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04:法華経 現代語訳 妙法蓮華経序品第一・ラケットちゃんのホーホケキョウ(1)(私風現代語訳)(2015-11-05投稿)

その駆け初め、序品の私風訳ができました。

場面は、釈尊が、霊鷲山(訳の中では耆闍崛山(ぎしゃくつせん))において、法を聞くために、集まった人たち、っていうか、一切衆生というか、その諸々を詳しく紹介されます。
釈尊が、無量義処三昧(無上の教えの基礎に心を専念する瞑想の境地)に入って瞑想し、白毫相(巻き毛)から光を放って、東方の一万八千の世界(宇宙)をすみからすみまで照らして明らかにされ、一切衆生が、いまだかってない感動・歓喜をおぼえたあと、文殊菩薩と弥勒菩薩が、自分たちの過去世の因縁とともに、これから無上の法が説かれるであろうことを予告される部分です。

法を聞く人たちは、生物・無生物のすべてとともに、日天(太陽)、月天(月)などの天体や、諸天善神(大自然のよい働き)、鬼神(雷や地震などの天災を起こして自然を循環させる働き)など、この宇宙に存在するすべてのものが勢ぞろいしています。
現代物理学の知見をもってしても計り知れない壮大な壮大な物語が、これから展開される、序章なのです。
明らかにされた世界は、このビッグバンの宇宙を遥かに越えた一万八千の世界と表され、いま私たちの住む地球や宇宙以外にも、文化的生物が存在し、過去世から未来世まで、永遠に消滅生成をくりかえしながら続いていくことを示されています。
西洋の合理主義に慣れた知識では、とうてい信じがたく受け入れられない内容だから、この法華経は、難信難解と、そのなかにもちゃんと記されています。
釈尊は、まさに、宇宙一切のものや働き=一切衆生に向かって、法を説いたのです。



妙法蓮華経序品第一

私たちは、このように聞きました。
一時、仏は王者城の耆闍崛山(ぎしゃくつせん)の中にお住まいであり、大比丘衆一万二千人と一緒であられました。
その人たちは、皆、阿羅漢(聖者)でした。
皆、多くの迷いや煩悩による穢れがなくなり、加えて煩悩そのものがなく、自己の修行の目的を完遂し、多くの束縛を断ち切り尽くして、心は自由自在であって、いつでも涅槃(絶対的な平安)に入れる状態でした。
その名前は、阿若憍陳如(あにゃきょうじんにょ)、摩訶迦葉(まかかしょう)、優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう)、那提迦葉(なだいかしょう)、舎利弗(しゃりほつ)、大目揵連(だいもっけんれん)、摩訶迦旃延(まかかせんねん)、阿ぬ楼駄(あぬるだ)、劫賓那(こうひんな)、憍梵波提(きょうぼんばだい)、離婆多(りばだ)、畢陵伽婆蹉(ひつりょうがばしゃ)、薄拘羅(はくら)、摩訶拘絺羅(まかくちら)、難陀(なんだ)、孫陀羅難陀(そんだらなんだ)、富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)、須菩提(しゅぼだい)、阿難(あなん)、羅睺羅(らごら)という。
皆、人々に知られた大阿羅漢たちなどでした。

また、まだ修行中の者と、すでに修行を完了した者とが二千人いた。
釈尊の生母の妹で養母の摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)は六千人の眷属(けんぞく=付き従う者)とともにいました。
釈尊の息子:羅睺羅(らごら)の母(出家前の妻):耶輸陀羅比丘尼(やしゃだらびくに)も、眷属とともにいました。

菩薩も八万人いて、みんな阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい=無上の正しい真実の悟り)を得ようと志し、退転しない堅い決意がありました。
そして、陀羅尼(だらに=超記憶力で法を心に暗記していること)を得て、巧みな弁説でした。
不退転の(退くことのない)法輪を転じ(輪に喩えられる経法を説き)、かつて、無量百千の諸仏につき従い、諸仏のもとで多くの善の美徳の根本を植え育てて、常に諸仏に称歎せられていて、慈を以て身を修め、十分に仏の智慧に入り、偉大な智慧に通達して、彼岸(悟りの境地)に到り、その名称は普く無量の世界にひろがっていて、能く無数百千の衆生(生き物)を済度していました。
その名前は、文殊師利菩薩・観世音菩薩・得大勢菩薩・常精進菩薩・不休息菩薩・宝掌菩薩・薬王菩薩・勇施菩薩・宝月菩薩・月光菩薩・満月菩薩・大力菩薩・無量力菩薩・越三界菩薩・陀婆羅菩薩・弥勒菩薩・宝積菩薩・導師菩薩といいました。
このような菩薩摩訶薩八万人が、一緒に連なっていました。

その時、釈提桓因(しゃくだいかんにん=帝釈天=インドラ神)も、その眷属二万の天子と一緒でした。
また、名月天子(みょうがつてんし=月天(月))・普香天子(ふこうてんし=明星天(金星))・宝光天子(ほうこうてんし=日天(太陽))・四大天王(しだいてんのう=四方を守る護法神、東方は持国天(じこくてん)、南方:増長天(ぞうじようてん)、西方:広目天(こうもくてん)、北方:多聞天(たもんてん)=毘沙門天(びしやもんてん))もいました。それら眷属も一万の天子が一緒でした。
自在天子・大自在天子(じざいてんし・だいじざいてんし=シバ神、世界を創造し支配する最高神=ヒンドゥー教でのシヴァ神、自在天(イーシヴァラ))は、その眷属三万の天子とと一緒でした。
娑婆世界の主梵天王(しゅぼんてんのう=ブラフマン、ヒンドゥー教の主神の一つ。)・尸棄大梵(しぎだいぼん=大梵天)・光明大梵(こうみょうだいぼん=大梵天)等は、その眷属一万二千の天子と一緒でした。

また、八つの龍王(りゅうおう=蛇の形をした鬼類(=動物)である龍の王様)がいました。
難陀龍王・跋難陀龍王・娑伽羅龍王・和修吉龍王・徳叉迦龍王・阿那婆達多龍王・摩那斯龍王・優鉢羅龍王などでした。
各々、若干百千万の眷属と一緒でした。

また、四つの緊那羅王(きんならおう=半人半鳥または半人半馬の姿をした天界の楽師、仏法を守護する神の王様)がいました。
法緊那羅王・妙法緊那羅王・大法緊那羅王・持法緊那羅王でした。
各々、若干百千の眷属と一緒でした。

また、四人の乾闥婆王(けんだつばおう=仏法の守護神、緊那羅と共に帝釈天に仕える楽神の王様)がいました。
楽乾闥婆王・楽音乾闥婆王・美乾闥婆王・美音乾闥婆王でした。
各々、若干百千の眷属と一緒でした。

また、四つの阿修羅王(あしゅらおう=天に敵対し乱暴で闘争を好む鬼神=阿修羅の、王様)がいました。
大威徳迦楼羅王・大身迦楼羅王・大満迦楼羅王・如意迦楼羅王でした。
各々、若干百千の眷属と一緒でした。

韋提希(いだいけ)の子である阿闍世王も、若干、百千の眷属と一緒でした。
各々、仏の御足に頭をつけて礼し、退いて一面に坐っていました。



その時、世尊は、四衆(出家の男女、在家の男女)にとりかこまれて、供養・恭敬・尊重・讃歎され、
諸の菩薩の為に大乗経の無量義(無限の深い内容をもつ)を説かれました。
それは、菩薩を教える法であり、仏に護り念ぜられるものと名づけられていました。

仏は、この経を説き終えられた後、結跏趺坐(けっかふざ=座禅ですわる典型的な方法)し、無量義処三昧(無上の教えの基礎に心を専念する瞑想の境地)に入って身も心も一切動揺されませんでした。
この時、天から曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華が雨のように降ってきて、仏の上及び諸の大衆の頭上に散りわたり、仏の世界の地面が普く六通り(東西南北と上下)に揺れました。
すると、その会にいた中の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩羅伽・人非人及び諸の小王・転輪聖王(正義をもって全世界を統一する王)、その他大勢の大衆たちは、このような未だかつてなかったことに出会えて、歓喜し合掌して一心に仏を観たてまつりました。

その時に仏は、眉間にある白毫相(巻き毛)から光を放って、東方の一万八千の世界をすみからすみまで照らして明らかにされました。
最低は阿鼻地獄(あびじごく=無間地獄:間断なく苦しみがやってくる地獄)に至り、最上は阿迦尼仛天(あかにたてん=物質世界の最高点)に至りました。(*「仛」の字は、本来は口片に乇ですが、登録字がないため、読みが同じこの字を仮に使いました)
この世界に於てことごとく、この世界(私たちの娑婆世界)にいる六趣(天界、人界、修羅界、畜生(=動物)界、餓鬼界、地獄界の運命をたどる衆生)の生き物(衆生)が見られました。
又、彼の世界の現在の諸仏が見られ、諸仏が説いている法が聞こえました。
又、彼の諸の比丘(男性の出家)・比丘尼(女性の出家)・優婆塞(男性の在家)・優婆夷(女性の在家)が、諸の修行をして得道する姿が見えました。
又、諸の菩薩摩訶薩が、種々の因縁・種々の信解・種々の相貌(姿・形)あって菩薩の道を修行しているのが見えました。
又、諸仏の般涅槃(はつねはん=完全円満な入滅)なされる姿が見えました。
また、諸仏の般涅槃の後、仏舎利(仏の遺骨)をもって、七宝(七種類の宝)で飾られた塔が建てられるのが見えました。

その時、弥勒菩薩は、このように思った。
「今、世尊は奇跡の現象をお示しになられた。
この不思議で素晴らしい光景(瑞相)は、どのような原因で何を意味するのだろうか。
今、世尊は三昧に入りなさっている。だから、直接におたずねできない。
この不可思議で、あり得ない現象が示された理由を、誰に尋ねたらいいのだろうか。
誰が、うまく答えてくれるのだろうが。
また、このように思った。
「法の王子の位にいる文殊師利菩薩は、すでにかつて無量の諸仏に親近し供養された人だ。きっと、このあり得ない現象を見たにちがいない。
そうだ、これから彼に質問しよう。」

その場に居た僧侶や信徒そして諸の天・龍・鬼神の神々までもが、ことごとく皆、解らなかった。
「この仏の光明や神通の光景のわけを、誰に尋ねたらいいのだろうか。」

弥勒菩薩は自ら疑問を晴らそうと思い、又、四衆の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷及び諸の天・龍・鬼神等の、衆会の空気を読んで、文殊師利に質問しました。
「どういうわけで、この不可思議で、あり得ない現象が示されたのでしょうか。
どういうわけで、大光明が放たれて、東方一万八千の世界が照らされ、悉く彼の仏の世界の隅々まで尊く厳かな姿が見えたのでしょうか。」

弥勒菩薩は、再びこ此の意義を宣べようとして、偈の形で言いました。

文殊師利 :文殊師利よ。
導師何故 :導師よ。なんのために、
眉間白毫 :眉間白毫の
大光普照 :大光で、あまねく照しなさったのか?

雨曼陀羅 :曼陀羅、
曼殊沙華 :曼殊沙華(まんじゅしゃげ)を雨(ふ)らして
栴檀香風 :栴檀の香風は、
悦可衆心 :衆の心をよろこばした。

以是因縁 :この因縁をもって
地皆厳浄 :地は皆、厳浄となった。
而此世界 :しかも、この世界は
六種震動 :六種に震動した。

時四部衆 :時に四部の衆は
咸皆歓喜 :ことごとく皆、歓喜し、
身意快然 :身意は、快然(けねん)として
得未曾有 :未曽有な感動を得た。

眉間光明 :眉間の光明は、
照于東方 :東方
万八千土 :万八千の土を照しなさって、
皆如金色 :皆、金色の如し。

従阿鼻獄 :阿鼻獄より、
上至有頂 :上は、有頂(うちょう)に至るまで、
諸世界中 :諸の世界の中の、
六道衆生 :六道の衆生、

生死所趣 :生死の趣(おもむ)くところ、
善悪業縁 :善悪の業縁、
受報好醜 :受報の好醜、
於此悉見 :ここにおいて、悉く見えた。

又覩諸仏 :又、諸仏や
聖主師子 :聖主師子は
演説経典 :経典の
微妙第一 :微妙(みみょう)第一の法を演説なさった。

其声清浄 :その声は、清浄で、
出柔軟音 :柔軟の音(みこえ)を出して、
教諸菩薩 :諸の菩薩を教えなさったこと、
無数億万 :無数億万にして、

梵音深妙 :梵音深妙にして
令人楽聞 :人をして、聞こうと楽(ねが)わしめ
各於世界 :おのおのの世界において
講説正法 :正法を講説し、

種種因縁 :種々の因縁をもって、
以無量喩 :無量の喩をもって、
照明仏法 :仏法を照明し、
開悟衆生 :衆生を開悟させなさっているのが、覩(み)えた。

若人遭苦 :若し、人が、苦に遭うて
厭老病死 :老病死を厭(いと)えば
為説涅槃 :為に涅槃を説いて
尽諸苦際 :諸苦の際(きわ)を尽くさせなさっている。

若人有福 :若し、人に福があって
曾供養仏 :かつて仏を供養し
志求勝法 :勝法を志求(しぐ)すれば
為説縁覚 :為に縁覚を説きなさる。

若有仏子 :若し、仏子(ぶっし)有って
修種種行 :種々の行を修し
求無上慧 :無上慧を求めば
為説浄道 :為に浄道を説きなさる。

文殊師利 :文殊師利よ。
我住於此 :我は、ここに住して
見聞若斯 :見聞する事事は、かくのごとく
及千億事 :千億の事におよんだ。
如是衆多 :かくの如く、衆多なるのを
今当略説 :今、まさに略して説こう。

我見彼土 :我は、彼の土の
恒沙菩薩 :恒沙(ごうしゃ)の数の菩薩が
種種因縁 :種々の因縁をもって
而求仏道 :仏道を求めるのを見た。

或有行施 :或は、施を行ずるに
金銀珊瑚 :金・銀・珊瑚(さんご)、
真珠摩尼 :真珠・摩尼(まに)、
車渠碼碯 :車渠(しゃこ)・碼碯(めのう)、
(※本来の、王+巨+木の字が、コードにないため、読みが同じ「渠」を代わりに充てた)
金剛諸珍 :金剛や、諸(もろもろ)の珍(めずら)しいものや、
奴婢車乗 :奴婢を従えた乗るべき車や
宝飾輦輿 :宝飾の輦輿(れんよ)を、
歓喜布施 :歓喜して布施し、

回向仏道 :仏道に回(まわ)し向(む)けて
願得是乗 :この乗の
三界第一 :三界第一にして
諸仏所歎 :諸仏の歎(ほ)めなさる所なるものを得ようと願っていた。

或有菩薩 :或は、菩薩が、
駟馬宝車 :駟馬(しめ)の宝車
欄楯華蓋 :欄楯(らんじゅ)華蓋(けがい)
軒飾布施 :軒飾(こんしき)を布施していた。

復見菩薩 :また、菩薩が、
身肉手足 :身の肉や、手、足、
及妻子施 :及び妻子を施して
求無上道 :無上道を求めるのを見た。

又見菩薩 :また、菩薩が、
頭目身体 :頭目(ずもく)身体を
欣楽施与 :欣(よろこ)び楽(ねが)って、施し与えて、
求仏智慧 :仏の智慧を求めるのを見た。

文殊師利 :文殊師利よ。
我見諸王 :我は、諸の王が
往詣仏所 :仏の所に往詣して
問無上道 :無上道を問いたてまつり、

便捨楽土 :すなわち、楽土である
宮殿臣妾 :宮殿・臣・妾を捨てて
剃除鬚髪 :鬚髪を剃除(たいじょ)して
而被法服 :法服を被(き)るのを見た。

或見菩薩 :或は、菩薩が、
而作比丘 :しかも比丘となって
独処閑静 :独(ひと)り閑静(げんじょう)に処し
楽誦経典 :楽(ねが)って経典を誦(じゅ)するのを見た。

又見菩薩 :又、菩薩が
勇猛精進 :勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)し
入於深山 :深く山に入って
思惟仏道 :仏道を思惟(しゆい)するのを見た。

又見離欲 :又、欲を離れ
常処空閑 :常に空閑(くうげん)に処し
深修禅定 :深く禅定(ぜんじょう)を修して
得五神通 :五神通を得るのを見た。

又見菩薩 :又、菩薩が
安禅合掌 :禅に安(やすん)じて合掌し
以千万偈 :千万の偈(げ)を以て
讃諸法王 :諸法の王を讃めたてまつるのを見た。

復見菩薩 :また、菩薩が、
智深志固 :智深く志固くして
能問諸仏 :よく諸仏に問いたてまつり
聞悉受持 :聞いてことごとく受持(じゅじ)するのを見た。

又見仏子 :又、仏子が
定慧具足 :定慧具足(じょうえぐそく)して
以無量喩 :無量の喩(たとえ)をもって
為衆講法 :衆の為に法を講じ、

欣楽説法 :欣(よろこ)び楽(ねが)って説法して
化諸菩薩 :諸の菩薩を化(け)し
破魔兵衆 :魔の兵衆を破(やぶ)って
而撃法鼓 :法鼓(ほっく)を撃つのを見た。

又見菩薩 :又、菩薩が
寂然宴黙 :寂然(じゃくねん)として宴黙(えんもく)し、
天竜恭敬 :天や龍が恭敬(くぎょう)すれども
不以為喜 :もって喜(よろこび)としないのを見た。

又見菩薩 :又、菩薩が、
処林放光 :林に処して光を放ち
済地獄苦 :地獄の苦を済い
令入仏道 :仏道に入らしむるのを見た。

又見仏子 :又、仏子が、
未嘗睡眠 :未だかつて睡眠せず
経行林中 :林中に経行(きょうぎょう)し
勤求仏道 :仏道を勤(つと)め求めるのを見た。

又見具戒 :又、戒を具して
威儀無欠 :威儀を欠くことなく
浄如宝珠 :浄きことは宝珠の如くにして
以求仏道 :もって仏道を求めるのを見た。

又見仏子 :又、仏子が
住忍辱力 :忍辱(にんにく)の力に住したまま、
増上慢人 :増上慢(ぞうじょうまん)の人が
悪罵捶打 :悪く罵(ののし)り捶(むちう)ち打するのを
皆悉能忍 :皆、ことどとく、よく忍んで、
以求仏道 :もって仏道を求めるのを見た。

又見菩薩 :又、菩薩が、
離諸戯笑 :諸の、笑い戯(たわむ)れや、
及痴眷属 :及び痴(おろか)なる眷属を離れ、
親近智者 :智者に親近(しんごん)し、

一心除乱 :一心に乱(みだれ)を除き、
摂念山林 :念(こころ)を山林に摂(おさ)め
億千万歳 :億千万歳(の間)、
以求仏道 :もって仏道を求めるのを見た。

或見菩薩 :あるいは、菩薩が、
肴膳飲食 :肴膳飲食(きょうぜんおんじき)や、
百種湯薬 :百種の湯薬を
施仏及僧 :仏及び僧に施し、

名衣上服 :名衣上服(みょういじょうぶく)の
価直千万 :価直(あたい)が千万なるもの、
或無価衣 :或は無価の衣を
施仏及僧 :仏及び僧に施し、

千万億種 :千万億種の
栴檀宝舎 :栴檀(せんだん)の宝舎や
衆妙臥具 :衆の妙なる臥具を
施仏及僧 :仏及び僧に施し、

清浄園林 :清浄の園林
華果茂盛 :華果が茂(しげ)く盛んなるものと
流泉浴池 :流泉浴池(るせんよくじ)とを
施仏及僧 :仏及び僧に施し、

如是等施 :かくの如き等の施の
種種微妙 :種々微妙(みみょう)なるを
歓喜無厭 :歓喜し、厭(あ)きることなく
求無上道 :無上道を求めるのを見た。

或有菩薩 :あるいは、菩薩が、
説寂滅法 :寂滅(じゃくめつ)の法を説いて
種種教詔 :種々に
無数衆生 :無数の衆生を教詔(きょうしょう)していた。

或見菩薩 :あるいは、菩薩が、
観諸法性 :諸法の性は
無有二相 :二相有ること無し
猶如虚空 :猶(な)お虚空の如しと観ずるのを見た。

又見仏子 :又、仏子が、
心無所著 :心に著(ちゃく)する所なくて
以此妙慧 :この妙慧を以て
求無上道 :無上道を求めるのを見た。

文殊師利 :文殊師利よ。
又有菩薩 :又、菩薩が、
仏滅度後 :仏の滅度の後
供養舎利 :舎利を供養していた。

又見仏子 :又、仏子が
造諸塔廟 :諸の塔廟を造ること
無数恒沙 :無数恒沙にして
厳飾国界 :国界を厳飾(ごんしき)していた。

宝塔高妙 :宝塔(ほうとう)は、高(たかさ)妙にして
五千由旬 :五千由旬あり、
縦広正等 :縦の広さは、正等にして
二千由旬 :二千由旬あり。

一一塔廟 :ひとつひとつの塔廟(とうみょう)に
各千幢幡 :おのおの、千の幢幡(どうばん)あり
珠交露幔 :珠をもって交露(きょうろ)する幔(まく)あって
宝鈴和鳴 :宝鈴は和鳴(わみょう)していた。

諸天竜神 :諸の天龍神や
人及非人 :人及び非人たちは、
香華妓楽 :香華(こうげ)妓楽(ぎがく)を
常以供養 :常にもってて供養するのを見た。

文殊師利 :文殊師利よ。
諸仏子等 :諸の仏子等は、
為供舎利 :舎利を供(く)する為に
厳飾塔廟 :塔廟(とうみょう)を厳飾して、

国界自然 :国界は、自然に
殊特妙好 :殊特妙好(しゅどくみょうこう)なることは
如天樹王 :天の樹王が
其華開敷 :其の華を開敷(かいふ)するが如し。

仏放一光 :仏は、一の光を放ちなさるのに
我及衆会 :我、及び衆会のものどもは、
見此国界 :此の国界の
種種殊妙 :種々に殊妙(しゅみょう)なるのを見た。

諸仏神力 :諸仏は、神力や
智慧希有 :智慧は、希有(けう)なり。
放一浄光 :一の浄光(じょうこう)を放って
照無量国 :無量の国を照しなさった。

我等見此 :我等は、此れを見て
得未曾有 :未曽有なものを得た。
仏子文殊 :仏子よ。文殊よ。
願決衆疑 :どうか、衆の疑(うたがい)を晴らしてください。

四衆欣仰 :四衆が欣(よろこ)び仰(あお)いで
瞻仁及我 :仁(きみ)、及び我を瞻(み)あげている。
世尊何故 :世尊は、何のために
放斯光明 :この光明を放ちなさったのか。

仏子時答 :仏子よ。時に答えて
決疑令喜 :疑(うたがい)を晴らして喜ばしめたまえ。
何所饒益 :何の饒益(にょうやく)する所あって
演斯光明 :この光明を演(の)べなさったのか。

仏坐道場 :仏が、道場に坐して
所得妙法 :得られたところの「妙法(みょうほう)」を、
為欲説此 :これを説こうとなさっているのか。
為当授記 :まさに授記されようとなさっているのか。

示諸仏土 :諸の仏土が、
衆宝厳浄 :衆宝をもって厳浄なることを示し
及見諸仏 :及び諸仏を仰ぎ見られたこと、
此非小縁 :これらは小縁ではない。

文殊当知 :文殊よ。当に知るべし。
四衆竜神 :四衆や、龍、神たちは、
瞻察仁者 :仁者(あなた)を瞻(み)あげて察しなさっている。
為説何等 :これから何を何のために説きなさるのか。






その時、文殊師利菩薩は、弥勒菩薩、及び諸の優れた人々に語りました。
「善男子たちよ。
私が思い忖度(そんたく)するようであるならば、今、世尊は、偉大な法を説き、偉大な法の雨をふらし、偉大な法のほら貝を吹き、偉大な法の鼓を撃ち、偉大な法の意義を演説なさろうとされてます。
諸の善男子よ。
私が、過去の諸仏に従って、かつて、この瑞相を拝見したときに、この光を放ち終わってから、まもなく偉大な法を説きなされました。
この故に当然、知るべきです。
今、仏の光を現わしなさったこともまた、これと同じであります。つまり、
衆生に、ことごとく一切世間の難信の法を聞き知らせようとされるが故に、この瑞相を現わしなさったのでしょう。
諸の善男子よ。
過去の、無量無辺不可思議阿僧祇劫の昔、その時に仏が出現されました。
名前は、日月燈明如来といって、応供(聖者)・正遍知(完全な智慧者ブッダ)・明行足(明らかな智慧と行動がそなわっている者)・善逝(行動がすべて正しい者)・世間解(世界の事ごとに良く分かり通じている)・無上士(最高の人格者)・調御丈夫(人間の調教師)・天人師(神神と人間にとっての師)・仏・世尊と呼ばれました。(※これらを、仏の十号という)
正法を演説なさったときは、初めもよく、中もよく、終わりも良く、その意義は深遠で、ことばも巧妙で、純粋で無垢で、完全で、潔白で、純潔の修行のお姿でした。
声聞(の修行をして、目的が阿羅漢の境地)を求むる者の為には、それにふさわしい四諦の法を説いて、生老病死(の苦しみ)を克服して涅槃に到達させました。
辟支仏(縁覚=ひとりで悟りを求める修行者、およびその悟り)を求むる者の為には、それにふさわしい十二因縁の法を説かれました。
諸の菩薩の為には、それにふさわしい六波羅蜜を説いて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい=完全無欠・最高の悟り)を得させ、仏の持つ一切の智慧を達成させられました。

次に仏が出現されました。また、日月燈明如来という名前でした。
次に仏が出現されました。また、日月燈明如来という名前でした。
このように続いて、合計二万の仏がみな、日月燈明如来という名前でした。
又、同一の姓で、頗羅堕(はらだ)を姓としていました。

弥勒菩薩よ。まさに知るべきです。つまり、
初めの仏から最後の仏まで、みな同じ、日月燈明という名前で、仏の十号を具えていました。
その仏が説かれる法は、初めもよく、中もよく、終わりも良く、素晴らしいものでした。

その最後の仏が、ある国の王であられて、未だ出家なさらなかった時に、八人の王子がいました。第一は有意という名前で、続いて、善意、無量意、宝意、増意、除疑意、響意、法意という名前でした。
この八人の王子は、威徳が自在であって、各々四つの天下(四大洲)を領土としていました。
この諸の王子は、父(日月燈明)が出家して阿耨多羅三藐三菩提を得られたと聞いて、悉く王位を捨て、また父に随い出家して、大乗(完全無欠・無上の悟り)をもとめようとして、常に純潔の修行をして、皆、法師となられました。
すでに千万の仏に従って諸の善根を積み上げられました。

その時、日月燈明如来は、大乗経の無量義(無限の深い内容をもつ)を説かれました。
それは、菩薩を教える法であり、仏に護り所護念ぜられるものと名づけられていました。

仏は、この経を説き終えられた後、両足を組んで結跏趺坐(けっかふざ=座禅ですわる典型的な方法)し、無量義処三昧(無上の教えの基礎に心を専念する瞑想の境地)に入って、身も心も一切動揺されませんでした。
この時、天から曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華が雨のように降ってきて、仏の上及び諸の大衆の頭上に散りわたり、仏の世界の地面が普く六通り(東西南北と上下)に揺れました。
すると、その会にいた中の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩羅伽・人・非人及び諸の小王・転輪聖王(正義をもって全世界を統一する王)、その他大勢の大衆たちは、このような未だかつてなかったことに出会えて、歓喜し合掌して一心に仏を観つめたてまつりました。
その時に如来が、眉間にある白毫相(巻き毛)から光を放って、東方の一万八千の世界をすみからすみまで照らして明らかにされましたことは、たった今、ここに見られた多くの仏の世界のようでした。

弥勒菩薩よ。まさに知るべきです。つまり、
その時、会の中に二十億の菩薩がいて、喜んで法を聴こうとしていました。この諸の菩薩も、この日月燈明如来の光明が普く仏の世界を照すのを見て、このようなことは未だかつてなかったことを知りました。、この光の理由や意味を知りたいと思いました。
その時、妙光という名前の菩薩がいました。八百の弟子を従えていました。
日月燈明如来は、座禅三昧から起き上がって、妙光菩薩を因縁として、大乗経典の「妙法蓮華経」を説かれました。
それは、菩薩を教える法であり、仏に護り念ぜられるものと名づけられていました。
仏は六十小効(非常に長い年数)の間、じっとして席をたたれませんでした。
聞く人々もまた、六十小効もの間でも、じっとして身も心も動くことはなく、食事の時間程度のように思われ、誰一人として、身や心に怠ける者はいませんでした。

日月燈明仏は、六十小劫にわたってこの経を説き終わって、梵・魔・沙門・婆羅門及び・天・人・阿修羅衆の中に於て、つぎのようにおっしゃった。
「如来は今日の夜半に、必ず余すところのない完全な涅槃に入ります。」
時に、名を徳蔵という菩薩がいました。
日月燈明仏は、徳蔵菩薩に、将来必ず仏になるであろうと予言をして、諸の比丘に告げられました。
「この徳蔵菩薩は次にかならず仏になるだろう。名前は浄身如来・聖者・完全無欠な仏陀といわれるであろう。」
仏は、この予言をし終わってから、その夜半に、余すところのない完全な涅槃に入りました。
仏の滅度の後、妙光菩薩は、妙法蓮華経をたもち、八十小効の間ずっと、人々のために妙法蓮華経を説きました。
日月燈明仏の八人の子は、すべて、妙光菩薩を師匠としていました。
妙光は彼らを教化して、阿耨多羅三藐三菩提(無上の完全な悟り)に堅く固く結びつけました。
この八人の王子は、無量百千万億の仏を供養して、みんな仏道を成就しました。

彼らの中で、最後に仏となったのが燃燈(ねんとう)という名前でした。
その八百人の弟子の中に、求名(ぐみょう)という人がいました。
彼は、利益を貪り執着し、多くの経典を読誦しても意味がわからず忘れてしまうことが多かったことから、求名(名利を求めるという意味)という(不名誉な)名前がつけられたのでした。
でも、この人もまた、多くの善根を積んでいたことが因縁となって、無量百千万億の仏に会うことができて、供養し、敬い重んじ、尊敬し、讃嘆しました。
弥勒菩薩よ。まさに知るべきです。
そのときの妙光とは、ほかでもない、私自身だったのです。
そして、求名菩薩は、あなた自身だったのです。

今、この瑞相をみると、本来と違うことはありません。
あれこれ思い忖度(そんたく)すると、
如来はまさに、大乗経典の「妙法蓮華経」と名付けられた、菩薩を教える法であり、仏に護り念ぜられる経典を説かれるでしょう。

その時、文殊師利菩薩は、大勢の人々の中で、重ねてこの意義を述べようとして、偈の形式で語りました。

我念過去世 :我は、過去世の
無量無数劫 :無量無数劫を念(おも)うに
有仏人中尊 :仏=人中尊(にんちゅうそん)がいました。
号日月灯明 :日月燈明と号(なづ)けた。

世尊演説法 :世尊は、法を演説され、
度無量衆生 :無量の衆生や
無数億菩薩 :無数億の菩薩を度して、
令入仏智慧 :仏の智慧に入らしめなさった。

仏未出家時 :仏が、まだ出家なされていない、王の時に、
所生八王子 :生まれた八人の王子は、
見大聖出家 :大聖の出家を見て
亦随修梵行 :また随って梵行を修した。

時仏説大乗 :時に仏は、大乗の、
経名無量義 :経の無量義と名(な)づける経を説いて
於諸大衆中 :諸の大衆の中において
而為広分別 :為(ため)に広く分別して説きなさった。

仏説此経已 :仏は、この経を説きおわり、
即於法座上 :即、法座の上で
跏趺坐三昧 :跏趺(かふ)して三昧に坐(ざ)しなさった。
名無量義処 :これを、無量義処(むりょうぎしょ)と名(なづ)けた。

天雨曼陀華 :天は、曼陀華(まんだらけ)を雨(ふ)らし、
天鼓自然鳴 :天鼓は自然に鳴り、
諸天竜鬼神 :諸の、天(てん)・龍(りゅう)・鬼神は、
供養人中尊 :人中尊(にんちゅうそん)を供養した。

一切諸仏土 :一切の諸の仏土は、
即時大震動 :即時に大(おおい)に震動し、
仏放眉間光 :仏は、眉間の光を放ち、
現諸希有事 :諸の希有(けう)の事を現(あらわ)しなさった。

此光照東方 :この光は、東方の、
万八千仏土 :万八千の仏土を照らして
示一切衆生 :一切衆生の
生死業報処 :生死(しょうじ)の業報処(ごうほうしょ)を示しなさった。

有見諸仏土 :諸の仏土は、
以衆宝荘厳 :衆宝を以て荘厳され、
瑠璃頗黎色 :瑠璃頗黎(るりはり)の色なるのが見えた。
斯由仏光照 :これは、仏が光を照しなさったことに由(よ)る。

及見諸天人 :及び、諸の天人や、
竜神夜叉衆 :龍・神・夜叉の衆や、
乾闥緊那羅 :乾闥(けんだつ)・緊那羅(きんなら)は、
各供養其仏 :各(おのおの)、その仏を供養するのを見た。

又見諸如来 :又、諸の如来が
自然成仏道 :自然に仏道を成じて、
身色如金山 :身の色は金山の如く
端厳甚微妙 :端厳にして甚(はなは)だ微妙(みみょう)なることと、

如浄瑠璃中 :浄瑠璃(じょうるり)の中で、
内現真金像 :内に真金の像を現ずるが如くなることを見た。
世尊在大衆 :世尊は、大衆の中にいまして、
敷演深法義 :深法の義を敷演(ふえん)しなさった。

一一諸仏土 :ひとつひとつの諸の仏土に、
声聞衆無数 :声聞の衆は無数でした。
因仏光所照 :仏の光の照らす所に因(よ)って、
悉見彼大衆 :ことごとく、彼の大衆が見えた。

或有諸比丘 :あるいは諸の比丘が、
在於山林中 :山林の中に在(あ)って
精進持浄戒 :精進し浄戒を持つことが、
猶如護明珠 :なお明珠を護るようであった。

又見諸菩薩 :又、諸の菩薩が、
行施忍辱等 :施(ほどこし)・忍辱(にんにく)等を行じる、
其数如恒沙 :その数が恒沙(ごうしゃ)の如くなるのを見た。
斯由仏光照 :これも、仏が光を照したまうことに由(よ)る。

又見諸菩薩 :又、諸の菩薩が、
深入諸禅定 :深く諸の禅定に入って、
身心寂不動 :身心寂かに動せずして、
以求無上道 :もって無上道を求めるのを見た。

又見諸菩薩 :又、諸の菩薩が、
知法寂滅相 :法の寂滅の相を知って、
各於其国土 :おのおの、その国土において
説法求仏道 :法を説いて仏道を求めるのを見た。

爾時四部衆 :その時に四部の衆は、
見日月灯仏 :日月燈仏が、
現大神通力 :大神通力を現わしなさるのを見て、
其心皆歓喜 :その心は、皆、歓喜して、

各各自相問 :各各に、自ら問い相(あ)った。
是事何因縁 :この事は、何の因縁ぞ?
天人所奉尊 :天人の奉(たてまつ)る所の尊は、
適従三昧起 :まさに三昧より起(た)つや。

讃妙光菩薩 :妙光菩薩を讃めなさった。
汝為世間眼 :汝は、これ世間の眼(まなこ)であり、
一切所帰信 :一切に帰信せられて
能奉持法蔵 :よく法蔵を持(たも)ち奉(たてまつ)る。

如我所説法 :我が説くところの法の如きは、
唯汝能証知 :ただ汝のみ、よく証知している。
世尊既讃歎 :世尊は、既に讃歎し、
令妙光歓喜 :妙光を歓喜させて、
説是法華経 :この「法華経」を説きなさった。

満六十小劫 :六十小劫を満たして
不起於此座 :この座を起ちなさらずに、
所説上妙法 :説きなさった上妙(じょうみょう)の法を、
是妙光法師 :この妙光法師は、
悉皆能受持 :ことごとく皆よく受持(じゅじ)した。

仏説是法華 :仏は、この法華経を説き、
令衆歓喜已 :衆を歓喜させおわって
尋即於是日 :ついで、即ちこの日に
告於天人衆 :天人衆に告げなさった。

諸法実相義 :諸法実相(しょほうじっそう)の義を
已為汝等説 :すでに汝等が為に説いた。
我今於中夜 :我は、今、中夜に、
当入於涅槃 :まさに涅槃に入る。

汝一心精進 :汝よ。一心に精進し
当離於放逸 :まさに放逸から離れなさい。
諸仏甚難値 :諸仏には、はなはだ値(あ)いたてまつり難し。
億劫時一遇 :億劫に時に一たび遇(あ)いたてまつるのみ。

世尊諸子等 :世尊の諸子等は、
聞仏入涅槃 :仏が涅槃に入りなさると聞いて、
各各懐悲悩 :各各に悲悩を懐いた。
仏滅一何速 :仏が滅しなさることは、どうしてこんなに速(すみや)かなるか。

聖主法之王 :聖主:法の王は、
安慰無量衆 :無量の衆を安慰(あんい)しなさった。
我若滅度時 :我が、若し滅度する時、
汝等勿憂怖 :汝等は、憂(うれ)い怖(おそ)れること勿(なか)れ。

是徳蔵菩薩 :この徳蔵菩薩は、
於無漏実相 :無漏実相(むろじっそう)において
心已得通達 :心がすでに通達することを得た。
其次当作仏 :これは、次に作仏(さぶつ)するだろう。
号曰為浄身 :浄身と名づけよう。
亦度無量衆 :また、無量の衆を度すであろう。

仏此夜滅度 :仏が、この夜に滅度しなさったことは、
如薪尽火滅 :薪(たきぎ)が尽きて火が消えるようであった。
分布諸舎利 :いたる所に、舎利を分布して、
而起無量塔 :無量の塔を起てた。

比丘比丘尼 :比丘・比丘尼は、
其数如恒沙 :その数は恒沙の如し。
倍復加精進 :またまた精進を加えて、
以求無上道 :もって無上道を求めた。

是妙光法師 :この妙光法師は、
奉持仏法蔵 :仏の法蔵を持(たも)ち奉りて、
八十小劫中 :八十小劫の中に
広宣法華経 :広く法華経を宣(の)べられた。

是諸八王子 :この諸の八人の王子は、
妙光所開化 :妙光に開化せられて
堅固無上道 :無上道に堅固(けんご)にして
当見無数仏 :まさに無数の仏を仰ぎたてまつられた。

供養諸仏已 :諸仏を供養しおわって、
随順行大道 :随順して大道を行じ、
相継得成仏 :相継いで成仏することを得て、
転次而授記 :転次(てんし)して授記された。

最後天中天 :最後の天中天をば
号曰燃灯仏 :名づけて燃燈仏(ねんとうぶつ)といいました。
諸仙之導師 :諸仙の導師として、
度脱無量衆 :無量の衆を度脱(どだつ)しなさった。

是妙光法師 :この妙光法師に、
時有一弟子 :時にひとりの弟子がいた。
心常懐懈怠 :心は常に懈怠(けたい)を懐いて、
貪著於名利 :名利を貧(むさぼ)り著(ちゃく)していた。

求名利無厭 :名利を求めることに厭(あ)きることが無く、
多遊族姓家 :多く族姓(ぞくしょう)の家に遊び、
棄捨所習誦 :習誦(しゅうじゅ)するところを棄捨し、
廃忘不通利 :廃忘(はいもう)して通利せず。

以是因縁故 :この因縁をもっての故に
号之為求名 :これを号(なづ)けて求名(ぐみょう)といいました。
亦行衆善業 :しかし、また、衆(もろもろ)の善業を行じ、
得見無数仏 :無数の仏を見たてまつることを得て、

供養於諸仏 :諸の仏を供養し、
随順行大道 :随順して大道を行じ、
具六波羅蜜 :六波羅蜜を具して、
今見釈師子 :今、釈の師子を見たてまつる。

其後当作仏 :これは、後に当に作仏するだろう。
号名曰弥勒 :号を名(なづ)けて弥勒(みろく)といおう。
広度諸衆生 :広く諸の衆生を度することの、
其数無有量 :その数を量(はか)ることはできないだろう。

彼仏滅度後 :彼の仏の滅度の後、
懈怠者汝是 :懈怠なりし者は、あなたであった。
妙光法師者 :妙光法師は、
今則我身是 :今の、則ち我が身である。

我見灯明仏 :我が、燈明仏を見たてまつりしに
本光瑞如此 :本の光瑞(こうずい)は、このようであった。
以是知今仏 :これによって分かった。今の仏も、
欲説法華経 :法華経を説こうとなされたのであろう。

今相如本瑞 :今の相は、本の瑞の如し。
是諸仏方便 :是れは、諸仏の方便なり。
今仏放光明 :今の、仏が、光明を放ちなされたのも
助発実相義 :実相の義を助発させるためなり。

諸人今当知 :諸人よ。今、当に知るべし。
合掌一心待 :合掌して、一心に待ちたてまつれ。
仏当雨法雨 :仏は、当に法雨を雨(ふ)らして、
充足求道者 :道を求める者に充足したまうだろう。

諸求三乗人 :諸の三乗を求むる人よ。
若有疑悔者 :若(も)し、疑(うたがい)悔(くい)が有れば、
仏当為除断 :仏は、当に、為(ため)に、除(のぞ)き断(だん)じ~
令尽無有余 :尽くして、その余りすらゼロにすることであろう。




以上、序品第一の、私風現代語訳でした。
誤字脱字の改訂・バージョンアップなど、適宜やっていきます。


最後に、この法華経が難信難解である点について、日蓮大聖人のお手紙を添えておきます。
先日にもブログでアップいたしましたが、私の好きなお言葉です。


此経難持の事、抑弁阿闍梨が申し候は
貴辺のかたらせ給ふ様に持つらん者は現世安穏・後生善処と承つて・すでに去年より今日まで・かたの如く信心をいたし申し候処に
さにては無くして大難雨の如く来り候と云云、
真にてや候らん又弁公がいつはりにて候やらん、
いかさま・よきついでに不審をはらし奉らん、

法華経の文に難信難解と説き給ふは是なり、
此の経をききうくる人は多し、 
まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、
受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、 
此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり、
「則為疾得・無上仏道」は疑なし、
三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持とは云うなり・・・、
・・・・・(四条金吾殿御返事、日蓮大聖人御書全集)

「此経難持」の事について、弁阿闍梨日昭から聞きましたところは、
「私は、あなたがおっしゃる通りに、法華経を持つ者は『現世は安穏となり、後には善処に生まれる』と承って、すでに去年から今日まで、型どうりに信心をいたしました。
ところが、現世が安穏どころか、大難が雨のように降ってきました」とおっしゃっていたとか。
はたして、あなたが本当におっしゃったことでしょうか。それとも日昭が虚偽の報告をしたのでしょうか。
どちらにしても、よいついでであるから不審をお払いいたしましょう。

法華経法師品第十の文で、「法華経は信じ難く理解しがたい」と説きなさっているのは、このことです。
法華経を聞いて、信じる人は多い。
だが、真の意味で聞き信受して、どんな大難に出会っても、この法華経を憶い持って忘れない人はまれであります。
一時的に受けるのは簡単だが、持ち続けることはむずかしい。
ところが、成仏はずっと持ちつづけることにあります。
だから、この法華経を持つ人は、必ず難に値うのだと心得て持つべきなのです。
法華経見宝搭品第十一に「法華経を暫くも持つ者は則ち為れ疾く速やかに、最高の仏道を得る」ことは疑いないのです。
三世の諸仏の大事である、「南無妙法蓮華経」を念ずることが、「持つ」ということなのです。・・・
・・・・・(私風現代語訳)

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