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07:法華経 現代語訳 妙法蓮華経譬諭品第三・ラケットちゃんの ホーホケキョウ(3)(2016-03-27投稿)

釈尊の偉大な教えは、美しい「詩」のなかに要約されています。



 これまでを振り返ると、序品では、霊鷲山で、釈尊の法を聞くために、集まった人たち、っていうか、一切衆生というか、その諸々を詳しく紹介されます。
 釈尊が、無量義処三昧(無上の教えの基礎に心を専念する瞑想の境地)に入って瞑想し、白毫相(巻き毛)から光を放って、東方の一万八千の世界(宇宙)をすみからすみまで照らして明らかにされ、一切衆生が、いまだかってない感動・歓喜をおぼえたあと、文殊菩薩と弥勒菩薩が、自分たちの過去世の因縁とともに、これから無上の法が説かれるであろうことを予告されました。

 法を聞く人たちは、生物・無生物のすべてとともに、日天(太陽)、月天(月)などの天体や、諸天善神(大自然のよい働き)、鬼神(雷や地震などの天災を起こして自然を循環させる働き)など、この宇宙に存在するすべてのものが勢ぞろいしています。
 現代物理学の知見をもってしても計り知れない壮大な壮大な物語が、法華経なのです。
 明らかにされた世界は、このビッグバンの宇宙を遥かに越えた一万八千の世界と表され、いま私たちの住む地球や宇宙以外にも、文化的生物が存在し、過去世から未来世まで、永遠に消滅生成をくりかえしながら続いていくことを示されています。
 西洋の合理主義に慣れた知識では、とうてい信じがたく受け入れられない内容だから、この法華経は、難信難解と、そのなかにもちゃんと記されています。
 釈尊は、まさに、宇宙一切のものや働き=一切衆生に向かって、法を説いたのです。


詳細は下記ブログをご参照ください。

法華経 現代語訳(1)、妙法蓮華経序品第一・ラケットちゃんのホーホケキョウ(私風現代語訳)



 次に、方便品では、釈尊は、瞑想から出て、集まった人たちのなかの、舎利弗に語りかけ、それまで明らかにしなかった、「仏」の偉大さを賞讃します。
 舎利弗は、3回にわたって教えを請い、釈尊がそれに応えて説こうとしたところ、5千人の増上慢(おもいあがりの者)が退席します。
 残った、純粋な衆生に対し、いよいよ釈尊は、この世に出現した理由を明らかにします。
 それは、すべての衆生を「仏」にする=「成仏」させることにありました。
 これを唯一の重大な事業(一大事因縁)といいます。
それまで、教えてきた法と、これから説く法華経を対比させ、これから説く法華経こそ、真実で唯一の法則であることを明かします。
 それまで、六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天界のなかでの輪廻)から脱してついてきた、声聞・縁覚・菩薩(3つあわせて三乗という)たちに対して、釈尊は、三種類の教え(三乗という)を説いてきました。
 この三種類の教えは、あくまで一時的なものであり(三乗方便という)、法華経で説かれる唯一の教え(一乗)のみが真実であると明かしました(一乗真実という)。


詳細は下記ブログをご参照ください。
法華経 現代語訳(2-1)、妙法蓮華経方便品第二前半・ラケットちゃんのホーホケキョウ

法華経 現代語訳(2-2)、妙法蓮華経方便品第二後半・ラケットちゃんのホーホケキョウ



 そして、今回の譬諭品では、舎利弗は釈尊の教えを理解し、大歓喜を懐き、釈尊から成仏の予言を受けます。
 しかし、教えを理解できたのは舎利弗だけだったので、その他の人のために、三乗方便・一乗真実を、もっと分かり易く説いてくださいと願いました。
 これに応じて釈尊は「三車火宅の譬え」を説きました。







 末法に至って、仏という生命も、実は、すべての生命に具わっていること・・・これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫というと、日蓮大聖人は明かされています。
 私たちひとりひとりの生命に仏が具わっているということから考えると、私たちひとりひとりが、この世に生まれてきた目的や意味は、自身も含めてすべての衆生を「成仏」させるという、唯一の重大な事業(一大事因縁)のためなのではないでしょうか。
 その、仏の生命について、釈尊が、自身を通して説き始めた部分です。



 むろん、舎利弗が、釈尊から成仏の予言を受けたといっても、それは「無量無辺で不可思議である非常に多数の劫を過ぎた後、若干千万億の仏を供養し終わって、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、
確実に仏となるであろう。」ですから、結局は、果てしない未来世です。
 地球の寿命(あと50億年程)はおろか、このビッグバン宇宙でさえも、寿命を終えた後の、まだ未来のことでしょう。
 釈尊在世の衆生の成仏といっても、こんな具合です。
 まあ、この時点では、舎利弗をはじめとする一切衆生は、成仏できないとなっていました。
 そして、三世の生命が「永遠」に続くことが分かれば、このような不可思議である期間でも、一瞬のように捉えることもできますから、確実に、未来のある時点に成仏するということで、それ自体が大歓喜なのです。



 一切衆生の生命が三世にわたって「永遠」に続くことは、この後の、如来寿量品第十六で粗方説かれていて、これを一切衆生が成仏できるように、法則と方法を明確に顕されたのが日蓮大聖人なのです。

 「無量無辺で不可思議である非常に多数の劫」であっても、無限大の未来に比べたら一瞬の間となります。
 また、このビッグバン宇宙の年齢も138億年ほどですが、無限大の過去に対しては、ほんの一瞬となります。
 私たちがせいぜい長生きしても120年で、またまた一瞬の刹那となります。
 ただ、私の命もあなたの命も、世界中の生物(=一切衆生)も、無限大の過去から、無限大の宇宙の無限大の惑星において、生滅・生滅を繰り返して、現在の結果があるのです。
 これから先も、無限大の未来に渡って、生滅を繰り返して続いていくのです。
 そのなかで、いかなる生、いかなる死、いかなる生滅を営むかが、問われているのではないでしょうか。

 そもそも最先端物理学の見解でも、光よりも高速で移動する物体は、観測できません。
つまり、膨大な、観測できない範囲が、不可思議な領域が存在するわけです。
 このビッグバン宇宙の始まる前も、観測できません。
 その範囲も包含して、因果の法則を透徹したのが、日蓮大聖人の仏法なのです。



 末法に於いて余経も法華経も詮なし ただ南無妙法蓮華経なるべし・・・と仰せのように、
現在、末法においては、日蓮大聖人が、即身成仏(即、あるがままで成仏する)の方法を明かされています。
 それが、三大秘法の南無妙法蓮華経なのです。

 この観点から、法華経を読んでいくことが大切です。
 むろん、法華経は、日蓮大聖人の教えが真実であることの証明になっています。
 譬諭品は、まさに、仏も含めた「生命」の様相を、釈尊が具体的に分かりやすく説明し始めた部分でしょう。



 前置きが長くなてしまいましたが、某年某日、登山したときの画像を挿絵にして、アップいたします。


 法華経の、「偈」の部分は、美しい「詩」です
だから、「偈」の部分は、詩の形式にして、一部は、意味をとって、あえて現代風仮名遣いにしました。







 妙法蓮華経譬諭品第三・・・・・・・



 爾の時に舎利弗は、直ちに立ち躍り上がって歓喜し、合掌して、世尊のお顔を仰ぎ見て言いました。
 「今、世尊より此の法のお言葉を聞いて、心が躍り上がり、いまだかつてないものを得ました。
 なぜかと申しますと、私が昔、仏よりこのような法を聞き、諸の菩薩が未来に仏になるという予言や、実際に仏になるのを見ましたが、残念ながら私たちはこのことに関係できませんでしたので、甚だ自ら如来の無量の知見を失格していることに、たいそう悩み苦しみました。
 世尊よ、私は、常に、ひとり山林や樹下にいて、もしくは座禅して、もしくは歩きまわって、こんな思いにかられていました。
 私たちも菩薩と同じく法の本質に入っていたのに、どうして如来は(大乗ではなく)小乗の法で済度してくださったのかと。
 これは私たちの咎で、、世尊の咎ではございません。
 なぜかと申しますと、阿耨多羅三藐三菩提(無上の完全な悟り)を成就する原因を説きなさるを、もし私たちが、お待ちしていたなら、必ず大乗の法をもって度脱させらることができたでありましょう。
 なのに私たちは、それぞれのレベルに応じた方便随宜の教えであることを解らずして、初め仏の法を聞いてすぐにそのまま鵜呑みに信受し、これだと思惟して低い悟りをとってしまったのです。
 世尊よ、私は昔より以来、昼夜終日休まず常に自責の念にかられていました。
ところが今、仏より、未だかつてお聞きしなかった未曾有の法を聞いて、諸の疑や悔いがなきなり、身も心も泰然として快く安穏となりました。
 今日はじめて、私たちも真に仏子であって、仏の口より生じ、法化より生じて、仏法の一部分を得られたと分かりました。


 時に舎利弗は、重ねてこの意義を宣べようとして、偈の形式で言った。







我聞是法音 :私は、この法のお声を聞いて
得所未曾有 :未曾有なることを得て
心懐大歓喜 :心に大歓喜を懐き
疑網皆已除 :疑網は皆、なくなりました。



昔来蒙仏教 :昔より仏教を教わり、
不失於大乗 :大乗を失わず
仏音甚希有 :仏のお声は甚だ希であり、
能除衆生悩 :よく衆生の悩みを除きなさりました。



我已得漏尽 :私は既に煩悩の穢れを無くすることができましたし、
聞亦除憂悩 :教えを聞いて憂い悩みもなくなりました。

我処於山谷 :私は山の谷間にいて
或在林樹下 :あるいは林の樹の下にいて



若坐若経行 :もしくは坐しもしくは歩き回って
常思惟是事 :常に次のことを考え、
鳴呼深自責 :嘆いて深く自らを責めていました

云何而自欺 :どうして、自ら考え違いをしたのかと



我等亦仏子 :私たちもまた仏の子であり
同入無漏法 :同じく穢れない法に入ったけれど
不能於未来 :未来に於て
演説無上道 :無上道を演説することができません



金色三十二 :金色の体と三十二相と
十力諸解脱 :十力と諸の解脱は、大乗の仏が備えていて、
同共一法中 :同じく共に一法の中にあるのに
而不得此事 :私たちは、これらが得られません。



八十種妙好 :八十種の優れた姿や
十八不共法 :仏独自の十八の特質や
如是等功徳 :これらのような功徳は、大乗の仏にはあるのに
而我皆已失 :私たちは、これらを失っています。



我独経行時 :私が一人、歩きめぐっていた時
見仏在大衆 :仏は、大勢のなかにいらして
名聞満十方 :名声が広く十方に満ち
広饒益衆生 :広く衆生を利益しなさるのを見ました。



自惟失此利 :自ら思うと、これらを失ったのは
我為自欺誑 :自ら考え違いをしていたからではないかと。
我常於日夜 :私は常に昼夜に
毎思惟是事 :毎日毎日このことばかり考え、

欲以問世尊 :世尊にお尋ねしたく存じます。


為失為不失 :私は失格でしょうか、失格ではないでしょうか。
我常見世尊 :私は、常に世尊が
称讃諸菩薩 :諸の菩薩を称讃しなさるのを拝見して、

以是於日夜 :このことで昼夜に
籌量如此事 :あれやこれやと考えこんでいました。


今聞仏音声 :今仏のお声をお聞きいたしますと
随宜而説法 :聞く人のそれぞれのレベルにふさわしい法を説きなさっていらっしゃいます。

無漏難思議 :穢れのない有様は思議困難なため、
令衆至道場 :大勢で道場にやってきました。


我本著邪見 :私は元々、邪見に執着して
為諸梵志師 :諸のバラモンの指導者でした。
世尊知我心 :世尊は、私の心を見抜いて
邪抜説涅槃 :間違いを取り除き涅槃を説きなさりました


我悉除邪見 :私は自らの邪見をことごとくとり除いて
於空法得証 :空の法に於て悟りを得ました。

爾時心自謂 :その時は、心では自ら、
得至於滅度 :真の涅槃(悟り)を得たと思いました。



而今乃自覚 :しかし、今あらためて自ら分かりました。
非是実滅度 :これは真の涅槃(悟り)ではなかった。

若得作仏時 :もし仏となった時には
具三十二相 :三十二相を具し
天人夜叉衆 :天、人々、夜叉衆や
龍神等恭敬 :龍神等が恭しく尊敬するでしょう



是時乃可謂 :その時は思うでしょう
永尽滅無余 :すべてが永く滅し尽くして真の涅槃に入り余なしと
仏於大衆中 :仏は大衆の中で
説我当作仏 :私が必ず仏となるであろうと説きなさりました。



聞如是法音 :このような法のお声を拝聴し、
疑悔悉已除 :疑も悔いも悉く既になくなりました。
初聞仏所説 :初めの仏の所説を聞いた時は、正直いって、
心中大驚疑 :心中おおいに驚き疑いました。



将非魔作仏 :これは悪魔が仏の姿をして
悩乱我心耶 :私の心を攪乱しているのではないかと。
仏以種種縁 :仏は種々の縁や
譬喩巧言説 :譬喩を使って巧みにお説きになりました。



其心安如海 :その心の安らかなことは海のようで、
我聞疑網断 :わたしはお聞きして疑はすべてなくなりました。


仏説過去世 :仏は、説かれました。「過去世の
無量滅度仏 :無量の滅度の仏も

安住方便中 :方便の中に安住して
亦皆説是法 :皆この法を説かれた。


現在未来仏 :現在や未来の仏も
其数無有量 :計り知れない数がいるが、

亦以諸方便 :また諸の方便を使って
演説如是法 :このような法を演説しなさるであろう。」と。


如今者世尊 :今の世尊も、同様に、
従生及出家 :ご誕生から出家し

得道転法輪 :得道し法輪を転じなさるまで、
亦以方便説 :また方便を使って説きなさるのでしょう。


世尊説実道 :世尊は真実の道を説きなさるけれども、
波旬無此事 :波旬(悪魔の王)はこの事はありません。

以是我定知 :これで私ははっきり分かりました。
非是魔作仏 :これは悪魔が仏となったのではないと。


我堕疑網故 :私が疑の網に堕落したが故に
謂是魔所為 :これが悪魔のしわざと思ったのであると。



聞仏柔軟音 :仏の柔軟のお声は
深遠甚微妙 :奥深く精密・緻密で
演暢清浄法 :清浄の法を演説されたのをお聞きして
我心大歓喜 :私の心はおおいに歓喜し

疑悔永已尽 :疑も悔いも永くすでになくなり
安住実智中 :真実の智慧の中に安住しました。


我定当作仏 :私はきっと仏と成って、
為天人所敬 :天や人々から尊敬され

転無上法輪 :無上の法輪を転じて
教化諸菩薩 :諸の菩薩を教化いたします。







 その時に仏、舎利弗に告げなさった。
 私は、今、天・人・沙門・婆羅門等の大衆の中で説きましょう。
 私が昔かつて二万億の仏の所で、無上道(最高の仏道)の為の故に常にあなたを教化した。
 あなたはまた、長夜に我に随って教えを学んだ。
 あなたは、私が方便をもって引導する故に、私の法の中に生まれた。

 舎利弗よ、私は昔あなたに仏道を志願させました。
 あなたは今悉くそれを忘れて、自ら既に最高の悟りを得たと思い込んでいる。
 私は今、あなたに、昔に戻って仏の本願所行の道を思い出させようと思ったので、多くの声聞の為にこの大乗経である「妙法蓮華経」を説く。
 これは菩薩を教える法で、仏に護り念ぜられる法と名づけられている。



 舎利弗よ、あなたは未来世に、無量無辺で不可思議である非常に多数の劫を過ぎた後、若干千万億の仏を供養し終わって、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、
確実に仏となるであろう。

 名前は華光如来といって、応供(聖者)・正遍知(完全無欠の仏陀)・明行足(明らかな智慧と行動を行う者)・善逝(行動の正しい者)・世間解(世界中を知り尽くしている者)・無上士(最高の尊者)・調御丈夫(人間の指導者)・天人師(天と人間の師匠)・仏・世尊といい、国を離垢と名づけよう。
 その国土は平坦、正常で、清浄で、厳かに飾られ、安穏で豊かで楽しくて天や人々は大いに元気でさかんであろう。
 地面は瑠璃でできていて、八つの方向に交わる道がある。
 黄金を縄となしてそのあたり一帯を界として、その傍に各々七宝の並木が立って、常に花が咲き果実が実っている。
 華光如来は、また、三乗をもって衆生を教化するであろう。
 舎利弗よ、その仏(華光如来)が出現される時は悪世ではないけれども、元来もっている誓願にしたがって三乗の法を説かれるであろう。

 そして、その世界のつづく劫(非常に長い期間)を大宝荘厳と名づけよう。
 どうして名づけて大宝荘厳というかといえば、その国の中では菩薩を大いなる宝とするからである。

 その国の多くの菩薩は、無量無辺不可思議の数に達して、算数も譬喩も及ぶことができない。
 仏の智力でなければ知ることができない。
 菩薩が行こうとする時は必ず宝の華が、菩薩の足を受け止めて運ぶ。
 この多くの菩薩は、初めて決意したのではなくて、皆久しく徳の本を植えて、計り知れない百千万億の仏の所で浄く純潔の修行を行い、常に諸仏に称歎せられ、常に仏の智慧を修行し大神通力を具し、善く一切諸法の法門を知り、真っ直ぐな性格で偽ることがなく、その志念は堅固である。
 このような菩薩が国中にあふれているだろう。
 舎利弗よ、華光仏は寿命は十二小劫であろう。ただし王子と生まれて未だ仏となっていない時を除く。
 その国の人民は寿命は八小劫であろう。


 華光如来は十二小劫を過ぎてから、堅満菩薩に、未来には必ず阿耨多羅三藐三菩提(無上の完全な悟り)を得るという予言を授け、諸の比丘に告げるでしょう。
 「この堅満菩薩は次に必ず仏になる。名前は華足安行如来、多陀阿伽度・阿羅訶(聖者)・三藐三仏陀(完全な悟りのブッダ)というだろう。
 その仏の国土もまた、同様であろう。」と。

 舎利弗よ、この華光仏の滅度の後、正法(正しい法)が世界にとどまる期間は三十二小劫、像法(正しい法に似た法)が世界にとどまる期間はまた三十二小劫であろう。







その時に世尊、重ねてこの意義を宣べようとして、偈の形式で言った。


舎利弗来世 :舎利弗よ、貴方は来世に
成仏普智尊 :仏、あまねく智慧のある世尊と成って
号名曰華光 :名前を名けて華光といい、
当度無量衆 :必ず無量の衆を済度するだろう。



供養無数仏 :無数の仏を供養し
具足菩薩行 :菩薩の行
十力等功徳 :十力等の功徳を具足して
証於無上道 :無上道を悟るであろう。



過無量劫已 :未来に無量の劫が過ぎ去った後で、
劫名大宝厳 :その仏の劫を大宝厳と名づけ
世界名離垢 :仏の世界を離垢と名づけよう。


清浄無瑕穢 :清浄にして穢れも傷もなく

以瑠璃為地 :大地は瑠璃で、できていて
金縄界其道 :道の境界は黄金の縄で区切られ、
七宝雑色樹 :七種の宝石の色とりどりの樹木には
常有華果実 :常に花が咲き果実が実っている。



彼国諸菩薩 :その国の諸の菩薩は
志念常堅固 :志念が常に堅固であって
神通波羅蜜 :神通や波羅蜜も
皆已悉具足 :皆既に悉く具足し

於無数仏所 :無数の仏の所で
善学菩薩道 :よく菩薩の道を学んでいる。



如是等大士 :このような菩薩たちは
華光仏所化 :華光仏に教化されるであろう。

仏為王子時 :仏は、昔、王子であった時
棄国捨世栄 :国を棄てて、世の栄誉を捨てて
於最末後身 :最後の身体ひとつで
出家成仏道 :出家して仏道を成就するであろう。



華光仏住世 :華光仏が世界に住する
寿十二小劫 :寿命は十二小劫
其国人民衆 :その国の人民衆の
寿命八小劫 :寿命は八小劫であろう



仏滅度之後 :仏の滅度の後、
正法住於世 :正法が世に流布する期間は
三十二小劫 :三十二小劫あり、
広度諸衆生 :広く諸の衆生を済度する。



正法滅尽已 :正法が過ぎ去って
像法三十二 :次に像法が三十二小劫あり、
舎利広流布 :舎利が広く流布して
天人普供養 :天や人々が普く供養する。



華光仏所為 :華光仏のなすところ、
其事皆如是 :その事績は、皆このようである。
其両足聖尊 :その両足聖尊(智慧と慈悲を備えた最高の尊者)は
最勝無倫匹 :最も勝れていて匹敵するものがいないだろう。

彼即是汝身 :彼(華光仏)が即ちこれあなたの身である。
宜応自欣慶 :よくまさに自ら喜びなさい。



 爾の時に四部の衆・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩・羅伽等の大衆は、舎利弗が、仏前において阿耨多羅三藐三菩提(無上の完全な悟り)を得るであろうという予言を受けるのを見て、心が大いに歓喜し踊躍すること限りがなかった。
 各々に身につけていた上衣を脱いで仏に供養しました。
天の王である帝釈(インドラー)や梵天王(ブラフマー)、その他無数の天子は、天のすばらしい衣服・天の曼陀羅華・摩訶曼陀羅華等をもって仏に供養しました。
 その敷き散らされた天の衣は虚空の中にとどまって自らぐるぐる廻転した。
 多くの天は、百千万種の伎楽を、虚空の中において一時に共に演奏し、広大な天の華の雨をふらしてこのように言いました。
 「仏は昔、波羅奈において初めて法輪を転じ、今はすなわちまた、無上最大の法輪を転じたもう。」
(****法輪を転じる=角のない丸い(よくいきわたる)輪のような法則を、輪を転がすように(すばらしくスムーズに)説く)







 その時、多くの天子は重ねてこの意義を宣べようとして、偈の形式で言った。



昔於波羅奈 :昔、波羅奈において
転四諦法輪 :四諦の法輪を転じ
分別説諸法 :分別して諸法の
五衆之生滅 :五衆の生滅(五蘊仮和合)を説き

今復転最妙 :今は、また最妙の
無上大法輪 :無上の大法輪を転じなされた。


是法甚深奥 :その法は、はなはだ奥深くて
少有能信者 :よく信じることができる者は稀であります。

我等従昔来 :私たちは昔より以来
数聞世尊説 :しばしば世尊の説をお聞きしましたが、
未曾聞如是 :未だかつてこのような
深妙之上法 :深妙の上法をお聞きしたことがございません



世尊説是法 :世尊は是の法を説きなさったので
我等皆随喜 :私たちは皆喜びいっぱいです。
大智舎利弗 :偉大な智慧者の舎利弗は、
今得受尊記 :今、世尊の記別を受けることができた。



我等亦如是 :私たちもまた、このように、
必当得作仏 :必ず、まさに仏と成って
於一切世間 :一切世間において
最尊無有上 :最も尊く、この上なきものとなることができますように



仏道叵思議 :仏道は、普通では思議し難いので
方便随宜説 :方便としてレベルに応じて説きなさりました。
我所有福業 :私が持っている福業の
今世若過世 :今世、もしくは過世のもの、

及見仏功徳 :及び、仏を拝見できた功徳のすべてを
尽廻向仏道 :ことごとく仏道に廻し向けて、めざしましょう。



 その時、舎利弗は、仏に申し上げて言った。
「世尊よ、私は、いままた疑いも悔いもなく、親しく仏前において阿耨多羅三藐三菩提(無上の完全な悟り)を得るという予言を承ることができました。
ところが、この諸々の千二百の、心が自在である聖者(もはや学ぶべき必要のない完成者)たちが、昔、学んでいたときに、仏は、その時に限り、常に教化してこのようにおっしゃっていました。
「私の説く法は、よく生・老・病・死を離れさせて、究極には安らかな涅槃に至る。」と。
だから、この学(学ぶべき必要のある修行者)と、無学の人(もはや学ぶべき必要のない完成者)も、各自ら、単に、「自我に執着する見解や有無に執着する見解等から離れていること」をもって、「涅槃を得た」と思い込んでいます。
 だから今、世尊の前で、未だ聞かざる事を聞いて、皆、疑惑に堕ち込んでいます。



 世尊よ、いい機会でございます。
どうか願わくは、四衆の為に、この因縁を説いて、疑いや悔いから離れさせることができますように。」







 その時、仏は、舎利弗に告げて言いました。
 「私は、先に諸仏世尊の種々の因縁・譬喩・言辞をもって方便して法を説きましたが、これは皆、阿耨多羅三藐三菩提の為であると言わなかったか?。(たしか、言ったはずである。)
 この諸の所説は皆、菩薩を導く為の故である。
 しかし、舎利弗よ、今あらためて、譬喩をもって更にこの意義を明らかにしよう。
 諸の智慧ある者は、譬喩をもって理解できるからである。


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