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P82, 素粒子から宇宙の外までのすべてが万物の生命、一つの電子も意志を持っている

 日蓮の血脈は、「妙法蓮華経」と定義された「法則」であり、修行法である。
 本稿以降は、この仏法における日蓮が残した血脈を、進歩しつつもある現在における科学の一部の所見もあげて考察しながら、できればそのアップデートまで試みていく。


 約800年前、日蓮は、佐渡にて、現代科学にも透徹する法則を説いている。
「法華経の心は法爾のことはりとして一切衆生に十界を具足せり、譬えば人・一人は必ず四大を以てつくれり一大かけなば人にあらじ、 一切衆生のみならず十界の依正の二法・非情の草木・一微塵にいたるまで皆十界を具足せり、」(小乗大乗分別抄 御書P521)
《法華経の真髄は、自然の道理として一切衆生は必ず十界を具足しているということだ。一例をあげると人は必ず四大という要素で構成されていて、そのどれかが欠けても人にはならない。一切衆生だけではなく十界の依報(主体の環境)・正報(主体そのもの)の構成要素についての法則も、非情である草木やひとかけらの微塵に至るまで、みな十界を具足しているのである》

 ここで「依報・正報の二法」とは、観測できるできないにかかわらず、自己と宇宙およびその関係を意味している。
 すなわち、「一微塵」とは、当時において表現でき得たこれ以上分割できない最小の物理的単位を意味しているのだから、現代科学における「素粒子」にあたる。
 そして、これら全てに「十界を具足」していると述べている。


 一方、現代科学においては、生物学だけでなく、意志とはまったく関係ない扱いであった素粒子の分野まで、「意志」というテーマが導入され、現在、論争が盛んになっている。
 素粒子を扱う量子論の発達過程において、観測データや思考実験において、様々な素粒子の振る舞い方やその因果を論理的に説明するには、どうしても、素粒子の一つのフェルミオンである「電子」に「意志」があると認めないわけにはいかなくなってきているようである。
 この論争は現在進行中で、まだ世界的にはコンセンサスを得られているわけではない。
 反対に、発展した脳科学の所見に基づいて、「自由意思」は存在しないという文献も見られる。
 しかし、万物の統一理論を提示しようという物理学者・科学者たちの間ではしばしば個々の物質にも意志や生命があるとするような理論がみられる。
 最近では、物理学者山田廣成が、自著「量子力学が明らかにする存在、意志、生命の意味」(2011/11/30,光子研出版)にて、「対話原理」という新たな方法を提示して、斬新な統一原理を考察している。
 それによると、電子は意志をもち、限られた環境のもとで、自由に行動するというのである。電子がある量子論の法則にしたがって自由に行動することによって不確定性原理も説明できるとしている。


 さてここで、電子について、また原子や素粒子について、現在の物理学で分かっていることを、高校時代(大学入試)の知識として、おさらいをしておこう。


■ 電子、原子と万物の関係

 すべての(生物を含む)物質は原子からできている。
 原子は芯とも言える原子核と、周囲に存在する電子でできている。
 原子の大きさは約1億分の1cm、その中の原子核の大きさはその 1万分の1 以下である。また電子1個の大きさは原子核の大きさよりもはるかに小さい。
 原子の質量の 99%以上が原子核で占める。電子の質量は原子核の2000分の 1以下である。
 原子の中の電子は猛烈な速さで「原子核の周りを回っている」。(量子力学では正しくないが、原子核との比較のために簡単に表現するとこうなる)
原子の中の電子の平均速度は秒速 2300 キロメートル、平均の周波数は1016Hzともなる。
原子の芯である原子核と周辺の電子の集団との間は真空になっていて、それらの大きさとは比較にならないほど広大無辺の空間である。ただ、その中は強力な電気力が働いている空間である。したがって、電気を帯びた粒子(荷電粒子)や光(電磁波)は簡単には侵入できない。荷電粒子を進入させるためには高いエネルギーが必要である。しかし、電気を帯びない粒子(例えば、中性子)は高エネルギーではなくても侵入できる。

 つまり私たちの世界に存在する物質は、原子の質量と重力によってその重さが決まる。また、物質の形や構造は、電子の軌道とそれに関連するエネルギーによって成立つ。
 電子の軌道は原子の化学的性質や結合を決定し、それが物質の形状や状態を形作る基礎となっている。
 このように、原子と電子は、私たちが観測できる宇宙の物理的・化学的特性を形成する根本的な要素である。

 ある意味、私たちの世界に存在する万物は、限りなく真空に近い、空っぽの世界と言ってもいい。

 なぜなら、物質を構成する原子は、実際には空間の大部分が空っぽであり、原子核と電子の間には膨大な空間が存在する。この空間は、原子のサイズに比べて電子が占める体積が非常に小さいために生じる。したがって、物質は主に空間で構成されており、その密度は非常に低い。
 しかし、この空間にも電磁力が働いており、電子が原子核の周りを回ることで物質に形と安定性を与えている。この電磁力は、物質が触れ合う感覚や固体の形状を保つ力として働く。
 こうして、私たちの日常生活においては、物質はしっかりとした形を持っているように感じられる。しかし、微視的なレベルでは、物質はほとんどが空っぽの空間である。

 空間にも電磁力が働いており、物質以外のものにも当てはまる。
 電磁波は、電場と磁場が空間内で振動する現象で、媒質がない真空中でも伝わり、エネルギーを運ぶ。
 電磁場は、物質を構成する素粒子の相互作用だけでなく、光や放射線などの電磁波の伝播にも関与している。
 これらの現象は、物質が存在しない空間でも起るため、物質以外のものにも電磁力が関係している。

 原子の質量は、実際には様々なエネルギーの形態で構成されている。
アインシュタインの有名な等価式:E=mc^2 は、質量(m)とエネルギー(E) が等価であり、光速(c)の二乗を乗じることで相互に変換可能であることを意味している。すべてのエネルギーはエネルギー保存の法則に従い交換して作用する。
 つまりは万物は、空間という場と、様々なエネルギーの相互作用によって構成されているといえる。
 肉体や環境を構成する物質は、その中において単なる稀で特別な形である。
 それは原子という基本的な構成要素から成り立っており、これらの原子はエネルギーの形態である質量を持ち、空間内で特定の法則に従って相互作用しているだけである。この相互作用には、重力や電磁力などの基本的な力が含まれる。
 物質の形や性質は、原子や分子の間の力によって決定され、これらの力はエネルギーの交換と変換によって生じる。
 また、空間自体もエネルギー場の存在によって特徴づけられ、物質が存在しない場所でも、電磁波などのエネルギーが伝播する。
 このように、私たちが観測できる宇宙は、きわめて微小で稀な物質と広範にわたるエネルギー、そしてそれらが存在し作用が飛び交う広大な空間の複雑な相互作用によって成り立っている。

 ちなみに私たちの生命が死んでも、その肉体は等価で別のエネルギーに置き換わり存在し続けるだけである。
 生物の肉体は、分解されて他の形態の物質やエネルギーに変わる。
 例えば、分解によって放出される化学エネルギーは、他の生物の栄養源となったり、熱エネルギーとして環境に放出される。
 このプロセスは、生態系における物質循環とエネルギー流の一部であり、死んだ生物の肉体が土壌に還り、植物の成長を助ける栄養素となることで、新たな生命を育む基盤を提供する。
 このように、生命の終わりは、新たな生命の始まりへとつながる循環の一環となっている。
 こうして、万物は流転する。


 おさらいが長くなってしまった。本題に入る。

■ 一つの電子も意志を持っている

 電子は意志を持っているとはどういうことなのか。

 山田廣成は自著「量子力学が明らかにする存在、意志、生命の意味」で、質量が測定できない微小な電子にも意志があるという考え方を取り入れることで、物質的な現象だけでなく、意識や意志といった観念的な要素も科学的に説明することが可能になると述べている。これにより、物理的な実体としての電子が、その行動を確率的に決定する「意志」を持つと見なされ、これが唯物論的な世界観と観念論的な世界観を橋渡しする役割を果たすというのである。

 彼は、電子のような素粒子が意志を持つという観点から、自然界の進化が意志によって起こると述べ、闘争ではなく共生が自然界の本質であると結論付けている。このように、量子力学の思想を基に、物質と意識の統合を試みることで、21世紀の科学的思想の新たな基盤を形成しようとしている。このアプローチは、科学と哲学の境界を曖昧にし、より包括的な世界観を提供することを目指している。


 ところで量子力学は、素粒子や原子などの微視的な系を記述する力学体系であり、粒子の波動と粒子の二重性、測定における不確定関係などを説明する。
 一方で、唯物論は物質を根本的実在とし、精神や意識を物質に還元して捉える考え方である。
 観念論は、物質ではなく観念的なものが根本的本質だとする考え方で、プラトンやカントなど多様な形が存在する。

 これらの概念を統合する試みは、物理学と哲学の交差点に位置し、存在、意志、生命の意味を探求する上で興味深いものである。
量子力学の確率解釈や観測問題、その非直感的な性質は、物質と意識の関係についての新しい理解を促す。
 例えば、観測者の役割が量子系の状態を決定するという量子力学の側面は、観念論的な視点と相互作用することがある。同時に、量子力学が示す物質の基本的な性質は、唯物論的な世界観を支持する根拠ともなり得る。

 このように、量子力学、唯物論、観念論はそれぞれ異なる視点を提供しながらも、宇宙の根本的な性質に関する理解を深めるために互いに補完し合うことができる。


 彼の考察をもとに検討すると、以下のことが分かる。
 すなわち、先人たちは電子や素粒子が波動である、または粒子であると同時に波動と言う側面があると考えたが、これは誤りだった。
 実際、波動は現象であり、干渉することが原因となって波動現象が現れる。
 実は、この波動や干渉による様々な不可思議な現象は、不確定な意志を持った粒子{電子」の「行動による結果」である。
 つまり、電子は波動ではなく粒子である。
 よって、従来言われてきたような、観測時に波束が収縮するという不自然なことは考えなくても良い。
 当初は、電子が干渉するのはなぜなのかという課題があった。
 ここで意志という概念を物理学に導入すると、こういった量子力学の難解さが解消される。具体的には以下のように解説できる。

1. 意志を「個体を統合する力を有する実体」と定義することで、量子系の複雑な振る舞いを理解しやすくなった。個々の粒子が協調して振る舞うことで、意志が現れると考えられる。

2. 意志を「他者から己を識別する力を有する実体」と定義することで、観測と干渉の関係を理解できる。観測者が存在することで、粒子の振る舞いが変化することが意志の一側面として捉えられている。

3. 意志を「他者と対話し干渉する実体」と定義することで、量子系の相互作用を説明できる。干渉が意志の表れであると考えることで、量子力学の謎が解明された。

4. 意志を「干渉により意志の変更が起こる」と定義することで、量子系の確率的な振る舞いを説明できる。観測や干渉が意志の発現に影響を与えるとみなすことができる。
 こうして、意志という概念は物理学と社会学をつなぐ架け橋となった。


 彼は、量子力学における証拠をあげて、電子の行動と人間の行動とは類似点共通点があるとのべている。
 これは以下のように、論理正しく、是認できるものであると私は考える。


 ①電子の振る舞いは予測できず、その形や大きさも未だ正確には測定されていない。
 量子力学によると、電子は無限に小さな点であり、波動の性質を持つとされている。
 光も波動の性質を示しながら粒子でもある。
 電子は狭いスリットを通過すると干渉模様を示し、その位置は予測できない。これは自然界の不確定性原理に基づいている。こうしてこれまで物理学者はこの不確定性を受け入れ、自然界を表現してきた。
 実は、電子は常に粒子であり、波動のような現象を行動として示すに過ぎない。干渉模様は電子が粒子として相互作用する結果である。
 人間の行動も予測不可能であり、電子の行動と同様に不確定性がある。
 この不確定性は、私たちが世界を理解する上で重要である。
 電子がどのように干渉に反応するかは、量子力学の研究において重要な疑問だが、人間の千差万別な行動も同じ程度に疑問である。

 ②電子の運動は確率でしか予測されない。
 ミクロの世界では、放射性同位元素の崩壊や電子の位置など、すべての出来事が確率でしか予言できない。
 観測されるまで、電子の位置は不明であり、確率でしか示せない。
 これは、ボールや花瓶のように確定した場所にあるとは言えないことを意味する。
 人間の行動もまた、確定することはなく、意志によって変わる。
 電子も、意志があるかのように振る舞い、その位置を変えることがある。 例として、ブラウン運動は、花粉が水上でランダムに動く現象であり、意志は関係ないが、量子力学のシュレディンガー方程式と数学的に同じ形式で表される。これらの方程式は、電子から人間まで、すべての運動が確率過程であることを示している。

 ③統計学では、意志の有無に関わらず運動を取り扱うことができる。
 電子は、意志があるが、それは確率的な性質によるものである。

 たとえばトンネル効果は、電子が持つ運動エネルギーよりも高いポテンシャル障壁を透過する現象である。
 これはエネルギー保存則に反するように見えるが、量子力学では電子が波動の性質を持つために可能とされている。
 この現象は、人間が内部エネルギーを使って山や障壁を乗り越えることに似ている。電子も内部エネルギーを使って何らかの形で障壁を超えるということである。
 この現象は、電子が波動として振る舞う量子力学の特徴的な例であり、人間の行動との類似点である。

 ④電子は原子核のクーロン力によって閉じ込められ、特定のパターンで分布する。
 例えば、鉄の原子を環状に配置した「Quantum corral」実験では、電子が内側に捕獲され、波動のような模様が観察される。
 これは電子が波動であるという錯覚を与えるが、実際には多くの電子が局在している。
 同様に、水素原子のシュレディンガー方程式の解析からも、電子が特定のエネルギーレベルでのみ存在し、空間に構造を与えることが示されている。 これは量子数によって表され、電子の異なるスピン状態が存在する。
 人間もまた、地球上で特定の場所に集まり、構造を形成している。
 このように、電子から人間まで、物質は集合し、空間に構造を付与する自然の一般法則に従っている。

 
 ⑤電子が集まるとクーロンポテンシャルが生じ、質量が集まると重力ポテンシャルが生じる。これらのポテンシャルは粒子に力を及ぼし、エネルギーの授受を引き起こす。
 例えば、小石は重力ポテンシャルにより地球に落下し、電子はクーロンポテンシャルにより運動エネルギーを得る。ポテンシャルは電子や物質の集合によって形成される。
 人間社会でも「ポテンシャル」という言葉は潜在能力や集団の力として使われ、大都市では人々が集まることで高い経済的ポテンシャルが生まれる。このように、物理学のポテンシャルの概念は人間社会にも適用される。

 ⑥物理学では、重力やクーロン力などの力は量子化され、中間子や光子が発生する。核力は中間子の交換によって生じ、電子は光子を交換することで力を発生させる。
 経済学においても、人間の交換関係は物々交換や金銭の授受によって成り立つ。電子の世界と人間の世界は、交換という点で類似している。


 ⑦電子の波動性についての新しい実験結果によると、電子は予想に反して、等間隔で規則正しく移動するのではなく、粗密が発生することがわかった。細いワイヤーを通る電子は、等間隔ではなく密度波を形成する。これは量子力学で説明可能で、電子が波の性質を持つ証拠である。
 高速道路での車も同様に密度波を形成し、波に乗ることで走行速度が変わる。
 これは位相速度と群速度の物理学的概念に似ており、電子の流れと車の動きは類似した現象を示している。

 ⑧もし宇宙に電子が一個だけ存在したら、その電子は無限に広がる波動関数を持ち、存在確率は極めて小さくなる。
 電子は波動としても粒子としても振る舞うが、他の電子との相互作用によってのみ、その位置を特定できる。
 人間もまた、他者との関係性によって自己を理解し定義する。
 これは重要なことである。
 電子が複数存在することの重要性は、人間社会の構成と同様に、個々の電子が自己の位置を確定するために他の電子との関係を必要とすることにある。

 ⑨素粒子はフェルミオンとボソンの2種類に分かれる。
 電子はフェルミオンであり、同じ場所に2つ存在することはできない。
 複数の電子がある場合、一つが移動すると他の電子も位置を調整し、空間のバランスを保つ。
 これは人間が無言のうちに席を譲り合う行動に似ており、電子もまた共生していると言える。
 人間も電子の集合体であるため、フェルミオンの性質を持っている。


 以上から明らかなように、電子と人間の振る舞いは驚くほど似ている。
 これまで電子の世界と人間の世界は異なるとされてきたが、実は共通点が多くある。
 電子は無機物であり、人間は有機物だが、私たちはどちらも電子でできているのである。

 そして、著者は以下に引用した対話原理を使いながら、電子一個にも意志があること、そしてその容態を以下のように結論づけている。

「対話原理14条
量子力学的自然観
第1条 世界は個体と付随する場により形成されている。
第2条 個体は必ず複数で種及び階層として存在し、単独では存在しえないし、存在が規定されない。
第3条 個体には階層性があり、故に場にも階層性がある。
第4条 同種ではあっても完全に同一の個体は存在しない。即ち個体は個性を持つ。
第5条 個体同士は場を介して対話を行う。故に対話にも階層性がある。
第6条 時間は対話を記述する際に必要となる概念であり、場に付随する概念である、したがって時間にも階層性がある。
第7条 対話の手段には少なくとも光子が含まれる。
第8条 個体は「意志」を有する。故に「意志」にも階層性がある。
第9条 不確定性は、対話の不確実性であり、個体に「意志」があることに基づく。
第10条 干渉は対話の結果発生する。従って干渉にも階層性がある。
第11条 対話により導かれる帰結は個体の個性を色濃く反映するが、平均的な振る舞いは古典的な物理法則に従い、秩序を演出する。
第12条 波動方程式は、対話で発生した場の構造を記述するのに適切な数式体系であり、対話方程式と呼ぶのが適切である。
第13条 共鳴現象は、対話の結果発生する「意志」の統一である。従って、あらゆる階層に共通する現象である。
第14条 対話の結果、万物が流転する。」(同書P169)


 私見では、以上のことは、意志を伴った人間の行動と、電子の行動とは驚くほど似かよっていることが示されている。そのベースとなっている法則が異なっているだけである。
 もし、電子に意志がなく、アットランダムに振る舞うならば、このような類似点は見いだせないであろう。

 ところで、そもそも意志とは何だろう?
 仏法では、天台が九識論について述べていて、その中には意識が含まれている。九識論については、拙論文でも後述する予定である。
 一般には、意志とは、人間の生命活動の一つであり、個人が自らの行動を決定し、それを実行に移すための心理的な力やプロセスを指す。
 これには、目標を設定し、それに向かって行動する意欲や決断力が含まれる。
 意志は、自己制御や自己決定の能力と密接に関連しており、個人が自分の行動を選択し、その結果に責任を持つことを可能にする。
 また、意志は目的意識や動機付けとも関連があり、個人が特定の行動をとる理由やその行動を継続する動力となる。
 意志は、単に反応するのではなく、自分自身の意向に基づいて行動する能力を表している。

 ところで、この意志という概念は、歴史を通じて変化してきた。
 中世には、意志は神のみが持つものとされ、人間は神の意志によって生きていると考えられていた。
 しかし、ルネッサンス以降、人間は自分の意志で生きていると確信するようになった。
 意志には自由意志と束縛された意志の二種類があり、多くの人は何らかの形で束縛されているが、自由な選択をする際には自分の意志を実感する。

 そこで物理学においても、意志を科学的に定義してみたら、どういうメリットがあるのだろうか。

 そこで山田は、そもそも物理学について、こう述べている。
「物理学が幾つかの証明出来ない公理に基づいて構成されているという事実だ。物理学というのはいい加減な学問なのだ。例えばエネルギー保存則や運動量保存則は最小作用の原理から導かれるが、なぜ最小作用の原理が正しいかを証明することは出来ない。自然界には四つの力が発見されているが、なぜこの様な力が存在するかを証明することは出来ていない。最小限の公理をもとにして作られた体系に自己矛盾がないことを追求するのが物理学である。」
 そうすると、最も科学的・客観的な真理を追究するこの学問でさえ、最初は明らかではあるが「証明不可能な定義」=公理という基礎を設定して、その上に構成される学問ということになる。
 こんなことでは、バラモン教の梵我一如や一神教の神、あるいは魂などといったものの定義と同じ類ではないか? 
 また、天台の「一念三千」の法則や日蓮の「南無妙法蓮華経,万物一切根源の法」も、同じ類ではないか?
 さらには、その基礎の上に構築される方程式などの論理でさえ、研究者の人間としての移ろいやすき感情の産物であることは、本稿P77で指摘した通りである。
 ちなみに、「最小作用の原理」とは、基本的な原理で、自然界も人間も、最も効率的に行動するという原理である。例えばある物体がA点からB点に移動する際、最も労力がかからず、最低のエネルギーで済む経路が選ばれる。この原理からエネルギー保存則や運動量保存則が導かれる。この原理は自然界の法則であり、人間も同様にこの原理に従って行動する傾向がある。
「早い話、自然界も人間もなるべく怠けようとするのが性質であることを証明した原理である。」
と彼は説明している。
 これは大いなる皮肉のようである。ただ、この原理の正しさを証明できなくても、物理化学分野だけでなく文系の社会学や経済学に至るまで、誰もが疑問の余地がないと認める原理である。

 こうして、そもそも物理学自体が証明できない公理に基づいているという前提を理解していなければならない。
 元々このような公理を基にした学問の追求でしかないのが物理学の本質である。いや、物理学でさえ、こうなのだから、それ以外の一般の学問においてはなおさらであろう。これは科学の限界の一つである。


 話を戻して、そこで、意志を物理学の公理として追加して導入すると、先述の通り、量子力学の理解が大きく進むことになる。

 かつて、ルネサンスの時代から、自然界の全体像を理解するためには、意志を神から独立した概念として捉える必要があった。
 意志を物理学の公理として追加して導入することは、これによく似ている。

 意志は個体を統合し、他者との識別や対話を可能にする力である。
 また、意志は確率統計原理に従い、個体の振る舞いを決定しする。
 この定義は人間だけでなく電子にも適用可能で、電子の量子力学的振る舞いを説明するのに役立つのである。
 電子が意志を持つとすれば、その振る舞いは確率的であり、位相空間での位置は個々の電子の特性によって異なるものとなる。
 意志は複雑な人間だけでなく、あらゆる個体に存在すると考えられる。
 個体は階層性を持ち、意志もまた階層的な性質を持つと言える。
 人間の意志決定プロセスは電子のそれとは異なるが、根本的な概念は同じである。

 このように、意志を物理学の公理として導入することで、粒子の行動がランダムなものではなく、意志に基づいた選択として理解できるようになるのである。

 だが当然ながら、電子が持つ「意志」と人間の意志は、根本的に異なる概念ではある。
 物理学における電子の「意志」とは、電子の行動が、ある種の規則性を持っていることを指すための比喩のようにも見える。これは、電子が量子力学の法則に従って行動することを意味している。
 ただ、人間については、人間の従っている生物学的・心理学的~社会学的法則などがあるというだけである。
 したがって、電子が持つ「意志」と人間の意志を同じものとして扱うことはできない。科学的な文脈では、電子の行動を意志として解釈することは、その行動を理解しやすくするための一つの方法であって、実際に電子が人間の行なうような意識的な選択をしているわけではないだろう。

 実際、電子が持つ意志は、量子力学では、電子の振る舞いは確率波動関数によって記述され、特定の条件下での確率的な結果を予測する。
 これは人間の意志が直面する複雑さとは異なる種類の複雑さである。
 電子の行動は、量子力学の法則に従い、観測されるまでの間は多くの可能性を持っているが、これは人間の意志の複雑さとは根本的に異なる。

 言い換えれば、電子は電子としての意志を持っており、人間は人間としての意志を持っているということである。


 さらに、彼の論述を参考にして、電子の意志と私たちの意志を比べて述べてみよう。

 量子力学は、ミクロの世界だけでなく、マクロな現象にも影響を及ぼす。 物質が形を持つのは、パウリの排他原理によるものである。この原理は、同じ量子状態に二つの同種のフェルミ粒子が存在することを禁じている。
 電子はこのフェルミ粒子の一例で、原子内で特定の場所に局在し、それぞれが独自の「番地」を持つ。この排他性が物質に形を与え、私たちの日常生活における物質の固体感を生み出しているのである。
 また、電子は無限に小さな点ではあるが、その分布によって物質は空間を占め、形を成す。
 このように、量子力学は私たちの世界を形作る基本的な法則を提供している。
 ただ、物理学者が古典力学と区別して考える理由は、量子力学の法則がマクロなスケールで直感的には観察しにくいためである。
 しかし、この原理は、物質の構造や私たちの存在に深く関わっている。

 パウリの原理によると、光子はボソンであり、無数に同じ場所に存在できるが、形を作らない。
 これに対し、電子はフェルミオンであり、同じ量子状態には2つは存在できないため、物質に形を与えることになる。
 あくまで観測結果においては、電子と光子は波動として扱われ、スピンの違いによって区別される。電子のスピンは1/2、光子のスピンは1である。
 光子は電子が作るクーロン場を量子化することで生じ、多数の場が重なることが自然である。

 光子は電子間の対話に、言葉は人間間の対話に使われる。
 私たちが住んでいる世界で、形がある物の、その物の形は全てが電子がつくっている。
 つまり万物の形はすべて電子で構成されている。
 この理解は非常に重要である。
 大きさも測定できない一微塵が、万物の形を成り立たせているのである。

 電子は原子内で不確定な振る舞いをし、光を放出してエネルギー状態を変える。
 この光を放出するタイミングが、電子の「意志」であり、予測不可能なのである。
 電子のライフタイムは原子によって異なるが、おもしろいことに、その平均値が存在する。
 詳しく言うと、不確定性原理によれば、電子のエネルギー準位の幅(ΔE)と寿命(Δτ)は逆の関係にあり、単純な式で、ΔExΔτ= h と表される。ここでhはプランク定数である。
 この原理は、電子のエネルギー準位の幅が広いほど寿命が短く、狭いほど長いことを示している。
 これは、人間の生き方にそっくりである。
 すなわち、細く長く生きる人間と、太く短く生きる人間がいるということである。

 人間と電子の関係は、科学と日常生活の両方において非常に深いものである。
 私たちの体は、原子から成り立っており、これらの原子は核と電子から構成されている。
 電子は原子の化学的性質を決定し、結合を形成することで分子や物質を作り出している。
 これにより、私たちの身体や周囲の物質が形成されている。
 原子は質量を持っているが、点のように限りなく微細である。
 その周りをさらに比較にならない(測定できない)微細な素粒子である電子がまわっている。
 つまり、私たちの肉体も実はスカスカのほとんど全く何もない空間の場であり、その中でほんのわずかな微塵が様々な形のエネルギーを放出し続けていることで、形作られているのである。
 そしてその空間の場には、日常的にX線や電磁波、超音波などの様々なエネルギーによって、その強さの程度により突き抜けられたり傷を受けたり跳ね返されたりしているのである。

 また、電子は電気を運ぶ粒子としても知られており、私たちの技術文明において重要な役割を果たしている。電子の流れが電流となり、電気エネルギーを提供し、電子機器を動かす原動力となっている。
 さらに、電子の特性を利用した半導体技術は、コンピュータやスマートフォンなどの情報技術の基盤を形成している。

 人間の社会や文化においても、テクノロジーとの相互作用が重要であり、電子技術は私たちの生活を豊かにし、新しい可能性を開いている。
 このように、人間と電子の関係は、物理学的な理解から日常生活における応用、さらには哲学的な探求に至るまで、多岐にわたる分野で重要な意味を持っている。
 私たちの存在とテクノロジーの進歩は、電子という基本的な粒子の理解と密接に結びついている。

 こうして、電子にも、意志があるとすると、難解な量子力学の説明も身近に感じるようになった。

 これら以上は、最初にこのページで述べた、日蓮の教え、
「一微塵にいたるまで皆十界を具足せり」
《ひとかけらの微塵に至るまで、みな十界を具足しているのである》
を、見事に説明していることになっている。
 これは、一微塵としての電子の振る舞いにも、電子の意志が伴っている現象として理解できることを、科学的証拠を用いて述べたものとも言える。
 日蓮が、一微塵も生命として十界を備えていると述べた意味は、こうして上述してきたすべてにある。

 これは、先述した、私たちの肉体も実はスカスカのほとんど全く何もない空間の場であり、その中でほんのわずかな微塵が様々な形のエネルギーを放出し続けていることで、形作られていること、そしてその空間の場には、周囲の環境から日常的にX線や電磁波、超音波などの様々な見えないエネルギーによって、その性質が決定されていることは、仏法で説かれた「依正不二」(環境と主体が相互に瞬時に影響しあいながら一体であること)を、見事に説明している。

 これは、日蓮が残した「仏法における血脈」の部分的な説明として述べたものである。
 すなわち妙法蓮華経の説明の例である。
 800年前の科学の未発達な時代に説かれた日蓮の教えは、現在の最先端の量子力学においても、おおむね矛盾なく通用しているのである。
 これは驚くべきことである。
 むろん、時代に特有な要素は更新すべきである。だが残念ながら、主要な日蓮の後継者たちの多くは、これに気づいていない。
 上記で言えば、一微塵を素粒子に置きかえる必要が有りはしないか?

 また、これを説く以前に、佐渡において著作した草木成仏口決において、有情も非情もすべて成仏する論理、すなわち万物が成仏する理論にも触れ、これを前提としているのである。
 次のページでは、これについて述べる。

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