Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P48, 池田本仏の背景と構成要素、第66世細井日達の教義歪曲(1)
昭和47年6月15日、正本堂の落慶を迎える半年前の第61回社長会にて、池田大作は、
「今、世の中は個人主義、自由主義になっているが、本当は全体主義は一番理想の形態だ。ただ、個がなくなるからいけないだけだ」(「継命」編集部編「社長会全記録」1983/6/10 継命新聞社、P285)
と、本音をのべている。
これに註して、この著者は、同著P291にて、
「池田の本音。創価学会の組織は、宗教を利用して池田をカリスマ化した全体主義の体質。したがって、池田批判は絶対許さず、反学会の言論には異常な反応を示す。45年の言論出版妨害事件もこうした体質から必然的に発生した。昨今の山崎、原島らの側近幹部の告発や、内藤国夫、溝口敦らジャーナリストの批判に対しても、悪口雑言の限りをつくしている」
と述べている。
これは、拙論文で詳細に検討したが、
池田大作が「全体主義が理想の形態だ」と述べたことは、彼の思想と創価学会の組織構造の核心を明らかにしている。全体主義を理想としながらも、個の重要性を認識している池田の発言は、彼の指導スタイルがいかに巧妙であるかを示し、この発言に基づき、創価学会がいかにして池田をカリスマ化し、組織内外の批判に対して厳しく対応してきたかを理解することができる。
そして、創価学会の組織が全体主義的な体質を持ち、池田をカリスマ化していることを示している。池田批判を許さず、反学会の言論に異常な反応を示す創価学会の体質が、言論出版妨害事件の謝罪講演以降もまったく反省もなく続いていたことを物語っている。
すなわちこの組織が根本的な変革を拒んでいることを示唆している。
建前上は謝罪を繰り返しても、本音は個人主義・自由主義を否定し、自身は全体主義の頂点に君臨するかのようにも見える。
また、「ただ、個がなくなるからいけないだけだ」という、その弊害まで解っていながら言っているのである。
さらにここでは、
「藤原弘達が又書いた。三類の強敵の的がはっきりした事はいいことだよ。大聖人様の時代の平左衛門のように、これで学会も本物だよ。悪世末法だから敵がいる。敵のない勝負なんてないよ」(同書同ページ)
と述べているのだから、一面から見れば仏法悪用もはなはだしいかのようである。
「学会も本物だ」と藤原弘達の批判を利用して述べたことは、仏法を自身の利益のために利用していることを示している。
さらに、同会では、
「来年の一月元旦から本格的に教学をやる。本部関係の職員、外殻の社員を徹底的にやる。六巻抄等をやる。全員実質的に教授の力をつけさせなければならない。
地域の活動は持続してゆく。原島(註、原島崇教学部長)を中心とした、若手教学陣の近代教学を展開する。彼らには全部、口伝です」
と述べて、昭和48年からの、日蓮仏法の悪用(?)教学を、しかも、表面上では明らかにされず、証拠にも残らない「全部、口伝」で行うというのである。
この「口伝」、つまり口コミの情報操作は、今でも創価学会の多くの末端組織の会員まで見事に行き届く体制になっている。
浜中和道の回想録P84にある、山崎正友の「『学会はそういうこと(註、日蓮正宗への宣戦布告)は絶対に記事にしないよ』」の証言が、すでに会員に対しても本音と建前を巧みに使い分ける体質が出来上がっていたことを示唆している。
すなわち教学を「口伝」で行うという情報操作の手法は、創価学会が組織内の情報をどのように管理し、末端まで行き届かせているかを示すものである。浜中和道の証言も、学会が本音と建前を巧みに使い分ける体質を裏付けている。
原島崇や山崎正友の告発が、いかに真実性をおびているか。
彼らの告発著書がなければ、これらが永久に闇に葬られることになっていたであろう。真実に基づいた内部告発が、いかに重要であるかが分かる。
現実に、原島崇は、それに加担し、日蓮仏法を悪用して、池田大作を全体主義の本仏へと祀り上げていったことを、自著「池田先生への手紙」にて、明らかにし、懺悔している。
これらの池田の発言と、原島崇の告発・懺悔は、創価学会の本質を浮き彫りにするものとして、歴史的にも重要である。
さらに、本尊模刻問題に対して、池田大作は原島崇に対し「私はすべて猊下のお許しを得てやりました」と毅然として述べたが、実は、
「それを先生から命を受け実質的に推進した陰の方に、私が直接聞いたことは『本尊模刻は、本当は総本山に事後報告という形でなされた』ということであります。この事実は、日蓮正宗の信徒にとっては根本問題だけに、決して表面を取りつくろうことなく、責任をもって真実を会員に知らせるべきではなかろうかと進言申し上げる次第です。また車中にて私がこの問題について質問申し上げましたところ、先生は『それは正しいんだ。我々自身が妙法の当体(そのままの体)なんだからこれでいいのだ』とおっしゃいました」
これだけでも、池田大作が会内では本仏として振る舞っていたことを示唆することであろう。
その後、模刻された板マンダラは合計8体あったというが、細井日達の慈悲により、本部の文化会館の板マンダラを除いて、大石寺に返却されている。
念のため再び、浜中和道の回想録の検討をする。昭和51年、池田本仏論の表面化と宗門攻撃の前後の様子、そして池田や創価学会の本音が、聖教新聞などには絶対に語られないことが述べられている。ましてや、公の出版物や取材においてはなおさらである。
「浜中和道回想録」のP81-84によると、要旨はこうまとめられる。すなわち、1970年代のある日、山崎正友が「破邪新聞」の原稿を持って阿部教学部長(註、後の大石寺67世法主日顕)と会った際、池田大作を仏と崇める言説が日蓮正宗内部に広まっていることが問題となった。阿部は山崎に確認を依頼し、山崎は「池田さんは本仏気取りだ」と答えた。さらに、野崎勲や原田稔、宮川清彦がこれを煽っていると述べた。これらの青年部が「池田先生を仏として信伏随従する」との誓いを立て、「伸一会」を結成した。伸一会は池田の著書「人間革命」の登場人物名から取られた名前で、池田を本仏に仕立て上げ、日蓮正宗を乗っ取る計画を持っていた。その宣言は、昭和51年5月3日の創価学会本部総会で行われたが、このことは「聖教新聞」には掲載されなかった。山崎は浜中和道に、日達にこの事実を伝えるよう忠告した。これまでは噂に過ぎなかった「会長本仏論」が事実であることが、山崎の口から明らかにされた。しかし、山崎は池田への忠告を聞き入れず、池田から距離を置かれていた。
この回想録から見えてくるのは、創価学会内部での権力闘争とその影響である。浜中和道の回想録は、池田大作を仏と崇める風潮が学会内でどのように広がり、それが日蓮正宗との関係にどのような緊張をもたらしたかを明確にしている。
池田を「本仏」とする思想が学会内部で煽られていたことは、創価学会の指導部がどれほど権力を集中させていたかを示している。山崎正友が述べるように、野崎勲、原田稔、宮川清彦といった青年部幹部が池田を仏として信伏随従する誓いを立てていたとあることは、組織内でのカリスマ化と指導者崇拝の程度を如実に物語っている。
また、日蓮正宗の内部でこの動きを危険視していた法主日達の反応も重要である。日達が「池田先生は仏様です」との言説に激怒したとあることは、宗門側が創価学会の動きに強い危機感を抱いていたことを示している。日達の指示で確認が行われたが、山崎の証言からは、この指摘がただの噂ではなく、実際に存在していたことが明らかになっている。
さらに、青年部が「伸一会」というエリート組織を結成し、池田を本仏として崇める計画を持っていたことは、創価学会の内部で組織的に進められた戦略の一部であったことを示唆している。この動きが「聖教新聞」に掲載されなかったことは、学会が情報操作を行っていた何よりの証拠である。
すなわち、浜中和道は、創価学会内部の権力闘争とカリスマ化、日蓮正宗との関係悪化を浮き彫りにした。池田大作の影響力が組織内でどれほど強かったか、そしてその影響力を維持するためにどのような手段が取られたかを明確に示していた。この動きが学会の信頼性や宗教的正当性にどのような影響を与えたかを考える上で、非常に重要な示唆を与えていると言える。
■ 宗門・創価学会の紛争の本質――下山正行の指摘
池田大作を、ここまで驕慢たらしめたのは、彼の側近たちばかりではない。
民主的憲法制定下において、政界進出のためには、三大秘法抄に基づいた「勅宣・御教書」を要する本門事の戒壇、すなわち日蓮正宗700年の伝統教義で、師匠の戸田も創価学会の目的として宣揚していた時代遅れの国立戒壇論を、どうしても否定しなければならない。
しかし、創価学会の組織発展・政界進出のためには、700年の伝統を誇る日蓮正宗の純真な信仰を持つ信者の情熱を駆り立てる必要がある。
先述もしたが、700年にわたる日蓮正宗の教義を権威として利用することが、この時期においての創価学会の発展には必要不可欠であった。
池田のリーダーシップがどのようにして形成され、維持されたかを理解するためには、この視点は欠かせない。
そこで、組織拡大の勢いや莫大なカネ(御供養金)集めを背景に、少しずつ教義を曲げ、戒壇は国立でなく民衆立、そして民衆立の正本堂を本門事の戒壇と言いくるめた。
国立戒壇論の否定と、それに伴う教義の曲げ方についての説明は、創価学会がどのようにして時代遅れの教義を捨て去り、現代社会に適応していったかを示す。池田が教義を曲げることで組織を拡大し、莫大な資金を集めることができたという点は、彼の戦略的な思考を示している。
また、広宣流布の状態についても、日蓮の云う「万人一同に南無妙法蓮華経と唱えれば、吹く風枝をならさず雨土くれをくだかず」の状態から、日蓮の遺文にはどこにも存在しない「舎衛の三億」へ、そして言論出版妨害事件の謝罪演説では「流れ」となってしまった。
正本堂の意義についても莫大な供養を集めた時に口コミで喧伝したこととは全く異なった異議へ言いくるめられていた。すなわち広宣流布や正本堂の意義についての捻じ曲げられた説明は、創価学会が内部でどのように情報を操作し、会員を導いてきたかを示している。特に、池田が「民衆立の正本堂」を本門事の戒壇として言いくるめた点は、彼の巧妙な言葉遣いと詭弁を浮き彫りにしている。
以上、全ては池田大作の大志の実現のためであったことは、すでに拙論文でも述べてきたが、これら一連の教義歪曲や詭弁を弄した池田大作に、常に宗門としての権威的お墨付きを与えてきたのが、大石寺第66世細井日達である。
平たく言えば、正本堂建立までの創価学会発展は、ひとえに池田大作と細井日達の二人三脚の教義逸脱によって為し進められていたといえる。すなわち組織の内部構造とそのリーダーシップに大いなる問題が存在する。特に、教義の歪曲とその背後にある戦略的意図は明確であろう。
これを各段階において宗門・創価学会の両方を、日蓮の三大秘法抄による伝統的戒壇論をもって諫暁していたのが妙信講(現顕正会)の浅井甚兵衛・昭衛父子である。
そして妙信講は、日蓮正宗信徒の講として、日興の遺誡置文にのっとって、細井日達の様々な教義逸脱についても諫暁している。
下山正行は、折伏されて創価学会員になった後、創価学会渉外三局の関係の仕事を、創価学会とは一切関係が無いように行う様に指示され、その活動(スパイ活動)を、自著「私は創価学会の「スパイ」だった」1979/12/15、晩聲社 にて著している。
彼は日蓮の教義を分析し自身の信念で創価学会を去って妙信講に入ったが、その著の全272ページにわたる中で彼自身の活動に関しては最初のわずか52ページであり、あとはすべて当時の創価学会と宗門に関する解析と破折で占められている。
隠されていた当時の創価学会と宗門の関係をも指摘しながら論じられていて、とても参考になる文献である。
彼の創価学会のスパイ活動とその顛末についてはさておく。およそ、以前に拙論文で指摘した山崎正友らが行った謀略などと似たり寄ったりの内容であろう。
それよりも私がこの著に感銘を受けた最初の部分が、本山と創価学会紛争の歴史について述べた最初の、狸祭り事件の部分で、
「戦後においても、小笠原がこの主張を公的に訂正懺悔したという話は寡聞にして知らない…中略…当時の創価学会員が、そういう小笠原に怒りを向け、懺悔を強要しても、何の不思議もない。不思議なのはむしろ、かかる小笠原糾弾の声が、宗門僧侶の間に高く挙がっていなかったことにある。
ついでにいえば、その当時、創価学会員の捨身弘法に比肩し得るだけの活躍をした御僧侶が、果たして何人おられたか…中略…現在、池田と創価学会を糾弾する僧侶は多いが、真実その資格を有する御僧侶が果しているのだろうか。己の罪を懺悔せぬままに同じ罪を他に責める、この様を世俗称して〝目糞、鼻糞を嘲う〟という。…中略…創価学会を驕慢たらしめたのも、それを掣肘できなかったのも、その責のおよそすべては宗門にあった、ということである」(下山正行、同著P87)
下山が述べたように、戦後の創価学会と大石寺の紛争について、牧口や戸田が戦時中に入獄したことを信じていた創価学会員が、小笠原に懺悔を強要したことはやむを得ないが理解できる。しかし不思議なのは、小笠原を糾弾する声が宗門僧侶の間で高く挙がらなかったことと、当時創価学会員のように捨身弘法をした僧侶がどれだけいたか疑問である。さらに、当時、池田と創価学会を糾弾する僧侶が、本当にその資格を有するかも疑問である。
下山は、創価学会を傲慢にさせた責任は、掣肘できなかった宗門側にもあると述べているが、極めて的を当てた視点である。この点を踏まえ、創価学会の内部問題や宗門との関係についての責任がどこにあるのかを再考する必要がある。
■〝蓮華寺事件〟の顛末
下山正行は、宗門と創価学会の一連の紛争の歴史を挙げて、「宗門と創価学会の関係をかなり象徴する面を含んでいる」として蓮華寺が離脱した事件を同著P88にて挙げている。すなわち、昭和29年から30年にかけて、格式の高い寺院である蓮華寺で、創価学会員が寺に来る信者を追い返す事件が発生した。住職の尾崎正道が創価学会に批判的な言動をしたことが原因で、創価学会のピケやデマに対し、尾崎は御受戒を受けた会員に御本尊の返却を求めた。宗門の庶務部長は尾崎を左遷しようとしたが、この辞令は管長の印を盗用して出されたもので、尾崎は左遷を拒否し、事態は硬直した。新法主・堀米日淳は辞令の破棄を命じ、尾崎は元の蓮華寺住職の身分を保証された。この事件は宗門と創価学会の関係を象徴するものだった。この庶務部長が、後の細井日達管長であった。この事件は一応決着したが、日達管長の時代になり、創価学会を非難する者は地獄に落ちるという訓諭がきっかけで、蓮華寺は本山支配から離脱した。注目すべき点の一つは、創価学会の傲慢な要求に迎合した役僧が細井日達管長であったこと。もう一つは、蓮華寺が離脱した理由として、池田の法華講総講頭任命、末寺総代に創価学会員を入れること、末寺住職を左遷することなど、宗務当局が創価学会の傀儡となっていたことである。蓮華寺の住職である尾崎正道の怒りは全僧侶の怒りであるべきでだったが、宗門内では孤立していた。この時期に創価学会の傲慢をたしなめる強い声を管長が汲んでいれば、後の紛争が世間に醜態を晒すことはなかった。しかし実際には、多くの宗門僧侶が創価学会の勢力に恐れをなし、迎合していた。謗法同座の『日蓮聖人展』に対して諫めたのは妙信講のみであった。
以上の指摘はこの時期を知らない創価学会会員にとっては驚くべき事実であるとともに、以後の紛争の本質を射ているといえる。すなわち、
第一点は「創価学会の傲慢な要求に迎合した役僧が、細井日達管長」
第二点は「㋑池田の法華講総講頭任命、㋺末寺総代に必ず創価学会員を入れる、㋩その意をうけて末寺住職を左遷する、など宗務当局は創価学会の傀儡と化している」
第三点は「管長以下宗門僧侶のほとんどは、創価学会の勢力に恐れをなし、競ってこれに阿諛迎合していた」
の3点である。
そして、下山は、
「第二回正本堂建設委員会において、自分の席が管長(私註、細井日達法主)より下座にあることを怒り、会議の準備に当たった柿沼総監を面罵した池田への宗門の対応は、まさにその典型であろう」
として、その例を以下にあげている。
「池田会長は、日蓮上人(ママ、日達上人の写植ミス)と、立派な正本堂の寄進者である自分の席が同等でないことに怒り、会議の準備に当たった柿沼広澄総監を面罵し、結局このツルの一声で委員会は流会になってしまった。日達上人がわざわざ富士宮から出てきたのに、である。しかも、柿沼総監はこの責任をとって辞任してしまった。
池田会長を敬愛する学会員たちはまさかと思い、おそらくはこの記事の信憑性に疑いの目を向けるであろう。
では、証拠をお見せしよう。
その直後の40年11月19日付の日蓮正宗宗務院通達第980号で『宗内一般』宛に、
『法華講総講頭の待遇について』
と題して、次のような指示が出されている。
法華講総講頭は、仏法守護の統領として僧俗挙って尊敬すること、たとえば、
①法要の席は、特に設け
②行列の場合は、仏法守護のため先陣をなし
③法要以外の席は、猊下に並び
④末寺へ来寺の通知があった場合は、住職は出迎え
⑤その他の場合もこれに準じて尊敬のまことを尽くして待遇すること
さらにこれを徹底させるため、総本山の費用負担で末寺の僧侶を本山に呼び、指導を行なうという気の使いようである。
ここでいう法華講総講頭とは学会員なら知らぬはずがない。池田会長のことである。
ウソだと思うなら正宗発行の『大日蓮』41年1月号を手にとって見るとよい」(『週刊文春』昭和52年9月1日号)
この例を挙げて下山は、こう述べた。すなわち、宗門僧侶が創価学会の傲慢さに迎合し、制止すべき時にそれを怠ったことで、池田大作の増上慢がエスカレートし、大謗法を犯すに至った。宗門の僧侶たちもまた、池田と同じくらいの罪を負っている。宗門が適切なタイミングで池田を止めていれば、後の争いは避けられた可能性がある。
また、以下の週刊誌記事――「ハタからみて、どうにも解せなかったこの抗争と和解も、カネというフィルターを通してみれば、極めてスッキリと見えてくる」(週刊現代、4昭和53年11月30日号)
「本山と学会の戦争は、昨年の正月、学会側が『寺へ行かなくてもいい』と言い出したことで決定的な火を噴き、昨年六月には大石寺への登山ストップにまでこじれた。その背景については、いろいろいわれているが、一言で片づければカネをめぐる対立である」(同誌)
「妙信講の浅井講頭らは総本山にたいし『正本堂に就き宗務当局に糺し訴う』との書面で、学会の正本堂=戒壇論は日蓮大聖人の教えに背く重大な誤りだが、総本山はそれを承知で認めるのか――と詰問した。
これに対して日達上人と浅井講頭、上人と学会との間でそれぞれ何度も話し合いが持たれたが、ピシッとした線を打ち出し信者を導くべき上人が浅井講頭には『浅井のいうことは全く正しい』と国立戒壇論を支持し、門下の僧侶には『国立戒壇を否定したのは国立という言葉をいったので、精神は変わらない』とあいまいな表現を使い、一方、学会に行くと『正本堂こそ戒壇』というなど、まるで風にそよぐ葦。
創価学会が大石寺を兵糧攻めにする原因は、まさにここに存在する。日達上人が妙信講側に傾くたびに『本山登山』を禁じるなど、一連の措置をとって一時的に寺院の糧道を断つ。そして再びスポンサー側になびけば登山が始まる――。
ともあれ、大スポンサーの威力の前に遂に上人が正本堂を日蓮遺命の戒壇だとする『訓諭』(日蓮正宗信者にとっては〝勅語〟に当たる重みのあるもの)を出す……」(『週刊文春』昭和52年9月1日号)――
を根拠に、日蓮正宗信仰に無縁の人たちでさえ、これらの出来事を理解している故に、正宗信徒として、紛争の本質を見抜き、何が大切かを理解する必要があると下山は訴えている。
下山正行の著述は、創価学会と宗門の対立の本質を鋭く浮き彫りにし、両者の複雑な関係を明確に示している。蓮華寺の事件における創価学会員の行動と宗門の対応は、宗門僧侶たちが創価学会の影響力にどれだけ依存していたかを示している。細井日達が創価学会の要求に迎合し、尾崎正道を左遷しようとしたことは、宗門がどれほど創価学会に屈していたかを象徴している。
さらに、宗門が創価学会の傲慢さに対して迎合し続けた結果、池田大作の増上慢がエスカレートし、大謗法を犯すに至ったという指摘は非常に重要である。宗門の僧侶たちが適切なタイミングで池田を止めていれば、後の争いは避けられたかもしれない。週刊誌の報道も、最終的には宗門と創価学会の対立を金銭が絡む問題として描くようになった。
正本堂建設委員会での池田の行動や、その後の宗門の対応も批判に値する。池田が自分の席が日達法主より下座にあることに怒り、会議を流会させ、柿沼総監が辞任するに至った一件は、宗門がいかに池田に屈していたかの如実な顕れである。このような態度が池田の増長を招いたのは明らかだ。
また、創価学会が大石寺を兵糧攻めにし、宗門が再びスポンサー側に傾くたびに登山を再開するという一連の措置も、宗門の曖昧な態度を象徴していた。日達が曖昧な態度をとり続けたことで、創価学会がその隙をついて宗門を支配しようとしたことが明らかである。
これらから浮かび上がるのは、創価学会と宗門の関係が金や権力を巡る対立によって複雑化し、宗門が創価学会に依存し続けることで、その影響力を強めてしまったことだ。下山正行の指摘は、創価学会の問題点だけでなく、宗門側の責任も鋭く批判しており、両者の対立の本質を見事に捉えている。これは、創価学会と宗門の内部問題を理解するための重要な視点を提供している。
かつて江戸時代に、大石寺の存続のために徳川幕府から謗法の供養を受ける中、日寬が6大秘法を打ち立てて、日蓮の教義を大きく曲げた事の詳細は、拙論文にて検討した。
カネになびいたという事実は、今回も共通しているようである。
歴史は繰り返すとは、よく言ったものだ。
■ 第66世細井日達の教義逸脱(1)
日達は昭和34年11月16日に日淳から血脈相承を受け、12月2日に日蓮正宗管長の職に就いた。その際の言葉「宗門の願行たる戒壇建立に勇猛精進せられんことを」という訓諭が昭和35年1月1日に発表された。
また、昭和35年1月号の『大日蓮』では、「万人一同に南無妙法蓮華経と唱えれば、吹く風枝をならさず雨土くれをくだかず」と日蓮が平和な仏国土建設を唱えていることを挙げ、国立戒壇の建設が真の世界平和に繋がると述べた。すなわち日達は登座後、大石寺の伝統的教義解釈に基づき、国立戒壇の建設を目指していた。
ところが、池田大作が創価学会会長に就任し、彼の政治権力志向が具体化するにつれて、日達管長も急激に変化した。池田が公明政治連盟を発足させ、参議院に公明会を結成する動きに合わせて、日達管長は池田と海外旅行に出かけたり、法華講大講頭の位を与えたりして、池田と日達の蜜月関係が急速に進展した。
日達管長は、創価学会に批判的な宗門勢力を牽制するために訓諭を発し、池田創価学会に権威を与える発言をした。昭和38年7月15日の訓諭では、創価学会を謗じる者は無間地獄に落ちると述べた。日達管長はこの訓諭を発した翌年、池田を法華講総講頭に任じた。この任命と訓諭が蓮華寺の本山離脱の理由となり、宗門僧侶の創価学会批判も完全に沈黙した。池田は総講頭の任命を受けて約一カ月後に、公明政治連盟の政党化と衆議院進出を発表し、1964年11月17日に公明党結成大会が開かれた。
この一連の動きは、池田が宗門の権威を政治進出のために利用し、日達管長が池田の野望に協力したことを示している。池田にとって、創価学会員の宗教的情熱を政治野望達成のエネルギーに転化させるためには、宗門による権威づけが必要だった。日達管長は池田の要望に十分応じた。
以上の事実は、下山が同著P103—105で指摘した歴史的事実である。
その中でも特に注目すべき点は、日達の訓諭の中の
「創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外に在るを問はず、全て是れ広布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無間に開く者と謂ふべし」
という罰論である。
牧口・戸田時代に組織拡大のために使われた罰論であろうか。
罰論は、古くは法華経比喩品第三にあり、日蓮の遺文にもしばしばこれを引用しているが、その遺文の要旨は、無間地獄に落ちる場合、謗る対象が「法華経の行者」というあくまで個人であって、特定の組織集団ではない。
行動の善悪も信仰の厚薄も、さまざまな個人の集まりである組織内の個人すべてを同一視することは、明らかな間違いである。
日達も、むろん創価学会も、日蓮の遺文を逸脱して、組織全体を神聖視するという過ちを犯しているのである。そして悲しいかな、現在に至ってもそれに気がついていない。
「創価学会を謗じる者が無間地獄に落ちるなら、のちの日達管長ご自身と反創価学会僧侶はどうなるのか」
という下山の指摘は皮肉でも何でもない。
これらの罰論は、高尚に見えても全くのデタラメ、インチキの類である。
こうした妄論を時の法主が述べていたことは、全く驚くべきことである。
すなわち、罰論は本来、個人に対するものであり、組織全体を対象とするものではない。この点は非常に重要である。罰論が個人を対象とするものであるにもかかわらず、日達がそれを創価学会全体に適用しようとしたことは、明らかに逸脱している。これは、特定の組織を神聖視し、その内部の個人すべてを同一視するという過ちを犯している。また、この罰論が日蓮の遺文を逸脱し、まさに創価学会の組織全体を神聖視するという過ちを犯している点が重要なのである。日達と創価学会が、この点に全く気づいていないことの問題は深刻である。
「今や池田会長は四菩薩の跡を継ぎ、折伏の大将として広宣流布に進軍しております」(『大白蓮華』昭和39年1月号)
「私は、本書を一読して、この講義に一言をも加うる余地なきことを知った。
そして、池田先生の死身弘法の寸暇を、さらに止暇断眠して、この大講義をなせるは、実に在世の維摩居士の、今に出現せるかの感を深くしたのである……」(昭和40年3月13日・序、池田大作著『御義口伝講義上』1965/4/2、創価学会、P3)
「かかる時期に、池田先生は、世界の人々に謗法を撰捨し正法の南無妙法蓮華経を撰取せしむるため、進んで本撰時抄講義を出版せられたことを、私は深く感謝するのであります。
要するに、池田先生は、久遠元初本因妙の南無妙法蓮華経を、今の時に広宣流布せしめようとする念願のほか、なにもないのであります……」(昭和39年11月1日・序、池田大作著「日蓮大聖人御書十大部講義第六巻・撰時抄」1964/11/7、創価学会、P3)
下山正行は、日達が池田を賞讃した上記3つを引用し、在家の者に対してこれ以上ない褒め言葉を述べたため、池田の側近が彼を「現代の本仏」と奉り、一般の創価学会員が盲目的に池田を信じ、池田自身が天井知らずに増上慢となったのが、このような賞賛に端を発していると批判。日達の賞賛は、無責任であり、池田と創価学会を過度に持ち上げるもので、これが、後に池田を「本仏」とする信仰が生まれた一因となったと下山は批判した。
池田は、こう述べている。
「日本国内における混沌たる情勢に加えて、国際政局も…中略…この時に当たって、創価学会の大活躍こそ、遠くは日蓮大聖人のお喜びをいただき、近くは恩師戸田城聖先生の御報恩に叶うものであると確信するものである。
報恩抄にいわく『法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり』と。またいわく『正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳』と云云。
インド、中国、日本の三国にわたり、二千余年の仏教の歴史において、時に応じて出現したあらゆる論師、人師、大菩薩、大僧正等々と崇重されし人々よりも、日蓮大聖人の御弘通が勝れたもうこと百千万億倍である。しかるに日蓮大聖人は、本門の題目、本門の本尊のみ建立あって、本門戒壇の建立は後世の弟子へ遺付あそばされたのである。
ゆえに後世において、その時を得、本門戒壇建立の成就される時こそ、三千年の仏教史における最も重大な時である。日蓮大聖人の御入滅後七百年、国家権力の迫害を受けて、拷問され、追放され、遠流され、首斬られし人々よりも、われら創価学会の弘通は遥かに勝れている。あるいは江戸時代のごとき太平時代に、幾千万巻の経典を結集したり、多くの子弟の養成をなした人々よりも、われらの弘通は百千万億倍も勝れるのである。これすなわち時のしからしむるのみ……」(昭和三十九年十一月十七日、序、池田大作著『日蓮大聖人御書十大部講義第六巻・撰時抄』1964/11/17、創価学会、P3)」
すなわち、池田は創価学会の活動が、日蓮の喜びと恩師戸田城聖の報恩にかなうものであり、仏教の歴史における偉大な人物たちや日蓮の弘通よりも、百千万億倍も優れているとし、日蓮大聖人が後世に本門戒壇の建立を託し、「時のしからしむるのみ」と結論づけ、創価学会の活動を大いに称賛した。
これに対し下山は同著P107-108にて、池田大作が自らを日蓮と同等に位置づけようとしている意図が明らかであり、増上慢に陥っていると批判。また、日達が池田を過度に褒めたことが創価学会への質問状に挙げられていないのは、日達の遠慮からだと指摘。さらに、宗門僧侶たちが池田の増上慢を責めるが、彼をそうさせた者たちも同様に責められるべきだ、謗法を責める者たちにも自らの行動を深く顧みるべきだと述べた。
この批判は、池田の増上慢とその背景にある宗門の責任を強調しており、創価学会と日蓮正宗の関係を理解する上で重要な視点を提供している。
まず、撰時抄の序における池田の論述は、下山の指摘通り、池田が自らを日蓮と同等に位置づけ、創価学会が日蓮よりもはるかに優れた迫害をうけ、はるかに優れた弘通をしたとすることは増上慢であることは明らかである。池田の立場すなわち創価学会会長の立場を踏まえると、その増上慢の中でも潜聖増上慢にあたる。これば、真の仏法を弘める際に起こる三類の強敵(俗衆増上慢・導門増上慢・潜聖増上慢)の中の、最も恐るべき潜聖増上慢に相当する。創価学会員が、自分たちの最高指導者がこれにあたることが見抜けないのはある意味で当然であったことであろう。さらには、日達がこれを見抜けずに、それを褒め称え持ち上げたことも、仏法の指導者としては大いなる問題であったといえる。下山の指摘は、もっともな内容であり、池田を潜聖増上慢にしたのも、日達やそれに従っていた宗門僧侶たちの責任である。日蓮は、あるいは戸田城聖は、決して潜聖増上慢の池田を褒め称えることはなく、かえって顔をしかめて破折することは間違いない。下山の指摘通り、真の仏法を語る者は、自ら語る仏法や行動について常に深く省みるべきである。
池田大作は日達によって権威を付与され、政治的野望を着実に達成していった。しかし、池田にとって最大の障害は宗門伝統の教義、事の戒壇即国立戒壇論だったが、これも日達によって排除された。「正本堂即事の戒壇」や「舎衛の三億」など、多くの妄論が生まれ、日達も妄論のために辻褄合わせを繰り返し、教義を歪曲していった。
下山は、日達が「広宣流布している」と述べたとき、池田が「舎衛の三億」と答えた(大白蓮華、昭和40年1月号)ことを引用し、これを「下手な漫才」と例え、馴れ合いや阿諛迎合を批判。教義解釈の否定が続くことを黙認すれば謗法与同の罪は免れないと警告し、宗門全体の存立が妄論の上に成り立っていると述べた。
創価学会では、「而して大聖人は、本門戒壇の御本尊を建立遊ばされて世界の人々の地獄の道をふさぎ、成仏の道を開かれて『今者は已に満足』と、法体の広宣流布をなさったのであります。
玆に会長池田先生が化儀の広宣流布の為め、戒壇の御本尊安置の正本堂建立を請願したのであります。此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本尊も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります(『大白蓮華』昭和43年1月号)」
すなわちここでは、正本堂が完成した時、大聖人の御本尊が安置され、広宣流布が成し遂げられると述べられている。
また、宗門の、昭和45年6月号の『大日蓮』では、過去に「国立戒壇」という名称が使われていたが、日蓮は日本の国教とする仏法を仰せられておらず、この名称は不適当であり、今後は「国立戒壇」という名称を使用しないと決定、さらに、本門の大御本尊が安置される正本堂が完成すれば、正本堂は本門事の戒壇であると述べている。この正本堂は池田会長の発願と全信徒の浄財によるものであり、八百万民衆の建立であるとされている。
これに対し下山は同著P108-115にて、こう指摘した。すなわち日達は、国立戒壇という概念は田中智学が主張したものであり、本宗とは関係ないと述べたが、これは間違いである。田中智学が日蓮正宗の教義を盗用して書いたことは明らかであり、創価学会でもこの点について何度も言及している。国立戒壇を否定することは一時逃れの詭弁であり、正宗国教化を表現しても不都合はない。国立戒壇否定論者の主張に対しても、主権者である国民全員が一時に信じるならば、それは現実の国教となるはずである。日達は、池田の都合に迎合し、信念が弱かったために国立戒壇を否定した。日蓮正宗や創価学会の取材に当たるマスコミ関係者や宗教学者、評論家が国立戒壇が本宗教義の正統であることを知っている。彼らは国立戒壇を否定する宗門に奇異を感じており、国立戒壇が広宣流布の時に建つことに異を唱える人はいない。
また、下山は、日達管長が池田を過度にかばったことを批判し、言論弾圧や出版妨害を何でもないこととするのは強弁であると述べた。池田の政治野心が弾圧・妨害事件の原因であり、それを仏道修行のためとする同情は仏道修行を汚すものだと批判し、国立戒壇説を否定した日達管長の言辞は混迷に陥ったと批判した。
以上の下山正行の日達に対する指摘は、極めて鋭い批判と洞察を含んでおり、創価学会と日蓮正宗の内部関係の本質を明確に浮き彫りにしている。
まず、下山が述べたように、池田大作の政治的野望の実現に日達が大きな役割を果たしたことは、創価学会と日蓮正宗の関係における重要な転換点である。日達が国立戒壇を否定し、正本堂を事の戒壇と位置付けたことは、教義の重大な歪曲とみなせる。この指摘は、宗教的権威がどのように利用され、歪められていったかを如実にしており、非常に重要な視点である。
次に、下山の批判によれば、日達が池田を過度に褒め称えたことで、創価学会員が盲目的に池田を信仰するようになり、その結果として池田の増上慢がエスカレートしたという指摘は、組織内でのリーダーシップのカリスマ化がどのように行われ、それがどれほど危険であったかを示している。
また、国立戒壇を否定する日達の論理は、教義の辻褄合わせのために次々と生まれた妄論であると批判している。下山はこれを「下手な漫才」と例え、教義解釈の連続的な否定が宗門の権威を失墜させたとする批判は、宗門の独立性が創価学会によって如何に侵食されたかを明確に示している。
さらに、日達が池田を過度にかばい、言論弾圧や出版妨害を何でもないこととする態度を強く批判、日達が池田の妨害行為を見て見ぬふりをし、むしろ同情する態度を取ったことを、仏道修行を汚すものとした批判は、宗教的権威がどのようにして権力に屈服し、誤った道を歩んだかを示している。
更に、国立戒壇説を否定した日達の言辞が混迷に陥ったことを批判していて、日蓮正宗が国立戒壇の教義を否定することが、単に創価学会との関係を維持するための迎合であったと指摘している。この指摘は、宗教的信念と政治的野望の間で揺れる宗門の内実を鋭く批判しており、非常に重要な洞察を提供するものである。
まとめると、以上の下山正行の批判は、創価学会と日蓮正宗の関係、特に日達管長の教義逸脱とそれに伴う問題点を明確に示しており、宗教的権威の誤用とその影響を考察する上で非常に重要な視点を提供している。
長い引用と検討になったが、中世・鎌倉時代の国立戒壇論を現代にまで適応する非はさておくが、まさにこの非科学的論理を現代に適応し信念とするのが宗教の特性の一つである。
そういう観点からは、下山の指摘も立派な、しかも日蓮の遺文に限りなく近い信念からである。
日蓮の生涯において根拠とした学問が、現代ではその多くが更新されていることを念頭に置いて真の意味を再検討することさえあれば、彼の信念はより科学的なものとなるであろう。
彼の例に限らず、現在の日蓮正宗、創価学会、日蓮教団をはじめ、無神論者を除いて、多くの宗教者が、その信念の根拠となる論理を、古臭い過去のものにこの上なくしがみついて更新しようとしないのは、極めて残念な事である。
所詮、宗教とはそういうものか。
建前・表向きの哲学や指導が、きれいで感動できるとか、多くの人の心をひくものでありさえすればいいのか。
だから、信仰を否定する者や無神論者などから、非科学的と批判されるのであろう。
理屈としては、いかなる思想・哲学や宗教は、原理主義に徹するほど綺麗ですっきりするものであり、それはあたかも、数学における対称式が複雑なほど、万華鏡のように華麗な式であるが如くである。
しかしながらそれは、数学の方程式のように、その原理が微塵たりとも例外なく普遍的・客観的であり、時代や地域に関係なく、時空を超えて永久に再現可能である限りにおいてである。
大石寺において代々受け継がれてきた国立戒壇論は、第65世日淳までは、妙信講や下山がいうとおり、日蓮の三大秘法抄の遺文に極めて忠実な、実に華麗な論であったろう。
これらはさておき、正本堂建立前後に至るまでの日蓮正宗と創価学会の組織拡大は、池田大作の野望に迎合した日達法主の二人三脚であったといえそうだ。
日達が急激に拡大する池田・創価学会の勢力や御供養金に目が眩み、大石寺の繁栄のために池田大作に権威を与えるために伝統的戒壇論を詭弁によって曲げ、詭弁が詭弁を生んだことは下山が指摘する如くである。
更に、日蓮の晩年の遺文であり、彼の上行菩薩としての相承を自覚した重要事が明かされている三大秘法抄の中での「勅宣・御教書」を、行政の建築許可と言いくるめる論理は無宗教の識者でも滑稽に思えるであろう。
そして、十分な証拠をもって世間からも咎められている言論出版妨害事件においても、一般人としての常識もなかったこともさることながら、正宗信徒として・指導者としてのあやまちを指摘して懺悔させるどころか逆に擁護していたことは、日蓮の弟子として普段から自ら弟子に指導していたことに完全に自語相違していた……少なくとも正本堂建立前後までは。
非科学的な妄論・詭弁の蓄積は矛盾を生み、矛盾は矛盾を育てながら、やがて崩壊・分裂することになる。
創価学会の北条報告書などでは、猊下(日達)には信心がない等と指摘されていることは一面では的を得ている。
日達が池田本仏論を聞いてカンカンに怒ったのも、それが論理的に日蓮の教えに反することはさておき、彼自身にも池田と同様に、法主という最高権力者としての驕慢があったからであろう。
以上、再度振り返って、中世・鎌倉時代の国立戒壇論を現代に適応する非については、宗教の特性の一つとして非科学的論理を信念とすることがある。下山の指摘も、日蓮の遺文に近い信念からのものであり、科学的に再検討すれば、より理に適ったものになるだろう。
多くの宗教者が古い論理に固執し、更新しない姿勢を指摘し、宗教が非科学的と見なされる一部の理由を考察した。宗教の思想・哲学が原理主義に徹することで綺麗になることは事実だが、それが普遍的かつ客観的である必要がある。
日達が創価学会の勢力や御供養金に目が眩み、池田大作に権威を与えるために伝統的戒壇論を曲げたことは、詭弁が詭弁を生み、矛盾が蓄積することで崩壊・分裂する未来が、この時点で予見される。
また、日蓮の遺文である「三大秘法抄」の「勅宣・御教書」を行政の建築許可と同等に扱う論理は滑稽であり、言論出版妨害事件における日達の擁護も一般常識に反していることは間違いない。
ここでは、宗教的信念の非科学性とその影響を掘り下げ、日達と池田の関係を通じて創価学会と日蓮正宗の内部問題を指摘した。
ただ、科学と宗教の対立において、私が指摘する非科学的論理についてだが、科学と宗教の対立を強調しすぎると、宗教の持つ文化的・精神的な価値を見落とす可能性がある。科学と宗教は異なるアプローチで人間の経験を理解しようとするものであり、必ずしも対立するものではないと捉えることもできる。
また、宗教の進化について、私は拙論文で一貫して、宗教が古い論理に固執していることを批判しているが、宗教はその中で進化し、時代に応じて解釈を変えることもある。すべての宗教者が更新を拒むわけではなく、一部では改革や進化が進んでいることを、別の機会に考慮する必要がある。
また、日蓮正宗と創価学会の関係、すなわちこのページでは日達と池田の関係に焦点を当てたが、他の要因や人物が創価学会の成長と日蓮正宗との関係に影響を与えた可能性についても検討する必要がある。
ここでは過去の事例のみに焦点を当てたが、それが現代にどのように影響を及ぼしているかについての具体例も検討する必要があり、それを、以後のページにても論じていく。