Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流
■エレベーター相承
戸田城聖が昭和33年4月2日に死去するおよそ一カ月前の昭和33年3月1日、急拡大を成し遂げつつある創価学会が日本中から注目される中で、戸田の最後の偉業と言われた大石寺大講堂の寄進が行なわれ、その落慶法要が、日本の政界などの要人を来賓に向かえて盛大にに行なわれた。
池田大作は、このとき、第二代会長戸田城聖から池田ひとりに創価学会の後継を託されたことを、創価学会会長就任2年後の7月、巻頭言にて次のように発表している。
池田大作著「巻頭言・講義集」1962/7/3、創価学会、P28には、
「昭和三十三年三月一日、大講堂落成式の日、五階から一階に降りるエレベーターの中で、恩師は申された。
『わしの、いっさいの仕事は、これで終わったよ。あとは、おれと、おまえだ。おまえが、あとはしっかりするんだぞ』と。」
また、創価学会が正史とする実質ノンフィクション(建前は小説)である池田大作著「人間革命」第十二巻 1993/4/2 聖教新聞社 P258-267にかけては、そのもようや、戸田が池田ひとりに後継を託した様子が、劇的なシーンとして感動的に描かれている。
これが真実の創価学会史、そして、戸田城聖から池田大作への師弟の絆、師弟不二をあらわしているものとすれば、こんな素晴らしい絆、組織は他に類を見ない、理想的な関係といえるが、真実は、こうではなかった。
■遺言捏造(1) 池田大作ウソ偽りズムの源流
これに対し、龍年光は、自著「池田創価学会を解散させよ」1991/8/1、日新報道、P51-にて、これがすべてウソ・捏造であることを指摘している。
龍年光は、戸田城聖の弟子であり、この時代から池田大作の創価学会を支えてきた人物の一人であり、このときやその前後の様子を直に経験してきた生き証人ともいえる人物である。
公明党の都議にもなり、創価学会紳士録にも掲載されている彼は、昭和33年3月での、戸田城聖の晩年一か月、創価学会にとって最も大切な時期に、池田大作と戸田城聖の間にはすきま風が吹いていたことを幹部がみな目撃しているとして、以下の事実を指摘している。
「手紙で触れた三月一日の『大講堂落慶大法要』――静岡県知事を始め多くの来賓を招いての大事なセレモニーの場面でも、池田はどこかにいなくなっていた。戸田先生が『池田を探して来い!』と命ぜられ、ジリジリしながら待っていると、池田はエレベータの所に現われた。それを見つけた戸田先生が、大声を張り上げ、『何故、大事な時に俺の側にいない! 俺とお前しかいないんだぞ。それなのに、お前はどうしていないんだっ!』と、池田を怒鳴りつけた。 池田は、恐縮するでもなく、『いえ、私のような者はこんな晴れがましい場に出るより、外で案内係をしているほうが相応しいので…… 』と謙遜ぶった言い訳をしていたが、その表情は、叱り飛ばされた屈辱で見るからにムッとしていた。戸田先生は、池田をそのまま置いて、一人でエレベータに乗って祝賀会に出席された。
戸田先生はそれまで、池田を公衆の面前で叱りっけることなどなかった。池田の態度がよほど腹に据え兼ねたのだろうと、我々はみな驚いたものだ。
のちに池田は、『このエレベータの前で、次の会長はお前だ、という相承を受けた』とある人に語っている。これは、とんでもない大ウソである。
今から思い返せば、池田はこの頃から、次第に戸田先生と距離をおくようになっていたようだ。
戸田先生が『敵は内部だ』と私にいわれたのは、まさにこの事件の後だ。 先生はこの日の式典でスピーチされ、『日蓮正宗の敵はすべて倒した。身延にもペンペン草を生やした。御書全集も編纂した。自分にはもう思い残すことは何もない…… 仏法でいう『諸願満足』である』と、あたかも自分の死期を悟られたかのような趣旨の話をされた。
私はそれを聞いて、別の意味で驚いた。というのも、私は常に先頭に立って学会の敵と戦うことが自分の存在意義だと思ってきた男である。それなのに、学会の敵がなくなってしまっては、生きがいがなくなってしまうではないか。
そこで、宿坊に引き揚げ、横になっておられる先生の枕元に行き、『先生、これから先は、学会は何を敵として戦えばいいんですか』と問うた。すると先生は、すっくと体を起こして、『いいことを聞いてくれた。敵は内部だ。敵は内部だ』と繰り返しいわれた。
その時、私はこの言葉を漠然と、『より団結を固めよ』という意味に理解した。しかし、今にして思えば、昼間の会場での叱責と合わせ考えれば、『内部』の指す意味はより具体的だったことがわかる。
池田は、先生の死期を察して、次の会長の座を睨んで動き回っていたのだ。学会の最も重大な時期に先生の側を離れ、派閥作りを始める。戸田先生が常に戒めてきた、学会にとって最も害のある行動である。
実は池田は、戸田先生のお元気な時から、青年部の主要なメンバー(北条浩、森田一哉、中西治雄、星野義男等)に自分を『先生』と呼ばせていたことを、私は後で知って愕然とした。
あの時、戸田先生は内心『学会の敵は、池田のような男だ』といいたかったのではないか。
続く三月十六日、広宣流布の儀式を伝授する式典の際にも、事件があった。」(龍年光著『池田創価学会を解散させよ』 P51-54)
この指摘が事実なら、池田大作は、遺言の捏造を故意に行なったことになる。
さらに、「敵は、敵は内部だ」という戸田の指摘は、意味深である。
池田大作が、「派閥作り」という、戸田が常に戒めてきた「学会にとって最も害のある行動」をしていたとすれば、これは師弟不二どころか、真逆の「師敵対」ではないか。
池田は、後述するが、この敵を、日蓮正宗の僧侶へすり替えた。
池田は、戸田の言う内部の敵は日蓮正宗の僧侶であるというのである。
これに関する同様の言動や論述は、彼や他の信者や創価学会の著作にも様々に見ることができる。
その結果が、第一次・第二次教学問題を経て、最終的に日蓮正宗から破門されて、現在の創価学会となっている。
この小説人間革命第十二巻の連載時期は、創価学会と日蓮正宗・大石寺との争いが頂点に達し、ついに破門される年が1992年である。
創価学会が信者・会員をつなぎとめるため懸命となって日蓮仏法の正当性を主張し、池田と戸田の師弟不二として宣揚していた時期である。
しかし、本当の敵は、龍年光が指摘する『学会の敵は、池田のような男だ』ではなかったか。
つまり、真の仏法に立てば、遺言を捏造してまでも、自分が天下を取ろうという、修羅の生命であろう。
また、この時にも池田大作と同様、戸田城聖の側近であった石田次男は、自著「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」P164-165において、池田大作の、相承・相伝等を我が身に当てて使う神経は、異様であると指摘して、以下の如く、この時の真実を述べている。
「心理の一番奥底で我侭で然も虫が良過ぎる弁証法人間池田氏の、異様な精神状態が浮かび出て来る。相承・相伝・などという大事を平気で我が身に当てて使う神経は、迚も信徒としては考えられない事だが、それ丈に〈何を始めるか判らない〉という面が在る。イコール化・転用・摩替え・拡大解釈・どれもお手のものだ。
『戸田先生からは、広宣流布の模擬試験ーーこの語は氏が勝手に作った熟語だーーの儀式の日(昭和三十三年三月十六日)、儀式が終って五階畳広間の祝宴へ向かわれるエレベーターの中で『あとの事はお前に任せる』と言われた。学会を譲る・という御意志だ』などと言っている。
その戸田先生は、この儀式の祝宴散会後の午後四時頃、その場・その席で、理事長以下祝宴に参加した全員に対して『次の会長は皆で相談して決めろ、皆で仲良くやっていけ』と仰しゃったではないか。そしてその席に池田氏は参加して居なかったし、それでも当日の内には耳にした筈ではないか。
池田氏の言い振りでは戸田先生は理事長以下、理事・支部長・常任委員・婦人部長・男女青年部長・の全員を騙したことになる。考えても見るべきだ、学会に取っての大事が・エレベーターの中などと・こんな中で行われるものか。
万人仰天の巻ではないか。〈来客送り出し〉という儀式の後始末を言ったのを摩替えて用いたのなら、如何にも池田氏の遣りそうな事である。
この日の戸田先生の御遺言は『皆で仲良くやっていけ』であった。所が池田氏に依ると御遺言は『追撃の手を緩めるな』になっている。果して先生はこういう〈修羅界的遺言〉をしたのだろうか? これも摩替えと拡大解釈から更に歩を進めたものであって、真相は池田氏の〈創作〉であるらしい。後年、氏は側近へ『あれは俺が作った』と言ったそうだ。だがこれも嘘で・竜年光氏への指示を横盗りしたのが真相らしい。慶祝登山も終りに近づいた三月二十九日、先生が、学会の青年部員をいじめた某若手僧侶への対策として・或ることを池田氏に命じたーー命じたと言う事に成っているが、これからして池田氏の創作臭い。行動の全体は先生に関係なく、池田氏が勝手にハネ上ったのではないか・と石田は思っている。若手御僧侶云云の報告を受けたのは小泉理事長であって、理事長は重態の先生へは伝え様が無くて伝えていない筈である。同様に、青年部行動後の報告も、池田氏は『直接した』と言うが、これも不可能だった筈である。ーー事に便乗して・無制限に勝手な池田世界を拡大し遺言化したものであった。」(適宜改行したが、全文はそのママ、石田次男著「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」1995/5/3、緑友会、P164-165)
3月1日と16日とで、日付が紛らわしいが、少なくとも3月16日での戸田の最後に語った遺言は「次の会長は皆で相談して決めろ、皆で仲良くやっていけ」であり、これは多くの人が耳にして、しかも池田一人がその場にいなかったことになる。
もし池田が、3月1日か16日のいずれかでエレベーターの中で聞いたことが真実なら、最後に戸田が言ったことは、石田の主張通り、理事長以下、理事・支部長・常任委員・婦人部長・男女青年部長の全員を騙したことになる。
なお、『追撃の手を緩めるな』については、次のページで詳細を述べる。
さらに、石田次男は、これに続いて、池田の転用の酷い例として、以下の指導をあげている。
「〈転用〉ではもっと酷いのもあった。『戸田先生が次の会長に池田を当てる積りで氏へこう言った』というシロモノである。それは、戸田先生が『学会はもう二(ふた)皮剥いでも良い』と池田氏へ許可を与えた・という〈池田氏の話〉である。詰り『学会をもう二皮剥いても良い』と許可した事は氏を三代会長に認めたからだ・という所がミソに成っている。
池田氏は〈牧口門下を一皮〉〈戸田門下を一皮〉、計二皮剥いて中から〈池田門下という新皮〉を取り出しても良いーーこうならば・人間使い捨てのすすめ・でしかないーーと勝手解釈した訳である。自分の都合に合わせて転用したわけだ。
戸田先生没後にその通りに実行しているが、これだと戸田先生はとんでもない〈残酷人間〉という事に成る。果してそうか? 将来の学会人事への指針だったのか?
皆は池田に騙されたが、これ、戸田先生のは『一人一人の信心の皮をもう二皮剥げ』という指導なのであった。人そのものを剥ぐ事ではなかった。」(石田、前掲書、P165-166)
さらに、
「こうして、三代会長に就いては昭和三十三年三月十六日に正式に石田指名を訂正され、
『(中枢幹部が)皆で相談して決めよ』『(戸田の後は)皆で仲良くやって行け』と御遺言された」(石田、前掲書、P167)
と、明かしている。
そして、池田大作の一番弟子だった原島崇は、自著「誰も書かなかった池田大作創価学会の真実(2002/7/25,日新報道、P79-80)において、上記の石田次男の論述を一部引用して、
「まさに池田の言う『エレベーター相承』なるものは、まったくのウソなのです。戸田会長がしばしば語ったという『七つの鐘』という天下盗りの構想のスケジュールにしても、根拠のない池田によるデッチ上げなのです。…中略…
戸田会長の『巻頭言集』、『講演集』、その他どんな著作をみても、七つの鐘という言葉は発見できません。
このように、池田によって、次々と『戸田会長の遺言』が作られていったのです。
およそ独裁者は、必ず歴史を改変します。池田も、自分にとって都合よく歴史を改変する独裁者であることに変わりがありません。」
と、指摘しているのである。
日蓮が、現在に生きていれば、これをどう評価するであろうか。
少なくとも、日蓮の生涯においては、自分自身で史実を捏造することはありえなかった。
前述したが、寛政の法難において見せた、大石寺の偽りズム・切り捨てズムが、早くも創価の歴史においてここに見いだせる。
これもやはり、まぎれもなく依人不依法の日寬アニミズムが根底となっている修羅道であることは、紛れもない事実であろう。
池田は、このあと3月29日、『追撃の手を緩めるな』という戸田の最後の遺言を聞いたと主張する。
これは、彼自身が引き起こした「御塔川での僧侶リンチ事件」の報告を戸田にしたときに、戸田から直接聞いたという。
この事件の詳細は、次のページで述べることにする。