Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
昭和33年3月1日、法華本門大講堂が大石寺に落成し、落慶法要が行なわれた。五階建で、工費4億円は創価学会信者による寄付で建てられた。
法要には当時の首相・岸信介、文相・松永東が祝辞をよせ、また東京都知事・安井誠一郎等が出席した。創価学会信者はその日から1か月間、20万人が慶祝登山し、その間、戸田は本山・理境坊で指揮にあたっていた。
■御塔川、僧侶リンチ事件、龍年光による記述
龍年光著「創価学会を解散させよ」1991/8/1、日新報道、P179-188 には、著者が経験した、30年前の僧侶リンチ事件の全容と、それを報告した池田大作に対し戸田城聖が『追撃の手をゆるめるな』と遺言した事、それに対する自説の展開が見られる。少々長いが、資料として引用してみる。
「それは、総本山大石寺の境内で池田が独断専行で引き起こした、若手僧侶代表に対する集団リンチ事件である。
池田大作とその一派は、これまでこの事件をひた隠しにしてきた。…中略…
私は、事件を調べ直し、被害者・的場正順師(平成二年、六十五歳で鳥取県日香寺住職として死去)がのちに妙信講裁判(日蓮正宗から離脱した妙信講一派が昭和五十年から五年間にわたり起こした)の際に、創価学会がいかに総本山大石寺に圧力を加えたかという証拠資料として提出した手記を見ることができた。それらをもとに、この事件を検証してみたい。
当時、戸田城聖先生は、三月一日の『大講堂落慶法要』に出席されたあと、約一か月間、病苦を押して総本山内の理境坊の二階で陣頭指揮を取られていたが、事件の起きた二十八日には、既に重体に陥っておられた。
池田は十六日に行なわれた広宣流布の儀式を青年部に伝授する式典の後、大蔵商事の営業部長として、北条、森田ともども、東京に帰っていた。ところが、事件の前日に当たる二十七日、北条、森田を引き連れて突然、総本山に戻って来たのだ。
この頃、連日、全国から千人以上の学会員が登山してきていた。それら学会員の世話や整理のために、三十~四十人の青年部員が『登山部員』として大坊内の部屋に宿泊し、『客殿』で集会・打合せをしていた。登山部長は星野義雄だった。
同じ大坊内、客殿の隣に『六壺』という部屋があり、所化・小僧さんが在勤していた。僧侶となるために猊下のお膝元で起居し、そこから地元の小・中・高校に通いながら修行していた。
ところが青年部員たちが小僧さんたちに、煙草や日用品を買いに行かせるなど私用を頼み、そのお礼として菓子をやったりソバ代を出してやったりしていたらしい。
所化・小僧さんたちの親代わりとして指導する立場にあった『所化頭』の的場正順師(当時三十三歳)はこれを知り、再三にわたって青年部に抗議していた。青年部と的場師の感情的対立は、星野を通して逐一、池田に報告されていた。池田はこれをもとに、一騒動起こすために総本山にやって来たのだ。
的場師の手記によれば、池田が来た二十七日の夜、青年部員たちが『正宗の坊主も、邪宗の坊主となんら変わりない。物さえ与えれば、自分たちのいうことを聞く』といっていたのを的場師が聞き、翌二十八日の朝、六壺での所化・小僧さんとの勤行の後、厳しく注意した。
隣の客殿でこれを聞いていた青年部員たちは激しく反発し、的場師に抗議した。すると、的場師はこう逆襲した。
『本山には本山のしきたりがある、あなたたちも、本山のしきたりをよく勉強しなさい。例えば、本山の中では乗物は禁止されている。それなのに、あなたたちの会長は豪華な輿に乗って山内を練り歩き、宗教界の王者といって威張っている。これは増上慢というものだ』
このことを『ご注進』された池田大作は激怒した。
特に池田を怒らせたのは、輿の一件だろう。前述の如く、十六日の式典の際、戸田先生は体が弱っていたので、目立たぬように会場へ行くため、連台のようなものを作らせようとした。
ところが池田は先生の意に反して豪華な輿を作ってきたので、先生から厳しく叱られた。
的場師の指摘は、池田の最も痛いところを突いたのだ。
逆上した池田は、我々に対してこう宣言した。
『これから、所化頭の的場を徹底的にやっつける。彼は大変、素行が悪い。小僧さんをいじめ、煙草を買いに行かせたり使い走りをさせている。こんなことでは、これから学会員の子弟は僧侶に志願しなくなってしまう。だから、断固として粛清するのだ』
これは事実と正反対だが、それにしても筋の通らぬ話だ。
御法主上人の下で親代わりになって指導している所化頭がたとえ小僧さんにどんな仕打ちをしても、それは宗門内部の問題ではないか。信徒団体たる創価学会が口を出すべき問題ではない。
しかし池田は、怒りに任せ、星野以下を率いて内事部に乗り込み『的場をだせ』と要求した。
的場師は、身の危険を感じて、本山前の『向山』というそば屋に逃げ込み姿を隠していたが、怒りのおさまらぬ池田は内事部に何回も押し掛けて怒鳴り続けたので、本山側もやむなく、三時間後に的場師を探し出して連れて来た。
池田は的場師を六壺に連れて行き、大勢で取り囲み、吊るし上げた。的場師も気概のある人だから、激しくやりあった。
そのうち、御法主・日淳上人が御宝蔵においでになるので六壺で言い争いを続けるのはまずい、という指示が宗務院から来た。
(三)無抵抗の僧侶を雪解け水の川に投げ込む残忍さ
池田は、的場師の法衣を脱がせて白衣姿にさせ、さらに青年部員たちに担ぎ上げさせて、境内にある潤川の河原まで、二十人ほどで行列を組んで運んで行った。途中、登山部長の星野が召集をかけていたため、登山していた青年部員が続々と集まり、行列に合流していった。その指揮をとる池田の顔は、興奮のために引きつっていた。
到着した川原は、五重塔(現在、その傍らに戸田先生の墓所がある)の真下にあたり、『お塔川原』と呼ばれる。現在はコンクリートで固められているが、当時は川原も広く、流れも速く、水量も豊富で、膝上くらいの深さがあった。おまけに富士山に積もった雪解け水なので、身を切るような冷たさであった。
その川岸で的場師を取り囲み、両岸の土手に三百人もの青年部員が見守っているという、異様な光景であった。
この騒ぎに対し、宗門からも内事部の吉田日勇理事(現・富士宮市大本山妙蓮寺住職)の指示によって、菅野慈雲師(現・国立市大宣寺住職)と、的場師の補佐役的立場だった渡邊慈濟師(現・平塚市大経寺住職)の二人が来て、的場師を守っていた。
二人は池田に『これ以上、暴力事件を起こすな』と本山側の意向を伝えたが、池田はこれを聞き流して吊し上げを続け、的場師も激昂して、やるならやれ、と叫んでいた。
ついに池田は『的場の頭を冷やしてやれ!』と叫んだ。的場師は、『後で白衣や襦袢を洗濯するのは大儀だから、自分で脱ぐから待て』といい、自ら帯を解き、白衣を畳んで石の上に置いた。
すると池田は、裸になった的場師を青年部に担ぎ上げさせ、冷たい水の中に頭を何度も押し込ませた。この時の池田の異常な形相は、これまで誰にも見せなかった険悪なものだった。
(四)『追撃の手をゆるめるな』と戸田先生の言葉を捏造
事件は午前八時に始まり、お塔川原で午後五時に終わった。このあと池田は、『これから戸田先生に報告する』といい、北条、森田、星野らを引き連れて、理境坊に赴いた。私も参謀室の一員として責任があるので、同行した。
ところが、階段の下まで来た所で、池田は急に、ついてきた我々全員に、『ここで待っていろ』といい、自分一人で理境坊の二階に上がって行った。そして、しばらくして下りて来ると、青年部員を集めて、こういった。
『戸田先生は、(宗門攻撃の)追撃の手をゆるめるな、といわれた』と。
これは池田の完全な『捏造』である。なぜなら、戸田先生はたとえどのような理由があるにせよ、日蓮正宗の僧侶に対するこのような暴力行為を認めるはずがないからだ。
戸田先生は終生、日蓮正宗の僧侶を心から尊敬され、学会に対して、それを身をもって示されてきた。特に、修行中の所化・小僧さんに対しては、親のように可愛がってこられた。
戸田先生は毎年、正月に登山された折、ご自分の宿坊(理境坊)に所化・小僧さんの全員を招待して、衣を差し上げるという儀式を行っていた。
彼らを御本尊様の前の上座に並ばせ、自分は下座に坐り、恭しく一人一人に新調の衣を差し上げるのだ。この衣は、それぞれの寸法に合わせて、予め東京で作らせたものだった。
そして、ご馳走をし、お土産を持たせて大坊へお帰えしする。先生はその理由を、私たちにこう教えた。『この中から、必ず将来の猊下がおでましになるのだ』と。
その先生が、若い所化たちが親代わりと慕う所化頭に対する暴行に対して、『追撃せよ』などとおっしゃるはずがない。
現に、戸田先生は池田の報告に大変驚かれ、重体の中でも即刻、側にいた幹部を堀米日淳上人のもとに走らせ、お詫びをさせている。
事件から三日後の三十一日、戸田先生がいよいよ東京の日大病院に移られるという時、理境坊に日淳上人がお見舞いに来られた。私は東京駅でのお迎えの手筈のため先に東京に先行していたから、その時の様子はのちに小泉隆から聞いたのだが、先生は猊下に対して、何度も『申し訳ありません、申し訳ありません』と謝られていたという。これは、池田の言葉が嘘であるという動かぬ証拠だ。
戸田先生は日大病院に移り、事件の五日後、四月二日に死去された。臨終の間際に弟子がしでかした悪行に、どれほど心を痛められたことだろうか。そして、これほど師を苦しめた池田大作とは、一体、何者なのであろうか。
(五)『遺訓』をすり替えなければならなかった理由
池田は何故、『宗門に対して追撃の手をゆるめるな』などという戸田先生の言葉を捏造したのだろうか。もちろん、自分の行動を正当化するためであろうが、もう一つ、理由があると思われる。
私が三月一日の大講堂落慶法要の後、『学会の敵は何ですか』と戸田先生に尋ねたところ、先生が『よく聞いてくれた。敵は内部だ』と答えられた。
このやりとりは大勢が聞いているが、その『遺訓』を突き詰めると、学会の敵は学会内部にいることになる。そしてそれが池田大作を指していたことは、現在に至って明らかになっている。
池田は、この『遺訓』を否定し、『学会の敵』は宗門であるというすり替えを行う必要があったのだ。
この時期、池田は殆ど戸田先生の側に寄りつかなかった。三月一日には、余りに自分を避ける池田の態度に怒って呼びつけ、『何故、俺の側にいないんだっ!』と叱りつけたほどだ。
その池田が、いよいよ戸田先生が危ないというこの時期に突然、登山して来て計画的に騒ぎを起こし、すでに起き上がれなくなっている戸田先生の枕元に自分一人で上って行き、宗門攻撃の『遺訓』をデッチ上げたのだ。
戸田先生亡き後、私はあらゆる会合で『学会の敵は内部だ』が先生の最後の『遺訓』であるといい続けた。その陰で、池田は『宗門に対して追撃の手をゆるめるな』と戸田先生は命じられたと、青年部の幹部に密かに口コミで流した。この言葉はその後三十数年、池田崇拝の青年部員の間に次々と語り伝えられ、池田教の行動原理になってきた。
現在、全国の青年部員たちが疑いもなく堂々と僧侶に暴行を加えるのも『池田教の根本教義』として語り伝えてきたことの実践だからだ。
私は、あの事件当時、ただただ異常な行為と感じるばかりだったが、現在の状況を見て、改めてあの事件の真の意味を理解できた。つまり池田は、宗門破壊の『池田教』の教義を作るために、臨終間際の戸田先生を利用したのだ。
的場師は、池田が事件の後、『あれは見せしめのための行為だ』と語っていたと、八木直道内部理事補に報告している。つまり、青年部に対しては〝坊主はこうしてやっつけるのだ〟ということを示し、宗門に対しては〝俺に逆らえばこうなるぞ〟と威嚇したのだ。特に、的場師のもとで修行していた所化・小僧さんたちには、たいへんな恐怖心を植えつけたことになる。
戸田先生が『この中から将来の猊下がおでましになる』とおっしゃったことを思い合わせれば、池田はまさに
将来の猊下に対し、自分の存在を誇示したのだ。」
■御塔川、僧侶リンチ事件、石田次男による記述
石田次男著「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」1995/5/3、緑友会、P165-には、以下のような指摘がある。
「〈来客送り出し〉という儀式の後始末を言ったのを摩替えて用いたのなら、如何にも池田氏の遣りそうな事である。この日の戸田先生の御遺言は『皆で仲良くやっていけ』であった。所が池田氏に依ると御遺言は『追撃の手を緩めるな』になっている。果して先生はこういう〈修羅界的遺言〉をしたのだろうか? …中略…慶祝登山も終りに近づいた三月二十九日、先生が、学会の青年部員をいじめた某若手僧侶への対策として・或ることを池田氏に命じたーー命じたと言う事に成っているが、これからして池田氏の創作臭い。行動の全体は先生に関係なく、池田氏が勝手にハネ上ったのではないか・と石田は思っている。若手御僧侶云云の報告を受けたのは小泉理事長であって、理事長は重態の先生へは伝え様が無くて伝えていない筈である。同様に、青年部行動後の報告も、池田氏は『直接した』と言うが、これも不可能だった筈である。ーー事に便乗して・無制限に勝手な池田世界を拡大し遺言化したものであった。」(同書P165)
こうした記述のあと、以下のごとく、この事件の起こった背景を語っている。
「二十九日には、口元に耳をもって行かないと聞こえない極く低いかすれ声しか出なかったのです。この様にお声が出ないのですから、この日・何か御遺言……と成れば・他人に依る偽造しか在り得ない訳でした。…中略…
当時、傲慢を内に秘め乍ら人当りが良くて外交策謀縦横な才能を持った池田氏は・自己過信・飛躍思考・の氏には嵌(はま)り役だった参謀室長として実質上の青年部指揮者……いや支配者の立場に居りました。当時、『辻青年部長・牛田男子部長・の御両人は形式上のお飾りに過ぎない』と、気紛れでアナーキー(無秩序)な性格の池田氏…中略…も全参謀も全部隊長も、そして斯く申す石田も……誰もがそう思って居りましたし、青年部の実質運営者が池田参謀室長である事は、戸田先生もそう望んで任命した事でもあるし・又・池田氏が進んで自分から買って出た役でもあって、常々氏が『戸田親衛隊長は俺だ』と充分自覚して居た事です。
こういう事ですので、昭和二十八年以来、氏は運営者である事を支配者に変質させてしまって、青年部全員に対しては常々〈親分風〉を吹かせて来ましたし、この気分は年々増長して露骨化して来た所ですし、戸田先生も或る程度迄は見聞き知って知らん振りを成さって居た所もございます。要するに〈教えるのは熱心・学ぶのは不熱心〉な池田氏は、青年部の中で、年齢や入信年月が自分と近い参謀室の面々や古参の部隊長達に対しては〈兄貴風〉を吹かせ、それ以下の部隊長及び幹部や部員に対しては〈親分風〉を吹かせて、この事が罷り通って居たのでした。即ち氏は戸田親衛隊長なので〈御遺言伝達者〉として相応(ふさわ)しく、青年部員からは疑われない立場だったのです。偽造しても疑われずに済む立場に居たのです。」(同書P226)
そして、実際の事件の全容は、同書P225より、以下のごとく指摘している。
「坊さん水漬け暴乱事件
没義道(もぎどう)・僭越(せんえつ)・この上無い御遺言の捏造は単発事件ではありませんでした。これ(池田説御遺言)にはとんでもない事件が絡んでいます。…中略…登山して事件の前・二十四日に会合へ出席して居た理事達と青年部長以下参謀達とは、理事長と池田参謀室長と丈を残して二十五日中に下山した四日後・空白状態の中での事件です。池田氏『それに就いては色々ちょっと有るんで……』……この言訳、決して通しては成りません。結果を先に言うと、基本的には自分の事(利害)しか考えない奔放勝手では松田聖子など遙か足元にも及ばない池田青年が、唯一人で跳上(はねあが)って引起したお勇ましい奇襲事件ーー中身は手前勝手なカタキ取り事件ーーなのですが、当日、見学登山の〈当日着山学会員〉を・全員・大講堂へ送り込み、こうして青年達が担当の仕事を済ませた午後二時頃、これ又やはり没義道・僭上・この上無いこの婆娑羅事件ーーー婆娑羅はバサラ。暴乱という事ーーは開始されました。それは次の通りです。
…中略…
直接指揮下、氏御得意の奇襲戦法で、大勢の青年部員で、最初・二時頃・客殿へ呼び出した本山大坊所化頭の御僧侶(当然・若い人です)を客殿から連れ出し、袈裟衣を剥(は)いで・午後三時頃・御塔川へ漬(つ)けてしまったーー信仰なのに人間愛が無いーーという物騒極まり無いリンチ事件です。…中略…」(同書P224-226)
また、続いて、
「正信会の新聞『継命』紙(本門寺問題特集号)が『三月二十九日の事件である』とし『当時、大講堂の意義づけに関して、宗門の抵抗にあい、それに対する報復であり、池田の行った僧侶に対するリンチ事件として有名である』『遺言の文言は池田の捏造である(趣意)』と報じているのがこれです。
今日迄、宗門内では何遍この件が報じられて来たか知れない程です。それでも三十年後の今日迄、池田氏はこの件に何の反省も示していません。…中略…
遺言捏造・坊さん水漬け・どちらも例の〈狂気から発する才能の現れ〉の一齣であった様でした。…中略…」(同書P227)
そして、事件の本質について、
「昼アンドンの石田奴(め)が言っても仲々御信用頂けないかも知れませんが、でもこの〈リンチ理由〉の部分は間違っております。…中略…本当はもっと猥雑なものでした。それは、所化頭さんの〈青年部員の扱い方〉が人間成熟度0%・非文化的・反文化的成熟度100%…中略…な池田親分の逆鱗を逆撫で(さかな)でしたからにすぎません。そこで、この〈池田式思考の於ける仏敵〉ーー池田氏はこの御僧侶の行為を・宗門内長年の学会撲滅論の一つの顕れ・と見た訳ですーーを撃破して、氏お好みの〈勇名を挙げる手柄〉を立てる事……これが真のリンチ理由でした。
要するに・会内・特に青年部・に対する〈格上げ狙い〉な〈男大作〉の〈売込み〉です。売込む為にリンチに出た……何やらヤーサンのナグリコミじみていますが本当なのです。」(同書P229)
「正信会の今の高齢僧侶がこ日・在山して居た人・間接にでも事件を見聞きしていた人・は一人も居りません。被害者が被害理由を知っている訳も有りません。…中略…
陸軍内務班にさも似たり
この大講堂慶祝登山は一箇月間続いた行事です。本山整理班青年部員が大勢本山に宿泊しました。一箇月間続いた行事でしたから、普段・本山内の登山者整理や輸送などに手練れた青年丈では間に合う訳も無く、職業上差支えない人・となれば入信の新しい青年・十代の青年・等々、本山内生活に慣れない人々も大勢動員されました。この人達が所化さん方と接触した事は摩擦の種にも成りました。
在山中、宿坊不足で相当数が〈大坊へ宿泊〉させて頂きました。本山の所化小僧さん方と殆んど雑居です。昔の大坊は今とは違って設備一切粗末で不便なものでした。不幸の種蒔はここでの起居から起りました。剝(む)き付けに書くのは遠慮しなければなりませんが、今とは違って・昔の所化小僧さん方の生活は『旧陸軍内務班の暮し振りにさも似たり』と申せば、高齢僧侶の方々は、ハハーン・とお判りだ・と思います。
…中略…
泊り込んだ学会青年部員達は・新米の所化小僧さんと同様に・入営新兵みたいな事に成りました。これ等は当然・青年部へ報告されました。本書では具体的実例は申し上げませんが、我慢して従いましたが度を越した事も多発しました。」(同書P230-231)
「そう扱った所化頭さんの心理と習慣からは〈虐待した積りは無かった〉かも知れません。でも、扱われた青年達は異様に感じましたし、池田氏の独断と偏見とには〈自分の可愛い部下達がミソクソ扱いにされた〉と映りました。…中略…事態を頭で考えずに気分・気持で考えたのでした。御書には『諸(もろもろ)の情量を絶せよ』と教えられて居ります。『気分・気持で考えて情量判断を下す様では仏法も世法の真相も判りっこ無い』と教えられて居るのです。それなのに池田氏は事態を情量(フィーリング)で判断したのです。青年達が所化頭さんからどう扱われたかは、在山担当青年部の手を経て青年部長……実際は親分気取一〇〇%な参謀室長の手元に報告が溜りに溜りました。一日から二十九日迄、二十九日間溜りました。御僧侶方の反学会風潮に対して、常日頃池田氏が猛烈な反感と敵意を抱いていた事は最初に述べて置いた通りでして、この池田氏の手元へ此の報告が溜ったことは何とも因果な事でした。これが池田親分の逆鱗に触れない訳は有りません。最早、事件の到来は必至です。
池田参謀室長はこれらの報告を(故意であろう)正式にせず、口頭で適当に行っていた模様です。こんな横柄がまかり通る程・皆は・一目も二目も置いて・常日頃から・池田氏の羽振りと鼻息とに遠慮して居りました。従って、この報告事項が理事・参謀・の間で・正式議題に登った事は皆無でありました。
一方、新兵扱いされた当事者ですが、でも、これに対して大坊在泊中の青年達が(個人毎に口惜しい思いはしたでしょうが)腹を立てたのでは決してありません。所化頭さん達へ反抗したのでもありません。一般の所化さん達とは仲良く互いの内緒話を交換し合っていた程です。ただ批判だけはして居りました。『これだと俺達の部隊以上だ』(これだと所化・小僧さんの暮しというものは、俺達の部隊暮し以上に酷い生活だ)『俺達迄何でこう扱われるんだ。』……と。」(同書P231-232)
「ここで〈日本一の身勝手男〉池田参謀室長親分は〈一人で〉勝手に或る事を決意しました。若しも子分をいじめると・沽券にかかわったヤクザの親分は怒ります。子分いじめは親分のプライドを傷付けます。この方程式です。氏の修羅界異状心理にギューッと来た為の過剰反応だったろうと推察しますが、入営新兵扱いされた青年部員達の〝カタキ〟を討つべく、大坊最古参基幹兵たる所化頭へ懲罰を加えて〈水漬(みづ)く〝屍(しかばね)〟〉にする事です。氏に取ってこれは絶好の〈売り出しパフォーマンス〉でした。池田氏は昔から人の評判計り気にする〈目立ちたがり屋〉だったのです。羅睺羅尊者の様な密行などは思いも及ばず〈メンツと名声(詰り・名聞)〉こそ氏の生甲斐なのでした。」(同書P232)
「既に一度述べた通り、学会側では参月度の本部幹部会が近付いた為・その用意に・二十四日に本山内で理事・参謀・の連合会議を開きましたが、席上、所化頭さん対策など議題にも登って居りません。
この会議参加者の過半は二十五日に下山しました。残った在山者は小泉理事長と池田参謀室長丈でした。こうなので、信仰乱世幕開け日……二十九日はこういう事には実に用意周到な池田氏が前々から(予定表を睨んで)ドサクサのタイミングを計って狙った日だ・と思います…中略…在山中、学会の理事室・青年部参謀室・どちらでも『意義問題は坊さんがケシカラン』などと・公式非公式を問わず・これを相談し討議した覚えは一切有りません。」(同書P233)
「ですからリンチはそれに結び付いたものではありませんでした。動機は自己過信の人池田氏一人だけが考え出した荒唐無稽(滅茶苦茶)に在っただけの事です。…中略…
石田が述べた理由は『継命』記事の理由よりも池田側に有利です。…中略…石田が述べた理由を嘘と思う人には、当時実際に大坊へ寝泊りして働き、リンチに参加して御塔川へ漬けた現存実行青年(今は老境も遠くない壮年)を紹介申し上げます。邪気の無い正直な人ですから安心して訊ねて下さい。」(同書P234)
「直接御訊き取りに成ったら、池田側に就いても所化頭さんに就いても・きっと驚かれる事と存じます。特に・当時既に・氏の〈羽振りの良さ鼻息の荒さ〉には改めて驚かれると思います。石田は、どちらがより良い・より悪い・などと申しているのではありません。(石田は)学会員だから学会側の罪……謗法の軽減化を計っているのでもありません。唯、サイド(脇)からの体験とは云え、数少くなった体験者の一人として、真相を伝え残す義務を感じまして、事件理由の内容事実が伝えられていない・曲げられている・という事を言っている丈です。」(同書P235)
■池田大作の一番弟子、原島崇による記述
原島崇著「池田先生の手紙」1980/10/1,晩聲社、P106には、以下の記述がある。
「たとえば、戸田先生が最後に遺言として残されたとする有名な言葉『追撃の手をゆるめるな』というのは、池田先生がつくった言葉です。有名な的場事件(ご僧侶つるしあげ事件=事の真相は学会で説明しているのとは違うが、省略します)があったときに、池田先生が戸田先生に伺った言葉として、それが一つの学会精神のバックボーンになっていったのですが……。それは私にも他の人にも『あれはオレがつくったんだよ』と明確に、真実を語ってくれました。もちろん、一般会員の方にそんな〝真相〟は明かしません。あのとき戸田先生は『みんなで仲良くやっていきなさい』といわれたというのです。」
■溝口敦著「池田大作『権力者』の構造」による指摘
溝口敦著「池田大作『権力者』の構造」P183-185には、以下のようにある。
「戸田の最期を飾るものは大講堂の完成ばかりではなかった。僧侶・的場正順(のちに鳥取市日香寺住職)へのリンチ事件が、衰弱を深める戸田にたむけられたのである。
事件は、戸田と創価学会の威に服さない気骨ある僧侶への私刑であり、創価学会に抵抗するとどうなるか、的場ばかりか他の僧にも示すみせしめであった。
的場がのちに一僧侶に宛てた手記によれば、事件の概要はこうである。
大講堂落慶法要の際、創価学会の青年部員三、四十名が大石寺の大坊に泊まり込んでいた。彼らは僧の卵ともいうべき所化を、タバコを買いにやらせるなどの私用に使い、チップがわりに菓子を与え、ソバ代を出すなどしていた。彼らには所化とはいえ、僧侶一般に対する畏敬の念はなかった。所化を指導する立場にあった的場はこれらのことを見聞きし、青年部責任者・土屋某に再三にわたって注意を促した。
三月二十二日の夜、的場は青年部員間で、『正宗の坊主も邪宗の坊主となんら変わりない。ものさえ与えれば、いうことを聞く」と話されているのを聞き、翌二十三日朝、大石寺内の一僧坊である六壺に所化と青年部員を集めて厳重な注意を与えた。
『大坊は一人前でない僧が法主の指南で修行する場所であって、本来が青年部員の起居するところではない。教育にさわるような真似はやめてほしい』
的場は語をつぎ、前夜の青年部員の話を論難した。
『邪宗の坊主と同じだというのは物を知らなすぎる。ではいうが、戸田は十六日、岸を迎えようとした際、宗教団体の王様は私だといったが、これはどういうことか』
宗門の立場からいえば、宗団の王者は、日蓮であり、また日蓮を体現する本尊、あるいは法主となろう。的場は創価学会の宗門支配を苦々しく思い、いわば法主にかわって、戸田の車駕による境内練り歩きなどを批判した。山門には下馬下乗とあって、法主でさえ山門を出るまでは乗り物を利用できない。
が、この三時間後、的場は池田に呼び出されて裸にされ、近くの御塔川原に放りこまれる。青年部員がかわるがわる的場に馬乗りになって的場の顔を水の中につけ、池田はポケットに手を入れて見下ろしながら、指揮したという。
的場は事件後、被害者にもかかわらず逆に約二週間の謹慎を命じられたうえ、北海道の新寺院に四年、その後、鳥取へと、地方回りの生活を余儀なくされた(『週刊文春』昭和五十二年九月一日号)。宗門は創価学会の組織と財力に制圧されつくして、的場の正義をバックアップすることも、その権利を回復することも長くできない状態にあった。」
■御塔川、僧侶リンチ事件、小説「人間革命」よる記述
前述した、池田大作が原島崇に「『あれはオレがつくったんだよ』と明確に、真実を語」ったこの遺言と、そのきっかけとなった事件について、山本伸一(池田大作)を主人公にする小説「人間革命」第十二巻では、P327-333)で、この事件を、次のように綴っている。すなわち、青年が登山中に、僧侶が小僧たちを怒鳴りつけ、暴力を振るう場面に遭遇した。僧侶は酒に酔っており、鈴を小僧の頭に被せて打つなどの行為をしていた。青年はこの状況を山本伸一に報告し、伸一は僧侶に反省を促した。僧侶は最初は反省の態度を見せなかったが、最終的には謝罪したとされている。
ここでは所化頭の悪態振りが生々しく描かれ、所化頭は自ら衣を脱いで顔を洗ったとされているばかりか、山本伸一(池田大作)が青年たちの暴力を抑え込んだように描かれ、所化頭に説教までしている。
以上の描写は、明らかに、前述した龍年光、石田次男、原島崇の側近たちの指摘とはかけ離れている。
さらに、戸田の遺言とされる『追撃の手をゆるめるな』については、その後続くP33-337で、以下のごとく描かれている。
「三月二十九日の朝、山本伸一は、登山会の進行状況を報告するために、戸田城聖の寝ている理境坊の二階に上がっていった…中略…
『先生、御容体はいかがでしょうか』
伸一が枕元に正座すると、戸田は顔だけ伸一の方に向けた。もはや、自分では寝返りも打てぬほど、彼は衰弱していたのである。…中略…
『はい、皆、元気で頑張っております。問題といえば、あまりにも非道な僧侶がおりましたので、私どもで反省を促す意味から抗議をいたしました』
伸一は、あの所化頭一件を戸田に伝えた。…中略…
『情けないことだな……。…中略…令法久住を口にしながらも、多くの僧侶が考えていることは、保身であり、私利私欲をいかに満たすかだ。……つまり、欲望の虜となり、畜生の心に堕してしまっているのだ。だから……自分より弱い立場の所化小僧などは、鬱憤ばらしのオモチャとしか考えない……。また、学会員のことも、供養を運んでくる奴隷ぐらいにしか思わず、威張り散らす者もいるのだ……』…中略…
『……衣の権威で、学会を奴隷のように意のままに操り、支配しようとする法主も、出てくるかもしれぬ。……ことに、宗門の経済的基盤が整い、金を持つようになれば、学会を切り捨てようとするにちがいない……。戦時中と同じように、宗門は、正法を滅亡させる元凶となり、天魔の住処にならないとも、限らないのだ……。しかし……、日蓮大聖人の正法を滅ぼすようなことがあっては、断じてならない』
そして、戸田は、最後の力を振り絞るように叫んだ。
『そのために、宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。……いいか、伸一。一歩も退いてはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな!』
それは、炎のような言葉であった。瞬間、戸田の眼が燃え輝いた。これが彼の最後の指導であり、愛弟子への遺言となったのである。」
つまり、『追撃の手をゆるめるな』の、追撃対象は、社会やマスコミからの批判ではなく、日蓮正宗の邪悪として、描かれているのである。
この小説「人間革命」第十二巻が発刊されたのは、前述した通り、創価学会が宗門から破門された前後である。
小説「人間革命」は、現代の御書とも言われ、創価学会の末端組織においては、逝去新聞に連載されたものを毎日、読み合わせて学習されてきた。
このとき最も要請されていたのは、脱会者の増加を食い止めることであった。
その精神的指導として、この事件や遺言が利用されたといえるのである。
とりわけ、この時期は、当時の創価学会が、宗門との破門問題に揺れに揺れ、多くの脱会者が生まれた。
これは、家族内でも日蓮正宗と創価学会という二つの組織に宗教的分断をもたらしたのである。
その後、池田大作は、昭和33年4月3日、豊島公会堂で行われた本部幹部会において、
『一歩も退いてはならんぞ、追撃の手をゆるめるな、一歩も退いてはならんぞ、追撃の手をゆるめるな!』
という御指示を受けたのでございます。」
と述べた。(池田大作著「会長講演集」第三巻(1961/11/5、創価学会)P272)
■戸田の遺言『追撃の手をゆるめるな!』の検討
諸々の資料、及び、これを聞いた人間が池田大作唯一人である事、そして、その後も、戸田先生は、生前、よくこのようなことを言われたなどと、戸田の言葉をあげて指導しているが、この戸田の言葉を是認する人がはっきりしないこと、これ等を総合的に考えると、この戸田の遺言は、池田大作の捏造であることになる。
そして、池田大作は、その後の著作や行動、創価学会の歴史などから、この捏造した遺言を自分一人が聞いたこと、他の人間ではなく自分こそ戸田から後継を託されたただ一人の弟子である事を、その後もずっと主張し、自分しか知らないとしながら亡き戸田の指導を捏造しながら、彼の側近をはじめとする弟子(純真な者、面従腹背、造反者すべて含む)に、自分自身を宣揚させ、多くの学会員を洗脳してきたことになる。
『追撃の手をゆるめるな!』が、逆に、真実の池田への遺言であったなら、戸田城聖自身が池田の暴力を認め、さらにこれを扇動していたことになる。
これは、私が前ページ、狸祭り事件等で指摘した、また当時の多くの識者や世論が指摘していた如く、「暴力宗教」の批判に相応しい実態であったことを示すものである。
前述したが、折伏経典の三法律を基準として、最高の方である仏法律にしたがっていれば世法や国法をも犯してよいという、原理主義的信念により、暴力をも是認し、それを隠蔽しながら自らを正義の如く捏造していた実態である。
前者か後者か、真実はどちらか。
私は創価学会員であり、その立場からは、どちらも受け入れ難い内容であるが、その立場を離れてより客観的に、あえて真実を追究するのであれば、日蓮や仏法での基本「依法不依人」「現証にはしかず」、また、人や組織は必ず過ちを犯し、それを隠蔽する、また諺にもある「罪を憎んで人を憎まず」などを考え併せれば、後者が真実であると考える。
しかし、この判断が分かれても、明らかなことは前述している。
池田大作が、この遺言『追撃の手をゆるめるな!』を捏造してもしていなくても、創価学会の師弟にある暴力是認、その隠蔽、そして自らをただ一つの正義の如く捏造する行動と信念は、戸田城聖の時代から厳然と存在していたのである。
池田大作が「師弟不二」と宣揚するところの一要素は、まさしくこれである。
それは、小説「人間革命」の中にも厳然とあらわれている。
その要素は戸田城聖を原点とする師弟の絆のなかに、厳然と流れていたのであり、その後の創価学会の引き起こした様々な犯罪の歴史が、明確に現証となっているのである。
これは、拙論文P21で前述した、折伏経典の「三法律というのは何か」の解説で、
「一切法これ仏法である。特に世間法にそむき、国法に背くことがあつてはならない。」
と、いくら前置きしていても、有名無実になることは、これに続く、最終結論部分に明確に、
「ただ、仏法を護らんためには、世間法にも背かねばならないこともあるのである」
と、ある如くである。
この最終結論が、創価学会の中枢から末端組織のメンバーにおいて、たえず仏法律と、世間法・国法が対立・衝突する現実の様々な局面において、絶対的な鉄則となっていた。
これが、その後の現証として、さまざまな社会との軋轢や犯罪として発展していったのである。
日蓮は、「世間のとが一分も無し」(種種御振舞御書)
また、
「天晴れぬれば地明かなり 法華を識る者は世法を得可きか」(観心本尊抄、御書P254)
《天が晴れれば地は明かとなる。法華経を識る者は当然に世法を得ている。》
この日蓮の遺文ひとつとっても明らかなように、世法・国法よりも自らの主張する〝仏法〟や組織の論理を優れたものとして、布教のためなら国法を犯してもよいと、様々な犯罪を重ねてきた創価学会に、日蓮直結・御書直結を掲げる資格が存在しないことは、既に歴史が証明しているのではないだろうか。
これも、ひとえに、創価学会が受け継いだのが「依人不依法」のアニミズムであり、「依人」となった中心人物である「師」、この時代では戸田城聖や池田大作に、誤りがあったことの現証である。
そして、依人不依法なるが故に、師に対してまともに諫暁する者が乏しく、あっても冷遇または排除され、絶対的主従関係が「依人不依法」にもとづいて形成されていたのである。
つまり、このアニミズムに基底を置いた絶対的主従関係が、創価のいう「師弟不二」であり、「ただ、仏法を護らんためには、世間法にも背かねばならないこともあるのである」という鉄則が、師弟の主従関係にも拡大解釈され、更なる修羅道へ堕ちいっていったのであった。
これは、この源流に見るように、日蓮仏法から見ても、明らかな現証なのである。
人は過ちを犯すものである。
個人的にどんなに注意厳重にしていても、組織的にどんなに管理厳重にしていても、である。
だからこそ、安全については、組織も個人も、何重にもセキュリティの対策を重ね、同時実行するのである。
このとき基本・鉄則とするのは科学的論理、仏法で言う「依法不依人」である。
その、よりどころとする法に、少しでも誤った解釈がなされるような要素があれば、組織も個人もやがて誤った方向へ一人歩きし始め、修正される圧力が及ばなければ必ず暴走する。
そして、その暴走は、やがて暴力となり、報復の連鎖を生み出し、続けることになる。
永遠なる修羅道である。
どんなに厳重に何重にも対策を施しても、末端組織の一人一人にいたるまで犯罪へ踏み外すことをすべて完璧に予測し、それを未然に防止することは不可能に近い。
だからこそ、さまざまな批判や指摘を受け入れる論理を前提としなければならないのである。
基本・鉄則とするのは科学的論理、仏法で言う「依法不依人」である。
創価学会は、日蓮に直結するとうたう以上、遺文である「法華を識る者は世法を得可きか」を、常時うけいれなければならない。
前述した、三法律による暴走、中枢から末端組織の一人一人に対してこれを防ぐには、報連相など、もう古い。
IT・AI時代には、依法不依人を原則に、一瞬にして、その情報を共有することができ、組織の位置や現状、立場に関わらず、一瞬にしてAIが訂正・修正しうることもアプリにて開発可能なのである。
ただ、このAIが、科学的根拠、依法不依人の鉄則に基づくように開発されることはもっともだが、ここにも「依人不依法」のアニミズムが入り込む余地、さらには悪意による謀略も、十分可能であることも追加しておく。