Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P04-2, 日蓮の仏法上の師、「不依法・依人」の日蓮本仏論、「依法・不依人」の日蓮仏法、日蓮の本尊観
■(2):「不依法・依人」の日蓮本仏論
■「不依法・依人」の日蓮本仏論
例えば日蓮本仏論を展開する須田晴夫は自著「日興門流と創価学会」P332-335の中で、
「日蓮の真蹟や直弟子写本がある御書において日蓮本仏義を明確にうかがうことのできる文はいくつも挙げることができる」として、仏の特質とされていた主師親の三徳を述べた文を文証を挙げ、
「このように主師親の三徳の観点から見ても日蓮が自身を仏(教主)として自覚していたことが分かる」
と持論を展開している。
そして撰時抄、一谷入道御返事、竜泉寺申状などから「聖人」「主師親」「法主」等を含む文を切り文として利用し、同様の説を展開している(カットアンドペースト利用)。
たしかに仏の特質とされていた主師親の三徳を述べた文は前述した分以外にも多々挙げることができ、これらは日蓮の成仏、仏としての自覚とすることは前述した。
しかし、それを根拠として、日蓮自身が自ら本仏(教の主、教主)であり、日蓮自身に南無せよ・帰命せよと明確に宣言したものに相当するかの如き主張は、宗教心(日蓮への信仰というアニミズム)の故なる飛躍であるか、又は勝手な偏見であると言わねばならない。須田はおおいなる理論の飛躍をした。
日蓮の教えは、その遺文を丹念に検討すれば、けっして自らを本仏(教主)として崇めよ・帰命せよというアニミズムではない。
日蓮の教えは、「依法・不依人」の原則を踏まえ、あくまで正しい「法」に帰命して成仏せよとの教えである。
自身の師は、久遠実成の釈尊と言ったが、その釈尊も歴劫修行をしているのであり、最初の本仏を設定していないのである。
だから、前述の通り、自身の教えを根拠として自身を本仏とは決して主張できない立場にある。
日蓮自身が主張しないことを、「依法・不依人」の原則に従わずに、後世の私たちが勝手に主張して良いわけはないだろう。
後世で大石寺法主となった日寬も、時代の背景や自身の立場などによって同様な落とし穴にはまってしまったことを後述するが、この説はおそらく日寬(という人)に依る日蓮本仏論と同等である。この説は、日蓮の教えである「依法・不依人」とは全く逆の、「不依法・依人」というアニミズムに堕ちいっているのである。
現在に受け継がれている日蓮本仏論者たちの堕ちいっている典型的な過ちの部分や考え方を二つ挙げておく。
第一には、たとえば、日蓮は撰時抄でこのように述べている。
「提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども 臨終の時には南無と唱えたりき、仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを 業ふかくして但南無とのみとなへて仏とはいはず、今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん」(御書P287)
《提婆達多は釈尊の御身から血を出す迫害をしたが、臨終の時には「南無」と唱えた。「南無」に続いて「仏」と申していたら地獄にはおちなかったであろうに、謗法の業が深く、ただ「南無」とのみ唱えて、「仏」とまで言わなかった。今、日本国の高僧等も、「南無日蓮聖人」と唱えようとしても、南無だけで終わるのではなかろうか。ふびんである。ふびんである》
(ちなみに「南無」とは次に続く言葉(人や物などの対象)に帰命する、命を預けるという意味の言葉である。)
ここで、須田が、この文を根拠に挙げて、
「『南無日蓮聖人』の言葉は日蓮自身を南無(帰命)の対象、すなわち人本尊と規定している明文である」と述べている。(前掲書P332-335)。はたして、そうであろうか。
だったら、日蓮自身が『南無日蓮聖人』と唱えよと、生涯にわたって門下に指導しなかったのはなぜなのか、いったいどういうことなのか。
これが須田の最初の過ちの一つである。
第二には、そして、こうした日蓮本仏論者の主張が真実なら、どうして彼らは『南無日蓮大聖人』と唱えないのか。
そして私たちが『南無日蓮聖人』と唱えたら功徳があるのか。
功徳があるのなら、唱える題目は南無妙法蓮華経でも『南無日蓮大聖人』でも、どちらでもよいことになるではないか。
私はこうした矛盾点を解決する科学的再現性のある論理を、思考実験でもよいから、現在の創価学会や日蓮正宗などが唱える日蓮本仏論者たちに伺ってみたい。
結局、日蓮本仏論を唱える者たちは、概して、日蓮の教えある「依法・不依人」の意味を間違って理解し、その真逆である「不依法・依人」を主張しているのである。
前述の撰時抄の文面も、日本語できちんと前後の文脈をとらえて判断すれば明らかであろう。
日蓮は、この部分では「提婆達多」や「日本国の高僧等」の頭の中にある「謗法」(誤った教え)の立場に下りていった論理展開をしているのである。
つまり、日蓮は、業が深い故に彼らが「南無」としか唱えなかったが、続いて「仏」と唱えていたならば、少なくとも地獄に堕ちることはなかっただろうと述べている。そしてさらに日蓮は、彼らが今、その間違った謗法の論理に従って成仏を望んだと仮定すれば『南無日蓮聖人』と唱えることになるが、業が深いためにそこまでは貫けないだろうと述べ、結果として「ふびんふびん」と嘆いているのである。
言い換えれば、日蓮はあくまでもその間違った論理(謗法、実態は「不依法・依人」というアニミズム)による展開・帰結を例を挙げて述べ、あわれんでいるにすぎない。
『南無日蓮聖人』という表現は、確かに日蓮自らに帰命せよとの意味には間違いないが、だからこそ、彼らが犯している謗法を展開した哀れな結末の例、すなわち「不依法・依人」の例として、『南無日蓮聖人』と表現しているのである。
平たく言えば、これがまさに謗法であるという皮肉的な指摘である。そして、当然に、日蓮に帰命せよ=『南無日蓮聖人』という教えは全くの謗法の論理だと破折している意図を、きちんと理解しなければならないのである。
日蓮自身に帰依せよという「日蓮本仏論」は、アニミズムであり、古来からある習熟の一種である。
日蓮の教えは、こういった、アニミズムではけっしてない。
…「私は実は聖人である。仏である。主師親を具えている。
だが、あなたたちは私に帰依してはならない。
私が成仏した「法」に帰依しなさい。」…
私には、師匠としての日蓮の声が、このように明確に聞こえている。
これこそが、科学的再現性をもった一切根源の「法」として「南無妙法蓮華経」を説き顕し、永遠に輝き続ける日蓮の叫びではないか。
「人」や「仏」ではない、あくまで正しい「法」(=南無妙法蓮華経)に帰命せよと、日蓮は命をかけて何度も何度も叫んでいるのである。
つまりは、結局のところ、創価学会が用いているような、御書の切り文のみで論理を立てると、このような、全く逆の意味になる馬鹿げた論となってしまう好例である。
■「滝泉寺申状」においての須田の誤解
次いで「滝泉寺申状」を取り上げている須田の学問的解析は的確で素晴らしい。 彼に限らず、多くの日蓮本仏論者が喜ぶであろう讃嘆である。
彼は、日蓮が自身を「日本第一の大人」(撰時抄)、「大導師」(頼基陳情)、「大聖人」(法蓮抄)と表現した文証をこれでもかこれでもかと挙げ、これらは仏を指す言葉とし、日蓮自身が末法の教主(本仏)であるとの自己認識に立っていたことをうかがわせると述べた後、更に明確な文証として「滝泉寺申状」を挙げている。
「滝泉寺申状」の前半は、熱原の法難の際に、迫害を受けていた当事者である日弁・日秀の名前で、彼らに代わって日蓮が、権力側の行智の訴状に対抗して執筆した陳状(答弁書)である。
須田の解析、すなわち日弁・日秀という日蓮の弟子が公の機関に宛てた公文書を、日蓮が執筆したということは、日蓮の客観的な位置づけが示されていて、日蓮の対外的な「自己認識」が明示されているとし、一般の御書と違って様々な配慮を省いた日蓮の真意が現れている重要な意義を持つと解析している点は、彼の実に見事な明晰である。
その中で、日蓮が弟子の名前で自身のことなどを次のように述べている。
「此の条は日弁等の本師日蓮聖人」
《この文章は日弁の主師日蓮聖人が書かれたものです。》
「之を以て之を思うに本師は豈聖人なるかな 巧匠内に在り国宝外に求む可からず」
《状況を考えれば、この本師が聖人であることは明らかではないでしょうか?そして、この有能な指導者がすでに国内に存在しているのに、そのような国の宝を海外に求める必要がどこにあるのでしょうか?」
「法主聖人・時を知り国を知り法を知り機を知り 君の為臣の為神の為仏の為 災難を対治せらる可きの由・勘え申す」
《「法主日蓮聖人は、弘める時を知り、弘むべき国を知り、弘めるべき法を知り、衆生の本質を知り、国主のため、民衆のため、神のため、仏のためにはたらかれ、災害への対処法を提案した。》(いずれも御書P850、《 》内は現代語訳)
須田がこれらを挙げるのは素晴らしい。
しかし、須田はそれを根拠として、
「日蓮が自身について『法主』と明言している意義は重大である。『法主』とは、中阿含経に『世尊を法主となす』とある通り、本来、万人を救済する法を教示する仏、教主を指す言葉であるから、日蓮が自身を末法の教主(本仏)と明確に自覚していたことを示す文証といえよう」
と述べ、これを日蓮本仏論(アニミズム)の根拠としているのである。
これまた残念であると思う。なぜならこれも日蓮の真の教えに反するものであるからだ。
まず、日蓮の末法における仏としての自覚は前述したが、これは日蓮自身が自ら本仏(教の主、教主)であることを理由にして日蓮に南無せよ・帰命せよと明確に宣言したものではない。
日蓮仏に帰命することは、法に帰命するのではなく、人や仏に帰命する、すなわち阿弥陀仏等に南無するのとまったく同じ論理である。このことが生身の日蓮への信仰というアニミズムであることは繰り返し繰り返し強調しておく。
そして、更に残念な点が、そもそも日蓮が方便であるとしている中阿含経の『世尊を法主となす』を論拠としたこの論理は、日蓮本仏論が「法主本仏論」につながっていくことを示唆している点である。
これは致命的論理である。
ところで日蓮は,自分自身がこのように褒められる事について、「愚人にほめられたるは第一のはぢなり(註、最大の恥である)」(開目抄 御書P237)
と述べた。
この部分は有名な「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」に続く文脈の中で、「一切天台宗の人は彼等が(註、一切衆生の)大怨敵なり…中略…皆 法華経のゆへなればはぢならず(註、恥ではない)」に続く文である。
日蓮は、自らを仏の徳である主師親の三徳を具えたと宣言した後に、間違った教えを唱える者(謗法の者)から褒められることは最大の恥であると述べているのである。
また、日蓮は八風抄(御書 P1151)において、四条金吾に次のように言った。
「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり しかるを・ひりに主をうらみなんどし候へば・いかに申せども天まほり給う事なし」(八風抄 御書P1151)
《賢人とは八風といって八つの風に犯されないのを賢人というのである。八風とは利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽である。およそ利益があっても喜ばず、損をしても嘆かない等ということである。この八風に犯されない人を、諸天善神は必ず守られるのである。なのに、あなたが道理に反して主君を恨んだり等すれば、どんなに祈っても諸天は守護することはない。》(現代語訳)
との文証もある。
この八風の中に、「誉」と「称」があることに注目すべきであろう。
この道理に反して日蓮を誉め称えることは、賢人である日蓮を蔑んでいることにはならないだろうか。
「不依法・依人」の論理に基づいた日蓮本仏論が、その例である。
これもまた、"どんなに祈っても諸天は守護することはない "という言葉の証明である。
日蓮は、種種御振舞御書で、次のように述べていた。
「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、」(種種御振舞御書 御書P919)
《このように尊い日蓮を国が採用したとしても、悪く敬うならば必ず国が亡びる》
この文は、よく日蓮門流に取り上げられるが、この前に日蓮は、
「教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり、法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ」
《日蓮は教主釈尊の御使いであるから天照太神・正八幡宮も頭を下げ手を合わせて地に伏すのである。法華経の行者だからこそ、梵天・帝釈は、法華経の行者の左右に仕え、日天月天は法華経の行者の前後を照らすのである。》(現代語訳)
と述べている。
つまり日蓮は「教主釈尊」の御使いという「弟子」として宣言しているのである。そして、
「幕府がこのような尊い法華経の行者である日蓮を用いたとしても、『悪しく敬う』ならば必ず国が亡びる」と述べ、日蓮自身はあくまで教えを広める法華経の行者であることを強調しているのである。
以上の文証から、日蓮の教えに背きながら一方で生身の日蓮を本仏(=教主)として讃嘆し帰命すること、いわゆる「日蓮本仏論」を、日蓮が当然の事ながら喜びはしないことは明々白々であろう。
ちなみに、これを根本とした後世の創価学会は、自らへの批判書や反対勢力を妨害し(言論出版妨害事件、数々の謀略や裁判など)日本はおろか世界中に池田の名前を冠した施設等を造り、池田大作への名誉称号を集めている現状は、まさしく八風に含まれている利・衰・毀・誉・称・譏に犯された姿の一例だろう。
日蓮の教えや清貧の生涯とは、これらはまったく対極にある。
これは本当に残念であると思う。なぜならこれも日蓮の真の教えに反した結果であるからだ。
因果応報とは、まさにこのことを言うのである。
■ 日蓮仏法は、「依法・不依人」であることが原則である
この科学的な検証はさておき、また、その他の教学はこのあたりで他の機会にゆずる。
日蓮が久遠の昔に成仏した久遠実成の釈尊から受けた教化・指導、いわゆる相承した内容は、真の仏法、成仏への法則・修行法であった。
彼は、生涯にかけて、壮大なSF物語のような法華経の中から、その核心・真実の部分を抽出した。
それを、南無妙法蓮華経と言い表し、一切衆生を救済する根本法、本尊とし、最終的にはその内容を筆文字で、一般庶民に容易に得られ、普及させるために描いたのである。
具体的には、曼荼羅の中に書かれた内容を本尊とした。
本尊とは、根本的に尊敬し帰依する対象をいう。
宗教において多くの教えでは、本尊とは絶対者や絶対仏(絶対物)である。
しかし、本来、日蓮自身が説いた本尊は、法、法則なのである。そして、それは、絶対者や絶対仏(絶対物)ではなく、曼荼羅の中に書かれた内容なのである。
確認のために繰り返すが、たとえその内容が書かれていても物体としての「マンダラ」は本尊ではない。その「マンダラ」に書かれた内容(=法)こそが本尊なのである。
まさに、日蓮の教えは「依法・不依人」の法則であるが、余談ながら、多くの日蓮継承者は、ここをきちんとわきまえず、敬慕のあまりか、すでに消滅した生身の日蓮自体を本尊としたり、日蓮やその継承者が作成した、物体としての曼荼羅を唯一絶対の崇拝対象(本尊)としている。これはアニミズムである。
さらに輪をかけてこの論理を一歩一歩飛躍させて、それを指導する人も絶対者、本仏、永遠の指導者等と、聖なるものとして崇めるに至る。これはシャーマニズムである。
こうして、元来は「依法・不依人」と教えた生身の日蓮自体が、その教えとは全く逆の「人」としての本仏=絶対者とされてしまっただけでなく、次々と本仏=絶対者が現れてきてしまった。
皮肉なことに、これが、後に出てきた日蓮本仏論なのである。
この流れで派生したのが、法主本仏論(大石寺の法主は本仏であるとする論)、池田本仏論(創価学会第三代会長の池田大作は本仏であるとする論)などである。
さらには、敬慕の度が過ぎたのか、創価学会では創価三代会長を永遠の指導者としてしまった。
これらは「依法・不依人」の教えではなく、全く逆である「不依法・依人」の教えである。
こうして日興門流は日蓮の本来の教えをアニミズムやシャーマニズムすなわち典型的な非科学的宗教にしてしまったのである。
これがそもそもの誤りなのであり、後述する不幸な歴史を刻むことになっているのである。