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P90, 花と泥のどちらを重視するか?師匠を破折する功徳は師匠に帰着する(真の報恩)

 元旦にちなんだ日蓮の遺文を紹介します。《》内は現代語訳です。
 十字御書(十字と書いて、むしもちと読む、御書P1491~1492)
「十字一百まい・かしひとこ給い了んぬ、正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め・此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく・日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく・とくもまさり人にもあいせられ候なり。」(御書P1491)

 《蒸餅百枚、果物一籠を頂きました。
 正月一日は日の始め、月の始め、年の始め、春の始めです。この正月一日を南無妙法蓮華経という法則をもってもてなす人は、月が西から東を目指して向かうにともなって満ちていくように、また日が東から西へ渡るにしたがって明るくなるように人徳も輝き、人々にも愛されるのでございます。》

「抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・ 或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば 我等が五尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候、譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし、仏と申す事も我等の心の内にをはします・譬へば石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし、我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし、我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ」

 《さて、地獄や仏は、どこにいるのかについて仏典を参照すれば、あるいは地獄は地の下にある、あるいは仏は西方極楽浄土にいるなどとあります。しかし厳密には、私達の五尺の身の中にあると説かれています。そうかもしれないと思われますことは、私達の心の中をみると、たとえば父を侮辱し、母をぞんざいに扱う人は、地獄がその人の心の中にあるのです。それはたとえば、蓮華の花では花と実とが同時に見られるようなものです。仏といわれるのも私達の心の中にいらっしゃるのです。たとえば、石をたたくと火が起こり、不揃いの珠の中に美しい宝石があるようなものです。私達凡夫は、直近のまつ毛と大空のかなたは見ることができません。私達は心の中に仏がいらっしゃるのを知らずにいただけなのですぞ。》

「ただし疑ある事は我等は父母の精血 変じて人となりて候へば三毒の根本婬欲の源なり、いかでか仏はわたらせ給うべきと疑い候へども・又うちかへし・うちかへし案じ候へば其のゆわれもやとをぼへ候、蓮はきよきもの泥よりいでたり、せんだんはかうばしき物大地よりをいたり、さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ、やうきひは見めよきもの下女のはらよりむまれたり、月は山よりいでて山をてらす、わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる。」(御書P1491~1492)

《ただし、疑わしいことには「私達は父母が性交し、精子と卵子が結合して人間となって生まれましたから、これは三毒の根本で、婬欲の源です。そんな中にどうして仏がいらっしゃるのでしょうか」と疑いますけれど、またよくよく考えてみると、その根拠もなるほどなと思います。蓮は清らかなものですが、泥の中から生えてきます。栴檀は素晴らしい香りですが、臭い大地から生えてきます。桜の花は素敵ですが、興味のない木の枝から咲き出ます。中国唐代の皇妃だった楊貴妃は絶賛の美人でしたが、身分の低い母から生まれました。月は暗い山の端から出て、山全体を照らします。禍は軽率な口から出て自身を破ります。幸いはきれいな心から出て、自分自身を飾るのです。》

「今正月の始に法華経をくやうしまいらせんと.をぼしめす御心は・木より花のさき・池より蓮のつぼみ.雪山のせんだんのひらけ・ 月の始めて出るなるべし、今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ、此れをもつてをもうに今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし、影は体より生ずるもの・法華経をかたきとする人の国は体に・かげのそうがごとく・わざわい来るべし、法華経を信ずる人は・せんだんに・かをばしさのそなえたるがごとし、又又申し候べし。
正月五日
                     日蓮在御判
をもんすどのの女房御返事」

 《今、正月の始めに法華経を供養しようと思われる御心は、葉のない木の枝から咲いた桜の花、池からひい出た蓮のつぼみ、雪山に芽吹いた栴檀の双葉、上り始めて顔を出した月のようなものでしょうね。今、日本の国は法華経を敵として扱っているので、禍を千里の外からも招き寄せています。これに対して明らかなのは、そのような今こそ、法華経を信ずる人は幸いを万里の外からも集めていることです。影は体から生ずるものです。法華経を敵とする人の国は、体に影がつきまとうように禍が度重なるでしょう。法華経を信ずる人は、栴檀に素晴らしい香りが備わっているようなものです。また機会があれば、申し上げましょう。
正月五日
                 日蓮
重須殿奥様》


 この日蓮の手紙には、地獄も仏も、すべて自身の一念の部分であること、そして仏の境涯は、凡夫と言う迷いや混濁した境涯を基底として出現することを、分かりやすい比喩を用いて、方便として述べられている。
すなわちこの日蓮の言葉は、仏教の教義を通じて人間の内面を深く洞察し、客観的真実の意味を探求するものであり、非常に示唆に富んでいる。この手紙から読み取れる主なポイントは、地獄も仏も人間の心の中に存在し、その悟りや仏の境涯は一念の中に現れるということである。
日蓮は、様々な比喩を用いて、凡夫の心に潜む仏性(仏の性質)を説明していて、この比喩も通じて、外部の事象や物質ではなく、内面的な心の状態が重要であることを強調している。
蓮華の花の譬えで、泥の中から清らかな花が咲くように、混沌とした状況から悟りが生まれる。
桜の花の譬えでは、一見地味な木の枝から美しい花が咲くように、見えないところに潜む美しさや真実が現れる。

 なので、我々凡夫にとっての課題は、
蓮華をみるときには、泥を見るか、清らかな花を見るか。
桜については、趣のない木の枝を見るか、素晴らしい花を見るか。
人間については、淫欲やその他の欲にまみれた姿を見るか、仏の境涯である菩薩の行動を見るか。
国については、究極の真実の教えに背くか信じるか。
もちろん片方が無ければもう片方もないのであり、どちらも無視することはできないが、どちらを重視するか求めるのかにかかっているのである。
すなわちこの日蓮の教えは、内面の仏性を見出し、それをどう育てるかが重要であると説いている。どちらを重視し、求めるかという選択が、我々の人生や信仰の在り方を決定づける。このような視点を持つことで、より豊かで意味のある人生を築くことができる。


 自然の万物の存在についても普遍的な事実である。
例えば人間においては、絶世の美女でも糞尿の排泄が間違いなくある。
偉そうなウンチクを語る者でも、年をとれば背中も曲がり、おなかもふくれてくるのである。もっとも、年をとっても人格陶冶がなく、根性も曲がり、貪欲や頑固さも膨れあがる輩も多い。人は単に年を経るだけでは人としての成熟はない。この人はこの年になるまでいったい何を思って生きてきたのだろうと思わせるほどの人が余りにも多い。これは、近年増加する高齢者の犯罪をみれば明らかである。人格的格差は、経済的格差の比ではないほど大きい。格差是正・弱者救済が世論や国是として叫ばれているが、真っ先に是正が必要なのは経済的格差ではなく、人格的格差であると筆者は思う。
ちなみに日蓮も、蔵の財(経済的社会的富)よりも身の財(健康)が勝れ、見の財よりも心の財(人間としての完成度、福運)が第一であると述べている。

 話は戻るが、創作物やフィギュアでもないかぎり、生きている限り、綺麗に見える部分と汚く見える部分はある。
また、人の排泄物でも他の生物(たとえば植物や細菌などの微生物)にとっては生きる糧となっているし、人によってはフェチの対象であったり、人の救命に必要な薬剤の材料になったりもする(ミラクリッド、成分名ウリナスタチンは、人の尿を材料にしていた)。
こうして、地球内で生きとし生けるものはすべて循環しているのである。
個人の都合や見解・受容のありかたのみで、万物の見え方にこんなにも違いがある。
これに情緒的なもの、好き嫌いや嗜好などが影響するので、千差万別の受け止め方となる。
これは、時代や文化の影響を受けているだけであり、客観的事実は変化しない。
しかし、人の受け止め方は、その生命境涯によって人の数だけあり、それぞれがその人にとって、その人がその様に受け止めたという事実となる。これが、世間一般的に「真実」といわれることが多い。
こうして、客観的な「事実」と、個人の主観が含まれた「真実」が、異なったものとなることがしばしばある。真実という言葉が己の都合で乱用される世の中であり、この中に事実(すなわち客観的真実)ではない「虚偽」がはびこっている。
拙論文P80にて述べたが、そもそも、一つの生命が、それ自体で独自の法則であるから、その法則に基づいた「真実」は、その法則の数だけ存在する。それらは独自すなわち部分的な法則であって、すべてが全体に共通する法則(真の法則すなわち万物一切根源の法)とは一致しない。だから、個人的な「真実」は、しばしば「事実」(客観的真実)とは異なり、「虚偽」となる。
こうして、歴史的事実と、宗教的真実が異なり、しばしば対立を生む。
これについては、改めて論じる。

 話を、先述の日蓮の教えに戻す。
同じ事実であっても、仏性の湧現のため、完成への努力のため、汚い部分でも綺麗に見て、有害なものでも昇華することができるのであり、これを模範とすべきである。
 人物を見る目も、これを模範とすべきである。
これを模範とする人は、多くの友と心の富を得るだろう。
創価学会の組織についても同様に考えることができるのではないだろうか。
組織の良いところは、組織内に限ってではあるが、互いに切磋琢磨して、助け合い、そのなかの一部分は、菩薩の行動になっていることである。これは、組織の中で育まれる連帯感や協力が大きな力を持つことを示している。

 たとえば創価学会組織について、選挙の票取りや機関紙啓蒙(機関紙を友人に売り上げたポイント)の目標達成などについての組織利益達成については、こう考えることができる。すなわち日蓮が「小分のしるし」と述べ、これらの現世利益は否定し、成仏を目的とした必要十分な最低レベルのものと限定したことを前提とすると、日蓮仏法からみれば、崇高な成仏という目標に比べたら微々たるものであるが、これら組織利益達成を見ることは、蓮華をみるときの泥をみるのに相当する。あくまで成仏への「手段」として捉えるべきものである。
教義についても、同様なのではないか? 池田大作を永遠の師匠と仰ぐことによって、一部の熱心な会員が、他の会員に対して菩薩の行動をするモチベーションが高くなるのであれば、たとえそれが現在の時点でアニミズムであり真の日蓮仏法とは異なるといっても、蓮華をみるときの、泥を見るのに当たるのではないか。その結果としての行動がポジティブなものであれば、それもまた一つの仏道の実践となる可能性があるのではないか?
だからといっても、その教義は時代に応じて更新すべきことは必要で、組織の独善的体質は改善が望まれることはかわりがない。つまりこのことは、組織の改善の必要性がなくなることとは別の次元の話である。そもそも、組織あっての会員ではなく、会員個人あっての組織なのである。組織の独善的な体質の改善は、組織が会員一人ひとりの成長や幸福を支えるために重要な課題である。組織は会員あってのものであり、その逆ではないという点を忘れてはならない。このように、宗教組織の持つ多面的な側面を理解することは非常に有益なことである。教義や組織の在り方を常に見直し、更新することで、真の意味での成仏や菩薩行を追求できる社会を築いていくことが求められている。

 俗世の師匠であっても、個人的な人間であり、一念三千の真理から見れば、十界の境涯それぞれを具している。先述してきたが、池田大作の四悪趣を主とした修羅道や僣聖増上慢の姿は、蓮華に譬えれば泥の部分と考えられる。師匠であっても、また優れた指導者であっても、仏又は仏に近いとは限らない。したがって、彼の話術・技術や人柄・人脈などに惑わされてはいけない。池田大作の強調した「師弟不二」は、誤った理念であり、それが創価学会組織の栄枯盛衰をもたらしたことは厳然とした事実である。
 こうして明らかに分かることは、人としての完成度・成熟度・徳などは、成仏とは関係がない。先述したが、成仏すなわち仏の境涯は、不惜身命で完成を目指しているか、その行動を業として積む境涯である。仏法では、仏は主師親の三徳を備えているとされたが、主師親の三徳を備えたからといって仏だとはいえない。主師親の三徳は成仏の境涯の必要十分条件ではない。中学校の数学の教科書にもあるように、逆の命題は必ずしも正しいとは限らないのである。分かりやすく説明を試みてみると、ある命題が真であれば、その逆や裏は真とは限らないが、その対偶は真である。「仏は主師親の三徳を備えている」の対偶は「主師親の三徳を具えていないのは仏ではない」となる。が、これは、日蓮が晩年に明かした「一心欲見仏・不自惜身命」の境地、すなわち「未完成ながら不惜身命で完成を目指すのが仏である」とした定義を満たさない。なぜなら未完成であれば主師親の三徳を具えていない状態もあるからだ。さらに人の徳といえば主師親だけでなく、儒教で説く仁・義・礼・智・信や、孝・悌・忠の行い、また西洋では徳(virtues)として叡智・正義・忍耐・勇気・節制、キリスト教では信仰、希望、愛が、人の持つべき徳として説かれている。

 池田大作については、具えたかもしれない主師親の三徳(注、池田や周囲が傲慢にもそう言っただけであるが)を、修羅道に用いて僣聖増上慢の姿を呈したのが池田大作の指導者としての姿であった。
くり返すが、師匠であっても、仏又は仏に近いとは限らない。崇高な人徳を具えているからといっても、成仏とは言えない。先述したがこれは、日蓮が諸法実相抄で明かした内容から明らかである。
 日蓮は、具体的な仏の状態についてはすべて凡夫が理想と思う姿を設定したものだと、晩年において明かした。この結論は日蓮の生涯にわたる絶え間ないアップデートによるものだと筆者は考えている。また、日蓮の遺文の八風抄で明らかなように、賢人の中に人としての完成の度合いは含まれていない。
 また、創価学会組織では、日蓮が、道理・証文よりも現証には如かずという遺文を利用して、仏法の実証を社会に示すことが強調されている。例えば財務をしたから・題目をあげたから、宝くじが当たった・病気が治った・新たな職につけた・会社が繁盛したなどの現世利益そのものが実証として評価・讃嘆される。しかし、日蓮のこの遺文の趣旨は、これらのような現世利益獲得のことではない。すなわち現証とは、実証そのものの表面的な評価ではなく、「実証が現れること」、すなわち変化や変化のプロセスのことである。正しい仏法による菩薩の実践によって福運(善業)が増えていくこと、人としての完成に近づく変化のプロセスを強調しているのである。多くの日蓮の後世は、この重要なことを間違って捉えている。
 日蓮が成仏すなわち絶対的幸福について達した結論は、先述したが、未完成ながら不惜身命で完成を目指した行動であり、これは静止した状態ではなく、動的な定義である。すなわち、静的な個々の境遇は一切関係がないので、貧乏人から大金持ちまで、美しいひとから醜い人まで、体力がある人からない人まで、五体不満足な人から健康に不安がない人まで、あらゆる生命の境遇に当てはまる、普遍的・客観的定義である。これは万人が具えているすなわち自らの意志で行なうことができる点で、万人が平等・公平であるのみならず、最高の生命尊厳の考えである。
 また、これを、弟子の立場から見れば、師匠が僣聖増上慢であっても、その部分を昇華して、自分自身が不惜身命で成仏を目指す境涯であれば、仏の境涯(すなわち即身成仏)なのである。これを実現している創価学会員は、末端組織に少なからずいる。筆者も遭遇してきた。むろん、多くは組織と共棲状態にある修羅の境涯の人であるが。
たとえば、山崎・原島問題調査の会は、池田が会長就任翌日に原島宅で、原島崇に言った「弟子というものは、師匠が地獄の相で死んでいったとしても、疑わずに、自分と共に地獄へ行くと言うのが弟子だ。その決意があるか」のなかの「師が地獄に行くなら弟子も行く」言葉の意味は「同志間の苦悩の共有、強い絆を強調しているのであり、教義上の問題として述べたわけではない。そのくらいの決意が無ければ、広宣流布という未聞の大事業は遂行できない」と反論(山崎・原島問題調査の会著「仕組まれた学会批判 山崎・原島問題とその真相」現代書林、p.23-24)している。これは、この池田の言葉を苦しまぎれに昇華していると解釈もできる。しかし、池田が山崎正友に言った「人を殺せと言ったら、君は殺せるか」は、昇華不可能である。師が地獄に行くようなことをしたら諫めるのが弟子のあるべき姿であり、宗教人である前に人として当然のことで、ましてや師に従って殺人を犯すなどは論外である。まあ、師の教えに従って殺人や戦争を起こしてきたといえる宗教はあるが・・・。池田の文言には、このように昇華不可能なのものもあるが、反戦・武力行使反対の文言などは、大いに唱えていくべきであろう。

 この場合でも、大切なこと・忘れてはならないことは、昇華不可能なのものすなわち明らかに誤っているものは厳格に破折すべきであることだ。日蓮の生涯において、一貫しているのがこれであり、師匠であってもその誤りは破折すべきであるのが正しい法である。さらに、その破折が師匠本人の功徳(因果応報)となると、日蓮は言うのである。
 日蓮の俗世の師は道善房であった。日蓮は自身の58年の人生を回顧し、すべては幼少時に願をかけた虚空蔵菩薩の利生と師・道善房の賜物であると述べ、師の報恩のため法華経へ善導すると、こう述べた。
《あなた(注、道善房)は阿弥陀仏を五体も作られたので 五度 無間地獄に堕ちることになる…その場は厳しい言葉だったが、法華経の文の通りに説いたので、このように改心された。これは忠言耳に逆らい良薬は口に苦しとはこのことである…今やすでに日蓮は師の恩を報じた(善無畏三蔵抄 御書 p.888-890)。》

 日蓮が、安房の清澄寺における故道善房追善のため、同じく義浄房・浄顕房へあてた報恩抄には、真の報恩・依法不依人についてこう述べた。
《涅槃経に「法に依って人に依らざれ」とある。この「法」とは仏の説いた一切経のことであり、「人」とは、仏以外の普賢菩薩・文殊師利菩薩や、諸宗の人師たちのことである。…この仏の遺言を信じ、ただ法華経を鏡として、一切経の真髄を知る以外にない(報恩抄 御書 p.329)。》
報恩抄は、釈尊から当時の日本への仏教史(小乗対大乗、権経対実経の争いなどにも言及)から、法華経弘通による自身への迫害等もあげ、真実の教えと師弟の伝搬、諸経の優劣を明らかにし、真の報恩とは、真実の教えを広めることであると、理路整然と述べている。
そして結びが、とくに感慨無量である。
《花は根に返り、菓は土に留まる、この功徳は、道善房の聖霊の御身に集まるであろう(報恩抄 御書 p.329)。》
 また、華果成就御書では破折した師匠の姿も含めて、こう述べられている。すなわち、日蓮は法華経の行者となり、その恩は師匠道善房のおかげである。日蓮は草木、師匠は大地のようだ。日蓮が法華経を弘める功徳は道善房に帰る。良い弟子を持てば師弟は成仏し、悪い弟子を持てば共に地獄に堕ちる。師匠と弟子の心が一致しなければ何も成し遂げられない。法華経の五百弟子受記品には、方便をもって貧・瞋・癡の三毒と邪見の相を現して衆生を救済すると説かれている(華果成就御書 御書 p.900-901)。そして三世永遠の生命観にたって、師匠の道善房を、安立行菩薩へ譬え、大自然の摂理により、日蓮が法華経を弘める功徳は必ず道善房の身に帰る、本当に貴い貴いと、讃嘆されている。
すなわち、方便として貧(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろか)の三毒と邪見の姿を現して衆生を救済する姿が、まさに日蓮の師の道善房であった。現在において、池田大作を師匠とする創価学会員にとっての池田大作は、まさに「方便として貧(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろか)の三毒と邪見の姿を現して衆生を救済する姿であった」と昇華すべきである。
師の誤りに気づいた弟子は師を諫めると同時にこう受けとめて、恩に報い潜聖増上慢として讃嘆すべきである。池田大作への真の報恩と冥福の祈りの具体的な行動は、日蓮が教えたように、それが彼への功徳として帰着させるための破折・諌暁であり、その昇華とアップデートであろう。さらに、日蓮の師弟観は、教団の縛りを超えて団結せよという、各々の日蓮信者に共通した、肝に銘ずべき内容であろう。

 これら、昇華すべきことは、なにも創価学会員に限った事では無い。
 このことは、創価学会に限らず、また日蓮教団だけに限らず、広く一般社会の人や組織についていえることであろう。フロムの指摘のように個人が組織に隷従するのならば、または組織が個人のためにその幸福や成仏を「目的」とするのではなく組織利益の「手段」とするのならば、ファシズムへの復活へとつながる危険性を十分孕んでいるといえよう。この点は非常に重要である。組織は個人の成長や幸福を支えるものであるべきであり、その逆ではない。
 また、代作された池田大作名の膨大な「池田大作著」の著作物についても、これらは事実上は、創価学会の職員たちや、彼らと対話などで関わった人たちによる合作である。名前だけが僣聖増上慢であった「池田大作」になっているだけである。したがって、その内容についてはすべてが誤りだったと否定されるべきではなく、「依法・不依人」の原則に基づき、正しいもの・価値的な内容は大いに肯定し、受け入れ、人類の叡智とすべきであろう。法華経などの大乗経典に含まれる叡智と同じように、万物の法則に基づくもののみ、採用し、役立てていくべきである。すなわち、価値ある内容を見極めて受け入れることが重要なのである。
「依法・不依人」の原則に基づき、正しいものや価値ある内容を人類の叡智として活用する姿勢が求められている。特に、戸田城聖の原爆禁止・池田名の反戦・平和思想は、重要である。この内容を含む著作から有害なアニミズムや自語相違などを取り除いて、人類の指標とすべきである。
さらに、初心忘るべからずの諺通り、公明党も立党の精神に立ち返り、自衛隊に関する施策等を見直すべきであろう。公明党の議員が、たとえ票を得るための見返りとはいえ、かつて内藤国夫が指摘したように、地域住民の相談窓口となり、さまざまな個別支援を行っていることは、地域社会への貢献として十分評価に値する。これを組織拡大の抱き合わせ・見返りとすることを廃止し、純粋に菩薩としての修行すなわちボランティア活動とすれば、仏法上でいえば真の布施の行動となり、善業を積むことになるのである。すなわち純粋なボランティア活動としての菩薩行を推進することが重要なのである。しかし現在のところ、票稼ぎや当選のために自民党と取引を行っているので、残念なところ、現状ではそれに値するとは言えないのではなかろうか。
末端組織により程度のばらつきはあるだろうが、池田大作の名による指導などにより、組織が個人一人一人を大切にする風土はまだまだ十分存在していると筆者は感じる。この風土を維持しつつ、教義や方針を時代に応じて更新し、独善的な体質を改善して、後世に伝えることが求められる。そうでなければ心の琴線にふれる若者は少ないであろう。組織は会員あってのものであり、会員個人の成長や幸福を最優先に考えるべきである。

 「依法・不依人」の原則に基づき、正しいもの・価値的な内容を大いに肯定し、受け入れ、人類の叡智とすべきことは、創価学会に限らず、他の宗教や哲学、学問一般、さらには我々の人生の指標にも該当する。そもそも、日蓮が説いて定義した南無妙法蓮華経という万物一切根源法も、これを言うのである。

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