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09:法華経 現代語訳 妙法蓮華経譬諭品第三・ラケットちゃんのホーホケキョウ(3ー3)(2016-04-03投稿)

前記事よりの続きです。
ようやく、譬諭品の終わりの部分に来ました。


 三車火宅の喩えで、釈尊は、現実の、燃え盛る炎の中で苦しむ衆生を救済するために、それまで説いてきた三乗の教えを、羊・鹿・牛の車に喩え、方便の教えであったとしました。
そして、等しく珍宝の大車を与えたことを、等しく、真実の一乗の教えを説くことに喩えられています。



  それに続く今回も、美しい詩で、人類や、個々人のレベル、一切衆生いたるところまで、過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死において、さまざまな不幸や幸福の現象の、因果や輪廻を、明らかにされています。
 これまた一見、恐ろしい存在のように描かれていますが、その張本人の地獄(瞋恚)・餓鬼(貪り)・畜生(愚痴、動物)・修羅に生きる生物(衆生) も、この説法を聞いていて、純真に、自身の真の姿を知り、成仏しようと目指しています。
 そして実際に、これらの衆生も、万物も、法華経を実践すれば成仏すると、 法華経28品全体を通して説かれています。
 あくまで、真意は、万人・一切衆生を成仏へ導くためであり、そのためのひとつの法則であるという観点で理解すべきと思われます。

 三世の生死の真実、自然界の、それぞれの現象が、何の因果に貫かれているか。
とても驚愕すべき内容が、明らかになっています。





汝舎利弗 :汝よ、舎利弗よ。
我此法印 :私の、真実の #法 のしるしは
為欲利益 :世界を利益しようと
世間故説 :欲する故に説くのである。



在所遊方 :ただ遊び戯れるままに
勿妄宣伝 :この法をみだりに宣伝してはならない。

若有聞者 :逆に、もし真剣に聞いて
随喜頂受 :随喜して、かしこまって受けいれる者は
当知是人 :まさに、この人こそ
阿鞞跋致 :凡夫へと戻ることのない、 #菩薩 であると知れ。



若有信受 :もしも、この経法を
此経法者 :信じて受けいれる者は
是人已曾 :この人は既に、かつて、
見過去仏 :過去の仏を仰ぎ見て、
恭敬供養 :恭敬し、供養して
亦聞是法 :この法を聞いてきた者である。



若人有能 :もしも、ある人が、よく
信汝所説 :あなたが説くところを信じたならば、
則為見我 :すなわち、私を見た上に、
亦見於汝 :あなたと
及比丘僧 :比丘僧
竝諸菩薩 :ならびに、多くの菩薩を、見ることとなるのである。



斯法華経 :この #妙法蓮華経 は
為深智説 :智慧の深い者の為に、説くのである
浅識聞之 :智慧の浅いものは、これを聞いて
迷惑不解 :迷い、とまどって、解らないからである。



一切声聞 :一切の声聞
及辟支仏 :及び辟支仏は、
於此教中 :この教の中へは
力所不及 :その智慧が及ばないのである。



汝舎利弗 :汝、 #智慧 第一といわれる #舎利弗 でさえ、
尚於此経 :なお、この経においては
以信入得 : #信 をもってのみ、入ることができたのである。
況余声聞 :まして、それ以下の声聞は、なおさらである。



其余声聞 :その他の声聞も
信仏語故 :仏語を信ずるが故に
随順此経 :この経に随順するのである。
非己智分 :自身の智慧が及ぶところではないからである。







又舎利弗 :又、舎利弗よ
憍慢懈怠 :驕り高ぶり、惰り、怠けて
計我見者 :自我に捉われた主張を、あれこれ振りかざす者には、
莫説此経 :この経を説いてはならない。



凡夫浅識 :凡夫の浅はかな頭は
深著五欲 :深く五欲に執着しているので、
聞不能解 :聞いても理解できないから、
亦勿為説 :この 「 #妙法蓮華経 」 を説いてはならない。



若人不信 :もしも信じないで
毀謗此経 :この「妙法蓮華経」を、悪く謗ったならば
則断一切 :すなわち、すべての世界においての
世間仏種 :仏となる種子(仏性)を、断たれてしまう。



或復顰蹙 :あるいは、顔をしかめ眉をひそめて
而懐疑惑 :疑惑を懐くならば、
汝当聴説 :汝は、まさに
此人罪報 :この人の罪報を、私が説くのを聴きなさい。



若仏在世 :あるいは仏の在世
若滅度後 :あるいは滅度の後に
其有誹謗 :この「妙法蓮華経」を
如斯経典 :誹謗する人がいたならば、



見有読誦 :あるいはこの「妙法蓮華経」を読誦し
書持経者 :書持する人を見て
軽賎憎嫉 :軽んじて賎しめ憎み嫉して
而懐結恨 :長い間の恨みを抱く者がいたならば、



此人罪報 :その人の罪報を
汝今復聴 :汝よ、いま、ちゃんと聴け
其人命終 :その人は、 臨終の後、
入阿鼻獄 :阿鼻地獄に入ることとなる。


具足一劫 :それから、ある、非常に長い年数がたって
劫尽更生 :その期間が終わっても、また阿鼻地獄に生まれる。
如是展転 :このように、阿鼻地獄のなかで廻り廻って
至無数劫 :無限の年数に至ることになる。







従地獄出 :それが終わって、地獄より出たら、
当堕畜生 :次は畜生(動物)に、堕ちることになる。
若狗野干 :畜生道のなかの、犬や野干として生まれたならば、
其形乞痩 :見た目は、色が禿げて、痩せている。
(乞は、元の字である乞+頁のコードがないため乞をあてました)



梨黮疥癩 :黒い疥(ひぜん)や癩(かつたい)という、できものができて、
人所触焼 :人には、もてあそばれ、
又復為人 :または、人に
之所悪賎 :憎まれ、賤しまれ、
常困飢渇 :常に、飢えや渇きに苦しめられて
骨肉枯竭 :骨も肉も、やつれ、つきるであろう。



生受楚毒 :生きては、様々に苦しめられ
死被瓦石 :死ねば、瓦や石を投げつけられるであろう。
断仏種故 :仏となる種を断ずるが故に
受斯罪報 :この罪報を受けることになるのである。



若作馲駝 :若しはらくだに生まれ
或生驢中 :或は、ろばに生まれて
身常負重 :体に常に重い荷物を背負わされ
加諸杖捶 :多くの杖で散々に、たたかれても、



但念水草 :ただ水や草にありつきたいと、
余無所知 :そのことばかりが頭に廻っていて、それ以外は思わない。

謗斯経故 :この経を謗(そし)るが故に
獲罪如是 :このように罪をうけるのである。



有作野干 :あるいは、野干と生まれかわって
来入聚落 :集落にやってきたら
身体疥癩 :身体には疥(ひぜん)や癩(かつたい)という、できものがあって
又無一目 :また、目が片方しかなく、



為諸童子 :多くの子供たちに
之所打擲 :打たれ、しばかれ、
受諸苦痛 :諸々の苦痛を受けて
或時致死 :ある時は死んでしまう。



於此死已 :結局死んでしまった次は
更受蟒身 :蟒(おろち)として生まれ、
其形長大 :その形は長く大きくて
五百由旬 :五百由旬もある。



聾騃無足 :聾(つんぼ)で、愚かで、足がなく
蜿転腹行 :腹ばいで動いていき
為諸小虫 :多くの小虫に
之所唼食 :体中を食いすすられて、



昼夜受苦 :昼も夜も、苦しみを受けて
無有休息 :休息ある間もない。
謗斯経故 :この「妙法蓮華経」を謗るが故に
獲罪如是 :このように報いをうけるのである。







若得為人 :あるいは、人となって生まれてこれても
諸根暗鈍 :多くの素質は、暗く鈍く
矬陋戀躄 :背は低くて、片足を引きずり
盲聾背傴 :盲(めくら)、聾(つんぼ)や、背傴(せむし)である。
(戀は元の字である疒+戀のコードがないため戀をあてました)



有所説言 :主張や説明があっても
人不信受 :人には信じてもらえない。
口気常臭 :口からでる息は、いつも臭くて
鬼魅所著 :鬼魅(おにがみ)に、とりつかれている。



貧窮下賎 :貧乏で、窮して、いやしくて
為人所使 :他人に酷使され
多病痟痩 :多くの病にかかり、やつれて痩せ細り、
無所依怙 :頼るところもない。



雖親附人 :仮に、人に親しくできたとしても
人不在意 :その人は、彼のことなど心においていない。
若有所得 :あるいは、何か得るところがあっても
尋復忘失 :すぐにまた、忘れるか失ってしまう。



若修医道 :もしも、医学を修行して
順方治病 :医学的に、その病を治してやっても
更増他疾 :更に、他の病気が増えたりして
或復致死 :あるいは死んでしまう。



若自有病 :もしも、自身が病気になったら
無人救療 :だれも助けて治療してくれることはなく
設服良薬 :たとえ、良い薬をのんでも
而復増劇 :ますます、病気がひどく悪くなる。



若他反逆 :あるいは、他の人から裏切られ
抄劫窃盗 :かすめ、脅かされ、盗まれる。
如是等罪 :そして、このような行為の罪が
横羅其殃 :逆にも、ふりかかってきて、災難となるであろう。



如斯罪人 :このような、罪の人は
永不見仏 :永く仏や
衆聖之王 :多くの聖者の王の
説法教化 :説法教化しなさるのを、仰ぎ見ることはない。



如斯罪人 :このような罪の人は
常生難所 :常に、仏の説法のとどかない難所に生れ
狂聾心乱 :気違いで、聞く耳がなく、心が乱れているので
永不聞法 :永い間にわたって、「妙法蓮華経」を聞くことがない。



於無数劫 :数えきれない長い年数の
如恒河沙 :ガンジス川の砂の数ほどの、長い長い年月の間
生輒聾唖 :生れては、常に聾唖であって
諸根不具 :多くの素質が具わっていない。



常処地獄 :常に、地獄に落ちていること
如遊園観 :園林や高台で遊ぶようでいて
在余悪道 :その他の悪道に彷徨うことは
如己舎宅 :自分の家にいるようなもののようで、



駝驢猪狗 :駝(らくだ)、驢(ろば)、猪(いのしし)、犬が
是其行処 :このような罪のものが、次に、めぐり廻る姿である。
謗斯経故 :この「妙法蓮華経」を謗るが故に
獲罪如是 :このような報いを受けるのである。







若得為人 :もし、人となって生まれてきても
聾盲瘖唖 :聾(つんぼ)や、盲(めくら)や、瘖唖(おし)であって、
貧窮諸衰 :貧乏で、困窮して、諸々に衰えていることが、
以自荘厳 :その人の「厳かな装飾」である。



水腫乾痟 :水腫(みずぶくれ)、乾痟(しょうかち)
疥癩癰疽 :疥(ひぜん)、癩(かつたい)、癰疽(はれもの)など、
如是等病 :このような皮膚の病が、
以為衣服 :その人の衣服とするように、あまねく発生して



身常臭処 :体は、常に臭いところにいて
垢穢不浄 :けがれて不潔である。
深著我見 :深く、自我の見解に執着して
増益瞋恚 :瞋(いかり)恚(うらみ)を増すばかりである。



淫欲熾盛 :淫欲が盛んであり
不択禽獣 :相手が鳥や獣であっても、かまわない。
謗斯経故 :この「妙法蓮華経」を謗るが故に
罪獲如是 :このように報いをうけるのである。







告舎利弗 :舎利弗に言っておく。
謗斯経者 :この「妙法蓮華経」を謗る者の
若説其罪 :もし、その罪を説こうとすれば
窮劫不尽 :非常に長い年月を窮めても、終わることはない。



以是因縁 :この因縁をもって
我故語汝 :私は、貴方に特別に念を押しておく。
無智人中 :無智の人々の中で
莫説此経 :この「妙法蓮華経」を説くことがあってはならない。



若有利根 :若し気根が優れていて
智慧明了 :智慧が明了であり
多聞強識 :多くを聞いて物覚えが良くて
求仏道者 :仏道を求める者がいたら

如是之人 :そのような人のためにのみ、
乃可為説 :この「妙法蓮華経」を説くべきである。


若人曾見 :もし、ある人が、かつて
億百千仏 :億百千の仏を仰ぎ見て

植諸善本 :多くの善根を植え
深心堅固 :信じる心が深く堅固であるならば
如是之人 :このような人のために
乃可為説 :この「妙法蓮華経」を説くべきである。



若人精進 :もし、ある人が、精進して
常修慈心 :常に慈しむ心を修し
不惜身命 :そのために体や命を惜まないという人がいたら、
乃可為説 :この「妙法蓮華経」を説くべきである。



若人恭敬 :もし、ある人が恭敬して
無有異心 :異なった心がなく
離諸凡愚 :多くの凡夫や愚かなものを離れて
独処山沢 :ひとり山や沢にこもる人がいるならば、
如是之人 :このような人のために
乃可為説 :この「妙法蓮華経」を説くべきである。







又舎利弗 :また、舎利弗よ、
若見有人 :もし、ある人が、
捨悪知識 :悪知識を捨てて
親近善友 :善友に親しく近づく人がいるならば
如是之人 :このような人のために
乃可為説 :この「妙法蓮華経」を説くべきである。



若見仏子 :もしも仏の子で、
持戒清潔 :戒をたもち清潔なること
如浄明珠 :浄らかで明るい宝石のように
求大乗経 :大乗経を求めている人がいれば、
如是之人 :このような人のために
乃可為説 :この「妙法蓮華経」を説くべきである。



若人無瞋 :もし、ある人が瞋(いかり)なく
質直柔軟 :心がすなおで柔軟であって
常愍一切 :常にすべてのものを憐れんで
恭敬諸仏 :諸仏を恭敬する人がいたら
如是之人 :このような人のために
乃可為説 :この「妙法蓮華経」を説くべきである。



復有仏子 :また仏の子が
於大衆中 :大衆の中において
以清浄心 :清浄の心をもって
種種因縁 :種々の因縁や



譬喩言辞 :譬喩、言辞をもって
説法無碍 :自由自在に説法する人がいるならば、
如是之人 :このような人のために
乃可為説 :この「妙法蓮華経」を説くべきである。



若有比丘 :もし、比丘が
為一切智 :一切を知る智慧の為に
四方求法 :四方に法を求めて
合掌頂受 :人々に合掌してありがたく受け



但楽受持 :ただ願って
大乗経典 :大乗経典を受持して
乃至不受 :ないし、
余経一偈 :ほかの経の一言をも用いないひとがいるならば、
如是之人 :このような人のために
乃可為説 :この「妙法蓮華経」を説くべきである。



如人至心 :ある人が真心から
求仏舎利 :仏の遺骨を求めるように
如是求経 :このように法華経を求め
得已頂受 :もらったら有難くいただき、



其人不復 :また、ある人がいて
志求余経 :他の経を求めず
亦未曾念 :また、未だかつて
外道典籍 :仏教以外の典籍を見たいと思わない人がいたならば、
如是之人 :このような人のために
乃可為説 :この「妙法蓮華経」を説くべきである。



告舎利弗 :舎利弗に言っておく。
我説是相 :私は、このように、
求仏道者 :仏道を求める者のあり方を説明すると
窮劫不尽 :非常に長い年月を費やしても尽きないであろう。



如是等人 :このような人は
則能信解 :よく信じて理解するだろう。
汝当為説 :汝は、まさに、このような人のために
妙法華経 :”妙法蓮華経”を説くべきである。」と



・・・・・妙法蓮華経譬諭品第三  終了











 以上のように、譬諭品の後半は、人類や、個々人のレベル、一切衆生いたるところまで、過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死において、さまざまな不幸や幸福の現象の、因果や輪廻を、明らかにされているといえます。



 たとえば下記の太字の部分(私注)は 病気の原因と結末について、私の日常の診療においても、よく遭遇する場面です。



若修医道 :もしも、#医学 を修行して
順方治病 :#医学的 に、その病を治してやっても
更増他疾 :更に、他の病気が増えたりして
或復致死 :あるいは死んでしまう。



若自有病 :もしも、自身が病気になったら
無人救療 :だれも助けて治療してくれることはなく
設服良薬 :たとえ、良い薬をのんでも
而復増劇 :ますます、病気がひどく悪くなる。

 





 とりわけ、次の太字の部分(私注)は、日蓮大聖人が、謗法・不信の者の因果を著す際に、根拠として、しばしば引用されています。



則断一切 :すなわち、すべての世界においての
世間仏種 :仏となる種子(仏性)を、断たれてしまう。

其人命終 :その人は、臨終の後、
入阿鼻獄 :阿鼻地獄に入ることとなる。


とても参考になるばかりか、注意を要すると思います。



 不幸の因果だけでなく、幸福の因果も、法華経には、いたるところに記載されています。
たとえば、法華経普賢菩薩勧発品第二十八には、法華経をたもつ人は、



是人命終:その人が臨終を迎えたら、
為千仏授手:千仏の手を授けて、
令不恐怖:恐怖の思いをさせず、
不堕悪趣:悪趣に堕ちないようにしむける



と、記載されています。




 法華経は、釈尊の時代においては、一切衆生を救済するための、真意・結論の教えなのでした。
 現在の末法において、釈尊の教え(法華経も含む)が効力を失った後、日蓮大聖人が、万人を救済する仏法を確立されました。
 末法に於いて余経も法華経も詮なし ただ南無妙法蓮華経なるべし・・・と仰せのように、
現在、末法においては、日蓮大聖人が、即身成仏(即、あるがままで成仏する)の方法を明かされています。
それが、三大秘法の南無妙法蓮華経なのです。



 最後に、日蓮大聖人が、上記の部分を引用され、臨終の大切さ、生命の因果とともに、信心の血脈、あるべき姿勢を、わかりやすく説かれたお手紙に、生死一大事血脈抄を、参照いたします。







・・・・・(生死一大事血脈抄、日蓮大聖人御書全集より、抜粋、段落ごとに、私風現代語訳をつけました)



御状委細披見せしめ候い畢んぬ、
夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、
其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて
此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり、



御手紙を詳しく拝見しました。
お尋ねの、生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経のことです。
その理由は、この妙法蓮華経の五字は、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で、上行菩薩にお譲りになったのであり、
過去遠々劫以来、寸時も離れることのなかった、「血脈」の法であるからです。



(中略)



然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、
所詮臨終只今にありと解りて信心を致して 南無妙法蓮華経と唱うる人を
「是人命終為千仏授手・ 令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、
悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し、
法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん浅まし浅まし
十王は裁断し倶生神は呵責せんか



このように、十界の当体が「妙法蓮華経」であるから、仏界の象徴である「久遠実成の釈尊」と、「皆成仏道の妙法蓮華経」と、我ら九界の「衆生」は、「全く差別がない」と信解して、「妙法蓮華経と唱えたてまつる」ところを、生死一大事の血脈というのです。
このことは、日蓮が弟子檀那等の肝要です。法華経を持つとは、このことをいうのです。
所詮、臨終は只今にありと覚悟して信心に励み、南無妙法蓮華経と唱える人を、法華経普賢菩薩勧発品第二十八には、「その人が臨終を迎えたら、千仏の手を授けて、恐怖の思いをさせず、悪趣に堕ちないようにしむける」と説かれています。
喜ばしいことに、一仏二仏ではなく、また百仏二百仏でなく、千仏までも来迎し、手を取ってくださるとは、歓喜の涙を押えがたいことです。
これに対し、法華経を信じない者は、法華経譬喩品第三に、「其の人は命終わって、阿鼻地獄に入るであろう」と説かれているから、獄卒が迎えにきて、その手を取ることが決まっています。あさましいことです、あさましいことです。

このような人は、死後、十王にその罪を裁断され、倶生神に呵責されるにちがいない。






今日蓮が弟子檀那等.南無妙法蓮華経と唱えん程の者は・千仏の手を授け給はん事.譬えばウリ夕顔の手を出すが如くと思し食せ、



今、日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱える者に、千仏が御手を授けて迎えてくださる有様は、例えば瓜や夕顔の蔓が幾重にもからんで伸びるようなものだと思いなさい。







過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す、 未来に仏果を成就せん事疑有るべからず、
過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり、
謗法不信の者は「即断一切世間仏種」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり。



過去世において、強盛に法華経に結縁していたので、今生において、この経に値うことができたのです。
未来世において仏果を成就することは疑いありません。
過去、現在、未来と三世の生死において、法華経から離れないことを法華経の血脈相承というのです。
謗法不信の者は、法華経譬喩品第三に、「すなわち、一切世間の仏種を断じてしまう」と説かれていて、成仏すべき仏種を断絶するがゆえに、生死一大事の血脈はないのです。



(中略)



相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、
生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、
煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、
信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、
委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。
文永九年壬申二月十一日 桑門 日蓮花押
最蓮房上人御返事



心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念してください。
生死一大事の血脈を、このことのほかには、絶対に求めてはなりません。
煩悩即菩提、生死即涅槃とは、このことなのです。
信心の血脈がなければ、法華経を持っても無益です。
詳しくはまた申し上げます。恐恐謹言。
文永九年壬申二月十一日 桑門 日蓮 花押
最蓮房上人御返事

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