仏である。
したがって、皆は、釈迦仏は我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っているが、そうではなく、逆に、仏に三徳を具えさせているのは、我々凡夫なのである。
そのゆえは、如来というのは天台大師は法華文句で、こう解釈している。
「如来とは十方三世の諸仏、真仏・応仏という二仏、法身・報身・応身の三身、本仏・迹仏などと存在する、一切の仏をすべて如来と呼ぶのである」
この解釈において、「本仏」というのは凡夫であり、「迹仏(註、仮仏)」というのは仏である。
しかしながら、迷いと悟りは同じではない。このために衆生と仏との異なりがある。
そしてこのため衆生は倶体倶用ということを知らないのである。
そうであるからこそ、天台は、諸法という言葉で十界を挙げ、これを実相だと説かれたのである。
「実相」というのは、妙法蓮華経の異名である。
「諸法」とは妙法蓮華経ということなのである。
地獄は地獄の姿をみているのが実の相である。
餓鬼と変じてしまえば地獄の実の姿ではない。
仏は仏の姿をしている、凡夫は凡夫の姿をしている。
そして、万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」とはいうのである。
天台大師は「実相の深理は本有の妙法蓮華経である」と述べている。
この解釈の意味は「実相」の名言は迹門の立場から言ったものであり「本有の妙法蓮華経」というのは本門の上の法門ということなのである。
この解釈の意味をよくよく心中に案じられるがよい。》
ここでは、諸法実相の原理を述べている部分である。
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず 返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」
この部分の意味は、実は、本当は、凡夫こそ本仏である。
釈迦仏は単なる仮想、空想、方便の仏である。
今まで皆、釈迦仏は理想的な主師親の三徳をそなえたから私たち衆生を導くことができたと思っている。
しかし、そうではなく、全く逆である。
すなわち、釈迦仏に三徳という完全無欠の理想像を設定し讃嘆しているのは、凡夫の方なのである。
実は、私たち凡夫が、仏は完全無欠の理想的な姿であってほしいと思い望んできたからこそ、その思いが、現実にはあり得ない理想像を生み出してきたのである。
「私たち衆生は、その理想像につられて、導かれてきたが、文明が進んで末法に入って、その理想像がもはや通用しなくなっているから、私がその種明かしをしよう。あなたたちは本当のことを知らなければならない。」
と日蓮は、言うのである。
要するに、主師親の三徳をそなえる久遠実成の釈尊も、他の色相荘厳の迹仏と同じく、迷える凡夫のために、また凡夫の願いに答えようとして、完全無欠の絶対像を備へている、いわば仮想・空想の姿なのである!
ついに日蓮は、本当のことをここで暴露した。
これは、究極の、凡夫本仏論(元々、凡夫こそ、本仏であるという理論)である。
そして、他にすがることなく、自力本願に戻れという「法則」であり「指南」である。
日蓮が立宗以後、他宗、初めに念仏を破折した理由もここにある。
なぜなら、日蓮の破折した教えはすべて、「不依法・依人」を指南する教え、すなわち、絶対者にすがる他力本願の教えや増上慢の教えであった。
結論として、日蓮にとって、自らの師と仰いだ久遠実成の釈尊は、実は自ら空想した絶対者であった。
そして、その弟子=上行菩薩の再誕としての自らの自覚も、凡夫こそ本仏であることを説くための方便であったことにもなる。
だからこそ、御本尊は、「マンダラ」ではなく、ひたすら成仏を目指して「南無妙法蓮華経と唱える"人"」自体の「胸中」にあると説いているのだ。
確認のために繰り返すが、現世利益や見返りなどを求めず「ただひたすら成仏を目指すこと(現世利益、様々な困難や苦しみから逃れること、自分の権力や利権を得て維持することなどの一切の欲望を持たないで)」が、必須の条件になっている。
そして、日蓮はこの「法」に、つまりは一切衆生へ「法を弘めること」に、自身の首(命)を捧げたのである。
つまりは、日蓮も、釈迦仏と同じ、大日如来や阿弥陀仏と同じような、方便を使ってきたことにもなる。
その生涯は、三世レベルで見れば、喜怒哀楽も含めて、完璧に近い芝居を演じたといえるかもしれない。
■現代語訳についての注意すべきポイント
たとえば、ここで、方便の種明かしともなっている生死一大事血脈抄を例に挙げてみる。
生死一大事血脈抄、御書P1337
「是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり… 釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」
この通解(現代語訳)は、例として以下を挙げる。意味の補足はあるが、ほとんど直訳である。
「このように、生死もただ妙法蓮華経の生死なのである…釈迦多宝の二仏も生死の二法をあらわしているのである。このように、十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と我ら九界の衆生との三つは全く差別がないと信解して妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。この事が日蓮が弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとは、このことをいうのである」(「日蓮大聖人御書講義ー生死一大事血脈抄」御書講義録刊行会編、1991/6/30、聖教新聞社、P65、P82)
なお、創価学会版の英訳も、本稿の英訳版に挙げたが、上記とほぼ同じほとんど直訳である。
これらはすなわち、久遠実成の釈尊は「人」、妙法蓮華経は「法則」、我等衆生は「生物」などとなっているため、これら3つが差別がない=同じだとしている。これでは科学的には何のことを言っているのか分からなくなって、ナンセンスとなる。
これに対し、以下に私の現代語訳をあげる。
《このように、三世永遠にわたる生死の現象もまさに妙法蓮華経という法則なのである。…釈迦・多宝の二仏も永遠にわたる生死の法則に則ってあらわれているのである。このように、十界の生命自体の法則が妙法蓮華経なのであるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊が示す悟った法則と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と、我ら九界の衆生の基盤である法則、この三つは全く同じであると理解し受け入れながら、ひたすら成仏を目指して妙法蓮華経と唱えることを生死一大事の血脈というのである。このことこそが日蓮が弟子檀那等の肝要である。法華経を受持し実行するとは、このことをいうのである。》
この私の論理的な翻訳が、直訳に比べて少しでも日蓮の文意をわきまえていると確信している。
なお、私は現代語訳においては、単なる古語の直訳や切り文利用のためではなく、日蓮が当時のトップレベルの科学者として書いた文意を前提として、特に気をつけて行なうべきであると考える。
日蓮の科学的姿勢は、「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事、御書P1468)
《日蓮が仏法の優劣を判断するのに、道理と証文以外の根拠はない。さらに道理・証文以上に現証より優れる根拠はない。》
によく表れている。
時代背景もきちんとわきまえなければならない。
日蓮の生きた時代は仏教が学問の最高レベルだったのである。
だから、日蓮は、仏教を科学的に検討したのである。
彼は、仏滅後の様々な宗派や教義が存在していたので、その中から正しい法を同定する基準として、道理・文証・現証を用いていた。これは、科学が未発達な時代において、現在にも通用している科学的態度である。
この観点でこの部分の現代語訳について検討すると、先に挙げたような、多くの出回っている直訳では、久遠実成の釈尊は人、妙法蓮華経は法則、我等衆生は生物などとなっているため、これら3つが差別がない=同じだとしている。これでは科学的には何のことを言っているのか分からなくなって、ナンセンスとなる。
当然ながら人と法則が同じなわけはない。しかし現在出回っている多くの翻訳や解説はこの大切な部分をきちんとわきまえていない。さらに、こうしたナンセンスな理解が、我々衆生の体も妙法蓮華経だとか、人法一箇などというアニミズムを生んだのである。
ここでは、日蓮の文意は妙法蓮華経という法則について述べていることは明らかである。だから、「久遠実成の釈尊」「我等衆生」についても、それが基づく法則という言葉が省略されているのである。これを補って理解しなければ、文意から離れてしまう。
残念ながら、現在でも、こうしたナンセンスな理解がはびこっている。
だから私は、文意に沿って、これらの言葉を補って、上記のように訳した。
私のこの、生死一大事血脈抄における現代語訳も、他の宗教関係の人の翻訳とは大いに異なっているであろう。
また、仏道の目指す目的についていうと、日蓮は出家僧であったから、元々、成仏のみを人生の目的としていた。日蓮自身が御書P1169でそう述べていることは、この論文で何度も指摘した。(今日では、そうでない出家僧や、己の欲にまみれている僧侶や一般市民も多くいる。)また、日蓮が書簡を送った者や日蓮の教えの主な聴衆も、僧侶や武士などのお互いにそれが分かっている人々が中心であった。日蓮の弟子や檀那も、日蓮に供養の品々を献上できる人々であったから、それなりの見識はあった。だから、日蓮が成仏の法を説くときも、わざわざ一々「ひたすら成仏のみを目的として」などとは言う必要もなく、「ただ」(唯一)南無妙法蓮華経と唱えると表現していたのである。いわば、お互いにそれが目的であることを共有していたといえる。
ところが、現代のような在家・一般市民にとっては、「ひたすら成仏のみを目的として」をきちんと補って言わなければ、誤解を招くことは明らかである。
欲にまみれ現世利益に目がくらんでいる我々一般人は、これを聞いたら、ただ単に南無妙法蓮華経と唱えるだけで願い望んだことが何でも実現すると思い込んでしまう。これでは仏法ではなく、科学でもない。理性のある人がこれを聞いたら打ち出の小づちと同じだ、もしくはナンセンスと思うだろう。
こんなことは、当時の鎌倉時代では予想もつかなかったのだろう。
しかし、仏法の本来の目的つまり成仏のみを人生の目的とするというこの前提が、時代が下るにつれ、江戸時代には、すでに欲にまみれ現世利益に目がくらんでいる人々や後継者によって、薄れていき、アニミズムが出現していた。この経緯は、本稿で指摘したごとくである。
結論として、科学が発達したAI時代においてもこういう状況だから、日蓮の遺文も、方便の部分や省略された言葉などをきちんと補った現代語訳にアップデートしなければならないのである。
また、こんな日蓮の教えもあるので、注意が必要である。
「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや、・・・日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、 仏の御意は法華経なり 日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし、」(経王殿御返事、御書P1124)
《この曼荼羅をよくよく信じなさい。南無妙法蓮華経は師子吼のようなものである。どのような病が、障をなすことができようか。・・・この御本尊は、日蓮の魂を墨に染めながして書きしたためたものである。どうか信じていきなさい。釈迦仏の真意は法華経である。日蓮の魂は南無妙法蓮華経にほかならない。》
これを上記のように直訳(これが氾濫している)したら、表現は適切でないかもしれないが、敢えて述べる。「魂」という言葉を使ったこのような呪術的非科学的教えに、我々信者たちはまんまと騙されてしまうのである。
そうすると、これは、アニミズムの論理となってしまう。
成仏への科学的法則を説く日蓮の真意からすれば、日蓮は本心からモノとしてのマンダラに自分の魂(霊魂)を入れ込んだという意味でこのように言ったのではない。
しかし、受け止める信者の多くは、モノとしての御本尊に日蓮大聖人の「魂」が宿っていると思い込んでしまうのである。
また、十分な理性を持たない愚かな民衆を導くために、日蓮が、ひょっとしたらわざとそう思いこませようとしたのかもしれない。そうした方便の教えの典型例が、観心本尊抄である。(これについては後述する。)
これは日蓮仏法の正しい理解ではない。
あるいは、日蓮は、ちゃっかりそれを見込んで、方便として、理性に乏しい信者を激励し、仏道に導いていたのかもしれない。
この部分を、成仏への科学的法則を説く真意を汲んで、現代語訳したら、以下のようになる。
《また、この曼荼羅に書かれた内容をよくよく信じなさい。南無妙法蓮華経はライオンの叫びのような絶大な威力のある法則である。この法則をわきまえたら、どのような病があなたの成仏を妨げるであろうか。・・・この御本尊は、日蓮が悟った成仏への法則を墨に染めながして書きしたためたものである。どうかこの内容を信じていきなさい。釈迦仏の真意は法華経である。日蓮が実現した究極の法は南無妙法蓮華経にほかならない。》
■観心本尊抄に説かれる非情(精神活動の無いモノ)の成仏
ちなみに、日蓮の重書である観心本尊抄における草木成仏についての論述や、それに関連する教えについて、述べておく。
観心本尊抄(御書P239)には、非情(精神活動の無いモノ)の成仏について以下のような説明がある。
「「問うて曰く百界千如と一念三千と差別如何、答えて曰く百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る、 不審して云く 非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何、 答えて曰く此の事難信難解なり・・・
観門の難信難解は百界千如一念三千・ 非情の上の色心の二法十如是是なり、 爾りと雖も木画の二像に於ては 外典内典共に之を許して本尊と為す 其の義に於ては天台一家より出でたり、 草木の上に色心の因果を置かずんば 木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり、
疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は 何れの文に出でたるや、 答えて曰く止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力」等と云云、 釈籤第六に云く「相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り」等云云、金ペイ論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」等云云。」
《問うて云う。百界千如と一念三千とどう違うか。
答えて云う。百界千如は有情界に限り一念三千は情非情にわたるのである。
不審して云う。非情にまで十如是がわたり因果が具わるならば、草木にも心が有って有情と同じに仏道を修行して成仏するであろうか。
答えて云う。このことは難信難解である。・・・
観門の難信難解とは百界千如一念三千であり、非情界に色心の二法・十如是を具していると説く点である。しかしこの点が難信難解であるからと言っても木像や画像をば外道でも仏教の各派でもこれを崇めて本尊としているが、その義は天台一家より出たというべきである。なぜなら非情の草木の上に色心の因果を置かなければ、木画の像を本尊にとして崇め祈願することがまったく無意味になるからである。》
同じくP246で、
「然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり。」
《しかしながら結局のところ一念三千の仏種でないならば、有情の成仏も木像・画像の本尊もまったく無益であり有名無実である。》
以上は、草木成仏が無かったら木画の像を本尊とする意味がなくなるということのを述べている。要するに、当時からあった、仏道修行の一つである木画の像を本尊とすることの正当化である。
そして、観心本尊抄全般には、十界互具の説明で、九界にそれぞれの九界を具するところまでは説明したが、人界に具足する仏界は顕われがたいと述べているだけで、その例も、仏道修行の例ではなく、要するに信じるしかないとしているのである。
「但仏界計り現じ難し 九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、 法華経の文に人界を説いて云く 「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、 末代の凡夫出生して法華経を信ずるは 人界に仏界を具足する故なり。」
《ただ仏界ばかりは日常生活に現れがたいのである。しかしすでに九界を具していることがわかった以上は、しいて仏界のあることを信じて疑ってはならない。法華経方便品に人間界を説いていうにはて「衆生をして仏の知見を開かしめんと欲する故に諸仏世尊はこの世に出現し給うのである」と。この経文は人間に仏界を具している証拠である。涅槃経にいわく「大乗を学する者は物を見るに肉眼で見ているがそれを仏眼であるといえる」と。このように人界の仏の知見があることをはっきり説かれている。末代の凡夫が人間と生まれてきて法華経を信ずるのは人界にもともと仏界を具足しているから信ずることができるのである。》
と述べて、その仏界が現れるシステム自体の詳細を述べていない。
また、これに関して、日蓮大聖人御書講義 如来滅後五五百歳始観心本尊抄 十大部第4巻においては、
「地獄界から仏界までのうち、菩薩界までの九界をわれわれの人間生活に具えていることは、地獄とか菩薩とかの本性の一分を常識的な道理の上から説明することができるけれども、仏界ばかりは、ことばや説明のおよぶところではない。しかし、われわれ人間の生命には本有常住に仏界がある。その仏界を事実の上に顕現してそれが事実であることを確認するにはどうすればよいのか。それは「明鏡」に向かって、わが生命の実体をうつし出して見なければならない。すなわち「明鏡」とは、弘安2年(1279)10月12日に日蓮大聖人が御建立あそばされた本門戒壇の大御本尊であり、「向かって」とは、われわれがこの大御本尊を唯一最尊の大御本尊なりと信じ奉ることである。この事実を知らない邪宗謗法の輩は、たとえお題目を唱え、日蓮門下と名乗っていようとも、絶対に仏界を現ずることはありえない、ゆえに一念三千の当体でありえない。ゆえに「末代の凡夫出生して法華経を信ずる」とは、この本門の大御本尊を信じ奉ることであり、われわれ凡夫が御本尊を信じ奉ることのできるのは人界に仏界を具する証拠なのである。」
とあり、個々の部分はアニミズムとなっている。
そもそも、「法華経を信ずるのは人界に仏界を具足しているからである」という命題は、論理的な一般法則としては成り立たない。その一例としてはあり得るが。
なぜなら数学の教科書によると、ある命題が真実であるならば、その待遇も真実である。待遇が偽りならば元の命題も偽りである。
この命題の待遇は、「仏界を具足していないから、法華経を信じない」となる。そしてこの待遇を真実とするならば、一念三千の法則すなわち万物に仏性が具足していることと矛盾するから、この待遇は真実ではない偽りとなる。待遇が真実でないとすると、元の命題も真実ではないことになる。すなわち元の命題「法華経を信ずるのは人界に仏界を具足しているからである」というのも、論理的には真実ではないことになる。
また、同書P241では
「十界互具之を立つるは石中の火・木中の花信じ難けれども 縁に値うて出生すれば之を信ず人界所具の仏界は水中の火・火中の水最も甚だ信じ難し、 然りと雖も竜火は水より出で竜水は火より生ず 心得られざれども現証有れば之を用ゆ、 既に人界の八界之を信ず、 仏界何ぞ之を用いざらん 尭舜等の聖人の如きは万民に於て偏頗無し人界の仏界の一分なり、 不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る悉達太子は 人界より仏身を成ず此等の現証を以て之を信ず可きなり。」
《本題の十界互具を説明しよう。十界互具を立てることは石の中の火が燃え、木の中に花咲くように信じ難いけれども、なにかの縁に値ってこれが事実となって現われれば、人々はこれを信ずるのである。人界に仏界を具していることは、水の中の火・火の中の水のようにもっとも甚だ信じ難いけれども、竜火から水が出で、竜水は火から生ずるといわれている。甚だ心得られないことではあるが、現証があれば人々はこれを信じないわけにはいかない。既に汝は人界のに地獄から菩薩までの八界があることを信じたのであるから、どうして経文に説かれているとおり仏界があることを信じないのか。中国古代の尭王や舜王は万民に対して偏頗なこころがなく平等に善政を行ったことは人界に具している仏界の一分の現れである。不軽菩薩は見る人をことごとく礼拝して「汝等に仏性がある」といっている。またインドのに悉達太子は人界にうまれながら仏身を成就して釈迦牟尼仏となった。これらの現証をもって人界に仏界を具えていることを信ず可きである。》
これまた、一例をあげて信じるべきであると述べているだけで、科学的根拠が薄弱である。しかも悉達太子(釈迦)以外は、仏道修行の証明がない。
その上、我々の日常生活に即しての現象としての説明がない。
同書P245では、
「・・・然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり。」
《しかしながら結局のところ一念三千の仏種でもなければ有情の成仏も木像・画像の本尊もまったく無益であり有名無実である。》
と述べて、以下の有名な文に続く。
同書P246で、
「私に会通を加えば本文を黷が如し爾りと雖も 文の心は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す 我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、」
《私に会通を加えるならばかえって引用した文の意をけがすことを恐れるのであるが、その文意を簡単にいうならば、先に論難したところの権教・迹門・本門の釈尊の因行と果徳の二法は、ことごとく妙法蓮華経の五字に具足している。われらがこの五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給うたのである。》
同書P247
「釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹して其の功徳を受得す「須臾も之を聞く・即阿耨多羅三藐三菩提を究竟するを得」とは是なり、」
《宝塔品にいわく「それよくこの経法を護ることが有らん者は、釈迦仏および多宝仏を供養する者であり乃至また、もろもろの来り給える分身の化仏が諸の世界を荘厳し光飾している者を供養することになるのである」と。このように無作の報身たる釈尊・無作の法身たる多宝・無作の応身たる分身、すなわち無作三身如来は妙法五字を受持するわれらの仏界であり、無作三身の跡を継紹して無作三身の功徳を受得するのである。同じく宝塔品に「刹那でもこれを聞く者は即阿耨多羅三藐三菩提を究竟して、凡身そのままで名字妙覚の悟りに入ることができる」というのはこれである。》
これも同様に文献上(文証)の解釈のみであり、人界に仏界があることの具体的な科学的システムとしての説明にはなっていない。
また、これに関して、日蓮大聖人御書講義 如来滅後五五百歳始観心本尊抄 十大部第4巻においては、木画二像の成仏について、本抄だけでなく、四条金吾釈迦仏供養事や木絵二像開眼之事を引用して、以下のように述べている。
「2、木画二像の成仏
木画二像の成仏とは木画の二像に一念三千の魂魄を入れる時、木画二像は生身の仏となる。
四条金吾釈迦仏供養事にいわく、
「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり、三種の世間と申すは一には衆生世間・二には五陰世間・三には国土世間なり、前の二は且らく之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(1144-14)
「此の法門」というのは一念三千の法門で、文底秘沈の南無妙法蓮華経のことで、「魂魄」とは命のことであり、「法華経の力」とは御本尊のことである。
木絵二像開眼之事にいわく、
「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(0469-08)
要するにこの草木成仏の二義が明らかになれば、われわれの日夜信仰し奉る文底下種・三大秘法の大御本尊が生身の御本仏であられることがはっきりわかるであろう。ゆえに信じ奉る者は現世にも未来世にも絶対の幸福を獲得し、謗ずる者は無間地獄の苦悩へ堕ちるのである。」
これも、本稿において先述してきた日寛アニミズムにすぎない。
その理由としては、「大御本尊が生身の御本仏であられる」ということは、言うまでもない。
また、「魂魄」とは命のことであり、「法華経の力」とは御本尊のことであるというのも、その証拠である。
ちなみに、
四条金吾釈迦仏供養事については、御書P1144で、
「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり、三種の世間と申すは一には衆生世間・二には五陰世間・三には国土世間なり、前の二は且らく之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」
《そのうえ、一念三千の法門というのは、三種の世間から起こっている。三種の世間というのは、一には衆生世間・二には五陰世間・三には国土世間である。衆生世間・五陰世間の二つはしばらく置く、第三国土世間というのは、草木世間のことである。
草木世間というのは、五色の絵具は草木からできている。画像はこの絵具によって作られるのである。木というのは、木像がこれから造られるのである。このる画像・木像に魂魄、すなわち神を入れることは、法華経の力である。またこれは天台大師の悟りである。この法門は衆生の立ち場からいえば、即身成仏とわれ、画像・木像の辺からは草木成仏というのである。》
ここで、「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」とは、よく言ったものだ。
「『魂魄と申す神』を入るる」とした「此の画木」が本尊となるというのは、先述した「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無し」と完全に矛盾する。
また、本尊問答抄などで、「法」を「本尊」とすると、日蓮が何度も語っていたことと全く正反対である。
だからこの画木について、「法」である「法華経」の「力」でと繕っても、魂魄を入れた画木が「法則」でないことは明らかだから、善意に解釈したら、これは方便としてでしか受けとめられないではないか。
また、木絵二像開眼之事(御書P469)では
「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり 故に天台は「一色一香無非中道」と云云、妙楽是をうけて釈に「然るに亦倶に色香中道を許せども 無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」云云、 華厳の澄観が天台の一念三千をぬすみて華厳にさしいれ法華華厳ともに一念三千なり、 但し華厳は頓頓・さきなれば法華は漸頓のちなれば 華厳は根本さきをしぬれば法華は枝葉等といふて 我理をえたりとおもへる意山の如し・然りと雖も一念三千の肝心・草木成仏を知らざる事を妙楽のわらひ給へる事なり、」
《法華経を心法と定めて三十一相の木絵の像に刻印するとき、木絵二像の全体は生身の仏である。草木成仏というのはこのことである。
ゆえに天台大師は「一色一香も中道実相の当体でないものはない」といっている。妙楽大師はこれを受けて止観輔行伝弘決巻一の二に「ところがまた、世の人は共に色香が即ち中道実相の当体であることを認めても、無情の色香等にも仏性がそなわっているという草木成仏の義を聞いては、耳を惑わし心を驚かせるのである」と述べている。
華厳宗の澄観が天台大師の一念三千を盗んで華厳経に加え入れ「法華と華厳とはともに一念三千である。ただし華厳は頓頓の教、先に説かれた故に。法華は漸頓の教、後に説かれた故に。また華厳は根本、最初の説法のゆえに。法華は後の枝葉を包摂してその根本に帰る教である」などといって、自分が実理を得たと思う我意は山のようである。しかしながら、一念三千の肝心である草木成仏を知らない愚かさを妙楽大師が笑われているのである。》
とある。
「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」も、先述と同様の論理で、信者を修行に導くための方便となるのである。
また、これに関して、日蓮大聖人御書講義 如来滅後五五百歳始観心本尊抄 十大部第4巻においては、白米一俵御書を例に挙げて、
「しかも、心から万法を生ずるとか、万法が心に収まるというのではなく、心はそのまま万法であり、したがって草木にもそのまま仏性を許すのである。
白米一俵御書の「爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず・心すなはち大地・大地則草木なり、爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり」(1597)の御文は、これを明快に述べられたものである。」
とある。
ここにおいても、「草木にもそのまま仏性を許すのである」理由は、先述の通り、我々精神活動のある衆生が成仏するためのみにあるのである。
この御書をしっかり見てみると、
「爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず・心すなはち大地・大地則草木なり、 爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり。」
《爾前の経の意は「万法は心から生ずる。譬えば心は大地のようであり、草木は万法のようである」ということである。法華経はそうではない。「心はすなわち大地であり、大地はすなわち草木である」ということである。爾前の経々の意は「心が澄むのは月のごとく心が清いのは花のごとし」ということである。法華経はそうではなく「月がそのまま心、花がそのまま心」という法門なのである。》
ここにおいて、「月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり」と法華経の真髄を述べているが、月や花にとっての成仏を、月が輝く姿、花が綺麗に咲く姿を例に挙げているのみである。そもそも月が輝くのは物理的な作用によるもので花が綺麗に咲くのも自然の摂理における一場面でしかない。けっして、月が自ら頑張って成仏の修行をして輝くのでもないし、花が頑張って成仏の修行をした結果綺麗に咲くわけでもない。
これらの、成仏の修行なしの自然な現象を成仏の姿の例にしているのだから、草木成仏といっても名ばかりで、一般的な因果応報の一場面を挙げているにすぎない。
そもそも月の輝きや花の綺麗さに心を打たれるのは有情である我々自身の心(生命)である。我々が心を打たれるからこそ、月の輝きや花の綺麗さがあるのである。
成仏への修行ができる我々あっての草木成仏であることが、こうして分かるのである。
だから、開眼供養なども、元来はこちらの我々あっての成仏であるから、仏像やマンダラに対する科学的作用を伴うものではなく、結果としてはなくてもよいことになる。
ちなみに、この教えの部分も、信者に対しての励ましの方便であったことは、次に続く結びの文を見れば明らかである。
「此れをもつてしろしめせ、白米は白米にはあらず すなはち命なり。」
《このことから知られるがよい。あなたが御供養された白米は白米にあらず。あなたの命である。》
この言葉に、信者で白米を供養した人は、どんなにか心を打たれたことであろう。
(残念ながら一部消失しているため、この消息文の宛名も年月日も不明である。また、この御書は、成仏を目指すための不惜身命の具体的なあり方を説いているので、本稿においても後にその部分を取り上げる予定である。)
■草木成仏のシステム
生きるものの主体としての成仏も先述したが、本稿のP78で能動的瞑想について、瞑想レベルもさまざまであることを述べた。
命を惜しまず一心不乱に仏を見よう、完成を目指そうとして行う瞑想レベルもピン(完璧)からキリ(最低)までさまざまである。
ということは、主体の帰命する様々なレベルで客体であるマンダラの成仏も主体によるさまざまなレベルとして定義できる。
ただ、この実相は、客体の成仏は主体あってのものであり、主体の帰命を寄与する原因(仏法では「縁」という、つまり客体・環境)としているにすぎない。
しかも、どちらの成仏という認識も、アニミズムによるものであり、本当の成仏ではない。なぜなら、アニミズムは法則への帰命ではないからである。
日蓮の教えは法則への帰命、すなわち法を本尊としなさいということである。
くり返すが、こうして、物体としてのマンダラや仏像の成仏は、その客体としての帰命する人の存在の上にはじめて定義されるものとなる。
日蓮はこの論理を、客体としての帰命する人が成仏できるという方便として説いたといえる。
これを、マンダラや仏像がすでにあらかじめ成仏していると言って、人々を成仏の修行へとうまく誘導したのである。
いうなれば、天台の一念三千の論理を、巧みに利用した方便といえる。
そして、以下にも日蓮の具体的な説明が続いているが、日蓮はこれを「甚深の法門」としたのである。
また、日蓮はその後に、以下のように述べている。
「口決に云く「草にも木にも成る仏なり」云云、
此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、
経に云く「如来秘密神通之力」云云、 法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし」
《口決にも「草にも木にも成る仏」云々とある。
この仏とは非情の草木にまでなっているところの、法華経寿量品の釈尊をいうのである。
寿量品に「如来の秘密神通之力」云々と説かれているが、十方法界はことごとく、釈迦如来の御身でないものはない》
つまりは、釈尊が生まれかわって草にも木にもなって、成仏した姿があるというのだ。
そして、それらもすべて、釈尊の実の姿だというのだ。
釈尊も生身は成仏した。
その例として、釈尊の爪や髪の毛も成仏した。
骨も成仏している証として取りあつかわれている。
人間も成仏においては同じだ。
だからその爪や髪の毛も、その人が成仏したと同時に成仏する。
こう考えれば、
「十方法界はことごとく、釈迦如来の御身でないものはない」
という説明にも納得がいく。
ここにおいて、成仏の主体は、当時の世界観で微小な塵から大きく全世界まで広がった。
これらは、あくまで修行できる主体に付属すことが条件となって、修行があり得ない客体の非情も成仏できるという意味である。
日蓮のこの教えだけでは誤解される恐れがあるので、このように更新しなければならない。
これを一切衆生と称する。
こうすると、科学が発展した今日の世界観においても、成仏の主体が、素粒子から、観測不能の無限の宇宙の大きさにまで、広がっていることに相当する。
ただ、これらは、科学や哲学の未熟な時代の中で説かれたものであるから、驚くべきことばかりである。
くり返すが、その成仏の中身を十分に分かっていなければならない。
そのためには、生死の認識、そしてそれを貫いている法則を理解することが大前提である。
物質そのものは、成仏としての状態は定義できない。
当時の時代、学問的に多くの人が成仏を求めて定義し、その対象としていたのは、仏像やマンダラなどの物体である。
この特殊な物体は修行者が南無することでのみ、成仏が約束されていたのである。
今でも、物体である対象は入れ替わっていても、この状態は事実上変っていない。
ほとんどの宗教は、同様の教えやドグマが根本となっている。
これらはすべて、過去の限られた時代における様々な制約をうけて表現された理論である。
当然ながら、科学が発達し時代が進歩するに従い、それらの制約の多くは解放され、より科学的な論議やコンセンサスも進歩しているのである。
古代の洞察やその視点が、現在の科学において論理的に見直され、取り入れられることもある。拙論文も、アップデートのために取り入れてきた仮説としての洞察もある。
しかしその反対に、以前として何の役にも立たない過去の遺物に執着し、害毒をもたらすだけの論理も数多く存在している。
拙論文にて、これらをアニミズムと定義して取り扱ってきた理由が、これである。
日蓮の後世も、ほとんどがドグマに対しての科学的検証や更新を怠ってきたといえる。
そして結果として、日蓮の遺した真の血脈、すなわち法則としての南無妙法蓮華経の定義を見失い、「不依法・依人」を主義とする余計な人の教えに執着しているのである。
科学の発展により、それらが非科学的であることが明らかになるにつれて、これらは徐々にではあるが、民衆からは廃れつつある。
葬式や墓や永代供養なども簡略化され、他業種に丸投げされつつある。
当事者意識も薄らぎつつある。
そして、台頭してブームになっているのが、科学的な法則に基づくスピリチュアルなどである。