Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P41, 人間たらしめる究極条件、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(6)、言論出版妨害事件
前ページからまた更に続いて、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討を、「新・人間革命」での描写も併せて行った。
■だきあわせた祝典講演
だきあわせた祝典講演についても、素晴らしい分析部分があり、以後の創価学会の変換した路線の基盤になっているので、取り上げておく。
「新・人間革命」では、1970年台更に21世紀の展望として、70年代は既に出尽くした現代文明の問題の解決に向かう時代、特に科学文明が人間の部品化・主体性の喪失・精神の空洞化をもたらしたとコンピューターによる人権侵害に対する規制を要すると述べた。
これは、記念講演の後半部分(同書P37以降)でも同様に述べられている。
現代文明がはらむ問題点が「既に六〇年代で出尽くした」とするならば、いかにも早計であろうが、原島崇・桐村泰次など、この原稿を書いた幹部たちのこの時点での現代文明への見解が、一面的にはきちんと指摘されていることは大いに評価に値する。
これによると、「現代文明の特質」は「科学技術の驚異的な発展」とし、その「重大な矛盾」が「人間精神の空洞化・脆弱化の問題」であり、「機械そのものと、機械の原理による社会の組織化とは、ともに並行して、人間自身を部品化し、主体性を奪う」「深刻な事態」と指摘する。
人々の生命力の弱化し、行動が受動的・感覚的・衝動的になり、孤独感に悩まされ、ただ刹那的な享楽のみが精神的救済となると指摘し、「人間の精神構造は、ただ自己の本能的な欲望だけを原動力とし、罪の意識も恥じらいの感情もない、単なる〝知性ある動物〟にすぎなくなってしまう」こと、その根拠として犯罪の激増、犯罪者の罪悪感の喪失、性道徳の退廃、公害問題、交通問題等をあげ、高度産業社会が物心両面にわたり人間生命に対して脅威を与えているという。
そして、現代文明は「科学技術の勝利」ではあるが「人間性の勝利ではなく」、人類の直面する難問は「人間を人間として扱うことを忘れた、文明の基本的性格から発生したもの」と断言している。
また、「科学技術文明の圧倒的優位にのもとに、人間性と人間生命の尊厳が、次第に見失われている」として、エーリッヒ・フロムの、
「紀元二〇〇〇年という年は、人間が自由と幸福を求めて努力した時代がめでたく終りを告げ、幸福の頂点に達する年ではなく、人間が人間であることをやめ、思考も感情も持たない機械に変ってしまう時代の始まりであるかもしれない」を引用して、機械によって、人間は肉体的な労働から解放されたが、機械が主役であって人間は重要でなくなったとし、知的労働までも、コンピュータに奪われ、権力の機関により全国民がナンバー化・記録され、プライバシーが暴露・侵害されるようになり、人間は、機械に職場や一切を支配される時代となる恐れがある、これは生命の尊厳への恐るべき脅威である、これを防ぐため明確な規制措置が必要だと主張した。
さらに核兵器の脅威も、それを操作する人間の精神自体の破滅から起こるとし、こうした見えざる暴力を喝破し「人間革命の大運動」の展開を呼びかけている。
現在のIT・AI時代から振り返れば、半世紀以上も前にこの指摘をおこなったことは、ある意味では卓見であったといえる。
これらの指摘は、ある側面、つまり自分たちが作り出した環境から受ける側面からのみ、現在の状況を言い当てている。
そういう意味では、前ページで指摘した、精神的貧困、精神的格差が相対的貧困とは比較にならない程進み、また今後も進んでいくことになろう。
これは、仏法でいう「依正不二」の原理を見れば、「依」(環境)からの指摘である。
現代文明の「機械」や「高度産業社会」が、物心両面から人間生命に対して脅威を「与えている」というのは、「依」(環境)からのみの指摘であることが分かる。
これに対して、「依正不二」の「正」(主体)から見れば、そもそも人間精神の荒廃、「人間性の喪失」による所作が、「機械文明」「高度産業社会」を、さらに人間自身へ脅威を与えるように仕向け続けているのである。
主体と環境が一体であるという「依正不二」の原理である。
どちらが先かということが問題ではない。
これは、鶏が先か卵が先かという問題でもない。
一念三千の法理として、既に仏法において解かれているのである。
ただ、1970年代では予想できなかった事態もある。
当然ながら、「正」(主体)も同時に変化していくのだから、「依」(環境)の変化のみの分析からでは、現在の状況は想定外の事態も大いに含まれている。
すなわち、環境面(仏法の一念三千でいうところの「国土世間」)では、石油資源・森林資源などの枯渇化、環境破壊による地球温暖化、それに伴う天災地変による深刻な災害の頻繁化、原発問題、再生エネルギー問題、グローバル化に伴って、大企業や金融の脅威が国家の枠を超えてあらたにふりかかっている。
また、その後米ソを主体とする東西の冷戦は終局し、ベルリンの壁も崩壊してドイツも統一されたが、核保有国が増加し、ベトナム戦争・湾岸戦争・ミャンマー紛争・中東紛争や、イスラム国などの新たな国際テロ、中国の覇権主義や人権抑圧問題など、国際紛争は絶えまなくつづいている。
文明面(仏法の一念三千でいうところの「衆生世間」)では、少子高齢化による年金問題や介護問題・医療費削減問題に伴う医療従事者不足(医療や介護は肉体・精神両面にわたる重労働であるが、報酬や社会的評価が低い為不足する悪循環に陥っている)、社会的資源は豊かになったが、非正規雇用の拡大に伴う経済的格差の拡大、相対的貧困の問題などが新たに発生している。
さらには、IT・AI時代に特徴的な新たなIT産業の発展、臓器移植や再生医療等にともなう深刻な倫理的問題、新たなウィルスや細菌(新型コロナ、MASA・MDRPなど)の出現による疫病の流行などがある。
また、肉体・精神的(仏法の一念三千でいうところの「五蘊世間」)には、IT・AIの利用が一般化して、誹謗中傷・迷惑メール・不正アクセス・ハッキング・フィッシング詐欺などのネット犯罪が横行し、無力感・孤独感がIT空間へ、全世界的にも広がっている。
総じて、肉体的にも知的にも、時代が進むほど更に多くの新たな深刻な問題に人類は直面し続けているのである。
これらをみれば、現代文明のはらむ問題が決して記念講演にて述べたような、六〇年代で出尽くしたとはいえず、機械による人間性喪失も、一側面からの指摘に過ぎないことがわかる。
さらには、当時でさえも、また現時点でさえも決して問題が出尽くしたとはいえず、人類が生存を続け、科学技術の発展が続いていく限り、永久に新たな問題に直面し続け、これらを避けるか乗り越えていかざるをえないことが、人類にとっての宿命であることがわかる。
これらの新たに出現する深刻な問題は、人類の繁栄とトレードオフの関係にあって、仏法が教える依正不二の原理に立てば当然の事なのである。
今、人類はコンピューターによる人権の侵害の規制措置は必要なだけではなく、規制と利用の両面から智慧を駆使し試行錯誤しながら科学技術を発展させているが、やり過ごしたり、目をつぶったりしている問題も多い。
こうした肉体・精神的な「見えざる暴力」に対し、「人間革命の大運動を展開してまいろうではありませんか」という呼びかけは、創価学会が日蓮仏法として掲げる内容が日寛アニミズムであることはともあれ、日蓮仏法を流布し、万人の救済をめざす団体としてはすばらしいものである。
ここでいう「人間革命」とは、真には、「成仏の姿」の全生命的な実証にあたると私は解釈したい。
真実の日蓮仏法を基本に、その現代での進歩発展的更新も伴っての姿であろう。
きわめて残念なことは、この根本原理の進歩発展的更新の努力を怠り、いまだに日寬アニミズムを盲目的に絶対視していることである。
更に、「新・人間革命」では、
「管理の度を強める国家権力へも言及。民衆は国家に隷属してきた状態から脱し、生命の尊厳を至上とする新しい舞台に躍り出る時を迎えたとして、〝国家の論理〟から〝人間の論理〟へ、と呼び掛けた。
次いで、二十一世紀は人間が科学技術の奴隷となるのではなく、科学技術を使いこなしていく『人間の世紀』としなければならないと強調、そのために、人間の精神を高めゆく、優れた宗教が不可欠であることを語った。
『科学の世紀』は即『宗教の世紀』でなくてはならない。そうでなければ、人間全体、生命全体の正常な姿はありえない。そこに、新しい未曽有の大宗教運動の必要性を痛感するものであります。
二十一世紀までは、あと三十年――この一九七〇年という年を、この壮大な宗教運動新しい夜明けとしていきたいと思いますが、いかがでしょうか!』」
とある。
ここにあたる謝罪演説では、国家権力は隠れた操作によって民衆を強力に統制しているとし
「若者たちの反抗の底流にあるものは、なかんずくこの横暴な国家権力への抵抗である…中略…人々の願う〝生命の尊厳〟を、今日まで無残にも踏みにじってきた国家主義に対して、新しい世代の起こした反逆で」ある、そして、
「生命の尊厳」は「生命こそ、他のなにものにもかえられぬ、至上の当体である」として、「生命の尊厳に立つ以上、人々を死地に追いやり、あるいは、暴力的に、その自由を奪うような、国家主義の特権は断じて許されない。――この自明の理に気づいた、鋭い青年達の主張が、あのような激動を巻き起こした、と一面では考えられる」と指摘している。
「民衆は、国家に隷属してきた状態から脱し、生命の尊厳を至上とする新しい舞台へとおどりださんとしております。〝国家の論理〟から〝人間の論理〟へ・――これが現代を深く貫く時代の潮流であり、この潮流の先端を切って、限りなき希望に満ちた、生命の大海を開くのが、私どもの使命であると確信いたしますが、いかがでしょうか。」
と呼び掛けている。
これも、一面的には、真実を突いている。
すなわち、精神の向上、仏法の目からは、科学技術の発展を有効利用し、声聞・縁覚・菩薩をめざす境涯をさす。
ただ、後述もするが、大方の大衆は、国家や、世界的傾向や国家をはじめとする組織に、「寄らば大樹の影」のごとく容易に隷属し、さまざまな問題に目をつぶり、困難を避け、心地よいぬるま湯の環境にどっぷり浸っていようとする傾向であることを見逃してはならないのである。
これは、戦後の我が国においては、自由やそのほかの現代民主国家に保障された権利が、法的にも社会的にも大衆全体として闘うことなく、GHGからタナボタ式に与えられた中で、それを駆使するに十分な自己の確立や向上が未熟であったために、自由という大海にさまよう中で、自らの無力・孤独感によって、容易に既成の権威という流木にすがりつき、また自らをそれによって大きく見せよう、取り繕うとする心理である。
この心理は、エーリッヒ・フロムが、既に1941年に指摘した「自由からの逃走」にほかならない。
仏法の目から見れば、地獄・餓鬼・畜生・修羅の複合を基底とした、六道輪廻の境涯である。
さらに講演では、大学紛争や古き価値観の崩壊と世代との断絶、暴力的・反抗的なゲバルトや逃避的・厭世的になったヒッピー青年などをあげ、かれらは一応形だけ、体制に順応しているにすぎず、心には社会への不信感が拡がっているとし、それに対して創価学会では青年が意欲に燃え、青春を謳歌し、生き生きと活躍しているのは、妙法のの哲学と、人間性のふれあいが、疎外され孤独な青年の胸に、共感を呼んだからであるとした。
これは、他と比べて相対的には事実と言っていいかもしれない。しかも、それは折伏・弘教・選挙の票取りという行動と抱き合わせた活動においてに限定したものではある。
ただ、創価学会だけに、この解決法があるというわけではないだろう。
さらに、世の分析についても一面的・偏見を@含んでいる。
例えばゲバルトについては、未熟な面はともあれ、自らの意思と信念で規制体制の矛盾を克服し自らの描く理想社会を団結して建設しようとする若者の情熱の現れとみることができる。
現代の若者についてはこれに類する情熱は次第に下火になって消えつつあるように見えるため、異常に思われている側面もある。
ヒッピーについては、彼ら彼女たちは既存の道徳観にただ反抗しただけはなく、原始生活への回帰を模範としながらも自らのの行動を自発的積極的にパッフォーマティブに演じたものである。
その内容がひげや長髪,ジーンズや風変りな衣装,ドラッグやサイケデリックなロック音楽や東洋的な瞑想などとなって表現され、それらの自発的創造性が結果として既存の文化・道徳観や生活様式と異なったものであったため、自ら定職につかずに放浪を選んだ人々である。いわば、彼らは自ら自発的にそれらを選択したのである。
これらは、世界でたった一つしかないという自らの個性を、自らの可能な限りの方法で創造的に発揮した自発的パフォーマンスとみることができる。
つまりヒッピーを「逃避的・厭世的」「体制に順応しているにすぎず、心には社会への不信感が拡がっている」と決めつけるのは一面的であり間違った見方である。
むしろ、かれらの行為はジュディス・バトラーが「ジェンダートラブル」で指摘したところの「行為遂行性」(パフォーマティヴィティ)の現れにほかならず、決して「逃避的・厭世的」な因子ばかりではない。
つまり、青年が意欲に燃え青春を謳歌している世界は、なにも創価学会に限られた世界ではなかった。
講演が、このように創価学会を宣揚したのは、現代のCMに見られるのと同じようなものである。
たしかにこれに該当する青年は、創価学会の中にもいたことは事実であろう。
創価学会は、世の中が荒廃していることを殊更に過大妄想的に述べる傾向があり、自分たちの推奨する道だけが至上のもののように喧伝する傾向があるように私は考えるのであるが、これは日蓮の立正安国論を文面上だけで模倣したものにすぎない。
そういう主張を前提として、日寬アニミズムの正当性を述べる傾向があり、この演説部分もその定番である。
すなわち、それに引き続いて「必ず、そのなかから、妙法の哲理を基盤とした、新しい文化建設の機運が萌えいでていくことも、必定であると信ずるのであります」と訴えを結びつけている。
さらに宗教について、
文化の興隆をもたらす半面に阻害する要素もあり、その原因が戒律性、道徳的抑制作用にあったとした。
宗教は人間性を生かし、文化の土壌となるべきで、ここに真実の人間主義の源泉があるとした。
宗教が現実には文明の転換をもたらさなかった原因は、人心をとらえ、建設的な役割を成す優れた宗教の存在を知らなかった一点にある、その宗教こそ日蓮の色心不二の生命哲学であり、故に人類の前途にある暗黒の未来に光明を与え開拓するのは妙法流布の戦いだけであるとと呼び掛け、人間を人間たらしめる究極の条件は「宗教をもつこと」であり、人間が全き人間となるための本源的な道と述べた。
ここにいたって、ようやく「新・人間革命」の記載につながる、すなわち、
「二十一世紀は、おそらく科学技術の世紀となることは、まず間違いないでありましょう。しかし、人間が科学技術の奴隷となるのではなく、科学技術を使いこなしていく人間の世紀とするためには、信ずるにたる優れた宗教を根底とすべきことを私は訴えておきたいのであります。
科学の世紀は、即宗教の世紀でなくてはならない。そうでなければ、人間全体、生命全体の正常な姿はありえない。ここに新しい未曽有の大宗教運動の必要性を痛感するのであります」
と結論している。
ただ、記念講演の正本堂の完成云々、すなわち、後述するが、池田がことさら莫大な御供養として行った正本堂の完成が創価学会にとって未曽有の大宗教運動としているのが、後に破門された日蓮正宗によって破壊されたため、創価学会にとっては極めて都合が悪くなり、「新・人間革命」ではカットされている。
続いて、宗教運動の新しい夜明けとしていきたいとと呼び掛けているのであるが、これらの主張は、環境面からの分析はおおむね是認できる。
しかし、藤原弘達著の「創価学会を斬る」で指摘された全体主義を、あらためて否定し、
「決して独善や慢心でもなく、新世紀への責任を痛感すれば、全体主義と無秩序の退廃を否定、宗教を土壌とした人間の自覚と英知のみが現代文明を先導する、創価学会がなければ、全体主義になるか、無秩序な退廃となり、未来は断絶を深めるばかりとなるであろうとまで断定したのである。
ここまで言えば、多くの来賓は眉をしかめたに違いない。
さらに講演では、以後の創価学会のビジョンとして、人間生命の躍動を根底とする新しい文化の創造と、次代の人間形成をもたらす教育事業として、民音の音楽活動、芸術部の芸術活動等々が第三文明建設であると宣揚し、翌年開学予定の創価大学のモットーもあげ、これらを創価学会の宣伝のためではなく、社会・人類文明のための貢献が元意で、「いかなる外部の世界とも、その理想を一つにするところに対してはすすんで協力し、協調していくべき」であると述べている。
おそらく、この部分についての記載が、続く「新・人間革命」での、創価文化を母体として、社会に貢献しようとの訴えた前後の描写(「新・人間革命」第十四巻、P305-310)に相当するのだろう。
謝罪演説の結びのなかの日達のご清穆と宗門の繁栄の祈願は「新・人間革命」では、カットされている。
この、宗門排除の姿勢に関しては完璧な徹底ぶりである。
■その後の「現代文明の特質」と「人間たらしめる究極条件」としての「宗教」
先に挙げた「現代文明の特質」は「科学技術の驚異的な発展」とし、その「重大な矛盾」が「人間精神の空洞化・脆弱化の問題」であり、「機械そのものと、機械の原理による社会の組織化とは、ともに並行して、人間自身を部品化し、主体性を奪う」「深刻な事態」は、50年たった今、どのように評価できるであろうか。
驚異的といわれた科学技術の発展はその後も人類の人間がこぞって自発的試みに取り組み国際的な競争となって、まさに爆発的脅威で発展しつつある。
この時の原理によっては、現在はますますIT・AI技術によって「機械の原理による社会の組織化」と「人間自身を部品化し、主体性を奪う」状態になっているであろうか。
私は、そうとばかりとは考えない。
たしかにこれらに依存し、これらの奴隷と化した人達も多くいるが、これらIT・AI技術を駆使して社会的資源や資本が人間の福祉のために有効利用されていることは枚挙に遑がないではないか。
公害問題はほぼ克服され、水道水の清浄さ豊富さをはじめ世界屈指の衛生状況を誇り、都市部の社会資源も豊富で交通事故の死亡率・志望者は年々減り続け、犯罪の認知件数の低下(ちなみに、少年犯罪を含めて最も荒れていたと思われる世代が昭和30~40年代であって、これは創価学会の爆発的発展をした時代の世代である)、障碍者も公共交通機関を利用し旅行や遊園地に行ける、医療水準や社会福祉サービスは格段に発展し、日本国民はそれを享受し、ほぼ世界一の平均寿命を誇っているのである。
スマホやPCなどからIT空間を見ると、豊富な知識や知恵の宝庫であり、夥しい数の個性に満ちた投稿や動画に満ち溢れ、キーワードの検索の基準も高低浅深・正邪善悪なども取り入れられつつあり、R18、ヘイトスピーチや誹謗中傷内容の排除なども考慮されたものも、できつつある。
「機械の原理による社会の組織化、人間自身を部品化し、主体性を奪う」一面もありながらも、これを克服し、世界にたった一つしかない個性を自発的に存分に発揮した動画や投稿(YouTubeやインスタグラム、各種ブログなど)に、毎日毎日満ち溢れているではないか。
もっとも商業主義に基づく広告が同時配信される条件の下で、かつアフィリエイトの要素もあるが、あきらかに人類の人間文化における百花繚乱の姿といえる。
こういった姿のなかに、夥しい数の人間性の発露、自発性の開花、パフォーマンスの輝きがみられるのである。
それが、かつて創価学会が言ったところの、「人間性の勝利」そのものではないか。
これに貢献しているのは、当然明らかに創価学会だけではない。
創価学会の言い張っている宗教の流布のみによるものでは断じてない。
むしろ、世論調査で僅か3%前後にしか過ぎない構成員である創価学会による「創価文化」によるものは、多くの情報の波に埋もれ、圧倒的に少なく、その影響力も微々たるもののように見える。
私は、未来を担う創価学会の若い世代に、具体的な答えを出してもらいたい思いである。
現在の創価学会がこのときの「新・人間革命」でいうところの、「新しい未曽有の大宗教運動」とは、そしてその「必要性」とは、具体的にいえば何だったのかを、現在の創価学会の若い世代に問いかけてみたら、どんな自主的・主体的な答えが返ってくるだろうか。
幹部や先輩たちの古臭い価値観に捉われた焼き直しではなく、IT空間に夥しく飛び交う様々な世界観や価値的思想哲学をも比較検討しながら自らの頭で考えた新鮮な答えが果して返ってくるだろうか。
もし、かれらの答えがそ独創的な答えではなくて、親世代の隷属的師弟不二の論理から一歩も進まないアニミズムに基づくものにしかすぎないとすれば、創価学会の歴史的事件であったこの時の池田大作の謝罪演説は、かれらにとっても進歩発展の糧にはならず、虚飾にまみれ、歴史を都合よく塗り替えるだけの単なる取るに足らない言い訳の類であったことになるであろう。
拙論文P5で指摘した、日蓮仏法の目的である成仏、その世界である仏界は、「一心欲見仏 不自惜身命」の姿、すなわち「限りなく完成(完全無欠)へ向かう未完成な状態の一念」である。
そこからは、如何なる分野であれ、真実を追究し明らかにしようとすることが、すべての文化的営みの源泉であることが導き出せる。
この中には、自らのウソを覆い隠し、捏造・脚色する中には、日蓮仏法の説く仏界があるはずはないし、真実の歓喜もないのである。
日蓮仏法の根本哲学のひとつが天台の「一念三千」であることは先述した。
科学技術の発展は、さかのぼれば人類発生時点からの大自然の支配欲に基づいている人間の知的本能である。
仏法でいえば、六道輪廻を基底とする声聞・縁覚・菩薩の境涯の働きによる。
科学技術にしろ社会体制・経済体制にしろ、それらの発展自体は、正邪善悪で云々すべきものではなく、それを駆使して人間のために役立てるか、それに利用されて依存し奴隷になるかどうか、あるいは己の飽くなき欲望を満たす手段とするか人間の幸福を実現する手段とするかは、ひとえにそれに向かう人間の一念の在り方にかかっている。
これを「依正不二」という原理が示している。
仏法的視点で語る場合は、この両面の視点から分析しないと、単なる手段に過ぎないもの「科学技術や社会機構・経済機構などの環境因子など)を、それ自体を目的と見誤ってしまうことになるのである。
「人間を人間たらしめる究極の条件」とは「宗教をもつこと」であり、「かつ人間が全き人間となるための本源的な道である」と、記念講演が訴えるところの「宗教」とは、こうした環境を自他ともの成仏(幸福)へ自発的に創作していく「独自で確立した、また常に更新すべき」ところの「ゆるぎない信念」にほかならない。
これは、日蓮仏法の真の理解に比較的近いと考える。
ただ、こういった価値的な文化運動は、なにも創価の大文化運動だけでなければならない必然性はないことだけは明らかである。
日寬アニミズムだけでなく、一神教や多神教の宗教を信奉するする人たちによっても普通に実現されていることが見いだせるのである。
重要なのは、日寬アニミズムそのものではなく、それをきっかけや材料とすることにはやぶさかではないが、それに盲従したり盲目的に受け入れれば、未更新の非科学的部分がさまざまな害毒を引き起こすことをしっかりとわきまえていなくてはならないことである。
「人間を人間たらしめる究極の条件」としての「宗教」とは、創価学会が唱えてきた特定のアニミズムの独善や宣揚の対象ではなく、日蓮の言う、真に万人に開かれた「限りなく完成(完全無欠)へ向かう未完成な状態の一念」により、独自が独自に、そして全世界な知性によって更新していく「信念」であると定義したい。