Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P04-3, 日蓮の仏法上の師、「不依法・依人」の日蓮本仏論、「依法・不依人」の日蓮仏法、日蓮の本尊観
■(3):日蓮の本尊観について
■日蓮の本尊観について
話を戻そう。
以下、改めて日蓮の本尊観について述べる。
日蓮は南無妙法蓮華経と名付けた法を本尊と定義した。
日蓮が定義した南無妙法蓮華経の意味はこうである。
漢字の意味をみると、南無とは帰命、命を帰する・帰依する、命を捧げるという意味であり、妙法蓮華経とは、法則である。
妙法とは妙なる法、蓮華のような妙なる経ということである。
鳩摩羅什が、「サ ダルマ プンダリーカ スートラ」(蓮華のような妙なる法)をそのまま訳した意味である。
つまり、自分の命を妙法蓮華経という法則にすべて預ける、という意味である。
これを何度も何度も唱えることは、この意思・宣誓を何度も何度も行うこととなる。
日蓮は、これを、成仏、即身成仏への修行法とした。
そして、これを「本尊」(=もっとも尊敬し帰命する法則)としたのである。
日蓮はこれを成仏・即身成仏するための修行法と定義し、現在の姿で成仏することを即身成仏と名づけた。
日蓮はまた、これを「本尊」といい、自分の一生のため最も尊び、精進し、帰依する法に等しいとした。
本尊とは、根本尊敬といって、根本として尊敬・帰依する対象をいう。
ちなみに、この行為の影響は、プラセボ効果や意味反応として、現代の科学においてはある程度客観的なコンセンサスを得ている。しかし、宗教的に功徳があるか無いか、逆に罰があるか無いか等については、統一した見解がない。
一部の文献をあげて検討してみる。
日蓮は、こう述べている。
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄、御書P365)
要は、つまり、法華経の題目とは妙法蓮華経、これに帰命する南無をつけて、南無妙法蓮華経となる。
日蓮は、これを本尊というのである。あくまで「法」であって、仏や人、物体ではない。
ましてや、生身の日蓮自身をいうのではない。
続いて、
「問うて云く 何れの経文、何れの人師の釈にか 出でたるや、
答う 法華経の第四法師品に云く
『薬王 在在処処に 若しは説き 若しは読み 若しは誦し 若しは書き 若しは経巻所住の処には 皆応に七宝の塔を起てて極めて 高広厳飾なら令むべし
復舎利を安んずることを須いじ
所以は何ん 此の中には已に如来の全身有す』等云云、
涅槃経の第四如来性品に云く
『復次に迦葉 諸仏の師とする所は 所謂法なり
是の故に如来 恭敬供養す
法常なるを以ての故に 諸仏も亦常なり』云云、
天台大師の法華三昧に云く『道場の中に於て 好き高座を敷き 法華経一部を安置し 亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず 唯法華経一部を置け』等云云。」
《問うて言う。その根拠はどの経文にでてくるのか、
またどの人師の解釈に出てくるのか。
答えて言う。法華経の巻第四の法師品第十に、このように出てくる。
「薬王菩薩よ、いかなる場所においても、この法華経をあるいは説き、あるいは読み、あるいは誦し、あるいは書写しなければならない。
もしくはこの経巻が存在するところはすべて七宝の塔を建てて、最高に高く、広く荘厳して供養するべきである。
そして別に仏舎利を安置する必要はない。
なぜなら、この法華経の中に如来のすべてが、ご解明・開示されているから」
涅槃経の第四如来性品には、こう述べられている。
「また次に迦葉よ。
諸仏が師とするのはいわゆる「法」である。この故に、仏は法を敬い供養するのである。
法が必ず永遠に存在するから、また必ずそれを悟る諸仏も永遠にいるのである」
天台大師の法華三昧には、こう述べられている。
「道場の中に立派な高座を設け、ただ法華経だけを安置しなさい。また絶対に仏像や仏舎利、法華経以外の経典を安置してはならない。ただ法華経だけを安置しなさい」》
要はつまり、この法華経が、如来(仏)の解明・開示である。
(この中にはすでに如来の全身の解明・開示されている)
そして、諸の仏が師とするのは「法」すなわち妙法蓮華経である、というのである。
(諸仏の師とする所は 所謂法なり)
つまり、すべての仏は、最初から仏ではなく、「法」を師匠として、つまりは「法」に則って修行したから仏なのである。
これは、日蓮独自の本尊観、成仏観、そして師弟観の一部である。
続いて、日蓮は、日本の他宗の本尊を挙げて、それらは皆、「仏像」を本尊としているが、天台宗だけどうして法華経を本尊にするのかの理由として、
「彼等は仏を本尊とするに是(註、日蓮仏法)は経を本尊とす」と述べた。
本尊は明確に法華経であると述べた。
その根拠は、本尊は勝れたものを用いるべきで、仏教では「釈迦を以て本尊とすべし」だが、と続く。
ならば、あなた(日蓮)はどうして釈迦を本尊としないで法華経の題目を本尊とするのか?
その答えが、私の己義ではなく「釈尊と天台とは法華経を本尊と定め」た。
「今の日蓮も 仏と天台との如く 法華経を以て本尊とするなり」、
なぜなら「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり」
「釈迦・大日総じて十方の諸仏は 法華経より出生し給へり 故に今能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)
《釈尊や大日如来など、総じて十方の諸仏は 法華経を学び力づけられて仏となった。 故に成仏させる力のある法を本尊とするのである。》
と、明確に文証と道理を根拠に、法華経が本尊であると断じている。
「彼等は仏を本尊とするに是(註、日蓮の仏法)は経(法則)を本尊とす」との主張は、現在にも、いや、未来永劫、信仰としての科学的真実として光るだろう。
日蓮の立てた教えは、絶対者(仏、創造主など)へではなく、真の法則(=南無妙法蓮華経)への信仰なのである。そして、その法則を師匠としているのである。
ここが、他の一切の宗教と異なる点である。
「神」や「仏」、「曼荼羅(マンダラ)」や「仏像」などへの信仰は、他力本願となり、何があっても「おすがり(註、絶対的依存)」信仰である。
これに対して、「法」への帰命は、自力本願、すべてを自己の責任で切り開くという信念と努力への誓いである。
問題となるのは、自分が命を預けた法が、現実に「正しいかどうか」だけなのだ。
現実に「正しいかどうか」の判断は、実際に実験・証明する必要がある。
これは、一人ひとりの単位から、集団としてもその対象となる。
これは、科学理論の発見・発展と同じ道理である。
だから、本来は、宗教は科学と袂を分かつ必要などない。
「依法・不依人」の論理に忠実に基づいていけばいい。
ただ、日蓮の時代は、科学が未発達だったから、どうしても、信じるしかない。
だから「信」が強調されたのである。
科学は、かなり発達しているが、人類が存続する以上、どこまで行っても発達していく。
だから、日蓮の教えも、本来から、こういった性質のもの、つまり、正しく受け継がれれば、時代が進むにつれて、さらに深く実験証明されていくような法則なのである。
日女御前御返事(本尊相貌抄)御書P1244には、以下の如くある。
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・
只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、
是を九識心王真如の都とは申すなり、
十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、
曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、
此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」
《この御本尊は、全くよそに求めてはならない。
ただ、我ら衆生がひたすら成仏を目指して法華経を受持し、南無妙法蓮華経と唱える肉体と精神にいらっしゃるのである。
これを「九識心王真如の都」というのである。
十界具足とは、十界の各界が一界も欠けず、そのまま一界になっていることである。
これによって、御本尊を曼陀羅と称するのである。
曼陀羅というはインドの名前であり、これは輪円具足とも、功徳聚ともいうのである。
この御本尊も、ただひとえにあなたの純真な信心が基盤である。「信を以って入ることを得たり」とあるのは、このことである。》
本尊はただひたすら成仏を目指す「南無妙法蓮華経と唱える肉体と精神」にある。
ひたすら成仏を目指して南無妙法蓮華経と唱える人の生命自体が、本尊であるという意味である。
この部分は、ひたすら成仏を目指して信じる人の、唱えている瞬間の生命状態が、御本尊そのものであり、それがすなわち、成仏という究極の境涯だということになる。
すべての、ひたすら成仏を目指す凡夫である衆生が、これによって成仏という究極の状態となる。
これが、日蓮の、凡夫本仏論である。
これこそ、時空を超えて貫かれている、科学的法則と定義できるではないか。
確認のために繰り返すが、現世利益や見返りなどを求めず「ただひたすら成仏を目指すこと」が、必須の条件になっている。
諸法実相抄 御書P1358ー1359にも、次のようにある。
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず
返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、
其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なと判じ給へり、
此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、
然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、
さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、
実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、
地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、
餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、
仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、
万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、
天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、
此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、
此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。」
《凡夫は体(註、本体)の三身(註、三身如来)であり、本仏である。
仏は用(註、作用)の三身(註、三身如来)であって迹仏である。
したがって、皆は、釈迦仏は我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っているが、そうではなく、逆に、仏に三徳を具えさせているのは、我々凡夫なのである。
そのゆえは、如来というのは天台大師は法華文句で、こう解釈している。
「如来とは十方三世の諸仏、真仏・応仏という二仏、法身・報身・応身の三身、本仏・迹仏などと存在する、一切の仏をすべて如来と呼ぶのである」
この解釈において、「本仏」というのは凡夫であり、「迹仏(註、仮仏)」というのは仏である。
しかしながら、迷いと悟りは同じではない。このために衆生と仏との異なりがある。
そしてこのため衆生は倶体倶用ということを知らないのである。
そうであるからこそ、天台は、諸法という言葉で十界を挙げ、これを実相だと説かれたのである。
「実相」というのは、妙法蓮華経の異名である。
「諸法」とは妙法蓮華経ということなのである。
地獄は地獄の姿をみているのが実の相である。
餓鬼と変じてしまえば地獄の実の姿ではない。
仏は仏の姿をしている、凡夫は凡夫の姿をしている。
そして、万法の真実としての姿が妙法蓮華経の真実としての姿であるということを「諸法実相」とはいうのである。
天台大師は「実相の深理は本有の妙法蓮華経である」と述べている。
この解釈の意味は「実相」の名言は迹門の立場から言ったものであり「本有の妙法蓮華経」というのは本門の上の法門ということなのである。
この解釈の意味をよくよく心中に案じられるがよい。》
ここでは、諸法実相の原理を述べている部分である。
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず 返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」
この部分の意味は、実は、本当は、凡夫こそ本仏である。
釈迦仏は単なる仮想、空想、方便の仏である。
今まで皆、釈迦仏は理想的な主師親の三徳をそなえたから私たち衆生を導くことができたと思っている。
しかし、そうではなく、全く逆である。
すなわち、釈迦仏に三徳という完全無欠の理想像を設定し讃嘆しているのは、凡夫の方なのである。
実は、私たち凡夫が、仏は完全無欠の理想的な姿であってほしいと思い望んできたからこそ、その思いが、現実にはあり得ない理想像を生み出してきたのである。
「私たち衆生は、その理想像につられて、導かれてきたが、文明が進んで末法に入って、その理想像がもはや通用しなくなっているから、私がその種明かしをしよう。あなたたちは本当のことを知らなければならない。」
と日蓮は、言うのである。
要するに、主師親の三徳をそなえる久遠実成の釈尊も、他の色相荘厳の迹仏と同じく、迷える凡夫のために、また凡夫の願いに答えようとして、完全無欠の絶対像を備へている、いわば仮想・空想の姿なのである!
ついに日蓮は、本当のことをここで暴露した。
これは、究極の、凡夫本仏論(元々、凡夫こそ、本仏であるという理論)である。
そして、他にすがることなく、自力本願に戻れという「法則」であり「指南」である。
日蓮が開宗以後、他宗、初めに念仏を破折した理由もここにある。
なぜなら、日蓮の破折した教えはすべて、「不依法・依人」を指南する教え、すなわち、絶対者にすがる他力本願の教えや増上慢の教えであった。
結論として、日蓮にとって、自らの師と仰いだ久遠実成の釈尊は、実は自ら空想した絶対者であった。
そして、その弟子=上行菩薩の再誕としての自らの自覚も、凡夫こそ本仏であることを説くための方便であったことにもなる。
だからこそ、御本尊は、「マンダラ」ではなく、「ただひたすら成仏を目指して南無妙法蓮華経と唱える"人"」自体の「胸中(生身の肉体と精神)」にあると説いているのだ。
確認のために繰り返すが、現世利益や見返りなどを求めず「ただひたすら成仏を目指すこと(現世利益、様々な困難や苦しみから逃れること、自分の権力や利権を得て維持することなどの一切の欲望を持たないで)」が、必須の条件になっている。
そして、日蓮はこの「法」に、つまりは一切衆生へ「法を弘めること」に、自身の首(命)を捧げたのである。
つまりは、日蓮も、釈迦仏と同じ、大日如来や阿弥陀仏と同じような、方便を使ってきたことにもなる。
その生涯は、三世レベルで見れば、喜怒哀楽も含めて、完璧に近い芝居を演じたといえるかもしれない。
さらには、佐渡にて、現代科学にも透徹する法則を説かれている。
「法華経の心は法爾のことはりとして一切衆生に十界を具足せり…中略…一切衆生のみならず十界の依正の二法・非情の草木・一微塵にいたるまで皆十界を具足せり」(小乗大乗分別抄 御書P521)
《法華経の心は、自然の道理として一切衆生に必ず十界を具足しているということである。
…中略…「依報・正報(註、環境と主体)の二法」においても、それだけではなく、非情の草木や一微塵に至るまで、みな十界を具足している》
ここで「依報・正報の二法において」とは、観測できるできないにかかわらず、自己と宇宙およびその関係を意味している。
すなわち、「一微塵」とは、当時におけるこれ以上分割できない最小の物理的単位を意味しているのだから、現代科学における「素粒子」にあたる。
そして、これら全てに「十界を具足」していると述べている。
また、これを説く以前に、佐渡において著作した草木成仏口決において、有情も非情もすべて成仏すること、すなわち万物が成仏することにも触れ、これを前提としているのである。
草木成仏口決 御書P1338ー1339には、以下のようにある。
「問うて云く草木成仏とは有情非情の中何れぞや、
答えて云く草木成仏とは非情の成仏なり、
問うて云く情非情共に今経に於て成仏するや、
答えて云く爾なり、
問うて云く証文如何、
答えて云く妙法蓮華経是なり・
妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり、
有情は生の成仏・非情は死の成仏・
生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり」
《問うて云う。草木成仏とは有情(註、精神活動のあるもの)・非情(註、精神活動のない物質)のうち、どちらの成仏であるのか。
答えて云う。草木成仏とは非情(註、精神活動のない物質)の成仏である。
問うて云う。精神活動のあるものも精神活動のない物質もこの法華経において成仏できるのか。
答えて云う。そのとおり、両方とも成仏できる。
問うて云う。その文献の証拠は何か。
答えて云う。妙法蓮華経の五字がそれである。
妙法とは精神活動のあるものの成仏であり、蓮華とは精神活動のない物質の成仏である。
また精神活動のあるものは生の成仏・精神活動のない物質は死の成仏である。
生死の成仏というのが、精神活動あるものと、ない物質の成仏のことである。》
また、
「口決に云く「草にも木にも成る仏なり」云云、
此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、
経に云く「如来秘密神通之力」云云、 法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし」
《口決にも「草にも木にも成る仏」云々とある。
この仏とは非情の草木にまでなっているところの、法華経寿量品の釈尊をいうのである。
寿量品に「如来の秘密神通之力」云々と説かれているが、十方法界はことごとく、釈迦如来の御身でないものはない》
つまりは、釈尊が生まれかわって草にも木にもなって、成仏した姿があるというのだ。
そして、それらもすべて、釈尊の実の姿だというのだ。
ここにおいて、成仏の主体は、当時の世界観で微小な塵から大きく全世界まで広がった。
これを一切衆生と称する。
これは、科学が発展した今日の世界観では、成仏の主体が、素粒子から、観測不能の無限の宇宙の大きさにまで、広がっていることに相当する。
これらは、科学や哲学の未熟な時代の中で、驚くべきことばかりである。
ところが現在では、この凡夫本仏論とは対極である○○本仏論(釈迦本仏論、日蓮本仏論、板マンダラ本仏論、法主本仏論、池田本仏論など)が飛び交っている。
日蓮教団のなかで、これらはあたかも我こそは正統だと主張し、互いに様々に争い合っているのである。
この中で、はたして、このような日蓮の教えを、真に理解している信者が、いったいどれほどいるだろうか。
今でもなお、「御本仏である日蓮大聖人は…」などという指導がはびこっている。
日蓮は「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(種種御振舞御書、御書P919)と述べていたが、
「日蓮を…あ(悪)しく敬う」という、誤った教義に従った結果が、現在のこのような争いとなっているのである。
まことに残念なことである。
天国にいる日蓮は、きっと顔をしかめているであろう。