Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P66, 池田大作・創価学会組織と熱烈な会員との、サド・マゾヒズム的共棲関係「師弟不二」
なお、このページは、過去の拙記事「私の池田大作観(1)ページ6」を一部改訂・アップデートして再掲載したものです。
■教祖・中心者・アイドルへのサド・マゾヒズム的共棲関係「師弟不二」
創価学会への批判は、その外部社会においては、創価学会関係の企業や、それらによって利益を得ている企業や集団、ひそかな共棲関係にある団体やマスコミなどによって、たくみに抑えられている。選挙などにおける義理や取引など、いくらでもある。鶴のタブーとかいわれていた時代もあった。(鶴とはかつての日蓮正宗創価学会のマークであった)
たとえば聖教新聞日刊550万部は、かつては主に毎日新聞関連の印刷工場で刷られているという。これだけでも相当の利益を毎日新聞社にもたらしていただろう。当時の毎日新聞社常務取締役山本光春氏のコメント「学会員が日に日に増大して行く真の姿を、東日工場の輪転機の回転とともに、驚嘆の念をもって承知しているものであります…」が、小平芳平著「創価学会」P219-211に寄せられている。
創価学会の組織内部については以下、詳細に検討する。
以下は、藤原行正の指摘であるが、私の幼少時から成人してからの様相の一部と大いに重なる。家族や学会組織内での様子は、池田大作と共棲関係にある熱心な会員たちを見事に表している。
「池田先生はなんでもご存じなのよ。学会員みんなの苦しみ、悩み、悲しみをすべて知っておられる偉大な方なのよ」この言葉を素直に信じ、小学生だった子供たちは創価学会の一員たることの誇りを大きくし、母の姿を追うように熱心な池田教信者になった…(中略)…池田神話とは何か。池田先生はなんでも知っている、ぼくたちの苦しみ、悩みを本当に理解してくださるのは池田先生お一人だ。自分たちもすべて池田先生のために頑張るんだ。
少年少女時代から数十回、数百回と池田礼賛の言葉ばかり聞かされるうち、子供たちの精神の奥深くに池田崇拝の一念が植えつけられ、学会員特有の感覚が芽生えるのである。学会活動に励むのも池田先生のため、選挙応援に走るのも池田先生のため……池田先生は理屈抜きに素晴らしい方、池田先生イコール創価学会…」(「池田大作の素顔」藤原行正著 P229-230)
そういえば、日蓮も、「涅槃経に云く『一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり』等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(諌暁八幡抄、御書P587)とある。
一切衆生の同一苦は、ことごとく日蓮ひとりの苦しみという。仏のみが、一切衆生の苦しみを、すべて自身の苦しみとして背負っていることの意味である。
科学的には生身の一人間である池田大作が、こんなことはあり得ないのであるが、池田大作=現在の日蓮大聖人という発想がここに見えている。
〝池田先生は、全てが分かってくれている。すべておみとおしである…〟
〝池田先生と呼吸を合わせる…、〟
は、前述した決まり文句である。
池田大作自身も、その気になっている。たとえば、社長会での総括での池田大作の言葉を一つあげてみる。
「田中さんは臆病で、やる事がうまくいかないとちぢんで病気になる」
「中西は私から逃げよう逃げようとして罰を受ける。今度やったら、頭が又はげて、顔がはれあがるよ」
「皆やろうか。わかっていないと思うが、全部わかっているんだよ」(以上、社長会全記録P83)
1956年「宗教と信仰の心理学」小口偉一編によると、宗教団体において、教祖は、信者にとって利用価値があるという。
「人が教祖を崇める場合に、教祖は彼らに利用価値があるといえる。この言葉はこのばあい、あるいは、不適当な表現として不愉快に思う人があるかもしれない。熱心な信者に向かって、『教祖はとても利用価値がありますね』といったら、なぐられてしまうであろう。
しかし、教祖が彼の生活の指針となり、生きる力の源泉となるならば、教祖は大きな利用価値があるといえよう。これは現世利益をモットーとする新興宗教をみればよくわかる。教祖に従っていて、利益が得られず、損害を受けたと感じた人は、さっさと教祖のもとを去ってゆく。意識するとしないとにかかわらず教祖の利用価値が問題となっているのである」(P149上段)
「中には、はっきり教祖の利用価値を字義通り意識している一群の人さえいる。彼らは教祖をたてまつり、教団の拡大をねがっているが、教祖を心から尊敬しているわけでもない。彼らは宗教活動によって、何らかの現世的な利益をはかっているのである。いわば宗教を利用しているのである。このばあいは教祖はどんな人でもよい。ただ利用価値さえあればよいのである。教団の組織者のなかにはこんな人間がいる。また選挙目当てに信者となる代議士もある。
つまり、教祖に何を求めるかによって、教祖の姿も変わってゆく。したがって、それは時代とともに変化し、民族や社会の状態によりちがってゆく。戦前は微々たる宗教集団が戦後急速に拡大したのも、宗教あるいは教祖が特に変ったとも思えない。変ったのは社会の状態であり、人の心あり、教祖に対する評価がかあったのである。」(P149下段)
これはまさに指摘されたとおりである。
集まってくる各々信者も、教祖を利用して、自らの糧とし満足を得ている。
「教祖の姿・行動を、自身の人生の理想像・行動規範としてつくりあげ、自己と教祖を同化・一体化することで喜びと勇気と達成感が得られる。ともすればその地位に安住し他の組織員を利用する。
心の支えとし、癒す糧とし、励まし合い、同化し合いながら、一人ひとりの組織員から積極的につくりあげ続けられた蓄積、その歴史である。」
依正不二の原理より、信者も教祖・中心者を利用し続け、集まる。
やはり、所属している者が、いかに教祖(中心者・指導者)を有意義に価値的に、自己のために利用していくか、自己に生かしていくか、価値をつくっていくか、利益を出していくか。
まさに、自己にとっても「価値を創造する」集まりとしての、学会組織であった。
つまりは、信者は、教祖に不遇な自身の理想像を託し、自己にとっての理想的教祖との結びつきによって自身の満足を得る。
組織に所属する信者は、その中で、様々な組織活動の中で、目標を達成した達成感を得、周りから称賛されたり役職などの地位・名誉を与えられ、自身の生きがいを見出す。
フロムはこうした心理について、「個人的自我を絶滅させ、たえがたい孤独感にうちかとうとする試みであり、マゾヒズム的努力の一面にすぎない」と指摘し、加えてこう指摘している。
「もう一つの面は、自己の外部の、いっそう大きな、いっそう力強い全体の部分となり、それに没入し、参加しようとする試みである。その力は個人でも、制度でも、神でも、国家でも、良心でも、あるいは肉体的強制でも、なんでもよい。ゆるぎなく強力で、永遠的で、魅惑的であるように感じられる力の部分となることによって、ひとはその力と栄光にあやかろうとする。ひとは自己自身を屈服させ、それのもつすべての力や誇りを投げすて、個人としての統一性を失い、自由をうちすてる。しかしかれは、かれが没入した力に参加することによって、新しい安全と新しい誇りとを獲得する。またかれは疑惑という責苦に抵抗する安全性をも獲得する」
これはまさしく多くの原理主義的学会員の心理と重なっている――つまり、池田大作や学会組織へのマゾヒズムである。
そして、フロムはこういった心理についてさらにこういう。
「マゾヒズム的人間は、外部的権威であろうと、内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、ともかくそれらを主人とすることによって、決断するということから解放される。すなわち自分の運命に最後的な責任をもつということから、どのような決定をなすべきかという疑惑から解放される。かれはまたかれの生活の意味がなんであり、かれがなにものであるかという疑惑からも解放される。このような問題は、かれが結びついている力との関係によって答えられる。かれの生活の意味やかれの自我の同一性は、自身が克服したより大きな全体によって決定されるのである」(エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」P174 )
つまり、戦後集まった学会員(学会員に限らず多くの国民についていえることであるが)の多くは、既存の国家観から解放されて自由となったが、厳しい環境の中で孤独と無力に陥った。そこから逃れてたえがたい孤独感にうちかとうとするために、自我を絶滅させ、自己の外部の、いっそう大きな、ゆるぎなく強力で、永遠的で、魅惑的であるように感じられる力――創価学会組織――の一部分となることによって、その力と栄光にあやかってきているのである。
フロムは、こういったマゾヒズム的絆の本質をこう述べる。
「マゾヒズム的絆は逃避である。個人的自己は解放されたが、しかしかれの自由は実現できないのである。それは不安、疑惑、無力感によってうちのめされている。自己は『第二次的絆』のなかに安定感を求めようとする。それはマゾヒズム的絆とも呼ぶべきものであろうが、しかしこの試みは成功するはずがない。個人の解放ということは逆転できないのである。意識的には個人は安全であり、なにかに『属して』いるように感じることができよう。しかし根本的にはかれはかれの自己喪失になやむ無力なアトムにすぎない。かれと、かれがしがみつく力とは、けっして一つになることはない。根本的な対立が残り、それとともに、たとえ意識的でないとしても、マゾヒズム的な依存に打ちかち、自由になろうとする衝動が残る」(同書P175 )
「マゾヒズム的努力のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。[個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと]、いいかえれば、[自由の重荷からのがれること]である。このねらいは、個人が圧倒的に強いと感じる人物や力に服従しようとするマゾヒズム的努力のうちにはっきりあらわれる」(同書P170)
これは、呪術的信仰の心理そのものである。
真実の日蓮仏法の本質からは、
南無妙法蓮華経の自行化他にわたる修行により即身成仏を繰り返し、創価学会組織以外の社会の中で実証を示し、現実を変えた。同時に自己の精神的成長を遂げた。これが本来の功徳というべきである。
フロムも、これに相当する部分を「一つの道」として、こう指摘している。
「一つの道によって、かれは「積極的自由」へと進むことができる。かれは愛情と仕事によって、かれの感情的感覚的および知的な能力の純粋な表現において、自発的にかれ自身を世界と結びつけることができる。こうしてかれは、独立と個人的自我の統一とをすてることなしに、再び人間と自然とかれ自身と、一つになることができる」
彼はこの解決法として具体的な方法は挙げていないが、個人が自我を捨てることなく、自発性・独自性・創造性を発揮し、サド・マゾヒズム的共棲関係に逃げることなく、「積極的自由」を獲得し続けていくことを述べている。
これは、まさしく日蓮仏法上においての即身成仏・一生成仏を一部分説明するものと考えられる。
話を戻して、創価学会組織内でも入信決意(入決)・本尊流布(本流)の成果をあげた者は有能な人材として抜擢され、組織内での称賛と権威・地位が与えられ、同時に成長していく。初期の拡大期からバブル期までは、組織外での成長と組織外での実証のバランスが取れている学会員が比較的多かった。
しかし、科学の発達や経済成長によって社会が豊かになると、物理的な「貧・病・争」に悩む社会層が減少し、入決や本流が次第に困難になるにつれて、組織活動の目標が、選挙の票取り(通称は地域によって異なるが、F=フレンド票、〇外=フレンドのフレンド票など)や聖教新聞の販売数や購入部数(通称ポイント)が中心となっていく。
組織内での座談会や友人の対話の主な内容も、目指す選挙があれば選挙中心、当面の選挙目標がない時は、日蓮の御書や理論から、池田大作の正義・実績へと変わっていく。
偉大なる「池田先生」に直接お会いすること、贈り物や揮毫、サイン、メッセージをいただくこと、お手紙を差し出すことなどが非常に稀で貴重な体験として競って称賛しあい、「池田先生」にお応えすること、池田大作の手駒となること、捨て石になることが、人生の最大の使命・目標とされていく。
池田大作は地方の指導会などでは、最初は握手を欠かさなかったが、人数が増えて手に負えなくなってからは集合した記念撮影となった。
現代でいえばまるで人気アイドルの握手会さながらの状態で、手をふるのが精いっぱいとなって、押し寄せる会員の整理・警備のため地方幹部や牙城会や創価班などがこれにあたるようになる。
やがて贈り物や揮毫、サイン、メッセージなどは学会本部職員によって自動化され、わずかなお菓子やジュースでさえも「池田先生からの贈り物です」「池田先生から激励の品です」とされる。
それにありついた会員は特別扱いされたと思い込んで有頂天になって喜ぶ。
地方の冠婚葬祭や選挙の勝利など、事あるごとに報告され、自動化された仕組みである「名目上の」池田大作からのアクセスが、全国つづ浦々に拡大する。
こんな中で、池田大作の称賛・宣揚・神格化が進む。
多くの信者・組織者が教祖・中心者を称賛しつつ、それによって彼ら彼女らが次第に時を重ねながら理想的な教祖に仕立てていくという、新興宗教の典型的な興隆現象となっている。
そこには、偶然の出来事も神がかり的な意義を吹き込まれて、これらが積み重なり、神格化されていく。
こうしてますます組織の発展と「池田大作」という教祖・中心者の絶対化が相互により深く大きく拡大・浸透していった。
「彼らは教祖のうちに一種の共感と憧憬を感ずる。教祖は新しい世界への希望をかきたててくれる。彼らは教祖にすがりつくことによって、心の安定を得たいという衝動を感ずる。先達として自分の前を歩いてゆく教祖にすべての希望をなげかける。こうして教祖には彼らが失ってしまったさまざまな理想と神像が彫り込まれ、教祖は彼らの最高の特徴をそなえた偶像となってゆく。つまり教祖は信者の一人一人の持つ理想像であり、象徴である。『神が人間をつくったのではなく、人間が神をつくったのだ。』(フォイエルバッハ)」(同書P151下-152上)
その理想像は、本来讃嘆すべき日蓮の言葉(=御書)を、切り文にして権威づけ、根拠にして用いた指導により、うまくつくられている。
これは、確かに師の手法を受け継いでいて、表面上は師弟のようだが、切り文の背景や文脈をきちんとわきまえなかったなら、誤解や曲解を生む。
その時々の思惑に意図的に利用されるからである。
だから、以下のような極端な例もあるように、いったん言葉に出された指導内容が、歴史の前後・立場・場所等によって、事後相違が発生したり、世間の常識を逸脱したり、暴露されたら極めて不都合な内容になったりするのである。
「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」(小さな青バエも駿馬の尾につかまれば万里を駆け巡ることができ、立てない葛も大きな松の木につかまって千尋に伸びることができる)
この立正安国論の一文は、その前にある「かたじけなるも大乗を学す」をきちんと把握しないで、初心者でも「創価学会に付ききっていれさえすれば」成仏できる譬えとして曲解され、組織の指導や体験発表などの主張においてよく利用されている。もちろん正しい意味は、小さな存在であっても南無妙法蓮華経を修行することによって何時何処であっても即身成仏できるということであり、その組織が創価であるべき条件などはない。
顕立正意抄に「奴婢と為つて持者に奉えよ」(地獄に堕ちたくないのならば‶奴隷となって〟主人に奉仕せよ)とあるが、これも似たような例が社長会での池田大作の言葉にある。、
「学会っ子は名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。‶奴隷のように学会につかえよ。〟それが御本尊様につかえる事だ」(社長会全記録 P222 ‶ 〟筆者)
私も‶奴隷のように学会につかえ〟たい一人であったが、一般の人から見たら、いかがなものか。
私が、この記事において、師弟関係には、同性愛(古くはソクラテス・プラトンの時代や、僧侶間や修道院に限らず)や、性的発露に見られるSM、主人と奴隷の心理関係、支配と服従の心理などの哲学的考察も興味的であり、サドやマゾッホ、フロムやユングに関する文献に注目しているのもこのためである。
そして、こういった矛盾や疑問を指摘すること自体が、創価学会組織の内外ともにタブーとなっている。
現在の創価学会の会員のほとんどは、仏法の理論ではなく池田大作との個人的な絆すなわち共棲関係――これも演出された幻想であるが――でつながった会員で構成されている。
多くの純粋・熱心な学会員は、一応、仏法を語ってはいるが、まさに、偉大なるアイドル「池田大作」の熱烈な〝ファン〟なのである。
さらには、先述したが、池田大作と熱心な会員との共棲――サド・マゾ(権威者と権威に進んで隷従する者)がどちらも共に相手なくしては存在・持続し得ない共棲関係(フロム著「自由からの逃走」より趣意)――である。
そしてその裏付けされた理論が、良くも悪しくも現世に演繹されたところの歪んだ日蓮仏法なのである。
小口偉一氏は「新興宗教としての創価学会は、七○○年の歴史的伝統を利用し、日蓮正宗は伝統的停滞を新興宗教との結びつきによりうちやぶるという相互依存関係に立っているのである」(宗教と信仰の心理学 P38上段)と指摘する。
宇宙一切根源の法の修行――その名称は問題ではなく、科学的効果といえばプラセボ効果のみではあろうが――により、時代にうまく適応しながら善なる行為を行なえばそれに応じて現実の変革が可能であり、その過去の功徳として現在の姿があるといえる。
しかし、その中に含まれる「池田教」(池田本仏論)の要素が害毒となって、その発展が頭打ちになっていることは想像に難くない。
総体革命という現実変革をしつつある「池田教」の純粋な弟子たちは、一方で確実に池田大作の害毒まで受け継いでいる。
その一部が、都合の悪い歴史の隠蔽と改竄、池田の名前を使った膨大な著作やメッセージの代作、そして内部の争い(批判する者や都合の悪い者の除名・排除)などであろう。
そして、御本尊への信仰はあっても「池田大作」をアイドルとみなせない会員――すなわち池田大作や創価学会組織と共棲関係を保てない会員――は次第に疎遠になっていき、社会的な義理や利益目的以外は、純粋に仏法のみを求めて入会する人はほとんどいなくなっているのではないだろうか。
新規入会や本尊流布も、そのほとんどは、会員夫婦の出生や家族の分世帯などにとどまっていて、会員内での再生産にとどまっているらしい。
それが、世帯数の伸びていないこと、公明党の得票数の減少として、如実に表れているといえまいか。
まさに「池田教」(池田本仏論)の害毒の一部分と言える。
全国各拠点の会館では、幹部会が同時中継される。
池田大作が途中から登場すると、それまでの秋谷会長の指導などがただちに中断。
皆、池田大作の一挙手一投足に注目が集まる。その姿を自己に投影し自己と一体化して喜ぶ。会員への激励の言葉も、造反者への罵倒・暴言も、すべて感情移入し、池田大作と一体となってつながる。
池田大作が世界の著名人と会談したり、名誉称号をもらったりするニュースがあれば、それらを誇らしげに友人・知人に訴える。まるで自分がもらったように、誇り高く訴える人も少なからずいる。
池田大作の成果は、自分自身はなんらかかわっていないにもかかわらず、
池田大作が称えられる=池田大作に直結している自分=自分自身が称えられる、
池田大作の正義や使命=池田大作に直結している自分自身の正義や使命、という風に、自分自身に投影し同一化していく。
学会組織に所属して池田大作を応援することが広宣流布そのものであり、自らも正義の道・正しい生き方に則っていると思い言い聞かせ確信する。
池田大作の成果はすべて自分自身のモノであり成果であり誇りであり、同時に自らが正義であり、他人にもこの正義を訴えていく使命感となっていく。
池田大作を慕う熱心な学会員の心の中では「池田先生の正義を語っていこう」ということは、同時に「自らの正義を語っていこう」ということに転嫁され、自身のあらゆる行為の正当化の根拠としている。
その内容についての吟味などは一切しないで、自分自身にも言い聞かせ、他人にも正義として広宣流布として訴えていく。
この延長線上に公明党の票取りがあるが、自分たちが支持する公明党の政策の是非はあまり論争されない。それは、ほとんど事実上は創価学会=公明党であるからだ。
これでいい気分になっている会員の心理は、一種の熱烈なファンの心理である。
そして先述したが、エーリッヒ・フロムが自著「自由からの逃走」で指摘するマゾヒズム的心理現象とも言える。
戦後の日本、アメリカのGHQ占領下において、伝統的な国家権威から解放されて自由になった民衆は、それは言い換えればそれまで自我の発現・自己実現のよりどころとしていた権威や力を失って、「たった一人」となったことを意味する。
自発性・創造性を自ら発することのできない――それは自己が確立されていない――それはゆえに、次第に無力と孤独に陥る。なぜならそれは、自己実現の能力や手段を持ち合わせていないしそれをもちうる機会も乏しい「たった一人」となっているが故である。
すると、意識するかしないかにかかわらず、その苦痛や不安から逃れるために容易に自分より大きな権威に身を委ね自ら隷従し、そのことそのものを喜びとすることによって、その権威の一部として権威と一体化する。これがフロムの指摘するマゾヒズム的心理である。一方、権威は、そういったマゾヒズム的心理をたくみに利用して隷従してくるものたちに可能と思われる限界までの苦痛を伴う奉仕と犠牲を要求する。これは一種のサディズムであるが、そのことによりますます肥大化する。同時にその肥大化した権威はまた、隷従してくる会員を不可欠なものとして維持・肥大化している。つまりは、熱心な会員と池田大作とは共棲関係にある一種の「サド・マゾヒズム的共棲関係」といえる。
野球でもサッカーでもアイドルでも、その熱烈なファンやサポーターにみられる同一視である。
コスプレにハマる心理状態にも通じる。
当然に、この気分を害するような言動・批判は、感情的に嫌われ、必然的に組織内からは排除され、タブーとなっていく。
さらにいえば、こういったファン心理や情熱、サド・マゾヒズム的共棲が、選挙の票取りに利用され総動員される。
ファン心理もあるため、公明党の政策を真剣に討議することもなく、反対することはタブーである。
つまりは、心理的には池田大作=創価学会の一部の熱烈な会員=公明党なのだ。
そして、その公明党は日本の政治を動かしている。
冷めた会員も少なからずいるが、非活動家(通称非Kとか眠っているとかいわれる)として、名前だけで潜んでいるしか居場所がない。
■論理破綻した「師弟不二」の延長線上にあるもの
創価学会においては、戸田城聖までは顕著ではなかったが、爆発的な組織拡大を成し遂げた池田大作の時代に入り、次第に池田大作が英雄化・神格化され、やがて本仏化、つまり池田本仏論へ発展していく。
そして今、紆余曲折の末、創価三代を「永遠の師」と定めた現在の創価学会が、なお巨大集団ではあるが日蓮仏法の一派として存在している。
この現象が、既に当時の宗教学者小口偉一氏が説くところに一致していたことは、因果な思いであるが、これは日蓮仏法によれは、依正不二(主体と環境は一体であり、それぞれがそれぞれを造りながら変化する)の原理に尽きる。
「この論理こそ、池田大作が長い時間をかけ、用意周到に五百万学会員へ仕掛けた池田崇拝の産物」(同書P230)と、藤原行正氏は指摘する。
しかし依正不二の原理からは同時に、熱心な学会員にとっては、
「この論理こそ、五百万学会員が長い時間をかけ、巨大アイドル池田大作大仏をこぞって作り上げた、池田本仏論の産物」なのである。
だから、その他大勢の、何の関係もなく特別な思惑もない一般人にとっては、カリスマ池田大作は、単なる変なオヤジかジジイぐらい、せいぜいフーテンの寅さん(島田裕巳‶池田大作はフーテンの寅さんである!〟隣の創価学会P115)ぐらいで、会ってみても、矢野純也氏がいうような「天才的なオルガナイザー」とか「学会内部では『恐さ』となり、恐怖政治を生み出す源泉」(私の愛した池田大作 P25)などは、そんな要素すらかけらもない。
かつて、会館で本部幹部会同時中継の時に、私にたまたま義理と好みで一緒についてきてくれた二人の友人の四つの目に、極めて印象的に映ったのは、当時は超高価で珍しかった液晶大画面に映った変な初老の翁と、彼に同調して館内いっせいに背伸びや万歳をする参加者たちのおりなす、「異様な光景」にしか過ぎなかった。
その後のこの二人に対する私の説得がいかに苦労を伴ったか、読者の皆さんのご想像にお任せする。
だから、いくらジャーナリズムが池田大作一人をバッシングしても、バックに控えている莫大な数に分割されたなら、熱心な一人あたりにはせいぜいお仕置きビンタ一発ぐらいにしかならなかったのかもしれない。それでも個人的には三類の強敵とか三障四魔とか法難とかとして大きくとらえられ、それが尚一層強固な信仰=池田大作へのあこがれや情熱の炎に油を注いでいくのである。
初信の功徳を得て、中間役職に登りつつ、ちょうど地方の支部幹部会クラスに呼ばれる人たちにとっては、世間からの異様な目と、内部のヒエラルキーによる支配服従(奴隷のように学会につかえよ)によって、二重の迫害・人権疎外を被っている。
だが、南無妙法蓮華経は偉大である。ここを煩悩即菩提として乗り切って実績を上げる人は末永く組織に残っていく。
一方、力足りずに挫折して非活動家となり、やがて退転していく人も多い。
しかし、外部への社会的な成功が、内部組織での成功と連動している人は少ないのではないだろうか。
小口偉一氏も、創価学会信者B(女)の例でこのことを取り上げている。(前掲書 P98上段-100下段)
それらの素晴らしい内容も、その適応限界も含めて、今後、宇宙一切根源の法を根本として、考察していく予定であるが、様々な立場や境遇の人が一つの信仰の下に集合している以上、それらがすべての人にとって正しく、受け入れ可能な内容とはならず、かえって事後相違となったり反対の理論になったりする。
とくに政治は妥協の産物なので、当然と言えば当然で、これをどちらも満たそうとする中に様々な軋轢や衝突が起こっているのも当然の成りゆきである。
こういった隙間に反学会がつけ入るスキがあったり、単なる利益利用のおべんちゃらが飛び交い、虚像に惑わされた壮大なドラマが続いていくだろう。
1962年の小平芳平教学部長が著した「創価学会」、私の見た創価学会 P197-244のなかで、今でいえばあり得ないことであるが、後に、かの有名な「創価学会を斬る」の著作者の藤原弘達氏のコメントも以下のように載せられている。
「まじめな認識が必要 政治評論家 藤原弘達
今や創価学会は、これを好むと好まざるとを問わず、無視できない政治勢力になりつつあるといってよい。
むろん、多くの問題があり、その政治的影響を危険視する向きもかなりある。しかし、それらのうちのどれだけの人々が、この団体の実情を知っているかという点になると、いささか心もとない気がしないでもないだろう。
社会の底辺にいる民衆の心が、どうしてこのような団体のなかに吸収されてゆくかについて、われわれは、もっとまじめに、ていねいに検討してみる必要があるように思う。見方によれば、創価学会は、一般的政治不信の泥沼のなかに咲いた〝仇花〟にたとえられるかもしれない。
金も、権力も、名声も、地位も、今の日本のこころを救えそうにはない。創価学会は、そういう日本の泥沼のなかであがいている民衆に、もっとも古めかしくて、もっとも強引なカタチで、なにかを訴えようとしている存在にはちがいないからである。
日本の現実が、そこにある。この現実を回避することはできない。直視し、考え、前進の方途を見出してゆくほかはないのだ。」
時代が変わり、総体革命を成し遂げつつある現在も、このコメントはキラリと光を放っているようだ。学ぶべきものはいくらでもある。
草創期には、この強固な確信と燃え上がる情熱が、池田大作の行動の原動力となって、当時の社会の恵まれない底辺層にいる多くの人々の心をとらえたのだった。それがその後の創価学会の偉大なる発展へ続く。
まさに、過去にアジアの広範囲にわたって大乗経典を弘めた仏教集団のようだ。
「…このゆるぎない確信と自己に対する誠実さが、それを求めて しかも自己のうちに確立できない人間の心をひきつける…法難は信者に一層つよい感銘を与える。われわれには十字架上のキリストをはなれたキリストは存在しない」(「宗教と信仰の心理学」P152下段)
ついでだがそれに続いて「しかし、宗教的行動とは無関係な刑事事件まで法難と称するような新興宗教のやり方は、信者を偽瞞する悪質な宣伝である」(同,P153上段)と、クギを刺しているが、その後の創価学会の歴史上の事件を見事に予言しているのではある。
以上をもって、現在でも私自身は、まことに拙で非科学的・非合理的ではあるが、これを反面教師として自分自身の「人間革命」の方途を再検討しながら、更なる完成へ向かって、「人間革命」の主人公――それは結局のところ失敗作として演出された――池田大作を、現世においてのみいわゆる「永遠の師」の一人として選び讃嘆し、創価学会を選んできたといえる。
しかし、この真実を、宇宙一切根源の法に照らして、正邪善悪ともに、その法理そのものの科学的解明を試みているうちに、やはり、前述してきた池田大作・創価学会組織とのサドマゾヒズム的共棲関係を断ち切らなければ、真の日蓮仏法でいう「即身成仏」は存在しないことに気がついた。
自分以外の「他者」に自我を依存し隷従する限り、根本的に自己の最高の境涯である「仏界」は成し得ず、そこにあるのは地獄・餓鬼・畜生・修羅や人・天界という六道輪廻から抜け出し得ない。そしてその心理構成論理は、結局のところアニミズムである。
ともあれ事実として池田大作は、荒れ果てた戦後、十九歳の時、戸田城聖に巡り合い、創価学会に入会、その2年後に戸田先生にスカウトされて日本正学館に入った。ここから戸田城聖のすべて(真偽・利害・善悪・美醜などのすべてと処世術など)を受け継ぎ発展させ、壊滅状態であった創価学会組織を日本第一の宗教政治組織へと発展させたのである。
組織拡大のためには建前上、完璧な反戦平和を掲げざるを得なかったのであろうし、事実上の指導者である池田大作を無謬な理想的人格に祭り上げることがなんとしても必要なのであった。
その増幅速度は1980年代からバブル崩壊以降、公称827万世帯に達して後、プラトーとなり、今や世代間再生産の段階に入って久しいが、衰退しつつある。
島田裕巳氏は「民族化する」と指摘するが、昔のように重たい御書を必携して指導したり折伏・弘教に回るような幹部(会長も含め)は見たことはなく、総体革命を成し遂げつつ、社会のあらゆる層に葛のように埋没・分散するその実情は、創価三代の「師弟の道」をひたすら讃嘆し群がり、政治力やコミュニティを良きにつけ悪しきにつけ行使する、巨大な池田大作ファンクラブのようである。
はたしてその中の一体どれだけの人が、池田大作の指導通りの「人間革命」を成し続けているのか。
そもそも創価三代の師弟不二も、宇宙一切根源の法=南無妙法蓮華経を広宣流布するための、あくまでも「方途」の一つに過ぎず、本来それを唯一視・絶対視するべきものではない。
また、創価学会仏といっても、無数∞の仏がいる中のほんの一部分であるに過ぎず、他にも無数∞の仏がいるとしなければ、正しい仏法の科学性・再現性は成り立たないのである。
創価学会シンパのジャーナリスト、たとえば佐藤優は、創価学会の「正史」である小説『人間革命』を高く評価し、田原総一朗は「池田大作氏は〝排除の壁〟を見事に乗り越えた」と言っている。
しかしグローバル化・IT化が進むにつれ、厳然たる事実を覆い隠し通すことができないばかりか、ウソの上塗りをし続ける愚かな様相と、これを讃え続ける傾向も、仏法でいう「還着於本人」(本人の身に帰り着く)を示しているのである。
公明党=創価学会が与党になってから久しく、たとえばいわゆる戦争法案といわれる法を可決したことは、それを疑問視している創価学会員も少なからずいる。
自分自身や創価学会の素晴らしい生命・使命の一部分はなるほど讃嘆するべきものもあるであろう。それ自体は本来の「人間革命」の原動力の一部となりうるであろうが。
まさしく重要な点は、捏造したとしても、プラセボ効果によって、こうした因縁付けによる確信と情熱が確実に現実変革の原動力のひとつとなることである。これが創価三代のいう「人間革命」の原動力のひとつであろうが、これももっとも、宇宙一切根源の法が背景の一部となっているのは確かである。
一つ二つ程の、数字の誤魔化しは枝葉末節であり、永遠の生命からみたらそんなことは問題なく無視できるほど微々たるものである。
自身が仏法上、不思議かつ必然的な師弟不二という因縁・使命があったと確信…
これは、そもそも現世に限っていうだけなら勝手に意味づけすればいいだけである。そして、好んでこういった語呂合わせを、創価学会は行ってきたし、現在もそれを続けている。
もっとも、多くの代替医療のほんの一部が示すように、プラセボ効果は確実に存在するだろうから、こういった試みや行動も、それなりの効果は見込めるであろう。
百歩譲って「師弟不二」の関係について検討すれば、創価三代の師弟は偉大であり永遠であると勝手に言い続けても、それも信教の自由の一つであるが、あくまで一つの例であって、これに過ぎない。広宣流布の途上でいわゆる「師弟不二」の関係で結ばれている人たちは、宇宙一切根源の法に照らしてみると無数・無限∞にあるといえる(以前、拙記事にも書いた、法華経涌出品第十五に説かれた無数の地涌の菩薩)
師弟の相承・引継ぎは、仏法本来の「師弟不二」や永遠の生命観からみれば、必ずしも直接言い渡される条件も必要もない。
日蓮直結という論理から言えば、700年経っていてもいいのである。
まして、釈迦と日蓮大聖人とは、二千年の隔たりがある。
だから、そもそもそこに粉飾やこじつけ・捏造などは一切不要であって、ただただ師弟不二の、表裏のない偽らざる行動のみがあれば足るのではないだろうか。
一年や二年、師弟の想いの引継ぎに期間が開いていても、具体的な約束や伝送ががなされていなくても、その思いに立った行動が重要なのであり、何よりの証明となろう。
しかし同時に、一方ではそれを唯一絶対視し続けている限り、根本的には、田原総一朗のいう「〝排除の壁〟を見事に乗り越えた」ことにはならないだろう。
実のところ、そもそもこういう矛盾を内包していることこそが一念三千であって、南無妙法蓮華経の一部であり、拙い前々記事にも記したが、それがマンダラ本尊の構成内容でもあるのである。
決して理論だけを弄ぶことではなく、事実に基づいて、諸行無常・是生滅法、三世永遠の宇宙一切根源の法から、わずかでも還元した目で、今後も見続けていきたい。
しかし、歴史的な広宣流布の団体であっても、見栄え・体裁、歴史の改竄・捏造と、これらの流布により、残念なことに毀誉褒貶を繰りかえし、栄枯盛衰のループをたどりつつあるのは、歴史は繰り返されることを皮肉にも示唆している。
「嘘も百回言えば本当になる」(ナチス・ドイツの宣伝相、ヨーゼフ・ゲッベルスの言葉)
現在でも、創価学会会員は、戦前戦争中での都合の悪い史実の公表や論議を巧みに避け、創立当初より反戦平和団体であったかのように宣揚していて、原点に帰ってみればそれは、時代に即応しながら歴史上の脚色・改竄を行い、百回以上言い続けた点のひとつであると見える。
「新しき世紀をつくるものは、青年の熱と力である」(「青年訓」戸田城聖全集第一巻P42)
この言葉が、今も私の胸中に光り輝いている。
これが私の愛する、そして幼少期より学び教育され調教され服従してきた、良きも悪きも偽らざる、私の目に映った創価三代のいう、いわゆる「師弟不二」の人々の姿、池田大作と共棲関係にある熱心な会員たちの姿なのである。