Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P43, 御供養精神から乖離した醜い争い、戒壇論が崩壊した正本堂意義、板マンダラ事件
一旦、話がそれるが、山崎正友は、この詭弁の謝罪演説の根拠、正本堂の意義を変えた背景とともに、当時の幹部の政教一致ぶりと矢野公明党書記長との違いを、自著で述べている。
すなわち昭和45年の言論問題のとき、創価学会は日蓮正宗の国教化と国立戒壇建立を目的として公明党をを作り政治活動しているのは憲法の政教分離原則に反するのではないかという趣旨の国会質問があったが、これにより所轄官庁の東京都宗務課から照会があり、創価学会はこのとき、建設中の正本堂が日蓮遺命の事の戒壇であり、信者の浄財による民衆立であって国立戒壇とか国教化の意図はまったくないと答えていた。
この回答文は、当時北条浩、秋谷栄之助、矢野絢也、山崎正友に中央大学法学部教授・橋本公旦氏が加わって、創価学会東京第一本部にて作成された。
「このとき矢野書記長が、いささか傍若無人な発言をして、橋本氏が気分を悪くされた場面があり、そのことが紹介者を通して池田大作の耳に入った。池田大作氏は、『かかるときに、不真面目である』と激怒し、早速箱根に矢野書記長を呼びつけて叱責し、『お前は頭が狂っておる。治してやろう』と、皆の居並ぶ前で数珠によるオマジナイをほどこした。
それは、マジナイというよりは数珠による殴打ともいうべき乱暴な行為だった。十数人の最高首脳がいる前で、矢野氏をみんなに向かせて正座・合掌させ、池田氏がうしろから題目を唱えながら、数珠でビシッ、ビシッとひっぱたくのである。
それ以来、池田氏はことあるごとに側近幹部に『矢野はもともと精神病の気があるんだ。学生時代共産党をやっていて、生命もにごっている。竹入たちとは違うんだ』と言った。
もちろん矢野書記長は、池田氏にあまりよい感情を持たなくなった。学会幹部にはめずらしいクールさと、大阪人らしい現実主義を身につけて、政治の世界でさんざんもまれてきた矢野書記長が、熱に浮かされたような〝池田礼讃教団〟の中で異質と見られるのは当然の成り行きといってよかった。
東京に帰って数日後、公明党本部の一室で私と二人で話し合ったとき『君ぃ、なんぼこちらでやろう思たかて、相手のあることやで。世間の理屈を押しのけて、手前ミソばかりやれいうても、でけへんもんはでけへん。君ら側におるもんは、そのへんをよう心得てコントロールしてくれんと、公明党はつぶれるで』
〝二度とは言わん〟との前置きつきであったが、矢野書記長はこういった。池田氏自らの失敗で惹起した言論問題を、池田氏の言うとおりに押さえろといっても無理だ、ということをはっきり言ったわけである。
そのときの私は、もちろん驚いたし、けしからんと思った。池田氏を御本仏の再誕とあがめ、池田氏を護って馬前に散ることが最高の名誉と心得ていたのが、当時の最高幹部すべてであったはずである。その一人であった私にとって、大先輩幹部の一人から、このようなセリフを聞こうとは夢にも思わなかった。しかし、いまになってみれば、それはしごく当たり前のことだったのである」
(山崎正友著「盗聴教団――元創価学会顧問弁護士の証言」1980/12/1、晩聲社、P38-40)
■創価学会の妙信講対策
山崎正友は同著、P40-55にて、さらに述べている。
「さて、この東京都宗務課に対する回答文が、日蓮正宗内に大きな波紋を呼んだ。
従来、『日本国中に日蓮大聖人の教えが広まり、時の権力者が帰依したとき国家意思によって戒壇を建立する、そのときが広宣流布である』という教義は、日蓮正宗の教義の中で最重要なものであった…中略…
まず僧侶たちに対する根まわしは、時局懇談会という形で僧侶を東京都内の寺に集めて、宗務院役員会で創価学会幹部が出席して行なわれた。
その席で、いろいろ質疑応答はあったが、学会側の『このまま〝国立戒壇〟を言っていると憲法違反で、国の弾圧を受ける』という説得に押し切られてしまった。しかし妙信講(注、現在は顕正会)だけは、しつこく宗務院と創価学会にくいさがった。
創価学会から森田、秋谷両副会長らが出て、東京都宗務課に提出した回答書のことは伏せたまま、妙信講の浅井父子と話し合い、『現時点において、正本堂を〝事の戒壇〟と断定しない』ということで妥協した。
しかし、その後も、創価学会側では、『正本堂は民衆立の戒壇であり、その完成は、日蓮大聖人遺命の事の戒壇の建立である』という趣旨の表現を改めなかった。そのため正本堂落慶間近の昭和四十七年初頭より、再び妙信講が日蓮正宗宗務院と創価学会に対し、行動を開始したのであった。
これに対する創価学会側の対応は、宗務院をだきこみ『正本堂は、事の戒壇である』との教義上の裁定を出させたうえで妙信講を宗外に排除してしまうという作戦に出た…中略…
反学会的気風を敏感に察知した池田大作氏と創価学会は、必死になって宗務院を固めた。なかば威圧と、論理闘争と、そして、『ここまできて、いまさら正本堂が事の戒壇でない、などと言ったら、正本堂御供養金の返還さわぎがおこり、宗門までつぶれてしまう』という脅しで、創価学会への同調を迫った…中略…
ついに押し切り、四月二十八日、時の御法主上人より、『正本堂は、一期弘法抄、三大秘法抄の意義をふくむ現時における事の戒壇なり。広宣流布の暁には、本門寺の戒壇堂となるべき大殿堂なり』との訓諭(法主が発令する、宗内最高形式の布令)を出させることに成功した。
つまり、正本堂は日蓮大聖人が末法の弟子たちに御遺命としてのこした事の戒壇堂にあたるべき建物である。しかし、まだ、昭和四十七年当時には、広宣流布の完結というべき状態にないので、将来、広宣流布達成のときに〝事の戒壇〟と正式に意義づけられる、という意味である。広宣流布のときになってはじめて、大御本尊様は一般の人々にも公開されるが、いまはまだ信者だけに内拝を許す、というわけである」
■妙信講の反発
「これに対する妙信講の反発は、当然予想された。そこで、五月には、宗議会を開いて日蓮正宗の宗規を改正し、従来はなかった講中や檀信徒に対する処分条項を新たに制定した。妙信講が、もし、ことを荒立てたら、講中解散処分し、幹部は信徒除名処分にすると脅しをかけたのであった。
だが、妙信講は一向にひるまず、『流血の惨も辞さず』『かくなるうえは、生命をかけて戦う。霊山浄土へ行って、大聖人の前で訴える』とばかり、実力行使を宣言して宗務院に迫った。
こうして、創価学会、妙信講双方からの圧力が、宗務院にかかって板ばさみとなったうえ、宗内からも、妙信講に同情する声が上がり、宗務院をつき上げはじめた。
『果たして、正本堂を御遺命の戒壇堂と言い切ってよいのか。七百年来の国立戒壇論を捨ててよいのか』と、批判の声が挙がってきた。
こうした声に対して、当時の御法主・日達上人が、『訓諭の前半は私の意志だが、後半部分は無理やり、勝手につけられた』という意味の発言をされたことから、宗内的に宗務院はいっそう立場が悪くなり、ついには、総監、教学部長の両名が辞表を出し、どこかに行方をくらましてしまった…中略…」
■日達上人を盗聴! 北條浩氏も承認■
「こうして、創価学会の圧力で妙信講追い出し作戦に出たものの、捨て身の反撃と宗内世論の攻撃にあい、宗務院は機能を停止してしまった。
池田大作氏は、そこで、七月三日、御法主日達上人に、『何とか、ご自身で妙信講を説得してください』と懇願した。その結果、昭和四十七年七月六日、墨田区の妙縁寺(当時、妙信講の所属寺院であった)に日達上人がお出ましになり、妙信講の浅井甚兵衛、昭衛父子と面談し、説得に当たられることになった。
この話は、池田大作氏が独断で進めたものだった。そして、このことを聞いたとき、私たちは正直言ってまずいことになったと思った。
日達上人は、もともと、正本堂を御遺命の戒壇と断定すること(将来そうなるということもふくめて)を大変しぶっておられた。また、ときに応じて大胆な発想転換の発言をなされることがおありである。浅井父子にくいさがられて、面倒くさくなったり、つい本音が出たりして、訓諭を否定するようなご発言があったら、すべてがブチこわしになってしまう。できるなら、多少のさわぎがあろうと、このまま妙信講を処分で押し切ったほうがよい、というのが、北条、秋谷両副会長はじめ私たちの意見だった。
だが、本心は臆病な池田大作氏は、日達上人の説得工作に、円満解決の望みをかけたのだった。しかし、日達上人のお言葉次第では、すべてが裏目になってしまう危険のあることも明らかであった。むしろ、その可能性の方が強かった。そのときには、ただちに対策を講じ、裏目の被害を最小限に防がなくてはならない。そのためには、一刻も早く、ダイレクトな情報を入手する必要があった。
結局、盗聴という手段が取られることになった。いつも池田氏の思いつきや恐怖心にかられた発作的な行動から生まれる学会を危くするような行為の後始末が、私に非合法な手段を強いるのだった。
私は、北条副会長と相談のうえ、広野輝夫を呼び具体策を相談した。広野は早速、盗聴器の作製にとりかかった。七月五日の午前中に、広野輝夫は、妙縁寺二階の会談場所と予定される部屋に侵入し、欄間と壁の間に電波発信式の盗聴器を仕かけた」
■妙信講問題に決定的な役割を果たした盗聴器■
「広野と竹岡の二人は、妙縁寺のわきの路地にとめた車の中で、発信器から送られてくる日達上人と浅井父子の歴史的対話を聞き、テープにとった…中略…広野から受け取った録音テープを、私はその日の夕方学会本部に持ち込み、文化会館六階の会議室で、北条、秋谷、原島の各氏とともに聞いていた。
日達上人ははじめは、『殺すなら殺せ。今日は白装束できた。これが辞世の句だ』と、威勢よく浅井父子を圧倒した。
さすがの浅井昭衛氏も、こうなっては下手に出るしかなかった。しかし、そこは名うての強者、下手に出ながら巧妙な話術で、つぎつぎと肝心のポイントを取っていった。終わってみれば、すべてが浅井昭衛氏ののぞみどおりの結果になっていたのである。
実質は、それが日達上人の本音であったのだが、創価学会にとっては、はなはだ困る本音であった。
『訓諭は、前の半分は私の気持ちのとおりだが、後半は私の本意ではない』
『いまさら取り消せないので、内容を打ち消す解釈文を出す。正本堂は、将来までいかなる意味でも御遺命の戒壇と断定したのは行き過ぎなので、そのむね解釈文ではっきりさせる』
『解釈文は、出す前に浅井に見せる』
『口でいくら国立戒壇を言ってもよい。口で言うのは何を言ってもよいが、文書にするのはまずい』
こうしたお言葉がポンポンととび出し、浅井父子は小おどりして帰っていった。
何とも言えない心境でテープを聞いている私たちのところに、池田大作氏が顔を出した。
『どうだった?』…中略…
翌日、本山内事部理事・早瀬義孔氏が、日達上人のお使いで前日のもようの報告に来た。おおむね正確は報告であったが、肝心なところ、つまりまずい点のニュアンスは、やはり省かれており、録音テープで聞かなくてはわからなかった。
学会側は、その場は丁重に礼を述べ、日達上人の労を最大にねぎらって機嫌をよくしておくことにとどめ、後日、改めて巻き返しに出ることに決めていた。
本山も妙信講側も、学会が知らないと思って作戦を立てている事実を、実はつぶさに知っていて、裏をかいて巻き返しができたということは、『妙信講』問題において、学会がその後、主導権をとるのに決定的な転機をもたらしたと言ってよい。
学会側は、北条副会長が総本山に行って日達上人にお目通りし、『口頭で言うのはよいと言われたので、妙信講が徹底的に学会攻撃をすると言っている』『解釈文を出されるのは結構だが、その内容によっては大変なことになる』などと陳情し、圧力をかけた。
そして、一ケ月ばかりのやり取りの後、結局、解釈文を出させないことにしてしまった。
そのかわり、創価学会側と妙信講とで直接話し合え、ということになり、正本堂落慶式を前にして九月初めから九月三十日までの間に、実に七回にわたり、両者が対決して激論を交わすことになったのである…中略…
創価学会と妙信講の対決は、向島の常泉寺で行われた。学会側は、秋谷、原島、私、妙信講側は、浅井甚兵衛、昭衛、大久保某の各三名(後に浅井父子だけになった)であった。毎回二時間ずつ、都合、十四時間対論が行なわれた。
この対論の間中、会場から道を隔てて向かい側の学会員宅の一室で、受信機と録音機を囲み、広野輝夫、竹岡誠治、桐ケ谷章(弁護士)、八尋頼雄(弁護士)、T・K(検事)らが、私が会場に持ち込んだアタッシュケースに仕かけた発信器から送られる会話に息をひそめ耳をそばだてて聞いていた…中略…一日たてば、テープから速記録が起こされ、私たちの手元に届けられて、次の戦いの準備に役立った。
妙信講問題に関する私たちの参謀役には、そのほかに、福島、吉村、会田宣明、高井康行、大竹健嗣(各検事)氏らが参加した。
ことに、昭和四十九年以後、妙信講との戦線が拡大して、乱闘さわぎや訴訟合戦、告訴合戦になってくると、妙信講問題への検事グループと弁護団の関与は、より密接になっていった。
こうした背水の陣の中で、激しい論戦が妙信講と学会との間に闘わされた。五回目の会談のときは、秋谷氏と浅井氏が相互に激して、『それでは話はこれでおしまいだ。奉安殿の前で武装して会いましょう』『ああ結構です。闘いましょう』と席を蹴り、話がもの別れとなりかけ、あわや流血の惨事へ一直線、というところまで行きかけた。
この場はなんとか私の機転で切りぬけたが、その直後に急転直下、双方が歩み寄り、妥協点に達することができたのであった…中略…この日を境に九死に一生をえるような、思いがけない有利な形で和解となっていった」
(山崎正友著「盗聴教団――元創価学会顧問弁護士の証言」1980/12/1、晩聲社、P40-51)
この続きは、原島崇が自著「絶望の淵より甦る」P148-155で、山崎正友の論述を裏づけながら述べているのを、引用する。
「昭和四十七年十月十二日、正本堂が完成しました。その年の四月二十八日、池田大作の強い要望で、第六十六世日達上人の訓諭(時の猊下の全僧侶への公式的な御指南)が出されました。池田は、日達上人に、正本堂が『御遺命の戒壇』であると断定された訓諭を期待したのですが、日達上人はそれを断固として回避されました…中略…日達上人から学会側と妙信講側とが直接話し合ってはどうかとのお言葉があり、学会側と妙信講側との六回にわたる激しい討論の運びとなりました。…中略…
最後の日、あわや〝決裂か〟という寸前、一往の決着がつきました」
■正本堂の意義変更
「その概要は次のようなことです。
一、正本堂が御遺命の戒壇であるとは現在においては断定しない
二、御遺命の戒壇が国立であるか否かは引きつづき論議する
三、「聖教新聞」に正本堂が御遺命の戒壇の「完結」ではないとの理事長(和泉覚氏)談話を掲載する
最後の理事長談話は、私が徹夜して草稿をつくりました…中略…妙信講側からは『正本堂は御遺命の戒壇ではない』と文言を入れるように強い要望がありました。もし、その通りにすれば、たいへんな結果になると私は判断しました。つまり、これまでの学会の主張が全面的に崩れてしまいます。御供養金三百五十五億円が集まったその正本堂の意義も、完全に否定しさることになります。それでは御供養金返還運動=それが当時、民主音楽協会(民音と略称。学会の戦略拠点の一つ)の職員であった松本勝弥氏から起こされていた=を正当化させてしまう結果になります。『実質的な戒壇建立』との御供養趣意書もウソになります。それらの理由から、このことだけは断じて防がなければならないと私が決断し、『御遺命の戒壇の完結ではない』と『完結』を入れるように強い要望を出しました。激論のすえ、それは妙信講側が受け入れました。結局、日達上人の『訓諭』の線に落ち着いた結果となりました。この結果を、当然のことながら宗門にも『ご報告』申し上げました。
十月二日付け聖教新聞に、約束の『理事長談話』が掲載されました。その内容は、『いまなお広宣流布の一歩にすぎない。広宣流布はこれからである。なにもかもが終わったという考えは間違いである。『正本堂は御遺命達成の完結ではない』」といった趣旨の内容でした」
かつて、広宣流布達成の様子を日蓮は
「天下万民・諸乗一仏乗と成つて 妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば 吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ 現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。」(『如説修行抄』御書P502)と書き残している。
この遺文は創価学会がいまだに選挙の票取りにハッパをかける文証として利用しているものである。
内部会員には「この本門の戒壇(正本堂)ができた時が、広宣流布の達成だ」、「この機会を逃すと功徳は一生得られない」等々と、大々的に宣伝されていた。
そして、この遺文にある理想が現実になる日が正本堂の落慶する日だと本気で信じていたのである。
この時機、池田大作は、昭和40年9月20日、講演にて「猊下が正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります…中略…私ども創価学会員ならびに日蓮正宗信徒の真心の結集によって本門の戒壇堂はもうできてしまうのです」
と述べ,、翌10月、わずか4日間で355億円を集めた。
大工の手間賃が1日2千円の頃である。現在なら3千億円以上はあるだろう。
さらに、翌昭和41年7月3日、池田大作著「立正安国論講義」P658にて、
「先に行なわれた正本堂の御供養は、われわれ創価学会員の浄財を集めて行なわれたもので、やがて、その浄財によって、全学会員の歓喜のうちに、正本堂、すなわち事実上の本門戒壇が建立されるのである。正本堂建立こそ、日蓮大聖人の御遺命たる本門戒壇建立の具体化であり、宗門七百年来待望の壮挙ということができるのである」
と述べていた。
会員は、いよいよその時、末法万年の中で日蓮の遺命である広宣流布が達成されるという唯一の時代に巡り合った幸運と煽られ、正本堂落慶に世界公布達成という壮大な夢を抱いていた(抱かされていた)。
そのため、全財産を寄付し、家を売ったり生命保険を解約したり、サラ金から限度額いっぱいに借りて、ご供養として寄付した人も少なからずいたのである。
つまりは、正本堂建立が即ち目的とする広宣流布達成の日、来世永遠にわたり無量の功徳を得る千載一隅の機会と煽られ、多くの創価学会員がその無量の功徳を逃すまいと身銭を切り、浄財をはたいたのにだ。
私の父母も、当時は三畳一間のアパート住まいで毎日毎日1円玉・十円玉の金がなく、パン屋が破棄する食パンの耳を貰って食べていた極貧生活であったが、同様に信じ壮大な夢を抱いて、なけなしのお金を供養したのだった。
そのために学会組織から配布された三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)の貯金箱に一年間コツコツ貯めて供養したことを、今は亡き父も誇らしげに語っていた。
しかし、1972年10月3日、正本堂落慶のわずか9日前に迫って、聖教新聞紙上で、正本堂の意義は訂正される。
和泉理事長の名で、以下のようにある。
「正本堂落慶を迎えるにあたって、和泉理事長より次のような発表があった…中略…
現在は広宣流布の一歩に過ぎない。したがって正本堂はなお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りなのである」
こうして、みごとに「広宣流布の達成」の年が、「広宣流布の一歩」に言い換えられた。
正本堂の意義が覆され、伝統的な戒壇論は事実としても崩壊した。
この年は、皮肉にも、池田大作が会長就任時に打ち出した「七つの鐘」構想のうち、第六の鐘が鳴り終わる年であった。
しかし多くの熱心な創価学会員は、池田大作の言うがまま、この変更を受けいれた。
それは、先述した通り、そのような群集心理であったからにほかならない。
しかも、池田大作は、その後昭和46年7月27日の社長会で、
「正本堂の350億の半分を、私は猊下から頂きましたが、それも使わず、利息も使わずにやってきた。私もほんとにお人好しだ」(継命編集部編「社長会全記録」、1983/6/10、継命新聞社、P230)
と、本音でその後「正本堂の350億の半分」をこそっと手に入れていた事実(ほとんどすべての創価学会員はおそらく知らされていない)を語っているのには、開いた口がふさがらない。
もう一度振り返れば、日蓮正宗創価学会の戒壇論は、日蓮の三大秘法抄の文言「勅宣並に御教書を申し下して」を忠実に受け継いだもので、戸田城聖も昭和30年7月発行、戸田城聖著「観心本尊抄講義」(P285)には、
「ともあれ化儀の広宣流布、国立戒壇の建立には賢王が出現し武力、権力を持って正法流布に当ることが明らかである。有徳王、覚徳比丘の昔を思い合せ創価学会の重大使命に歓喜勇躍すべき御文である」とあるごとく、国立戒壇の建立のため「武力、権力を持って正法流布に当る」と明言している。
さらに戸田城聖は昭和31年8月号「大白蓮華」巻頭言 王仏冥合論(一)でも、
「我等が政治に関心をもつ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。即ち国立戒壇の建立だけが目的なのである」
池田大作は「大白蓮華」昭和33年9月号では、「創価学会は、日本の国をとるのでもなければ、政治団体でもなければ、または、全部が政治家になるのでもない。あくまでも国立戒壇の建立が目的なのである。…中略…三大秘法抄の南無妙法蓮華経の広宣流布、すなわち、国立戒壇の建立が目的なのです」
さらに正本堂の建立が大石寺においては事実上「これが最後なのであります」。あとは(国立による)本門戒壇堂の建立を待つばかりになると言って、供養金を355億円集めたのである。
こうして、正本堂の請願までは、この伝統的戒壇論を受け継いでいたことを拙論文でも先述(P28、P37)したが、妙信講の主張もこれを忠実に受け継いだものであった。
つまり、伝統的戒壇論の崩壊も、日蓮仏法のアップデート等ではなく、伝統的戒壇論を命がけで忠実に主張する妙信講を排除してでも、すべては先述してきた如く、池田大作による天下盗りの野望実現、つまりは政界進出で詭弁を弄し、言論出版妨害事件を引き起こしたことによる結果なのであった。
創価学会は、先述のごとく、大石寺66世日達にも盗聴や圧力をかけ言いくるめた。
そしてその後も、正本堂供養を名目、足場にして、日蓮が予言した「自界叛逆難」のごとく、より一層、宗門支配へと突き進んでいくのである。
■池田大作の凄まじい執着心、名誉欲
「ところが、十月十二日、正本堂落慶奉告大法要が終わって、参詣者が総本山から帰路につこうとするころ、大きな出来事が起こりました。福島源次郎副会長が、池田大作の伝言を登山客全員に伝えたのです。それは『本日、七百年前の御遺命が達成しました。ありがとう』
まさしく『訓諭』にも違背し、学会が『理事長談話』として社会に公表したことにも反する、すなわち妙信講との約束も反故にし、宗門にも討論内容をご報告申し上げたことも偽りであったことを明確に示す、池田の『伝言』だったのです。『流血の惨も辞さず』との覚悟の妙信講の池田批判、これに対して池田が『猊下に説得してもらうしかない』と判断し、日達上人が『辞世の句』まで詠まれて、それに応じられたことなどまったく無視して、池田の『正本堂が御遺命の戒壇達成』との名誉欲、執着心、日蓮正宗七百年の御相伝を無視した大謗法、自己本仏化の誇示を示す『伝言』をこのまま放置しては、大変なことになります。私はすべてのいきさつを熟知していたため、池田の『伝言』を伝えた福島副会長に『責任をとれ』と強く言いました。そして、すでに登山バスが帰路へ向けて出発していましたから、北條浩副会長ら首脳と相談し、バスの到着所に担当幹部を待機させ、伝言を打ち消させました。それでも、池田の『伝言』は結果的に組織のすみずみに伝えられたことは最近になって知りました。
この善意の私の『処置』に、池田はいたく不満をいだいたのでした。雪山坊(総本山内で、学会がもっぱら使っていた宿坊)の一階ロビーで、池田は烈火のごとく私を叱りました。『責任をとれとは何だ!』『正本堂は御遺命の戒壇ではないのか!』
私は、せめて『先生をお守りしたいばっかりで』というのが精一杯でした。すると『私なんか守らなくていい。私は牢をも辞さない男なんだ』とののしり断言しました。その罵声の激しさは、数人のまわりの側近たちさえ震え上がるほど凄まじいものでした。その時、平成十八年十一月九日に選出された原田稔新会長がいましたが、私に『原島さんの言っていたことは正しい』とただ一人、私に同調して語っていました。
私は、池田が『正本堂を御遺命の戒壇』とする執着心、名誉欲の凄まじさを痛感しないわけにはいきませんでした。
そのあと、同雪山坊の三階で大勢の首脳の居並ぶなかで、今度はいやらしいほどネチネチと私を総括しました。池田の常套手段です。池田は、『私は会員を喜ばせてあげたかったからだ』と言いました。
池田はよく『会員のため』と口癖のように言います。しかし、この時ばかりは『池田の名誉欲、権勢欲、執着心のため』という本音が見え見えでした。
その日は、私は黙っていました。しかし、私はその晩『池田の本性みたり』との深い感慨をいだきました。その時にふと、父の『私は日蓮正宗の立派な一信徒でありたい』との遺言となった言葉が心によみがえりました」(原島崇、同書P156-158)
■板マンダラ事件
拙論文P28 において、小多仁伯著「池田大作の品格」2007/12/25、日新報道、の元創価学会芸術部書記長の現場から見た「池田大作体験」の真実の記録メモをとり上げた。
それは1969年(昭和44年)9月24日の創価学会職員の全体会議の中で、正本堂の御供養を総括した池田の指導をあげ、
「『正本堂御供養は、創価学会が天下を盗る瑞相である』と記されて…中略…
いったい、神聖であるべき仏への御供養を、『学会が天下を盗る瑞相』とは、何事でしょうか」(前掲書 P75-76)
と、指摘しているのをあげた。
この供養は赤誠の学会員達による組織全体で成したものであるが、池田大作やその側近は、莫大な金の前に、自分たちの偉大さを実証したものと錯覚し、ますますその幻想を深めていくのである。
この正本堂の供養を集めた実態については、後に「板まんだら事件」として、訴訟に発展したことで有名である。
その原審から上告審までの判決が、ネットで公開されている。
「板まんだら」事件 第一審判決↓
https://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/84-1.html
「板まんだら」事件 上告審判決↓
https://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/84-3.html
ここでは、創価学会員で、そのカネ集めに自ら関与し、自らも大金を出した原告の松本勝彌が、原審の訴状にて、正本堂の供養を集めた実態について指摘しているので、さらに確認のため引用する。
「 一 原告らはいずれも被告の会員である
二 被告は、昭和二十七年九月一八日、『日蓮大聖人の弘安二年一〇月一二日に御建立遊ばされた一閻浮提総与の大御本尊を本尊とし、日蓮正宗の教義に基づき、本尊流布並びに儀式行事を行い王仏冥合の理想実現のための業務を行うこと等』を目的として設立された宗教法人である。
三(一) 被告は昭和三九年五月頃、会員に対し、右『大本尊』を安置する『事実上の事の戒壇』である正本堂建立のための募金を呼びかけ、被告の機関誌『聖教新聞』、『大白蓮華』や会員の幹部会座談会等で『供養に参加することが大功徳をえることになる』などと宣伝し、供養金の貯蓄を勧奨した。
会員は被告から『正本堂完成のあかつきまでに各々の運命が決ってしまうので、未来永劫の幸福の因となるこの供養に参加するように』と教えられ、被告の各組織は全力を挙げて、供養金を貯めることに没頭した。そして昭和四〇年一〇月九日より一二日迄の間にそれまで一年間の会員の血と涙の結晶は、被告に対し寄付された。このため、会員のなかには家財道具や家屋敷はおろか金目の物はすべて売り払い、借金までし、生命保険を解約して供養金を寄付したものが多い。
(二) 原告両名も、被告の右のような勧奨宣伝に応じて、右大本尊を安置する『事実上の事の戒壇』たる正本堂の建立をなし、功徳をうけ、幸福な生活を得るため、血のにじむような金銭を供養金として寄付することとし、原告松本とみ子は昭和四〇年一〇月一一日金弐百万円、原告松本勝彌は同年一〇月一〇日壱百八拾万円、同年同月一二日弐拾万円、計金弐百万円をそれぞれ被告に交付した。
四 しかし、右寄付行為は左の点で要素の錯誤があり無効である。
(一) 被告は前述の通り、正本堂は日蓮大聖人の三大秘法の大本尊を安置するためである。
そのため会員は供養金を寄付すれば幸福になると称して右寄付を勧誘し、原告は被告の右正本堂に安置するといういわゆる『一閻浮提総与の大本尊』が真正な大本尊であると信じたからこそ前記の寄付をしたのである。しかるに、右『大本尊』は次に述べるとおり、
『弘安二年一〇月一二日建立した大本尊』ではない疑いがきわめて濃厚となり、右疑問に対して被告は何らこれを解く努力をなさず、このため原告両名は右大本尊を信仰の対象としえなくなり、前記寄付はその要素に錯誤の存在することが明白になった。
すなわち、
被告が『大本尊』と称するのは、静岡県富士宮市在の大石寺の奉安殿にある板まんだら(板本尊)であるが、右板まんだらとは縦四尺七寸五分(一五六・七五センチメートル)、横二尺一寸五分(七〇・九五センチメートル)の楠板に彫刻をなし、それに黒漆を塗付し、文字のみ金箔を施したもので、『願主弥四郎国重等』と端書が記載されている。
しかし三大秘法の大本尊は日蓮大聖人の言葉どおり、紙に墨で書かれているべきであること、したがって板まんだらではありえないこと、右願主弥四郎国重なる人物は歴史上存在しないこと、右板本尊の筆跡が日蓮大聖人の筆跡と異なること、日蓮大聖人が大本尊を建立した時が弘安二年一〇月一二日ではないこと、日蓮大聖人が右板本尊を遺したとする文献が何もないことなどが、学問的に明らかにされている。
右のように、もろもろの疑点が明らかにされたにもかかわらず、被告はただ『この板本尊を何ものも絶対に疑ってはならぬ』とか『大本尊は大石寺の信者以外の一般には公開できぬ』とかいって、世の批判からのがれているのである。
また疑問をただそうとすると『仮にも大御本尊様(板まんだら)を疑ったらどんな罰をうけるかわかりません。早く御題目をあげて御本尊様にお詫びしなさい』などと一方的に『信じる』ことを強制されてしまい、板本尊の真偽はまったくのタブーとされている。」
と、指摘している通りである。
さらに、
「(二) 被告は、昭和三九年五月頃会員に対し、正本堂建立のときが広宣流布達成のときである、つまり、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布が達成される時までに『事実上の事の戒壇』である正本堂を建立しなければならないなどと呼びかけ、昭和四〇年三月頃の被告の『正本堂建立御供養趣意書』にも、『正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことがここに明らかになったのであります』などと述べられており、原告両名はこれに応じて前記寄付をしたのである。
ところが、日蓮大聖人の遺訓である、『三大秘法抄』によれば、『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時 勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋
ねて戒壇を建立すべきか。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり』(ママ)とある。
この意味するところは、『大聖人の遺した三大秘法は、時来ればかならず一国全体に理解され、尊崇される。そのとき、国家安泰のため、三大秘法が一国の代表たる国主も国政にたずさわる者も心から大本尊を信ずるようになる、このような姿が末法濁悪の日本国に顕われた時、それが戒壇建立の時である。『勅宣』とは天皇のお言葉、『御教書』とは時の政府の公式文書を意味する。このような文書が出てはじめて戒壇建立の時を迎える』ということになる。
同じく日蓮大聖人の遺訓である『一期弘法抄』には、戒壇建立の時を『国主此の法を立てらるれば』として、前述の『三大秘法抄』と同様のことが述べられている。
したがって、被告の前記呼びかけは、このような日蓮正宗の教義に真向から反するものとして、同宗の各派から批判されてきた。
被告はこの批判にこたえることなく、昭和四七年一〇月一二日の正本堂の落慶式の直前になり、同年一〇月初め頃から、前説をひるがえし、『全民衆を救おうとの大聖人の精神に立つならば、現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって、正本堂は、なお未だ三大秘法抄、一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、御遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである』とするにいたった。
そうなると、被告が広宣流布が達成したときの『事実上の事の戒壇』を建立するためとして、原告ら会員から募金をあつめた根本の前提がくつがえってしまったことになる。
以上のとおりげんこく両名が右寄付をしたのは、正本堂建立が広宣流布達成の暁に建立されるべき『事実上の事の戒壇』であると信じたればこそであって、現在広宣流布が達成されず、正本堂が『事実上の事の戒壇』でないことがはっきりした以上、右寄付は要素の錯誤に基づくものであることが明白になったといわねばならない。
五 原告らの本件寄付は以上のとおり、要素の錯誤により無効であるから、原告らは被告に対し、右寄付金各二〇〇万円ずつおよびこれに対し、右寄付をした最終日の翌日である昭和四〇年一〇月一三日から完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。」
(松本勝彌著「訴訟された創価学会」1973/6/15、市民書房、P12-17)
池田大作は、正本堂の建立のために、集める金を「御供養」と宣伝した。
それは、拙論文で前述した会長講演でも明らかである。
松本勝彌のこの訴えは昭和47年11月11日に起こされた。
それは、この正本堂が、落慶した昭和47年10月12日から数えて一ケ月後であった。
彼は、同著P259にて、
「法義のうえでの『戒壇論』は法廷ではなじまない」としながらも、
「池田会長が『正本堂』建立にあたって、御供養金を集めるときには、広宣流布達成のときに建立する大聖人遺命の『事の戒壇』といいながら、『正本堂』が完成したら、大聖人遺命の『事の戒壇』ではない、広宣流布も達成していないと変節した事実に関して争うわけである」
と言い、また、
「御遺文の勝手な解釈といい、はなはだ疑惑のつよい本尊といい、今思えば、よくもよくもだましてくれたものと腹の立つ思いである」(同著P261)
と言いながら、『正本堂』発願の時と、完成の時とで池田大作の言説が覆っていること、そして板マンダラも科学的には日蓮作ではない偽物であることを根拠に、御供養金の返還を求めているのである。
「我々をはじめ、多くの学会員は、日蓮大聖人の仏法を、金もうけに利用する創価学会に言葉たくみにあやつられてきた。多くの金銭と時間を費し、家庭まで犠牲にして、宗教家ならぬ無給の選挙活動家までさせられてきたのである。そして今も、まだその甘言に酔っている人々は多い。
大石寺及び創価学会は、一日も早くその謗法をくいあらため、正しい仏道を行ずべき時ではあるまいか。日蓮大聖人をこれ以上冒瀆することは、断じて許し難いことである」(同著P315)
更に「あとがきにかえて」(P316-318)では、
「更に学会側弁護士は『御供養金は贈与である』などと発言し、斎藤弁護士に『御供養金は、民法上の寄附行為であることは、そんなことは明らかではありませんか。寄附ではないというのですか』と言われ、再び赤面してうつむくという一幕もあったのです。
とにかく、この御供養金返還問題は、学会が絶対視する本尊の真偽ともかかわる問題である為、なんとか審議の進行を避けようとしていることは明らかなのです。大石寺の板本尊がほんものならば、従来の学会流で、堂々と論陣をはるべきです。それができないのは、自らニセモノであると認めざるをえないのだと考えられてもいたしかたあるまい。
昨年あたりから、日蓮正宗の寺院に〝本尊〟を返却しにくる学会員が増えています。日蓮大聖人の御真筆でもないニセ大本尊を拝んでいた学会員がすこしづつめざめてきたのだと、私は考えています。しかし、いまだ池田大作を盲目的に崇敬している狂信的な学会員は、かつて私たちもそうであったように、七月の都議選のためにわざわざ全国各地から出てきて、東京に集結し、せっせと公明党の票取りに動いているのです。
学会員は、まさにサル廻わしのサルに似ています。いや、あるいはサルのほうがまだましかもしれないです。サルはサル廻わしの言いなりになっていれば、とにかく相応の報酬にありつけるのですから。しかし、学会員は、池田大作のために選挙活動、学会活動をしても自分の人生と金をすりへらしていくだけです。肥えふとるのは池田大作とその腹心の幹部たちだけ。池田大作は、会員への功徳は、全部ニセ大本尊におまかせして、知らんふりをしているのです。私たちは、この真実を知らされずに池田大作によって操作されている気の毒な学会員のためにもこの戦いをつづけていく覚悟です」
と述べている。
連悟空著「変質した創価学会」1972/7/5、六藝書房 P215よりにも、「偽事の戒壇を破す」と題して、創価学会の戒壇論に対する破折がみられる。
この書は山崎正友によれば、実質的には松本勝彌が書いたという。
拙論文P37で先述したとおり、池田大作は言論出版妨害事件の謝罪演説により、師である戸田城聖の目標であった国立戒壇を、詭弁を使って明確に否定した。
また、板マンダラが日蓮作でないことも、既に説論文でも取り上げた。
だから、訴えを起こした松本勝彌の気持ちは胸が痛いほど十分よくわかるが、裁判所は、松本勝弥の訴えを退けた。
判決文もネットで公開されていて、詳細は割愛するが、そもそも、政教分離原則から、宗教団体内での教義に関する争いには、司法は介入してはならないのである。
つまり、日蓮正宗や創価学会が、どんなに非科学的なウソをついて御供養を集めていたとしても、それが宗教上の行為である限り、国家は介入を許されない。
これは、なにも創価学会に限らず、世界的な宗教をふくむすべての非科学的宗教団体について、民主主義国家にて適応されていることである。
民法上でウソをついて寄附金等を集めたら、詐欺行為にとわれる。
しかし、それが宗教上の行為という一点において、許されるという現実は、憲法上、政教分離を維持するための、まさに「コスト(費用)」ともいえるだろう。
さらには、仏法上では、御供養とは、布施のことである。
純粋な「まごころ」でするから御供養というのである。
徳勝童子の砂の餅(上野殿御返事、雑阿含経)、貧女の一灯(王日女殿御返事、等)の説話のあげるまでもなかろう。
その使い道を要求したり監視したり、そもそも見返りを要求すること自体で、それは御供養ではない。
このことは、拙論文P28で、本来の御供養の精神として、日蓮の遺文を挙げて先述した通りである。
御供養したものをどのように使おうとも、供養を受けた者の勝手である。
もっとも、御供養を受け、それを使う者は、それなりの境涯、「仏界」という境涯、崇高な修行をしている者でなければ、因果応報の業を積む、つまりは創価学会風にいえば「仏罰」を被るのである。
だからこそ、宗教上の教義自体も、限りなく「真理」でなければならないのである。
創価学会風にいえば、誤った宗教こそ、不幸の原因となる。
そういう観点からは、松本勝弥が訴訟を起こしたこと自体で、彼が行なった行為は当然に御供養にはあたらないことになり、仏法本来の意味では、彼の主張の前提が崩れている。
そして、彼に限らず、今の創価学会も、因果応報の苦業の海底に沈んでいるといえる。
熱心な創価学会員が、毎日、勤行にて読んでいる法華経寿量品の自我偈「没在於苦海」の状態であろうが、本人たちは無明のために認識するには遠く及ばないだけである。
日ごろから機関誌や座談会などの会合(現在は主にリモート)で「成仏」が目的と説いて励まし合ってはいるものの、自らも供養を受ける資格があると主張し、そもそも、大昔に釈尊が成仏の修行のために捨て去ったもの、そして日蓮が成仏のために当初から拒否・否定したところの名聞名利や栄華栄達を(特には池田大作についての栄誉栄達を)毎日のごとく、仏法上の御利益や偉大な実証の最第一と掲げて宣揚し、憚らないのである。
こうした初歩的な自己矛盾に気もとめない人や組織は、厳密な日蓮仏法による「血脈」を語るには到底あたらない。
仏教本来の精神からも大きくかけ離れた姿が、ここに見えるようである。
会員から「真心の」莫大な御供養を集め、それを自らの名聞名利・野望実現のために使った池田大作自身や創価学会の、その後の因果応報(創価学会風にいう「仏罰」)の姿が今まさに、ここにある。
今年も創価学会の公布部員の申請時期が来て、私も同様に申請を伝えたが、創価学会の財務(広布基金)は「まごころ」の財務と言いながらも、いまだに末端組織ではその金額や人数にこだわり競い合っているところがみられる。
こうした風潮の中で集められる御供養名目の広布基金に、一体どれだけの仏法上の意義があるのか、創価学会員自身がそれぞれ、仏法の御供養の精神に立ち返って考えてみるべきであろう。
ちなみに私は個人的には、これは御供養ではなく、あくまで末端組織の同志の活動や励ましのために使われる創価学会「会費」とみなしている。
会費を払ってまで、このコロナ禍の中、超少子高齢化に悩む地域のコミュニティとしての末端組織の人々を支えているのが現実である。
話はそれるが、近日の新型コロナの災害級爆発的感染拡大は、マスコミや企業や関係者たちにより、日本国中をオリンピック開催前後のお祭り気分にひたらせた中で、医療関係者たちの抱く想定や危機感が十分に伝わらず、本日もなおも過去最大を更新中である。
すでにトリアージ(命の選別)は広がりつつあるが、今の感染者や重傷者は皆、2-3週間前の行動の結果がでていることを全国民は見落としてはならない。
ワクチン接種も計画通りに進まず、またワクチン接種による一カ月以内の死者をはじめとした有害事象の原因究明もおろそかになったままである。
こうした中でも、感染予防の具体的行動(消毒、マスク着用、密の回避、徹底した「声を出さない」手段=手話やジェスチャー・筆談での会話、リモートなど)の中で、命をはって病院や地域のコミュニティを守ることも、医療従事者としての大切な仏法上の布施の一つであると私は考えている。
もちろん、本来の仏法での御供養は、別の形でも、見返りも期待しない、純粋なまごころのみで、行っていて、この研究や拙論文の執筆もその一つであると自負している。
こういった布施は、いやいややるのなら、なんの得にもならないから、当然にやらなくてもよく、むしろやらない方が良いのである。
ここで、上記の根拠となる日蓮の遺文を一つだけあげておく。
四条金吾殿御返事(八風抄)、御書P1151
「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の
八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなりしかるを・ひりに主をうらみなんどし候へば・いかに申せども天まほり給う事なし」
《賢人とは八風といって八種の風に犯されないのを賢人というのである。八風とは利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽である。およそ利益はあっても喜ばず、損をしても嘆かないということである。この八風に犯されない人を、諸天善神は守られるのである。なのに、道理に反して主君を恨んだりすれば、どれほど祈っても諸天は守護することはない》