Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P40, 創価学会の体質、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(5)、言論出版妨害事件
前ページからまた更に続いて、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討を、「新・人間革命」での描写も併せて行った。
■ 共産党に対する態度(同書P29-30)
記念講演では、共産党との敵対関係は防衛のためで本意ではない。反共主義を掲げるものではなく、学会は宗教として一切を包容すべきで、政党と争うべきではないが、信仰を不当に圧迫する動きには、信教の自由を守るために戦う必要がある、無益な争いは避けるべきで、創価学会の立場を明確にしたい、とある。
この記念講演部分にあたる「新・人間革命」での記載はない。
さて、創価学会・公明党と共産党との敵対関係は、すでに戸田時代からである。
戸田城聖も、学会の敵は共産党である旨の論述もあるくらいである。
世間に与えているのは「あるかのような印象」ではなく「常に敵対関係」にあることである。
今回の事件においては「不当」でないことは事実が示している。
「不当に私どもの信仰を圧迫する動き」、「信教の自由を守るため」とか「正当防衛」とか、こういった言いのがれの中に、この演説に対する欺瞞の意図が見え隠れしている。
そもそも創価学会・公明党は一体となって、第三者が論評した自らの意に添わない出版物の出版・販売を、著者・出版社・取次店・小売店にまで圧力を加え、妨害する行為を重ねてきた。
この長く隠蔽されてきた一連の言論出版妨害事件が、一九六九年一二月にいたり、藤原弘達著『創価学会を斬る』について明らかになった際、日本共産党不破哲三衆議院議員が、重大な事件として国会質問で追及したことから大きな社会問題として発展した。
日本共産党は、この事件が憲法と基本的人権、民主主義の根本にかかわる問題であることを広く国民に訴え、真相の解明と責任の追及に大きな役割をはたしたことは評価できる。
創価学会幹部らと公明党幹部らは当初から、『事実無根である』といつわり、事態を乗り切ろうとしたが、この問題の真相は次々と明らかにされ、創価学会ならびに公明党の責任を追及する広範な世論は、いっそう厳しさを増すにいたったのである。
創価学会は宗教であり、一切を包容すべきと、記念講演で先述されたが、これでは共産党を包容できていないではないか。
そもそも共産党は創価学会・公明党に対し、立正レベルでの「信仰を」不当に圧迫してはいない。言論出版妨害は不当だが共産党の行った批判は不当とは言えない。創価学会が信仰を守るために戦うというのは被害妄想であり、逆に宮本顕治委員長宅の盗聴も行った。
この講演部分で、互いに切磋琢磨して向上を目指そうといえば、素晴らしかった。
日本共産党の指摘は創価学会の正しい発展のためには、日蓮仏法でいう「善知識」の働きの相当するのであり、けっして「無益な争い」ではない。
それを「こうした無益な争いは、絶対にやめるべき」という認識は、最高指導者としての認識としてはあまりにも軽薄と言わねばなるまい。
拙論文にて先述したが、こうした姿勢は、日蓮の姿勢、とりわけ、迫害を加えた平頼綱や北条義宗に対する日蓮の思いとは対極にある。
その後の歴史においても、この姿勢は続き、創共協定を結ぶも反古にしたりして、日本共産党とは現在も友好関係にはない。
ところが、同じような共産主義の、独裁政権の中国共産党とは、池田大作が日中国交回復に貢献したことから仲良しで、最近でも中国共産党100周年にあたり池田大作名誉会長・原田稔会長が親書を送り、公明党山口那津男代表が祝意を述べるなど、表面上の仲良しを装っていることは皮肉に見える。
この謝罪演説では『生命の尊厳』『人間性の尊重』『平和主義』を掲げておきながら、さまざまな激しい人権侵害(チベット、新疆ウイグル自治区、香港など)や覇権主義的行動に対し、良き盟友としてのきちんとした諫言をこれまでしたことなど一言も聞こえてこないからである。
現在の創価学会・公明党の、こうした思想的に歪んだ、さらに「臆病」な姿勢が垣間見れる。
■ 創価学会の体質問題(同書30-37)
続いて、創価学会の体質問題について触れ、受け入れるべきは受け入れ、改めるべきは改めていくことと述べたが、これは、人倫では至極当然のことである。
いちいち「総務会、理事会で何回か検討」すべきことではあるまい。
ただ、「ここで申し上げる諸点は、全て、その検討のうえ、決定をみたことであり、皆さん方のご賛同をいただければ、今後の基本方針として、決定したい」というのは、創価学会が決して民主主義的でないことを如実に示すものである。
ここに集まってきた一部の選ばれた熱狂的な幹部、彼らは会員全員の選挙によって選ばれたわけではあるまい。
しかも、彼等彼女らは、師匠として仰ぐ池田大作の言動を矛盾を感じずにすべて受け入れる者たちだから、反対するものはよもや含まれていないだろう。
この者たちから「ご賛同をいただけれ」ることは、初めから当然決まっていることである。
わざわざ来賓を招いて民主的に決定したというポーズが、来賓の目にどのように映ったかは、ここで言うまでもあるまい。
今までも、池田大作の講演では、このような、会場の参加者に「いかがでしょうか」と呼び掛け、お決まりの賛同の挙手を求めて方針などを決定してきた。
この様式はこの謝罪講演だけでなく、今では廃版となっている会長講演集などでは、いたるところでこのような文言がみられる。
池田大作の提案に反対する者がいない中で決められることが、民主的とはいえず、こういうのを独裁ということは明らかであろう。
この観点から、謝罪演説の続きを見ていく。
続いては、布教・折伏について、こう述べた。
「たしかに、これまでは、建設期であったが故に、また、若さの故に、あせりすぎた面もあった。…中略…つい行き過ぎて摩擦を生じた例があった…中略…今後は、そうした行き過ぎの絶対にないよう、道理を尽くした布教、折伏でいくよう、これまで以上に、互いに戒め合っていきたいと思いますが、いかがでしょうか。
現在では、たとえていえば、これまでの高速道路から、混雑した都会の道路を車で走っているようなものといえましょう。したがって、決して数をあせる必要はないし、あせっても絶対にならない(ママ)。無理な学会活動をして、社会に迷惑をかけることは、大謗法であり、学会の敵であります。多少減ってもいいから、立派に整とんしながら、悠々とやっていきましょう。むしろ、入信するのがすばらしい名誉であり、栄光なのだという気概でいくのが、本当なのであります。御本尊を受持するということは、最高の宝をいただくのと同じであります。これが仏法の原理である、無上宝聚不求自得ということであります。
御本尊をなんでも、いただかせようとして、粗末にするようなことがあっては、大聖人の仰せへの反逆である。そのためには、入信にさいしては、座談会に原則として三回以上出席することを条件とし、きちんと名簿に登録するようにもしたい。
また、退会したいという人に対しては、道理だけは尽くしても、決して執拗にとめてはならない。むしろ、本人の意思を尊重し、その意向を認めていくことを、更に強く徹底しておきたい」
とある。
ここで、
高速道路云々の譬えは過少というほかなく、実際は、一般道では高速道並みに、高速道ではサーキット並みに走ってきたと譬えるべきであろう。
布教についても事実上互いに戒め合うことは不可能であろう。
ともあれ、それ以降、執行部の上意下達により、戸田城聖時代以来の強引な「折伏」は急速に減少していったことは評価できる。
「無理な学会活動をして、社会に迷惑をかけることは、大謗法であり、学会の敵であります」「御本尊をなんでも、いただかせようとして、粗末にするようなことがあっては、大聖人の仰せへの反逆」というのが、効果的な脅しになっている。
以降、折伏に代わって、布教方式を「仏法対話」と称し、池田大作の海外の要人との対話などを「平和運動」と称して売り物にしていった。
が、ここでもそれ以後でも、「御本尊」=板マンダラや掛け軸は、霊力(仏力・法力)を有する「宝」物、依然として幸福製造機扱いのままであり、そこに科学的理性の検討を加えられることは一切なかった。
のちに宗門とのいさかいになった池田大作による本尊模造も、あくまで模造であって、オリジナルの自作ではないわけで、そこに確立された科学的根拠があるわけではない。
池田大作は、日寬アニミズムによる板マンダラを模造したものに霊力(仏力・法力)が具わる(したがって信力・行力での功徳が得られる)と本気で考えていたならば、日蓮仏法を真に理解していたとはいえず、また、日蓮仏法の科学的再現性を根拠として悟っていたならば、当初から模造ではなく自ら本尊を自筆で「書写」してもよかったであろう。
いずれにせよ、池田大作には、日蓮仏法の血脈はなく、自身の野望の実現のために創価学会という組織を利用してきたと言わざるをえない。
そのために巧みに一人ひとりの会員との「絆」を「師弟不二」という論理で縛ってきたと言える。
「絆」とは、良い意味でつかわれる言葉であるが、実際は「縛り」であり、科学的(心理学的)には人間同士を精神的に縛る「束縛」のことである。
小単位からは家族、親友、同志、友人グループなど、あらゆる組織内で、「絆」という言葉を強者が使う時、弱者の自由であれ意志であれ、これらに対する束縛を意味している。
つまりは、強者や組織の都合が、「絆」という響きのいい言葉で正当化・合理化される場合が多いのである。
入信に際しての条件を付けたのは、組織としては当然であろう。
末端会員の間でみられる退会者への執拗な行為は、今でも完全にはなくなっていないが、これは、会員数や組織票、新聞購読数や財務の額などの数字(事実上のノルマ)で、今でも末端幹部が縛られているからにほかならない。
講演では御本尊を受持が最高の宝をいただくのと同じで、無上宝聚不求自得であるとあるが、仏法利用も甚だしい。
無上宝聚不求自得とは、創価学会の御本尊を受持することでもなければ、他者から最高の宝をいただくことでもない。
「無上宝聚」とは、仏界の生命境涯の譬えであり、仏界は元々自分の生命に具わっている。
だから、自分自身がそれに気づくことを、求めずして自ら得た(不求自得)との譬えなのである。
創価学会が認定するマンダラ掛け軸があろうがなかろうが、仏法の方程式では元々、「無上宝聚」は「不求自得」なのである。
記念演説は続いて、タテ線で完璧な基盤ができたので、
「これからはブロック、すなわちヨコ線を基調として…中略…いきたいと思いますが、この点もいかがでしょうか。(全員挙手)」
ここでも、挙手による賛同を演じているが、もともと池田大作が決めていたことである。
さらに今後は社会を大切にして信頼と尊敬を受け、社会に根を張れなければ、広宣流布は絶対にないことを銘記したいとしたが、これは、人倫として当然のことを述べたに過ぎないが、社会的には評価できる。
ただ、ここにも社会に根を張ることによって、野望を実現しようという思惑が隠れている。
続いて学会員が事故を起こした場合の処分について述べ、仏法の慈悲の精神から、どんな人も救わなければならないが、学会員でありながら、悪いことや事故を起こし、世間や同志に迷惑をかけた場合、
「いかなる幹部であっても、解任または除名処分にしていく以外にない時代であると思う。この点についても、今後、厳格に望んでいきたいと思っておりますが、いかがでしょうか。」
ここでも、池田は参加者に賛同を促し、大いに賛同を得ている。
もっとも、この提案に従えば、真っ先に除名処分になるのは池田大作自身ではないか。
正直に自分の鶴の一声から事件が始まったと謝罪しないのは、明らかに欺瞞であり、歴史の隠蔽である。
この事件は本来、学会員でありながら、悪いことや事故を起こし、世間や同志に迷惑をかけたのが、池田大作であることが、世間の身ならず側近たちからも明らかにされているのである。
後になるが、この方式で、創価学会に尽くしながら、悪事をあばいたり批判をしたものは、原島崇や山崎正友、矢野絢也など、次々と除名処分となっている。
いったい、御書直結・仏意仏勅の団体は創価学会しかない、自らの団体でしか成仏できない、広宣流布はできないなどと言い張っていながら、自らの都合の悪い人物を成仏の道から排除すること自体、自らの主張に客観性がないということを示しているのではないか。
さらに記念講演は、学会の体質に言及し、学会は上意下達で、下意上達がないと外部からいわれるが、そう見られる一面があるだけで、本当は民主的な運営を心がけてきた、今後とも、会の運営等について上意下達という傾向を完全に是正していくよう努めたいと続く。
ここでいう、民主的という言葉が正しく使われていないことは明白である。
創価学会の運営は、全体としては決して民主的ではなく、それは事実上、池田大作の独裁である。
創価学会・公明党は、民主的とか民主主義という言葉の意味を本当に理解して行動しているのだろうか。
創価学会の中枢や末端組織の幹部が、会員の選挙で民主的に決められたことを、学会二世である私はいまだかつて見たことも聞いたこともない。
幹部のいったい誰が、選挙に立候補して公約や信条などを会員に述べ、会員の選挙で選ばれたというのか。
会長や副会長などの中枢組織には形式上の規約が設けられているが、その他の末端幹部に至るまで、実質的に選挙で決まる(決まった)等は一切聞いたことがない。
公明党の立候補者も、形式的には希望者を募ったところも聞いているが、ほとんど同様である。
候補者として立候補して公約や信条などを党員に述べ、党員の選挙がちゃんとなされているとでもいうのか。
事実上、池田大作の「鶴の一声」で決まっているという。
そして続く記念講演の極めつけは、創価学会の信仰の教義が絶対的なもので、日蓮が定めたとしている点である。
日蓮の定めた教義自体は、文字通りに読めば、時代の束縛を受けているため、現代に合わせて書き換えなければならないことは、既に述べた。
それを文字通りに受け止めつつ、江戸時代の誤った日寬アニミズムを根本とした教義を絶対的なものとし、それを「仏の教えに従うことが、仏弟子の道」として、事実上、創価学会会長の教え通りに従うことは、その末節がどんなに民主的なり民主主義が完遂されても、有名無実であることは明らかである。教義と関係のない運営・活動は、そもそもありえない。その教義自体が、時代遅れで間違っているのであるから。
さらに、これに続いて、記念講演で、
「それには、なによりも、一人一人が、学会の運命を担い、広布を推進している主体者であるとの強い自覚が必要であります。…中略…」
「いうまでもなく、民主的な方法ということは、無秩序ということではありません。各人の自覚を根本とした建設的な運営であり、そうでなければ衆愚となり、仏法の道理に反します。立案の段階では、どしどし意見を出す。そのかわり、決まったら、心を一つにして遂行していくのが、民主主義のやり方であり、仏法の世界の異体同心の定義であります」
と言っている。
この演説の通りに、すなわち日蓮仏法の真の理解に基づいて主体者であると言う自覚をもって行動すれば、創価学会の執行部や幹部たちと衝突することは明らかである。その上、後述するが、熱心な会員たちは、フロムの言うサド・マゾヒズム的共棲によって、池田大作や創価学会組織の言うがままになっているから、これらと衝突する事態は即、組織を攪乱するものとして、処分の対象となる。
無秩序については、これも後述するが、真の日蓮仏法によって仏界の境涯を確立すれば、無秩序にはならない。
すなわちこの部分の内容はほとんど空虚である。そう見る人は、真に理性的な人であろう。
一般来賓者の目をごまかすことはおそらくできなかったであろう。
このとき池田大作は閉ざされた空間の中で大勢の熱狂的信者の目線を一身に集めて守られながら、民主的という言葉を使って、絶対的盲目的服従関係である「師弟不二」をカモフラージュしている。
ここにも、彼の境涯に本質的な「臆病」という、修羅界の境涯が基底となっていることが分かる。
これに較べたら、演説内容はともかく、かつて天空の真下、一般大衆の面前で、最高指導者への盲目的服従を堂々と演説した独裁者ヒットラーのほうが、全く己に正直であり、はるかに勇者に見える。
さて、その続きで、僭越ながらも池田が二十数年間、一瞬たりとも学会を忘れず、身を切り心を痛めて広宣流布に戦ってきて、学会が大きくなったから、以後は、皆さん方幹部全員が学会を支えていく以外になく、全学会員が、自覚ある団結、目覚めた意識に立つべき時代であると述べた。
これは文字通り読めば真実である。
そう、ここにも、自分一人が創価学会員全てを従え発展させてきたという本音が垣間見れる。
もっとも、迷える学会員が、「自覚ある」個人として確立される、「自我に目覚めた意識に立つ」ためには、日蓮仏法を真に理解し実践する方向へ向けさせなければならないのであって、会員を、目の前に現世利益の人参をぶらさげアニミズムへひたすら走らせられている馬のように扱ってはならない。
ドイツ革命によって突然与えられた大いなる自由の海から逃避する無力で孤独な大衆を、ヒットラーがかつてナチズムへの盲目的服従へ導いたように、宿命の荒波に迷える学会員を絶対的服従の道「師弟不二」へ導いてはならない。
だが、当時の創価学会の拡大の内実は、会員をアニミズムへひたすら走らせ、絶対的服従の道へ導いてきたものといえるのではないだろうか。
さらに、演説は学会本部の機構近代的なシステムに変え、宗教法人法に基づく創価学会の規則について最も民主的な内容にして、会長は任期を定め、選挙制にする等と述べた。会長は終身刑で割に合わないと言って会場の笑いを買い、皆で学会を守り、学会を育てていくことを要請して結んだ。
その後の創価学会の歴史、すなわち、「カリスマ的支配」に自らしがみつき、昭和54年の会長「勇退」後も、後に続く北条・秋谷・原田にカリスマが発生するのを巧みに「師弟不二」の論理で抑え込みながら、名誉会長という名で自らカリスマであり続けた池田大作。
この歴史をふまえる限り、この謝罪演説に見る美辞麗句は、ほとんど空虚な欺瞞を意味しているに過ぎないと見える。
■「新・人間革命」での欺瞞に隠された、「人間の孤立化」の正体
さて、その40年後に書かれたこの部分に対する創価学会の聖典「新・人間革命」第十四巻の記載はP305-310にある。
ここでは、新たな追加部分もあるが、おおむね謝罪講演に沿った、きれいな脚色である。
後述するが、上記にでてくる「現代の社会が抱える、人間の孤立化」の責任を、この謝罪演説では後の部分で科学の発展、機械文明になすりつけ、コンピューターの規制まで提案している。
科学を発展・進歩させるのも、機械を操作するのも他ならぬ「人間」の側である。
孤立化というのは個人を表面上・相対的にとらえた間違った見解である。
一個の人間として、全知全能の神とも対等の立場で契約するという、つまりは自我の完全な確立がなされれば、理想的な民主主義が実現する。
元々、戦後の我が国の民衆は、敗戦の混乱と戦前からの価値観の崩壊によって、個人は無力であり孤独であったのである。
孤立化するのは、自己の確立が未熟なため自らの問題を克服する能力に欠ける結果であり、機械文明の発達によって依存できるものが増大したため、相対的に孤立化したように見えるだけである。
それ自体は個人個人の人間の責任であって、機械文明の発達などが根本的な原因ではない。
孤独であっても有能であるならば、優雅で有意な孤独を味わえるものである。
例をあげれば、日蓮のように。
表面的に親しい集団の中で群がっていても無能であれば、自分自身の実態を忘れて周囲のぬるま湯にどっぷり浸ることができるが、自分の立っている位置も生きがいも明確に把握することができず、ただ依存し共棲する周囲のなすがまま流されていくだけである。
こうした精神的な貧困を、文明が更に進歩し社会が大いなる富を蓄えた中で、数字で容易に示すことができるところの相対的貧困が、得意げになって覆い隠しているのである。
つまりは、「人間の孤立化」を生んでいるのも覆い隠しているのも、他ならぬ「人間」自身なのであって、機械や科学の進歩や富(社会的資源としてのもの)などではない。
創価学会は、また、この時の池田大作の謝罪演説や「新・人間革命」では、このことを覆い隠しているのである。
人格陶冶が進み確立された個人は、たとえ一人であっても全体の中での自らの位置と使命を把握し、自身の境涯を悠々と楽しむことができる。
日蓮が説いたところの南無妙法蓮華経は、本来、「成仏」というこの境地に至り、苦しみの大海という人生を悠々と泳いでいくための修行法則だったのである。
日蓮は、自らを確立した努力で見出し、これを流布するために自らの頚を捧げた。
自らの頚を捧げたのであるから、それより全く劣るところの、財産や名誉といった名聞名利や栄誉栄達からも生涯にわたって無縁であった。
日蓮は幼き身で清澄寺に入ったときから生涯、自分の家を持つことはなく、草庵で布教し、たった一人で鎌倉幕府を諫暁し、多くの迫害を一身に受けた。
現代でいえば、誰よりも孤独であって、誰よりも孤立化していたといえるが、無能であったわけではなく、地涌の菩薩の自覚の下に南無妙法蓮華経を広めた。
幕府から寺を寄進するという提案も断り、身延に入ってからもたった一人で、清貧の中で後世の育成にも携わったのである。
日蓮こそ、現在、無神論者も含めた欧米の哲学者たちが叡智を集めて論議している人格、いわゆる個人が確立された人格としての最高をいくと、私は考えている。
日蓮の姿勢に比べて現在の創価学会・公明党は、そしてその最高指導者として永遠化された池田大作は、その対極にある。
会員から莫大な供養を集め、多くの出版物などのグッズを会員に購入させ、多くの豪奢な施設を世界各地に建てて、名誉称号を集め、その権威を絶対視して流布するだけでなく、日蓮の説く本来の神聖な「成仏」を、現世利益の名聞名利の獲得にひたすらすりかえている。
そして、会員個人に、現実には孤独で無力なまま、個人を確立させないばかりか、個人が自分自身で考える能力を育てることもないまま、ありもしない霊力(仏力・法力)を喧伝して現世利益の名聞名利の獲得に会員の目をくらませながら、「師弟不二」と称する盲目的服従の論理を流布して、ひたすら「共棲」関係へ縛りつけている。
これは、教祖や最高指導者など、またそのドグマの内容は異なるが、一般的な新興宗教に見られる典型的な特徴である。
自らの組織のみが認定するという、日寬アニミズム(日蓮本仏論も含む)を基底とした掛け軸マンダラに霊力を喧伝しながら、「仏意仏勅の団体」「御書直結」「日蓮大聖人直結」の団体は創価学会しかないと、人権意識の向上・自由平等意識の進展の時代に逆行した「選民思想」を煽りながら選挙の盲目的な票取りに駆り出しているといえるのである。
この「新・人間革命」の中で触れている〝目覚めた意識〟と〝新しき自覚〟は、先述の通り、「師弟不二」という盲目的絶対的主従関係によって阻害されたままである。
科学が発達し、IT・AI 時代となった今でも学会員は、自分自身が信じている日蓮の、一部の非科学的な教義になんら疑問を感じることなく、また疑問を感じても正しく科学的答えを出してもらえる理性的な人物が組織にはほとんどいないばかりか、せいぜい、「謗法だ」「罰が当たる」「地獄に落ちる」と脅かされるのが関の山である。
公明党の政策についても、多くの学会員は自分自身でその是非をほとんど考えることなく、盲目的に組織あげての票取りにかりだされている。
そしてこの現状をいいことに創価学会・公明党は、このコロナ禍において人流を抑制されることが社会的に求められていて自らもその政権に参画していながら、今月の都議選には電話だけでなく体面訪問の票取りを、臆面もなく会員におしつけ駆り立てていた。
歴史的な低投票率によって、公明党は都議選においては池に刺さった杭(これは投票率を池の水面に譬えた比喩。水面が上昇すれば杭は隠れてしまう)のごとく、立候補者22名全員当選したものの、総得票数は、前回の都議選で小池百合子にひれ伏して得た約70万票から、今回は利得のある方へコウモリの如くひるがえって自民党との協力をしつつも、結果10万も減らした約60万票であったことは、いったい何を物語っているのか。
理性をお持ちの賢明な読者の皆様には、容易におわかりと存じ上げるところである。
私は末端組織内では結果として「創価学会員の政党支持は自由」という、かつて池田大作が述べた建前を主張しながらやり過ごすことしかできなかったが、私のような声に義理的に耳を傾けてくれる会員は、布教情熱の乏しい非活動家の中でしかいない。
だから、内部の創価学会員として、これほど恥ずかしく、世間に申し訳なく思うことはない。