Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P58, 池田大作の独裁化進行、造反者続出、暴力団の利用後切り捨て
■ 報復と抹殺の号令
山崎正友は池田会長辞任前後の様子を、自身の胸中も含めて以下に述べている。
「宗門問題が起こって以来、私には、学会本部、顧問弁護士という立場のほかに第三者的な立場に立って両者間を調停するという立場も出来てしまった。
もちろん、池田氏にしてみれば、私をレフェリーに仕立てて、自分に有利なホームタウン・デシジョンをさせるつもりであった。そのために株式会社シーホースその他の重荷を私に背負わせて手かせ足かせとし、身動きできなくしておきながら、それをとりはずすことを条件とし、エサとして、私を支配し、思うがままに動かそうとしたのである…
私に第三者的立場で学会をたしなめる役割を与えておきながら、学会への身びいきを要求し、あまつさえ陰で私を敵呼ばわりをすることによって、自分の失敗を隠そうとした池田氏の行為が、私を苦しい立場に追い込んだ…
だが、運命は、私に対してきびしい試練を課した。
昭和五十四年七月二十一日、日達上人が突然御遷化されてしまった。
私に対する、池田氏の報復と抹殺作業の公然たる号令が、その翌日に出た。それも八月末までに、日顕上人と用意周到に打ち合わせた上で、九月に入って一挙に実行に移された。
まず日顕上人が、あらゆる機会に、私を名指しで、〝破和合僧の張本人〟と指弾することからはじめられた」
■「他の世界では生きられない。俺の立場をつくってくれ」
「池田氏は、私のこの決意を、見抜いていたに違いない。そして、私の態度に激怒し、狂気の如く、私の追いおとしに奔走した。日顕上人の口をかりて、私に対する非難中傷のかぎりをあびせた。
またいろいろな陰謀に熱中した。その都度、私の手痛い反撃にあい、逆に追いつめられていった。それには原島崇氏が独り決意して立ち上った状況や、活動家僧侶達の文書による暴露戦術も大きく影響したし、内藤氏をはじめマスコミのはげしい攻撃も大きく私に有利に働いた。
同年十一月末、池田氏は、進退極まって、私を懐柔すべく、私と会った。私は、仕事の整理をして、それから戦うつもりだった。
『最後のわがままを言いに来ました』と切り出したとき、池田氏は、
『最後のわがままを言いに来たんだな』と切りかえした。
この時ばかりは、私が負けた。
『兵庫の墓園の件は、北条さんが責任をもってやる。シーホースの件は、学会で面倒見る。今までのことは、俺も悪かった。きれいに水に流して、仲良くやろう。日達上人の路線はまもる。しかし、俺もまだ五十四歳だ。他の世界では生きられない。俺の立場をつくってくれ』
池田氏の大風呂敷に包みこまれて、私は池田復権に一時手をかすことになった。しかし、池田氏の再三にわたる、手のひらをかえすような行為のため動きがとれなくなって行った。原島氏や活動家僧侶ともミゾが生じた。あげくの果てに、池田氏が、私の孤立をみすましてかつての私の部下達をつかって、私の唯一の失敗であり、アキレス腱であった、シーホースをねらいすまして打った大仕掛けに、一発逆転をねらった大勝負に、ほんろうされる結果となってしまった」(以上、山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」1981/12/15、三一書房、P46-68)
■寄付と引きかえの名誉市民称号
また、同著には、(コメント1,2,3)
「昭和五十四年四月、池田氏が会長を辞任して名誉会長にしりぞいた後、私は、宗内の動揺を考えて、半年ばかり表面に出ないで静かにしているようにすすめた。しかし池田氏にしてみれば、聖教新聞に一週間も二週間も出ないでいることが、辛抱できなかった…結局、私の意見を無視して、北条氏以下新執行部のクローズアップを断固として許さず、チョロチョロと顔を出しつづけたために、活動家僧侶や檀徒の反撥は一向に冷却しなかった…
このような、池田氏の病的な有名病にとり入ったのが、他ならぬジョージ・ウィリアムス(アメリカ日蓮正宗理事長)であった。
ウィリアムスは、池田氏が訪米するたびに、地元の市長、知事、学者等と会談させ、そのニュースを聖教新聞に写真入りで報道することにより、国際人池田大作の演出に大いに功があった…
ウィリアムスが、同じく池田氏のきげんとりに使った手段の一つとして、〝名誉市民称号〟があった。アメリカでは、どこの都市でも、ちょっとした著名人にいともあっさりと名誉市民称号を与える場合が多い。しかし日本で名誉市民条例を設けている都市は、皆無に近い。アメリカで〝名誉市民〟といっても、それほどのことはないが、日本で〝名誉市民〟といえば、大変な栄誉である。これに目をつけたウィリアムスは、正本堂落慶式を機に、池田氏のために、いくつかの市の名誉市民称号をプレゼントした。これは、池田氏をいたく喜ばせた。昭和四十七年十月のことである。」
「さて、池田氏は、アメリカの、名前を聞いたこともないような都市の名誉市民称号を手に入れて大いに喜んだが、その後で、『なんとか、日本の名誉市民になれないものか』と考えた。
一年後、総本山大石寺の地元富士宮市で池田氏を市民が告訴する事件がおこり、その処理のため、私が富士宮問題にクビをつっこむ破目になったいきさつは、前に述べたとおりである。
地元の要望にこたえて、創価学会としては、多額の寄付や貸付金等の支出を余儀なくされることが避けられない状況となったとき、池田氏と私は、一計を案じた。
それにもとづいて、私は、北条氏らとともに市の有力者達と交渉した。
市の有力者は、
『創価学会と大石寺がたくさんの土地を買い占めたことによりいずれも宗教法人の免税措置を適用されるので、市の固定資産税収入が減る一方である。その反面、団体バス等による道路の損傷、上下水道、その他公共負担が増大する一方である。創価学会、大石寺は、結局市民の負担によりかかって恩恵をこうむっているのであるから、不公平が生じている。創価学会と大石寺の所有している不動産を非公式に洗いなおしてみたところ宗教上の用に供していると思えない部分がたくさんあり、それに課税するとすれば、固定資産税で六億近く、新税予定の土地保有者で四億近くにもなろう』
と吹っかけて来た。
学会側には、農地の大量不正取得、手のうちを市当局に知られたくない事情があった上に一つの魂胆があったので、次のような主張をした。
『課税対象になる不動産がどこまでかということの判定は、いろいろ議論のあるところであり宗教法人側にもいい分がある。この際、角が立つやりとりをやめて、市の税収が減った分と、過去に学会が約束した事項の双方を考慮して、創価学会が市に対して寄付や貸付をするということで、つまり、積極的な協力というきれいな形をとりたい。地元の方も、無理やり取るとか、ゆさぶりをかけるといった姿勢ではなくて、創価学会に協力し、礼儀をつくすというやり方をとるべきだ』
幾度かの折衝の後に、妥協が成立した。私は池田氏の意を体して、市当局や有力者に、
『寄付等には応じるかわりに、池田氏を名誉市民にしてほしい』と要求した。
さすがに、相当な抵抗があったが、二つの公園の寄付、池田教育基金三億円の寄付、市民会館建設への協力約束、土地開発公社への四億円の寄付等々、おびただしい札束攻勢(本来なら税金として取り立てれば良いので、そうすれば、市当局も恩に着せられることはなかったのだが)を背景に、有力市議会議員らがあっせんに動き、およそ一年半がかりで昭和五十年には、やっと名誉市民条例の制定にこぎつけ、池田氏がめでたく名誉市民第一号になったのだった。日本では、おそらくはじめてに近いことで、富士宮市としては、金を出してもらいたいばかりに大変なお世辞をつかったものだし、有力者たちは、学会から甘い汁を吸おうと、そのあっせんに走ったのだった」(同書P130)
「富士宮市における池田名誉市民は、事件処理の弱味をかかえて、市への協力を余儀なくされたという背景があったとはいえ創価学会員の浄財によって買われたものであり、十数億円もの会員の金で、池田氏の個人的名誉心が満足させられたことに変りない。
このように、多額の金で買った池田氏の名誉市民称号が…
『富士宮市名誉市民条例を廃止する条例(案)の提出について』…
富士宮市名誉市民条例(昭和五十年富士宮市条例第九号)は廃止する。
理由
創価学会が市政に関与、又は介入した疑いが極めて濃い事が12月定例会一般質問において明らかになり、市政上に重大な影響をもたらしている。
市民の間にも世論の高まりと共に創価学会に対する不信の念が広がりつつある。…よって創価学会名誉会長、池田大作氏の富士宮市名誉市民は富士宮市の誇りと市民の尊敬の象徴として、それに価するか極めて疑問の点が多い。従って現状においてはふさわしくないと判断せざるを得ない。
…
かつて池田氏のために名誉市民条例がつくられ、今また、池田氏のために、条例廃止の条例が出される…」(同著P132-134、コメント4)
ちなみに山崎正友の恐喝罪裁判で、この背景となる創価学会の歴史まで、見事に明らかに
認定されている。
裁判において事実認定と判決が、インターネットに詳細に公開されている。
長い記録であるが、ここには、山崎正友に対する、数で勝負した集団偽装したと思われる創価学会側の策謀も見えかくれする。
山崎正友にとっても因果応報の修羅道に一部であるが、これ以降、彼と池田大作の生涯を一括・総合して検討すれば、これがそのまま、無謬を建前とする創価学会の行った犯罪事実の一つをみることでもある。
山崎正友は、こういう姿を証拠に、池田大作の弟子といえる。
創価学会の仏敵となってしまった山崎正友は、池田大作にとっては、大いなる失敗作ともいえるところの、池田大作の策謀術を受け継ぎ養成された、まぎれもなく池田大作の弟子であった。
山崎正友にとって、創価学会での10年間の修行期間は、小さなことまで逐一池田大作の決裁と報告を必要とした創価学会組織内において、創価学会が行った犯罪、及びその策謀・隠蔽工作などを含むものであり、池田大作を師匠とする、弟子としての修行・実践の場であったといえるであろう。
こういった修羅道の根底に流れているのは、日寛アニミズムの害毒といえまいか。
とても、真の日蓮仏法を実践する者たちとはいえないであろう。
「あらゆる手段を使って、自分ひとりだけを傑出して見せるように演出し、会員の人気をつちかって、それを背景に、中枢における絶対権を確立してきただけに、大衆の前に顔を出せないとなると、〝去る者日々に疎し〟で、時とともに、組織から池田色が薄れて行く。末端の『先生、先生』の声が次第に少なくなって行くことを、一番敏感に感じとり、焦ったのは、他ならぬ池田氏自身だった。
そこで、何かと口実をもうけては、聖教新聞の紙面に顔を出したがった。反面、『執行部をあまりクローズアップするな』と、北条氏以下が新しいカリスマとなることを、牽制し抜くことも忘れなかった」(同書、山崎正友)
という性格の池田大作が、この2010年途中から12年間姿をみせず、以後、SNSやインスタグラムが一般化して多くの個人が誰でも簡単に自己の画像や動画・肉声をネット上で日常的に公開している時代であるにもかかわらず、相変わらず機関紙や関連書籍では昔の画像や代作と思われる著作やメッセージのみしか公開されず(姿を消した以降の時期の動画や肉声は一切なし)、それによってしか師弟の道や過去の池田大作を宣揚し続けるしかないことが一体何を示しているのか、後述もするが、想像に難くない。
■ 創価学会による暴力団の利用
そもそも修羅道の戦いだからであろうか、過去の同時期に上映された「人間革命」「続・人間革命」でも、渡哲也演じる暴力団が出てくる。
宝島NF「池田代作と暴力団」2012/9/10 西岡研介、乙骨正生、森功、山田直樹他、宝島社出版、P10-11
後藤忠政著「憚りながら」2011/5/26宝島社 P95-116
野村秋介著「陣中に人あり――右翼・任侠・浪漫」1986年 廣済堂出版、P241-
魚住昭著「野中広務 差別と権力」2004/8/4 講談社
や、学会の元顧問弁護士・山崎正友が書いた『懺悔の告発』(1994/3/15、日新報道刊)
これらの著作には、富士宮市における、池田名誉称号授与や、創価学会の『富士桜自然墓地公園』(敷地面積百二十二万平方メートル)の建設や土地取引に絡んで、創価学会の暗躍ぶりが、様々に指摘されている。
この墓苑開発等で地元・富士宮市議会で賛否両論が巻き起こり、創価学会の顧問弁護士を務めていた山崎正友がのりだしていたが、やがて暴力団による傷害事件にまで発展した。
元々、正本堂建設のため創価学会による土地買い占めが行われていたが、1970年代に始まったといわれるこの墓苑開発は、総額二百数十億円にのぼる工事を自民党市議日原博の会社、建設・造園業『日原造園』が中心となって請け負っていた。
彼は1967(昭和42)年から富士宮市議、79(昭和54)年から静岡県議を務め、自民党富士宮支部長を兼ねる実力者だったが、市長や自民党市議の勢力と反対勢力との政争もからんでトラブルが続発した。結局双方の陣営への賄賂と地元暴力団の積極的な協力で何とか完成にこぎつけたという。
これの妨害に関わった富士宮市内のM宅に、暴力団山口組系後藤組幹部が1977(昭和52)年11月21日、12トン用の大型ブルドーザーで突入し、Mに日本刀で斬りつけ、左腕や背中などに2か月の怪我を負わせた。その翌日、殺人未遂の容疑で逮捕されて懲役刑となった。Mは、これがもとでその後死去したという。
野村秋介氏は、この著作時点では引退して青少年問題コンサルタントをしていたが、以下の事実を指摘している。
「反対派の急先鋒になったのが、望月某といって、静岡県のローカル新聞の社主で在野のジャーナリストだったんです。この在野の社主を、後藤組の若い人が短刀で刺すという事件が起きてくる。
その傷がもとでこの人は死ぬんですけども、やった人は懲役七年くらいうたれて刑務所に服役した。これだけの事実でも、もう池田大作は天人ともに許さざる大悪党でね、話にならない。宗教家としては失格ですよ。」(野村秋介著「陣中に人あり――右翼・任侠・浪漫」P242)
引退して得度しているが、当時、後藤組トップであった後藤忠政氏(得度名:忠叡)も、同様に、この事件の当事者として、以下の真実を述べている。
「そんなこんなで日原は怪文書を撒かれたり、告発されたりしてたんだが、日原の悪口と一緒に、ウチの組の悪口を書いたビラを、ご丁寧にも新聞に折り込んで撒いたMという男がいた。それに怒ったウチの若い衆が、相手ん家にブルドーザーで突っ込んだんだ。…この事件でウチの若い衆は(懲役)6年食らったんだけど、実は日原の後ろにはあの『山崎正友』がいたんだ。日原と山崎は、それこそ二人三脚で富士桜を進めていたわけだ。」(後藤忠政著「憚りながら」P98)
「山崎正友は当時、創価学会の顧問弁護士で、池田大作・創価学会会長(当時。現在は名誉会長)の〝お庭番〟であると同時に、『宮本顕治・共産党委員長宅盗聴事件』など、過去に創価学会が行なった数々のダーティーワークの指揮官でもあった。
学会は、大本堂(註、正本堂のこと)を造る時からデタラメなことをしてたんだ。大本堂を造る際に、市道を勝手に(市の許可なく)潰したり、農地を不正に取得したりしてな。それが(富士宮市)議会で問題になったり、道路法違反で池田大作が告発されたりしたんだよ。けど、この告発の黒幕が実は日原で、山崎は日原を懐柔するために日原と組んだんだ。それからは何をするにも山崎と日原は二人三脚だった。
ところがだんだん、学会と日原のこれまでやってきた悪事がバレてきて、富士宮の中でも左翼の連中を中心に『日原造園、創価学会と市政の疑惑を正す市民会議』とかいうのができたりして、(創価学会に対する)反対運動が起こった。デモが起こるぐらいに盛り上がったんだが、その時に山崎から(反対運動が)『何とかならんか』という相談があった。そういう裏の話は当時、あの男(山崎)がすべて仕切っていて、池田ともサシで話し合えるぐらいの実力はもってたんだ。実際、俺にも『親分のことは池田会長に伝えてあります。池田会長も『くれぐれもよろしく』と言ってました』と言ってたんだから。…そのうち(富士宮市)議会に『百条委員会』なんかができて、山崎を証人喚問に呼べだの、池田の名誉市民(称号)を取り消せだのという話になって、いよいよ学会がのっぴきらない状況になってきた…
地元の公明党の連中を通じて(百条委員会を)『何とかして欲しい』という相談があったんだ。それで(百条委員会設置)賛成派の連中に〝話〟をしたわけだ」(同書P98-P100)
拙論文P47で先述したが、この問題については山崎正友が当事者であった。その時の状況を山崎正友は「懺悔の告発」で明らかにしている。
「日蓮正宗総本山大石寺の所在地・静岡県富士宮市は、創価学会にとっても重要な拠点であった。しかし、ここの地元対策には手を焼いた。
富士宮市における創価学会の問題は、昭和四十年から同四十七年にかけての正本堂建立事業から生じた。
この事業は金集めも金の処理も使い方も放漫かつ杜撰であったため、私と桐ヶ谷、八尋の三人の弁護士と十数名の本部職員で、数年がかりで帳簿や議事録をすべて改竄し、目的外の支出を学会本部の支出に振り返るなど、後始末に苦労した。
正本堂建設委員長に就任した池田大作は、正本堂建立に必要な用地確保という名目のもとに、都議会議員や地元議員を使って大石寺周辺の土地を買いまくった。その総量は、三百万坪にも及んだ。そのほとんどは農地であったから、農地法の手続きが必要だった。しかし、池田大作はそうした手続きを無視した。結果として昭和四十七年の段階で、七割近い土地が、農地法による手続き未了のままであり、しかも、そのうち半分くらいは、農地以外へ転用が許されず、農業従事者以外の所有を禁止される土地であった。このような農地法違反に対しては、契約が無効とされる他、刑事罰が科せされる。さらに、正本堂建設に伴い、敷地内に通じていた市道を廃止し他に道路を建設して市に寄付する、という約束を市と交わしていたが、市道について、廃止の手続きをとらないままに勝手に取り壊して、その上に正本堂を建ててしまった。これも、刑事罰の対象となる違反行為である。
日頃から創価学会は、大石寺の存在する富士宮市に対して配慮を欠く嫌いがあった。毎年百万人をこえていた大石寺への登山者は、駅から団体バスで市内を素通りし、買物も飲食も大石寺境内の専用売店ですませるから、地元へは利益が落ちないばかりか、電気、水道、下水、道路等、公共負担ばかりが増えた。大石寺や創価学会が買い上げた土地はすべて無税となって、税収は減る一方だった。富士山麓は宗教のメッカで、本拠とする他の宗教団体も多く、その反発も強まった。こうした情況のなかで、富士宮市政の混乱から生じた疑獄事件について追及派に回った公明党に対する恨みもあって、昭和四十八年、地元市民が池田大作を告発する事件が起こった。池田大作の指名で私はこの事件の処理に当たったが、先に述べたような弱味をもっていた創価学会としては、なんとか穏便にすませるべく、懐柔策を取るしかなかった。
池田大作は、富士宮市に積極的に介入し、支配し、天理教における天理市の如く、富士宮市を〝創価市〟にすべく工作するよう、私に命じた。
私は、当時の市長(社会党)を実質的に動かしている全逓労働組合の幹部と接触し、市長と、そして市議会のボスの掌握に成功した。その際、郵政省の外郭団体・郵政互助会の子会社である弘信商事が、市長の政敵であった自民党市議懐柔のために融資して焦げつきかけていた金を、創価学会が肩代わりした。その名目は、その市議が所有していた土地(弘信商事の抵当に入っていた)を、市庁舎新築移転計画用地として、富士宮市の公団が先行取得して買い上げ、その買い上げ代金を創価学会が市に貸し付ける、というものだった。創価学会が市の公団に貸し付けた金は市議の会社に支払われ、その金はただちに弘信商事に返済された(この土地には結局、市庁舎は建てられなかった)。これにより、市長も全逓幹部も弘信商事も救われ、また、自民党市議も助かり、その市議の口ききで、池田大作の告発者も矛を収めた。池田大作は、創価学会からさらに二億円、三億円と富士宮市に寄付を行ない、公園作り、駅前の都市計画などを行なった。その額は十億は下らない。あげくの果ては、アメリカにおける創価学会の拠点であるサンタモニカ市と姉妹都市の縁組をさせ、そのセレモニーのためという名目で、市長以下幹部職員、全市議会議員(共産党を除く)、有力者をほとんど丸抱えでハワイ・アメリカ旅行に招待した。アメリカでは、現地会員が彼らを下へもおかぬ接待をしたことはいうまでもない。
こうした金のお陰で、池田大作は、富士宮市から名誉市民の称号を受けた。そして、富士宮市の市政を実質的に支配するようになった。
その後、大石寺封じ込めと地元対策、そして創価学会自身の金儲けのために、富士山麓に墓園造成を計画し、創価学会の忠犬となった自民党市議の会社が中心となって、二百数十億円にのぼる工事を請け負うこととなった。
しかし、市長や自民党市議の勢力と反対勢力の政争などから種々トラブルが起き、最後は障害事件(ママ)まで生じたが、双方の陣営に対するワイロと、地元暴力団の積極的な協力によって、何とか完成にこぎつけた。最後まで妨害した人物に対しては暴力団がブルドーザーで家につっこみ、日本刀で片腕を切り落とすという荒治療で鎮圧した。
何しろ国立公園のど真中で有名な大沢くずれのそばの土地であり、保安林、水源から養林、開拓農地、防災地区、砂防地区その他複雑な規制がからみ合っていて、建設省、環境庁、知事や市長、そして自然保護団体等々の協力がなければ絶対に開発ができる場所ではなかった。それでもなお、一、二、法律違反にほっかむりしてもらったまま、開発許可にこぎつけた。
後に、政治家や地元工作に支払った裏金の処理などもからんで、工事代金をめぐって業者と創価学会の間にトラブルが尾を引いた。
私が内部告発に踏み切った後、私が逮捕されている間に私の預けていた書類が流出し、それが原因で、富士宮市に対する創価学会の支配、介入が明らかになった。また、墓園造成工事をめぐる疑惑が提起された。その真相解明のため、市議会に百条委員会が設置され調査に当たった。これを阻止しようとして、墓園工事の請負業者社長が市議会議員に贈賄して、逮捕された。
私は、百条委員会に証人として喚問されたが、数日前、地元暴力団幹部に『出頭したら生命の保障はないですよ』と、証言をやめるように忠告された。
また、墓園造成を請け負い、私の恐喝事件にかかわりの深かった、造園会社の会長である県会議員から、『百条委員会で証言するなら、先生の刑事事件裁判で私は敵に回り、学会側につくよ』と圧力をかけられた。
しかし、私は、万一のことを考え、知り合いのジャーナリストとともに、富士宮市に出かけた。ところが、肝心の百条委員会は、委員である市議会議員が欠席して定足数を満たさず流会となってしまった。市議会議員が、中央からの圧力と、地元暴力団の脅迫に屈して、当日、雲隠れしたのである。
その後、百条委員会は、池田大作の証人喚問を求めたりする動きを見せたものの、次第に尻すぼみとなり、やがて消えてしまった。
創価学会と池田大作の疑惑も、闇に葬られた。
後に、この際の報酬をめぐって地元暴力団と創価学会との間にトラブルが生じ、暴力団から『使い捨てはけしからん』との内容証明郵便が送られたり、学会本部にピストル乱射事件があったりした」(山崎正友著「懺悔の告発」1994/3/15 日新報道P53-56)
話を戻して、つまり、この百条委員会は1981(昭和56)年3月、何ら機能しないまま終わった。
「憚りながら」の引用を続ける。
「ところが、だ。あいつら(学会)の依頼で協力してやったのに、その後(百条委員会が終結した後)は知らんぷりだ。それどころか、俺が今まで山崎から相談を受けて、学会のために協力してきたことを、『それは山崎とあんた(後藤)が勝手にやったことであって、ウチ(学会)は一切知りません』という態度になった。市議、県議といった地元の公明党関係者も、みんな。
それは話が違うだろう、と。山崎はあくまで学会とのパイプ役、池田の使いとして来てたんだ。べつに俺は山崎に使われてたわけではない。あくまで大石寺、池田のために協力してやったんだ。
〝あんまり他人様になっちゃいかんぜ〟という話だよ。
それで、地元の学会や公明党の連中に話をしても埒が明かんから、神奈川の『伏木』(和雄・元衆議院議員・元公明党副委員長)という人間に話をしようとした。ところが、こいつが逃げを打って、門前払いを食らわせた。ならばしょうがないと、竹入(義勝・元衆議院議員。当時は公明党委員長)さんと、矢野(絢也・元衆議院議員。当時は公明党書記長)さん宛に内容証明(郵便)を出したんだ」(同書P102)
「確かほかにも、こんな内容のことを書いたと思うよ。『俺は決してあんたら(学会)に刃を向けようというんじゃない。ただ、今まで俺や若い衆らがやってきたことを、虫ケラを踏み潰すような形で抹殺するようなことはしないでいただきたい』とか、『あんたたちは宗教人として、俺たちも任侠に生きる人間として、仮にも看板あげているからには、信義は守ってくれよ』とか……
けれど、しばらく待っても返事が来んから、念のため、同じものをもう一回出した。それでも返事は来なかった。つまり池田は俺の内容証明を無視したというわけだ。」(同書P104)
ここで「念のため、同じものをもう一回出した」について、詳細には、宝島NF「池田代作と暴力団」P10には以下の記載がある。
「実は後藤はもう一通、内容証明郵便を送っている。宛先はほかでもない。当時の創価学会会長…池田大作、その人である。
私の手元に、その内容証明の全文がある。…
創価学会が当時、いかに後藤組を利用してきたかを証明する、これ以上の文書はないので、その一部をご紹介しよう。【(内は筆者の補足)】。
【池田大作先生殿
貴殿は、昭和五十五年十二月総本山大石寺の膝元、富士宮市、市議会に於ける百条(委員会)問題の始まりと、その百条が終結したその眞相をどれ程知り、又それをどの様に受け止めていたのですか。(中略)
確かにあの百条(問題)に関しては、学会にとって大変な出来事でした。斉藤滋与史氏(元自民党衆議院議員、後に静岡県知事)にしろ、杉山憲夫氏(当時は自民党県議、元自民党衆議院議員)にしろ、当時の事を思い出すと、百条問題調査打切りに関しては多少なりの力添えはあったでしょう。
しかし、現実はその様なその様な甘いものではなかったのです。四方八方に手を尽くしてもどうにもならなかった学会側は、以前の富士宮自然墓地霊園(公園)造成の時と同じ様に、今度は、百条委員会調査打切り、池田大作先生の名誉市民剥奪を叫ぶ市民会議解散、山崎正友元弁護士の証人喚問阻止を、土橋(昌訓)公明党富士宮支部長、公明党元代議士高橋繁、公明党稲田(佳祐)市議、の三氏が学会側の代理人として私の元に依頼して来たのです。(中略)土橋、稲田、高橋、三氏の依頼は、学会そのものの依頼と信んじ、私の心五分、学会の依頼五分と考え合せ、この問題解決のため全力を尽くし解決致しました。そして学会側からの依頼の関しては百パーセントなし得たと断言できます。百条委員会に関しては、週刊サンケイにも記されていた中心人物、河原崎(澄雄)市議を自宅に呼び説得を重ねました。私は常に物事に対するときは、自分の生命を賭け、明日を考えずその一事、一事に全力をぶつけて力一杯生きています。ですからこの件にしても、もしこれが刑法二二三条に於ける処の強要罪になったとしても、私は自分自身に信念を持ち行動して来ました。又、市民会議の代表者である今村、黒田、の両氏を喫茶店「ミミ」に呼び、市民会議を解散する様得々と説得いたしましたし、山崎正友元弁護士に対しては、私自身かなり強い態度で接して私の眞意を伝えました。(中略)
学会側の、土橋、稲田、高橋氏が、私の元に来て依頼されたと言う事は、私はこの件に関して私と学会は一心同体のはずです。先にも書いた様に、富士宮自然墓地霊園造成問題に関係して、私の若い者が学会のために六年もの刑を受け今だに受刑中ですが、(中略)それを知りあえて私に百条委調査打切り、市民会議解散、山崎正友の証人喚問阻止を依頼して来た現実は拭う事の出来ない事実であり、私の信念五分、学会側の依頼五分と言うのも判って頂けると思います。(中略)
しかるに学会側はそんな私の心を踏みにじる問題を投げつけて来たのです。私には地位も名誉もありません
しかし仁義は守り、その上で意地があります。(中略)
学会の指導者は、七百年前に日本を救い数限りない人々に明日えの光明を与えて下さった日蓮聖人の教えを冒瀆し、己だけの権力指向を欲望に生き、口先だけで勤行を唱えているにすぎない(中略)私は池田大作氏の眞の声を聞きたい……】」(宝島NF「池田代作と暴力団」P10)
無謬・本仏を演じる池田大作や、聖なる組織を演出する創価学会にとって、この指摘された真実は極めて認め難く耐え難いものであろう。
だが釈尊の教えでも、「生れを問うなかれ、行為を問え」とあるように、どんな身分であっても主張することが真実なら受け入れ採用すべきなのである。後に引用する野村秋介氏の指摘(山崎正友に対する信用への指摘)にもあるが、世間は残念ながら、信用のない人の主張する「真実」は受け入れがたい。
例えば、釈尊の過去世・歴劫修行の姿として、雪山童子のエピソードがある。
人肉を主食とする赤鬼に、雪山童子が自身の身体と引きかえに教えを乞うたのも、赤鬼から聞いた最初の半偈「諸行無常 是生滅法」が真実であったからである。
そして赤鬼から残りの半偈「生滅滅巳 寂滅為楽」を聞いた後、約束通り赤鬼に身を捧げたのである。
人はウソを言うが法則はウソはつかない。法則は常に真実である。
だから、釈尊は涅槃経において「依法不依人」(法に依って、人に依らざれ)と遺言しているのである。
私が拙論文で根拠としている前提がこれである。主張する者が犯罪者であっても造反者であっても暴力団であっても裏切者であっても、その主張内容が真実であれば採用し受け入れるべきであり、そうしてきたのである。
日蓮も、生涯を通じてこの立場を貫いていた。
「智者の弱きをあなずり、王法の邪を恐る…」
「智者に我が義破られずば用いじとなり、その他の大難は風の前の塵なるべし」
つまり、仏法においてはなおさら、世間においても、真実の法則を用いるべきであって、主張した人間の行為や立場が悪いから等の理由で真実を拒否してはならないのである。
人の立場・人格や信用は、その人の主張が真実かどうかとは関係がないことも多い。しかし世間や司法の場では、人の信用性が重視されることが、残念ながら世法の限界である。
日蓮が生涯にわたって法難を受けたのも、この背景があるからである。
人格攻撃をして相手の主張する真実を否定することは、創価学会のみならず世間一般の得意とすることのようであるが、これでは「依法不依人」とは真逆の「依人不依法」となってしまい、仏法にも科学的・客観的にも反することになることに、注意すべきである。
拙論文で先述してきている日寬アニミズムも、まさに「依人不依法」である。
話は戻る。
この後3カ月ぐらいで富士宮署に『後藤組壊滅対策本部』ができた。
「ウチの若い衆が片っ端からパクられていった。それこそションベンしても、屁をひってもしょっ引かれて、1年足らずの間に30人以上がブチ込まれたんだ。
ガサ(家宅捜索)の時は決まって、(静岡県警)本部から、わざわざ本部長がヘリに乗って飛んできて、(後藤組の)事務所の上をグルグル回って、本部長自ら、(家宅捜索を)指揮してたんだよ。
その時、思ったね。ああ、そうか、お前ら(学会)はいざとなるとこんな汚い手使ってきやがるんだな、と。そりゃ、国会だったら公明党使って、警察庁に圧力かけりゃあいい話だし、池田の御膝元の(東京)都議会でも、公明党は昔から与党だったしな。予算握ってるもんで、警視庁に圧力かけるのも造作はないわ。
けど、これには本当に頭にきた。『じゃあ、池田先生に直接、ものを言いに行くしかないわな』と思ったよ。
そうこうしているうちに、若い衆が、池田が東京女子医大に入院したという話を聞きつけて、俺より先に『池田先生』に会いに行ったらしいわ(笑)。ところが、それを知った池田が急に退院しちゃったもんで、若い衆は(東京都新宿区)信濃町の学会本部(創価学会文化会館)まで出かけて行ったんだ。」(「憚りながら」P109)
続く話として野村秋介著「陣中に人あり――右翼・任侠・浪漫」P244-253にも、以下のような指摘がある。
「これで後藤忠政氏は本当に腹を立てるわけですよ…僕は後藤氏と出会い、その話を聞くことになったんです。
僕は話を聞いて、もしそれが事実ならば、後藤氏と一緒に池田大作と戦ってもいい、と本当にそう思いましたね。池田大作に腹すえて一太刀いれようと思えば、そんなものは決して難しい話ではない。
しかし、一方的な話だけ聞いてもしかたがないので、創価学会側や証人たちの話も聞いてみようと思って、一番最初に内藤国夫氏に会いましたね。内藤氏はいろんな資料も持ってるんで、その資料をもらいました。
それから山崎正友元創価学会顧問弁護士にも会って、その経過を聞いて、後藤氏の言ってることが事実か事実じゃないか確かめてみた。
山崎氏自身は、『間違いない。後藤氏の言ってる通りです』ということを僕に言った。
ところが山崎正友は創価学会恐喝事件で起訴されている最中で係争中のために、山崎氏が発言しても世の中の人が信用してくれない。
それで山崎氏に、『あなたが知っている後藤氏と会った学会側の人物、証人を僕に紹介してくれませんか』とお願いして、三人の人を紹介してもらいました。
その三人は、公明党の元県会議員、現職の市会議員、元国会議員という人たちだった。
この人たちに確認をとってみたところ、それは間違いない事実であるという回答を得るんですよ。
そういうことを背景にして、僕が創価学会に対して、
『そういう事実があるのに、何故後藤氏に会ってあげないのか。会って、あなただたが正しければ正しいように堂々としたことを答えればいいんであって、たかがヤクザだといって黙殺するのはどういうわけだ。ちゃんと会って話しあいをしたらどうですか』
というやはり内容証明付郵便を池田大作氏に送り届けるんですよ。
これはマスコミにはいまだに出ていません。が、それに対しても結局、池田大作をはじめとして創価学会は黙殺するという挙に出ましたね。」
■ 切り捨てズムの再来
ここで、過去の歴史を振り返ってみたい。
前述した江戸時代の寛政の法難において、寺社奉行所からの問い合わせに対し、法難を恐れた大石寺が、歴史的盟友の要法寺を「知らぬ存ぜぬ」と切り捨てた構図に、あまりにも重なる。
創価学会は、暴力団との関係、および過去の不都合なことが世間に発覚するのを極度に恐れたことは想像に難くない。
野村秋介氏はさらに、創価学会批判ができないような、銀行・マスコミ・ジャーナリズムなどの様々な社会的状況を指摘する。
「その直後…大石寺の宿坊に、夜中、散弾銃二発が撃ち込まれ…さらに東京・信濃町の創価学会本部に火炎ビンが投擲されるという事件が起きましたね。
…マスコミは…表面的な報道だけだった。いまのマスコミというのは非常に弱い部分があってね。正論が吐けない時代になってる。マスコミが歪んだ時代がきてるわけですよ。
たとえば創価学会の年間収入というのは、何百億でしょう。現在の預金額、貯金金額だって何千億円という膨大な金を動かせるから、大手銀行はその導入のために汲々としてるわけですね。
毎日新聞のケースでいうならば、内藤邦夫氏が一記者でありながら、創価学会の糾弾に立ち上がった。そしたら創価学会は…まず最初に金融機関に圧力をかけたんです。
圧力をかけられた毎日新聞はまいって…毎日新聞の社長、幹部が内藤国夫氏を呼びつけて、創価学会批判を止めるように厳命した。
ところが、内藤国夫氏が利口なのかバカなのか…まあ、一徹の人だったんでしょう。上層部のいうことを聞かないで、結局は創価学会批判に全エネルギーをかけるわけですよ。
そうすると、干されちゃう。…内藤国夫氏はとうとう会社をクビになってしまって、野にくだる…
そういうことをみせつけられれば他の記者たちも、悪いヤツだってことがわかってても、もう創価学会批判はできないような態勢に入ってくる。
僕の主義は、明治大帝が、『広く会議を興し、万機公論に決すべし』ということを言われていることからもわかるように、すべてのことに対して何のわだかまりもなく、お互いが議論しあえるような状況がなければ、社会は健全に成長していくことはできないということなんだ。そのためには言論機関が健全に機能しなければならないのに、池田大作批判もできないというのでは、どうかんがえてもおかしい。…中略…
いまわね、僕はもう引退して青少年問題コンサルタント――青少年の相談にのる立場にたっていますからね、そういうような乱暴な発言はしませんけれども、…中略…
僕が後藤氏と池田大作の問題に対してどのような考えを持っていたか、参考のためにここに『新雑誌X 』の六十一年二月号に書いた文章を掲げます。
『創価学会名誉会長・池田大作氏へ』…著者からの書状
初めに一言断っておきたい。私の娘は貴君がひきいる創価学会の一員である。だが、私は娘に学会員であることを批難したことは一度もない。
それが単に、信仰は自由だから、というきれいごとのためではなく、もっと人間の本源に関わることがあったからだ。
ご存知かもしれないが、私は事情があって十八年間獄中にあった。いわゆる河野邸焼き討ち事件を起こして刑務所に入った時、娘はまだ一歳だった。
その後、途中二年間の社会復帰はあったが、都合十八年間獄中にあって、その間、娘には一度も会わなかった。今度出てきた時、娘は二十一歳になっていた。
父親の顔も知らずに育ったこの不幸な娘が、社会からドロップアウトすることもなく、ごく普通の明るく健康的な女性として成長している姿をみたときは、私は心底うれしかったし、一つの驚きでもあった。何がこの娘を支えてくれたのか。
それこそ、創価学会の信仰だったのだ。だから私は貴君には感謝こそすれ、批難すべきことは何もなかった。この場を借りて、ひとまず感謝の意を表したいぐらいだ。
私が今回筆をとるのは、貴君と山口組系後藤組との間で繰り広げられている一連の騒動のことである。だいたい宗教団体であり、公明党という公的な政党を抱える貴君らが、何故ヤクザから狙いうちをうけるのか、まことにもって不可思議千万といわねばなるまい。
私が後藤組と学会との確執に最初に触れたのは、出獄後まもない二年ほど前のことだ。その段階で後藤忠政組長から貴君あてに内容証明郵便が二通送られているはずだ。それに対して貴君らは、ヤクザを軽視したのか、事態を重くみたのか定かではないが、それを黙殺する挙に出た。
その内容証明郵便には、貴君らにとってきわめて不都合なことが書かれてあったからだ。
つまり、地元・富士宮の反学会派潰しやもろもろの悪行を後藤組に請け負わせ、さんざん利用するだけ利用しておいて使い捨てたという事実である。
貴君らはそういった後藤組との関わりをいっさい否定しているようだが、もし百歩譲って貴君らの言っていることが事実であるとしよう。それならなおのこと、突きつけられた内容証明郵便を黙殺するというのはおかしいし、まことに愚かと言わざるを得ない。
考えてもみたまえ。まったく身に覚えのないことを、内容証明郵便という形で送りつけられたならば、まず普通人の感覚なら、会って事情を聞こうとするのが常識ではないだろうか。私個人にしても、いわれなき請求書や内容証明郵便がくれば、事実を明らかにしようとするに決まっている。
それを貴君らはどうしたか。あえて黙殺したばかりか、あまつさえ警察権力の手を借りて公然と後藤組潰しの挙に出たのである。後藤組が内容証明郵便を貴君に突きつけたわずか二、三ヵ月後には、静岡県警によって富士宮署に『後藤組壊滅作戦本部』が設置されたという事実がすべてを物語っている。まだ山口組が分裂さえしていないときで、警察がとりたてて後藤組だけを狙いうちしなければならない必然性は何もなかった。
いうまでもなく貴君らが警察に圧力をかけたのである。警察予算まで左右する都議会のキャスティングボードを握る公明党には、からきし弱いのが警察であることはよく知られている。
つまり後藤組に対する貴君らの返答が、警察権力を使った口封じだったのだ。考えてみれば、天下の山口組直参組織をいいように翻弄する貴君も、たいしたタマである。だが、これだけは言っておく。ヤクザというものをあんまりなめてはいけない。はっきり言って現今の右翼などよりよっぽど腹のすわった仕事をするのが彼らである。もっとも、それは貴君らが今回いやというほど味わうことになったはずだが……。
内容証明郵便を突きつけてきたヤクザを、警察権力を使って潰しにかかるなんてケチな真似はやめたまえ。やましいことがなければ堂々と合えばいいではないか。たかが一人のヤクザを折伏させることができないようでは、冥土に行ってから日蓮さんに笑われますよ。
これは私が説教するまでもなく、もともと創価学会というのは、牧口常三郎、戸田城聖たちが社会のどん底から、社会の底辺にうごめく衆生を再度するためにたちあがった集団ではないのか。現に牧口常三郎は反権力を貫き、獄中で南無妙法蓮華経を唱えながら獄死している。
しかるに貴君はいな、逆に権力の手に守られて、姑息な生きざまをさらしている。この一事をとっても、貴君は牧口、戸田を裏切っているし、ましてや多数の信者をも裏切っているのは明白である。
池田大作よ、もうこれ以上、信者を欺くのはやめたらどうだ。貴君はこれまでも、一連の女性問題等のスキャンダルに対しても常に法難と称して詭弁を弄してきた。だが、そんなことはどうでもいい。 貴君が学会内部でどんなご乱行を重ねようと、お手付女を幹部にお下げ渡そうと私の知ったことではない。どうせ貴君は地獄にいくことになるのだろうから、シャバでの少々の贅沢にも目をつぶるとしよう。どうぞ、ご勝手に、というところだ。
だが、社会に対しての背信行為だけは、断じて見逃すことはできない。ヤクザから撃ち込まれた銃弾は法難ではなくて、天罰であることを知るべきだ。いま君にきわめて研ぎ澄まされた牙が向けられていることを、腹をすえて覚えておきたまえ。」(野村秋介著「陣中に人あり――右翼・任侠・浪漫」、P244-253)
野村秋介氏の指摘は、鋭く真実をついている。
刀が正義の時代に法を唱え数々の命に及ぶ法難に丸腰で立ち向かった日蓮の姿と、この時の創価学会の姿勢とは、まさに正反対である。
だから、「たかが一人のヤクザを折伏させることができないようでは、冥土に行ってから日蓮さんに笑われますよ」である。
この件に関してはまったく指摘の通りであり、やましいことがあるからこそ堂々と会えない。
師弟不二や日蓮本仏論を唱えながら「堂々と会」わないばかりか、「警察権力を使って潰しにかかる」ことは、他宗の僧らと「堂々と会」って論戦を主張し時の「権力に真向から立ち向かった」日蓮の姿勢とは正反対行為のようだ。
これは前述した江戸時代の寛政の法難の構図に、さらに権力側に組したに相当すると思われる。
中でも上記の指摘のように、「創価学会は、牧口常三郎、戸田城聖たちが社会のどん底から、社会の底辺にうごめく衆生を再度するためにたちあがった集団であり、現に牧口常三郎は反権力を貫き、獄中で南無妙法蓮華経を唱えながら獄死している」
にもかかわらず、池田大作は、「逆に権力の手に守られて、姑息な生きざまをさらしている。この一事をとっても、池田大作は「牧口、戸田を裏切っているし、ましてや多数の信者をも裏切っているのは明白である。」
この指摘は、池田大作の師弟不二が欺瞞であったことを見事にあぶりだしているといえる。
そして「社会への背信行為だけは、断じて見逃すことはできないし、打ち込まれた銃弾は法難ではなくて、天罰であることを知るべきであろう」
この指摘でも明らかなように、創価学会が言い張っていたような「日蓮本仏論による法難」というのが、いかに都合よい解釈であることかが分かる。
そして、創価学会は、このような指摘にも一向に目を背き続けたのである。
まさに、修羅道であろう。
さらに野村秋介氏の貴重な指摘は続く。
「それでも…金融筋で押さえられているために、マスコミは…創価学会批判にまでは発展しなかった。
ともかく創価学会の悪質なところは、一番初めに警察権力を使って後藤組を崩そうとした。
とくに創価学会の場合は公明党という公党を用意して、東京都の警察予算のキャスティングボードを握っているために、自民党とすれば公明党の力を借りないと警察予算とれませんからね。
そういう弱点をついて、池田大作のボディーガードを雇っているわけだから。いま、私人としてボディーガードを使っているのは、池田大作一人じゃないですか。警視庁の出張のボディーガードを連れて歩いてますね。
それ自体だって、考えてみれば言語道断の話だと思うんですよ。
…
話を元に戻すとね、後藤忠政氏は創価学会、池田大作に対して、金くれということは言ってないんだ。自分も誠心誠意やったんだから、誠心誠意、『どうもありがとう』とひとこと言ってくれればいいんだ。というのが後藤忠政氏の意見だからね。
こういうに権力ってのは一番弱い、と僕は思うんだね。僕なんかも人から金はもらわない。喧嘩もずいぶんしますけど、絶対そういうところから金をとったことはありませんからね。僕は大勢の人の善意に支えられて、現在生きているんだけど、決して金なんかとらない。
その姿勢は、いずれ敵味方を問わず、日本人同士なら必ず通ずると思うんだ。
…中略…
もっとも学会にだって人物はいるさ。あれだけの大集団なのだからきっと事態を深刻に受けとめ、冷静に対処しようとする人物が出て来るとは思うがね。」(同書P255)
この人物の一人が、その後話題に上がった✕という人物だった。
■ 真実こそが、人を救う価値である。
この真実を隠蔽され知らされていない純真な会員にとって、そうであった私も含めて、乗り越えなければならない心理的・信仰上に立ちはばかる壁は天まで届くほどに高い。知らない方が幸せ?だったかもしれない。
あなたや私にとって、真の「信仰」とは何なのか。
「イワシの頭も信心から」と言われるが、信じるモノが「イワシの頭」でいいのか。
イワシの頭が、巨大な純金でできていても、所詮イワシの頭は、科学的・客観的に見れば信ずるに値しない「イワシの頭」である。
こんなものに「帰命」(南無)していいのか。
人生をかけて「帰命」(南無)していいのか。
真の日蓮仏法とは何なのか。
真の「師弟不二」、「血脈」とは何なのか。
拙論文で挑んでいる課題である。
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「『よくやった』
私はほめられた。
『次は八王子市でできないか。あちらに、学会の本山をつくって、将来、創価市としたい。今、唐沢(創価大学理事長)や八尋にやらせているが、君も手があいたら向うに入って手伝ってくれ』
幸か不幸か、私は八王子市まで手をのばすゆとりがなかった。そして八王子市の創価王国構想は、昭和五十三年初めに挫折し、従って、八王子市名誉市民も、創価市への改名もお流れになった。
富士宮市における池田名誉市民は、事件処理の弱味をかかえて、市への協力を余儀なくされたという背景があったとはいえ創価学会員の浄財によって買われたものであり、十数億円もの会員の金で、池田氏の個人的名誉心が満足させられたことに変りない。
このように、多額の金で買った池田氏の名誉市民称号が、いまやピンチにひんしている。
『富士宮市名誉市民条例を廃止する条例(案)の提出について』
地方自治法第百十二条及び富士宮市議会会議則第十四条の規定により、別紙のとおり提出する。
昭和五十五年 月 日
…
富士宮市名誉市民条例(昭和五十年富士宮市条例第九号)は廃止する。
理由
創価学会が市政に関与、又は介入した疑いが極めて濃い事が12月定例会一般質問において明らかになり、市政上に重大な影響をもたらしている。
市民の間にも世論の高まりと共に創価学会に対する不信の念が広がりつつある。
よって創価学会名誉会長、池田大作氏の富士宮市名誉市民は富士宮市の誇りと市民の尊敬の象徴として、それに価するか極めて疑問の点が多い。従って現状においてはふさわしくないと判断せざるを得ない。
…
かつて池田氏のために名誉市民条例がつくられ、今また、池田氏のために、条例廃止の条例が出される。
これは日本の地方自治体に例を見ない、否、世界の都市にも例のないことであろうが、とにかく、池田氏が大物であることの証明であったことには間違いあるまい」
(山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」1981/12/15、三一書房、P132-P133)
3.
コメント3
「寄付と引きかえの名誉市民
おりから、昭和四十五年の言論問題のいたでがいまだにいえず、妙信講問題その他四面楚歌の状況の中でかろうじて迎えた正本堂落慶式であっただけに、
『日本で評判ガタ落ちだが、海外では名声いよいよ高い』
と、大いに宣伝し、海外での作られた名声によって、国内の失地回復をはかろうとした。そして、それは成功した。
ちなみに、昭和五十五年十月以後、池田氏はさかんに〝世界広布〟〝海外布教〟とあおり立て、昭和四十七年のときとまったく同じ手口で名誉ばん回をはかろうとしたが、あまり成功しなかった。柳の下のドジョウならぬ、いつもワンパターンの発想の貧しさを自ら露呈しただけに終ってしまった。
十月の訪米では、キッシンジャー氏と会談の予定だったが、どうやらことわられてしまったらしい。
もっとも、数年前、キッシンジャー氏が来日のおりに池田氏と会談しているが、ある記者に『なぜ池田氏と会ったか』と質問されて、
『あのような教団がなぜひろまるのか、好奇心があったからだ』
と答えたというから、今のように、仮面がはげ落ちてしまえば、キッシンジャー氏の好奇心の対象からはずれたのも当然のことといえようか。
さて、池田氏は、アメリカの、名前を聞いたこともないような都市の名誉市民称号を手に入れて大いに喜んだが、その後で、『なんとか、日本の名誉市民になれないものか』と考えた。
一年後、総本山大石寺の地元富士宮市で池田氏を市民が告訴する事件がおこり、その処理のため、私が富士宮問題にクビをつっこむ破目になったいきさつは、前に述べたとおりである。
地元の要望にこたえて、創価学会としては、多額の寄付や貸付金等の支出を余儀なくされることが避けられない状況となったとき、池田氏と私は、一計を案じた。
それにもとづいて、私は、北条氏らとともに市の有力者達と交渉した。
市の有力者は、
『創価学会と大石寺がたくさんの土地を買い占めたことによりいずれも宗教法人の免税措置を適用されるので、市の固定資産税収入が減る一方である。その反面、団体バス等による道路の損傷、上下水道、その他公共負担が増大する一方である。創価学会、大石寺は、結局市民の負担によりかかって恩恵をこうむっているのであるから、不公平が生じている。創価学会と大石寺の所有している不動産を非公式に洗いなおしてみたところ宗教上の用に供していると思えない部分がたくさんあり、それに課税するとすれば、固定資産税で六億近く、新税予定の土地保有者で四億近くにもなろう』
と吹っかけて来た。
学会側には、農地の大量不正取得、手のうちを市当局に知られたくない事情があった上に一つの魂胆があったので、次のような主張をした。
『課税対象になる不動産がどこまでかということの判定は、いろいろ議論のあるところであり宗教法人側にもいい分がある。この際、角が立つやりとりをやめて、市の税収が減った分と、過去に学会が約束した事項の双方を考慮して、創価学会が市に対して寄付や貸付をするということで、つまり、積極的な協力というきれいな形をとりたい。地元の方も、無理やり取るとか、ゆさぶりをかけるといった姿勢ではなくて、創価学会に協力し、礼儀をつくすというやり方をとるべきだ』
幾度かの折衝の後に、妥協が成立した。私は池田氏の意を体して、市当局や有力者に、
『寄付等には応じるかわりに、池田氏を名誉市民にしてほしい』と要求した。
さすがに、相当な抵抗があったが、二つの公園の寄付、池田教育基金三億円の寄付、市民会館建設への協力約束、土地開発公社への四億円の寄付等々、おびただしい札束攻勢(本来なら税金として取り立てれば良いので、そうすれば、市当局も恩に着せられることはなかったのだが)を背景に、有力市議会議員らがあっせんに動き、およそ一年半がかりで昭和五十年には、やっと名誉市民条例の制定にこぎつけ、池田氏がめでたく名誉市民第一号になったのだった。日本では、おそらくはじめてに近いことで、富士宮市としては、金を出してもらいたいばかりに大変なお世辞をつかったものだし、有力者たちは、学会から甘い汁を吸おうと、そのあっせんに走ったのだった。
…
(山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」1981/12/15、三一書房、P127-130)
2.
コメント2
「昭和五十四年四月、池田氏が会長を辞任して名誉会長にしりぞいた後、私は、宗内の動揺を考えて、半年ばかり表面に出ないで静かにしているようにすすめた。しかし池田氏にしてみれば、聖教新聞に一週間も二週間も出ないでいることが、辛抱できなかった。毎日のように、
『○○国の大使と会った記事をのせたいが、どうか』
『✕✕功労者宅を訪問したがその記事はどうか』
と、うるさく迫って、その後、私と衝突した。結局、私の意見を無視して、北条氏以下新執行部のクローズアップを断固として許さず、チョロチョロと顔を出しつづけたために、活動家僧侶や檀徒の反撥は一向に冷却しなかったのである。
このような、池田氏の病的な有名病にとり入ったのが、他ならぬジョージ・ウィリアムス(アメリカ日蓮正宗理事長)であった。
ウィリアムスは、池田氏が訪米するたびに、地元の市長、知事、学者等と会談させ、そのニュースを聖教新聞に写真入りで報道することにより、国際人池田大作の演出に大いに功があった。
池田氏は、この〝国際平和の使徒〟の演出の成功に大いに気をよくして、本気で、ノーベル平和賞の獲得の野望をもやし工作にまで乗り出した時期があったのである。
ウィリアムスが、同じく池田氏のきげんとりに使った手段の一つとして、〝名誉市民称号〟があった。アメリカでは、どこの都市でも、ちょっとした著名人にいともあっさりと名誉市民称号を与える場合が多い。しかし日本で名誉市民条例を設けている都市は、皆無に近い。アメリカで〝名誉市民〟といっても、それほどのことはないが、日本で〝名誉市民〟といえば、大変な栄誉である。これに目をつけたウィリアムスは、正本堂落慶式を機に、池田氏のために、いくつかの市の名誉市民称号をプレゼントした。これは、池田氏をいたく喜ばせた。昭和四十七年十月のことである。
(山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」1981/12/15、三一書房、P125-127)
1.
コメント1
「ワビ状と罰金をとるのが好き
最近聞くところによると、公明党の竹入委員長、矢野書記長らが、池田氏に対しまたまたワビ状を書かされたという。
学会首脳からのホットラインが私に伝えるところによると、私を、昭和五十五年の年末までに地獄におとす、つまり追放させられなかったことに対してのものか、あるいは、自民党を抑え切れなかったことの責任を追及されたものか、いずれかだという。
池田氏のワビ状好きは、今にはじまったことではない。ことあるごとに〝一礼〟とるのが、クセである。ひところは〝罰金〟という制度もあった。最高幹部が何かヘマをやると、即座に池田氏から
『罰金○○円』
という宣告が下り、第一庶務の男性が(この場合、どういうわけか女性でない場合が多かったが)すぐに取り立てに来る。最も盛んな頃は、本部内の黒板に、
『本日の罰金誰々○○円』
と列記されて公示されていた。
取り立てた罰金は、池田氏のポケットマネーに充当されていたらしい。
学会本部内に、監視用テレビカメラが各室ごとにとりつけられていたが、池田氏は、ひまなとき、しょっちゅうこれをつかって、居眠りしたり、あくびしている職員を見つけては罰金を乱発した。きっとⓅ代(池田大作氏への上納金。ⓅはPresidentの略)が欠如していた時かも知れない。
最高幹部に対する、有無を言わさぬ、サディストめいた接し方は、池田氏の体質であると同時にそれが、人並みの羞恥心やプライドを持つ幹部にとっては恐怖心をいだかされ、絶対服従を反射的に強いられるムチであった。
例えば、無口でおとなしく、学究肌のT理事(当時)は、池田氏の余り好きでないタイプだったが、この人がたまたま結核にかかった。ある月の理事会で、池田氏は、T理事を立たせ、満席の中で総括した。
『お前は、女房とやりすぎなんだよ。結核は、やりすぎからかかる病気なんだ』
T理事も、同席した夫人も真っ赤になって耐えていたが、そういえば、池田氏自身、若い頃結核で長い間苦しんでいたと、自伝に書いているから、体験的な指導であったのであろう」
(山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」1981/12/15、三一書房P121-123)